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子どもの目-自我復元後日記[068]

このところ、私が強く感じていることを
書きたいと思う。

子どもの目ほど、恐ろしいものはない。

それは、私にとって恐ろしいのではなく、
宇宙、万物にとって、それは恐ろしいだろう。

「ただ、見ている」

のだからだ。

私は、最近、これをやっている。

脱力して、これをやっている。
いや、それは簡単ではなく、
心身の力みに自覚的になりながら、
こう思う。

「子どもは、決して萎縮などせず、見る」

これは、当然の行為なのに、
これをさせず、「親の目」に誘導し、
その親都合の見方で自分を見なければならない、と
植えつけたのが、毒親だ。

脱力、というのは、
打身の自主練でも中心テーマだが、
私の、自我復元後の生き方の、中心となっている。

脱力をし、

そして、見る。

これは、私にとっての、「中心の技法」である。
自我復元後に、私自身の経験から編み出し、
直面する現実の中で、私は中心に休んでいる。

生きる、ということに
私はずっとこだわり続けて、今までやってきた。

しかし、この「見る」という行為は、
私の感覚では、生きている、という実感の前にあるもの、
生きている、というのが認識内容だとすれば、
「見る」というのは、私という主体の行為そのものなのだ。

「私は、生きているんだろうか?
それとも、生きていないんだろうか?」

はたして、私は、生きるために、
「見て」いたのだろうか?

子どもたちは、「生きたい」と実感し、
そのために、「見て」いるのだろうか。

職場で、昨日、一人の女の子が商品を見ていたと思ったら、
ぱっとそこを離れ、走り出した。
私は、その子の目が、そこから、あっちへと動いていく、
ただそれだけに見え、子どものやっていることは、
このように、「見ている」ということなのだと思った。

静止していたその子の身体が、突然、猛烈な速度で
向きを変え、走り出した姿は、とても「しなやか」だった。

「見る」

という行為を、私は貫いてみたい。

見ることをするのに、記憶はいらない。
判断「材料」はいらない、ということだ。

これが、使い物にならない、という真意だ。
過去の判断「材料」は、どれも不要である。

見る、という、脱力。

それは、どんな恐怖も見る。

自我復元で、私は、

「苦しいことこそが、楽しいことであること。
これを忘れたら、生きることを選択した意味がない」

生きることに意味がある、のではなく、
私には、見ること=生きること、に思える。

私が生きているか、生きていないか?
という疑問と、私は、ここ数ヵ月闘ってきた。

でも、明確だった。

私は、生きている。

この目が、見ている。

誰の目でない、私の目が、見ている。

「見ている」

という姿は、誰にとって恐怖なのか?

この脱力の中、中心に休む中に、
どんな不自由があるというのだろうか?

この自己の中心に、誰が入ってこれるというのだろうか?

私自身が、「見る」ことをやめない限り、
「見る意味」を、外部の他者にすがって求めたりはしない。

結局、「どう生きたらいいの?」と
誰かにすがるその姿勢が、毒親を選んだのだ。

どこから逃げたかというと、
「生きている」現実から逃げたのだ。

私は生きて、見ている。

ただそれをしている事実から、逃げた。

「これでいいんだろうか」

というACの癌ともいえるこれは、
猛毒の不安だ。

今、私は、見る、脱力してみる、という
生き方をしている。

子どもそのものだ。

私は、「休んでいる」ことを実感する。

濃密な時間だ。

そしてそれは、そのままだ。

これ以外は、今の私には、
どれもが、本心とはかけ離れたものにしか思えない。


2016.8.08
あび

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by jh-no-no | 2016-08-08 22:03 | 私の生き方


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