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自分のなかに見つけてきたAC人格

桜の間の記事

http://www.mumyouan.com/k/?S330
の4つの項目、

>1/『***AC人格』と、独自に、ご自分でネーミングをつけて、
>2/そのAC人格が、
  どういう局面(状況)になると、決まってどういう振る舞いをし、
>3/それは結局、何をしたがっている、何を言いたがっている人格なのか?
>4/そのAC人格の挙動の原因は、親とのどういう関係にあったか


にそって、自分のなかに見つけてきたAC人格を整理してみました。


● なんでもバカにできるんだぞ人格
● 自分のせいじゃないと思いこみたい人格
● 決めてもらいたい人格
● これでいいと言ってもらいたい人格


・・・ ・・・ ・・・ ・・・


【なんでもバカにできるんだぞ人格】


●「どんな局面で出てくるか」

相手の関心を自分にひきたい、相手を自分に依存させたい、ともくろむ局面で顔を出す。


●「どんな振る舞い方をするか」

決まってその相手を混乱(思考停止)させようとする。「Aだ」という話をしていたとしたら、あたかも鋭い視点を提示したかのように「Aじゃないこともある」のようなことを言い出す。「Aだ」と言っているだけの人を見下し、バカにする。相手を混乱させて、「なんだかわからなくなった」となったところを見計らって、自論を持ち出し、相手の関心をひく。逆に、最初から相手が悩んでいたり、混乱している場合は、相手からのわずかな信号にも「わかるよ」と共感したような態度を示し、まず相手の関心をひくわけだが、その相手が「自分から離れよう」とすると、手の平をかえしたように態度を変え、相手を混乱させ、自論を持ち出し、相手を自分に「依存させよう」とする。共依存関係に持ちこもうとする。


●「コイツの言い分」

「わたしはなんでもバカにできるんだ。もしもお前もバカにされたくないなら、わたし以外のものに関心を持つな。よそ見すんな。わたしにもっと気を遣え。わたしのことだけを見ていればいいんだ!」というのが言い分。


●「原因となった親子関係」

わたしの父も母も、いつも他人をバカにしていた。父は、自分の機嫌が悪い、それだけで「礼儀がなってない、常識がなってない」と因縁をつけて、「あのバカがぁーー」と蔑み、血祭りにした。そして、子どものほうを見て「ニヤリ」。見せしめが目的で、「Abyも同じ目にあいたくなかったら、パパを不機嫌にさせんなよ。怒らすな。そうすれば、いつもパパはAbyの味方だ。お前を守ってやるからな」というのが、父の言い分であり、このAC人格の言い分と変わらない。こういう手の脅しや思考停止を、格言を悪用してやるのも父の常套手段だった。

母はおもに、同じ子育て中の母親、とくに仕事にかこつけて子育てをいいかげんにしているように見える母親(母の母親を投影)に対して、「子どものこと、子どもの気持ちをちゃんと見ていない母親は最低の親だ」と軽蔑していた。成人後のわたしの仕事や活動を利用して代理復讐をした。今度はわたしが加害者となって、「共依存を安心と錯覚させる洗脳」で毒をまきちらした。わたしもまた、Pさん以外に「保険としての」依存対象にも手をのばしてしまった。滅私奉公のおじろく人格も、女の人大好き人格も、相手を蔑みながら作り笑顔をし、内心イライラ、「もっとわたしに気を遣えよ」と主張している点では、同じ種類のAC。子どもの主体性を奪い、「親は絶対だ」と言って親に依存させ(実は親も子どもに依存し)、そういう歪んだやり方でしか自己主張ができない父と母だった。無自覚で共依存の親子関係。


・・・ ・・・ ・・・ ・・・


【自分のせいじゃないと思いこみたい人格】


●「どんな局面で出てくるか」

「わたしは悪くない、わたしは間違っていない、わたしのせいじゃない」と執拗に証明しよう、説明しよう、納得しようとするAC人格で、〝こわい〟と思った時、反射的に顔を出す。こわいといっても、何かそこに恐怖の対象となる実体があるわけではなく、父親似の気狂いをそこに投影してしまうと、「何をされるかわからない」という妄想を際限なくふくらませて、捏造した未来を不安がり、こわがり始める。現実には、「相手の顔色、相手の機嫌」ばかりを気にしていて、なにより、相手の顔色や機嫌が「豹変」するのを極度に恐れている。


●「どんな振る舞い方をするか」

その豹変を、「罰せられてしまう合図だ」と思いこんでいて、そうなるまいと常に相手の顔色と機嫌をうかがい、自分は悪くない、精一杯やっている、あなたの言う通りにちゃんと従っています、という素振りをし続けている。自分は悪くないことをつねに確認しようとするあまり、「もしかしたら、自分のせいかもしれない・・・」と思いこみだすと、根も葉もないことでも、無理にでも自責と結びつけ、そのように自分が困ったという気持ちや困った出来事を隠蔽しようとする。仮想の罰を恐れ、誰にも相談できない。「言いたくても言えない」ということが起こる。また、一度相手が豹変してしまうと(多くの場合は、相手を怒らせてしまった、相手をキレさせてしまった、とわたしが勝手に思いこんだ時)、今度は、隠蔽していることそれ自体がいっそう恐ろしくなり、とり乱す。「あなたの言う通りです。わたしが間違っていました。そうせざるを得なかったんです、わかってください、どうかゆるしてください」と、絶対服従するようにゆるしをこい、泣き落としに入る。


●「コイツの言い分」

結局のところ、「隠蔽か、自白か」というやり方で、罰を逃れようとするとするのが特徴で、このAC人格の言い分は、「わたしのせいでも、せいでなくても、どっちでもいいから、何でもするから、あなたの言う通りにするから、どうか、罰しないで」というもの。


●「原因となった親子関係」

直接あざを残すような暴力は振るわず、他者を見せしめにして血祭りにする父親。こちらを向いて「ニヤリ」と、味方だよサイン。「親の言うことは絶対だ。親に逆らったら、どうなるかわかるよな、Aby。こんなんじゃ済まないかもな」というメッセージを、喧嘩の自慢話をはじめ、格言や顔色、ありとあらゆる手段で子どものわたしに伝え、脅した。このように突然キレる父を母も怖がっていた。母自身の保身のためだったんだ、と最近になって気がついたが、父親の顔色の変化に気づけるように、母との関係において、母の顔色(目つき、態度、言葉づかい)をうかがわせ、相手の機嫌を察する訓練を「しつけ」と称してさせていた。実際、後に「子どもたちにはいつもパパを怒らせてはダメよ、としつけていた」という話をきいて納得した。「パパを怒らせたら、ママが困ることになる」という気持ちがわたしにはいつもあった。

背景にはこのような「実体のない、仮想の恐怖」を親たちが自分の手を汚さずに植えつけようとしたことにあり、父だけでなく、母もまた、「~したら、〇〇しちゃうよ」という迷信のような言い回しで、また、いとこや他の家庭を侮蔑するこれもまた見せしめの方法で、「Abyはあんなバカとは違う」という、一見、飴と錯覚する恐怖を植えつけた。飴の調教の背景には、見えない鞭がそこにあり、それが実体のない仮想の恐怖として作動し続けている。結果、顔色ひとつで「親にだけ都合がいいように」子どもが動いてくれて、困るようなことは子ども一人で「自分のせいだ」と抱えこんでくれるから、何も問題のない「ように見える」理想的な家族、完璧な親を演じきれた、と両親は無自覚に高笑いしたに違いない。「安心なところにAbyはいられて幸せね」という洗脳。わたしはずっと理想的な家庭と信じて育った。


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【決めてもらいたい人格】


●「どんな局面で出てくるか」

「あなたはどうしたいのか」と問われる局面(自問も含めて)。


●「どんな振る舞い方をするか」

そのような自分の意思、選択を問われる局面になると、「決めなきゃ」「何かしなきゃ」と焦って、それを呪文のように唱えるだけの思考停止状態に陥る。「こっちに行くといい」「こっちに行ったらダメだ」と叱咤激励してくれる人や情報にしがみつき、依存する。依存対象に完全に左右されてしまい、何でも鵜呑みにしてしまう癖がある。


●「コイツの言い分」

「わたしが進むべき方向(わたしの意思)を、かわりに誰か、決めてくれ。誰か、何か、わたしに指示、命令を出してくれ。そうしてくれたら、わたしは迷わず〝決められる〟のに!」というのが言い分。


●「原因となった親子関係」

父の説教の前ふりはいつも「パパは別になんでもいいんだよ」から始まった。「どうしたい?」と子どものためにきいているような「ふり」をして、事前に「こうしたらいいかもね」という父の意向を態度や言葉でほのめかしていたから、親の顔色や機嫌を察し、親の意向に同意してしまった。話の終わりは「自分で決めなさいね」という子どもへのダメ押しがあり、わたしは「自分で決めた」と思いこんでしまい、この繰り返しによって「わたしは何でも自分で決められるんだ、自分で決めてきたんだ」と思いこみ、成人した。思いこみでしかないから、実際の自己決定の場面では、焦ってしまい、咄嗟にその焦りを隠そうとするために、結果、「誰かが決めてくれないせいで、わたしも決められなくて困る」だとか、「まともな情報がないせいで、わたしも決められなくて困っている」といった、とんちんかんな言動に出ていることがたいていなのだが、そのような中にあってさえ、「自分で決めているんだ」と思いこんだ。結局これも、わたしの父親が自己決定ができない人だったために、子どものため、と口先だけの利他的・犠牲的な自分を演じ、自分の都合のいいように誘導しておきながら、責任は相手に押し付けようと、体裁だけ子どもに決めさせる「やらせの同意」で調教した。

母親も子育てにおいては、「Abyには決めさせなかった。何でも親が決めて、レールにのせた」と言っているほどで、父ほど手のこんだことはしていないかもしれないが、一方的な命令・指示こそ「しつけ」と考えていたのは確かで、「言うことをきかないと、〇〇するよ」と頭ごなしに押さえつけた(我慢できること=自立、と考えていた母は、感情を抑圧しコントロールできるようにと、とりわけ他人様の前では強調した)。成人後すぐわたしは、「Pさんの夢を一緒に叶えよう」とPさんに依存し飛びついたのも、父親と同じ姿勢の「決めてもらいたい人格」。ひとり相撲のように自己完結している場合は「決めつけたがる人格」だったりするが、自分以外の「何か他のもの」に判断基準を丸投げしている点では同じAC。


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【これでいいと言ってもらいたい人格】


●「どんな局面で出てくるか」

ブログを書くときも、メールをするときも、そうやって誰かに見てもらうのでなく、自分のノートに気づいたことを書きとめようとするときも、自我復元をはじめてからもはじめる前も、ずっといつも、金太郎飴のように、どの場面、どの局面をとっても、「オレの出番だ」とでしゃばってくる。その意味では、列挙したすべてのAC人格の元締めのようなヤツで、どのACの性質も持っているような最低最悪なACだけれど、あえてここで、つるしあげたい、と思った。「元締めのようなもので、自身のACをまとめてもっているようなわたしって、AC人格としても最大のもので、わたしがACの代表だ、と主張しまくった挙句、なお、わかっているからこれでいいよね人格」にまでなりさがるマジ喰えないヤツで、ACやっていられりゃなんでもいい、みたいな腐った態度。テメーがまず死ね、と言いたい。

話がそれてしまったけれど、今回、AC人格を整理しようと思って、思い返してみて、コイツだけはゆるせない、と思った。どいつもゆるせないけど、他のACがいくら理路整然といつもみたいに斜に構えて、「わたしってこういうACなんだ」と他人事のようにのさばる態度をとったとしても、わたしはコイツだけは、即、ゆるせないと思うのは、コイツの存在がいつも違和感だったし、どう考えてもおかしい、まっとうじゃない、と思ってきたことだったから。「しかたない」とすませてきた人生だったけど、しかたなくなんてない。だって、おかしいだろ。誰かにこうって言ってもらえないと何もできないとか、いつも相手の顔色にビクビクしているとか、相手にあわせて笑えだの相手を不快にさせるから怒るなだの、たかだか誰かがキレただけで「ごめんなさい」と土下座して震えあがったり、別に褒められたいなんて思ったこともないのに、「いい子だね」と言われるようなことばっかり、やりたくもない、つまらない、不毛だと思っていることばっかり、ロボットのようにこなす毎日。こんな馬鹿げた生き方、情けない生き方、どこにあるかよっ!・・・毒親との、結局それは、ここまで書いていてもげんなりするような毒親とそっくりな姿勢と動機に満ちたわたしの中のAC人格との一騎打ち宣言をしてから書きたいと思ったので、ここから筆をとりなおし、この人格について、最近になって掘りおこしたことも含めて書きます。


●「どんな振る舞い方をするか」

コイツの振る舞いは、だいたいにおいて、「うまくまとめよう」とする。自分の実体験にもとづいてまとめるのでもなく、本当の意味で自分がまとめたいから整理しようとするのでなく、そこにはつねに、「承認をあたえてくれる、OKと言ってくれるはずの誰か」が自動的に想定されていて、「その人、その他者」の顔色、機嫌、要望、趣旨、つまり、相手の基準にあわせるように、予定調和的に相手が「あなた、わかってるじゃん」と言ってくれそうなことを予測・期待して、やる。その相手、他者がいなければ自分でもよく、我田引水、これが自己肯定と自分で自分をだましてきた。自己満足「しているつもり」で、本心は「これで本当にいいんだろうか」とたえず不安。あたり前だ。自分で着地点を決めた「わかりきった結果」に結びつけただけなんだから。本当のもの、絶対なものを探そう探そうとしたのが、成人後のわたしの行動すべてにあるんじゃないかと思える共通した動機だった。認めてくれる他者としての「親」から離れた成人後は、自己確認という形で、「これは本物の情報だ」と思えたものに自己同化を繰り返したために、「当然これは自分自身の問題」と思いこんでいたから、まさか、他者、それも親に感染源があったとは思いもよらず、あやうく精神世界という場所を「甘い汁」と誤認し住み着いてしまうところだった。


●「コイツの言い分」

コイツの言い分は、「あなたの言われたとおりにやったから、これでいいと、あなた、言ってくれるはずだよね」だ。ネーミングとしては、もしかしたら、「言いなりに何でもできます人格」といったほうが適当かも、とも思ったけれど、「これでいいと言ってもらいたい人格」のほうが、今は、しっくりくるのでこうしておきたい。


●「原因となった親子関係」

わたしは親から直接的な暴力を受けた記憶はほとんどなく、あっても、「あれは痛かった、あれは苦しかった」と思うようなものはなかった(と、記憶している)。だから、AC人格の掘り出しに着手するまで、わたしは、親から受けたトラウマのようなものはないと思いこんでいた。これもまた、毒親の手口でもあり、「困ったことがあったり、悩んだりしたら、それはAby、あなたの問題よ」という刷り込みであり、以前に実際に両親とも露骨にそう話していたので、「本気でずっとそう思っていたんだ、マジ、毒だわ」と愕然、猛毒親であることを再認識した。この人格ののさばりが強烈なのは、他に列挙したAC人格形成の背景にある親子関係に十分すぎるほど、もろに影響を受けているからでもあるが、最近になって気づいたことがあった。

こう書くと、そんなことか、ということなのだけれど、わたしが誰かに気にいられるように振舞うことで、結局誰が得をしたかといえば、「いい子ねぇ~」と言ってもらえる「親」だったのではないか、ということ。わたしは褒められたいと思って何かをやろうと思ったことは、おそらく一度もない。褒められたいなど、これっぽちも思ったことはないのに、なぜ、結果、褒められることが多かったかというと、褒められやすい子に仕立て上げられただけ、だからだ。そりゃ、何でも「はい」と従って、文句言わず、せっせと何でもこなすわけだから、「いい子ね」ととりあえず言う人は多かったろう。そういうことになって嬉しかったのは、父と母であって、自慢の子をもったということ、ただそれだけのために、「相手の気持ちを察しなさい」から始まり「親のためなら死ぬのが子どもだ」というような、ただ一方的に親に従うだけの子どもを育てた。

わたしは、つい最近まで、ここまで一方的に従わされていたんだという自覚がなかった。でも、感覚的な記憶だが、つい先日、母に対して、いつも母の顔色が変わったというだけで、「ママ、ごめんなさい」と反射的に謝ってばかりだったことを思い出した。理由などなくてもよく、相手を不機嫌にしたというだけで、わたしは謝るべきだ、と思っていたし、成人してからもそれがおかしいことだと疑ったこともなかった。もうひとつ思い出したことは、わたしの家は自営業で、すぐ近くだったから、わたしの生活圏は、保育所や学校に行ったり習い事をしている間を除けば、家か店かだった。考えてみたのだが、お店に滞在していた時間は思っていた以上に長く、たいてい店の手伝いをしていた。つまり、父の手伝いだ。店番、品出し、掃除、接客、なんでもこなし、よく働いた。商店街だったから、近くの人たちも、誰もかれもが「Abyちゃん、エライね」だとか、おつり勘定で計算も得意だったから、「Abyちゃん、すごいね」とわたしを褒めた。店のなかも父親の親族が主たるメンバーだったから、わたしの父親の家系独特のあの不気味な作り笑顔で(思い返すと、父の兄弟、父の母親とその兄弟と、さらにその子どもまで、そっくりのニヤリだ)、そういう笑顔のときは「わたしは機嫌がいいですよ」サイン、急に豹変したようにブスッとしているときは「わたしの機嫌をおしはかりなさい」サインで、わたしに対してはなぜかみんな気遣って「にこ~」と誰もが顔色を変えた。

感覚的な記憶なのだが、この記憶を掘りおこしていくうちに、「わたし自身は褒められたいわけでもないのに、褒められるようなことをすることでしか、これでいいと思える基準がなかった」ことに気づいた。これは、大人になってもそうだった。褒められたり認められたりすると、わたしは、ほっとした。この気持ちを観察すると、それは「なんとか罰は逃れた」という束の間の安心にすぎない。だから同時に「調子にのるまい」という声を自分にかけるのだが、そんな恐怖がベースにあるような状態で、認められたり褒められたりしたいなど、思う人がいるわけがない。わたしはずっと、「褒められたいと思ったことはない」ということは、どこかエラそうで、そういう素直じゃない自分はどこかおかしいんだろう、と考えていた。「Abyはかわっているからね」と言われることも多く、自分でもそう思っていた。でも、違った。正直じゃないのはわたしだ。認められたり、褒められたり、そんなこと、求めてなんて、これっぽちもなかったのに、認められたり、褒められたり、これでいいんだと自他から言ってもらえることが「成功なのだ」と親から言われ調教されてきただけであって、調教由来の恐怖にさらされたというただそれだけの理由で、わたしは、自分の正直な気持ちを犠牲にし恐怖に甘んじた。キレた者勝ちみたいな、そんな相手の気分にあわせて、ときに利他という大義名分のために相手に尽くす。それはあなたたち、お父さんとお母さんの成功かもしれないが、わたしには大失敗なんだ。これでいいと言ってくれるはずだ、と期待するAC人格は、わたしは最初から大嫌いだった。


◇ ◆ ◇ ◆


のさばり具合、その他。

「これでいいと言ってもらいたい人格」は、
のさばりの程度が最も酷いと感じた。

「これは自分の時間だ、ここは自分の世界だ、ここだけは自由なんだ、
だから、誰も邪魔しないでくれ。そうすれば、オレは自由でいられるんだ!」
と、幼少期から言いまくっているAC人格がいる。

あえて名づけるとすれば、
「自分の時間を守りぬいてみせる人格」という感じか。

オレは自由でいられるんだ!と言うけれど、
そもそもわたしは、自由ってなんだと思っているのか、
自分の定義すら曖昧だったので、今回、
そこを確認してみようと思った。

「我慢したり、自分を犠牲にしたりして、そんなふうにして、こそこそ
びくびく生きるのは、嫌なんだ。だから、誰も邪魔をしないでくれ。
そうすれば、〝これでいいって思いこめる〟んだから!」
という言い分、それ自体が、わたしが思いこんでいる自由の意味のようだ。

そこでわかったのが、「自分の時間を守りぬいてみせる人格」というのは
「これでいいと言ってもらいたい人格」が、ずっと、恒久的に、
「そこなら生きていける」と錯覚させるために、機能していたのではないか。
共犯関係にあって、こいつもまた、「自分こそ本当のわたしだ」
みたいな顔をするから、いつも厄介だ。

「これでいいと言ってもらいたい人格」ののさばりが
どうしてここまで酷いのか、少し理解が進んだ。
一方、自分なんてどうせ、とか、自分が我慢すりゃいいんだ、
といった思いこみが「親都合の足かせだ」という認識が甘かったと思った。
「母親に甘えられなかった恨みの感情」に由来する両親の自己否定は、
わたし自身のものじゃない。
なんとかここは、自分で舵がとれるようにしていきたいところ。
「相手のためだから」と思いこむことで、自分の感情を押さえこむ癖も、
その都度意識して解除していく。

他の3つのAC人格ののさばりについて。

想像していた以上にのさばっている、と感じたのが、
「なんでもバカにできるんだぞ人格」だった。
これはPさんのみならず、とくに内職に関わっていた方々とは
共依存の関係にあったため、会話などで不毛と感じつつも
「ラク」と感じてしまい、害と感じにくく甘くみているところがあった。

以前、福島から避難した一人の母親が、その思いを動画のなかで
お話されていたことがあって、その時、その方がお話をされている姿をみて、
「いとおしい」と自分が感じたことに対して、違和感、不快感があった。
なぜそう感じたのか、少しだけれどわかったことがある。
わたしのような、この種のACの毒人間が、つねに
こうやって必死に生き、懸命に自立しようとしている人の足をひっぱり、依存に誘い、
避難もさせないよう、できないようにさせ、そうやって主体性も尊厳も根こそぎ奪う、
人間としてやってはいけないことをする、ということ。
父と母がわたしにやったように。

「自分のせいじゃないと思いこみたい人格」は、
おもに拒絶や麻痺、逃避ということで顔を出すことが多いので、
のさばっているな、という自覚はあった一方で、「見たくない」と
目をそらしたくなる衝動が起こりやすいことから、
見落とすリスクが高いAC人格だった。

「決めてもらいたい人格」は、これも最近になって生活や仕事のなかで
自分で舵をとれるか試しているもので、思考停止具合というか、
気がついたらそう考えていた、そうしていた、というのが、
コイツの恐ろしいところだと思って注意をはらっている。
ハッと我にかえって、なぜ決めなきゃならんのか、なぜ何かしなきゃならんのか、
と自動的にかけられていた足かせに気づけるときは、
舵をとりなおせる場合があるけれど、そうでなく、舵を固定し、
「決めつけたい人格」にすりかわっているだけのことがある。

AC人格がお互いの保身のために協力しあっていることが多く、
そういうのさばり方自体、酷い手口だな、と思ったのと、
それと、どれもこれも、すみつくところが卑怯で、
トラップが上手く散りばめられている。


2014.03.15
Aby


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by jh-no-no | 2014-03-15 04:41 | 復元ノート 1


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