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氷解-自我復元後日記[018]

氷解。今日はこのタイトルで書きたいと思った。
ナンバーも18。999まで、あと981回。
・・・私の、この身体は、まだまだ生きるんだって。

ブログを書いていくことだけじゃない。
私は、今回、決めたことがある。

打身(だじん)と名付けたいその楽器の奏者、
打身奏者に、私はなりたい。
なろう、と思っている。

この楽器は結構(金銭的に)高いのだけれど、
4月中必死に練習して、それから、買おうと思っている。
職人さんが手作りで作るので2ヵ月はかかるから、
7月くらいに自分の打身が手に入ると思う。

以前の私なら、自分の命にかえても、
これをやろう、とか思ったと思うけれど、
今の私は、そう思わない。

私は、自分の命は何にもかえない。

この身体は生きる。

そして、打身奏者として、この生をまっとうしたい。

だから、この私という身体は生きるだろう。
生きて、まだまだ、たくさん経験したいことがある。
だから、私は、死なない。

打身から出す音に私はこうと決めた明確な目的がある。

私しか出せない音。

一人の音。

誰にも届かなくていい。

しかし、それは強烈で、個性的だ。

この方に指導を受けたい、という方がいて、
その方の放つ音も、強く、個性的だ。

このようになりたい。

私は、どうしても、私の音を放ちたい。
ただただ、音を奏でたい。弾きたい。

昔、私は、座り、自分の両方の足の指に輪ゴムをひっかけて、
輪ゴムを張り、両手でそれを弾いて遊んでいたことがある。

「こういうの、好きなんだ」

そう言葉にしたかどうかは覚えていない。
しかし、その思いは私から放たれただろう。

母は言った。

「・・・そういうの、あるね」

ただそれだけだが、今そこに何があったかを思うと、
軽蔑だった。

そんなの、女の子がやるようなものだよ・・・
そんなの、そんなの・・・

そう、あなたが幼い頃、手放したあなた自身だ。
好きという感情を殺したのは、あなただ。

私は、先日、その楽器を買うんだ、と決意した。

毒母の毒は、ようやく抜けた。

氷解だ。

氷解について、私は、今回知ったことがある。

もしかしたら、これは自我復元で、いや、もしかしたらでなく、
つねに、最初から最後まで、本当にそうだったことだ。

それは、

「解毒」

これに始まり、これに終わる、ということだ。

理解であり、究明であった。

この不快さと不自由さの徹底的な究明、
理解する、ということは、このためにある。

これから、食のことも続いて書いていきたいと思うが、
今回、私は勘違いしていたことがあったことに気づいた。
この勘違いに気づくには、やはり、解毒を必要としていた。

私は、今まで、どこかで、
「行動変容」を期待していた。

自分の行動が変わることを、
どこかで期待していたのだ。

ところが、ここ数日、解毒が何を引き起こしたかといえば、
それは、ただ、「理解」であり、結果、ただ、

「氷解した」

という事だったのだ。

私が予期していた、行動変容など、
何一つ、無かった。

むしろ、何も変わらなかった。
変わらないどころか、戻ったとすら感じるし、
それはそもそも、どこかを目指すものでも、
また、戻るとか、そういうものですらなく、
ただ、私は、囚われていたものが、
解けていった、ということに過ぎなかった。


囚われていたものが、解けていく。


これは、純粋に理解だった。

毒親の毒の究明、何が毒だったのか、
私に私でないどんな毒が注入されていたのかを知る、
その理解だった。

この1年半、私は、分析だけでなく、
行動を変えていくことをしてきた。

しかし、なぜ行動を変えていくことをしてきたのか、
それが、今になってわかったのだ。

それは決して、行動を変えるため、ではなかったのだ。
結果、変わる、ことはあるが、それを目指したものでなかった。
行動を変えるという踏み出しによって、
まだ究明されていない、深い底の毒、自分の中の深部に
素手で手を突っ込んで、血まみれになって、その毒を取り出す作業だったのだ。

取り出す、ということなのだが、
それは、どこまでも、そうすることによっての「理解」こそが
毒親分析であり、解毒であった。

しかもそれは、何も派手なものもなく、
むしろ「そんなこと」と思える毒のようであり、
何度も何度も掘ってきたことでもあるのだ。
そして、しかも、何も行動を変えるような、かつての私が予期していたものなど
何一つ、起こらないのだ。

しかし、これこそ、奇跡的なことが起こったことを、
解毒、そして氷解によって私は知った。

解毒と氷解とは同義であるが、
これこそが、奇跡的なことだった、ということ。

かつての私、AC人格が「こうに違いない」と予期する行動変容とは、
その動機は、どこまでも不満の産物にすぎないのだった。
つまり、その私が予期する行動変容が、たとえ起こったとしても
それは不満の表れにすぎない。

逆に、こういうことだったのだ。

わずかに残るその行動変容願望のようなものには、
まだその底に、毒親の毒がある、ということだった。
究明されていない、というのではなく、
毒が解けていない、ということだった。

その一歩も、やはり、行動を変えることによって
私は、毒親の毒を解いていった。

私は、打身奏者として、この身体、生きていこう、という意志、
そして、何を捨てても、私はこの楽器を買おう、と決意したこと。
毒母はもう何も言えなかった。それで終わったのだ。
私はもう、毒母の幼き頃のあなた、泣くのを我慢したあなたではなくなった。
ただ、今の私になった。解毒だけが起こったのだ。

食のことで、この投稿はしめくくりたい。

なにより、これこそ、毒父の解毒、氷解だったからだ。

まず、私は、二食生活を、3月21日を最後にやめた。

私は、自由に食べることにした。

なぜなら、二食生活が、とうとう、毒父の毒を解毒したからだ。

もう、私は何もこだわることはなかった。

二食生活をしたければ、いつでもすればいい。

氷解した今、私は、食から自由になった。

毒父は、ただの一度も、食べ物を愛したことがなかった。
恨み、侮蔑し、悪用した。
こんなもの、と言い、こんなものでもボクは売れるんだ、
だから、今のI商店はあるんだ、と。

そう、自分のお母さんに認めてもらいたいがために、
彼は食べ物を、とことん、侮蔑し、悪用した。

傷みかけの果物を家に持ってきては、
「これが、一番うまいんだ。どうだ」と押し付けた。

あなたに言いたいことはひとつしかない。

「あなたは、私が病気の時、リンゴひとつむいてくれたことがありますか?」

私は、自我復元を始めてから、とくに後半になってから、
これほどまでに、食べ物と苦しみながらも接したことはかつてなかった。
思えば、本当に、たくさんの食べ物を、悩み、苦しみながら、手にし、口にした。
二食生活とは、その葛藤のすべてだ、といっていい。

2月末から今に至るまでの大風邪は、
毒父との一騎打ちだった。

命を懸けた戦いだったのだ。

しかし、

この身体は、

「生きる」

ことを選んだ。

そして、私は、打身奏者になろう、と決めた。

この身とともに。


2016.3.23
あび

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by jh-no-no | 2016-03-23 16:10 | 私の生き方


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