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わたしの中で生き延びていた父の怨念

「やりたいことが見つからない」

こういう思いを、成人する以前から強迫的に抱いてきたが、
この考え方は、普通じゃないのではないか。

まるでどこかに、自分のやりたいことが、ポンと落ちているかのようだ。
どこかにあるんだけれど、自分がダメで間違っているから、
それがいつまでも見つからないんだ、だからもっと努力しろ、
結果は自然に至るんだ、自然に至らない、見つからないのだとしたら、
わたしが間違っている、努力が足りないんだ、と、そう思いこんでいるところがある。

こういった考え方のベースには、

「見返り」

という考えがあった。これだけ頑張ったんだから、その見返りとして
こういうことが期待できるはずだ、もっと言えば、こういうことを
「期待していいはずだ」というのがあった。

わたしは見返りというものを期待することがない、
そういうタイプの人間だと思っていたところがあったが、
昨日、ふとしたことから、それは違う、ということに気づいた。

知人からジャズダンスの発表会のお誘いの電話があった。
断ったのだけれど、電話中はまったく自覚がなかったのだが、
電話をきってから、違和感だらけの気持ちの動きをノートに書いて追跡してみると、
こんな考え方がわたしにあること、これは今回だけでなく、
今までもたえずあったことに気づいた。

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?
いつも、わたしがしてあげていただけじゃないか。」

いつになったらわたしがほしいものをくれるんだい、という感覚。
ほしいものが来ない、それが手に入らない間は、
とりわけわたしが何かしてあげていたわけでもないのに、
わたしは、対人関係において、「わたしがやってあげてばかりだ」と
勝手に思いこんでいるのだ。

今回の電話でいえば、ジャズダンスを見にいくこと、イコール、
わたしがやってあげてばかりのこと、という図式になる。
その人は、ただ、誘ってくれているだけなのに、だ。

誰かの誘いに対して、

「興味がない」
「意味がない」
「時間のムダ」

わたしは、この3つのことを理由に、今までもたくさんの誘いを断ってきた。
第一に、興味がない、というけれど、これも間違っている。
興味がないのではなく、興味があるかないかを精査する以前の状態で、
「自分が関心があるかどうか」というところに、まったく、目が向いていない。

電話をきってまず思ったのは、興味がない、と思ったと思ったが、
興味があるかないかも、考えていなかったことに気づいた。
ジャズダンスのこと、何も、考えていなかった。
興味がない、とすら考えてもいなかったのだ。

このプロセスは、とんでもなく早い。
なんというか、興味がないのが「前提であるかのように」
「自分をスルー」してしまっている。

これに関しては、高校生の頃、大学受験でどの学部を目指すか、
進路を考えるときにも同じような感じだったのを思い出す。
どれも興味がない。いや、そのときは、そういう状況をわたしは
「どれも興味がある」という言い方をしていた。どれも好きだ、と。
でも、それは無自覚な嘘で、どれも興味がなかった・・・というか、
自分の内側に、興味を見出せなかったのだ。

いや、それもどこか違っている。自分のことが考えられなかったのだ。
これは今も根強くある感覚だ。自分のことを考えようとすると、
「どうせ、無理」という、声にすらならない、でも阻止してくる何かがある。
この居心地の悪さに、ユーターンしてしまって、自分の内側でなく、
外側、外の世界に、やるべきことや意味を見つけようとしてしまう。

ここまでのプロセスはあまりに早かったので、いつも、その
ユーターンをした「時点」が、行動の始まりの地点だと思いこんでいた。
ただ、この地点は、すでに、違和感があるのだ。
もうこの時点で、いやいややっている、しかたなしにやり始めている。
そして、わたしが実は逃げていながらも、依存している分析という行為、
まわりの空気を察し、読むという行為はここから始まっている。

ここからが通常は、なんとか自覚できるところとなり、
自分のやっていることが「意味があるかどうか」という判断をし始める。
そして、意味がない、と判断したものは、時間の無駄と処理される。

だから、たいていの場合、「(時間、都合が)空いていない」という断り方をする。
それが、かろうじて、嘘は言っていないと罪悪感を誤魔化せる方法だからだ。
こういう断り方は、今思いだせる範囲では中学生の頃には頻繁にやっていたと思う。
友だちが遊ぼう、と誘ってくれても、そんな気になどなれず、かといって
遊びたい気持ちじゃないなどと言ってはいけないと思っていたから、
「今日は遊べない」「今日は都合が悪い」と毎日言うしかなかった。
なにか用事があるの?ときかれるとなんとか嘘を言わなきゃいけなくなったから、
訊かないでほしいと思ったし、だから最初から、「誘わないでほしい」と思っていた。

今回の電話も、いつものそのやり方で済ましてしまった。
いつまでこんなやり方で、しのいでいるんだ?

それで今回思ったのは、わたしは何をもって「意味があるか」と
判断しているか、ということだった。

以前から、誘われると弱い文句がある。

「Abyさんにやってもらいたい、Abyさんに頼みたい」

と誘われると、じゃあ、と言って受け入れてしまうことが多かった。
わたしは、こう言われるのが、嬉しかった。

これを求めていた。

「それは自分じゃなきゃダメなのか」とわざわざ相手にわたしが訊かなくても
「そうなんだ、Abyさんじゃなきゃダメなんだ」と言ってくれるのを期待した。
そう自分で期待していることなど自覚もなく、期待していたのだ。

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?
いつも、わたしがしてあげていただけじゃないか。」

という部分の、

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?」

と言う時、それはどういう意味かというと、

「あなたは、わたしに、どれだけ、Abyさんにお願いしたい、という
用件をわたしに与えてくれたのか?」

という意味がそこにあることに、今日の電話の一件で気づいた。

無意識にそれでその人を「評価」していた。
その評価が「高い」と、それじゃあ、行ってあげなきゃ、といって
つきあいで誘いに応じるというだけで、それはまるで、清算、
プラスマイナスゼロかどうかという計算を即座に行っている感じだ。

父親似の気狂いであった大学時代の教師K先生も、かつての職場の代表OHさんも
そういう人は皆、同じだった。「Abyさんに来てもらいたい、Abyさんにお願いしたい」
そういってわたしに近づいてきたし、わたしも自分を必要としてくれるところとして
近づいていった。

そのとき、わたしは「やりたいことが見つかった」
と、思ったのだ。

でも、考えてみたら、おかしい。やりたいことが見つかったのではなく、
自分が役立つ場所が見つかった、というだけだ。

やるべきことは何なのか、を探しているつもりでも
それ自体が見つかったことは、考えてみたら、無い。
「あなたが必要だ」と言ってくれる人に出会った、というだけだ。
それをもってして、わたしは、「やるべきことが見つかった」と言っている。
それは、やりたいことが見つかった、ということと、わたしにとっては同じだった。

「やりたいことが見つからない」

という思いが、そのゴールとして見据えている「行く末」というのは、
つねに、滅私奉公という墓場だったのだ。

滅私という感覚が最初に麻痺、スルーしているので、なんとか自覚的になれるのが
「奉公」という部分だが、これとて、「仕事を手にした」といった感覚だから、
わたし自身は「得た」と思っていて、言いなり、いや、言う前に動いてくれるコイツは都合がいいや
としか思っていない毒親と同じタイプの人間に搾取されているだけなことに気づかない。
わたしはただ、やりたいことが見つかった、と認識してしまうのだ。

「仕事を手にした」と書いたが、実際、わたしにとって、
「仕事」というものに対して、こういうイメージを持ってしまっている。

だから、「やりたい仕事が見つかった」と自分が思ってしまうようなところというのは
軒並み、毒親のコピーのようなヤツが舌なめずりして待ち構えている。
実際、かつて、「やりたいことが見つかった」と思って飛びこんだところに待ち構えていたのは、
Pさんであり、学生時代のK先生であり、はじめて就職した職場の代表OHさんだったのだから。

「やりたいことが見つからない」という焦り、衝動、自動再生の声は、
必ず、そこ(墓場)へと誘導していった。

父の口癖で、

「いろいろ出来るようにしておきなさい。出来ないよりは出来たほうがいい。
可能性は多いほうがいい。選択肢は多いほうがいい。そうすれば将来、
なんでも好きなものを選べる。自分がやりたいこと、したいこと、何でもできるから」

とよく言っていて、だから今のうち、たくさん努力しなさい。今しかできないんだよ。
苦労は今のうちにしなさい。そうすれば、どんな夢も叶うから、と。

つねに、父の話は、「未来」という無い所の話なのだ。
「今」は未来のその時のために努力し、頑張る時であって、
わたしにとって、子どもの頃から、「やりたいこと」は、「今」ではなく、
「大人になったらいつか見つかる何か」だと思っていた。
だから、今やりたいことをやろう、という発想自体、持てていなかった。

「やりたいこと」は、自分の内にあるものなんだ、というふうに考えたことなく、
どこか、外の、これから先の世界にあると思いこんできたのは、幼い頃から、
それが当然のことのように思わされてきたからではないだろうか。
やりたいことは、いつか「見つかるものだ」となんの疑いもなく思いこんでいたし、
人生とは、それをいつか手にし、「自分しかできない何か」で活躍することだ、と
そう思って疑ったことがなかった。

この「自分しかできない何か」という発想は、どこから来たのだろう?

この「自分しかできない何か」に関するわたしのイメージは、
「今は想像もつかないすごいこと」というものだった。
そういうものだったから、今できていること、やっていることはたいしたことないこと、
できて当たり前、今やれていることは、そういった未来からすればなんでもない
まだ価値がないものだ、と思っていた。

このあたりは、父による洗脳にちがいないと思うのだが、
何か腑に落ちない。こういうことを言葉で言われたくらいでは、
いくらわたしが子どもであったとしても、重大な影響を受けるとは思えないからだ。
むしろ文言だけとれば、それをプラスにもっていくことだってできるはずだ。
だからリアリティーの欠落したこういった文言の問題じゃなく、その言葉を発する
父の動機、思惑にこそ、言外の圧力があったはずだ、と思うのだが、
ここがよくわからない・・・

いや、ここで騙されてはいけないんだ。

わたしが表向き覚えているこういう父の発言、ストーリーというのは、
見せかけの、うわっつらの物語なんだ。いかにも夢のある、子ども思いのストーリーに
仕立ててきているのだから、ここで騙されちゃいけない。

考えてみれば、父の自慢話は、

「パパしかできない」

という点に、つねに話の「オチ」があった。

仕事の話で耳にたこな話のひとつは、お客さんからいつも、
「Eさん(←父のこと)いないの?Eさんがすすめてくれたものじゃなきゃ買わないよ」
と言われること、自分にはこういうお客さんがついていることを、子どもたちに自慢していた。

パパが頼られ、
パパにしかできない、

これとそっくりを、わたしも人生の目標にしてしまっていたではないか?
まさに、「Abyさんじゃなきゃダメなんだよ」、これと同じことを
父も言われることを、何より自慢していた。

これは以前にも掘ったところだが、もう一度掘り返すと、
つまり父は、本当は自分の母親に、

「Eちゃんがいてくれなきゃダメなんだよ」

と、ずっとずっとずっと言ってほしかったんだ。

自分の母親に振り向いてほしくて、自慢したかったのだ。
「これだけお客さんから、Eさん、Eさんって言ってもらえているんだよ。
だからお母さん、ボクにもそう言ってよ」、と思いつづけ、
結局、父の兄ばかりで、言ってもらえなかったのだ。

つまり、我が家というあの家、わたしが育ったあの家庭は、
そこでのわたしたち子どもの役目たるや、
父の母親がわりに「パパ、すごいね」と言わせるための道具か?

「そうなんです。パパ、すごいんですー」と、しらふでも自分で言っちゃっていたけど、

父が本当に言いたかったのは、

「そうなんです。パパすごいんですー。でも、ボクのお母さん、ちっともわかってくれないんです」

という、愚痴、うらみつらみだったのだ。



2014.10.09
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-09 03:11 | 復元ノート 1


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