眠りこけてはいけない。
たったの1秒も、眠りこく時間など私は予定していなかった。 だから、だから、今までの生は、違和感だらけだったのだ。 心臓から、今、血が吹き出し、かつ、枯れえないその心臓の血の、 ほとばしる様と、不思議にも、そこには、深遠な休息がある。 AC人格を焼き尽くす。 「目的」はそれだ。 私は、たとえ全てを失っても、それと引き換えに、 AC人格を奈落の底に落とし続ける。 私は、AC人格だけは、 許すことは、決して、ない。 あってはならないものを、消すのみだ。 自我復元とは、奇跡のようなものだと思う。 人間でなかったものが、人間に戻る。 私はこれほどまでに人間になりたかったのだと思うと 繰り返すが、やることは一つ。ACを根絶やす、ただそれのみ。 「そこまでACを敵視するなんて狂ってる」と言うのなら、 そう、私は狂いまくって手のつけられない狂人になる。 その狂人こそ、「人間」だと思うからだ。 桜の間、そしてそこに書かれた基幹房さんの報告を読み、 私の心臓は、あちこちから、血が吹き出すのが止まらない。 どこまでも、私は、戦士でなければならない。 戦士とは、丸裸の「人間」のことだ。 私は今日、生まれてはじめて 「呼吸」をした。 匂いがしてくる、のではなく、 嗅ぐ、嗅ぎ分ける、という発見があった。 そして、呼吸とは、そして重力とは、その二つは、 まさにリアリティのあるものであった。 リアリティ、それは、「それしかない」というものだ。 今やっている「中心」と「球体」のワークは、 まさに、そのことを体現するためにあると感じた。 AC人格を根絶やすことが目的だ。 ではその目的は何か? それが、「人間に戻る」ということなのだ。 「人間になりたかった」 ずっと無視してきた自分の声を、必死に、拾うこと。 自我復元とは、「生き方」である。 今、私が死んだ時のビジョンを設定するのなら、 その時点が、最大に生きているクライマックス、というものだ。 それを実現するにはどうすればよいか。 眠りこけないことだ。 1秒も眠りこけないことだ。 「1秒も」だ。 私は、今、人間とはどういうものだったのか、 思い出しつつある。 1秒すら、眠りこけるなど、 未来のビジョンに予定していなかったのが、 「人間」だ。 私は今やっているこのワークを徹底的にやるつもりだ。 「人間に、絶対に、なるために」 ◆◆◆ 以下、中心と球体のワークの、現時点までの 実践記録として、報告文の中から、抜粋してみたい。 ◆◆◆ 私が「私だ」と思っているそれは何だったか?ということですが、 一言でいえば、「受信機」のようだ、と思いました。 快も不快も受けとる「ただの受信アンテナ」です。 サンドバックとも言えます。あるいは、誰かに都合のよい抱き枕かもしれません。 それが、私にとって、自分だと認識していた私自身でした。 ・・・ 私がこれは自分だ、というもの、これが最も自分に近いものだ、という その自分は、この技法をやりはじめてから10日近くは、ずっと胸と喉の 真ん中あたりに窮屈に圧迫されつつも、そこを「安心」と錯覚する私がいて、 しかし一方、「脳の中心」ということが桜の間に書かれていましたが、 私には、どうしても、中心はその胸と喉の間にありました。 ただ、おかしいのは、にもかかわらず、 それは自分とはまったく距離がある、という認識が同時にあり続けました。 じゃあ、この胸と喉の間の「私」とは、何か?という問題です。 ・・・ 能動的であることは、受動的でないことだと思いました。 見る、ということは、受動的でサンドバックのようになっている私との 自己同化があってはできません。それは「見て」いません。「感じている」だけです。 ただ、私は、その「感じている私」が、「私」だと思ってきました。 ・・・ この「私」という誤認の位置は、受信機として40年以上、機能してきたものです。 そして思いました。これこそが、私が自我復元をやってきて、最初から ずっと大きな「違和感」と感じ続けてきたものです。つまり、私本人との距離です。 距離とは、それは私ではない、という認識となっているものです。 ・・・ 先日、呼吸をともなう技法が書かれた時、それをやってみて感じたことは、 書かれていた通り、ふらふらしていたボールが安定した、という感じです。 海に浮かぶブイに、アンカーがついた、そんな感じです。 その日の夜、はじめて思ったことがあります。 それは、「私は生まれてはじめて休んだかもしれない」ということでした。 このあたりのことや、自動性について、また、与えられること、 こういったことは、今もなお、模索中です。リアリティーは明滅しています。 ・・・ ただ、今までの経緯として言えることは、 どうも私は、この胸と喉との間の受信機のようなものと同化しやすい、 ということです。そこを安心と思ってしまう私がいるのは確かです。 それは私のAC人格そのものの性質のように感じます。 それが今のところ思うのが、「あんたの言いなりになっているんだから、 私を安心させてくれよ」という、従うから飴をくれAC人格であり、 まさに毒父が植えつけた恐怖由来の飴のもらい方だ、ということです。 しかし、それと「私自身」とは距離があるのは確かでした。 明らかに「異物」に思うからです。それが最も私に近いと思ったとしても 異物は異物です。「脳の中心」ということが書かれていましたが、 そう書かれていたからそうなんだ、ということはしたくなかったので、 その異物に留まることに、一日、10分から30分、時間をかけました。 技法として留まる、ということ以上に、その異物感のある「私」を 意識しながら生活をしてきた、という思いです。 そのようにしていくなかで、では、自分の中心はどこか、となると、 私はあまりどこか?と意識するよりは、その異物が異物であることを 認識し続けると、「異物と感じている今の自分」に意識が移っていくようです。 すると、いつも感じるのは、どうも上の方に「それを見ている主体」が あるようだ、という感覚でした。引っ張られる感覚も生じ、 それは頭の方に近づいていきます。頭部の存在が、強く意識され、 言い換えると、頭部以外は、おまけのように感じ始めます。 では、頭のどの辺りか、となると、これが、消去法のような感じで 「ここだと距離がある、ここでも距離がある」そうやっていくと、 確かに、脳の中心、鼻の付け根である目の奥の方、しかし奥すぎず、 前すぎず、という「点」になります。 ただそれは海に浮かぶボールのようになんだか、ふらふらした感じが ありました。それでも、やや安定した感じを自分で感じていた頃に、 「呼吸で安定させる」ということが桜の間に書かれていましたので やってみると、確かに、安定した、という感覚があった、ということです。 ・・・ ・・・ ・・・ (ここまでが、1回目の報告9/21からの抜粋です。 次は、2回目の報告10/2からの抜粋です。) ・・・ ・・・ ・・・ AC人格の中心と、自分の中心の二つに中心が分裂していて、 AC人格とわかりながらも、どうしてもそちらの中心がメインに意識 されてきたのでしたが、そっち(AC人格側の中心=胸と喉の間の受信器) への関心が薄れていっているようで、その後も、 そこへの自己同化を見ているのですが、その自己同化が起こらず、 無理に自己同化させようと試みても、胸と喉のそこ=自分、というふうには 感じなくなっています。「頭のほうの中心」「一つ」というように感じます。 ・・・ 頭のほうに中心があると感じている、ということではなく、 少なくとも、「これが最も自分に近い」と思ってきたその胸と喉の間の 受信アンテナと、「同化したくない」という意識が続いている、ということです。 いらない、と拒否している感じです。 ・・・ その頭の中心に、 圧力のような存在を感じるようになってきました。 それまではまったく無かったので、はじめてです。 ただ、これは、いつもコンスタントに、ということでなく、 今のところは、あまり、自分のコントロールにあるとは言えません。 ふと、そうなる、というほうが、傾向としては強いです。 ・・・ 最初に感じたことは、 頭皮が「ピリピリ」と弱くしびれたことです。 ・・・ 「磁場」のようなものは、やはり、「頭の中側、内側」にあるようです。 「内側から、頭の縁が刺激されているためになっている現象」に感じます。 ・・・ 今回の中心で休む技法は、自分の課題、それは、 現実的な意味で、自分にとってリアリティのあるものに感じます。 しかし、あまりそれを意識しすぎると(しすぎてしまっていますが)、 いつも思うのは「休む」ことを忘れてしまいます。 それにはっと気づきます。 この「休む」ということに関しては、 いまだ、休めているとは思えません。 中心を探ることに注力していることに気づきます。 ただ、ここ数日、それだけに注力する傾向は薄れつつあります。 おそらく、中心がはっきりしない場合であっても、 「中心というのがある」という感覚に疑いを持たなくなりつつあるためだと 思います。 先日から中心に圧力のようなものを感じる時のことをもう少し 詳しく書かせていただくと、感覚として、圧力なのでしょうが、 「重力」と表現するのが、なんとなくしっくりして好きです。 「重さ」を感じるからでしょうか、感覚というか存在の圧感です。 (圧感という言葉などないと思いますが) ・・・ 作業をおもに目を閉じてやっているのですが、 不思議なのですが、「あ、中心に重力感がある」とふと思う時は、 どうも、目を開けている時が今のところ多かったように思います。 もちろん、それはたまたま、ではなく、目を閉じての作業の一連の中で しばらく経った後、目を開けていた時、といった感じです。 不思議ですが、仕事帰り、それはいつも夜中の2時頃になるのですが、 ある通りのある場所で、立て続けに、中心の圧力の存在に気づきました。 帰宅の夜道は静かなので、そこでも、歩きながら、(ぶつからないように 時々目を開けながら)、中心で休む技法を15~20分ほどやります。 そのある場所ではたまたま目は開けていたのですが、圧力が強まりました。 ・・・ 今までのところ、私が最も自分でつかみやすい感覚は、 「意識が引き戻る感じ」です。 順序が逆かもしれないのですが、 意識が引き戻ることで、中心が「ぼんやりとであっても」「思い出され」 我にかえる、そんな感じをいつも感じます。 中心を意識しすぎるのか、「中心、中心」という意識が潜在的にも 強い時は、そもそも、この「意識が引き戻る感じ」でなく、 どっかに出かけてしまっているのです。 それでふと「あ、そうだ。ここだ」と戻ると、そこにこそ、 中心のような感覚が待っているのです。 昨日今日のことなので、まだあやふやですが、 だんだんと、今もですが、 「意識が引き戻る感じ」に私が意識するだけで、 頭皮が薄くピリッと感じると、その瞬間、同時に、 頭の中の真ん中らへんに、「重力の存在の圧感」に気づくことが 出来るようになってきているようです。 これは、今後も経過を見ていく必要がありますので、 あくまでも、昨日今日の話です。 ふと思うのですが、今までは、胸と喉の間だけでなく、 「自分」という時、それは、首から下の身体全体の部分を含め、 すべてそれらは自分、という感覚が当然だったと思うのですが、 中心で休む技法をやりはじめてから、首から下に、あまり意識や関心が 向きません。もちろん、それは一日中そう「頭だけ人間」のように感じている わけではなく、仕事中など、全身を使っているわけですが、 自分一人になったときに、という意味では、頭だけ人間のように、 それは極端かもしれませんが、そう思う時があります。 ・・・ 目を閉じていることと開けていることについて思ったことは、 目を閉じていたほうが、おそらく圧力の存在を「はっきり」感じやすい のだと自分でも感じるのですが、その中心が見当たらない時、 どうも目を閉じていると、おそらく「目を閉じている分」私の場合、 妄想が幅をきかせやすい傾向があるようです。 以前、崩残さんが言われていたと思うのですが、 目を閉じることで、妄想が起こりやすくなります。 といって、では、目を開けているのがいいのか、というとそうではなく、 「中心に圧力を感じている時」は、目を閉じても、ちゃんとあります。 むしろ、目を開いていると、「気化するように、均一に薄まっていく」ような 密度の分散があり、目を開けているのがデメリットに感じることもあります。 ・・・ 球体状の部屋のイメージについてですが、 最初は、なにか、この球体をイメージする「一人部屋」を思うだけで 「安心する」ような気がしました。 中心がわからなくても、なにか、安心したのです。 ただ、これは、気分主義のようなものでもあり、 イメージから与えられる安心で、あまり、それに固執したく ありませんでした。 それでも、イメージは続けています。 ・・・ それでも、今までイメージはしてきたのですが、 一番ゆらゆらするのが、「大きさ」です。 ・・・ 呼吸のイメージで、ということですが、 これも昨日反省したことは、 今までは「なんとなく息を吸っていた」ことに気づきました。 意識的にやっていたつもりでしたが、中心がわかりはじめたとき、 これはもっと、ゆっくり、正確にそこまで持っていく必要がある、と 感じました。そうでないと、ほとんど、意味がないように思いました。 今までどうも勘違いしていたのは、 その中心の高さの位置を「少し下」に捉えていたようです。 ですので、呼吸をすると、途中でその道筋が枝毛のように分かれてしまい、 到達点がわからなくなる、ということがいつも起こりました。 「もっと下なのにな」という思い込みがあったのですが、 それはどうも思い込みで、目の高さより「やや」上め、というのが おそらく今のところ捉えている位置です。 最初思いこんでいたところは、今思うと、鼻の穴の高さぐらいで、 ちょっとそれは低すぎたようです。 前回報告させていただいた時は、呼吸がアンカーのような感じで 安定してきた、と書かせていただいたのですが、 それからは、結構、呼吸のイメージは、不安定な毎日でした。 吸っているのに、呼吸が外に出ていってしまっているようにも感じたりして とにかく、よくわからないことが多かったです。 今もこの呼吸のイメージが強い助けとなっているわけではないのですが、 目と閉じて中心に正確に導くようにすると、呼吸の軌道が しっかり定まる、といった感覚はします。 ・・・ 「意識に引き戻る」というのが、自分にとってわかりやすいと感じる要因の 大きな一つと思えるのは、この状態は、関心地図をやっているとき、 「自分に意識が戻る時」、つまり、関心の対象に意識が飛んでいってしまって いる時でなく、その関心の動き自体を監視する位置に戻る時の、あの状態に 酷似しているからだと思います。 関心地図についてですが、最初、すごくわからなかったのは、 かつて記事の中で、「その関心が消えるところまで見届ける」というものが あったと思いますが、関心を見届けようとすればするほど、 その関心から頭が離れない、これが記憶から消えるまで、というのは いったい、どういうことだろう?と、かなり、悩みました。 これも、ここ一ヶ月ほどでしょうか、だんだん、わかりかけてきたのは、 関心が消えていく、というよりも、 「私が、その関心から引いていく、引き戻ってくる」ということが、 つまり、関心先に出かけていってしまうのでなく、 「関心という遠くの事象」から元の位置に戻る、ということが、 実は、「見届ける」ということだとわかってきました。 今までは逆だったのです。 関心が一番近くにある。 それを遠くに押しやろうとする、そして消えろ、とやる。 それを確認することが「見届けることだ」と。 そう思ってきて、やってみても、かえって、それに捕らわれる。 その繰り返しでした。 誤解していたのは、 「関心」のほうが、「遠くに」あるという事実に 気づいていなかったことです。あたかも、関心が原点にあるかのように そこからその関心を追いやろう、としていたことになります。 ・・・ ・・・ ・・・ 『(後半)心臓から血がほとばしるかのごとく』に続きます。 後半では、3つ目の報告10/9を、一部を編集し、ほぼ全文を掲載します。 2015.10.11 Aby 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by jh-no-no
| 2015-10-11 09:21
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