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(後半)「口中香」という生き方-自我復元後日記[034]

(前半)「口中香」という生き方-自我復元後日記[033]
の続きです。

・・・

続いて、性の問題に、悩みながらも
今の今まで取り組んできたことを、
この投稿の最後に書きたい。

口中香の紹介のその記事の中に
「ブラシ」の紹介がある。

このブラシのことを調べようと、
私は、販売元のサイトを閲覧していた。

その日、気づいたら、ブラシどころではなく、
「ウィッグ(かつら)」そのものに、囚われた。

以前、私は、女性のような髪型にしたい、と思って
美容室で、ある女性が写っている雑誌を持っていって、
「こんな感じにしてください」とお願いしたことがある。

それは、ボーイッシュな女性の
ショートの髪形だった。

そういうこともあって、最初、そういうウィッグをクリックし、
モデルの女性さんと自分を重ね合わせていた。

しかし、本当にこういう髪型が好きなんだろうか?と
ふと思って、他の髪形のウィッグを見ているうちに、
私が、本当は、「これいいなあ」と思っている髪型を見つけた。

自分でも、今まで、考えたこともなかった。

なんと、前髪がパッツンで、ソバージュばっちりボリュームたっぷりの
長い髪の、そういうのがいい、って思ったのだ。

フリフリの、それこそ、秋葉原にいそうな
メイドさんだよ、って感じの。

すっぽりかぶれるフルウィッグ。

私は、すごく欲しくなった。
ブラシのことが、どこかに飛んでいってしまうくらいだった。

本当に悩んだ。

本当に買おうかと思った。

私は、それをつけて何をしたいか、というと、
女装したい、とか、それを誰かに見てもらいたい、というのではない。
完全にそれ女装だろ、と言われればその通りなのだが、
私がやりたいのは、たとえば、その長い髪を手ですいたり、
ポニーテールのように後ろで結わいたり、そう、そういうしぐさをしたい、
両手で髪をまとめるしぐさをしてみたい、それこそ、ウィッグブラシで
その長くボリュームのある髪をとかしてみたい、そして、
その長い髪が、自分の頬にあたる感触、それを体験したい・・・

誰かに見てもらいたい、というわけではないけれど、
だけれど、妄想するのは、そういう私が、子どもや女性と
笑って会話をしている光景だったりする。

バリバリ女の子道をゆくんだったら、
ここで買うのを我慢したら、それ、ゴム段我慢したのと同じじゃないの?
好きに今ならやれるじゃない、って。

揺れ動いたけれど、
どうしても買うことには違和感があった。

何ががおかしい、と。

そして、戻ることができた。

これを欲しがるその衝動の原因は、
どう考えても、女の子みたいにしたかった「不満」の解消にあった。

女の子みたいにしたかった。

女の子みたいにしたい。

それは、どこも悪くない。

ただ、だんだんとわかってきたのは、
その純粋な思いではなく、やはり、それが満たされなかったこと、
その不満感の解消のために、「外部」に自分を満たしてくれるものを、
私は、このウィッグに求めてしまっている、ということだった。

違うのだ。

今、私が歩いているのは、
私自身が、好きに、女の子のようにやればいい、という道であって、
これは、決して、不満の解消ではない。

好きにウィッグを買って女の子のようにやってみたいのなら
そうしてみればいいだけだ。

だから、ウィッグを買うことが間違っているのではないのだ。

動機なのだ。つねに問題は。

「これがあれば、これができれば、私はもっと女の子のようなことが
できるのに・・・あれがあれば・・・」

違うのだ。

私が女の子を望むのなら、今、ここですぐに
私が女の子であればいいだけだ。

というか、今、私は「女の子」なのだ。

前回ブログで書いたのは、そういうことだった。

今、すでにそうあるのであって、
何かがあればもっと女の子のようであれるのに・・・といった
欲求からの衝動的行為は、「欲求の解消」でしかない。

私は、このギリギリを、性の問題だけでなく、
「日々」直面している。

実は、この問題は、「性の問題」ということに
それこそ「こだわる」ような問題ではなく、
それこそ、好きにすればいいのだ。

どもりも、仕事も、女の子も、
好きなように楽しみ、苦しみ、間違い、悩み、
その「正解などない最初からあった道」を
思う存分、すっころびながらも、走り抜ければいい。

「欲求の解消」

ではないのだ。

それをやるのは、つねに、確認人格という私でない2人目の人格だ。

私が、今、突破しようと、
妄想の嵐に出会っても、「実践」しようとしていることは、

私自身が、

「欲求」

そのものである、そのものであっていい、
そのものであってよかったのだ、という理解と実践なのだ。

ここは紙一重の違いに感じるが、
「巨大な違い」なのだ。

本質は、

ここに、

「私、一人しか、いない」

ということだ。

それは、

自己同化をはかる偽人格、
「もう一人のわたし」が、いない、
という現実のことだ。

バリバリ女の子道をゆく、

という能動的行為、主体的姿勢と、

バリバリ女の子道を「ゆきたい」、

という不満という名の欲求になりさがったものの解消、
すなわち、「衝動」というもの、自分の舵でない何かに
なんとかしてもらおう、という受動的姿勢、衝動行為とは、

その二つは、まったく違うのだ。

明日、あび、・・・

つねに、「これから」ここから「発せられる」もの。

空っぽの、生身の肉体が、
今より作り出す世界、生み出すもの、
いや、生み出した結果のものなどどうでもよく、
つねに、生み出し続ける営み、

・・・それで、十分だったのだ。

こうしたい、という純粋な欲求は、
決して、「不満」などではない。

それは「解消対象物」ではない。

しかし、欲求は、抑圧すれば、
不満というものに変質し、ここではじめて、
「自己否定」が生まれる。

「私は、ダメだ」

というやつだ。

AC人格の、根っこの病理だ。

私が、ここのところ、本気でとりくんだのは、
この根っこの自己否定、それによって生じる偽りの過小評価を
ことごとく、「無し」にしていく作業、それは
手動的という意味で、端から端まで、力技だった。
だからこそ、私は、つねに「元気で在った」。
元気がいい、のではなく、私がどうしても元気を必要とした。

そして、根こそぎ、スコップでこそぎ出せば、
残るのは、つねに、

「私、一人」

だった。

今も、今までも、この一人の個としての私が、
ただただ、欲求のままに、それを

ただ、

「放て」

ばよかった、私はそれをしたかったし、そうしたいのだ。

こう生きたいな、

ではなく、

ただ、そう、今生きればいいだけなのだ。

私が発見したことは、

何一つ、間違っていない、ということだ。

生き方に間違いなど、ただ一つもない。

間違いがあるとしたら、
その無二の己の選んだ生き方、欲求、感情、
その為すがままの「放出」を、これでいいいのか?
これでいいんだよね?そうだ、これが好きなんだ、
これを私はしたいんだ!と、自己同化によって私でないわたしを
もう一人、作り出してしまうことだ。

そこに見る「わたし」は、
私そのものではない。もう一人の「わたし像」だ。

私が今、抹殺しようとしているのは、
こんな女の子でありたい、として作ってしまったそのわたし像であり、
この抹殺のためにやることは、一つだ。

「女の子でいたい」

これが、すべからく妄想であることを
看破することなのだ。

バリバリ女の子道をゆく、ということは、
女の子でいたいから、そうしたいのではない。

私が女の子のようであるから、
そのまま、バリバリそこをゆけばいいだけなのだ。

先日、たまたま、前の主任とバックヤードで会った。
彼女は「●●(私の名前)さーんっ!」と私に手を振ったとき、
私も彼女に手を振った。

こう書けばわかるだろうか。

この手の振り方は、
肘を身体にひきつけるようにし、手は口元くらいにあげて、
バイバイするようにやや小刻みに手を振る。

それは、女の子が女の子に手を振るような手の振り方だ。

彼女の目には、私は女の子に見えているのだろう。
その手の振り方に何のためらいもなく、
私も何のためらいもなく、まるで女の子同士の二人世界を
二人だけが共有している感覚に「囚われた」。

昨日も驚いたのだけれど、
営業終了後、店の窓からトントンと叩く音がして
私が振り向くと、一人の女性が、その同じ手の振り方で
私に手を振ってきた。

私は反射的に、女の子同士のその手の振り方で返したのだけれど、
その人がお客さんの一人だとわかって、ほとんど面識もないのに、
「あっ、手なんか馴れ馴れしく振っちゃったよ」と思ったのだけれど、
この時も同じ、その女性と私だけが通じ合う女性同士の感覚に、
その出来事を何度も思い出しながら「囚われて」いた。

これを認めるまで、かなり時間がかかったが、
明らかに、この恍惚とする体験は、決して、
「生きていなかった」。

本心は、私は女の子のようでありたい、という
自己同化をやめたい、と思っている。

嫌なのだ。

どんな素敵に思える女の子の自己像を描いても、
私は、そういう自分でありたくないのだ。

理由は、たった一つ。

「生きていない」

からだ。

私は、今、女の子でありたい、という妄想を捨てよう。

しかし、きっと、私は、
誰よりも女性のようであるだろう。

どもる問題とまったく同じなのだ。

どもることも、どうでもいいとして捨てる。
それは、自分を「振り返る目」を殺すことなのだ。
その自己確認をやめること。
結果、どもる「前」の状態を取り戻すはずだ。

女の子でありたい、という妄想も
もうそれは、何一つ生きた体験でない、と認めたのなら、
ただ、堂々としていればいい。
結果、それでも、私は、どの女の子よりも女の子らしく
そうやって手を振るだろう。

・・・しかし、それらの結果、というのは、
どうでもいいことなのだ。ただの結果であり、
結果が変化していくこともあるだろう。
先日書いたように、私は、雄のようでもあるのだ。
どもる、というのも、精密に見れば、許容範囲の問題なのだ。
誰だって、ある状況下になれば、どもる。
早口言葉がその例だ。あれが言えないくて悩む人はいない。
「あ~、言えないよぉ」と楽しむのが、早口言葉。

自己否定を本当に殺す、というのは、
こういうことなのだ。

あの時、私は、楽しそうに手を振った。

楽しかった。

とっさに、私は、そうやって手を振った。

本当は、それで、出来事はおしまいなのだ。

そこから、何一つ、女の子世界を捏造する必要はないのだ。

これからも、好きなように、

たくさん、

たくさんの女性と、

たくさん、その女の子同士で振る手のしぐさを

そう、

「連発し続ける人生」

をやればいいのだ。

それが私らしいのであって、
決して、「女の子らしい」のではない。

誰かが女の子らしいと表現したとして、

それは、

「どうでもいい」

ことなのだ。

私が放つ行為に、
名前などない、ということ。

私は、今、この女の子のわたし像を捨てよう。

どもること、Rさんにまつわる妄想、女性性という幻、

私が、今日、これらを葬る理由は、

「生きていないから」

それに尽きる。

そうした時、ここに残るのは、

この、

「私」

という放つ主体だけだ。

私は、もういかなる自己同化もいらない。

ただ、放っていればいい。

放つ主体、という自己同化もいらない。

私は、気づいたら、放っているだけだ。

昨日仕事で、気づいたら、何かをお客さんに話していた、
というだけで、どもっていたかいなかったか、など
行動主体にとって、知ったことではない。
気づいたら、しゃべっているのだから。

もう、誰も、
「私が何をしたのか」と問う者はいない。

それが「現実」なのだ。

AC人格が勘違いし続けたのは、
そうやって問う者がおらず、とがめる者がいないのなら、
私は自由の身で、そうであったら、私は何でもできたのに・・・と
自由という「本当の残酷さ」を、気楽なものと勘違いすることである。

死後、こんなことをしました、
といくら説明しても、最後には(というか最初から)こう訊かれる。

「どうでした?」

と。

「次は、どうしたいですか?」

と。

この問いは、AC人格は一生、逃げまくっていく問いだ。

この問いに対して、私はこんな人生をがんばってやってきました、
と、たずねてもいないことを延々と述べることで誤魔化す。
なんとか、その問いから、逃げ切るためだ。

この問いに答える主体性を
AC人格は持ちえない。

なぜなら、それは、
欲求、感情の主体ではないからだ。

「不満になり下がった欲求の解消」

これを、いかに、必死にやってきたかの説明に
明け暮れる。

「だから、これでよかったんでしょ」

という、結局は、他者承認なのだ。

毒親に認めてもらいたい、その毒を
ずっと抱えながら死ぬ、生き延びようとする、とは
まさにこういうことなのだ。

そこにある自己否定を
私はこの4月を終えるにあたって、
今の今まで、ことごとく殺していこうとした。

それでいい。

この現在進行形の私が、
今、このブログを書いている。

3年前の5月初日、
私が、人生最大の懸けに出た日だ。

そして、今、3年後のその日を
迎えようとしている。


2016.4.29
あび

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no | 2016-04-29 18:18 | 私の生き方


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