前回の投稿で、
11月2日が本当の誕生日だ、と書いたけれど、 「新生日」、そんな言葉はないと思うが、 11月11日は、私にとって、新しい日の始まりだった。 崩残さんに報告メールをした日なのですが、 私は、はじめて、自分が 「変わった」 と思った日だった。 私は、報告メールを送信した後、しばらくして、 もっとも嬉しい日だった、と思った。 なぜなら、私が変わったからだ。 自我復元をしてきて、今まで、一度たりとも、 私は、「自分が変わった」とは思ったことがなかったので 書いたこともない。 全自我判定をいただいた時も、「変わった」とは 思わなかったし、そもそも、変わったかどうかなど まったく関心もなかった。 ただ、私はもう自分を裏切らないことが 決定した日、それが、11月2日だった。 それから、1週間以上経つ。 その間、急アクセルを踏むようにして 沸き起こるものを、外へ出していった。 前回も書いたことだけれど、 私にとっての全自我という境目は、 「本気でリハビリにぶちあたれるようになった」 ということとして、私はとらえているし、 それ以上のことはよくわからない。 まず、今日、少し、 ここしばらく急アクセルを踏み、走ってきたことで、 何が、どう変わったのか、俯瞰できるようになった。 そのことを、記録しておきたいと思う。 まったく主観的な記録であるが、 今日、新しい体験もしたので、そのことも書いてみたい。 まず今日体験したことから、書いてみたい。 それは、稽古から帰る途中、自転車に乗りながらのことだった。 いや、稽古中から、それは起こった。 目の前で模範演技をしているのを見ていた。 相手が床に倒れる時、その手首を、もう一方の人が 握っている。それは脈を抑えるようなつかみ方で。 次、二人一組で稽古をしていた時、 「よし、やろう」と少しばかり元気に立ち上がった時。 これらの時、私は、 このなんでもない、いつもある光景を、 「はじめてだ」 と思ったのだ。 稽古が終わり、自転車で帰る。 左斜め前にピンクのパーカーを着た女性が もう一人の人と自転車で並走している。 という、光景を見て、 また、 線路脇の道を通っているときに、 貨物列車がすれ違い、それを見ている、その時。 また、 よくあるスナックの看板に 店の名前が書いてあるそれを見た時、 また、 車道上方の、ブルーに白字の道路標識を見た時、 そのどれも、私は、それを目にした時に、 「はじめてだ」 と思ったのだ。 いつもの、あまりに当たり前なその風景を、 私は、まったく、「新しい」として、経験し、とらえていた。 はじめてなのだ。見慣れたそれらが、全部、はじめてのものだった。 今挙げた光景は、あくまでも、その時、意識的に覚えた光景であるが、 この、はじめて、は、実は、ずっと、どれもがはじめてだった。 とにかく、何もかも、私は、 はじめて見たもので、はじめて経験しているものだ、 という感覚だった。 変わった、というのは、 なんだか、自動的にそうなったような言葉だけれど、 そうでなく、「変わっていた」というほうが、 正しい表現に思う。 稽古にいく前にも、このところの私の状態に かなり意識が向かっていて、それは、ここのところ、 ずっとそうだった。 こんなたとえを頭の中で描いていた。 全自我判定というのは、 あくまでも、今までベンチとか観客席とかに追いやられていた主体が、 はじめて、「あなたが主役だ」と知る、その時のようなもので、 いきなり、舞台にあげられる。 ただ、それは舞台といっても、舞台の「そで」で小さくなっている。 まったく、主役、どころか、「いたの?」と言われそうなくらいだ。 そこで実際に起こっていることは、 舞台の上では、わんさかとAC人格たちの群れが、うごめいている。 自分たちが主役に決まっているんだ、と、まるで当然のように 振る舞っているのだ。舞台そでの「主役(主体)」など、完全に無視しているかのように。 実は、無視しているのでなく、意識しているからこそ、 AC人格は、「ぜってー、ここから降りないぞ、なあ、みんなぁ!」と AC人格同士で、往生際悪く、結束し、盛り上がり、居座っている。 私は、このところ、ずっとこんな感じだった。 AC人格もそのままいて、むしろ、酷い。 恐怖、無気力感、怠惰さ、妄想癖、 これらのパレードを「見ている」かのように。 ただ、どう考えても、 これらは「不要」だった。 なぜか?ではなく、不要なことは自明になっていることばかりだったから。 その中で、私は、 そのAC人格たちがいて、暴れ、ああだこうだやっている様が、 へんだ、おかしい、と感じ続けていた。そういう時間がこのところ続いていたし、 今でも、AC人格に対して思うのは、とくに、「妄想それ自体」に対して思うことは、 もう、どうしたところで、妄想に出番などない、妄想が動力になるような人生では、 明らかにない、ということであったし、それなのに、なのに、 なぜ、このAC人格が、あいもかわらず、ああだこうだ、と舞台(=脳内)で やっているのか、どう考えても、それはおかしいことだった。 指のリハビリを考えるとわかりやすい。 指の力だけで自力で曲げる。 それを精一杯やってみる。 というのと、 もう一方の手を使って、 その指をぎゅっと曲げることとは、 全然、違う。 前者の場合は、痛くない。 後者の場合は、痛い。 つまり、今までの延長で自力で曲げよう、としても 「曲げられる範囲でしか曲がらない」のであり、 言ってみれば「楽」なのであり、痛まない。 こういうことは、治療中はむしろ必要で、 逆の手でぎゅっと曲げるなど、やってはならないことだ。 だけれど、今もそのやり方をしていては、 痛くないのだ。その痛くないままのやり方では、悪化する、 というのが、リハビリだ、ということ。 つまり、かなり強制的に別の手(新しい地点)から 力を加えて、痛みをわざと与える、くらいでないと、 とても、鈍感になる。 生きている、とは到底いえない。 この危機感があって、リハビリ、リハビリ、と 私は自分で言ってきたのだと思うが、 その覚悟、決意を、行動でしてみたのが、 11月11日の報告だった。 それでわかったことは、 もう、妄想に舵を渡してはならない、ということだった。 どんなに妄想が居座り、ACが暴れていようが、 舵を渡してはならない、ということ。 では、それは、どういう状態なのか?というと、 「新しい私」が、そのAC人格たちの往生際の悪さを 舞台そでで見ている、という状態だ。 言い換えると、 ACの醜態を醜態のままに、 私はもうフォローもしないし、相手にもしない姿勢で、 ただ、醜態を晒させ続けた。 そう、頭で理解したのは今日だけれど、 この「新しい私」が、何もできないままだけれど、 その新しい私が、「いる」ことに気づいたのが、 11月11日だった。 こういうことなのだ。 主役だ、と知ったその新しい私・・・ でも、そこは、AC人格が暴れに暴れた本拠地。この脳内。 そこに、ただ一人、本当に、たった一人。 あまりにAC人格をやってきすぎたために、 今のこの私の身体をのっとっているのは、 AC人格がほとんどのままであり、 「新しい私」が1だとすれば、 99のAC人格が、知らぬ顔で、出ていかないで舞台の真ん中で 虚勢を張っている。 でも、今の私は、まだ、この99と1という総体として この身体を感じている。 本当は、主役は、もう交代したはずなのに、 「残留した往生際の悪い記憶」として、 AC人格が、なおも、いや、その往生際の悪さから より目立とうと、一層の悪あがきをしているのだ。 ここしばらく、ぜんぜん、生きた心地もしなかった。 当然だ。こんな輩がふんぞり返っているんだから。 しかし、不思議なのだ。 ここが、今までとぜんぜん違うのだ。 私は、明確に、この状態は「へんだ」とわかっていること、 この点が、以前とぜんぜん違う点なのだ。 そして、新しい、別の立ち位置に自分がいる、 そしてそここそが中心であり、「お前、主役とか調子こいてんじゃねえ」と 誰がどう言おうと、その子が主役の主体であり、中心であり、 私がいる地点は、そこ以外のなにものでもない。 つまり、まったく、今までとは 違うところに、私はいるのだ。 たとえそれが、隅っこであっても。 それだけはわかっている。 なのに、目の前で展開されていることは、 今までと同じか、AC人格の挙動としては、むしろ以前より酷い。 酷い、というか、より、ACの動機に敏感になっている。 ずっと、それは、私が見慣れてきた私の過去の記憶なのだ。 そのフィルターを通じて、この世界は 見られている。知覚されている。 ところが、見慣れてきた私の過去の記憶にもう用はないのだから、 そんな記憶をなでる必要は、どこにもない。 私は、今日、リハビリの「方針」を決めた。 「心地よくないことをやろう」 と。 もちろん、それは、精神的な意味で。 精神的な意味で、心地よくないことをやる。 心地よくない、とは、ここでは、 「慣れていない」ということになると思うが、 私にとっては、心地よくない、といったほうがしっくりくる。 習慣化されたものから、脱する、ということになる。 心地よいこと、慣れていること、とは、 当然、AC人格によって習慣づけられた思考や行動のパターンだ。 AC人格との格闘とは、 心地よい、と思っていたことが、 本当は心地よくないことであることを知り、 「いや、心地いいんだ」と麻痺や逃避で自分を売り渡さないかどうか、 それを試される、生きるか死ぬかの闘いだ。 それはそうなのだけれど、 AC人格との闘いでは、「心地いい」と思っていることをやってみる (実際には、やらねばならない衝動にかられてやってしまう)、 そこで現実を直視する、というプロセスがあり、 どうしても、「心地よいと思っていること」にまず足を入れてしまう、 ということをしてしまう。 それは、当然、必要なことであり、 そうでなければ、「オレはAC人格なんかじゃない」と 斜に構えて、鈍感な、無自覚AC人格のままになるだけだ。 ただ、今、この今になって 私は、このやり方のままでいいのか? と疑問が生じたのだ。 「心地いいと思っていたら、そうでなかった」 と何百回体験したところで、今や、それが AC人格の解除になるのだろうか?と。 AC人格分析は、それでいいと思うし、 それしかない、と思う。 そして、今もなお、当然、性の問題も含め、 未解決なAC問題は、そのスタンスで徹底して取り組むしかない。 ただし、解除、となると、 どうしてもここに、「心地よいこと」にまず一歩踏み出してしまう、 その一歩が、どうも、よくないように感じるのだ。 関心地図をやっていると、 気づくと、妄想が「はじまってしまっている」ことに気づく。 つまり、もう、数秒、長ければ、数十秒は、 妄想癖にとっては、「心地よい時間」を過ごしてしまっているのだ。 もちろん、それに気づいて、「ここじゃない」と、それを繰り返し、 中心に戻ろうとする絶え間ない観察が、私は関心地図だと思っている。 でも、正直いえば、 ここじゃない、とそれを毎回毎回繰り返しているのなら、 最初からそこに踏みこまなければいい、と思うのだ。 つまり、具体的にはどういうことかといえば、 日々の生活や仕事で、ふと、妄想が始まってしまっている、わけだが、 妄想それ自体を、始めなければ、戻るも何も、 最初から、そこにいればいい。 私が、徹底的に心地よくないことをするぞ、と 今日思ったのは、そういうことだと思う。 私が今、「心地いいとされる記憶」というのは、 そのすべてがAC人格がいうところの心地よさなのであって、 それは当然といえば当然で、それしか、心地よさのデータがないからだ。 とはいえ、矛盾することに、 心地よい、とそう思えるようなことは、 もう、私は、本当は心地よくないことを知っている。 それなのに、なおも、半歩、「心地いいところから」はじめてしまう習慣が、 無意識だとしても、展開されてしまうのだ。これ自体が、習慣だ。 では、本当に心地いいことって? という自問は、まったく、リアリティーがない。 なぜなら、それを私は、知っていないからだ。 まだ経験しておらず、そもそも、心地よいことを経験しなければならないかどうかも 何も決まっていないし、誰も決めていない。 ただし、11月11日、私ははじめて「変わった」と思ったのは、 心地よくないことをし続けたこと、 それができたこと、 そのことが、私に、「私は変わった」と思わせた正体だった。 心地よくないこと一色になっても、 もしもそこに私が「いる」のなら、 明らかに、今思えばだが、それは、AC人格ではない。 それは、なにも、「いる」とか意識する必要もなかった。 ただ、心地よくないことをやり続ける、という、 今までやらなかったことをやっただけだった。 その行為自体が、今までやったことがなかったから、 私は「変わった」と思ったのだと思う。 だから、何かになったとかではないのだ。 変わったのは、私自身の姿勢なのだ。 11月2日を誕生日と書いたけれども、 だとしたら、そんな言葉はないかもしれないが、 11月11日は、新生日、だと思う。 2日が「受胎」だとすれば、 11日に「出産」という感じだ。 どちらも誕生日かもしれない。 そして、今日、いや、もう昨日になってしまったが、 ようやく数日して、今の私には「二つの現実」があることを痛感した。 それは、AC人格による妄想の目で見た世界(という知覚現象)か、 それとも、そうでない「新しい地点」から見た世界(という知覚現象)、 この二つの現実が、私の目の前にあった。 これが、すごく面白いのだ。 (もっと面白がればよかったが、そんな余裕はなかった・・・) 青い道路標識を、「今までの標識」と見ることもできたし、 「見たことがない標識」と見ることも、その時、私は選べたのだ。 それは、何度も言うが、世界が新しくなったのでなく、 私のほうが新しくなったから、見えるものが、新しいものに見え、 だからこそ、「新しいものを見た」とかでなく、ただただ、 「はじめてだ」という感覚、それのみの感覚が、面白かった。 わからないけれど、もしかしたら、 子どもは、こうやって「はじめてだ!」を経験していくのかもしれない、 私にもそういう時期があったのかもしれないが、 この「記憶」は、もう、汚染されていて、その時代を知らない。 だけれど、今、私は、それを体験している。 はじめてだ、を。 これから、私は何か新しいことを始めるかもしれないが、 たとえ、真新しいことを始めないとしても、 この目の前の、そう、見えるすべて、経験するすべてが、 もう、すでに、新しい、否、 「はじめて」 ではないか! この感覚は、かなり、素敵だ。汚染されていないのだ。 汚染されたこの家のこの部屋であってさえも、 まだ手つかずだと感じること、そして、それこそが 真実・・・真実とは、私がどの現実を選び取るかということ、 そういうことに気づくと、ワクワクしてくるよ。 だって、どれもが、 「新生」 なんだよ! 新しく、はじめて、ただそれだけが こんなにも落ち着かなくする(子どもみたいに、かな?)。 子どもがあんなに落ち着かないのも当たり前だ。 そこにある発砲スチロールも、なんだこれ、こんな感じか、 どれどれ、ふ~む、あれはなんだ、あのピンクの紙は! 見るもの何もかもこの調子じゃあ、 落ち着け、というほうが無理がある。 見ているだけじゃない。 こうやって机のひんやりとした冷たさ、 触覚が同時に刺激される。 と思えば、椅子のおしりのところは ほんのり暖かい。 私は、今、思うのだ。 妄想は、もう、いらない、と。 こいつに助けられたと思っている記憶、まだまだあるんです。 だから、ここでもっと考えよう(妄想しよう)とやりたい。 正確には、それをやらないと居ても立ってもいられない衝動があって、 それをやらないと苦痛だからやる(やらねばならなくなっている)だけであって、 この自動的にやってしまうことの心地よさを、私は、 徹底的に否定していきたい。 これは、苦しい作業だ。 でも、二つの現実がこうやって目の前に出された時、 私は、じゃあ、どっちを選ぶんだ?と自問すれば、 私は、生きる、ことを選ぶに決まっているのだ。 遊ぶこと、を選ぶっていうことかもしれない。 少なくとも、今日、体験しているこの「生きる」は、 生きるとかそんな言葉知らなくても、ただ、動き回って遊んでいる子どもの その、遊び以外、なんでもないのだから。 あそび、あび・・・ 「あび」は、自分でそうすると言っておいて慣れないな、と思っていたけれど、 こうやってだんだんと、あそびのあびになっていけるといいな。 飽きるまで真剣に遊ぶこと。それが、「あび」。 委縮していく方向にばかりなっていた今までの生。 私は今、それを変えていきたい。 ・・・ 『(後半)新生日』に続きます。 2015.11.14 あび ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no
| 2015-11-14 05:45
| リハビリの巻
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