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③鎖と怪物

「②鎖と怪物」の続きです。


・・・


Pの母親、P、これを血祭りにあげてきた。

そして、これから血祭りにあげていくのは、
残る一人、毒父、真に許すべからず者を、だ。

これを書くために、この「鎖と怪物」を書いてきたといってもいい。

この8月は、仕事での復讐心、今もなお、毎日仕事していて
「ああ、反応しているな」と思いながら、それでも直視し、解除しようと必死なこの復讐心が
いったい、どこから発生しているトラウマなのか、それは日々の現実のどうにかすべき問題だった。

昨日、それでも思ったことがある。

この仕事、いつまでやるかわからない。
だけれど、私は、

「絶対に、仕事を好きになってこの生を終えたい」

と思った。仕事が本当は大嫌いだった父。あなたが私に埋め込んだ歪みは
あまりに大きい。だけれど、きっと私は、仕事を好きになれるだろう。
いや、本当は、「嫌いだ」というこの毒父の声を解除していく、ということだろうが、
その中で、きっと、私はこの生を、自分の生として、旅し、謳歌し、
全身全霊で生きていけるものと、私は信じている。
最初にも書いたけれど、そういう思いを阻害するものを、
私は許さないだろう。

今も、私は、このけだるさが私を奪っていくものと闘っている。
ACとの闘いは、思い返すといろいろなタイプがある。
刺すように殺してくるような決死の闘いもあれば、
真綿でじっくり絞め殺すような闘いもあった。
それはいずれも苦しく、しかし、そこにあったのは、
闘っている自分だったのであり、こういう経験が、「今生きている」という
私がこの生で経験したことがなかった、ああ、本当にこれだけは経験できてよかった、
とそう思う自我復元であった。

昨日、今日、私に襲い掛かるACの手口はそれとは違う、
非常に嫌な、本当に嫌な、タイプだ。
たとえると、手術台に寝かされて、麻酔無しで刃物で刺されるのが
先ほど書いた前者で、酸素がだんだんなくなって苦しくなっていくのが後者だとすれば、
今度は、麻酔を打たれ、無力化され、立つ力がだんだん奪われていく、
そういうものとの闘いだった。

しかし、「それでも」とあがき、寝こけてなるものか、と
目を見開き、希望のほうでなく、許されざる事実のほうだけを見ていく。
それが、今の私だ。

「どうでもいいんだ、別に」

ボクはそう思っているんだ、じゃない。
そうではなく、誰が、私をそういう無力で、使い物にならない人間に
薬漬けにさせて、殺したのか、それが問題なのだ。

話がそれてしまったが、Sさんとの衝突から始まり、Rさんがらみの妄想、
この数ヶ月はそればかりだった。その事実直視と分析に多くの時間と労力を費やした。
結果、その復讐心は、すべて、毒父の「おじちゃんへの恨み」、ひいては、
「ババへの恨み」の感染、感染といっても、それは実際の、子どもの頃から日常生活のなかで、
両親のそういう歪んだ顔と会話が、私の仕事観を形成してきたことを見てきた。
これはとても影響力の強いもので、今なお毎日が格闘中だが、
先ほど書いたように、私は、仕事を嫌いでは終わらせない。

そして、投稿①と②で書いてきたのが、
「依存心」をテーマにしてきたものだ。
この人生、私のものではない、恐怖心と依存心と復讐心、「毒父の」それらを
私は生きるように強制されているというのが「事実」であって、
ありとあらゆる「飴」は、ただの「飴」だ。

元にあるものが、これらへの強迫観念なのだから。
思い描く理想や希望など、その強迫観念の一反応でしかない。

そして、③でいよいよとりあげるのが「恐怖心」だ。

結果、私は、この毒父を

「怪物」

と認識した。

自分の上にいる私を罰することのできる得体の知れない存在。

これが、怪物、である。

そして、私はこの怪物に「失せろ」と本当に言える力をとり戻すこと。
これが、自分を取り戻すことだと考えている。

「どうでもいいことだ、別に」

で済ませられる問題と済ませられない問題がある。
それは「AC人格でも」という意味でだ。

どうでもいいことだ、と無気力になって、
刹那の快楽で誤魔化せるのには、限界がある、ということだ。
これは、死後、それが露骨に見せつけられることになるだろう。

一つ言えることは、
死後は、いや、死後でなくてもそうなんだけれど、
絶対誤魔化せないことがある。
それは、自分が思っていることは、嘘はつけない、ということだ。

こういうことを実感した出来事を今から書きたい。

かつて、罪悪感というのを掘ったことがある。
その時、どうしても上手く書ききれなかったことがあった。
なぜなら、今はそれがわかるが、それは恐怖心からだった。
ただ、それは、あまりに怖いことだったので、
恐怖心を見たくない、とすら考えもしないでスルーした、というのが正しい。

先日、私は、この恐怖心はどうしても掘らなければならない、と思っていた。
それは何だかわからないが、とんでもない恐怖。
妄想だけで、完全にとり乱す恐怖だ。

拷問が怖い、という話は何度も書いてきたけれど、
私が恐怖している話がある。
これは、どこできいたのか定かではないが、
ある女帝にまつわる話だったと思う。

愛人をとられたことに怒り狂ったその女帝は、
その女の手足を切断し、目をつぶし、耳も聞こえないようにさせ、
しゃべれなくさせ、井戸のようなところに幽閉し、汚物のようなものを食べさせられ、
気が狂って死んでいった、という話だ。

私がこれを思い出す時、
実は、本当に恐怖なのはこれ自身ではなく、こんな妄想を私が展開させた時なのだ。
それは、

「ざまあみろ」

と、「頭の中で思ってみる」という妄想だ。これだけでも、私はとり乱しの極にいる。
ここを私は今回、何が恐怖なのか、思考停止せず、掘ってみようと思った。
この恐怖はおそらく私を絶対に最後は奈落の底に落とすことのできる強迫観念だと
思ったからだ。

そして、何が怖いのか、そこで、「自分もこういう目にあっていい」と心の中で言った時、
足、身体、全身から血の気がひいた。さらに、「あと3秒以内にそれは嘘です、と言えば
許される」というのをやってみる。3秒たっても言わない、ということをやってみる。
この時点で、相当な恐怖だったと思う。しかし、とどめの恐怖は、私がこういうことを
心の中で言ったときだった。

「そういう目にあう生を契約する」

もう、契約す・・・と思った瞬間、私は、今のこの人生の天と地が反転するほど、
「なんてことをしてしまったんだ」という、「取り返しをつかないことをしてしまった」という
強烈な恐怖で完全に一色になり、私は、部屋の中で恐怖でどうにもならなくなった。

早くキャンセルしなきゃ、と思いつつ、しかし、
私はキャンセルしなきゃではなく、この恐怖が何なのかを知りたかった。
正直、調べよう、などという心境ではまったくなかったが、それでも、
私は、この自虐的な展開で遭遇する恐怖は、私にとって絶対に無視できないものなのは、
私自身が一番よく知っていたから、どうしても、「嘘です、許してください。聞き逃してください」
とは言いたくなかった。それで楽になることは知っていた。

崩残さんからも、もしもこんな話をしたら、
なんでそんなことをしたんだ、心で唱えただけでも契約は契約になってしまいます、
と言われるだろう、とか、また、そもそもが、崩残さんに話して、
大丈夫と言ってもらいたい、とか、そうやって怖いから話そうとするんだ、とか
あれこれと、それは、ある意味、「予想通り」の妄想が展開した。
だからこそ、予想通りだからこそ、これは解決しなければならない問題だった。

ここからは上手く書けるかわからない。

ただ、のたうちまわった末、わかったことは、
そもそも、このずっと続いた妄想のすべては、
「私が作り出しているものだ」ということだった。

これは、職場でのAC人格を見る時もよく思うことだった。
Rさんから私はいじめられている、外されている、と思うけれど、
それはどう考えても「妄想の中で」起こっていることで、
現実に起きていることではない、という認識。

そして、まず私が思っていたのは、この
「どうしてこんなことをしてしまったのか」という恐怖心と、
「取り返しがつかないことをしてしまった」という恐怖心が何なのか、
という問題だった。

自我復元を始めてから、一度、事件を起こしたとき、
私は崩残さんから消される、抹殺される、と思った。
いや、これはいつも思うけれど、そういう恐怖は、消されるとか抹殺されるとか、
冷静に言葉でなんて考えていないし、今も、言葉で考えた実感はなく、
ただただ、本当に何も食べられなくなったという経験が、これが人生初だった。

この時も、同じことを思ったのだ。

「どうしてこんなことをしてしまったんだ」と。
それは、自分が思ったともいえるし、崩残さんからそう言われている、とも思った。
どっちがどう、なんていうんじゃなく、「なんてことをしたんだ」というその目の前が
真っ暗になる体験に、生体反応をすべて失った、という経験だった。
「取り返しがつかないことをしてしまった」と考える頃は、少し、そう言葉に
出来るだけでも、思考が少し動き始めた時かもしれない。そこで恐怖は固定される。

タイムカード不正事件の時も、今思えば、
これと同じことが起こっていたのだ。
随分前のことになるけれど、崩残さんに、この事件のことと、
もう一つ、ブログには書かなかったけれど、自分の妹にしてしまった過ちについて
まるで懺悔のように、とり乱し書いたメールがあった。
思いがけず、それがきっかけで、毒父の毒のメスが入り、今に至っているのだが、
この時、自分ではわかっていたけれども、とくに言わなかったと思うのは、
これは何を想定して怖がり、崩残さんに自白したのか、という点だ。

それは、私は死後のことを恐れていた。

こんなことでしこりを残し、死後、後悔や恐怖が煽られ、
「あなたそういうことをしたんですよね」と言われたら・・・と思うだけで
自分はコントロールを失うことは自分でわかっていたから、
もしも今、崩残さんに自白しなければ、
「なんであの時言わなかったんだ」という、これもまた、
「なんでそういうことをしたんだ!」という恐怖に、私はその時、耐えられなかった。

これは程度を薄めながら、
やはりどう考えても、私の中の恐怖と同質のものになっている。
だから、今回はどうしても掘らなければならなかった。

こういう内容的なことを、のたうちまわりながら考えながら、
しかし、これが少なくとも、「私が作り出しているビジョンだ」と気づいてから、
ある時、もう一つの、決定的な事実に気づいた。

そもそものこの妄想の前提に、
私は、ある存在、後に「怪物」と認識することになる者、
「私を裁き、罰することのできる、得体の知れない存在」を想定していることに気づいた。

そういう存在が、いる、ということ。

その存在を想定しなければ、
そもそもこの妄想は妄想として成立しない、と思った。

「ナンデソンアコトヲシタンダ」
「トリカエシノツカナイコトヲシタ」

という言葉だけでは、そこに恐怖があるわけがない。

その裁きを与える存在が、死後もいて、今も聞いている、という
大前提がある。

ここまで思うまでには相当時間がかかったが、
それでもそうだ、と思ったことは、
この存在が、私に「許す許さない」のジャッジメントを与えていた。
「私」は、その存在と対話していた。

その「私」は、他ならぬ、その存在を作り出している「私」だった。

それが、実の私ではない、と至る。

死後、もしも、

「Abyさん、あの時、心で思ったよね。
それでも成立するんだよ」と言われても、私はこう言うだろう。

「失せろ」

と。なぜなら、目の前のそいつは、私が作り出した「虚像」だからだ。
拷問だろうが何だろうが、私が「選んだ生」なら受け入れるだろう。
なぜなら、自分で受け入れると決めた生を、自分の生というからだ。

しかし、お前は誰だ?

私は私の意志で選択する。

それ以外は、私は一切従わない。

自我復元を始めてから2年半、ようやく、この宣言に近づいた。

最後に血祭りにあげるのは、毒父、お前だ。

この巨大な「怪物」は、誰だったか。

そこがようやくピタとつながった。

「なんてことをしてしまったんだ・・・」と血の気を引かせて、
「取り返しのつかないことをしてしまった」と思わせ、
「だから、〝あなた〟に自分はどうされてもしょうがない」と思わせ、とどめを刺す。

その〝あなた〟は誰だったのか。

私はそれが毒父とつながったとき、
この私に裁きを与える者を「怪物」と認識した。

私を罰することのできる人、それが毒父だった。

物的証拠はほとんど残していない。
もはや完全犯罪とも言えるほどに、父はありとあらゆる洗脳を
格言などを乱用し、「美談」にすりかえることに成功した。

しかし、あなたの目は、親の目じゃない。

「親に従わないやつは、殺す」という目だ。

あなたは、本当に、そう思って私と接したはずだ。
とくに言葉が通用しない幼少期、そうしたに違いない。
そして私に植えつけられたものは、

「逆らったら、殺される」

という恐怖だ。私はあなたに逆らうことだけは考えもしなかった。
あなたは、一言もそう言わなかったし、手もあげなかった。
しかし、この「なんでそんなことをしてしまったんだ」という恐怖、
「取り返しのつかないことをしてしまった」という恐怖は、

「あなたから」

与えられている恐怖だ。

それは一言でいえば、

「許さない」

というメッセージだ。

それがどれほどに巨大なものか、
あなたにわかるだろうか。

「許さない」などと
他人に言ってよい存在がいてはならないのだ。

それは、他人に、子どもに、
自ら自分自身が、自分の主であることを、
その当然の権利を奪うことなんだ。

親は絶対だ、というあなたがそう思いたいから、
絶対の親になる。そのために、あなたがやったことはなんだ。
あなたの目は、殺意に満ちている。

「逆らったら、殺すぞ」

それ以外の目で、子どもだった私を見たことがあるか?

私は、ない、と断言してあげよう。
あなたに自覚など求めていない。
それはPに泥棒との自覚など求めていないのと同じだ。

ただ、事実は、

Pは泥棒であり、

あなたは人殺しだ、

そういうことだ。

桜の間で、死後、真っ暗な空間に閉じ込められたら、
誰かを求めてしまう、それをしでかしてしまう、と書かれていたのを思い出した。

誰か、と。

これも、かつて別の設定で桜の間に書かれていたと記憶しているけれど、
真っ暗闇に投げ込まれたとき、「誰かいますか?」というのが、
ようやく、人間として、決して当たり前の反応でないことを
今回初めて知った。

そう、

「ここはどこだ?」

これが、少なくとも自問する最初だろう、と。

それはどういうことか、というと、
そこに「私」がいる、ということなのだ。

誰かではなく。

人生の、人生でなくても、これからの航路を決めるのは、
「私」という一人の主人しかいない。

どうしたらいいんだろう、ではなく、
どうして、どれもできる、あれもこれも、ああなんていろいろなんだ、
楽しいし、苦しいし、わあ、めっちゃ、どうしていいのかわからないよ!

という意味で「どうしていいのかわからないよ!」と
ワクワクする心持ちで、なぜ未来を見られなくなったのか。

それは、それを感じる私がいないからだ。

ずっとその「怪物」の顔色をうかがってきたのが
今までの私の生ならば、私はこの先が何も見えない真っ暗闇でもいいから、
それでも、「私一人」が、この舟の漕ぎ手でなければならない。

それは、まさに、

「ここはどこだ」

から始まるのだ。



2015.08.31
Aby

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by jh-no-no | 2015-08-31 23:54 | 復元ノート 1


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