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(前半)AC人格、被調教人格の掘り出し作業

おととい、日曜日の朝、目が覚めたとき、それからしばらくの間、
自分が自分を裏切っていること、それに直面しているのに、でも、
目をそらしたいとしている、まさに、裏切りの瀬戸際にいて、
これはまずい、思った。

Pさんとの関係性のことを、一刻も早く、着手しなければならない。

この二日間、Pさんに対して、わたしが無自覚にとっている行動や
感じ取っているものを観察した。

この問題は、わたしにとって、見てみないようにしてきた、という自覚すらなく、
むしろ、見てみないようにしていることに気づかないように、

「徹底して拒絶してきた」

という問題だったことに気づいた。


もしも復元を開始していなければ、疑うこと自体、無理だったと思う。
それほどに、これは、わたしの半生どころか、わたしのすべてを
失うことと同じだから。

疑ってみて思ったことは、(疑うことそれ自体がとんでもなく拒否反応があったけれど)
それは、ただの現実であり、疑うもなにも、究明すべき、向き合うべきこと、
わたしが今向き合わなければ、いつ向き合うのだ?、というものでした。


Pさんとどう接しているか、接することで、どんな影響を受けているか、
接する際にわたしは何を望み、何を感じ取っているのか。


まだあると思いますが、大きなものは三つありました。


1.Pさんと接していて、「楽だ」と感じている自分がいる。
  楽というのは、話していようがいまいが、考えなくてすむ、
  つまり、思考停止した麻痺状態にある、ということ。


2.Pさんの要求に対して、自分への影響もかえりみず、
  反射的に「いいよ」と返事してしまっている自分がいる。
  

3.「Pさんのために役立っているか、それともいないか」という
  区別を無自覚に行っている。これは、今のこの時間が、たとえ
  自分を殺している時間でも「Pさんのためになっているならいい」
  と考えている自分がいて、「その自分」が、その区別をしている。


・・・


今年の7月頭からは、自分ひとりで落ち着いて自問と復元作業ができる環境、
ブログを書いたりノートをとったりすることに集中できる環境を
可能な限り、作ってきました。

表面的には、その環境を壊そうという圧力はなかったので
気づかなかったが、わたしは、大きな逃げ場を持っていました。


Pさんという存在。


まったく無自覚に、そこを逃げ場にしていた。


自問や復元作業をすすめていくうちに、架空の恐怖が襲ってきたり、
孤独感、寂しさが襲ってくることがあるわけだけれど、そんな日々のなかで、
ふと、Pさんと世間話をしたり、あるいは何も話をしなくても近くにいたり、
そういうことだけで、「楽」に感じているわたしがいた。

この「ラクに感じているわたし」の存在を認めることが
どうしてもできないでいたのだと思う。
というのも、「そのラクなわたし」を観察したとき、
ものすごい罪悪感、裏切り感がぞぞーっと沸いてきて、間一髪で、
見てみないフリをしてしまいそうになったからだ。

同時に、わたしは自分が牢獄のなかにいる、と、どこかでずっと
思いつつも、どこかずっと嘘をついているような矛盾を感じていたのが、
この「Pさんという逃げ道」にあったのでは、と、ようやく一つ、
疑いを持った。

目の前の事実として観察をすればするほど、
それは明白に思えるようになった。
「わざと悪いように考えているんじゃないか」という声がきこえてくると、
最初は気持ちが揺れまくったが、「これこそ嘘の声」だ、
と思うようになった。


「死後、自分の人生を報告するとしたら、わたしは何というだろうか・・・」
と自問をしたときに、わたしは咄嗟に、こう言うはずだ、と思った。



〝もっと自分の人生を生きたかった〟



必ずそう言う、と思った。復元をはじめる前なら、この自問に嘘をつかないとしたら、
「まあまあの人生でした。もっと何かしたかった気がするけれど、まあ幸せでした」
と答えたはずです。そして「何が幸せだったのですか?」といわれたら、わたしは、
「Pさんに尽くせたことは、よかったと思っています」などと、平気で答えたと思う。

いや、これは、今現在も冷めた気持ちで言えることではなく、
この二日間、この「もっと自分の人生を生きたかった」という思い、
もしも明日死ぬとしても、今日一日でもいいから自分の人生を生きたい
という思いが沸いてくると、その後に、ドドーッと
悪魔のささやきがやってきた。


「でも、Pさんとの人生は、本当は楽しいと思っているんでしょ。
ラクでしょ。それがなくなるなんて考えるだけで、悲しくてしかたがないでしょ」


この二日間のとくに初日は、何度魔がさしたことか。


でも、これはわたしの本心じゃない。


魔がさした、と認めることがこれほどに辛かったのは、
これが「辛い」という現実だったから。ならば、そこを掘るべきだ。



もっと自分の人生を生きたい



思うに、わたしがなんとか捨てないでいたものがあるとしたら、
もしかしたら、たったこの一言だけだったかもしれない。
実際は、3年ほど前には、この言葉すら失っていた。
違和感だけを残して、あとは何も無かった。


その状態を、わたしは、「やりたいことはやった」と認識していた。


まったく、まったく、違う。


「やりたいことは、とうとう、何もしないことになった。完全なまでに。」
というのが、その時点での状態だったはずだ。


これほどの誤認をなぜ、してしまったのか。


牢獄のなかであったとしても、
「抵抗せずそこのルールに従っていれば、
最低限の衣食住はなんとかしましょう」
というような生活に、ここが牢獄であったことも忘れ、
「まあまあいいよね」としてしまった。

しかもその牢獄は、わたし自身が保身のために作った巣窟だから、
どうしようもない。牢獄ではなく、保身するわたしにとっては
楽な場所。

事なかれ主義が、いつの間に、身についていた。

世間では、「Abyさんって、何でもOKって受け入れてくれるよねー」
という、便利屋になりさがった。もちろん、わたしの歪んだ人格は、
それにあぐらをかき、ニコニコしながら慢心していた。


現状認識があまりに出来ていない。


これは、葛藤を「放棄しよう」としたのであり、
葛藤を恐れ、逃げようとしたのであり、
少なくとも、幼少期から成人までの間、歪みつつも
「自分を殺さない時間」を守ろうと必死だったのに、それを諦めてしまった、
ということであり、とうとう、自分を殺す時間、自分を殺す人生に
甘んじた、屈したにすぎなかった。寛容な人間でもなんでもない。

実際は諦めきれてなんていないから、
美しいことを口でいいながら、不満タラタラな状態。
わたしの父そっくりだ。


父はよく、

「家族のため」

とばかり言った。


あるとき、わたしが父に、

「自分を大切にしなさいと子どもに言うのなら、お父さんも
自分をもっと大切にしなよ。父親という荷をおろしてもいいよ。
家族のため、とかじゃなくて、自分の人生なんだから」

と言ったら、すごく苛立ったように、

「お父さんに父親をとったら、何も残らないんだ。
そんなことはできるはずがない!」と、かえって怒られた。

わたしは父がなんでそんなにとり乱したのか、当時は
わからなかったが、今になってそれがわかった。

父の半生は、父の「個人」という存在は完全にないがしろにされ、
結婚後、子どもたちを育てるなかで、一家の大黒柱、自分を犠牲にしても
家族を守り育てるという、いわゆる、滅私奉公の人生だったし、
そのことをよく父は誇りにしていた。だから、子どもたちのことも
まわりの人によく自慢していた。


「うちの子どもたちは、世界一なんだ」

というふうに。


父は自分の人生を、子どもたちに託した。自分のかわりに。
兄弟間差別があった自分の人生のやりなおしに、
わたしたち子どもたちに、不自然なまでに
平等をとなえた。実行しようともしていた。

そういう父だったから、わたしの言葉は、自分の人生のすべてを
「否定された」ように感じたのだろう。

これはまったく他人事でなく、Pさんとの関係に疑いの目を向けることは
わたしにとって、それと同様の混乱があった。
二日前の朝は、その状態だった。


なぜなら、


わたしは、相当に長く、
「Pさんへの滅私奉公」に
時間を費やしてしまってきたからだ。


「自分を殺すまい」「自分を殺してもしかたがない」という葛藤、
その両立をなんとか頑張ってきた人格も、わたしの歪んだひとつの人格だけれど、
その葛藤から逃げ、「自分を殺すまい」という意思を放棄しようとして、
滅私奉公に居場所を見つけたわたしという人格は、さらに酷い。


 子どもを代理に、不満をはらす。

 Pさんに乗り移り、Pさんをわたしの身代わりに、不満をはらしてもらう。


わたしがやったことは、結果としては同じだ、と思った。

もしも父と違う点があるとすれば、最初から滅私奉公に突き進んだ父に対して、
わたしは、Pさんと出会った最初の時点では、そうではなかったという点で、
わたしの場合は、「徐々に自分を殺すウエイトが増えていって、20年かけて、
自分を殺したくないという意思が壊滅状態になった = 滅私奉公が完了した」
という違いがあると思う。


わたしは、おそらく、少なく見積もっても、
二つの歪んだ人格を育てあげてしまった。


一つは、

わたしが幼少期に育ったAC・被調教人格、つまり、

「自分を殺さないですむ時間」と「自分を殺してしまってもしかたがない時間」
という葛藤のなかを、なんとか頑張って、それを両立しようとし、皮肉にも、
わりと、かなり無謀な状況でも、頑張りきれたこと、両立に耐ええたことで
のさばってきた人格。妙な自信を持ち、内心は威張ってばかりいた。


もう一つは、

その葛藤に疲れ、自分を守ることをやめてしまった、依存人格。
自分を殺しても、「そのかわり」Pさんのために尽くすことで、
「自分を殺してしまった自分」の存在価値を、Pさんを利用して確認しよう、
とする滅私奉公に屈した人格。


わたしは、Pさんとの関わりのなかで、
なんとか両立にあがいた「AC・被調教人格」から、20年という時間をかけて、
「滅私奉公に屈した人格」へ、さらに歪みが酷くなってしまった。


・・・


以前、ブログに、「最近、他人のために何かをする、というのがしんどく感じる
ようになった」と書きましたが、これはたぶん、その背景には、
「他人のためにする(ようなスタンスで)仕事をするような、今のこの仕事が、
Pさんのためになっていないのではないだろうか?」と疑問を感じることが増えたために、
きっと、滅私奉公の人格がもがいているからではないか、と考えてみた。

他人のために何かをするのが、例外なくしんどいのであれば、
Pさんのために何かをするのだって、しんどいはずなのに、
「Pさんのためになっているのならいい」と考えている、そういう
わたしがいた。

そこは、滅私奉公に屈したわたしにとっては、居心地のよい場所だけれど、
そこは、全面的に、自分を殺してしまったことをよしとする場所だから、
「もっと自分の人生を生きたかった」と沸きおこるわたしの思いを
徹底的に不安にさせる。


・・・


Pさんと出会った頃は、よく口論をした。
いや、15年くらいは、口論が絶えなかった。
次第に、わたしが「引いて」しまうことが増えてゆき、口論は減って、
表面的にはお互いに傷つけあうような言動も減った。
とはいえ、最初のうちはとくに、Pさんから頼まれたらなんでも
「はい」などと答えることはしなかった。

Pさんのわたしを侮る態度にも不快を感じたし、何より、
「Abyのことは別に知らない」という、まったく気遣いが感じられない言動には
ひどく苛立ちを感じ、不快だった。

正確には、その時は「不快」という言葉はわたしの頭に浮かばず、
「なんでそういう言動ができるのか、信じられない」というふうに感じていた。


ところが自分でも矛盾することに、Pさんに対して、
「自分のことを大事にすればいいんだよ」と言いながら、一方で、
「どうしてわたしのことは、他人事のようにそこまで軽視できるんだ」という要求を、
わたしはしていた。

思えば、これは、わたし自身、そういう矛盾する両立をこなそうとしてきたからであり、
当然のように、Pさんにも求めた。
(矛盾する両立、というより、自分のため、他人のため、という歪んだ区別こそ問題で、
そんな区別を動機に行動すること自体、どこかおかしかったのだ)

これがたとえば、わたしの母親相手にわたしがぶつかりあっていれば、
また結果は違ったかもしれない。わたしの母も同じように「考えては」いたから
(だからわたしがそう調教されたわけだけど)、どちらが先に両立に屈するか、が
つねに勝負になったし、実際、わたしの反抗期は、母に対して、
「どうして自分で言っていることを、自分でやらないのか、筋が通っていないのか」
という反抗の仕方をして、母を困らせた。

「他人のことを考えなさい。他人の気持ちを察しなさい。
できる我慢はしなさい。でも自立もしなさい。自分の意見を持ちなさい。」
というのは、おもに母の子育て観だったので、これに忠実に従ってきたわたしは、
母にも当然、同じことを要求した。ただ、母はあくまでもそれは理想だったので、
言い争いになると、わたしが勝ってしまったのだ。
皮肉なことに、この「歪んだ成功体験」が、思春期後は裏目に出た。
上司に対して「言っている理想とやっていることが目茶苦茶だ」と反発ばかりして、
結果、仕事も学業も、最後にはそこにいられなくなることも
たびたびあった。


ところが、Pさんとの関係において、そうはならなかった。


わたしが、まったく、勝てなかったのだ。


わたしの弱点は、「自分を殺しなさい」ということを、
相手から直接言われたら、それに従ってしまうことだった。


我慢してね、と言われたら、
そう頼まれたら、断れないという弱点。


もちろん、Pさんはそうわかりやすく表現はしなかったけれど、
つねに言葉や態度の節々に、

「Abyのことは面倒みられないよ。知らないよ。
Abyの希望は、わたしは関与しないよ。タイヘンでも知らないよ。
わたしはわたしのことで精一杯だからね」

「・・・だから、我慢してほしい」という雰囲気が満ちていて、
その度にひとつ、またひとつと、わたしは自分を抑圧していった。


ここには、わたしの傲慢なおごりがある。


「それでも、なんとか、やっていけるだろう」という、
今までの成功体験からくるおごりだ。


Pさんにとって、わたしがいかに我慢しているかは、
気にすらしていなかっただろうに、わたしは自傷行為のように我慢し、
疲れきった素振りを見せても、Pさんは見向きもしなかった。
というか、気づきさえしなかった。

しかも、そこに悪意が感じられなかったから
タチが悪かった。

どんなに自分の時間を削り、働き、我慢して、体調を壊すようになっても、
「もう我慢しなくていい」とは、Pさんは言わなかった。
それでもわたしは、我慢できる、やれる、と思った。


どんどん、自分を殺すウエイトが増えた。


こうして15年以上の時間をかけて
わたしは負けた。


3年前、わたしは表面的には、新しい内職をはじめ、
なんとか気持ちを維持できる環境を作り始めたが、
すでにこの頃は、Pさんに尽くすわたしになってしまっていたし、
だからこそだが、この新しい内職のなかに、妄想を持ちこんで、
違和感や不満のはけぐちを求めていた。


なぜ、Pさんに勝てなかったのか。


もちろん、勝ったところで、それもまた歪んだAC・調教人格でしかないから、
Pさんを支配し、無謀なことを要求し、傷つけたに違いないし、
実際、わたしはそうしてきた。だから、Pさんもまた、わたしの弱みを
無意識か意識的かはわからないけど嗅ぎ取って、わたしからの支配を
避けようとしたのだと思う。気づいたときには、
「もしかしたら、わたしが支配されているのではないか」と感じとれるほどに
流れが変わっていたが、おそらくその時点で負けていた。


支配される側に、まわっていたのだと思う。


その頃から、わたしは他人に対しても、両立を求めたり、他者の論理的破綻を
せめたりという、威張りくさったわたしは、みるみる勢いを失い、そのかわり、
「ダメでもいいよ」という、今思えば、その頃の自分を擁護するだけの考えにひかれ、
挙句の果てに、「ダメな自分でもいいと思えるのが自己肯定」とまで思いこむほど、
重度の「自己否定をOKとする自分」になってしまった。
わたしにとって、結局それは、「滅私奉公の人格」そのものだった。


そもそも、もとをだどってみると、


「自分を殺してもよい余地」というものを、「持ってしまっていた」
ということに、大問題があったわけだが、さらに問題だったのは、
幼少期にもっとメタメタにやられてしまったらよかったものの
(それはそれで辛かっただろうが)、成人後になってまでも、
「自分を殺してもそれでも自分を守れるというおごり」があだとなった。


しかも、Pさんとの関わりのなかで、経験不足の「負け」というのを、
時間をかけて経験し、さらに厄介な依存関係を築いてしまった。
共同関係と認識していた関係が、依存関係になってしまっていた。
それにまったく気づくことなく・・・。


気づかなかったのは、きっとそれは、
「楽だったから」だ。


最悪なことに、依存人格は、依存人格ゆえに、
Pさんのなかのその居場所、逃げ場に居座ることが
「楽」と感じてしまう。一息いれようとすると、そここそ、
復元の妨げの真っ只中だ、ということに気づいた。
セックスをしなくても、会話すらしなくても、それでも
そこが逃げ場になってしまっていることに気づいた。

そこは麻薬なようなものだ、と思った。

Pさんとの関係のなかで、今まで耐えてきたこと、我慢してきたこと、
抑圧してきたことは多かった。少なくとも、成人後の不快の発生源は、
多くはPさんとの歪んだ関係性のなかで生まれた。
にもかかわらず、その不快を「一時、楽にしてくれる」場所もまた、
そこだとすれば、そこから抜けられなければ、麻薬中毒になる。


抜けなければならない。


「もっと自分の人生を生きたかった」と、今のわたしは死後言うに違いない、
と思ったとき、ここは「楽だから」で済ませたくない、と
そう思った。


楽なままにしておいて、復元が進むはずがない。
どう考えても、正反対の向きだ。


滅私と復元。水と油。


なんとかしたい。


「Pさんのためなら、自分は犠牲にしてもいい」
という声の嘘を暴きたい。


自己犠牲なんて、他者を利用しての自己確認
(自己同化)でしかない、浅ましい動機だ。
自己同化は、わたしにとって麻痺の手口でしかなかったのは、
何度も何度も調べたではないか。

その上、自己同化に「完全な自己同化」なんてないのだから、
今までずっとそれが不満だったから、
だからなんとか、奇跡的に、自我復元にたどり着けた。

このチャンスをいかせなかったら、本当に、
死後ももうチャンスはない、と思った。


今自分のまわりの環境を見渡してみる。
何ひとつ、わたしがやりたかったことがない。
Pさんの「おもちゃ」一色だ。
わたしの妄想すら、形にならず消えそうだ。
妄想すらも消えたら、それこそおしまいだ。
不満の尻尾すら見えなくなったら、不快などもっと見えなくなる。


今、やらなけば。


今日死んだとして、そこで不満が出るのがわかっているのなら、
今やらなきゃ、いつやる?今しかない。


  <文字数が多くなってしまったので、後半に続きます>



2013.10.08
Aby


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by jh-no-no | 2013-10-08 21:58 | 復元ノート 1


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