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決意と選択の日々-自我復元後日記[047]

6月10日 07:27

文末に「非射精自慰」について、追記しました。



・・・


「あきらめないこと」

無明庵で私がやってきたことは、
一貫して、これだった。

合気道のおじいちゃん先生は、
「ゆっくりでいいから、止まらない」
ことを、毎回、指導する。

先日の打身のレッスンで、
D先生(だじんのD)は私に言う。

「間違ったと思ったら、そこでやめない。
ギリまでねばりなさい」と。

その前のレッスンでも、
ミスタッチをしてもそれは捨て置いて、
曲を止めないことを、強く指導された。

私のこの毎日の日常は、
私一人でいても、これに徹底して取り組んでいる。

そして、

それは、成功している。

止めない、ねばる、とは、
こういうことを言っている。

「誰の人生を、あなたは生きているのか」と。

「それで、本当にいいのか」と。

その一秒は、本当に、それでいいのか、と。

この一週間、私は、
「現実とは何か」ということに、
いつも関心が行き、毎回、そこに戻っていった。

そして、それに対しての
私の結論を出した。

「主体的に、決意し、選択した経験」

これだけが、「現実」だ、と
私は、決めた。

認識した、のではなく、決めた。

受動的な経験は、私にとって、現実ではない。

身体が感じること、空腹感、性欲、こういったことすら、
私には、現実とは思えなかった。

それは、ただの「見える現象」にすぎなかった。

それは、ただ、外部の現象であって、
どんなに実感したり、飲み込まれそうな快感や恐怖があろうと、
それでも、私には、現実とは思えなかった。

そんなことより、
こうやって手をあげて、指を一本ずつ折ってみる、
それが、現実だった。

現実とは、私は、こう定義している。

「日記に書こうと思わない経験は、現実ではない」

何かを経験した、体験した、こういうことがあった、した、
それを日記に、本当に書きたい、と思うだろうか?
どんな出来事であっても、本当に書きたいか?

私は、そう思わない。

日記に書きたいことは、
自分が、決意し、選択し、主体的に為した経験だけだ。

それは、つねに、私にこう問いかける。

「今、私は、日記に書きたい瞬間を生きているか?」

この自問の日々を、私は、今送っている。

ここ数日も、体調が悪かった。

睡眠や食事も十分とっていても、
体調は、よくならない。

横になりたい、と、思う。

でも、たとえば、これを日記に現実として書きたいか?
といえば、答えは、NOだった。

それでは、状況にのまれているだけだったから。
それは、結局、「だからしかたない」という発想を生む。
それは、一番、もう私が大嫌いな言い訳だ。

体調がよくない。

だから、何なのか?

休めばよく、横になればよく、
しかし、それでも、そこで、そこがどこであれ、どういう状況であっても、
そこで私は、決意し、選択し、そういった主体的な経験をしていくこと。

「それを、今も、また今も、あきらめるな」

私が今、こう思えるようになったのは、
受動的な経験は、すべて、私には現実とは思えない、と
毎日毎日、感じ続けたからだ。

では、何が、現実に起こっているのか?

「起こっている」ことなど、無いのだ。

私が、何を、起こしているか、だ。

それは、どんな出来事の中にあっても、
それこそが、現実であり、それだけが、
本当に、私が「日記」に書きたいと思うことだった。

どもることと、性のことについて、
残り、書いておきたいと思う。

どもる、というのは、それが現象を表す名前なので
本質を見誤ってしまうが、本質は、それは、
その現象を起こしてしまう「元の原因」であり、
どもる、とは、恐怖心なのだ。

ジャンプができない、というのは、
結局、十分な屈身ができていない。
もちろん、十分な屈身をしたからジャンプが十分にできる保障はない。

だけれど、十分な屈身ができずに、ジャンプができるはずがない。
十分な屈身をし、後は、少しずつ、ゆっくりでいいから、
ジャンプをしてみればいい。

どもる、という恐怖心は、
ジャンプが怖いのではないのだ。
どもる言葉、それが怖いように勘違いしてしまうのだが、
実は、恐怖は、その「一歩前」に起きている。

屈身時、に起きているのだ。

「次の言葉が出ないかもしれない」

という、「次、未来」への恐怖心であり、
その恐怖心は、「次」に起きているのではなく、
「今」に起きている。どもる、という地点から見れば、
その直前に起きているのだ。

これは、運動の法則そのものだった。

打身をやっていても、
ここが失敗してしまう、と思ったら、
「ここ」のその前の運指を、「思いっきり」やることが解決につながった。
そして、失敗してしまう「ここ」という現場は、それほど関心を向けることなく、
焦らず、ゆっくり、やればいい。

ここは、どもる問題を解決するにあたっても
「1/2の速度帯」が役だった。

速度を、ぐんと落とせばいいのだ。

しかし、最初、速度を落とすそれだけでは、うまくいかなかった。
というのは、先ほど書いた、
「ここ」より、その直前にこそ恐怖心があったことに、
気づかなかったからだ。

この直前の恐怖心に気づいてから、
私は、どもる前の言葉を「思いっきり」言うことにした。
それから、1/2の速度帯で、ゆっくり、次の言葉を言えばいい。

そして、まっすぐ、相手の顔を見ればいい。

もちろん、ここにくるまでに、より重要だったのは、
「胸に落ちてしまうこと」を、何としてでもやめたい、という必死さ、
これがあってこそ、直前に思いっきり言うこと、次を1/2の速度帯で言うこと、
と続いていく。

というのも、「次を恐れて、今を思いっきり生きられない(恐怖心は今にある)」
という病理も、「調教速度1でこなそうとしてしまう」という病理も、
どちらも、AC人格が住み着いた「胸」を拠点としているからだ。

これら、どれも共通するのは、

「ずっと私は、生きていなかった」

ということなのだが、それはつまり、

「現実が、つねに、受動的な経験だった」

ことによるのだ。

性のことの問題をこの投稿の最後に書こう。

非射精自慰、ということを前回ブログで書いた。

この実験を、しばらくやっていて、
前回ブログでは、その快感は「射精直前の快感」と書いたが
それは、質的に、違っていた。

それは、射精の準備のための快感ではまったくなかった。

射精を目的にしていない快感である。

それは、ただ、「今気持ちいい」それだけ。

射精直前の快感は、それは、射精を期待して起きている快感であり、
これと、非射精自慰の快感は、まったく違った。
つまり、一般にいう、「寸止め」という射精のための「準備」ではなく、
その快感は、つねに、「結果」だった。

その2日間、射精はしたくない、という思いがあって、
一般の寸止めとどう違うのかを、何度もギリギリまで試したので
結構、しんどかったけれど、おかげで、こう、理解するに至った。

「射精の快感は、別に、いいや」

と。

どう考えても、それは、「次」の快感であって、
「今」にないものだった。

それは、それほど、私には興味がないことだったのだ。

そして、それは、ついに、女性への見方を変えていった。

私は女性を今まで、性の対象としか見ていなかった。

それは、結局、その女性を、
自分が射精するための妄想の道具にしてきただけだった、ということだった。

射精そのものに、関心が遠のいた時、
私は、女性の胸などへの関心が薄れていった。

ふと、こんな思いがよぎる。

「どう、女性を見ていいのかわからない」

今まで、性の対象、射精のための妄想の道具としか見ていなかったから、
どう見ていいのか、わからなくなってしまった。

「わからなくなって、よかった」

と思っている。

そう、あと、最近やっていること。

踊りの動画を見て、
毎日、数分でもいいから、見よう見真似で踊っている。

ぜんぜん出来ないんだけれど、
楽しい。踊ってみたい、やってみたい、まずそこから。

「体調」VS「踊り」

この軍配は、

「踊り」

にあがるのだ、毎日。


・・・


以下、「非射精自慰」についての追記です。


・・・


1/2の速度帯、ということで、
歩くスピードだけでなく、たとえば、
自転車でこぐスピードはどうか、
歯を磨く速度はどうか、
打身を弾く速度はどうか、
呼吸、食べる速度、などを調べてみた。

自転車をこぐ速度、歯を磨く速度、
打身を弾く速度、これらもやはり、1/2の速度が心地よかった。

食べる速度は、1/2よりも遅い感じ。
サンプルが少ないので、確かではないが、
40%~50%の幅ではないかと思う。
(プリンなどで試そう、と思うのだけれど、
せっかく味わえるのに、もったいない・・・と思ってできない。
でも、今度、やってみようかな。じっくり、「今までの食べ方」も
味わってみることにしよう。)

呼吸に関しては、1/2どころか、
1/4くらいの速度が、心地よかった。

次に、非射精自慰についてだが、
これについては、とても興味があったので、細かく調べてみた。

今まで自動的にしていた自慰と、
私が今回「非射精自慰」と名付けた自慰とで、
物理的に与える刺激のデータがどう違うかを実験してみた。

まず、手を動かす速度だが、
1/2どころか、1/4でもなく、
なんと、今までしていた自慰に比較して、1/10の速度だった。

次に、手を動かす振幅の大きさだが、
今までが7cm、非射精自慰では2cm、つまり、2/7(3割弱)。

次に、強さ。

これを調べるのは、さて、いったいどうやってやろう?
と思ったのだけれど、ごく普通のデジタルの軽量計を用いた。

雑な調べ方かもしれないけれど、
スイッチを入れて、手でつまむような形で挟むだけ。
こんな方法でも、わりと、感覚がつかめた。

今までの自慰の場合、1500g。
非射精自慰では、300g。
1/5、という結果になった。

最後に、「感じている時間」の比較だ。

ここで私が比べたのは、
「射精直前の快感」と「非射精自慰の快感」の
その時間を調べてみた。

つまり、「射精時の快感」はここに含まれない。
では、射精直前の快感とは、どこからどこまでとするか、だが、
これ以上刺激を与えたら射精を止められない、と判断した時点から射精の瞬間まで、
とした。

この間も、2つに分けてみると、
これ以上刺激を与え続けたら確実に射精に至ると判断できる時点から
射精を止めることがこれ以上できないと感じるまでの時間、と、
そこから射精の瞬間まで、となる。

前者が約5秒、後者は約3秒~5秒。
(後者については、射精はしなかったので計れなかったけれど、
だいたい、こんなものだろうと思う。)

つまり、「寸止め」時間が、前者の5秒にあたり、
もう寸止めも不可能で実際に射精に至るまでの時間が、
おそらく、3秒から5秒、ということ。

トータルで、8秒~10秒。

これを、「射精直前の快感」のピーク時間としてみる。

では、一方、

非射精自慰の快感のピーク時間はどのくらいか?
というと、30秒~40秒といったところだった。

時間を比較すると、約4倍、快感は持続する。

これは、どういうところをもってピーク時間というか、だが、
やってみるとわかるが、明らかに、「やばい・・・気持ちいい」と思う瞬間がきて、
そこから、「同じ気持ちよさ」が、安定して続いていく。
射精直前の快感は、右肩上りに急速に快感が増していき、射精に至るわけだけれど、
そこが、まず、違うところ。非射精自慰では、一定に、同程度に、気持ちいい。

しかし、30秒~40秒ほど経つと、
その快感は、消えていく。
それは、波が引いていくように、スッと引いていくから、
これも、やってみると、わかる。
刺激を与え続けていいのだが、刺激を与えても、
快感は、それと無関係に、引いていくのだ。

話が少しそれるけれど、
そのように、手による刺激とは無関係に快感が引いていくのに、
不思議なのは、それ自体を、自分がコントロールしている感覚がある、という点。

つまり、手で刺激を与えて、快感もそれによって生じ、また、
快感が引いていくのも、また私の手が行っている、と感じるのだ。
そして、また、そのままし続けると、また波のように快感が来ては、
また、去っていく。

さらに不思議なのは、
通常の自慰、射精を想定した自慰の場合、
手による刺激をやめると、「寸止め」が可能な地点より前であれば、
快感も、ピタリ、と止まるものだ。

ところが、非射精自慰は、前回のブログにも書いたけれど、
実は、性器に触れなくても、その快感は得られる。
つまり、手を離しても、ずっと同じ快感は持続するのだ。
言い換えると、手を離したらピタリととまってしまう快感とは、
まったく違う快感の「質」だ、ということ。

これは、他の運動でも言えることだったが、
1/2の速度帯、という試みは、
1/2という数値が重要、というわけではなく、
あるラインから、感覚それ自体が変わる、というその境界線がどこか?
ということを調べた、ということであって、
たとえば、呼吸においては1/4だったし、自慰に関しては、
速度一つとっても、1/10、というように、様々で、
この1/10、というのも、本当は幅があって、
1/5~1/6のあたりでも、私は、非射精自慰の速度帯だと感じた。

自分で、これじゃあサルだな、と思ったのは、
今までの自慰では、45秒で200往復もしていたこと。
これに比べると、1/10となると、45秒で20往復。
しかも、振幅自体が1/3以下だから、今気づいたけれど、
本当の速度の差は、1/30以下だ。

コントロールの話に戻ろう。

手を離しても快感が続く、となると、
これまたコントロールとは関係なく思えるが、
これも不思議なことに、自分がコントロールしているのがわかる。

快感自体を続けようとしている意思、があるのだ。

もちろん、この場合も、波のように一定時間が経過すれば
快感は沈静していく。しかし、これもまた、あたかも、
己と快感とが、まさに呼吸を合わせるかのようにして
「沈静していく」と感じる。

そして、さらに驚くことに、
快感が去ったその後も、静かに同じ刺激を続けるわけだが、
「快感がない」その時点もまた、とても心地いいのだ。
まさに、休んでいる、という穏やかさがある。
実際、性器は縮小し、血液がいったん引いていく(休む)のだろう。

これに対して、今までの通常の自慰、射精を目的にしての自慰は、
私には、自分でコントロールをしている、とは感じられなかった。
むしろ、射精の快感に囚われていて、それが欲しければ動け、という
強迫観念で自慰運動をしていた、と思っている。

これについても、あることに気づいた。

エッチな動画を見ている時、
どんな顔をして、私は見ているか?ということだ。
手で自慰をしながら、はたして、どんな顔をしているだろうか?

わかったのは、おそらく、私だけじゃないと思うけれど、
心から楽しそうに、笑顔で自慰をしている人はいないのではないか?
少なくとも、私は、真顔だった。

その真顔、というのこそ、
コントロールを失っている顔で、
強迫観念で、射精の快感の虜になって、サルのように動いているだけの顔。

しかし、非射精自慰では、
笑顔、というわけではなくても、いや、やはり、それは
質としては、笑顔で自慰をし続けている。
そこに強迫観念はなく、ただ、今が気持ちよく、幸せそうな顔をしている。

そう、それと、エッチな動画を見ていて実験してみたのだが、
実は、1/10の速度で自慰をしても、射精をしてしまいそうになり、
あわてて、手を離した時があった。

何が、違うのだろう?と思い、考えてみた。

先にも書いたように、手を離して快感もピタリと止まるのなら、
それは、「射精直前の快感」になっている証拠だった。
つまり、速度に関わらず、射精したい気持ちが強まれば、
微弱な刺激でも、射精してしまう、ということだった。

こんなことも経験した。

遮断射精では、もう一方の手の指で、
ある箇所を押さえるわけだけれど、
私は、そこを押さえるだけで、とても気持ちよく、
そのことを思い出して、非射精自慰をしている最中に、
そこを押さえてみた(軽く押さえた)ことがあった。

その時、ほんの少しの刺激で、
射精してしまった。

これについても後で考察してみると、
私の中で、射精をしたい気持ちがどこかにあったゆえに、
非射精自慰の快感が、ある時点から、射精直前の快感に
変わってしまっていたことが原因だった。

先ほどのエッチな動画を見ながら
微弱な刺激でも射精してしまいそうになった時も、
また、今書いたような方法で自慰をして射精してしまった時も、
どちらも共通して感じたのは、どうも、嫌だったことだ。

それが、結局、
「次」の快感に囚われて、「今」ここに私が不在だ、
という感覚である。

この差が、射精直前の快感と、非射精自慰の快感との
おおきな差なのだ。

今書いた2つの例は、どちらも最初、わかりにくかった。
前者は、非射精自慰をしているつもりだったし、
後者も、片方の手の指で、ある箇所を圧迫していることが
「今が気持ちいい」という感覚を強めていたからだ。
しかし、よく観察してみると、その時のその快感は、
「次の」「射精無し」では成立しないものであることに気づいた。

非射精自慰の場合、「次」はないのだ。

「今」しかない。

この感覚だと思う。だから、性的な快感という意味では
それがあろうがなかろうが、非射精自慰の「今」は
心地よいのだ。

しかし、そこに、「次」という要素が紛れ込んだ瞬間は、
今は今ではなく、次のための準備、「直前」という位置づけになる。

打身でもそうだ。

次のことを考えながら、運指をしなければならない。

それは事実ではある。

運動とは、今のことは、もう次のことといってよく、
だから、そこに連続性がある。
だからこそ、踊りは楽しい。
この一畳の職場での踊りの楽しいこと。
重力を感じないステップは、本当に軽やかで、
他人から見ても、「なんかこの人、楽しそう」とわかるらしい。

しかしそれは事実、正論であっても、
どもることもそうだったが、その正論では「踊れる」ようにはならないのだ。

まず、存分に、今、屈伸をすること。

次(ジャンプ)のことなんかどうでもいいから、
今その音を思いっきり弾くこと。

今日も仕事で思ったけれど、
そうすれば、本当は、軽く次の言葉は出てくるものなのだ。
それは、ポロロン、と力を抜いて放つ音のように、出てくる。
力などいらない。力を抜くと自然と出てきてしまうかのように出てくる。
・・・と、そう簡単には常にはいかないのだが、それでも、そうできる時はあって、
できない時もあきらめることなく、ゆっくり、少し力んでも言えばいい。
そうやって、どもることに対しては、対処していけばいいのだ。

自慰から話がそれてしまったが、
今までの自慰、射精を目的とした自慰というのは、
どうしても「今」から外れてしまう。
だとしたら、射精時の快感がいかに気持ちよくても、
そのための代償が高すぎるのだ。

「今」を失うこと。

今を失わず、射精もする。

・・・という誘惑が、先の2例でもある。

こうやって、丸2日、寸止めを繰り返し、
ギリギリまでを繰り返した結果、
そこまでして、射精をしたいのか?と。

この思いが残ったのだ。

すると、今日も、職場で試してみたけれど、
それは、「そこまで綺麗な女性の胸に目を向けたいか?」という問いと同じで、
わかったことは、本当は、それほど興味はないことだった。

それよりも、その人の顔、しぐさ、服装、
よほどそのほうが、関心が向いた。
一番向いたのは、その人の顔だった。

顔、というより、首から上の頭部に
私は目がいった。
私が関心を持っているのは、そこだった。

中心に圧がかかっているのを実感しながら、
女性を見てみる。
今までなら、自慰の対象にしてしまいそうな女性で試してみる。
どこを、私は、見る、とするか?
それは、自然とどこに目がいくか、ということでは断じてない。
今回の投稿にも書いたように、私が主体的にどこを見るか、ということだ。

すると、それが顔、頭部だった。

ここは、私はまったく射精の妄想ツールにはならない。

当然なのだ。

射精に関心が無くなれば、
女性の胸に関心も向かなくなる。

私は、今、はっきり思ったことは、
これから、女性と今までと違う関係を作れる、ということ。

私は、どうしても、今までのような女性の見方は、
絶対、嫌。

絶対、変えていきたい。

でも、もう私はそこに踏み出している。

この私の中心から、そう、その女性の頭部(中心)を見る時から、
私は、まっすぐ、その女性を見始めている。

それでいい。

そうしたから、何かいいことがある、というような
目算は、何もいらない。

もう、そうやって、そこから「見ている」ことが
今、ここに、確かに築かれている新しい関係なのだから。

最後に、というか、
本当は、これ(以下のこと)を追記しようと思って書き始めた追記だったが、
女性を見る、私が見たいように見る、というところまで、書くことができた。

さて、最初の「数値」の話に戻るが、

非射精自慰の速度が、1/10。
振幅が2/7、強さが1/5。
そして、感じているピーク時間が、1/4。

雑な計算だが、これらを掛け合わせてみる。

1/10×2/7×1/5×1/4=1/700

非射精自慰の快感感度は、
従来の射精目的の快感感度の「700倍」。

感度、というのは、
1/700の刺激でも、十分に感じ取ることができる、というもの。

これを計算してみて思ったのは、
今までの自慰では、感度が1/700に落ちていたんだ、と思った。
しかもこの数値は、やって体感すると、納得する数値なのだ。

700倍気持ちよく、
今ここの心地よさにあれるのに、

どうして、今を失ってまで、
1/700の快楽を求めるだろうか?

・・・射精は、別にいいや。

こう思ったのは、当然だった。

それでも、「射精したい」と囚われるのなら、
それこそ、囚われ、強迫観念である。

そして、何度も書きたいが、
女性は、射精のための存在ではない。



2016.06.09
あび

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by jh-no-no | 2016-06-10 07:27 | 私の生き方


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