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(後半)新生日

『(前半)新生日』の続きです。


・・・


後半の投稿で、以下掲載するのは、
11月11日の報告メールの一部を編集したものです。

吃音がテーマですが、これが治ってきたかどうかよりも、
私がこれに取り組んだのは、「私のなかに、私を委縮させる監視者」とは
いったい、どういうものなのか、を突き止めたかったからです。

これは、AC全体でいえば、私の場合、「妄想癖」それ自体が、
私の言動すべてを監視し、あれこれ言ってくるわけです。

報告の中でも書いたことですが、

「聴く」のなら、「聴く」に徹底しろ、支配者になるな、
ということであり、同様、妄想癖の野郎にも、

「妄想するなら、妄想だけしてろ。
妄想するのは自由だが、私の司令塔になって監視しろ、とは
誰も頼んじゃいない。アンタに舵をとる支配権は無いんだ」

と、今、私は言いたい。し、今日も何度言ったことか。
「妄想」には正しいも間違いもない。
それは、今の私にとって、「妄想」という
もう役に立たなくなった「知覚方法」なのだ。

これは、次に、また書くかもしれないことですが、
最近は、「目」に関心があります。
今回の以下の報告文には、その部分は割愛していますが、
私にとっては深刻だけれど相当下ネタな性の話題は、
今、私は、「目」というものに関心が集中しています。

仕事をしていて、私は今、
自分の「目」を改造しています。
それは、見る姿勢とかじゃなく、目そのものを
根幹から変えていきたいと。

たぶん、そうしていくことで、好きな人も変われば、
好かれる人も変わるはずだ、と、仕事をしながら感じている最中。

その中で、性嗜好も、なんとなく想像ですが、
ぜんぜん、今までと違う観点や感覚から、
興味も関心も生まれてくるかも、と。

面白いな、と思うのは、こうやって、目、耳、口、こういった知覚機能が
どんどん改造を余儀なくされていくようになっていること。
それと、以下の報告文の中にもありますが、
あまり自分では自覚が薄いですが、呼吸の仕方も変わってきているようです。
でも、中心に休む技法と呼吸の関連は、最近、とくに実感します。

また食生活も変わってきています。
なんといっても、あの「満腹感」がとっても不快に感じるようになり、
桜の間の記事を参考に、できる工夫を実践中。

当然といえば当然かも。見る現実世界が変わってきているのだから、
当然知覚する機能も変わることを要求されて当然。

「目」は、性のことにも関連しますが、
私がなぜ、毒親を選び、そのような生を生きることにしたのか、
ということとも、もしかしたら、関係あるんじゃないかな、と思っています。

そのあたりは、もう少し、掘ってみたいので、
また、書きます。

以下、報告文(一部)です。


・・・


崩残様

あびです。


(中略)


お手紙で崩残さんが呼吸の仕方が変わった、ということを
書かれていました。

たぶん、それは、中心に休む技法で呼吸のことが加わったことが
原因だと思っています。

吸うのですが、そこで終わる、というか、
実際には、鼻からなり口から次には吐いているのですが、
私の意識は、吸った先の中心で(中心とは意識はいつもしていませんが、
おそらくそのあたりで)止まっていて、つまり、

吸って→止まる→吸って→止まる

こういう感じだと思います。

吸って吐いて、というのが、セットではない、対称的なものでない、
といった感じに、今は、なっているように思います。
ただ、これは、つねにではなく、おそらくですが、
AC人格に翻弄されすぎている最中では、むしろ、おそらく吸うことより、
重く吐いては胸に圧迫する、という呼吸をしているかもしれません。
こうやって、生体反応は奪われていくのかもしれません。

しかし、吸って止まる、吸って止まる、というのは、
今やってみても思うのは、それだけで、より中心がポンプで空気を入れるように
圧がかかる感じになります。

わかりませんが、AC人格との格闘中は、
どっちの呼吸に引っ張られるか、ということも、私の身体症状として
起こっていることかもしれません。
そのあたりを今まで注視してはこなかったので、今、やってみて思うところです。

その呼吸のことなのですが、
そのことで、崩残さんから、「視覚化する癖」のことで
アドバイスをその際、いただきました。

ならば、中心で聴く、ようにしてみては、と。

それから、私は、夜中外を歩きながら、わずかな雑音を
中心で聴くようにしてみました。
その時は、わりと中心に圧力を感じ始めていた頃だったので、
特別、聴くことで強まったかどうかはわかりませんでしたが、
この中心で聴くことについては、違和感がなかったので、
自然と取り組めた感じがありました。

崩残さんからのお手紙で、
「内容ではなく、相手の声、音質を聴いてみてはどうか」
というアドバイスがあり、これは、相手の、という意味で
書かれていたと思いますが、実は、まず私がとっさにやったのは、
仕事の際に、自分の声を聴く、ということでした。

そういう意味では、崩残さんのアドバイスとは
まったく違う主旨となってしまっておりますが、
やってみたことです。

結論から言うと、

私はどうやら、「聴く」という行為が、それは本来、「聴く」という行為に
徹すればよいものを、どうもそうではなく、「聴いたその者」がつねに、
ジャッジメントをしているのです。

これは吃音を通じて、仕事をやっていて、わかったことでした。

ただ「聴いている」のでなく、聴くことで、そこから
自分を裁いているのです。審判をしているのです。うまく表現できませんが。

私には、ずっと、こういう癖がありました。

声に出す、出さない、はどちらでもいいのですが、
「音読をする」癖です。

私は、「黙読」ができないのです。

よく黙読をしてください、といいますよね。
学校などで。

でも私は、それができなくて、
「声を出さず、頭の中で声にするやり方で、音読を」していました。
これは、ずっとそうで、今でもそうです。

私は本を読むのがすごく遅かったのです。

なぜかというと、声で読むよりも、遅い話し方でしか、
頭のなかで音読が出来なかったからでした。
しかも、音読するのが精一杯で、内容がついてきません。
ですから、同じ行を何度か読むこともします。

まったくほかの友だちよりも、
学校でも読み終える速度がけた違いに遅いのです。

無理に黙読をしようとすると、
何度も、同じ個所を行ったり来たりするし、
次の行がどこかもわからなくなる。

他人に一度も尋ねたことはないのですが、
私は自分でもこれはおかしいな、と思ってきたことです。

私の場合の吃音の感覚は、
この黙読をした時にひっかかるのときわめて似ています。

これは、今、わかったのですが、
まず、仕事中、言葉がつまる、リズムが狂い、
へんな言葉になってしまう、というのは、
たいていの場合、その起こりは、「不機嫌な相手」だったりする場合、
その刺激、というか、影響により、音読のリズムが狂うのです。
一度狂い始めると、そこから、元に戻るのが急に困難になる。

うまく書けていないかもしれません。

だんだん、自分でもわかってきたのですが、
本来なら、音読、がそんなに支配的であってはおかしいのです。きっと。

この吃音が生じたのは(もちろん、無自覚にはずっとあったわけでしょうが)、
実は、*****のために、正確な文言をはっきり言う必要があって、
その練習兼仕事の時に、自分がどもることを、おそらく生まれてはじめて経験しました。
吃音は、今まで、(それは自覚できる症状としては)経験したことがなかったのです。
だから、えっ???って自分でも信じられないくらいだったのです。

実は、自分の声を聴くようにして仕事をしたとたん、
何が起こったかというと、吃音がなくなりました。

しかし、それは、またある時点で、復活したのです。

その復活の際、何が自分に起こっているかを観察してみました。

すると、「ちゃんと言えているかを、チェックしている」のです。
その「聴く」という機能が、です。

おかしい、と思った。

聴く、というそれだけしかないはずの機能が、
なぜか、この聴くという機能が、「チェック」までしているのです。

声に出す。

それを聴いて、ちゃんと言えているかをチェックする。

すると、何が起こるか、こういうことをしていると何が起こるかというと、
一度言えなかったりする現象が起きると、なお、次は言えるかどうか、
チェックをはじめ、どんどんできなくなるものだから、チェックは
どんどん強固になる。これを、私は、一日、5時間も6時間も続ける。

(中略)

こうしているうちに、どんどん、疲弊していきます。
私は、この調子じゃ、2時間ともたない、と思ったことも
何度もありました。早く休憩になってほしい、もう、きついなって。

これは、教科書の音読と、私の場合、すごく似ているのです。

音読をする。

音読をしながら、
その頭の中で聞こえた言葉で内容を理解しようとする。

へんな言い方ですが、文字を見ているから音読ができるのですが、
私は違うんです。

まず文字を見るのは、音読をするためなのです。
そして音読をして、はじめて、言葉を「視覚化する」といったようなことが
起こるのです。

二度、読んでいる感じなのです。
いつも。桜の間を読むときも例外ではありません。
二度、といっても、同じ個所を二度読みしながら読み進めている感じです。

すごく気持ち悪いわけです。
でも、ずっとこれなので、しかたなくそうやってきたのです。

言葉を視覚化する、とはどういうことかというと、
崩残さんも以前、書かれていたように、私の場合、重度の狂人の部類ですが、
「頭の中で文章を書いている」狂人レベルです。

前にも書いたことがあります。

私は、気がつくと、ブログや報告の文章に、気づいたことを仕立てているのです。
つまり、こうやって書いてきたようなことを、
そのまま、頭で「述べて」いるのです。気がついた時には。

これは、私の場合、
この文章化すること=格言化すること、とも言えます。

いろいろまわりくどく書いてきましたが、
実際に何が起こっているかというと、
「ぶつぶつ言いながら(声に頭の中で出しながら)文章を頭の中で作っている」
という、まさに、そういう「人生」を送っているのです。
そういうことをやっている時がある、というより、それ自体が、
私の人生でやっている常のことのように。

ここがうまく言えないのですが、

聴く、というのは、本来、聴けばいいだけです。

聴くことで、そこから、判断やチェック、ジャッジをする必要、というか
そんな審判のような「資格」はない、はずなんです。
今の私の感覚からすれば。

ところが、あ、ひっかかってしまった、となったとたん、
「聴く」が自分の役目を飛び越して、できるかどうかのチェック機能まで
し始めてしまうのです。

だから、自分の声を「聴く」とやったその時も、
もろくも、しばらくして崩れました。吃音状態です。

それから、次の日、また次の日、と、変えてみました。

「聴くこと」だけをしよう、と。

すると、まず、どうでもよくなったのが、
多少、正確に一つ一つの言葉が言えなくても
(具体的にいうと、ありがとうございます、と一言一言が言えておらず、
ありとます、みたいになったとしても、ということです)
ほっとく、ということが、できるようになりました。

実は、これができなかったのです。

そうなってもいいや、と思ってやったとしても、
実際何度もチャレンジしたのですが、ありとます、すら、
堂々と言えなくなり、ひっかかってしまうのです。
最後は、最初の「あ」が出てこなくなりました。
それが、2時間近く、延々と続いた日はきつかったのです。
もう、しゃべれない、と、思ったほどの時もありました。

そういう日々だったのですが、

聴くことだけにした、その時から、
というか、聴くこと、その機能が、その領分を超えて、
何をしでかしているのかを理解し、聴くことだけをやり始めてから、
それは、今日、特にそれを徹底したのですが、

まったく、どもらなくなったのです。

ありとます、みたいないい加減な言い方になってしまっても、
それは「どもっている」のとは違うのです。
どもる、というのは、言葉がどうなるかの問題ではなく、
「あっ、言えていない」という、つまり、

チェック機能

という、しなくてもいいことをしていることを
どもる、というのだと思いました。
ですので、なんとかその通り言えても、どもっているのです。実質的には。

これは、つまり、言い換えると、
私の人生はずっとどもってきたのです。
気持ち悪くて当然です。

そこまで今は大きな話にしなくても、まず、
この吃音の問題、一つ、壁を乗り越えつつありますが、
もっと重要なことがここにあります。
それを、今日、試してみたのです。

妄想が妄想として機能するためには、
少なくとも、私の場合、その妄想が一度、頭の中で
「音頭されなければならない」ということに気づきました。

妄想にぶっ飛んでいる時、私は、
必ず、その妄想を音読しています。頭の中で。

それで仕事中、セリフの吃音とはまた別に(同時に)、
もしも、妄想が頭に浮かんできたら、「音読しない」ことに決めて
仕事に、今日、とりかかりました。

すると、完全に、ではなくとも、
妄想が出る瞬間そのものを許さない、という芸当ができたんです。

関心地図などで、関心(あるいは妄想)にぶっ飛ぶとき、
私は、あ、と気づいた時には、少しの間、もうぶつぶつ、やった後なのです。
その瞬間、というのは、なかなか気づけませんでした。
いつも、「ああ、遅い」と後で自覚するのですが、後の祭りです。

それが、今回、脳内妄想が起こっても「音読しない」と決めてかかると、
妄想自体、続かなくなるのです。出たとたんに、音読されないのですから。
それは、私にとって、あまりに当然に思えました。
というのも、そうやって、妄想を今までずっと展開してきたからですし、
それが、私が妄想を展開するのに、必須のことだったからです。

妄想が起こる→音読する→言葉として認識(視覚化)する→文章・言葉という異物になる

これが、「私」そのもの、つまり、中心、から
「距離のある、遠いもの」が作られる仕組みであり、この異物こそ、
格言であり価値観なのです。
価値観、ここでいう価値観とは、「これが自分だ、これに気づいた私が自分だ」として
しがみつく価値観のことです。言うまでもありませんが。
さんざん、崩残さんが、関心地図でもおっしゃっていたことです。

油断なりませんが、このからくりに気づいて、
逆に、聴くのは、自分の声だけ、と集中してみると、
私は、今日、7時間、ほとんど疲れませんでした。
それと、私の声は、まるで、「空」のようでした。
カラっと澄んだ空のような声、しかも、楽器のように通る音で
私はこなし続けていました。

先にも書きましたが、正確な言葉が言えていたわけではなく、
「こんな感じでいいや」って感じで、自分の声を聴きました。
「聴く」という機能に、それ以上の機能を与えませんでした。
すると、また、不思議なことが起こったのです。

今度は、ちゃんと言葉を言ってみようとしたらどうなるか?
試してみると、不思議に、言えるのです。
ずっとは試してみませんでしたが、時々やってみると、
別に、正確にも、適当にも言えるのです。どっちでも言える。
なにより、どもらないのです。「あっ、ひっかかった」がない。

委縮されていなかったのだと思います。
チェックの監視で縛られていないことで。

そう、先ほど、油断なりませんが、ということで
書きたかったことは、私の場合、この音読スタートからの
妄想展開による脳内文章作成が酷かったために、
むしろ、それ以外の、妄想の仕方が、あまりなさそうなのです。
わかりませんが、ひとまず、そう考えてみました。

考えてもみたら、ブログを書くのが苦しかったのも当然です。
こうやって、脳内文章化されたものを、自分ではない、と
どこかで感じながらも、しかもそれを、本当に文章として書いて
ブログにするなど、私は、自分がいったい何をやっているのか、
書いている内容でなく、やっていることが自分でまったくわからなくて、
すごく苦しかったのです。苦しい、と感じた、というか、
違和感バリバリで、どうしようもなかった。
やっていること自体が、嘘で、リアリティーがないものであることは
自分自身、一番、感じていたからです。

今でも、当然ですが、きわどいわけです。
文章を書く時というのは。

でも、崩残さん、今、ふっと思えました。
だから、この書くことが、生きている場であるのですね。
こう、書いた今、もう、この感覚はどこかに行ってしまいましたが。

さて、最後に、恐怖のことです。

これを書くために、ここまで書いてきました。

というのは、恐怖が何か、とか、どう分析するか、とか、
そういうことだけで、納得など、私はもうできないからです。

今までは、恐怖ゆえに、それ自体が掘ってきました。
でも、今は、それでいいんだろうか、と強く疑問を持ちます。
私の今の気持ちは、「絶対に変えたい」の一心です。


(以下、略)


・・・


今読み直して、この「恐怖ゆえに、それ自体が掘ってきた」のが今までなら、
恐怖由来の妄想の出番すら無くすことで(これはACにとって虫の息すら
させないトドメの苦痛だ)、AC人格解除を徹底したいと思っているのです。

そして、私は、焦りから、ではなく、
これは、一気に、取り組んでいきたい、と思う。
だらだらするのも、AC人格の怠惰さだからです。

AC人格は、この数日も、何度も私に言います。

焦ってるぞ、と。

あれもこれもって、何も手がついていないじゃないか、と。

でも、それは嘘、ACの嘘なんです。

着実に、遅くとも、迷いつつもこなしています。

焦っているなら、焦っているでいい。

それでも残るもの、それでも失わない力、
それを見ようと思っています。
なぜなら、それを殺そうとし、無気力にさせるのが、
AC人格のもくろみだからです。
そうやって、「妄想世界」の住人になるように仕向けてくるのです。

舞台の上で居座ってドヤ顔でいる99のAC人格に対して、
私は、1人、いつでもどこでも、言い放ってみせます。


「主役は変わったから」

と。

事実だけを、突きつければいいだけです。

そこでACが何をしてこようが、
後は私が決めたように自分を裏切らなければいい。

Pとの闘いがそうであったように、
そう、そうだった、あの時のように、

「今度は、あなたがどうするかを、あなたが考えろ」

と、堂々と、AC人格に言い放てばいい。


それは、AC人格に


「引きなさい」


と、宣告することなのだ。



2015.11.14
あび

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by jh-no-no | 2015-11-14 05:46 | リハビリの巻


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