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①命がけの自我復元

仕事中のイライラから、この6月は様々なことがわかった。

むろん、これは、今まで毒親分析をしてきたそのままだったわけだが、
大事だったのは、じかに、実社会でそれを体験し、自覚することだったと思う。

今回の投稿には、仕事のこと、Pとのこと、言葉のこと、自我復元のこと、
多岐に渡って書いていきたいと思う。

それらはまったく別のことのようでいて、
今の私にとって、どれもが大きな関心であり、
そのすべてに課題があるものだ。

仕事中のイライラ、それは、おもに仕事仲間であり、
同じ立場のパートといえど、上司にあたる者に対するイライラである。

先日も感じたことだが、
仕事中の気持ちの歪み具合は、あまりに酷いものだった。
よく、これだけ、醜い手口をとっさにとれるものかと愕然とする。
しかし、それは、それだけ、毒親、おもに毒父からの感染が酷い、ということだった。

他人を馬鹿にする、あるいは、他人を庇護する、
この裏に何があるか。仕事中に生じているものは何か。

何度かI商店の話を書いてきた。

これは、私の父が働いていたお店であり、
父の兄、また、父の妹もそこで働き、また、私の母も、父の兄(以下、おじちゃん)の妻も
そこを手伝い、同じフロアの一部をテナントとして他人にも分譲していた、そういうお店だ。

I商店はビルの1階であり、その8階に私たち家族は住んでいた。
また2階に、おじちゃんたちの家族も住んでおり、
そのおじちゃんと同じ階の同じ部屋に、父の両親も住んでいた。

正確に書くと、私が幼い頃は、離れの2階建ての家があって、
その1階に私たち家族が、そして2階に、おじちゃんの家族が住んでいた。
私は覚えていなかったが、母が言っていたことによれば、私が5歳くらいに
少し離れた位置にあるI商店のあるビルに引っ越しをした。

その時、父の両親がどこに住んでいたかが定かではないが、
たしか、私が暮らすことになった8階の管理室に父の両親が住んでいて、
私たちが8階の管理室に引っ越すときに、もしかしたら、そのタイミングで
父の両親が2階に移ったか、どうか、という感じだ。
詳しいところはわからないが、およそ、こうだったと思われる。

その時点では、父の兄の家族、つまり、おじちゃんの家族は、
まだ、離れの家にいたように思う。ある時点で、そこから、
すでに2階で暮らしている父の両親と、おじちゃん家族は暮らすようになった、
というふうに、私は記憶している。

この生活位置は私が成人してその後もずっと続いた。

唯一変更が起こったのは、それは私が大人の何歳の頃からかは知らないのだが、
私たちが住んでいた(今は父だけが住んでいる)8階の管理室の「隣」の部屋に、
父の母親だけ、引っ越してきたようである。
その少し前には、父の父親は亡くなっており、父の母親一人だったはずだが、
どうしておじちゃんの家族と2階に一緒ではなく、一人、8階の一室に移ってきたのか、
そのあたりは不明である。

ただ、ここで重要と思われるのは、
父の隣の部屋に移ってきた、ということだ。

また、これは後で触れると思うが、
こういった流れのなかにつねにあったのは、
いかに、父は、自分のそばに「お母さん」を置こうとしたかがわかる。

しかし、これは、父の希望が叶った、というようなものですらなく、
私から見ると、父の両親、とくに母親にとって都合のいいように
「父が動かされている」としか見えない。

父の母親は、最期は、その8階の部屋で、ある日当然亡くなったらしいが、
隣に住んでいた父は、まるで、「ボクのそばで静かに息をひきとりたかったんだろう」
のような都合のいいことを、かつて、私たちに話していたのを覚えている。

管理人を押し付けられただけであり、
死に際の世話(とすらいえないものだが)を押し付けられただけであり、
ところが、父からすれば、「頼りにされた」としか解釈されない。
というか、おそらく、そういうことも、あの毒祖母(父の母親)はわかってやっていたろう。
結果、おじちゃんには、何も押し付けることなく、それまでもおじちゃんを
かなり過保護に育てたはずであり、ぜんぜん、父に対する態度とは、違っていた。
そのことにすら、父は、ほとんど、気づいていなかった。

父の頭にあったのは、
「平等なのに、どうして、自分のほうはあまり見てくれないのだろう」
それだけだった。そもそも平等でなんかなかったのに、彼はそれを直視しなかった。
もちろん、平等だ、平等だ、とこの父の口癖と同じことを、毒祖母も言っていたように思う。
わずかだが、実際にそう言っていたのを、覚えている。
だから、この「子どもたちは平等だ」は、ずっと、この家系に続いてきた嘘だろう。
この嘘に、父は、そして、「私も」、全員が、洗脳されてきた。

住まいの位置の移り変わりの中に、
すでに、母親の取り合いのように、「父 vs おじちゃん」構造がある。
が、先に書いたように、対立していると思っているのは父だけであり、
父の母親は、最初の最初から、おじちゃんとともにいる。

そして、そのI商店の社長は、父の父親(以下、ジジ)であり、
父の母親(以下、ババ)が、当然その社長の妻なわけだが、
実質、このI商店は、代々、ババの家系が引き継いできた商店であり、
ジジは、地方から若い働き手として、いってみれば、嫁いできたようなものだ。

だから、実質の権力は、ババ、つまり、父の母親に集中しており、
親類は当然のこと、地域の人たちも、つねに、彼女の顔色をうかがいながら
仕事、生活をしていた。

そして、このI商店を、継ぐことが、はじめから決まっていたのが、
父の兄、おじちゃんである。長男だからだ。

今、私はようやく、Pという囲いのなかでの「仕事らしきに思えたもの」から抜け、
実社会での仕事につき、この「おじちゃん」というものが、相当、強い感染の影響を
もたらしていると気づきはじめた。

一言でいえば、

「ボクは、おじちゃん(おにいちゃん)になりたかった」

ということだった。

それはどういうことかというと、
これは、自分でも信じがたいものだったが、

「おじちゃんみたいに、ボクも、さぼりたい」

というものだったのだ。

自分の母親を、兄にとられて、自分のほうは見向きもしてくれない、
ボクは見捨てられたんだ、そういう恨みを抱いたまま、今もなお、
ゾンビのように生きている父について、また、その分析は、今までも掘ってきた。

その恨み、なのだが、
どこへ、どう向かったか、というのが
今回、新たに「自分の中に発見」したことだった。

この仕事中のイライラは、どう考えても、自分の舵ではないと感じていたから、
いったい何なのかを見ていこうと思った。分析、ではなく、観察をすることにした。
そこで、私は、ふと、小さい頃から、その「おじちゃん」について
何をきかされてきたのかを思い出すことになる。
これは、何も、特別なことを思い出したのではなく、むしろ、ずっと、
それしか、言ってこなかったことを思い出したのだ。

「おじちゃんは、仕事をしない」
「おじちゃんは、2階でラーメン食べてばかりいる」
「(おじちゃんとは違って)オレは、働くのが生きがいだ」
「(おじちゃんとは違って)オレには、お客がついている」
「おじちゃんは、さぼってばかりで、どーしようもない」
「おじちゃんは、帳面つけるだけで、現場で汗をかいて働いているのはオレだ」

要は、

おじちゃんは、ろくに働きもしない。
オレはおじちゃん以上に働いている。

なぜ?

I商店を守るため。
お母さん(ババ)を守るため。

お母さんに、ボクを見てもらうため。

だから、ボクは必死に、このI商店のローンも返すためにも、
大学にもいかず、やりたいことも我慢して、朝から晩まで働いてきたんだ・・・

・・・を、捏造したいがために、父は、おじちゃんを

「さぼっている人間で、ダメな人間」

と仕立て上げた。

私たち子どもたちも、もちろん、妻(私の母だった人)もみんな、
「おじちゃんは、さぼってばかりいる人だ」と思いこんでいた。
当然のように思っていた。

でも、よく考えてみると、私は、おじちゃんが「さぼっている証拠」を
この目で見たことがないのだ。
むしろ、父のほうが、勤務中には酒は飲むは煙草も吸うは、
仮眠しては何度も店から電話がかかってきても起きないは、で、
客観的に見れば、誰が見たって、父のほうが「さぼって」いるのだ。

こういうことに気づいたのは、私自身、とくに上司にあたるパートの先輩たち
(最近ブログでも書いたSさんやRさん)に対して、
「あいつらは、さぼってばかりいる」と思っていたわけだが、
まったく、さぼっている根拠はどこにもないのに、
たとえば、二人で「私がきこえないところで話している」ただそれだけで、
私は、彼らはさぼっている、と決めつけていたのだ。

実際にさぼっているかどうかは重要でなく、
何の根拠もないのに、そう思いこんでいることが問題だった。

そして、もうひとつ、私が幼い頃にそれに関連して垂れ流していた
父(と母も便乗して)の言葉は、

「いつも、ボクの見えないところで、お母さん(ババ)と
おにいちゃん(おじちゃん)はコソコソ話している。」

というものだ。こう言葉にする時もあったかもしれないが、
私が記憶しているのは、もう、つねにこう思っているんだオレは、という
あの父の歪みきった顔、恨み全開の顔だ。

今思ったことだが、私の母も、基本、父の考えに賛同していた。
というのは、なぜだろうか?と考えると、表面的には、父は、おじちゃんのことも、
ババのことも、「よいふうには言っていなかった」ので、
「ワタシのことをもっとかまえ。ウチの家族のが大事だろ!」とつねに苛立っていた母は、
そうだ、そうだ、と便乗した、ということ。
当然だが、この便乗は、永遠に叶わない。
そして、母は、その怨念を抱いて自殺したのだ。

叶うわけがない。
なぜなら、父は、本当はおじちゃんになりたいのであり、ババにボクを見てもらいたい、
その一心が、「なんだ、あいつらは、まったく」という恨み節を支えているものだったからだ。

自分の話に戻るが、私は、自分のきこえないところでコソコソと話しているように
見えると、それだけで苛立ち、さぼっている、というレッテルを貼る。

おぞましさはここからだ。

ある時、その上司の女性の先輩Rさんが、人員不足から焦っているときがあった。
私はその時、同期の同僚と、Rさんにきこえるようにわざと、(余裕そうに)笑ったり、
雑談(私語)をしてみせたのだ。まったく無自覚に。

これは、私はよくやっていることだった。
昨日も、とんでもなくわかりにくい隙間をねって、やってしまっていた。
見た目は、まったく、平然さを装っていて、むしろ、平然であること、
まったく動揺もしておらず、疲れてもおらず、どんどん仕事をするまじめな人間を演じる。

私は心では、彼女にこう言っているのだ。

「焦ろ。いつもさぼってばかりいるんだから、もっとせめて焦ろよ。
気苦労くらいしろよ。オレは、そんな気苦労などしないよ。
たんたんと仕事して、あんたたちよりたくさん仕事しても、ぜんぜん楽だし。
疲れていないし、こんなの、ぜんぜんたいしたことない。」

そして、いかにも充実した時間を過ごしていたかのような顔を
見せようとする。

この反射的な振る舞いこそ、猛毒の感染のなせるものなのだ。
こうやって、私は、彼らに仕返しをしている。
そして、おぞましいのは、なにより、

「オレが、今度は、さぼる番だ」

と思っている、というのが、その中心にあった。

20歳頃から、いくつものアルバイトを転々とした。
8年近くやっていたところでは、社員の代行をしていたから、
私は、異動の多い社員より、何でも自由にできた。
もちろん、そのような立場になったのは、誰よりも仕事をしているのを
みんなが認めたからなのだが、行き着く最後は、何だったか?

私は、人目を盗んでさぼっていた。
仕事中、自分のこと(今思えば、Pへの依存に関する事柄)ばかり
あれこれ考えていたし、ただ、単にさぼっていることも多かった。

他の仕事もそうだった。

最後は、さぼってばかりいた。
いかに、仕事をしているか、を見せることだけは考えたが、
それでも、私はさぼり続けることに、罪悪感すら感じたことがなかった。
ただ、「こんなことしていても、つまらない」とは思っていたが。

これを思うと、つまらないのも当然である。

私は、父の「おじちゃん(おにいちゃん)になりたい」を
父の代わりにやっていただけだから。

「さぼること」が、いつの間に、どの仕事も、そのゴールになっていた。

これに気づいたとき、もちろん今の仕事も、
私がこうありたいと自動的に目指してしまっているのは・・・というと、
信じがたいことだったが、「私も、さぼりたい。さぼれる立場になりたい」というものだった。
これは、たとえば、同期の同僚が、「そのさぼっていると思いこんだ先輩のやっている仕事」を
私よりも先に「教えてもらっている時」、嫉妬心として働きだす。
さらに、「オレは、そんな仕事したくない。たんたんと今の仕事をするのが好きなんだ」と、
さすがに、これは、ぜんぜん嘘だ、と自分でも気づくわけだけれど、反射的には
そういう考えが浮かんできてしまうのだ。

自分でも信じられなかったが、
「さぼる」ことを批判するために、私は一生懸命に誰よりも働こうとしていた。
それは、おじちゃんを批判するため、なのだが、矛盾しながらも整合しているのが、
そのおじちゃんに実はなりたい、自分もさぼりたい、というのが、同時にあるのだ。
以前、私は働くのが嫌いだ、と書いたことがある。本当は、嫌いなのだ。
一生懸命働いているのは、さぼっている「おじちゃん」を捏造し、浮かび上がらせるために、
父が必死に演じてきたものだった。

仕事中のイライラは、自分の見えないところでコソコソと話し、
あいつらさぼってる、こっちは一生懸命働いているのに!
という場面で出てくるわけだが、この「自分の見えないところで」という妄想を
父がたくましくしただろうと思われるのが、2階にババとおじちゃんたちが住むことになった、
そのあたりからじゃないか、と推測した。

何かと、「2階でおじちゃんたちは・・・」ということを話していたように思う。
まるで、おじちゃんの悪口のオンパレードだったが、言うまでもなく、
本当に悪口を言いたかった、恨みをぶちまけたかったのは、毒祖母に対してだったはずだ。
当然、それは言えない。そこで、「おじちゃん」を徹底的にさぼっている悪者に仕立て上げた。

さらに、私の母は、おじちゃんの子どもたちと遊ぶのを、
基本的には、遠ざけようとした。「馬鹿になる」とかいって。
父も母も、二人とも言っていたのは、「あのうちとは、レベルが違う」というものだった。
徹底的に、おじちゃんの子どもたちを、大人げもなく馬鹿にしまくっていた。
私も、ああ、うちはあそことはぜんぜんレベルが違うんだ、と、ただそう信じてしまっていた。
そして大人になる頃には、「私たちの家族は幸せ」、「おじちゃんちは不幸」と、完全に、
そう思いこんでいたし、その感覚は、今もなお、私の身体にしみこんでいる。

このことに気づいてから、まだ、反射的な思考回路はあるままだが、
相当、細かい違和感にも仕事中その場で気がつけるようになった。
こんなことに一生振り回されたら、今後、どこに行っても最悪だ、と思っていたから、
まだ舵はとれないのだけれど、感染源がわかっただけでも、振り回され続けるというのは
随分、減ったように感じている。

話は変わるが、書いておきたいと思うのは、
先ほど、母は、父の言動におおむね賛成していた、と書いたが、
では、夫であるその男性「自身」に対しては、子どもの前で、いつもどうだったか、
といえば、いつも、ボロクソだったし、そう言われても、父はいつもニコニコしていた。
「ボクは、いいんです~。その分、子どもが立派だから~。
ふつう、こういう親からこういう子は生まれないと思うんだよねぇ~。
おかしい・・・でも・・・この子の父親、だぁれ?はあーい、パパでーす」
と、ずっと言い続けていたキチガイだ。

なぜ、今、甘酒作りをしているか、プラモデルをしているか、というと、
これは、むしろ、父が「好きなジャンルだったろう」と思われるからだ。
父は、私に、父が好きなことをやらそうとした。
ところが、だ。徹底的に、それは以前にも書いたが、必ず、挫折した。挫折させた。
結果がそれを証明している。

私は、父の行きたかった大学の、さらに学部も、「偶然」かのように、
私はそこを選び、入り、成績もよかった。しかし、私は、その道にまったく興味が持てず、
就職活動もせず、ダラダラとしていれば大学院にエスカレーターのように行く仕組みだったので
ダラダラと大学院に行き、つまらない毎日を過ごしながら、中退し、Pへの滅私奉公に辿り着く。
学生時代は、実験が最もつまらない授業だった。
ところが、父は、実験系のクラブを高校時代、わりと本格的にやっていたようで(彼の話なので
誇張は多々あるだろうが)、私たち子どもたちは、その自慢話を耳にたこができるなんていうのでは
すまないくらい、自慢話をきかされた。

重要なことは、父は、自分がやりたいことは、I商店のために断念した、ということであり、
父が私にほどこしてきたことは、剣道などの習い事も含めて、「父がやっていたことを
子どもにもやらせて、褒めるだけ褒めておいて、絶対に、挫折させること」だった。

話は少し戻り、これに加担したのが母だった。

「パパはダメだ、実験の自慢話、もうきき飽きた。結局、I商店になっちゃったじゃないの。
言うことはエラそうなことばかりだけど、こんなちっぽけなところから出られないじゃないの」

と、こういった馬鹿のしかたをよくしていた。なのに、たとえば剣道もそうだが、
どうして始めたかといえば、私は覚えていないのだが、かつて母からきいたことには、
「パパもやっていたからよ」と。そろばんも、ぜんぶ、パパがやっていたから、らしい。
剣道に関しては、てっきり、私はプラスチックの剣(おもちゃ屋さんで売っていた毒々しい
色がついた短くてちょっとかたくてやわらかい剣)を振り回すのが好きで、だから、
自分からやりたい、と言ったと思っていたし、40歳近くまで、実際、そうきかされていた。
が、事実は、違う、ということを、母は最後の最後に、さらりと言っていた。
「そういうのが好きなら、こういうの、あるよ」というような誘導尋問だったと記憶している。

となると、そこからは、父のストーリーで、私の剣道は形作られる。
「パパは一番強かったけれど、先輩を立てるためにわざと負けた」だの、
脳ある鷹は爪を隠すだの、たくさん、きかされて育った。

そこでも母は加担するのだ。

「馬鹿じゃないのー」と。笑って話すのだ。

こういうことばかりだった。父のように育てようと二人がしておいて、
私に染み込ませるメッセージは、「どうせ成功しないのよ」というものだったのだ。
母は父を馬鹿にすることで、父は自分自身を自虐的に演じることで、
たまったものじゃない、父のようにやらせておいて、それをきかされる毎日に、
私が自分で成功イメージなど持てるはずがないのだ。
実際、これもブログにかつて書いたけれど、今までやってきたものは、
そのすべてに苦手意識がある。何一つ、自信を持てているものなどない。

図工もその一つだ。

私は図工は好きだった。けれども絵も苦手だと思っているし、
プラモデルのように、指定されたようにそれを作る、というのも苦手だと思っている。
だから、「他のやつとは違う」という視点で、絵についても、創作についても、
私は自分で作り出した。当時は独創性からくるものだと思っていたわけだが、
このブログにも書いてきた通り、結局は、日の当たらない所へとPと心中するための
準備だった、というだけにすぎない。

父がおもに「私に嫌いにさせたもの」は、実用的なもの、体験的なものに直結する分野だ。
それは、父が実は、本当はずっとやっていきたかった、でも、
やり続けるのは断念せざるをえなかった、という分野。

しかし、「彼が」嫌いにさせたのであって、「私が」自分で嫌いになったわけじゃないから、
今も、プラモデル作りと甘酒づくりはやっているし、好きも嫌いも、今体験中。
正直、プラモデルは、ちゃんとその通り出来あがる、それだけで嬉しい。
Pの城の中心に作業台を作り、どんと構えてやっているが、出来たプラモデルを
その作業台に並べてみると、この小さな模型越しに、この今まで見てきた共同作業場の光景が
「半分」入れ替わるように感じるほどだ。プラモデルは、なかなかすぐに出来上がらない、
というところがいい。今まで私は、とっとと出来上がるもので、思いがけないものが
出来上がるものがいい、と思ってきたから、それとは、まったく逆のもの。
今、4種類のプラモデルを作ったけれど、また作ろう、と思うので、続けたい。

それと、また話はそれるけれど、自分で今の仕事を見つけて始めてから、
そのお金で買ったものは、簡単には捨てられない、ということをいつも思う。
本当はゴミとなってもいいビニールや、プラモデルのラインの部分(切った残り)すら、
捨てられずにとっておいている。これは、自分のものだ、という感覚からきている。

先日夢で、高校の部活動の監督が出てきて、私は監督に、
「ああ、防具は、捨てちゃったよ」と言われて、
「大事な防具だったのに・・・」としがみつくように言った時、その監督は、
「ようやく、だな。ほんと、よかったよ」と言い、私は涙が滲んだところで目が覚めた。

目が覚めて、そのようやく、だな、という意味は、すぐにわかった。
「やっと、自分のものなんだ、と言えるようになったんだな」という意味だとわかった。

こういった夢だけでなく、「自分で」とか「自分のものだ」ということは、
ずっと最近の関心ごとだった。


・・・


「②命がけの自我復元」に続きます。




2015.06.30
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-30 06:23 | 復元ノート 1


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