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(4) 父の調教

「(3) 父の調教」の続きです。

※ 崩残さんからのメールの引用は、ピンク文字で記します。


・・・

(前半、略)

ここは私も気になる点です。
推測ですが、
これは、そちらの両親が共に、兄しか大切にしない家庭で
育ったとしたらば、
その「兄」の立場である自分の子供を「ダメ」に仕上げることで、
本人の中の「報復」「代理復讐」が成立するのではないでしょうか。

自分たちが受けた不快感の「反動」で、
「自分たちにとって」理想的な良い子供に育てていると口では言いながら、

兄という立場にいるあなたを使って、
彼らの兄への復讐をしている面があるということです。

あなたをダメにして、支配したり、逆らわないように調教すれば、
それが彼らの兄への代理復讐をしている気分になっているわけです。

(以下、略)



この部分について、この数日考えていました。
いったい、父や母は、わたしをどのようにして代理復讐をはかったのか、が、
わかるようで、どこかよくわからないままだったのです。

たしかにわたしがこれまで書いてきたような状態に陥れば
ざまーみろ、ということかもしれない・・・でもどこか、
それだけでは、どこか、しっくりこない。。。

これを考えるにあたっては、Pさんとの出会い、そのタイミングについても
考えることになりました。

崩残さんから、Pさんについて、こういうメールもいただいていました。


私がもうひとつ、Abyさんに尋ねたかったのは、
父親や母親のそうした意向、無自覚な悪意は、
Pさんとの生活をすることを決定したことに、
影響していなかったかどうかです。

もしや、Pさんも、そちらの毒親の思うツボの相手だったのか、
それとも、その部分は、Abyさんの父親への反感から選んだ相手だったのか、
といった、いくつか想定される可能性についてです。



ブログにも書いてきたことですが、
Pさんは、わたしが依存の対象として選んだ人でした。
そのときは、そうは思わず、Pさんの夢を支えよう、
Pさんにはわたしが必要なんだ、この出会いは運命的なものなんだ、と、
運命などまったく信じていなかったわたしが、そう思ったほどの
インパクトとタイミングでした。

このタイミングは絶妙だったと思います。
とくに同居に至るタイミングは、ぴったりでした。

何がぴったりだったか、というと、わたしと学校との関係、
わたしと家族との関係、そういったものが、バラバラになり、
過去も未来も、なんだかどうでもよくなってしまった、と
わたしが考えてしまった「そのタイミング」に、Pさんとの同居が
本格的にスタートしました。

その時のわたしは、自分探しのようなことにも希望が見えず、
「今の自分でいい、と言ってくれる誰かや何か」が見つからないままでした。
何かに自己同化をしては、それもまた、不安定になり、不安になる。
おもにそれは、書籍からの理論や思想、考え方にすがったときでした。
精神世界のコーナーを知ったのもそのときでした。

そのような中で、わたしは精神的にも物理的にも居場所がなくなり、
そのときに、それこそが道であるかのように、目の前にいた人がPさんでした。
恐怖に甘んじていたわたしにとって、Pさんとの人生のはじまりは、
そのときのわたしにとって、「進むべき唯一の道に見えた」のです。
Pさんのやりたいことに、わたしがのっかることで、依存することで、
また、Pさんからも必要とされることで、「今のわたしでいい」と自分に
言い聞かせようとしたのだと思います。


・・・


Pさんと日々会話をしていて、思うことがありました。
Pさんとだけとは限らないのですが、最近になって、Pさんとの関係を
できるだけ冷静に観察するなかで、気がついたことがありました。

それは、まったく、といってよいほど、
感情が動かないことが多い、ということです。
たぶん端から見ると、この二人何が楽しくて一緒にいるのだろう、
と思うと思います。そんなことすら、わたしは考えたこともありませんでした。

たとえてみると、テープレコーダーを自動再生しているように、
何も考えなくても、ペラペラ話しているだけ。それにふと気づくと、
「わたしは何をやっているのだろう・・・」と、その不毛な会話に、
この頃、徒労感を抱くことが多くなってきたのです。

こういうパターンは、Pさん以外との会話でも同じことが
よく起こります。とりあえず、発言をした後に、妙に
居心地がわるいのです。なぜかわからないのですが、
価値がないとわかっていたのに、やってしまったときの後のような
そういう居心地のわるさです。

今まではどちらかというと、それがラクでした。
頭を使わなくてもペラペラ言葉が出てきて、それとなく
会話が進んでいく。そんなことをしながら、お茶を飲んだりする。
馬鹿馬鹿しいことですが、わたしはそれが「幸せだ」とさえ
錯覚していたのです。

Pさんとの依存関係を掘り下げていく段階で、それは
わたしにとってしんどい作業でしたが、その依存を見ないフリをしない
ことで、わたしはこの歪んだ幸せ、これは、歪んだ安全に似ていますが、
そういうものをまるで「ご褒美」のようにして生きていたことに気づきました。
これもへんなたとえですが、わたしとPさんとの関係は、
虐待家庭のなかの親子関係みたいなもので、わたしがPさんの気を
そこねないならば、飴をくれる。Pさんの気をそこねたら、
拒絶されて脅される。もちろん、それはわたしが「依存」をPさんに
求めていたからこそ成立するものだったわけですが、その「依存」と、
Pさんからの「拒絶」の繰り返しが、依存の歪みを一層酷いものにしたように思います。
そこでのほんのそういうささいな「飴」「快」こそが、わたしにとって、
快や安心、場合によっては、幸せの定義にもなってしまっていました。

そこを考えているときにふと思ったのです。

Abyがそういうふうになって、父はどう、「ざまーみろ」となるのだろうか?
また、母もどう、「ざまーみろ」となるのだろうか?

そう考えたとき、わたしは、ふとあの「おじろく」を思い出しました。
「あの硬い表情は、父親そっくりだ」などと言っていましたが、
いや、あれは、わたしにもそっくりだったのです。

わたしは「おじろく」になったのか・・・

http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html

このサイトの記事を何度も読み返しました。
そこには、こう書かれています。

 >無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の
 >行動はできなくなってしまう。

 >将来の夢どころか趣味すら持たず、ただただ家の仕事をして
 >一生を終えるのである。


また、おじろく・おばさは、こう質問に答えたとある。


 >「他家に行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。
 >面白いこと、楽しい思い出もなかった」

 >「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいて
 >ばからしいとは思わないし不平もない」


最初にこの記事を読んだときは、父こそこれだ、と思っていたのだけれど、
父の調教を掘り進めていく過程で、再度これを目にしたとき、

「これこそ、わたしが歩いてきた道だったのではないか」

と、まさに、わたしがおじろくだったことに気づいた。

さらにこう書かれている。

 >なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性がなくなった様子がうかがえる。

と。

わたしは、ずっと、こうはなるまい、と思って生きてきたつもりだった。
でも、わたしは、いつのまに、この「おじろく」そっくりになってしまった。

父のニヤリ顔を思い出した。
そして父はこうあざ笑っているように思えてならなかった。

「自発性とか、主体性など、本当はお前はないんだよ、Aby。
自分で決めてきた、と思っているかもしれないけど、本当は違うんだ。
お父さんが決めてきたんだよ。ほーら、結局、Pさんの世話役だ。
お父さんと同じだ。それでいいんだ。奉仕すればいいんだ。
お父さんがやってきたのと同じようにな。お前は「兄」というたいそうな
立場かもしれないけど、ざまーみろ、だ。おじろくにしてやったぞ!」

Pさんとの出会いや、同居のタイミングは、
おもに父と母の関係や父の仕事のゴタゴタと絶妙なタイミングだったのも、
無意識に、わたしをそうおとしめるためだったのではないか?
とさえ、思うようになってきた。

かつて、こう父が言っていたのを思い出した。

「二人はいいパートナーだ。Pさんが表舞台に立っているように
見えるけど、お父さんは知っているぞ。陰で支えているのは、Abyだ、
っていうことを。見なくてもわかる」と。

先にも書いたけれど、わたしはずっと父は子どものことを
よく言ってくれている、と思い込んでいたので、わたしの努力を見てくれている、
見なくてもわかってくれているんだ、と、ただそう思ってきいていた。


ただ、今これをきくと、ぞっとする。


ざまーみろ、一生そこから抜けられない「おじろく」の
出来上がりだ。


わたしは猛毒父が、自分の存在証明のための作品として
父に貢献するという罠にはまったのだ。


わたしは「何でも自分で決めてきた」ときかされてきたから
頭ではそう思ってきた。ところが、わたしは、つねに不安で、
「わたしは何もわからない」という感覚があり、「今のわたしでいい、
と言ってもらいたい」という思いを持ち続けた。
主体性を言葉でたくさん「聞かされて」おきながら、実際は、
主体性も自発性も、まったく身につけてこなかった。
わたし一人、「自分は個性的で、主体的で、自発的で、独創的だ」
と思い込んできたのです。


実際とは違うすりこみ。

それこそ、調教。

そこには、実体がない。自発性とは言葉ばかり。

だから矛盾する。

ない自発性やない主体性を、わたし一人「ある」と
思いこんでいるから、当然、勘違いが起こる。

実体のないものに影響されまくっている。

実体のないものを子どもに植えつけることで、
それに従って子どもは影響を受け、反応し、行動する。

実体のない恐怖を植えつけることで、
自分の手は一切よごさず、子どもに暴力の証拠を残さず、
卑怯な方法で、調教する。


わたしは調教されたんだ、と知ったとき、残酷だけれど
認めなければいけないと思ったのは、
「わたしは自分を生きたことがない」ということだと思った。
妄想のなかでしか、幼い頃の妄想のなかでしか、
わたし一人の尊厳を守ってこれなかったのではないか。
死守すべきだったのに、わたしは自分を裏切って、
調教の脅しに負けたということだと思う。


違和感にもいろいろとあると思うが、まずわたしが抱いた
違和感のひとつは、この「主体性などないのに、あると
思い続けてきたことによって生じる無理」も、
違和感のひとつだったように思う。

Pさんと話をしていても、また、他者と話をしていても
今までは感じなかった違和感が刺激される。
そこに自分の意思とか、感情の動機がなく、
自分の言葉がまったくない、という感覚です。

考えてみれば、自分の意思と思っているものなど、
親の調教や洗脳の影響や、へたすれば、父の格言集の
寄せ集めでしかないのだから、どこにも自分がいないかのように、
電池で決まったことを言い、決まった動きをしているように
感じるのも、もっともかもしれない。

これでは、おもちゃだ、と思った。

不要なソフトどころか、不要でないソフトが一つも見つからない。
あるように思えない。

こういった場合、まったくゼロから、今のこの今から、
子どもが不快を感じたら泣く、という、そういうところからやり直して、
最初のソフトから、入れなおさないといけないのではないか?

そんなことを、ふと、考えていました。


もう一度、父の手口を整理してみることにしました。


格言だか口癖だかで、徹底的に、自己不全感を植えつける。
わたし一人じゃ何もできない、何もわからない、という根拠なく、
そう思ってしまうような人間をつくる。

これが下ごしらえ。

ここに実体のない恐怖を植えつけることで、
子どもを何かにすがる、依存するという方向に誘導する。
具体的には父に依存させ、そのうえで、父の「当たり前」承認をもって、
歪んだ安心(不安をベースとした偽りの安心)を与える。

それをもって、父親は、
「わたしは必要な人間なんだ」とキャバクラで豪語する。


「自分で決めたんだから」という、あの洗脳も酷い。
その徹底によって、それこそ、不全感がちゃんとした「自己不全感」になる。
その不全感は「あって当然」という意識状態にされてしまう。

「わからなくて当たり前」
「できなくて当たり前」
「ダメな人間で当たり前」

というふうに、自己否定からすべてがスタートしてしまって、
それを埋めてくれるのは、「わたしでない誰か、何か」というふうになり、
待ってました!とばかりに、父親が「Aby、すごいね」とOKを出すのだ。

気がついたら、主体性や自発性など、「実際は」どこにもなく、
その調教の繰り返しの末に、「今の自分でいい、と言ってもらいたい」という
たったそれだけの思いだけで生きていくような人間になるように、
仕向けられた、ということではないだろうか。

そしてそうやって作られた偽人格は、
この自己不全感があってこそ、不満があってこそ、
我こそはと生きのびてきたに違いない。きっとそうだ。

格言のことからいろいろ考えてきたけれど、
今回のこの父による「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」は、
自己不全感と恐怖の洗脳には、効率的な方法だったのではないか。
父の気をそこねないために、わたしは自分を抑圧する。我慢し、頑張る。
こうやって、自分で自分を裏切ってしまった。
父親似の狂った人にも、同じ恐怖を感じて、自分を裏切った。


・・・


「こわい」というものは、わたしにとって、なんとか
「こわくない」にしていかねばならないものだったように思う。
こわいものがこわいままだとすると、それは「父に殺される」と似た感覚が、
もしかしたら想起された可能性もあるのではないか。
こじつけのようにも感じたけれど、わたしにとって「こわい」というのは
あってはならないもの、拒絶するもの、そういうものだったような気がしている。

水や火に対する直接的な恐怖だって、水泳のときの恐怖だって、
「こわい」と親に言えなかったのは、わたしのどこかで、
「親に守られているのだとしたら、こわくないはずだ」というのが
あったのかもしれない。「こわい」と感じていることを認め、それを
親に告げてしまうということは、それは、「親に守られていない」ことを
意味したのではないだろうか?父の調教を考えてみると、たとえば、
「親に守られない」とは、父が血祭りにあげていた「他者」の側に
わたしが置かれることになる、といった恐怖でもあったかもしれない。

わたしの「いとこ」については、あまり書かなかったけれど、
つまり、私の父の兄の子どもたちと、よく母は、自分の子を比較した。
自分の子はダメだ、というのではなく、まったく逆で、
「わたしの子は、あんな父の兄のような子に劣る子になんてさせない」
という執念のようなもの、もはや、恨みに似たようなものがあった。
もちろん子どもから見ると、その子たちが、どう悪いのか、まったくわからない。
ただ、よく母がわたしたち子どもに言ったのは、一緒に遊んで
「目つき、態度、言葉づかい悪くなったら、しょうちしないからね!」
ということだった。

それは、あんに、「うちの子じゃないからね」ということと
同じ意味を持っていたと思う。

だから、「親に守られない」とは、母の場合には、
「うちの子じゃない」「捨てられる」ということにもつながったことと思う。

このあたりは、理詰めというよりこじつけに近いかな、とは思うが、
親を疑ったことがなかったわたしとしては、これでも疑いの程度が
甘いかもしれない。

実際そう考えてみると、
「こわくない」を証明すること、つまり、「感情を押し殺す」こと、
これこそ、わたしにとって、「親に捨てられない、親に殺されない」ための
解決方法だ、と思いこんだ可能性も十分、ありうると考えて
掘り進めていくこともできる。

「こわい」という感覚を、あれほどに拒絶することを考えてみれば、
それはまったく見当外れとも思えない。その通りでないかもしれないけど、
調教による影響は、十分にあったように思う。

前にも書いたことだけれど、父と母にとっては、
「不快に感じるような子は、いない」はずだったのかもしれない。
そうやって、わたしは感情を殺して生きる「おじろく」になったのだろう。


・・・


そういう準備がいろいろ整った段階で、わたしは
Pさんと出会い、同居へと進んだ。

わたしはずっと自分は主体的に、自分が決めた人生を
生きてきた、と思いこんできたから、わたしは傲慢さも兼ね備えていて、
わたしを理解してくれないのは、まわりがおかしい、とも考えはじめた。
とくに成人して、働きはじめてからは歯車が狂い始めた。
結局、父親似のへんなヤツにつかまるのがオチで、多くの人とは衝突した。

考えてみたらわかったことだけれど、
わたしは黙っている分には、そういうへんなヤツにとって、また
ある一定の範囲内で、わりと多くの人にとっても都合のよい存在になる。
でも、わたしが何かしゃべりはじめ、相手に要求しはじめたら最悪だった。
それは、反抗期に母親に対して理詰めで攻め寄ったわたしそのもので、
社会に出ても、また、Pさんに対しても、そうやって苛立っては
相手に拒絶された。そもそもわたしは、自分の希望や意見をもたずに
相手に攻め寄るのだから、相当、たちが悪かったに違いない。

それでも、わたしは一人、自分は主体性をもち、「自分の」意見を持った
自立した人間だと思いこんでいたのだから、挙句の果てに、
こんなふうに思いこむようになりました。

「もう主体的に生きるのは十分やった。でもまわりも理解してくれなさそう
だし、もういいや。社会なんてそんなもんなんだろう。だから自分はもういい。
残りの人生は、この人、Pさんのために生きよう。この人が自分を必要とする
のなら、それこそ、今のわたしでいいという証拠だ。もうそれでいいんだ。
主体的に、自立して生きるなんて幻想なんだ・・・」と。

わたしは一度も主体的になど生きたこともなかったのに、
「主体的に生きているはずだ、いたはずだ」という思いこみから、
とんでもない結論に行き着いてしまい、これ以上ない自分への
裏切り、自分の投げ売りをしてしまったのです。


・・・


母から見たら、わたしのこのPさんとの関係はどう見えただろうか?

Pさんとの関係については、わたしがおじろくになったというより、
別な視点での代理復讐だったのではないか、と考えてみました。

これは、母からすれば、夫(わたしの父)への代理復讐が
成立しているようにも見えたかもしれない。

というのも、母はよくわたしに、
「Pさんを大事にしなきゃだめよ。こわい思いをさせちゃだめのよ」
と会うたびに言っていたような気がする。

実際わたしは、たとえばPさんと口論になったとき、
「うるさい」「こわい」「もうやめて」「話したくない」「よくわからない」
と言われたら、そう拒絶されただけで、自分の意見を撤回してしまった。
以前にも書いたけれど、Pさんにとって、わたしの快・不快など、
まったく関心がない。それでもわたしはPさんへの依存から、
拒絶されたらそれならしかたがない、Pさんの言う通りにしよう、と
ここでもわたしは、自分を裏切り続けた。
たとえ不快とわたしが感じても、しかたがない、と。

気がつけば、Pさんの気をそこねない配慮で満たされた生活と仕事環境の中で、
毎日Pさんの気まぐれにつきあい、Pさんが笑えばわたしも笑い、
それが幸せであるかのようにして、しょぼいご褒美にしがみついたのだ。

母はその様子を見ても、
「もっとやさしくしなきゃだめよ。下手に出て下手に出て、それでも
やりすぎじゃないくらいなんだからね。怒っちゃだめよ、こわくしちゃだめよ」
と繰り返し、わたしに言った。まったく信じていない、といった具合に。

母にとっては、子どもの頃のAbyは、甘えさせず我慢を強いたことで
兄に対する代理復讐をはたしたのかもしれない。
そしてわたしが成人してからは、Pさんとの関係性を横目で見ながら、
どこか、夫への代理復讐をしている気分にもなっていたのではないだろうか?


・・・


(1)から(4)までと、随分、長いノートになってしまいましたが、
やはり書き終えてみて思ったことは、(1)でも書いたことですが、
いくら自我が希釈されていたとしても、自分を裏切ってはいけなかったんだ、
ということです。無自覚に裏切っていたことを、意識化すること、そして
「自分を裏切らないこと」を今からしよう、していこうと思う。

また意識的に行動していたことは、意識的だったからといって、
わたしの意思であるとは限らない、むしろ、それはわたしの場合多くは
調教の結果として洗脳された言動パターンであり、片っ端から
不要なソフトだ、ということ。そこも自覚していこう。

そしてわたしは、おじろくから抜け出したい。
今までわたしは何から抜け出したいのか、わからなかった。
ただただ、何かがおかしい、違和感がある、そればかりだったけど、
やっとここを掘りさげてみて、「おじろく」という無感情ロボットから、
感情のある人間に戻りたい。

不快を不快だ、と言える、そういう裏切らない自分であるために、
自我復元作業とAC人格の掘り出しと調教・依存の理解、
なにより、不快を不快とちゃんと言えているかどうか、
作業と平行して確認していこうと思います。


◇ ◇ ◇

桜の間の記事 「間接的な脅迫や調教」
http://www.mumyouan.com/k/?S275

◇ ◇ ◇



2013.10.28
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-28 00:36 | 復元ノート 1


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