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対立を避けての「宣言」には何の意味もない

対立を避けて、ただ口だけの宣言には、何の意味もない。

私にとって、宣言して早く済ませたい、という
無自覚な動機には、その目的として、

対立を避けて、通ろう、

としているからだ、ということに気づいた。

対立を恐れてはいない、
そういうふうには思ってはいた。

だけれど、結果、では、私がとっている、
とろうとしている言動は、どこにつながっているのか、といえば、
対立を、とっとと、済ませてしまいたい、
そして、これで、ここでいいんだ、という地点にたどりつきたい、
というものだ。

こう考えることは、
当然だ、とすら自覚することなく、
当然のように考えていたけれども、

違う、と。

対立し続ければいいのではないか、と。

とことん、である。

その中でしか、息吹がふきこまれた言葉、感情など、
口からも態度からも出てくるわけがない、
そう思った。

昨年の終わり頃から、今日まで、
どう毒親に、Pに、Pの親に、言ってやろうか、
と手書きのノートにも、綴ってきた。

生きている間に、はっきり、伝えなければ、
母だけでなく、全員に、逃げ切られてしまう。
だから、早く、伝えよう、早く、態度や言葉で示そう、
そればかり考えていた。

「こう言ってしまえば、それさえ言い届ければいいんだ」

という思いは、きわめて、怠惰だ、と
今日になって気づいた。

対立から出てくる根拠ある言葉でなければ、
そんなのをいくら唱えて、まるで下書きを読みあげるように
相手に伝えてなんになる?

自己満足でしかない。

こう言おう、こう言ってやろう、してやろう、
じゃなくて、

実際に、対立を避けたりなどせず、
避けているのなら、なぜ避けているのかを徹底的に自問し、
対立の中に身をおいて、死ぬまで対立し続けてやる、
そして、言いたいことを、ズバズバ言ってやるんだ、
としないのなら、

そのすべては、

理屈抜きに「妄想」だ。

イコール、私の現実世界は何一つも変わらない、ということ。
私は何も変わらない、ということなんだ。

何のための自我復元と自己分析だったのか。

「徹底して、この生で、対立し尽くす」

その力、当然の権利、主張を、
妄想ではなく、実際にとり戻すためだ。

だから、

今、対立を避けていては、

どんな妄想も、「何一つ」価値あるものはない。

こう伝えよう、ああ言ってやろう、そうすれば一件落着だ、
とする怠惰な宣言に、何の価値もない。

対立し続ける、その覚悟と自覚こそ、
絶対に取り逃してはならないものだ。

毒母には死に逃げされた。
死んだ後にいくら宣言しても、もう遅い。
対立を逃したのは、私のほうだ。

残された毒父、P、Pの母親、
私はこの3人を、徹底的に、対立し尽くすことに決めた。

対立し尽くすべき根拠は、その根拠こそ、
今までずっと掘ってきたのだから。

何のための対立か。

本当の意味で、
今までの私の死んだような生を
私自身の手で断ち切るためだ。



2015.03.27
Aby


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by jh-no-no | 2015-03-27 17:55 | 復元ノート 1


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