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こわくないと思い込もうとする癖

「今の自分でいい、と言ってもらいたいわたし」の出鼻に
自覚的でいようとすればするほど、
日常のほんの些細な言動の随所に、コイツが自動的に
顔を出してくる。

どうしてこんなにも反射的に出てきてしまうのか?
「今の自分でいい、と言ってもらいたい」のは、どうしてか?
ここは掘り下げが甘いと思ったので、
日々の反射的な言動の「動機」を観察してみることにした。
「不快を見たくない不快」があることに気づいた。

それは、どちらかというと、拒絶反応に近いみたいで、
パッと「反応」してしまっている。不快だな、と客観視できるような
距離感でなく、熱いものに手を触れたら、サッとひくような速度で。

そう思ったとき、これではもっと根っこにある不快そのものを
掘ることを、その入り口でとめてしまっているようなものだ、
これはヤバイ、と思って、その手を引っ込めるような反応の起こりを
できる限り注意深く観察することにした。

わたしにとっての不快、不快としてリアリティのある感覚とは
今も昔もなんだろう?と考えてみたら、それは恐怖、
こわいという感覚だ、と思った。


「こわいのを、こわいと言えない」
「こわかったのに、こわかったと言えなかった」


どうやらこの思考が、つねにあるようだ。
こわい、と感じると、パッと目をそらす。
こわくない、こわくない、と思い込もうとする。
こわかったのに、気にしていない、何でもなかったと、
何とかしようとする。

「こわくないよね、大丈夫だよね、平気だよね」
と思い込もう、思い込もうとする。

だけれど、こわいのはこわいままだから、
そこで自己矛盾が起こる。

こわくないと思い込もうとするわたしが
なんとか「こわい」と感じたわたしを制圧しようとする。
でも、制圧はできず、黙らせる、見てみないフリができるのみ。

やっぱり、矛盾を抱えることになる。
だからずっと不安のまま。
こわくないよね、これでいいんだよね、そうだよね、と。

誰かにそう言ってもらいたい・・・


このプロセスは一瞬だけど、そこを経過して、
「今の自分でいい、と言ってもらいたいわたし」の出番がでてくる。

そもそも、こわいのをなぜこわいと言えないのか?
なんでこわいのを「こわくないよ、平気だよ、大丈夫だよ」と
自分に納得をさせなければならないのか?

考えれば考えるほど、よくわからない。
こわいままだとどうなるというのだろう?
こわいと思っているのに、こわくないと思い込もうとすることは、
どう考えても矛盾しか生まない。

そしてその矛盾を自分で抱え切れなくて、
自分以外の「何か、誰か」にすがることになる。
成人してからはこのパターンを、すがる(依存する)対象を変えながら、
延々と繰り返している。
「こわくないよね、平気なんだよね、今の自分でいいんだよね」と。


どうして、こわいをこわい、と言えないのだろう?


考えてみたら、子どもの頃からずっとそうだった。
不快にはいろいろな感情があるだろうけれど、わたしにとって
不快とは、恐怖感が身近だったことを、少しずつだけれど、
思い出してきた。


・・・


5歳頃の記憶だと思う。

これはわたしが今のところ思いだせる不快の記憶のなかで、
最も古いかもしれない。


わたしは水泳を習わされた。


感覚としては薄れてしまっているが、あるとき、わたしは
溺れそうになったことがある。
腕に浮き輪をつけていたような気がする。
ところが、それがあったせいで(あるいはおかしなつけかたをしていたのか)
姿勢を崩したとき、元の姿勢にすぐに戻れず、すごくこわかった、
ということを思い出した。


水がこわくなったのは、その時からだ。


溺れた、と自分は思っているが、まわりからは
そうは見えなかったのかもしれない。
誰も助けてくれなかった。

このことは、わたしは母にも言えなかった。
ただ、どうやら水泳は行きたくないような雰囲気を出していたらしく
身体を動かすものなら他でもいい、ということで、
水泳はやめて、身体を動かす他の習い事をはじめたのを覚えている。


小学生に入っても、水に対する恐怖感は続いた。


お風呂に入っても、もぐるだけで怖かった。
学校のプールも、着替えるだけで怖くなった。
水の恐怖については、誰にも話せなかった。

この恐怖感をわたしはどのように克服しようとしたか、と
いうことだが、これについても、誰にも話したことがなかった。


わたしは恐怖体験を、再度、自分で体験し、
それでこわくないと思えるようになったら、
克服したことになると思っていた。


「こわいと思うからこわいんだ」、と思っていたのだと思う。
わたしは小学生のプールでは、毎回、水の中で宙返りをした。
鼻に水が入り、恐怖感がピークに達する。
毎回これをやることが儀式のようになっていて、
生きた心地がしなかった。

こわいのはずっとこわいままだった。
だけど、なんとかしようといつも必死だった。

ところが水に対する恐怖感は減るどころか、どんどん増した。
普段、息をとめる、ということも儀式の一つにしていた時期もある。
おそらくこれは水のなかでは息ができない、ということの恐怖を
なんとか克服するために、自分で自分に課していたことだと思う。
苦しく、そして、やればやるほど、恐怖は増した。


水だけじゃない。こんなこともした。


タンスの上から、宙返りして落ちる。もちろん布団を敷いてだが、
楽しくてやっていたのではない。こわいから、やっていた。
こわいって思っちゃいけない、いけない、となぜか思っていた。
「こわくない」と自分に言い聞かせた。


この記憶を辿っていくうちに、あの、数を数える儀式のことを
ふと思い出した。なにか関係がある、と思って考えてみると、
おそらくこういうことじゃなかっただろうか、とつながりが見えてきた。


つまり、それはこういうことだったと思う。


こわいことを繰り返すことで克服しようとする試みは、
当然、エスカレートした。
もっと何回も、もっと長く、もっと高いところから・・・というふうに。
当然、どこかで出来なくなる。怖すぎて。

そしてこんなことをしている、なんて親には言えなかった。
気づかれないように、そっとやっていた。
一度、床に落ちた音が大きかったので「どうしたの?」と
きかれたが、「なんでもない」と答えたのを覚えている。

親に言えない。

でも、こわい経験は、これ以上はこわくて出来ない、という
ラインに必ずくる。そのとき、わたしは、たとえば、
「このタンスのこの部分を何回タッチすれば、許される」という
ルールを自分で作った。

当然だが、このルールも、誰にも話したことがなかった。
こわい、というわたしの感覚、その経験は、誰にも言ってはならず、
隠し通さなければいけない、と、強く信じていた。


そこまで思い出して、そうだった、わたしはずっと、
「こわい」を「こわい」と口にしてはいけない、と
思っていたことに気づいた。


・・・


なぜだろう、と考えているときに、思いがけず、
父親がよくわたしに言っていた話、口癖を思い出した。
格言を網羅したような、こんな話だ。


「こわいとか、つらいとか、それは当たり前。
誰だってそう。世の中そういうことばかり。
こわくない、つらくない、なんていう人は一人もいない。
お父さんもヤクザと喧嘩するときは、こわくてしかたがない。
でもね、Aby。心頭滅却すれば火もまた凉し、といってね、
火も熱いと思うから熱い。そう思うからそう感じる。
こわいと思うからこわい。こわくないと思えばこわくない。
できないと思ったら、できることもできなくなる。それが人間。
昔からね、なせばなるなさねばならぬ何事も、という諺がある。
Abyはいつも、自分の限界に挑戦している。これでいい、
と思わないで、これでもかこれでもか、と自分に厳しく、
自分の意思で闘ってきたから、今のAbyがあるんだよ。」


こわいと思うから、こわいんだ。


もしも、父や母が、
「こわいはずなんてないでしょ!」と頭ごなしにでも
言ってくれたら、まだ、「いや、こわかった」と言えたかもしれない。
でも、こわいと思うから、こわいんだと父に言われ、何でもかんでも
我慢しなさいと母に言われ、きっとわたしは、かなり幼い頃から、


こわいと思うわたしが悪いんだ

こわいなんて本当は違うんだ。

こわくなんてないんだ。

そう思えないわたしがおかしいんだ。


そうやって、わたしは何度も何度もこわいと思った経験を
その後も繰り返し繰り返し、いつこわくないと思える日がくるか、
試し続けた。


心頭滅却すれば・・・という格言を知ってからは、
わたしは火も怖くなった。テレビでも、火傷をして包帯をしている人が
ドラマで出てくるだけで、もうそのドラマは見られなくなったし、
何かの修行かわからないけど、熱いものを触る映画のシーンなど
脳裏に鮮明に焼きついた。こわくてしかたがなかった。


水や火の恐怖は、わたしが不快と感じた
今のところかなり古い記憶だと思う。


この不快に対して、わたしは、完全に押し殺した。
こわいわけがない、と。
こわいのにこわくない、こわくない、と言い聞かせたわたしが、
今時点も生きのび、「こわいのを、こわいと言ってはいけない」という
拒絶につながっているのではないか。


・・・


この記憶と平行して、もう一つ、拒絶に関する記憶を
思い出した。

それはおそらくもう小学生になっていたと思う。
ある夜、ベッドでわたしはこわくてしかたがなくなった。

「お母さんとお父さんがもしも死んでしまったら・・・」

と考えたとき、わたしは、猛烈にこわくなった。
完全な拒絶、頭は真っ白で、わたしはなんてことを
想像してしまったのだろう、そんなことがあるなんて
ありえない、死ぬなんてあるわけがない、考えられない・・・
と、尋常でない恐怖を感じたのを思い出した。

わたしは一人、身近な家族を記憶がないほど幼い頃に
亡くしている。部屋にはいつも写真がおかれていた。

毎日見ていた。

わたしは覚えていないのだけれど、生まれてから数年は
ともに過ごした人だった(仮名:Cちゃん)

寝る前には、必ずこう唱えるように、母と父から言われていた。

「Cちゃんお休みなさい。お母さんお休みなさい。
お父さんお休みなさい」

これは必ず毎日唱えてから眠った。
わたしは両親が死んでしまったら・・・とふと考えたとき、
Cちゃんの死を即座に連想したのも、それも一因だと思う。
Cちゃんは死んじゃった。
死は起こるものであり、両親だって・・・と考えると、
頭の中は真っ白だった。両親がいない世界に自分がいることなど
考えることはできなかったし、考えてはならないことだと思った。

だからその時、自分は悪いことを考えたんだ、悲しすぎることを
考えたんだ、だから泣いていないとおかしいんだ、どうして泣いて
いないんだ、泣け、泣け、涙を出せと自分を責めた。

わたしにとって、それだけ両親の存在は絶対的なもので、
両親の不在など、こわくてしかたなかった。でも、この時も、
こわいとは言えなかった。このことは誰にも言えなかった。
死ぬなんてことはないんだ、そんなことを考えるのがいけないんだ、と、
わたしは、こわいと感じた感情を押し殺した。
死などありえない、と事実を押し曲げてまで。


水や火、親の死、それらへの恐怖。不快。


なんでそこまでして、こわいと言ってはならなかったのか?
こわいと言ったら、どうしてダメだったのか?
それにしても、どうして、何もかも、自分一人で抱えこんだのか?


・・・


こんなことがあったことも思い出した。


小学生の頃か、それより前かは思い出せないが、
ある日、わたしは、外で蜜柑の皮をむいていた。
後ろを振り返ると、片手のない男の人が立っていて、
笑っていた。


これは本当にこわかった。

咄嗟に逃げた。


このことを、親にわたしは報告したのだが、
思い出してみると、「こわかった」とは一言も言えず、
わたしはこう切り出したように記憶している。

「このへんで、片手のない男の人、たまにいるよね」と。

親はたしか、こう答えた。

「いるね」

と。

「どうかした?」とその後きかれたかどうかは覚えていない。
たとえきかれていたとしても、「別に。今日その人いたよ」
くらいしか言えなかったと思う。
ただわたしはその時、本当は、こわかった、と言いたかった。
すごくこわかった、と。


でも言えなかったんだ。


・・・


父の口癖で、もう一つ、あまりに日常的な言い分だったので
口癖とも思わなかったものを、もう一つ、見つけた。

「困ったことがあったら、何でも言いなさい。
必要なことは、何でもしてあげる。何でも買ってあげる」

という言葉。そして、わたしは、本当に父はそうだった、と
成人するまで思い込んでいた。わたしが困ったことがあったら、
何でもしてくれる、そんな父親なんて世界中にわたしの父親だけじゃないかと
本気で思っていた。


完全に調教に成功した、
ということだ。


考えてみると、何をしてくれたんだろう?

衣食住はたしかに面倒を見てくれた。
学校にも不自由なく通わせてくれた。
友達が持っているようなものは、わたしにも買ってくれた。

でも、「何でもしてあげる」というほど、何かしてもらった記憶はない。
具体的なものがないのだ。
「何でもしてくれたんだ」という洗脳しかない。


よく父が話していたのは、

「計算用紙は100枚でも使っていい。1枚で本当はすむかもしれない。
でも、100枚使いたかったら使いなさい。それは無駄じゃない。
足りなければ、お父さんに言いなさい。何でも用意するから」という話だが、
だいたい、100枚なんて使うはずがない。

そうだ、父は、わたしが使うはずもなく、要求するはずもないことを
わざと出してきて、「〇〇が欲しいなら言いなさい」と言っていたんだ、
思い出してきた。わたしは、それに対して「いらないよ」と笑って答えた。

いるわけないものばかりだった。

世界中のケーキが食べたいなら言いなさい。
この店で一番(値段が)高いものを食べたいなら言いなさい。

・・・そんなの、誰もほしいなんて思ってもいない!
わたしが「いらない」と言うのがわかっていたはずだ、父は。


そしてうまーく父は、自分が出来ないことは、
「それはAbyの努力だよ」と誘導した。
だから、わたしは困ったことを相談したことなんて
一度もなかった。

困ったら、それはイコール「ダメ」なことであり、
自分でなんとかしなければならないことだった。


こわいのもそう。


こわかったら、こわくないように、
なんとかしなければならなかった。


・・・


ここまで「こわい」というわたしにとって大きな不快だった感情を
押し殺すことになったのは、どうしてか、まだよくわからない。
でも、言えるのは、絶対に押し殺さなければならないものだ、
親に言ってはならないものだ、と思っていたことは事実だと思う。


これを言ったら、おしまいだ、というくらいの
当然さがそこにあった。


それはもしかしたら、母と父を否定することにつながっていたようにも思う。
全面的に両親を信じていたわたしは、それは自己否定でもあったのではないか。

というのも、今までブログにも何度か書いたことだけれど、
母はわたしに「理想の母親像」を求めた。母が幼い頃、自分の母親に
甘えられなかった、目をかけてくれなかったという思いがある。
父は子ども時代、自分の存在すら母親に認めてくれなかった思いから、
子どもに自分の存在を認めさせようと、わたしの母同様、
わたしに「理想の母親像」を求めた。


わたしの両親の子育て観は、一言でいってしまえば、
Abyを「(母と父にとって)こういう母親だったらよかったのに」という
人間に調教することが目的だったと思う。

だから両親はよくこうも言っていた。

「とりあえずAbyには、わたしたちのような苦労はしてほしくない」

と。やさしい両親だとばかり、わたしは思ってきた。

実際、母も父も、子育ての頃の話をきくと、
そこに迷いがなさそうだった。「子育てはタイヘンだった」とは言うけれど、
そこに、迷いというか、葛藤とかは、話をきいてもまったく出てこない。

絶対的な信念(つまり、自分の親への恨みの反動)があって、
わたしを育ててきたのがわかる。
母は、目つき、態度、言葉づかいを見れば、Abyが今日一日、
どう考え、どう思い、どう行動していたのかわかった、と言う。
それは母親として、当然の責任だ、とも言っていた。
(そういう親が少なすぎる、と他の親を批判するくらいだった)

父は当然のごとく、「自分は正しい人」だった。
父があやまったり、反省したのを見たことは一度もない。
世界で一番正しい人間だ、とすら思っていると思う。冗談でなく。


問題だったのは、
両親に対して、「わたしも」
そう信じてしまっていた、ということ。


わたしにとって、二人は世界中の誰よりも
誇るべき親であり、理想の象徴だった。


少なくとも高校生くらいまでは。


・・・


そういう二人に対して、こわいとか、そういった
不快だった体験を言えたか、ということだが、
言えなかったのは事実だった。

もしかしたら、両親は、
「こわいなんて言うな、いやだなんて言うな、
つらいなんて言うな、できないなんて言うな・・・」という
無言の圧力をわたしにかけ続けたのかもしれない。

なぜなら、わたしが「こわいと思ったり、いやだと感じたり」していることは、
二人の基準では、「よくないこと、ふさわしくないこと」であり、
まさかAbyがそう思うわけがない、だってちゃんと子育てしているんだから、
文句なんてないに決まってる、だってわたしは自分のあの親とは違う、
だからよく見ている、何でも与えてあげている、間違っているはずがない、
あとはAby本人の努力だ、Aby次第だ・・・そう思っていただろうから。

それこそ、わたしは察して、
「こわいなんて言っちゃいけないんだ、いやだなんて
言っちゃいけないんだ・・・」と、二人の声を
読み取ったのだと思う。

わたしが困ったり、怖かったり、そういう感情は、
親からしてみれば「感じるはずがない」とさえ思っていたかもしれない。
その「感じるはずがないこと」を感じたわたしはおかしい、と
わたしは咄嗟に感じていたのではないか。

どこか、「こわいと言えなかった」時の記憶の隅っこに、
両親をかばう気持ちが、薄くだが記憶に残っている。
これを言ったら、両親が傷つく、あるいは驚く、ひいてしまう、と
咄嗟に感じていた気がする。


親はつねに間違っていない存在だった。


間違っているとしたら、わたしのほうだ、と
それは当たり前のように思っていたと思う。


わたしが不快を告白することは、
両親の絶対性を揺るがすものだったといっても
過言ではなかったように思う。


不快を感じるような子は、いない、はずだったのだ。


それだけ完全な子育てをしていると「両親が思っている」と
幼いながらもそれをわたしは知っていたのではないだろうか。
親の否定は、自分の存在否定でもあったのではないか。
あれほどの拒絶を考えると、それも誇張ではないように思えてきた。


・・・


不快を押し殺すというのは、そもそも、
感情を押し殺すということだと思った。

わたしがどうして喜怒哀楽を
「心から感じたことがない」と思っているのは、
それらを押し殺してきたからじゃないだろうか?


「こわいと思うからこわいんだよ」


というこの一言は、思えば、両親の子育て指針の核だったし、
同時に、今のわたしの行動原理そのものだ。
言動の全パターンは、感情を押し殺すことを「前提」にしている。
そうやって培ってきた、身に付けてきたものに、
価値などあるのだろうか。価値があったとしたら、それは、
母と父にとって価値のある言動パターンでしかない。


こうあってほしかったよ、お母さん・・・という、
母と父にとって、都合のいい道具。いや、道具ですらなく、
見せ物。母と父の復讐達成の証。それがAby。


 > わたしは恐怖体験を、再度、自分で体験し、
 > それでこわくないと思えるようになったら、
 > 克服したことになると思っていた。


と、今回の投稿の最初のほうに書いたけれど、
結局、わたしのこの自虐的な解決方法、
今も日々続けているすべてのやり方だ、と、今、
はっと思った。わたしがやっていることは、全部、これなんだ。

わたしが思う「解決」とは、つまり、
感情を押し殺せたらOK、というくらい、
馬鹿馬鹿しい解決なのではないだろうか?


・・・


こわいという不快に対して、「こわくないよ、平気だよ、
大丈夫だよ」と、自動的・反射的に反応してしまう思考から
どうやったら抜け出せるのか。

今わたしが感じる「安心」や「快」というものは、
たかだかこの「こわくないと思えた」という確認でしかない、と
先日、ふと思った。だからよく見ると、その安心や快の一歩手前には、
必ずといっていいくらい、不快を見たくない不快がある。
拒絶であり、いやな感じがある。


不快を感じとってから自動的に
まわりはじめてしまうループ。


掘り出しの途中だけれど、一度ここまでをノートして、
不快の掘り出しを続けてみようと思う。


2013.10.20
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-21 07:50 | 復元ノート 1


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