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(前半)今日のこと

今日のことを、復元ブログに書いてみたい。

この投稿記事を書き終える時は、翌日4日になってしまうだろうけれど、
今日、7月3日は私の誕生日で、昨日くらいから「だから何だ」って
ずっと思いながら過ごしてきたけれど、今、一日が経って振り返ると、
そして今もなのだけれど、

「生体反応を失いたくない」

という気持ちが、ずっとあった。

生体反応を失いそうになる、というのは、

「もうダメだ、今の自分はダメだ」

という思いと自己同化してしまって、
そういう自己否定を疑いなく思いこんでしまって
そこから離れられない・・・というより、
完全に自己同化してしまっているから、
離れる、という立ち位置すら思い浮かばなくなる。
そんな状態だ。

でも、このところよく思うのは、
この生体反応がない、とか、自分はダメだ、とか、
自分は間違っているかも、とか、妄想から離れられない、とか、
こういう認識自体、

はたして、正しいのだろうか?

と思うことがある。

なんとかしよう、としても、
その「なんとかしようとするやり方」が、いつも、おかしい。
妄想に対して、妄想でなんとかしているような
そんな言葉遊びのような不毛感がある。

だから、これはへんだ、
何かへんだ、といつも思う。
これは格闘ではない、と。

ここ数日も職場でいろいろあった。

休日保育の充実を行政に訴えるための署名をしろ、だの、
買い物袋をゴミ袋に使うのはダメでしょ、と言われたり、
こういったことに対して、私は、その咄嗟の場面では動揺してしまうのだが、
これらに対して、今回は、

「自分はどう考えるのか」

をその場で短い時間であろうと考えることができた。
むろん、その場で結論せねばならないことですらなく、
ゆっくり考えてもよいわけだが。

肝心なのは、相手の意見を言いくるめるとか、
反論するとか、肯定するとか、そういうことでなく、
「自分の頭で」考えることだった。

このことが最近、次第に、わかってくるようになった。
今まで桜の間などで、「自分の考えも、それだってすべて借り物だ」などというのは
通用しない、ということを何度も書かれていたけれど、それを体験したことは、
私は、実は、今まで一度もなかった。

「何が正しいのか、何が間違っているのかわからない。
完璧などない、正解などない」などと、私の父はよく言っていたし、
私もまた、父以上に、その考えを「妄信」していた。

自分の頭で考える、という経験をすることで、
そういう妄信は、何が原因かがわかった。
それこそ、自分で考えていないことが原因だった。

ああ言えば、いや、こういう考えもある、だとか、
別の視点もあるからそれがすべてじゃないとか、
こういうことを熱く語る人がいる。
父しかり、そして、私こそ、そういうタイプの人間だった。

そして、こういうタイプの人間は、結局、何が正しくて、
何が間違っているのか、を、実は、一番気にしていながら、
いかに自分は間違っていない「可能性が高いか」だけを自慢する。
そういう人生をずっとずっと送り続けている。

私は買い物袋をゴミ袋に使っていて、
これは捨てるのはもったいないし、ゴミ袋を買うくらいなら
買い物でもらう袋を毎日のゴミ袋にして、数日まとまってゴミの日になったら
それを一つの市販のゴミ袋に入れて出せばいい、と思っていた。
だから、買い物をしたら、少し大きめの袋をもらっていたのだが、
たまたま、今回、それを「ダメでしょ、ゴミ袋に使うのは」と言われて、
えっ?と最初は動揺してしまったが、だんだんと、こう、頭ごなしに言われたことに
すごく違和感を持った。

しばらくこの違和感を感じとり続けていた後、
わかったのは、この「頭ごなしさ」だった。
どうして、そんなこと、何も私のことも知らず、私に何も訊きすらもせず、
ダメだ、などと判断できたのか、判断できるのか?と思った。

その人は、職場の上司だが、ある時、動物保護の問題についての雑談で、
「イルカを大事にしたい、っていうのなら、サバは?鮭は?どうなのよ。
殺人者はどうなの?そこまで、そういう人は考えてるわけ?そこまで考えても
いないでしょ。ただ、自分の好みでイルカだけを大事にしたいんじゃないの?」
みたいなことを熱く語っていたことがあった。そのことを思い出した。

私がまさにこういう人間をずっとやっていたから、
何を言っているのかはわかる。
だけれど、この異常さに気づいたのは、本当に最近になってからなのだ。

「自分の考え」

が、「ゼロ」なのだ。

自分の考え、というか、「自分で考えようとする姿勢が」無いのだ。
一見、いろいろな視点でいろいろ考えている「ように」見える、が、
実は、何一つ、「自分で」など考えていないのだ。
これは、おそらく、本人は、自覚することができない。
なぜなら、自分で考えたことがないからだ。

やっと最近になって、自分で、というのはどういうことか、
それは、まったくゼロから考えることなのだ、ということ。
かつては、私は、「それはありえない」と思っていた。
既存の知識の組み合わせでしかない、と思っていたからだ。

当然、それは、そうなのだ。
何も、インスピレーション、とか、無から生み出す、とかではない。
まったくゼロから考える、というのは、決して、そういうことじゃない。
その素材は、当然、既存のものであったり、ありきたりのものだったり、
あるいは、別に正しいものとは限らず、仮定だったり、憶測だったりもする。

それでも、

ゼロから自分で考える、

というのは、あるのだ。
それをやっと、知るようになった。

それは、本当はそういうことではなくて、

「ゼロから、つまり、誰にも束縛されず、
自由に考えてよい」という、そういうことなのだ、と。
ああ考えてもよいし、こう考えてもよい。
・・・ただし、自分の頭で、自分で考えなさい、ということ。

生体反応をとり戻すとき、というのは、
こういうことを思い出したときだ。
ただ、AC人格に飲み込まれているときというのは、
なんとか、「ある考え」や、ある特定の何か、に固執し、
そこにいることを正当化しようとし続けるから、
「別のように考えてもいい」という自由を、自分で、拒絶してしまう。
言い換えると、別のように考える勇気を持てない。
それを持とうとすれば、生体反応を失っていき、
たとえば、それは眠くなる、とか、そういう生理的な妨害も
当然のように容赦なくAC人格は仕掛けてくる。

話は戻り、生体反応を失ってゆき、
自分はダメだ、今の自分は、今の自分も間違っているかもしれない・・・
そんなふうになっていく時、

「そこ」

が一番の踏ん張りどころなのだが、

そこで問われる。自分自身から。

「それでいいのか」

だ。そしてもしもそれでよいわけがないとなった場合、
では、どうしたらいいのか、と当然、自問することになる。

こういうことをここ最近はずっと職場や生活のなかで
やってきたように思うのだが、今日、それをあらためて
今日という一日を振り返り思うとき、その自問に対する私の答えは、

支えが何ひとつなくても、

「自分で考えろ」

ということだと思った。

先日も思ったが、自分で考えないから怖いのだ。
これでいいのかどうか、間違っているかもしれない、とか、
正しいと思うんだが・・とか、この心理の背景には、必ず、恐怖、不安がある。
自分で考えてはじめて、対立することもできる。
自分の考えをもって対立が起こることは、決して、恐怖ではない。
もちろん、どうなるだろうか、という不安は当然あったとしても、
それは抱いて当然な不安や心配であって、何の根拠もない妄想からスタートした
ただの捏造してしまった不安や恐怖とは、ぜんぜん、違う。

少しずつだけれど、私は、そういう対立から予想される困難すら
ワクワクするようになってきている。
それは、自分の舵をそこでもとり続けるはずだ、という
自分自身に対する信頼があるからだと思う。

生体反応を失いそうになり、実際、AC人格が攻撃してきて、
生理的にもやばい、と思うときに、「その時こそ」、
自分による意思決定が、重要になってくると感じた。

その真っ只中、というのは、
本当に、何の支えもない、と感じるし、
自信とかそんなのは、正直、ひとかけらもない。

私は昨日、ああ、3日は誕生日だな、と思いながら、
でもなぜか、何もかも、力が行き渡らない、と思う場面が多く、
これもダメだ、あれもダメだ、どれも中途半端だ、と
こうやって自分がダメに感じるのが、怖かった。
でも、やはり、私は、「そのままでいい」とは思えなかった。

生体反応は、自分でとり戻さねばならない、と思った。
自然に戻るのを待つ、とか、そんな選択はなかったし、
自然に戻ったように感じる生体反応など、
私が「とり戻したい生体反応」ではなく、納得がいくものでない。
自分で、自分の力でとり戻したと思えなければ、
そんなの、納得いくはずがないからだ。

ここ数ヶ月を振り返ってみると、
その訓練を、本当に少しずつ、私は毎日きついのだけれど
それでも、やっている「日記」が、私にとって貴重な訓練となっている。
さっき、稽古から帰ってきて思ったけれど、やっと日記というのが
少しずつ、書けるようになってきた。

「今日は何をした。これをしてあれをした」

くらいの内容なのだけれど、これが、私には書けなかった。

なぜ書けなかったかが、今になってわかる。
なぜ、私は日記を書いたことがなく、嫌いだったのか、も。

それは、驚愕すべきことだが、

私は、自分で何かをしたことがなかった。

「自分で」何かをしたことがない場合、
日記に書けることなど、あるはずがないのだ。
たとえば、今日は稽古に行った、ということすら、
自分が行こう、と思ったものでないのなら、日記には書けない。
無理に書いても何も面白くもない。

だって、自分にとって、
「だから何なの?」って自分自身が思っているから。

でも、自分で行こう、今日はつらいけど行こう、とか
そうやってして行った稽古は、「今日は稽古に行った」と書けるのだ。

日記を書いていて思うのは、
こういうただの事実のように見えるだけの内容を書くときが
私は一番楽しい。違和感がないからだ。

実は今日、まず書きたかったのは、
生体反応のことというよりも、今日の稽古や甘酒作りのことだった。

今日の稽古は、正直、行くのがしんどかった。
なんとなく、体調が好ましくないように感じていて、
なんとなく億劫だった。でも、行こう、と思った。
行きたい、という気持ちのほうが強かった。

と思いきや、生体反応は失っていくように感じ、
どうしようか・・・と迷いはじめるころには、
生体反応を失うドツボにはまってしまう。

でも、こういう時、何も支えがない、と思う時、
それでも、「行く」と決める。
自分で決めるしかない。

生体反応は、ここを境に、とり戻し始める。

今日の稽古は、自分の体温を感じる時間だった。
これは以前にも同じような経験をブログにも書いたことがある。
まるでこれから試合に臨むかのような、緊迫感があって、
身体が火照り、熱い。

準備体操をするとき、目をつむってみる。
開けているときより、身体の部分部分の感覚が鋭くなる。
伸脚ひとつ、その動作に集中ができて、ぼうっとしなくなる。

こういう感覚は、「自分しかいない」というもの、でもある。
準備体操が終えても、この「自分しかいない」という感覚は続く。
対人攻防のなかであっても、やはり、そこには、自分がいるのみだ。
自分に焦点があたっている、といったほうがいいかもしれない。

こういう時間が続くわけだが、
この連続が、「動く」ということの楽しさそのものになっていて、
今、私は、合気道であるなし関係なく、やっているのは合気道なわけだが、
そうやって動いているのが、とても充実感を感じる。

誕生日だから何だ、と思いながらも、
今日(すでに昨日になってしまったが)、そういう時間を過ごせたことは
嬉しかった。

誕生日だから何だ、とか言いながら、でも
自分の中で、昨日から「この日を新しく書き換えたい」と思っていた。
それは、何かをする、とかではなく、ただ、書き換えたい、と。
それが、言葉にすると、生体反応を失うまい、という一日だった。

甘酒作りもやってみた。

これも、なかなかスタートするのが今回は億劫だった。
でも、やろうと思った。今回やりたかったテーマは、
火入れ(醗酵後に火を入れて醗酵をとめる作業)をしたものと
火入れをしないままのものが、どう、違うかを見ることだった。

火入れをすると、保存がきくようになる、ということになっていて、
甘みなども増す、と言われている。

じゃあ、やってみよう、というわけだ。

火入れしたものと火入れしていないものを作ったので
これから5日間に渡って、味などの比較をしていきたいと思う。

甘酒作りは、だいたい、8時間くらい醗酵するのにかかる。
プラモデルと甘酒はぜんぜん似ていない、と思ったが、
この時間がかかる、というか、時間をかける、のが、
私にはどこか魅力的に感じるのだ。

今これについて思うのは、
私は、まず、何事もじっくりやったことがなかった。
早くしなきゃ、あれもやらなきゃ、時間がない、あと何分だ、
そんなことばかりだった。
でも、これは逆に言うと、時間に決めてもらってきたことばかりだった。
前にも書いたけれど、今私が日々のルールで意識しているのは、
「ついでにやらないこと」だ。

これはやってみると、なんと、こればかりの人生だったか。
私の行動はまず、制限時間があって、あることをやらねばならないからそれをやる。
そして、そのついでに他もまだできないか、ついでにやれないか、と考え、
それとあれをやろう・・・こうやって来る日も来る日も繰り返してきた。

ついでにやらない、ということや、
今やらねばならないからやるしかない、ということをしない、
というのをやっていると、ほとんど自動的にやれることは
私の場合、無くなるのだ。

いかに、これだけで生きてきたか、ということ。

これをやり始めて、最近まで、すごく悩んでいたのが、
「やらねばならないこと」はどうしたらいいのか?
ということだった。

これは、数日前、ああ、そうか、と腑に落ちたのだが、
それは、ただ、とっととやればいいだけのことだった。
このあたりは、まだ、舵がとれている、とはいえない。

日常的に頻繁に気づいたら考えてしまっている妄想で
よくあるのは、「予定」だった。

ああしよう、次はあれをやろう、その時はこうしようか、
いややめておこうか・・・という「今後の予定」。
これが、妄想のなかでもかなり頻繁な妄想として私にはある。

ただ、これに対しても、ふと、思うのだ。
今、考えることか、と。
まだ、このあたりも、舵がとれないでいる。

今、書いているようなことが、日々、妄想の中心となっていて、
気がつけば、どうすべきか、これでいいのか、間違っていないか、と、
ああ、またどうしてこのループにはまるのか、と、いつも思う。
そういった中で、やはり、生体反応は失っていき、そういう

「元気がない自分」

と自分がぴたっと重なってしまうのだ。

でも、何度も書くように、元気に自然にはならない。
私が元気になりたい、と思ってはじめて、
生体反応を奪ってくるやつと、なんとか、ギリギリ、
立ち会うことができる。

今もそう。毎瞬、そういう場面だ。

勝つか負けるか、わからない場面なのだ。

ただ思うのは、ここで「これでいいや」としたら、
そこまでだなって。
それでいいって、自分で言ってしまったのと同じだって。
嫌なら、あがこうって思うようになってきた。
恥ずかしいとか思わずに。

甘酒のこと、もう少し書きたい。

私は、甘酒の原料っぽさに、今、ひかれていて、
あの味は、不思議だけれど、まだ8時間などぜんぜん経っていない時、
つまり、60度少しまでゆっくり加熱して攪拌した後に、すでに出てくる「味」があって、
私はこれが今すごく美味しいと思っていて、
なんとか、これが糖化が進んでも残ってほしい、と思っている。

この正体が何なのか、自分で追求してみたいと思っているし、
今日またあらたに感じたのは、火入れをすると、「栗のような」コクが出てきて、
これもまた、美味しい。これも今までにないものだった。

今のところ甘酒については、
ほとんど私は知識がない。
なんとなく知っているのは、70度以上にすると醗酵がとまってしまうから
温度管理には注意すること。また、50度くらいまで冷めてしまっても
糖化が進みにくいから、いずれにしても、温度管理に気をつけること。
これくらいだ。でも、だから、自分で研究してみたいと思っている。

それで、でも、今日、思っていたのは、
火入れの比較実験をするぞ、という目的もありながらも、
私は、実は、食べたい、という思いがすごく強かった。

甘酒のあの原料っぽいあの味を
食べたい!という気持ちがすごく強かった。
誕生日なんて・・・と思いながらも、誕生日に食べたいとも思った。

だって、本当に美味しいんだ。
正直、実験なんてやめちゃおうかな、ぜんぶ、食べちゃおうかな、と思ったくらい。

でも、実験は、やっぱりやりたかったんだよね。
だから、味見にすごーーーく集中して味わった。

原料っぽさ、というのは、いまだ、なんだかわからない。
ただ、だんだん舌が判別できるようになってきたのか、
糖化とともに「無くなる」わけではなく、様々な複雑な味や甘みそのものが
目立ってきて、隠れてしまっているだけかも?と思うようになってきた。


・・・


「(後半)今日のこと」に続きます。



2015.07.04
Aby


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by jh-no-no | 2015-07-04 04:23 | 復元ノート 1


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