『(前半)心臓から血がほとばしるかのごとく』の続きです。
・・・ ・・・ ・・・ 崩残様 続いてワークの経過報告をさせていただきます。 >>ある場所ではたまたま目は開けていたのですが、圧力が強まりました。 という前回の報告に対して、 >その場所が必ずある場所のあたりにあるのでしたら、 >今度、その場所にどういうものがあるのか >ちょっと眺めてみてください。 > >何かAbyさんにとって重要なものがあるの「かも」しれません。 と、ご指摘してくださったことに関してですが、 わかったことがありました。 まずメールでここを読んだ瞬間、すぐに思い当たったことがありました。 その確認作業を二日間やってみたのですが、こんなことがわかりました。 まずこの場所というのは、私の今のこの家から、おそらく200mくらいの地点で 歩道橋がある十字路の交差点です。つまり、そこから、家そのものは奥まって いて見えないのですが、その十字路をまっすぐ歩いていけば、ほぼ突き当たりに 今の私の家がある、という位置です。 この歩道橋は、実は、Pとの関係で、強く、私の記憶の中にある場所でした。 18歳、大学生の頃、私はPと出会い、その最初は、まるで初恋の相手のように 私はPのことが好きでした。ある日、私は、Pがどこに住んでいるのか、 そのそばまで行ってみたくなって、自宅の●●から、▲▲を経由して ■■まで歩いてみたことがありました。 Pの家のそばまでいけば、偶然、Pに会えたりするかも、 という期待を持ちながら、歩いたのを覚えています。 あまりこれはこの20年思い出さなかったことなのですが、 おそらく、その時に、この歩道橋を目印かどうかはわかりませんが、 強く意識したのだと思います。この歩道橋を曲がるといよいよPの家だ、 と思ったのかもしれません。いずれにせよ、この歩道橋とその時の、 まさに、Pとの「最初の」思い出の「記憶」が、リンクしています。 視覚的な、強い、記憶です。光景の記憶です。 そのことを、メールを読んだ瞬間、思い出しました。 あ、あの場所って、あの時から私の記憶にある強い記憶だと。 翌日に、仕事帰り、そこを通りました。 目をなるべくつむって、中心を意識しよう、という意識が強すぎて、 後でわかりましたが、初日は、それが邪魔なノイズとなっていました。 初日は、何かを強く感じることはありませんでした。 次の日、そこを通ったとき、気楽に目を開けていました。 路地を右折すると、15mくらい先にその十字路の交差点、歩道橋が見えます。 そこに差しかかるとき、中心の圧力を感じ出しました。 そこで、同時に、「胸にも」圧迫があることに気づきました。 つまり、胸と喉の間の圧迫のほうです。 拮抗しているのです。 そこで、ああ、そういうことか、と思ったのは、 ここで目を開けていたために、Pとの思い出の源でもある記憶がよみがえる、 それはAC人格が今なお守ろうとしている「聖地」のようなもの、 しかし、私は、それに対して、意志として「拒否」している。 断固、拒否しています。 そういうことなのだ、と私は理解しました。 私が「私」を選んでいる。 拮抗しようとしているが、 「中心」に軸足がある。ACが「こっちだ」といえばいうほどに、 「中心」の圧力は強まっていく。 短い時間であったが、その相乗的に強められていく圧力の変化を感じた。 今までは、その胸と喉の間が「これが自分にもっとも近い」となってしまうと、 そっちにどっぷり足がのめりこんでしまっていた。 ところが、中心のワークを進めていくうちに、少しずつだが、 圧力を感じるようになり、今回、「ACの中心」が作動しても、同時に、 「私の中心」が作動するようになった、ということではないか、と思います。 ここで思うことは、自動的にそうなっている、というんじゃない、と感じたことです。 私の中心の圧力は、これは、「意志」だと思いました。 ワークをやっているから、自動的に、という他人まかせな態度の結果ではなく、 自然に起こっていることかもしれないが、自動的とはぜんぜん違うもの、 「自分の意志」として、意志が私を選んでいる、と感じられたことです。 かつて、桜の間で「自分を裏切らないことの真意」というタイトルで 投稿してくださった回がありましたが、この「自分を裏切らない」とは、 今回の、この、私を選択した意志、私を選択した私を裏切らない、ということ ではないか、もう、ここで、AC人格を「断つ」と言わないのなら、それは、 自分への裏切りでしかない、と、そう、純粋に思えたことでした。 赤信号で止まっているとき、青信号より、この圧力が強まった気がした。 もしかしたら、その過去の日も、ここで止まったのかもしれない。 赤信号の時、Pに対してだけでなく、ACに対して「断つ」と言葉にした。 青信号になる前に渡ろう、そう思って、その交差点を渡った。 途中で青になったように思うが、そのまま、歩いていった。 < 中 略 > その意味で、24年前のPとの出会いから、2年前のその日までの「20年以上」の ACの記憶の核のようなものが、なんだか、この歩道橋にあるようにも 思えました。それは、妄想でもありますが、しかし、それほどに、この歩道橋は、 つまり、「私が捨てるものの心臓にあたる場所」に思えたのです。 このあたりから、少しずつ、脳の中心に圧力を感じる「回数」が増えてきました。 目をつむって意識すると圧力を感じるようにもなりやすくなり、また、 普段生活している最中にも、ふと、圧力が強まっていることに気づくことも あります。今もそうですが、ずっと、脳の中心の電源が入っている感じで、 じりじりしています。 嬉しいのは、「ああ、こういうことが起こっているなあ」という他人事、 受動的なことだと感じているのでなく、先ほども書きましたが、これは、 自動的に自然にじりじりしているのだとしても、決して、受動的な意味での 自動的ではなく、自ずと意志が、なんていえばよいのかわかりませんが、 そう、その歩道橋の日の日記には、「中心の怒なり」と書きましたが、 どなっているのです。能動的に、です。上手く言えませんが、それは 私自身だと思うのです。だからこそ、裏切れない。 次にご報告したいことは、「球体」についてです。 これはまだ、これからもっと、いろいろと変化しそうだし、 見ていきたいと思うことですが、いくつか、感じたりしたことを 書きたいと思います。 これは、いろいろなことが、関連しています。 まず、私の「視覚化しようとする癖」ですが、 これが、どうも、強く邪魔をしてきたように思います。 それについて、まず、書いてみます。 私は、かつてはよく、頭痛が起こりました。 どういう頭痛かというと、眉間がすごく痛くなるのです。 それは、今になってわかるのですが、完全に、自分の中心が (というか、それは中心ではないわけですが)、額の、それはもう、 表皮ギリギリまでつんのめりになって出てきている、といった感じです。 これが極端かつ長時間続くような場合、頭痛として現れました。 しかし、これが、極端すぎない程度の状態は、 実は、私の「常態」に近かったということがわかります。 関心地図をやって一つ気づくことは、私の妄想は、きわめて視覚的な光景から 妄想が妄想を呼んでいるバターンが通常に思います。 この「視覚化」でものを思い出したりする、イメージしようとする時に、 自己観察してわかったのは、その際に、意識が眉間のほうに「つんのめり」に なっていることです。ここは、妄想が起動しやすい場所です。 ここで起動しやすい妄想とは、おそらく、「言葉」によるイメージ化妄想です。 簡単にいえば、私が妄想であれこれ考えている状態は、この状態です。 ですから、どうも、鼻からの呼吸、というのが、ワークとして上手くいかないと 私が感じるのは、これに関して、かなり「視覚的に」捉えている、ということ でした。呼吸の経路を、かなり、ビジュアルとして認識しようとしていました。 これは、脳の中心をとらえようとする以上に、その意識が強いものでした。 そうすると、すごく、意識が前につんのめるのです。 そして同様に、「球体」のイメージも、これと同じ傾向がありました。 つまり、球体を描こうと思えば思うほど、その時は、そもそも中心から 離れていて、なんだか、しっくりこないのは、当然でした。 崩残さんより、 >単に、頭蓋骨ぐらいの球体でいいと思います。 というアドバイスを受け、これがやりやすくなってきたのです。 というのは、これは、まず本当はおかしいやり方だとは思うのですが、 この頭蓋骨自体をその球体として「感じればいい」と思ったのです。 もちろん、それは、頭蓋骨そのものですから、中心を保護する球体とは 何か別なものには思ったのですが、ですがしかし、私にとってやりやすかったのは、 「すでにある感覚」を頼りに出来ることでした。 球体を「描こう」とすると、どうしても、白紙に線を描くように、 これから視覚的に描こうとしてしまう感じになってしまうのですが、 「すでにある感覚」「すでにある球体」と捉えると、わざわざ、 描こうとする必要がなくなります。もちろん、それは視覚的な意味で、です。 これは、私にとって、「言語的な意味」でもあります。 いったん、頭蓋骨でもいいから、その骨の存在感覚を頼りに、 「球体」を意識してみると、そこではじめて、こんなことがわかりました。 仕事帰り、家の玄関のそばで、はっと感じ、起きたことでしたが、 「なにも、視覚に頼らずとも、イメージは出来ている・・・ぞ」という発見でした。 それに気づいたとき、もしかしたら、イメージというのは、 視覚化するだけではなくて、もっとほかにあるのではないか、と感じたこと、 それは、つまり、「中心の圧力」を保持したまま、球体もイメージできるのでは、 ということでした。 今も(目を開けながらになってはいますが)やってみると、なんか、できます。 これは、映像としてもとらえている部分があるので視覚化されたものか?と 思ったりもしますが、どうも、違うのです。 感覚がそれを作っている、描いた、という、そんな感じなのです。 不思議なのですが、最初にこれを発見したときもそうでしたが、 頭蓋骨というこのまさにリアルな位置からとらえた球体だったのに、 むしろ、そこから、「自立して、イメージされている球体」といったように、 頭蓋骨から離れています。しいていえば、その上のほう、やや、前方に イメージされる感じでしょうか。 ただ、その位置はおそらく重要ではなくて(固定的であるものではなくて)、 中心と球体だけが、自立して、「視覚的なイメージでなく」感覚イメージとして 作られ、存在している、この感覚が重要に思います。 そして、おそらく、この発見につながったことの前段階として、 これも崩残さんからアドバイスをいただいたことですが、 「中心で聴く」という捉え方の変更です。 これは、メールを読んだ瞬間に、ああ、とわかりやすく感じたほどです。 というのも、聴く、とまでは自分では思ったことはなかったのですが、 なんというか、「意識が元の場所にひき戻る時」というのは、決して、 視覚的なものではなく、ただ、そこに戻る、という意志なのですが、 この時の、視覚にとらわれていない感覚というのは、私は好きで、 これは、なんというか、「感覚そのもの」が、視覚に支配されることなく、 自由度を持っているような感じなのです。 その自由度をもった感覚の一つが、「聴覚」ではないか、と。 しかも聴覚は、おそらくそれは、人間の場合、特定の方向や部位を 意識させないため(ある意味では鈍感なのかもしれないのですが)、 トータルな方向に向いていて、つまり、それは、 「中心で聴きやすくなっている」のかもしれません。 いずれにしても、やってみると、中心で聴くことは無理がありません。 しかも、それに馴染むと、そもそもが中心で「感じている」ように 思えるようになります。それは、さっき書いた、「意識が元に引き戻る」のと とても似たような、心地よさがあります。 これはふと思ったことなのですが、 「休もう」としようとしなくても、ここに戻ってくることが、 そのことが「休んでいる」ということじゃないかな、と思ったことがあり、 実際、妄想の時は、視覚化の癖の時と同様、意識が前のめりになり、 ずっとあれこれ考え、妄想を続けている。すなわち、休んでいない。 休むというのは、このずっと続いてしまっている妄想に気づいて、 関心地図もそうですが、意識が、元に「あ、そうだった」と戻ること、 それ自体のように感じます。 となると、不思議ですが、休む、ということの状態に思うのは、 「いつでも戦える」という状態のようにも、私は感じています。 ある特定の何かに対処しなければ、解決しなければ、とある特定の向きに 向いているのではなく、かなり、トータルな方向に対して、「やれる」状態、 そういう感覚があります。 ここ2日くらい、球体に関して、別なことを感じるようになりました。 もちろん、今まで感じていたことも、今も感じますが、 それとは違うものです。 今までは、球体は、「まわりと遮断する球体」としてのイメージであり、 ザワザワといろいろある「外部」と隔てるようにイメージしてきたのですが、 この中心で聴くことで中心をとらえることをやりはじめてから、 もちろん中心はとらえやすいのですが、ふと気づくと、その中心よりも、 「球体の中の空間」がイメージされていることが多いです。 空っぽな空間、といえば、そうだと思います。 ただ、その空っぽな空間に、たとえば、「音」が入ってくるのですが、 音とは、まわりから、なんというか「空気」に導かれて流れてきます。 そうすると、私は、この頭の中の空間は、まるで、「外」のようになります。 外の空気感、たとえばそこが公園のようなところだとすると、 「公園の感じ」が球体の中にあります。 そこで思うこと、感じることがあります。 この知覚は、一部を切り取っている、ということです。 スポットライトのようなものだと思いました。 スポットライトは、外部の一部を照らし、まるく二次元に映し出します。 この脳の球体は、いってみれば、三次元に映し出す球体です。 たとえば、公園の空間がそこにあったとしても、それは 私が今知覚しているものに限定されます。 まるで逆なのですが、今度は、球体の外部のほうが「遮断」されているような ものです。限定知覚の公園の一部「以外」は、除かれているのですから。 ふと、中心がないように思うのですが、 そう思ってしまうだけで、中心はどうやらあるみたいなのです。 それがわかるのは、この球体での事象、音でもよいですし、 悩みの種になっている妄想、それに連動するシーン、なんでもよいですが、 これも不思議な発見ですが、こういう時は、なぜか、 これらに「引っ張られない」のです。 以前、桜の間にも書かれていたと思いますが、 ただの音、景色として、漂っている、流れさるだけです。 そう、校内放送と書かれていたと思いますが、そういう感じです。 それを「見ている」自分がいる。 中心です。 この時は、いわゆる、妄想につながるはずの光景や視覚イメージを その球体に「想起」しても、妄想とはならず、ただのイメージ、印象です。 ここまでが、現時点までの、 中心と球体のワークの経過報告となります。 Aby ・・・ ・・・ ・・・ 2015.10.11 Aby ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no
| 2015-10-11 09:41
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