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行動の動機

今日も、あいかわらず胸がおさえつけられている感じで
ときどき、ズキン、と胸が痛む。

身軽でないこの感じは、よくわからないけど、
昆虫標本にされた蝶のようで、胸にピンでとめられている、
といった感じがする。

前回のブログの続きのようになりますが、
父親似の気狂い・・・やはり、気になる。
そこがとても気になっている。

ブログを書く時もそうだけれど、癖のひとつに
「(頭のなかで)まとまったら、記録する」というのがあって、
それまでためてしまうのだけれど、今日はそれはやめてみよう。
まとめてしまう前でないと、記録できないこともある気がするから。

ひきのばさず、ノートしてみようと思う。


・・・


「このままじゃダメだ」


このままとはどのままなのか、と自問して答えられないのだから
この強迫観念にとりつかれているとしか思えない。

この呪いのような言葉が出てくる直前、
強い停滞感をどうやら感じているみたいで、これを察知して、
「このままじゃダメだ」という言葉が生じてくるようだ。

このまま、とはどのままなんだ?というふうな視点で
自己観察を続けてきたところがあるが、
一度、検証の仕方を180度反転させて、
「このままだと、どうなるからダメなのか?」と自問し、
わたしがどうなることを避けているのか、という視点で
いったん、考えてみようと思う。


そんなことを思ったのも、今朝起きて、ふと、
「バナナを創った宇宙人」を購入する動機を
思い出したことがきっかけだった。


無明庵の書籍から離れて10年以上たち、昨年の夏、
死人禅行法をやっていなかったことが気になり、
ガイド音のCDを購入し、行法に必要な情報をサイトで確認し、
(このときから無明庵のサイトを少しずつ見るようになり)
そうしているときに、新刊案内がアップされた。


それを購入した動機は、ひとつだった。


目次がサイトに掲載されていたので、読んでいて、
「惑星上で絶対にやってはならない事」
という項目をページをなんとしても読みたかった、
ということだった。

その頃はまだ自我復元のことも知らなかったので、
結果、とんちんかんな不安を自分で妄想し、
勝手に不安になっていた、という愚かな結果だったわけだが、
ここに今、掘り起こしていくものがある気がしてならない。


「父の調教」の記事のなかで、崩残さんからのメールの
一部(以下、ピンク文字)を掲載させていただき、
父親似の気狂いで、わたしどう自分を裏切り、どう逃げたか、
そこを明らかにする作業を行った。


1/実体ははっきりしないのに、
  怖いと他人から言われたもの(人でも理論でも)を、
  そのまま怖がる癖です。

2/怒ると何をするか予測できない相手を怖がる癖。

もしもそうだとしたら、それは、
父親からの、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」で
調教された可能性が大です。



今回、はっと思ったことは、この「1」で、
「実体ははっきりしないのに、怖いと他人から言われたもの
(人でも理論でも)をそのまま怖がる癖、これこそが、
「バナナを創った宇宙人」を購入するに至った動機、
そのものだったこと。

そう考えてみると、もしかしたら、わたしが無自覚に行っている
日々の行動の動機とは、そのほとんどが、こういった癖、
未来を勝手に不安がる妄想、それが動機なのではないか?


自我復元についてはどうだろう。


全自我に戻れなければ、契約を変更できなければ、
もっと酷いことになる、罰せられる、苦しいことが待っている・・・

こういう自分の目で見てもいないのに
わたしは勝手に妄想しているところが強い。


「無との境界領域に幽閉された種族の話」が
無明庵の書籍に書かれていたのが怖かった、という話を
以前、このブログにも書いた。
この話のリアルさに恐怖して、書籍から離れた。
ここにも、自分の目で確認したわけでもないのに、
怖いと言われたから怖いと妄想した痕跡がある。


崩残さんに対しても、
わたしは怖いと思っている。


なぜだろう?


AC人格に容赦ないから怖いんだ、とか
そういう理由ならば納得もできる。
でも、どうも、そうじゃないようなのだ。

考えてみるほど具体的な原因が、むしろわからなくなる。
崩残さんと父とは、冷静に見てみれば、どこも似ていない。
そんなのはわかっている・・・けれど、
ここはそのままにしては、肝心なところを放置してしまいそうだ。

たとえばメールの内容を見ても、そこに
怖がる原因が見出せない。なのに、
今までをふりかえってみても、つねにわたしは酷く怖がっているのだ。
厳しい内容が書かれているかどうかとも無関係なようだ。
表面的には「絵文字」を使っていたとしても。

今までもブログのなかでも、「これでいい」と言ってほしい自分、
ということを何度も考察してきたけれど、わたしが怖がっているのは
もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。

逆説的だけれど、

もしも、

「それでいい」と言われたら、

わたしはそれこそ、怖いのだ。

というのも、その前提に、
「このままじゃダメだ」という考えを
わたしが強く持っているからだと思う。


では、このままだと、どうダメなのか?


全自我にならないとどうのこうの、とか
契約違反をするとどうのこうの、というのは、
それは借りものの知識にすぎない。

わたしがそれを唱えたところで、
そこにリアリティはゼロだ。

わたしにとって、「ダメなままでいい」ということは
絶対にあってはならないことで、
以前、崩残さんにひどく取り乱したメールを送った時も、
「Abyはずっとそうしていろ」と見捨てられたに違いないと
勝手に妄想を膨らませ、あることないこと、
不安をどんどん捏造したのが原因だった。


〝実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇〟


そのときわたしは、崩残さんを
「実態のない仮想の敵」にしてしまっていた。


だから桜の間の記事を読んでも、何が一番怖かったか、
というと、「いつまでもそうしていればいい」と、いつ、
わたしが言われてしまうか、ということだった。

崩残さんがたとえば他のブロガーや読者の方々に対して
コメントをされていると、その内容とはまったく関係なく、
自動的に「Abyはそのままそうしていろ、と言われている」
と勝手に思いこんだりしたのも、そこに起因していたように思う。


完全に被害妄想なのだが、
この妄想は、では、誰が作っているのか、というと、
わたし自身なのだ。


崩残さんを怖がっているのは、
わたしはどこかで崩残さんを、父親似の何をするかわからない人と
思ったりしているんじゃないだろうか・・・いやそんなはずはない
・・・だってぜんぜん違うじゃないか・・・じゃあ、どうして怖いんだ・・・
まさか・・・いやそんなことはない!・・・

そうやって、わたしは目をつぶってきた。
でも、ここはもう誤魔化したくない。
ブログを書いていて、怖い、という気持ちがよぎるときも
そこに崩残さんの目がある、だから怖い、と
妄想に妄想を膨らませたとき、
怖さはピークになる。


そんなこと思ったりする自分はおかしい、
そんなはずはない!


そう思いたくて誤魔化していた。


これもまた、前回ブログ記事に書いた、
「自分なんてどうでもいい」「我慢すりゃいい」なんて
思ったりする自分はおかしい、そんなはずはない!
というのと、からくりとしては、そっくりだと思った。


誤魔化している場合じゃない。


それならそうで、なぜそうなのか、どうしてそういうふうに
思ってしまっているのか、問題はそこにある。
「問題視しないための口実をつくる」というのはわたしの悪い癖で、
「これでいい」という麻痺技などその最たるもの。
問題はなにもかも、そのまま放置されてきた。



見えてきたことは、

このままじゃダメだ、と言いながら、

このままだと「〇〇のようになるぞ」という脅しを自分に課していた。

そのためなら、あることないこと、未来に不安を作り上げて、

目の前にいる人や理論を、まるで父親「のように」仕立てあげて

勝手に不安を妄想し怖がる。



何もかも、「このままじゃダメだ」ということを
まずわたしが認め、受け入れること、それを前提に
ことをスタートしている。

「なぜダメかっていうと・・・」

という、その理由の箇所を、わたしがどんどん捏造していくのだ。

だからその理由自体にも、まったくリアリティがない。
自分で経験したことでもなければ、きちんと自分の
目や手で確かめたことでもない。


そもそもなんでそんなことをしているのか?
というのが、放置され続けた問題だ。



なんでだ?



本来、このままじゃダメだ、と言うくらいなら、
そもそもわたしは何をやっていて、何に向かっていて、
それに向かっていくうえで、これこれこういう理由でダメだからここを改善しよう、
そういう具体的な検証の上での「このままじゃダメだ」という事実確認で
あるべきじゃないだろうか。
なのに、わたしの場合、こわいとか、そういった脅しとして機能している。
百歩譲って、これこれこういう理由でダメだ、というなら、
それを解消して、じゃあ、どうしたいの?と自問しても、
何も出てこない。


これって、おかしくないだろうか。


このままじゃダメだ、からいろいろなことがスタートしてしまっているだけで、
そこにビジョンも目的もない。だからスケッチブックも描けない。
いろいろ迷って描けないのでなく、本当に主体的に目的やビジョンを
考えたこともなく、ただ、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」を
自分自身に与えることで、それを「掛け声にして」歩いてきた、
というだけだったのではないか?

「どうするか?」という何かの選択の際、真っ先に浮かぶ思考は、
「こうしたらどんな問題が起こるだろうか?」というもので、
わたしはこれをリスク管理の一部と考えていたわけだけれど、
これしかないのを見ると、何かを成し遂げるための付随機能では
どうやら、ない。


「バナナを創った宇宙人」の目次を見て、勝手に
不安を捏造し、きっとこういうことをすると処刑されるんだ、とか
そういう妄想を作り上げた張本人は誰か、といえば
わたし自身だ。



自分で威嚇を捏造し、自分自身に施す。

こわい・・・

CD-Rを購入する。



日々の行動の動機は、もしかしたら、ほとんどが
この「恐怖」を自分に課すことで、
成立しているのではないだろうか?


初回自我判定依頼のときもそうだった。
「死後こうなったら怖いから」
だから、自我復元をやりたいと思います・・・なんじゃこれ?

こうやって自分で未来の不安を妄想し、捏造している。
「このままでは、そうなっちゃうぞ。だからこのままじゃダメだぞ」
と、そうなっちゃう、の、「そう」という内容を捏造したり、借りものの
言葉をあてはめて、きっとそうなんだと怯えるように、
自分で自分に仕向けている、ということばかりやっている。


なんでこんなことしてるんだよーーー!


こわい「から」、そうしている。


たったこれだけ。


なんてつまらないを人生をおくってきたんだろう。


行動の動機をもう少し、つめよってみたいと思う。
というのも、「自分の時間を必死に守ってきたわたし」という、
こいつの挙動にも、大きく影響を与えている気がするから。

現実の場面でのいろいろな選択に、
父親の調教に由来する無自覚な言動が
随所にあるように思えてならない。


2013.12.15
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-15 21:36 | 復元ノート 1


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