「(2) 父の調教」の続きです。
※ 崩残さんからのメールの引用は、ピンク文字で記します。 ・・・ わたしの記憶では、たとえば、わたしには暴力を振るわないけれども、 妹(Aちゃん)や弟(Bちゃん)には暴力を振るうとか、そういうこともなかったので、 そういう意味では、兄弟間を利用して見せしめの暴力を父が振るった、 という記憶はありませんでした。また、母に対しても、子どもが見える形では 暴力を振るいませんでした。 ところが、崩残さんより >ほかの兄弟に対して、両親の接し方に、Abyさんへの接し方との >違いはありませんでしたか? と訊ねられたとき、どこかひっかかるものがありました。 それは前の投稿でも書きましたが、平等、平等と言って育てたわりには、 わたし自身、お兄ちゃんという意識を強く持っていることでした。 暗がりでおばけごっこをして、弟がケガをしたときもそうです。 わたしが加害したわけでもなんでもないのに、突然母にひっぱたかれても、 「とんでもないことをしてしまった、わたしのせいだ、 わたしがたたかれるのは当然だ、わたしのミスだ、 お母さんを怒らせてしまった、お母さんに悪いことをしてしまった」と、 たたかれる前に、即座に、そう思ったような気がしています。 それは、わたしは「兄」であり、その場の安全を守る責任がある、 「こういう事態を招いてしまった、わたしの管理ミス」こそが落度であり、 結果としてこうなってしまったら、わたしが責められるのは当然だ、 という感覚があったのだと思います。 いい訳など、したこともありませんし、しようとも思いませんでした。 反射的に「ごめんなさい」と言っていたと思います。 本当に自分が悪いと思っていました。 ここはわからないところなのですが、 もしかしたら、帰りの車のなかなどで、母から 「もう二度と来られなくなっちゃったじゃないの」とか、あるいはその後、 「お父さんからもう絶対行くなと言われちゃった」とか、そういう話というか、 愚痴を母からきかされて、わたしがさらに自責の念を深めた可能性もあります。 そういうこともあるかもしれませんが、いずれにせよ、どこかで 「お母さんがお父さんに怒られてしまう、お母さんに悪いことをした、 完全にわたしのせいだ」と思い込んでいるところはあるみたいなのです。 そういう日常を思い出しても、リアルな感覚として、 それがストレスだったとか、抑圧だったという記憶が沸いてこないのですが、 少なくともわたしは、「お兄ちゃんなんだから」といって神経をつかい、 その場の安全を確保し、問題なくそこをおさめる、というのは、日常、 あまりに当然のことだ、と思っていたのだとは思います。 それに関しては、違和感なく、そう思えます。 この「お兄ちゃん意識」は、 わたしだけではありません。 妹も弟も、「お兄ちゃん」という別格意識は強いものがありました。 今でも時々会って話をすると、冗談言いながら馬鹿にしながらも、 わたしを見る態度は、どこかつねに、「お兄ちゃんは立派だ、 お兄ちゃんは間違わない」という、そういう「前提から」、 わたしを見ていることがわかります。 母や父は「そんなことはない。平等だった」と言いますが、 先述した「お兄ちゃんはやっぱり立派でないといけないと思った」という 母の発言からも矛盾します。以前、こんなことも言いました。 「Abyはお兄ちゃんという立場でなく、一人の人間として、0歳から そう育てた。自立を促した」と。わたしも甘えた記憶がありませんが、 母もわたしを甘やかさなかった、と言います。そしてたくさん我慢しなさい、と。 母の言う立派とは、つまり、 「他人の気持ちを察し、配慮し、できる我慢はしなさい。 だけれど、自分の意思を持ち、主張し、自立しなさい」という理想像、 結局それは、母が自分の母親に甘えられなかった、自分が寂しい気持ち だったことをわかってもらえなかった、兄からも「お前は自立できないなあ」 と馬鹿にされ、かまってもくれなかったことの反動であり、 Abyを理想の母親像に育てあげることが目的であったろう。 そう考えている母が、はたして、兄という存在を意識することなく、 わたしを「お兄ちゃん」というフィルターを通して見ないことなどできるだろうか? そう考えてみたことと、兄弟間で扱いがどう違っていたかを見ることで、 「やはり、平等とは言えない」という理解に至りました。 ・・・ かかわり方という意味では、客観的に見えれば、 わたしには厳しく、末の弟には甘かったのです。 それは母も認めていて、同様、父も末の弟には甘かった。 甘かった、というより父の場合は、「馬鹿にしてさえいた」。 では父はわたしにどう接していたかといえば、どこか 「距離がある」「遠慮している」感じがあって、 「お兄ちゃん」という別物、腫れ物にさわるような感じです。 と考えてみると、この別格感は、妹と弟にも伝播しています。 ですから、尊敬というのとは違って、畏怖している感じなのです。 実際、わたしは妹と弟とも兄弟喧嘩をしたことがありません。 でも、妹と弟はよればさわれば喧嘩をしていた、といいます。 平等で育ったとは思えない、よそよそしさです。 父はよく妹(Aちゃん)にこういう話をしていました。 「Aちゃんは、誰よりもがんばり屋。悔しがり屋で、なんでもチャレンジした。 努力といえば、Aちゃんはいつもすごかったなあ。でもねー、 Aちゃんは、どうしてか、一番になれない。二番なんだよね。 ほんと、悔しかったと思う。」 次男に生まれた父「おじろく」が、どんなに頑張っても 長男になれない、一番になれない、そういう自分と重ね合わせているとしか 思えません。 さらに女の子だから、ということで、それこそ目茶苦茶なことを Aちゃんに言っていたことを、かなり後になってから、父本人からきいた。 「Aちゃんは、世界一きれいなんだよ。鏡をみてごらん。 世界一の女の子なんだから、つらいことがあっても、 顔に出しちゃいけないんだよ。我慢しなさいよ。」 さも当たり前のことを言っているかのように、 父はわたしに話したことがある。 弟に関しては、とりあえず、馬鹿にした態度が常にある。 見た目としてはじゃれているように見えるが、よく見ると、 そうでなく、一番下に生まれた人間をさげすむ態度がある。 それもまた、次男に生まれて、親に認めてもらえなかった恨みの 反動としか、今になって思えば、見えない。 ところがわたしの悪い癖は、まさに、父の言ったことを疑いもせず 鵜呑みにしてしまったことで、わたしは父は、子どもをつねに味方して くれているもの、応援してくれているもの、と思い込んでいました。 ですから、妹に父が言ったことに対しても、妹が美人だと言っているんだね、とか、 「ああ、お父さんは、努力を評価しているんだよね。順位はいいんだよね」 とか、弟の話をきいても、ただ、甘やかしている、フレンドリーな感じ、と 解釈してしまっていたのです。 まさか、わたしたちをおとしめようとしている、とは 考えもしなかったのです。 それは父のあの見せしめのような暴力もそうです。 そのときは、わたしは、誰かがボコボコにやられていて、罵声を あびせられていても、わたしたちを見て「ニヤリ」とする父の顔をみて、 「わたしたちは大丈夫なんだ、父はわたしたちの味方なんだ」と思って、 それこそ歪んだ安心を得たのだと思います。 でもこれが歪んでいたのだ、と気づいたのは、反抗期でも わたしは父に一言も何もいえなかったのを思い出したからでした。 もちろん幼少期から、そういう恐怖を植え付けられていたわけですが。 ちょっと例はへんですが、こんな感じかな、と思いました。 父はつねに人を殺せるナイフを持っている。 そしてそのナイフで人を殺すシーンを見ている。 あるいは見ていなくても、きかされて、威嚇されている。 しかし父はそのナイフをちらつかせながら、 こちらを見て笑い、「お前は守ってやるよ。ほら、このナイフを見ろ」と言う。 でもわたしは、そのナイフでいつわたしも殺されるかわからない、 という不安をつねに抱えている。 守ってくれているのもそのナイフだけれど、 わたしの命を奪えるのも、そのナイフ。 父の気をそこなわない限りは、守ってくれるナイフ。 父の気をそこなえば、いつ殺されるかわからない。 もちろん、父はそんなことはおくびにも出さない。 「子どもたちのことが世界で一番好きだよ」と言うだけ。 あの「ニヤリ」は、「お前たちの味方だよ」という合図とともに、 恐怖を植えつけることに成功していた。 結果、母も含め、直接暴力を受けなくても、いつもビクビクしていたわけだし、 わたしだけじゃない、妹も弟も、父には一切、反抗できなかった。 思い出してきたけれど、なんだかみんながみんな、機嫌をとっている。 父を不快にさせないよう、させないよう、振舞っている。 父と母が別居した直後は、父の精神状態も最悪で、 家具なども叩き割ったりしていていました。 母と暮らしていたAちゃん(当時大学1年)に対して、父は、 「どうしてAちゃんは、わたしのところにこないんだ!」と 怒りをわたしにぶつけていたことがあって、 もう今日会いにこないなら、縁を切る、とまで言い出したことがありました。 Aちゃんは怖がりました。 会って何をされるかわからないからです。 そのとき、まったく父親を冷笑する、という余裕などなく、 ただただ怯えて、泣いてわたしに相談をしました。 わたしは仲介に入って、怯えるAちゃんを 守ろうとしました。なんとか守らなければ、と思ったのです。 弟のBちゃんについても、わたしは 必死に守ろうとした大きな出来事がありました。 詳細は割愛しますが、今思うと、そのどれも、 わたしは判断ミス、行動ミスをしたのだと思います。 あのアルバイトの件と同様で、もしもそのときわたしがやるべきことが あるとしたら、父親の脅し、その外圧に対して、一歩も引くことなく、 全面戦争することだったのに、妹にも弟にも、わたし自身にも、 「その外圧に従ったうえで、いかに危険性を回避できるか」という思考を 押し付けてきてしまったのです。 その外圧の存在を認めてしまうところからスタートし、 そこから逃げることをいつも考えている。 この構造は、「こわい」と思ったにも関わらず、それを許し、 「こわくない」と思い込もうとするわたしの思考パターンと似ている、 と思いました。 わたしは「わたしを裏切ること」から、 どうしよう、どうしようと、麻痺を続けてきたのだと思います。 そこからスタートしているわけですから、 わたしを裏切らないようになることになど、なるはずもないのです。 いつもその場、すぐそこで、「自分で裏切ることをしない」ように すべきだったのだと思います。 ・・・ 記憶をたどってみると、わたしは「お兄ちゃんだから」 ということで、たとえば、両親の別居や、兄弟が学校をやめるかどうかとか、 そういったことも「お兄ちゃんなんだから」と言われて、 「決めさせられた」ことが多かったのを思い出しました。 以前ブログにも書きましたが、あれはまだ小学校4年生くらいだった にもかかわらず、父と母のどちらを選ぶか、という選択を迫られました。 ブログでは「みんなが母を選んだらフェアじゃないし、父が可哀想だから わたしだけは父を選んだ」と書きましたが、はたしてそうだろうか? それ以上にわたしは、「ここでわたしが母を選んだら、おしまいだ」と、 家族間管理をわたしは強く意識したと思います。 この家族の安否は、わたしの判断次第だ、という妙な責任意識は、 小学生の頃には確立していたと思います。 二十歳をすぎて、母と父は本格的に別居することになるのですが、 二人はわたしにこう言いました。 「お父さんとお母さんは別居することになるけれど、 3人はどうするか、お兄ちゃんと話し合って決めなさい。」と。 そして、相談した結果、「お兄ちゃんがそう決めたのならそうしよう」 となったと思います。わたしもそれが負担だった記憶がなく、 わたしがそうするべき当然の役割にいる、と思っていました。 ですから、その後の家族の混乱については、どこかでずっと、 「わたしが決めたことだから、悪いことがあったらわたしのせいだ」 と思ってきたところがあります。 なぜ、わたしのせいだ、と思う必要があったのだろう? これについては、あの父の「自分で決めたのだから」という 洗脳が、ずっと影響したのだと思います。 責任放棄した本人が、上手く誘導し、わたしに押し付けたのに、 すべては「わたしが決めたことになっていて」、 悪くなればAbyのせい、そうでなくても「お兄ちゃんが勝手にしたこと」 というくくりで、わたしはいつも謝っていた。 この感じは、Pさんとの関係でも顕著にあらわれた。 わたしに非があろうがなかろうが、最後に「悪かった」と謝るのは わたしだった。そうやって、その場を済ましてきた。 わたしが「ごめんなさい」といえば、それで済むいう解決の仕方を 身につけてきてしまった。 自分を裏切るがゆえに、とってしまった解決策だったと思う。 それ以外にも、判断ミス、行動ミスはたくさんあった。 別のアルバイト先でも、わたしはクレーム処理の役割を 与えられることが多く、ことなきことにすることから、 会社からは重宝がられた。わたし自身も特技だと思っていた。 クレーマーも、会社も、問題はなかっただろう。 だけれど、なにより大問題だったのは、 わたし自身だったのだ。 いつもわたしはその時、まるでロボットのように感情は消して、 作り笑顔で、できるかぎり話を上手くきき、ガス抜きをしてもらって、 「もうお前にいろいろ話したからいいや」と思ってもらえるまで、 わたしが人形のように愛想良くふるまったことです。 結果、どんなに暴れそうな怖い人でも、わたしは、怒らせることなく、 ほぼ100%、機嫌よく帰ってもらうことに成功しました。 自分を裏切りまくっての、しかも、ちんけでつまらない成功体験なのに、 まわりもわたしも、この「問題をなかったことにする処理の仕方」を 高く評価していました。まさに、テーブルにひろげるどころか、 ちょっと危険因子が出てきたら、それが暴れだす前に「抑える」、 という力こそが、わたしの特技だと思い込んでいたのです。 家族の間でも、ずっと自分を殺しながら、培ってきた技でした。 結局、それで都合がよかったのは、わたし以外のまわりだけで、 一番都合がよかったのは、父やクレームを言ってきた人たちでした。 そのことにはまったく無自覚だったと思います。 その根本には、やはり、「こわいこと」をなんとかなかったことにしよう、 という恐れがあったと思います。 ・・・ ここまでのことを思い起こし、考えてみたところで、ようやく、 父親「のような」人物像の掘り出しに着手することができました。 話の全体を聞いて、感じたことは、 Abyさんにとって、最も怖いのは、やはり、 父親「のような」人物像です。 つまり「怒ると何をするか分からない」というタイプです。 そして、これに非常にダブるのが、 そちらの話に出てきたアルバイト先の、変な社員です。 報復とか、変なことを言う、何をするか分からない というところが、父親に重なり、 それが恐れをそこまで増大した可能性も疑われます。 Abyさんにとって怖いとは、 水に溺れそうになった時のような具体的な現実の怖さの記憶 だけではなく、 父親がダブるようなものに怖さは感じませんか? はじめわたしは、そのメールを拝見したとき、 「そういう人っていたかなあ・・・」と思っていたくらいでしたが、 とんでもありませんでした。何人もいたのです。 詳細については、ここでは割愛しますが、 そういった人物像には共通点がありました。 1.父のあの「ニヤリ」と同じ、不気味な笑い方をする。 お前の味方だよ、ということをアピールするときにする。 「次はお前の番ということもあるよ・・・」という脅迫をこめて。 2.怒ったら何をするかわからない、と本人が言っているか、 誰かがそういううわさを流しているかしている人。 3.「Abyさんは、人間ができている」というようなことを言いながら どちらかというと、相手からわたしに関わろうとしてくる。 たいていそういう人は、「見てすぐわかる」と根拠なく言う。 (わたしはそう言われたいと一度も思ったことはないのに、です) 4.直接わたしに暴力を振るうことはないが、わたしにわかるように 見せしめのような暴力を他者にふるったり、そういった経験を自慢する。 5.とりあえず一見愛想がよく、あたりがいい。しかし、気にくわないことがあると、 何が気にくわないのかわたしにはまったくわからないで、突然、キレる。 6.食事など、執拗に誘ってきて、こちらの意見などまったくきかない。 当然OKだよね、というスタンスで接してくる。 この特徴は、まったく父そっくりなのです。 そしてこのような人と接することで、結果、わたしはどうなったか、というと、 こういうことでした。 ・ 学校をやめることになった。 ・ バイトをやめることになった。 ・ 仕事の依頼を断ることになった。 ・ やりたかったこともあきらめるようになった。 ・ その人といる間は、嫌でも我慢した。 ・ その人と離れるときは、嘘を取り繕って逃げた。 言うまでもなく、これらはわたしが妄想をふくらませ、 自分で恐怖を煽ったことで、自分でそうしてしまった「結果」です。 いくら調教由来であっても、ここで自分を裏切らず、 そうしない道を見つけることもできたはずなのに、わたしはしなかった。 そうやって、自分の道をどんどん狭めていきました。 それに気づいてはじめて考えたのが、これで得をしたのは 誰かといえば、つねに、父親似のそいつらだった、ということでした。 わたしはなぜ、彼らがわたしのことを知りもしないのに、 「Abyさんは、みんなと違うよ。すごいよ。人間が出来ている」などと 言うかが、不思議でした。 でもそれは、人間が出来ている、ということではなく、 その人たちが言いたかったことは、「Abyさんは、何でもしてくれる」 ということにすぎませんでした。 その人たちは、わたしが自分のことは犠牲にするだろうこと、 そして、その人をわたしは責めないことを知っていたのだと思います。 わたしはただ、利用されただけだったのです。 さらに、架空の恐怖を与えておけば、いとも簡単に不安におとしめて、 コントロールできることが、わかったのだと思います。 当然の結末ですが、わたしに利することなど、何ひとつありませんでした。 わたしはその都度、「へんな人に出会っちゃったなあ。運が悪かった」 という認識しか、毎回、持たなかったのです。 むしろ、相手のことを騙しちゃった気がするなあ、とか、 わたしが優柔不断だったために傷つけちゃったかなあ、とか、 最後は、「わたしが悪かった」と相手に謝ったことばかりでした。 どのパターンも同じです。 わたしがとった行動は、どれも怒ると何をするか予測できない相手、 またその人から直接何をされたわけもないのに、他人からきいたうわさを 鵜呑みにして妄想し、ふくらませ、怖がり、逃げまくっていた、 逃げながら、自分の生活を怖がることに甘んじていたのです。 どれもこれも、金太郎飴みたいに同じでした。 1/実体ははっきりしないのに、 怖いと他人から言われたもの(人でも理論でも)を、 そのまま怖がる癖です。 2/怒ると何をするか予測できない相手を怖がる癖。 もしもそうだとしたら、それは、 父親からの、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」で 調教された可能性が大です。 整理してみると、まさにわたしの悪癖であり、 ここまできて、わたしはやっと、 「わたしは調教されたのだ」という事実を 確認することができました。 ・・・ 「(4) 父の調教」に続きます。 2013.10.28 Aby ●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
by jh-no-no
| 2013-10-28 00:35
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