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②-2 自分の上に置いたもの

・・・「②-1 自分の上に置いたもの」の続きです。
   ※ 報告メール後半部分です。


ここには、一つキーワードとして「忠誠心」というのが
あるような気がします。先日から、「不幸にする親」を読みはじめ、
もしかしたら罪悪感とAC人格との接点で、掘りおこしのヒントとなる箇所が
あるかもしれない、という視点で読み始めました。

このところ、自分の歪曲してしまう癖についても不快を堀りおこしているのですが、
ここにも「何でもバカにできるぞ人格」が顔を出してしまうのはなぜか、と考えると、
「わたしに自分の意見や意思がない」、だから、他人の意見を
都合よく借用(悪用)し、いかにも「自分の意見」かのように姑息に変換したつもりになる。
こうやって自分だけは「借用していない、歪曲していない」と言いたがるわけですが、
本当はそれが嘘であることを本人は知っているので、おどおど、びくびくしている。
そうやって他人が自分と同じような振る舞いをしていると、
「あれは歪曲だ、借用だ、模倣だ」とケチをつける。自分がやっていることなのに、です。
本当にAC人格は喰えないヤツだ、と思ったのは、こうやって自分が感じた不快を
自分で解決できず、相手のせい、状況のせいにする。
「自分に意見がなかった、自分の意思がなかった」ことを直視することから逃げてしまう。

そこで、本を読み始める前に、ためしに、読む目的を自分で決めてみました。
「罪悪感とAC人格との接点で、掘りおこしのヒントとなる箇所にアンテナを向ける」
という目的を立ててみました。読んでいる最中、経験と照合してしまう癖が出てくると、
「あっ」と思うのですが、そう気づいたときは、舵をぐっと戻すようにやってみました。

「忠誠心」という言葉も、この本で見つけました。

以前から気になっていたのですが、なぜ、わたしの親は身体的な虐待はほとんどしなかったのか、
ということです。「身体的な虐待などしなくても、同様かそれ以上の効果があったからだろう」という
ことと、「身体的な暴力を避けることで、あざなどの証拠や、出来事の鮮明な記憶が残らない」
という証拠隠滅が目的だろう、と思っていました。それはそれでたぶんそうなのですが、

>「子供の幸せを取り上げる親」が、子供に生来備わっている親への
>忠誠心を利用して言うことを聞かせるのに対し、
>「身体的な虐待をする親」は力ずくで無理やり言うことを聞かせて
>子供を支配します。 (P99)

を読んで思ったことがありました。

わたしは成人するまで、いや、自我復元をはじまるまで疑いなく持ち続け、
失わなかったのは、「親に対する忠誠心」だった、ということです。
身体的な暴力は、とくに親に対する忠誠心への不信を助長してしまう。
それだけでなく、仮想敵からの威嚇への恐怖を植えつけたのも、
一見、親は味方に見えてしまうため、飴の調教が加わって、見事、
忠誠心を持たせることに成功するわけです。

「親は絶対だ」という強制に対する反抗への去勢計画です。

苦痛の鮮明な記憶が残らないため、親が加害者とわかることはない。
そこでわたしが育んでしまったのは、絶対者に対する忠誠心でした。
(絶対者=わたしを処罰できる人)

この本を読んでなにより一番感じたのは、
「すべてのコントロールを使っているな」という事実でした。
最初は「どのパターンかな」とか思いながら読んでいましたが、
あれ?あれ??えっ!!!!!というくらい、使っていないコントロール手口が
ほっとんどないのです。それゆえに、それは同時にどういうことか、というと、
挙げられた項目をわたしはすべて網羅する「大病人」というか、
重体、もしくは、仮死状態といってよいものでした。
今まで掘り進めてきたことと重なるとはいえ、こう一覧で事実を見せつけられ、
愕然としました。と同時に、自分の重体度の自己診断に甘さがあったと
気づかされました。たぶんAC人格がのさばっている分、そこに甘さを残している
のではないか、といった感じです。

読んでいて、「これでいいだ、なんて、どこにそういうAC人格が頭を出してくる余裕が
あるんだ?どこもよくないでしょ、これじゃ。というか、ぜんぶ、ダメ。ぜんぶ、治療」と、
何度も感じながら、読みました。

・・・感想になってしまったので、元に戻りますが、
だからこそなのですが、なぜ、身体的な暴力だけはほとんど使わなかったのか、
逆に疑問に思ったところ、「忠誠心」と考えるとしっくりきたのです。
一方、わたしもこれだけのことをされて「不快」に感じなかった、
それは洗脳ゆえだと思いますが、これ以外にもその理由が見つかりました。
・・・また横道にそれそうなので、それは後述します。いずれにせよ、
わたしは「不快」よりも「すべきことをした」と思ってきました。
親の世話や心配も「すべきこと」として不快とは感じていなかったのですから、
完全なAC、大人子供です。

結果、わたしは成人してからも、継続して、
「この家族の面倒は、わたしが見ている、管理している」
という意識をずっと持ち続けました。
「親を守る」「親を助ける」のは当然であり、
その逆を意識した記憶は、たぶん、ありません。

ここは想像ですが、
もしも両親がPさんをあてがったのだとしたら、
Pさんとの生活に向けて、これに耐えうるように、
「徹底的な修行、忠誠心の育成」を
親相手にしてきたのではないか。
すべきこと、という使命を向ける対象が、
「親から、Pさんへ」移っただけでないか・・・

親との間で、またPさんとの間で起きているのは、
実際は、「自己犠牲による搾取」なのですが、
これが幻想上の利他、エセ利他行為を成立させていて、
それを手段とすることでの「副産物」としての快が
AC人格にまわってくる見返りかと思いますが、わたしはそこに、
「それこそ、自分がすべきことをしているという納得、
使命をまっとうしているという満足感」をあてているのだと感じました。

だから、事実は「自己犠牲の上での搾取」としか客観的には
見えないのに、わたし一人だけは、「自ら好んで」純粋な利他行為に
いそしんできた、と思いこんできたのだと思います。
依存対象を変え、同じようなことをしてきたのが、
内職活動でしたし、他のものもそうでした。
(年度末の切り替わりで、どう考えても自己犠牲の上での搾取でしかない、
という団体・行政との契約、登録は解除していく予定です。)

自分にとっての利他行為、というのは、どういうものなのか、
もう一度、考えなおしてみました。

仕事をしているとき、
この時間をわたしはどう感じているのか?

以前にもブログにも書いたことですが、
「自分の時間を守ってみせる人格」が出てくるとき、
自我復元作業をしていることも、このAC人格は悪用し、
「自我復元作業、分析をしている自分は、まともなんだ、
これでいいんだ」とやってしまう。自分の時間を守ろうとし、
この時間だけは、自分の時間、自分の自由な時間、としてしまう癖がある。
これは、元をたどれば、「好きなことは自分ひとりでしなさい、
他人の前では喜怒哀楽を抑えなさい」として、ご丁寧に
「ひきこもる余地」まであてがってくれた毒親の手口に行き着きます。
ここなら邪魔されない、と思いこんだAC人格、
ここなら居て大丈夫だ、と思いこんだAC人格です。

このAC人格のジレンマは、一方で、「邪魔されてもいい時間」を
必要としていることです。

たとえばそれが、仕事の時間なのだ、ということに、
先日、気づきました。

「今は自分の時間じゃない」
「ここでの時間は、我慢の時間だ、自分がダメでいい時間だ」

言うまでもなく、我慢思考や自虐思考などの影響をモロに受けています。
どこをとっても「自分が」生きているべきなのに、
どうしてこう簡単に自分の舵を手放してしまうのか、
このAC人格の挙動も意識はしているのに、どうしてこののさばりが
自動的ともいえるほど強いのか、ここを考えてみたくて、
仕事中、

「邪魔されているんだよ、わたしは」

と思いながら、どういうことが気持ちのなかに起こるか
観察してみました。

すると、「誰も、邪魔してないじゃないか」という、
ひどく当たり前なことに気づき、驚いた。

誰が我慢していろ、など言った?
誰が自分はダメだ、と思いこめなど言った?
自己犠牲しろって、誰が頼んだ?

そしてもっと驚いたのは、

「わたしがそう思いこんでいた」だけだったことです。

だから率先して、我慢したり(誰も頼んじゃいないのに)、こんな自分は
ダメだ、とか一人よがりに思って、勝手につらく思って、そのつらさに対して、
これまた勝手に「大丈夫、平気」と自作自演している。
そんなことやってくれ、とだーれも頼んじゃいないし、見ちゃいない。

自己犠牲を前提とした利他など、わたしはやりたくなかった。
わたしは全時間にわたり、わたしが主人公の人生を望んだのに、
それを一部、犠牲にすることをゆるしてしまった。
利他のために。それも「エセ利他」。AC人格のしうる利他。
だから「その見返りに」と、自分の時間だけは邪魔しないでね、と
ひきこもるという手段をとって生きのびてきたAC人格。

仕事のこの時間を「利他」と、勝手に、「位置づけてきた」。
「この時間は邪魔されている時間、邪魔されてもしかたない時間」と
決めつけてきてしまった。まるで、「利他の時間、ちゃんとつくるから、
わたしの時間は邪魔しないでね」と、ビクビクしているようだ。

先ほど、

>わたしは全時間にわたり、わたしが主人公の人生を望んだのに、
>それを一部、犠牲にすることをゆるしてしまった。

と、「一部」と書いてしまいましたが、実際は「大半」だったと
思いました。多くの時間をその「エセ利他行為」にあててしまったと思います。
成人してからのアルバイト先、勤め先でも同じでした。
「わたしが相手に要求しない限りにおいては」わたしに利用価値を
感じた人が、わりといたと思います。もちろんその最たるものは親であり、Pさんです。
でも、この構造は、アルバイトでもどこでも同じでした。
それは当然のことで、そうやって社会に出ても振舞えるようにしつけたのが
わたしの母であり父だったからです。

「わたしに言ってることと、わたしに伝えている感情が180度違う」という
その洗脳によっても、自分の不快が麻痺をし続けてきましたが、
そのうえ、(エセ)利他行為だったわけですから、なかなか相手も
「Abyさんってちょっと変わっているよね」とは思っても、それを指摘してくれること、
たとえそれが罵倒であっても言ってくれる人がいなかった、という意味で、
失敗経験が乏しすぎました。成人前はほとんどなかったし、
成人後にもなると、そういう自己愛的な振る舞いを「自由人だ」と
錯覚して振舞えるAC人格も強く育ってしまっていました。

こうなると、もう、自分の「欠陥」に気づきようもない状態で、
はりぼての、どこにもリアリティーのない言葉だけで、
自分の世界を作ってきたわけです。無自覚でしたが、
完全に嘘の世界です。やっている内容がどうのこうのでなく、
わたしがまったく思っても感じてもいないことを、言ったりやったり
している毎日。ここで出会ったのが、自我復元でした。
そしてそこではじめて、「あなたはおかしい」という事実、
自分に欠陥があったと知りました。欠陥だらけなのに、
わたしは「欠陥がない」と思っていたほど重症でした。

少し話がそれますが、もしもこの「不幸にする親」という本を
一年前の今頃に読んだとしても、わたしはこの本とは無縁だ、
「何ひとつ、該当するものがない」と疑いなく思ったはずです。
全部該当する、といってもよいほどなのに、です。
このことを考えたとき、ぞっとしました。
読んでもここまで何も理解できないことがあるんだ、と思いました。
そうして理解できないだけじゃなく、「自分は違う」とかずっと
勘違いして生きることになる。自我復元をやっていなければ、
この本はわたしにとって、無価値どころか有害になったと思います。

話があちこちいってしまいました。

昨日、こんなことがありました。といってもよくあることで、
Pさんはとりあえず家のことはしません。買い物もまずしませんし、
やったらやったで「やってあげた」という雰囲気を全面に出します。
以前からこういうことはよくあって、数ヶ月前だったと思いますが、
「それにしても何でこんなイライラするんだろう・・・」と考えたとき、

「わたしが我慢しているからだ」

とあらためて認識しました。

イライラとしたときに、どういう我慢をしているのか、というより、
我慢をしてきたからその限界を感じてイライラするわけであって、
問題は日々、わたしが我慢することに甘んじている、という点にあったので、
先日もふとイラっとしたときに、このことを確認しましたが、
ちょうど先ほどの仕事のことを考えていたこともあって、
はっと気づいたことがありました。

仕事の時間と同じなのです。

「Pさんとの時間は、自己犠牲にしている時間。
邪魔されている時間なんだ」と、わたしはそれをずっと、
「自分で、認めてしまっている」のでした。
だから、わたしこそ、「やってあげている」という気持ちが出てくる。

Pさんを中心にいろいろ考えていくと、
両親との生活も「Pさんとやっていくための」の訓練だったとも思え、また、
こういった外部との(エセ)利他活動も、親の加害性を隠す「完全犯罪」
のためにあてがったもの、とも思えてきます。なぜなら、そこでは
「自称・成功体験」となる確率が高いからです。自称というより、
もはや、親称です。

もちろんそれ以外にも代理復讐もあると思いますし、
このあたりは関連妄想ですが、そう考えていくと、

「Pさんへの忠誠」

へのストーリーが浮かびあがってくるような気がしました。
偶然にしては、環境が気持ち悪いほどそろっているように感じました。

邪魔されている、と知っていて、
大失敗だった、と知っているのに
それに甘んじて自己犠牲を「しかたない」としてきた
幻想の上に成立していた利他性。

昨日、Pさんといたときに、
思わず鼻歌を口ずさんだとき、このことを痛感しました。
わたしはこの時間、Pさんとのこの時間を、
こうやって我慢する時間、自分を押し押し殺す時間とずっとずっと
「位置づけてきて」、本当は、窮屈で、なのに、
「利他だから、これは自分の時間じゃないから」と自ら思いこんで、
それで勝手に苦しんで、どうしてもつらいとき、
大好きな歌を「手軽に作れる自分の時間という逃げ道」にして麻痺していたこと、
これは自分でわかっているつもりでしたが、
相当な、自分へのSOSだったのだと思います。

・・・

罪悪感ということを念頭において、この一週間、生活してみました。

「どうして、ただ悪く言ったりしたの?」という声にドキッとするだろうこと、
また、Pさん関連では、「どうして守ってくれなかったの?」という声に
ドキッとするだろうこと、このあたりから掘り始めてみました。

AC人格による幻想上の利他性と罪悪感との接点を
うろうろしている感じになりました。
自分自身、「邪魔されていい」とする時間を自ら設け、
それを「利他」と思いこんできたこと、今回、掘り進めていくことで、
AC人格と利他の接点が、見えてきた部分です。

自己犠牲の搾取の上になりたった利他、
これこそ、幻想の上になりたった利他だったと思いました。
そんな利他など「いらない」と最初から宣言している自分がいます。
邪魔されている、とずっと思ってきたわけですから。
それでなんとかしようと、そのなんとかするやり方が
歪んでいたのだと思います。
ストレートに「誰も邪魔するな」と言えればよかった。

父はよく「自信を持ちなさい」といい、
母はよく「しっかりしなさい」といいました。

本当の父親の姿は自信などなく、いつもおどおどし、
だからこそへんに威勢をはり、自分以上の自分に見せようと
していました。「自分は強いんだ」と。

本当の母の姿は、実は感情のアップダウンが激しく、
だからこそ、平然を装っていました。「平気だ」と。

自分は強いんだ、自分は平気なんだ、と、
そうやって生きてき父と母が見せなかった、隠そう隠そうと
し続けたのは、なにより、「こわい」とか感情だったと思いました。
両親にとって、世の中は「こわくない」と思いこむ必要があったと思います。

そういう両親を見て、わたしがはたして「こわい」など
口にできたかというと、できるはずがない、と思いました。
なんでわたしは世の中をこわがっていて、なのに、
こわいと言えないのか、言ってはいけないとどこかで思っているのか、
これはきっと、父も母も同じで、それが感染したのだと思いました。

Pさんのことを考えてみると、自分は強いんだ、平気だ、とする態度は、
父と母そっくりで、この点をとっても、両親はPさんと上手くやっていく
(長続きさせるための)修行にあてがわれたのかも、と考えたりもしました。
親が都合の悪いものは、わたし(Aby)一人が抱えこむように、
Pさんが都合の悪いものは、わたし(Aby)一人が抱えこむ、といった相似形。

まとまりのない報告文で、随分、長くなってしまいました。
まとめることができなかったので、掘り進めていった時系列で
そのまま書かせていただきました。

罪悪感について、まだ他にも出てくるかもしれませんが、
まずは今回のところを意識して、罪悪感が頭をもたげたら
宣言文を読み、宣言していきます。

Aby


◇ ◇ ◇


引用させていただいた書籍


『不幸にする親 人生を奪われる子供』
ダン・ニューハース 著
玉置 悟 訳
(講談社プラスアルファ文庫)


下記の記事にこちらの書籍の紹介がございます。

桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S335


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2014.04.03
Aby



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by jh-no-no | 2014-04-03 03:04 | 復元ノート 1


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