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この12月

この12月、この12月にすべてはかかっている、
あらためて今朝、そう感じた。

一秒も無駄にできないこと。
一秒も休んではならないこと。

合気道の稽古でその厳しさも学んでいる。
どんなに頑張ろうが、なんだろうが、
勝負は一瞬できまる。
あたり前のことだが、一瞬、隙を見せれば、
急所にあてみを入れられたら、それで死ぬ。

生き死にの世界だ、ということを毎回指導されるが、
その世界では、いや、この世界は実はそういう世界だったわけだが、
この世界では、「言い訳」の一切は通用しない。
死んだ、やられた、としたら、結論、
「自分を最後まで守りきらなかった」という事実でしかない。

がんばりました、などは、ぜんぜん通用しない。
10年がんばろうと、1秒、油断すれば、
1秒油断したことに問題がある。

その1秒を油断したために、急所を打たれ悶絶したとする。
問題はここでわたしが何を口走るか、ということだ。
「油断しちゃいました」ともしも言うのなら、
わたしはいったい、誰のための人生を生きているのか?
わたしがわたし自身の人生を生きているのなら、
1秒の油断を自分が許すはずがないのだ。
わたしが許さない、自分自身許せるはずがない。

この12月は、わたしは絶対自分を変える月にしよう、
そう思っている。そう決めているし、絶対そうする。
決意という大義名分でそれを宣言したいのではなく、
自我復元をやる、絶対にやり遂げるという意思ゆえに
わたしのなかで当然生じてくる目的意識だ。

今朝、目が覚めて夢を思い出していた。

今、わたしにとって重要な人物、父、母、Pが出てきた。
具体的な背景は覚えていないが、Pとのからみでは、
四角の形をしたものに7年、丸の形をしたものに9年とあり、
それらの図形は定かではないが(形状も記憶は曖昧だが)、
どうやら家、住居、住まいを示しているようで、おそらくこれは、
Pとの共同生活を示しているようだった。

最初の7年とは、同居し始めてからの7年で、
1998年から2005年くらいにあたるが、
この2005年とは、この頃から、共同作業という幻想が崩れ、
経済的にPを支えるだけの経済おじろくへと完全に堕ちたときだった。
Pから見れば、仮住まいから、ようやく、Pの城という当初のもくろみを
達成したのがこの時期だった。

それから現在に至るまでの9年は、もはや共同作業の幻想すら消失し、
しかしこれこそが、AC人格が甘い蜜を吸い続けた長い9年だった。
「Pが楽しそうにしてくれていれば、ワタシはそれだけでいい。
Pのそばにいられたら、それだけでワタシはもういい。一緒にいたい」

わたしはコイツを抹殺することに決めた。
2014年とは、そう決めた年であり、実行に移すことを
10月、わたしは自分に約束した。
そして昨晩の夢は、この9年の先には、もうPとともにする家というものは
無いのだ、ということを、わたしが決めていることを示していた。
そしてPもまたこのことは確実に感づいている。

もどかしかったのは、夢のなかで、
Pと正面をきって衝突しきれていないことだ。
しかし、ここでわたしは臆することはしないし、
一つ屋根の下これからいかに険悪になろうと、
たとえPが包丁をわたしに向けようと、わたしは引かない。
これは極端な話ではなく、わたしが恐れているのは、
殺されるかもしれない、と思っているからなのだ。

殺されないために生きているのではない。
書いていて情けなくなる。わたしはそうやって生きてきてしまった。
相手が不快を示したりすることで、わたしが自分を抑制してしまう根本には
殺されてしまうかもしれないという恐怖がある。

自分で自分を守ってこなかったから、そういう生き方をしてきたから、
相手に迎合するしかない。それがAC人格がやってきたことだ。
これをやめなければならない。やめていく、やめていこう、ではなく、
今、次の今も、実際にやめ続けなければならない。
合気道でもそうだけれど、だんだん守る、などそんなのないのだ。
つねに守り続けていなければ、1秒とて油断した自分に全責任があるし、
そう思えないのだとしたら、わたしはまだ、相手に依存し、隷属している証だ。

父と母が登場する夢では、これも具体的には覚えていないが、
それは目が覚める直前だったが、父に対して、「バーカ!」と言ったこと。
今までは夢の世界になってしまうと、こと父と母に関しては、
現実世界のわたしの意識が反映されなかった。

その点が今回は違っていた。
夢でありながらも、現実との接点を持てた、と目が覚めて感じた。
この12月、絶対変えていく、と強く思ったのは、その時だった。

この父と母の夢でも、まだ正面からぶつかれていない。
この「ぶつかれていない」というのは、わたしは嫌だ。
わたしはぶつかりたい。わざとでもいいからぶつかりたい、
そう思っている自分がいる。

これと似た感覚として、これもまた解決したい問題があるのは、
とんでもなくしつこいAC人格、間違ってはいけない、というコイツだ。
この間違ってはいけない、というのは、つねに、最後の最後まで足をひっぱってくる。
1秒も気を抜けないのは、コイツがその1秒を絶対に見逃さないからだ。

同時に、ふざけんな、間違おうが何だろうが、俺の自由だろ!と思う自分がいる。
間違うまいとしているコイツのことが、もういい加減、嫌になってくる。

しかたなく生きる屍が、捏造する生きる意味、それが、わたしにとっての「意味」であったし、
それはつねに、「間違っていない理由」のことだった。
しかたなくなど生きたりはしない、そう決意した自分が、なぜ、まだそれにしがみつくんだ??

殺されてしまうかもしれない恐怖だけじゃない。
まだこの根深い問題も掘られていない。
納得がぜんぜんいかない。変えたい。わたしはぶつかるのを恐れる人生をやめたいし、
間違うことを恐れる人生もやめたい。だって、何のために、生まれてきたんだ?と、
絶対に死ぬとき思うに決まっているんだから。

最近気づいたことだけれど、わたしにはこういう癖がある。
「なんで?」と他者からきかれたときに答えられるように準備しておく癖だ。
これが非常に問題だ、と感じたのは、ここに重大なコミュニケーション障害の元が
あるような気がしたからだ。

ふと気づいたのは、わたしには、「関係性の言葉」がない。
それはどういうことかというと、わたしの発言には、「わたしはこう思う」しかないのだ。
そこに、相手、あなた、が登場することがない。たとえば、何か不快なことがある。
そうすると、「あなたが嫌いだ」が、わたしは言えないのだ。
わたしはこう思うので云々、というふうな話し方になっている。

だから、わたしはずっと「自分は意思を持っている」「自分の意見を持っている」と
思いこんできたし、むしろ、他人に振り回されない人間だ、とすら誤認し続けてきた。
違ったのだ。わたしにこういう思考回路を植えつけることで、誰が得をしたか?
親のことを責めたりはせず、「自分のせい」で納得してくれる子どもでいてほしいのは毒親たちだ。
毒親はそれを「責任感と自分の意見をちゃんと持った子ども」なのだ、と洗脳した。
「あなたは・・・」と子どもに言われることを、毒親自身が恐れたためではないかと推測している。
(以前、ブログにも書いたことだが、父や母に言うことが最もためらってしまいそうな言葉が
「パパのせい」「ママのせい」というものだが、ためらう、というより、そう言うことは許されていない、
そういう発言自体がありえない、そういう発言のシチュエーションが想像できないといった感覚がある)

「なんで?」「どうして?」ときかれることに対して、
咄嗟に理由を言わねばならない、と思ってしまうわけだけれど、
その動機は、そうきいてくる相手に責められている、相手に納得する答えを言わねばならない、
と自動的に考えてしまっているためだ。だから、最初から、相手都合の土俵の上で、
わたしの発言というものは、制限されてしまっている。
ここをぶち抜けない原因は、わたし自身が自己完結しようとしてしまっていて、
「あなたは、あなたに、あなたを、あなたが」と言うことができないためなのだ。

それを知っていて、その癖を十分に熟知していて、それを利用し、
自分の都合のいい方向に誘導し続けたのが、Pなのだ。
そして、この癖をわたしが自覚し、「あなたが」と言い放てなければ
Pとの戦いで、真正面からぶつかれることはできない、そういうことになる。
それではいくら不快を表明しようと、相手は多少慌てることはあっても、
フェイント程度の効果しかなく、「わたし対あなた」という肝心な勝負の局面で
わたしは大きな判断ミスをし、大敗する可能性が相当高い。

「あなたは」と言えない原因、やはりそこにあるのは、
相手に殺されるかもしれない恐怖なのだと思う。
この恐怖感がベースにあって、いつでも相手から「なんで?」ときかれたときに
「わたしはこう思うので」とちゃんと答えられるようにしておこう、と、
強迫観念的に思っているのだと思うが、そう答えることを要求しているのは誰かといえば、
自分の都合のいいことだけをわたしが口にすることを望んでいる「毒親の亡霊」にすぎない。
もしもわたしが相手に都合のいい回答をしなくても、「なんで、そんなことを言うんだ!」と、
存分に、わたしを責める口実にすることができる。

しかも、「あなたが・・・」とわたしは言わないわけだから、
相手は責められずに済む。相手の目的はそこにこそある。
さらに、AC人格をあおるように、悲しんでみたり、涙を見せるなどの演出一つで、
罪悪感をわたしに与えようともしてくるのだ。

相手からの責めや罪悪感に耐え忍ぶことや、
自己主張(と思いこんでいる言動)かのごとく不快を連呼することが、
ぶつかることじゃない。

それは、独り相撲、独り言にすぎないし、
なにより、それは、恐怖から目をそらす逃げ道を
自分自身にに与えてしまう。

「あなたは」と相手に向けて発言する恐怖を解明すること。

堀り、かつ、実践すること。

この12月、1秒も油断しないことを
わたし自らが望んでいるのだから、
わたしはこの声を、決して、裏切ってはいけないのだ。


2014.12.02
Aby


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by jh-no-no | 2014-12-02 18:35 | 復元ノート 1


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