自我復元報告文を掲載します。
①~④に分けて記録します。 ・・・ Abyです。 自我復元報告をさせていただきます。 (追記:長い報告となってしまいました。サインまでが本文です。 よろしくお願いいたします。) ワークの経過報告でもありますが、今回は、むしろ、 「球体」のワークを通じて、掘り進めていったトラウマのご報告となります。 今まで、私は、「トラウマ」という言葉をほとんど使ったことがありません。 しかし、今回は、掘り進めていく力(スコップ)が、カン、と、 過去の、それも、かなり過去のものに「ぶつかった」という感覚があります。 最近、久々に、「ノート」をとっています。 手書きのノートに記すこともあれば、日記に記すこともあります。 関心地図以外、メモをとる、ということは、最近はありませんでしたが、 久々に、とっています。そして、久々に、「見返す」ということをしています。 それだけ、重要だ、と自分で認識しています。 くまなく、書き記したいと思っていますので、何度も、同じ箇所をいったり きたりするかもしれないのですが、よろしくお願いいたします。 「引用」の件で、あの時、いろいろ考えたことは、妄想も暴れだしただけでなく、 収穫がありました。その時から、私の中で、「不安」という言葉がキーワードに なっています。報告文の中で、 >不安や心配、苦しみ、軋轢、困難、そういったことは >まるで「無いかのように生きねばならない」ルール。 >それが、その理想家族の実態です。 と書かせていただきました。今回の報告は、このあたりから、紆余曲折しながらも 掘り進めていったトラウマ掘りとなります。 まず、これは、私のよくない癖であり、すぐさま、解除しなければならないと 何度も回り道しながらも思うことですが、当たり前なのですが、 AC人格とは、親から埋め込まれた恐怖に「対処しよう」として作られたもの、 また、自分で作り、そして強化したものです。 今回、まず思ったことは、そこに「不安」があります。すると、私は、 なんとか「対処しよう」としてしまう。 そうやって、今までもやってきて、今もふとやってしまっている。 不安は、ただ、見ればいいのに、なんとかしようとしてしまう。 「不安を楽しもう」「不安は楽しむべきだ」とまで、進行してしまう。 これは、いずれも、AC人格です。私が自我復元を通して知ったことは、 苦しみも、軋轢も、不安も困難も、それらは「事実として楽しい」という ただそれだけであり、「楽しまなきゃ」という強迫観念は嘘なのです。 ただただ、私が避けてきた、避けるように埋め込まれたものを、避けず、 ただただ、それを見ればよく、そこにとどまればよいだけなのにです。 そこにとどまることで、今日、ひとつ、掘れたことがあります。 それについても後述します。 「不安」という存在は、許されなかった、あってはならない家庭だった。 その過去の事実から、出発しなければなりません。そして、それは、 今まで堀っていった通り、毒父、毒母、ともに、おもにその母親から盛られた 毒の感染によるものであり、世代間連鎖の「元凶」でもあります。 「親を不安にさせてはならない」という強迫観念の中で、その「不安」という ものが、存在してはならないものとして、定義されています。 今まで、報告の中にも、ブログの中にも、書かなかったエピソードがあります。 というのも、これがどういう記憶なのか、自分でわからなかったからです。 でも、きっとこれは何かある、と思い続けた記憶でした。おそらく、私が 今までの時点で思い出せた記憶として、残る2つの記憶となります。 それは、とても、似たような記憶のエピソードです。 小学生の低学年の頃、私は、ある一人の同じクラスの女の子を 「つねっていた」ことがあります。なぜかわかりません。 そして、その事実もシーンとしては覚えていません。 ただ、あの女の子のことをつねっていたことは、私は「知っている」のです。 しばらくして、上の学年にその子のお兄さんがいて、ある日、私の教室に 休み時間にきて、「妹をいじめるな」といったようなことを言われた記憶があります。 おそらくですが、それを機に、つねるのをやめたような気がします。 その子に対する私の記憶は、とても無表情で我慢強い、痛くても顔にも声にも 出さない人でした。 なぜ、私は、そんなことをしたのか、わかりません。 もう一つの記憶は、これは、高学年になってくらいのことだと思います。 低学年の頃から、ずっと仲のいい友達がいました。よく一緒に遊びました。 この男の子のことは、かつて、ブログでも書いた記憶があります。 閉じた友達関係の中の一人でした。 その男の子と、別の同じクラスの男の子で、ある時から、 その子たちが万引きをし始めたことを知りました。 覚えているのは、シャーペンの芯、キットカットのお菓子、などです。 私は万引きはしませんでしたが、数度、それを もらってしまいました。家に届けにきたのです。 その時、彼らの合図がありました。親にはわかられないためにです。 指を曲げてウインクをするような合図だったと思います。 それが、万引きによって手にした物だ、ということを告げる合図でした。 その合図を私は知っていました。嫌でしたが、受け取ったように思います。 これも、この時から、私は、相手から提供されるものを断る、ということが できませんでした。 この二つのエピソードについて、肝心なのは、その後のことでした。 まず万引きの件ですが、私は、早く、彼らが万引きをしていることが 発覚して、やめさせたい、と思っていたように記憶しています。 ある日、また別の男の子の、おそらくそのお母さんを通じて発覚したのです。 その男の子の名前も覚えているくらいですから、きっとそうです。 そして、たしか、私の母から、こう、きかれたように思います。 「●●(←私の名前)は知らなかったんでしょ」 と。シャーペンの芯などをもらったことは告げたと思いますが、それに対して、 私の母は、万引きをした物だっていうことは、●●は知らなかったんでしょ、 というように、きかれたように思うのです。 私は、おそらく、即答で、 「うん、知らなかった」 と答えたように思います。100%そうだったかわかりませんが、ただ、今、 その場面をシミュレーションしようとすると、明らかに、私がとる行動は、 「即答で」「知らなかった」と事実を否定するだろう、ということでした。 あの時、どういうシチュエーションだったかは覚えていないのですが、 その仲のよかった男の子が、「えっ、知ってたでしょ。だって合図したじゃん」 ということを、言ったように思います。私は、友達を裏切ったのを覚えています。 そして、彼は、裏切られた、という目をしていた、そういう記憶があります。 どれも、明確な記憶ではないのですが、感覚として、実感がある記憶です。 もう一つのほうのエピソードについてですが、これは、思いがけない タイミングでその事実が、母に発覚しました。卒業式の日かその間近です。 その女の子の母親が、私の母にこんなことを言ったらしいのです。 「低学年の頃は、つねられたりしたこともあったけれど、もうそれは 昔のことですね」といった、おそらく、そんな内容だと思います。 もちろん、母は初耳だったはずです。母は私にこう言ってきました。 「〇〇ちゃんのお母さんが、そんなことを言っていたけれど、本当なの? そんなことしてないでしょ」 と。そんなことしてないでしょ、とまでは口で言ったかはわかりません。 でも、言外に、そういう意味があったのは確かです。 この時も、私は、「即答」した記憶があります。 「やってない」 と。 この二つの、私の返答の、「迷いなき即答」、これを思い出したとき、 強い違和感を抱きました。 もちろん、当時も、私の中で、葛藤はありました。やったのにやってない、 知っているのに知らない、と嘘をついているのですから。 ただ、あれ以外に母に返答のしようがあったろうか、と考えると、 なかったとしか感じられなかったのです。 知ってた、というと怒られる、とか、やったといったら怒られる、 という恐怖から言えなかった、というのなら、まだそこに、自分がついた嘘を 自分のものとして抱え、正常に、親に対して、また友だちに対しても、 歪みつつも不満や反発、理不尽さを感じることがあっただろうに、 私にはそれがなかった・・・という不気味さがあるのです。 それを思ったとき、わかったことは、 私のその迷いなき「即答」は、完全に、母を心配させてはいけない、 母を不安にさせてはいけない、というものだった、ということ。 事実などどうでもいい(もちろんその時はそんな冷静なことは考えていない)。 そして、事実などどうでもいい、というこのあまりに目茶苦茶なことを、 私が、というより、母が、思っていたのだ。 「やっていない」 「知らない」 という答えだけを、母は望んでいた。 私はそれを知っていた、ということなのだ。 そして、母は、私がそう答えるのを知っていた、ということでもある。 だから、それ以上、母は、私に何もきいてこなかった。 本当なのかどうかなど、追求してこなかった。 なぜなら、母は本当のことなど知りたくなかったからだ。 これは、父にも同じ性質がある。これは掘ってきたことでもある。 「見ざる、言わざる、聞かざる」が、父の考え方だ。 事実がどうか、でなく、「親に心配をかけるな」、これに違反することは パパは絶対許さない、という脅迫があったことは、見てきた通りだ。 2つ、と書いたけれど、もう一つ、書いていないエピソードがあります。 今、ここで書くべきかわからないのですが、書いてみます。 というのも、やはり、これも、これらと無関係には思えないからです。 中学年から高学年にかけてだったか、転校してきた男の子がいました。 その男の子は、のそ~っとしていて、みんなから「**」と呼ばれていました。 私は名前(愛称)で呼んでいた記憶があるのですが、その子はでくのぼうみたい だから、「**」と呼ばれていて、今思い出したのですが、信じられないことに、 そのことを教師も知っていたように思います。教師はそうは呼びませんでしたが、 そう呼ばれてもしょうがない、といった雰囲気を教師も表に出していました。 冬になると、教室のコーナーのほうにストーブがありました。 寒いので、休み時間にそのそばに生徒たちがいたように思います。 そこにその男の子もまじっていました。Aくんとしておきます。 温風が出るファンヒーターで、当然、その吹き出し口に近づきすぎると 熱いと思います。その日、こういう光景を覚えています。あるクラスの男の子、 それはその仲のよかった子だったかもしれません、その子がAくんをストーブの 近くに寄せていきます。すると、Aくんは笑いながらも「熱い」と言います。 私はおそらくですが、それを見ていたように思います。 これを思い出すと、私は怖くなります。熱かったんじゃないか、と。 温風だからそれほど・・・と思いたくなる自分がいます。でも、私は、 本当は怖いのです。アイロンの熱、火の熱、虐待のいろいろな話があります。 私は、今も、アイロンをかけるとき、ふと、怖くなります。 話がそれますが、小学生の頃、すごく怖かったものがあります。 それは、私の学習机のスポットライトでした。それは、もちろんスポットライト ですから、すごく熱くなります。一瞬触ってみては、ぞっとしました。 これをあとちょっと触り続けたら、どれほど恐怖だろうか、と。 私は、水の恐怖のことも、かつてブログに書きましたが、ずっとこういう恐怖を 感じながら、日々すごしました。 あと、もうちょっとこれをやったら、どんなに恐ろしいだろうか、と。 ある時、こんなこともやったことがあります。大きな石を思いっきり上に投げます。 私はすぐ逃げます。自分に当たらないためです。 もしもあたったら、どうなるだろうか、と恐怖しつつも、やってしまうのです。 なんでこんなことばかりやったのかわかりません。 ただ、今書いていて思ったのは、この「延長線を想像しての仮想の恐怖」を 自分で作り出しては何度も何度も恐怖体験してみるというわけのわからない 癖が、幼い頃からかなりずっとありました。中学の頃には、そういうことは しなくなったように思いますが、ただ、今思うに、こういう恐怖の仕方こそ、 ずっと今の今まで残り続けた妄想の仕方であったことは確かです。 実際の恐怖ではなく、延長線上にある恐怖です。 これがこのくらい痛い怖いのだから、こうなったら想像を絶するだろう、と。 拷問という行為がいかに恐ろしいか、と考えていたのも、ここに由来します。 話を戻しますが、こういう恐怖に触れたくないから思い出したくない、 というものでもあったとは思いますが、それだけでなく、このAくんの記憶と 同時に想起されるものがありました。 Aくんは、よく、私の店の前を通り、その度に、声をかけてくれました。 私も声をかけました。私はAくんが嫌いでも何でもなかったからです。 母は、Aくんのことを、たしか、たまにですが、話題にあげました。 覚えていないのですが、Aくんはいい子だよね、●●(←私の名前)と 仲良くしているんだね、といった、そんなことだったと思います。 でも、どこか苦しかったのを思い出すように思うのです。 それが、そのストーブのシーンとかぶります。私はいじめているのを 隠しているような、そんな気になるのです。たしかに、見ていたのですから、 とめなかったのですから、同罪です。そう思って当然です。 でも、この時も、私は、母にそのことは、「当然のように」言いませんでした。 何事もないかのように、仲のいい友達同士、ただそれだけの事実を残します。 ここにも、先ほどと似たような、苦しさを感じるのです。 正直なところ、今、書いていて、苦しいです。 何が苦しいかというと、Aくんのことを書いたことです。 でも、もう少し書いていきます。 母は、Aくんがいじめられているのは、 もしかしたら、知っていたかもしれない。 いや、おそらく、知っていました。 でも、私にこう言ったと、今、思い出しました。 「Aくんと仲良くするのよ」 と。これはAくんだけじゃない。母はよく「~~ちゃんと仲良くするのよ」と 私に言ったように思います。 私の中で、今、行ったり来たりしていますが、 Aくんを私はいじめてしまった、と私は思っています。 それを、母には言わなかった。このまま、言ってはいけない出来事だと 思っているのだろうか・・・ 先に進みます。わかりませんが、ここは進めなければなりません。 母がやったことを、逃してはいけないからです。 それ以外のことは、後は、自分で責任をとればいいだけなのだから。 だけれど、ここで母がやったことを、逃してよいわけではないから。 目的は、母からのトラウマを暴くことです。 書いていても気づいてきたことですが、 私は、相当、無意識に、母に心配をかけまい、としていたようです。 この「不安にさせてはならない」という親からの強制のために、 私が身につけたやり方(ACの挙動)があります。 それは、「わかっている」「できる」と主張するAC人格です。 これは、自我復元中も、かなりの幅をきかせていていると自覚しながら、 なんとかしたいとし続けたAC人格であることは言うまでもありません。 今もなお、解除しきれていない、でも、もう絶対に不要なものです。 なぜなら、「生きること」と、なんにも、関係ないからです。 生きることに、承認はいらないからです。 しかし、なぜ、これが生まれたか、というと、 ひとつ、明確なことがあります。 それは、とくに母に対しては、「できたよ」「やったよ」という返答、 父に対しては、「わかっているよ」「できたよ」という返答、「できた」という 反応は双方に共通するのですが、いずれにせよ、思ったのですが、 あの二人に私が「話した」のは、この3種類くらいしかなかったんじゃないかって。 そして、なぜ、そう言わねばならなかったか、というと、言い換えると、 なぜそれだけを言うように調教されたか、というと、これが、 「親を不安にさせないため」以外、何ものでもないからです。 これしか、あの毒親は、子どもの私に求めなかったということです。 その反応以外、ききたくなかったのだと思います。 だいたいが、あの親たちは、私の意見など、一度も求めたことがなかった。 それもそうで、子どもに意見などがある、とは思ってもおらず、否、 自分たちが許されなかったものを、自分の子どもに許すはずがないのだ。 そして、意見を求めた「ような」体裁の時というのは、責任を押し付けるか、 あるいは、いかにも同意したかのように誘導する時、これ以外になかったことは 今まで掘ってきたことからも明らかです。 とにかく、くだらないのは(なのに強烈に習慣づいてしまっているのは)、 こういうことの長い間の繰り返しによって、「できたよ」「わかるよ」「やったよ」 ということが、不安解消の手段だ、と思い込んだことです。 そして、まずここに問題があるのは、不安など解消させてやる必要はなかったことです。 不安は解消するのでなく、まず、直面することです。 それが生きている中で、事実として、自分に起こる経験なのですから、 なぜ、それを避ける必要があろうか? ないわけです。 もしも「解消させねば」と強迫観念として思うのなら、それは、元はといえば、 親の不安を解消させねばならない、というものだったはずです。 ところが、いざ、親は目の前にいない、となると、気がつけば、 不安は避けるもの、不安はあってはならないもの、不安は解消すべきもの、 という価値観だけが、強迫観念として残り続けたということです。 そして、私の「間違っていない」とは何だったのか、というと、 「不安を解消できたと思いこめた考えにしがみつけた」=間違っていない、 なのでした。 思い込めたかどうか、それだけです。 またこのあたりに戻ってくると思いますが、掘り進めていったことの報告を 進めたいと思います。 日記を振り返ると、10月の13日頃から、「中心」を意識するだけで、中心の 圧を感じるようになってきたようです。それからは、目を開けていようが、 閉じていようが、中心に戻ろうとすると、すぐに頭皮がピリピリし、中心が 安定します。買い物をしていようが、座っていようが、です。 このあたりから、なぜか、父や母のことを考えることが増えてきました。 なぜかはわかりませんが、そこを掘る必要があるからだと思います。 そして、あらためて、彼らについて、「思い違い」をしていることを このあたりからだんだん感じるようになってきました。 これは、Pも含めて、です。 私は、彼らをずっと「明るい人たちだ」と思ってきました。 でも、なぜそういうイメージを持っているか、それが不思議に感じ始めました。 だって、父も母も、そして、Pも、 「暗いじゃん」 と思ったからです。その暗さの原因こそが、わかったことは、 「不安そうな人たち」だからです。 今までなぜか思わなかったのですが、この3人に共通しているのは、 「誰かに認めてもらいたい」なのです。それに対して、なぜか、私がまるで 「ムキになって」「あなたは本当は明るい人なんだよ」と、諭そうとしている。 この不安そうな人たちを、私がなんとか、明るくしてあげようとしている。 実際、Pと出会った時、ブログにも書いたことですが、何にひかれたかというと、 彼女が「暗かった」ことです。社交的ではありました。ある人から見れば、 まわりの誰よりも明るいように見えたかもしれません。 ただ、私には、明るく振舞っているようにしか見えず、この暗い人を、元の 本当に明るい人にしてあげられるのは私しかいない、と思っていました。 つまり、私は、完全に盲目的な地点から彼らと関係を持ってきたのです。 彼らが本当はどういう人間なのか、よりも、「本当はあなたたちはこうなんだ よね、明るい人たちなんだよね」という妄信とすら自覚のない妄信一直線で 彼らとつきあってきました。もう、これは、あたかも、「役割」です。 そして、「本当はどうだったのか」を40年以上経って、やっと暴いてきたのが、 この自我復元の自己分析だったわけです。 事実はなんだったか、です。そこで、問題なのは、事実はそうだったのは わかったが、なぜ、その事実ではなく、誤った印象を彼らに持ったのか、という ことです。 これは私にとって、重要な切り込み口でした。 なぜなら、彼らに対して、どうしても切り断つことができなくなっていた 「明るいイメージ」こそ、呪いのように、刻まれた印象だったからです。 そのことを書いていきたいと思います。 「明るいイメージ」と言葉でいうとただそれだけか、という感じですし、 私もそれがネックになっているとなど、思いもよらなかったことでした。 それが 「嘘だった」 と気づくまでの過程を書いてみたいと思います。 ・・・ 『②球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』に続きます。 2015.10.21 Aby ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no
| 2015-10-21 11:56
| 復元ノート 1
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by jh-no-no 【分割自我復元法】
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