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「身」の周りのこと-自我復元後日記[055]

今日で6月が終わるので、
今月のこと、そして、明日からのことを
書いてみたいと思う。

力を抜く、ということをやってみて、
私は、その状態が好きだ、ということ。

と、同時に、私は「身体」を動かすのが
また大好きだ、ということ。

どんな妄想が立ちふさがっても、
私は、なによりも、この二つを優先してきた。

それが、この6月、私がやろうと決めてやってきたことだ。

新しくダンスも始めた。

10日ほど前になるが、
ダンスを始めたあたりから、
私の体調に、「ぶり返し」のような嫌な感じが減ってきて、
泌尿器の違和感も安定し、味覚の違和感も安定してきた。

あいかわらず、違和感はまだあるのだけれど、
落ち着いてきていて、「明日はどうなるかわからない」
という不安定感は、4ヵ月かかったが無くなりつつある。

食事、というより、
とくにこの6月は、睡眠をよくとった。
毎日7時間以上は睡眠時間を確保し、仕事の休憩中も仮眠をし、
横になれる時があれば、目を閉じ、身体を休めた。

明日から7月に入るわけだが、
ようやく「身体」の「身」の軸が、安定してきたように感じる。

7月からやりたいことがある。

それは、

「身」の周り、今度は、
「身の周り」に「出かけてみよう」と思っている。

私の「身」は、
滅びていい身ではない。

その強い思いでやってきて、
私の「身体」は、今、喜んでいる。

ここ数ヵ月、私は、十分、休んだと思う。
大きな屈伸のまま、その状態を楽しんだ。

数日前から、私の関心は、
自分の身体そのものよりも、
衣服などに移っていった。

それは、ダンスの際にどんなTシャツを着ようか、とか
そういうこともきっかけであったが、
雪国旅行の時に新調した上着をクリーニングに出したり、
ともに厳しい冬を越したはんてんを洗うことにしたり、
そう、それと私は初めて、「古着屋さん」に入ったりした。
見たり服をあてたりしただけだったけれど、
生まれて初めて、服に興味を持った。

「いろいろ着てみたいなぁっー!」

って思いながら、お店を見てまわった。

そして、買うのはいつでもいいとして、
今私は、自分の服をちゃんとかけておけるスペースを作りたいと
思っている。

衣服というのは、「身の周り」のうちの中でも
一番近い物だけれど、私が取り組みたい「身の周り」とは
もっとたくさんのことなのだ。

「全部」

といってもいい。

6月、何度も私が感じたことは、
「この今の空白に、意思で、書く」
ということ。

空白を「埋める」のではない。

私は、もう、埋めようとしなくていい。
この空白=スケッチブックに、誰かがこう書け、と命令など
誰もしていないのだから。

さらにいえば、もう私はその誰かに
「こうしろって言って」と叫んでも、誰も何も言ってくれない、
という事実を、私は知っている、ということ。

「身の周り」というのは、
私の今の感覚では、空白のスケッチブックそのもので、
私が、最も恐れ、直視できず、逃げ出してしまう
「居心地の悪い場所」だった所だ。

このことを、いつも、慎重に見ている。

その居心地の悪さの記憶はまだあるから、
私が最も望まないのは、その居心地の悪さを誤魔化して、
「身」「身体」そのものに、しがみついてしまうことだ。

しかし、6月まではそれでよかった。

十分に、身体中心でよかったし、
中心どころか、それ以外は無視してきたし、
だからこそ、身体は十分に休めた。

それは、長年の「委縮」を解放するものだった。

だから、そこまではそれでいい。

また、踊ることも十分に楽しめばいいと思う。

しかし、そこで閉じてはダメなのだ。

大きく屈伸をして、大きくジャンプする。
リラックスしたいだけして、
飛びたい時に、思いっきり飛んでみる。

7月から私がやりたいのは、
この「正常な機能」を取り戻した身体が、
いよいよ、

「旅」

に出たいのだ。

それは、大それたことではない。
日常の自分の身の周りが
「全て」「素材」だ。

私はずっと「自分のことをする」事が、
好きになれなかった。

今、じゃあ好きか?と言われたら、
正直、はい、とは言えない。

でも、私は、今、嫌いだ、とは言わない。

ただ、今まで私は、
自分のことを「やったことがない」だけだからだ。

だから、私は、これから、
「自分のこと」をやろうと思っている。
これは、また私は、徹底して、やる。

最近思ったけれど、私は、
何でも徹底してやるのが、私らしい。

一番今まで出来なかったことが、
今は、これこそ、私らしいのだ。

自分のこと「でないこと」など
どうでもいい。

というか、そんなもの、無いのだ。
自分のことでないこと、それ、何がある?
「あった」かもしれない。
毒親が植え付けた全て、それがかつては「あった」。
まさに、自分のことでないことしかなかった。

でも、今、

自分のことでないこと、あるか?

ないんだよ。

これが、この空白のページなんだ。

こうやって私が手をあげる。

この影が、このページに映る。

これが、意思なのだ。

私は、今、これが「好き」だ、と言える。

これが、自分のこと、だからだ。

当たり前だ。誰のことでもない。
私以外、そんなことに関心すら向けはしない。

私以外、関心すら向けないこと。

これこそ、「自分のこと」だった。

「自分」という軸、
これが、身体の軸としての「身」だとしたら、
「自分のこと」というのは、
「身の周りのすべて」、すべての営みが
自分のことだ。

そして私は、

「ゼロ」

から、すべてを作っていく。

過去の経験は、いらない。

全部、自分で作っていく。

私しか関心を持たなくていい。

私しか関心を持たないことだらけで
私の人生は、自分が自分に発注する完全オリジナルオーダーメイド。

踊り手さんの動画も
いろいろ拝見した。

どれもいい、と思う。

そこに、その人だけのものがあるから。

踊ってみたい思いが強くて強くて、
昨日も、「クラブ」という蟹さん歩きの動きが
出来るようになったのだけれど、
好きな歌(最近、ボカロの曲が好きです)を口ずさみながら動くと
とても楽しい。最近は、寝落ちする直前まで頭のなかで踊っている・・・

それで、私はこの「踊り」も、
また、打身の自主練やレッスンも、合気道も居合も、
感覚としては、この「自分という身体」に対する

「管理」

自己管理として、の位置づけになりつつある。

今日、仕事をしていて、
「本当に、だんだん、身体、回復してきているよ」
と、こんなふうに初めて思えて、嬉しかった。

そして、7月を前に、
私は、この身体の自己管理を大事にしながら、
そう、ここまでやってきたことを大事にしながらも、
私は、身の周りという旅、それは私の生全部に出かけて行きたい。

そう、もう一つ書いておきたいこと。

性の問題、この大きな問題。

バリバリ女の子道を行く!と以前書いたことがある。

そして頭を抱えながらも、
性の問題に、この6月も関心を向け続けていたと思う。
女の子道、いや違う、いや・・・

でも、私は、今、こうスッキリ言おう。

私は、女の子も好きだし、
女の子のしぐさも、胸も好きです。

私が抜けられなかったのは、
「罪悪感」だった。

前に書いたように、
罪悪感ゆえに、憧れ(羨望)を持った。
次の生のため、にだ。

しかし、私は、思った。

私は、

女の子が好きだ、

よりも、

女の子のしぐさが好きだ、

よりも、

女の子の胸が好きだ、

よりも、

はるかに、好きなものがある。

この自分の「身体」であり、
この身体の「周り」であり、
私以外、誰も関心を持つはずもなく、持たなくても結構な
この、私の生の「全部」だ。

踊りは、私は、女の子が踊る踊りもやるよ。

好きだもん。

でも、私は、わかっているのは、

男の子が踊る踊りもやるよ。

めっちゃ、かっこよく踊りたい、と思っている。

私は、性の問題だけじゃなく、

全てを書き換えるよ。

書き換える、それは、
消すことじゃないんだ。

「凌駕する」

ことなんだ。

「本当」が「本当」たらしめること。

その「本当」を決めているのは、

私の意思、その力、スケッチブックに綴る


「筆圧」


以外、何ものでもない。


2016.06.30
あび

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by jh-no-no | 2016-06-30 04:54 | 私の生き方

踊りたい!-自我復元後日記[054]

なんでも踊りだけれど、
なんといっても、ダンス、踊りたい!

この思いばかりの毎日、
そして、私が新しく始めたのは、hip hop dance。

女の子が多いけれど、
小学生から中学生の子どもたちと
大人も一緒に楽しく踊っている。

いつも仕事中にステップと重心移動を中心に踊っているし、
動画を見ながら、わけわからずも踊っている、というのもあって、
見学のつもりが、最初から、輪に入れてくれて、わけわからずも
踊らせてくれている。

気遅れしないで輪に入れているのが、
いい感じで、このまま、ダンスを楽しみたいと思っている。

恥ずかしい、とか、
ぜんぜん、無いみたい。
失敗も、なんとも思わず、どんどん踊っている。
そして、どんどん、踊りたいし、出来るようになりたい。

なんといっても、
女の子たちが、すごく上手。
踊り子って感じで、「踊るの、好きっ!!」全開で踊っていて、
だけれど、前にも書いたけれど、その姿を見て、
私は、「この子たちよりも、子ども全開で行くぞっっ!!」
という思いは、強い。

この頃、毎日意識してきたことは、
「力を抜く」こと。
日記という私のスケッチブックの1ページ目に書いたことが
この、「まず、力を抜け!」だった。

大きく屈身をする、ということだけれど、
私が今回心に決めたのは、
それから大きくジャンプしなくてもいい、ということだった。
「大きく屈身をする」だけ、でいい。
ただ、力を抜くだけでいい。
その「委縮していない状態」こそ、私が未経験で、
これから私が生きていく基盤となる状態だったからだ。

下心無しの大きな屈身、大きな休息。

それは、特に、「恐怖心」という「心」を消していった。

打身の自主練で、私が今回初めて気づいたのは、
指に力が入っていることだった。
無意識に、硬直していた。
これが常態だったから、今までなんとも思っていなかったけれど、
「力を抜こう」と意志したことで、発見したことだった。

そして、それは、そう意志するだけで、
指の力は抜けるものだった。

合気道でもよく指摘されてきたことだったが、
私はどこか、力を抜く、というのは、
そう簡単に出来ない、と思いこんでいた。
でも、実際は、それは、「力を抜く」というそれ自体の経験不足から
くるものだった。下心なく、まず、力を抜くこと。

最近はそうでもなくなったが、
一週間くらい前は、毎日、自分で自分に
「いいから、力を抜け。まず、力を抜け」と
毎日、何度言ったかわからないくらい言い聞かせ続けた。
これは、生活全般でやっていたことだった。
妄想に巻き込まれそうな時も、必死に、「まず、力を抜け」と言い聞かせた。

そう、私が重要だと思ったのは、
妄想に巻き込まれても、それでも、今私がやること、
それは、「力を、まず、抜け」だったことだ。

だんだんと、私は、この「力を抜く」というこの状態自体に慣れてきて、
今もとてもこの状態が好きだし、何も、それから大きくジャンプしなくても
「お休み」ということで、それはそれで快適だと感じている。

でも、この身体、やっぱり動きたいなあって思っていて、
私は、今、「大きくジャンプもしたい時はするよ」となっている。

大きく屈身をする。

それだけをする。

飛びたい、と思ったら、大きく飛ぶ。

全部、意思なんだ、と
そう、この頃、何度か思った。

私が最近気づいたのは、
自分が今やっていること、やろうとしていること、
それらは、全部、「自分の意思」だということ。
というか、私は、毎回、意思決定をしていることに、
これ、自分でやっていることなのに、ふと、気づかされるのだ。

100%、自分の意思だ、ということ。

これは、とても爽快だ。

言い訳が立たない、という状態であり、
ここには、「全部」しかなく「これから」しかない。

私は、全部をしたかったし、
私は、これからを楽しみにずっとこうやって生きて生きたかった。

昨日、仕事をしながら、
「すこぶる、元気だ」と思った。
それだけが、事実なのだ。
たとえ、へこんでも、私の事実は、
へこんでいる、という表層の状態に囚われず、
ひたすら、元気、すこぶる、元気、それだけが事実なのだ。

だから、日記に書こうとする時は、
「踊りのこと」ばかりになってしまう。

hip hopの子どもたちとも、
私はこれから「同じ子ども同士」として
踊りを楽しみ合いたい。
子どもたちは、私の仲間だから!

子ども、女性、私は、
全部、書き換えていきたいと思っている。
書き換える、それは、100%、手動の意思によるものだから、
私は、やっぱり、元気じゃなくちゃいけない。

この、すっごく楽しいことを、
もっと、もっと、もっと、もっと、感じ、経験したい。

2月の末に大きく身体を壊して
4ヵ月がちょうど経とうとしている。

昨日、ようやく、こう思えるようになった。

「ムリがきくようになった・・・かも」

まあ、「かも」なのだけど、
この4ヵ月、まったく、といっていいほど、ムリがきかなかった。

別にこれから、この身体にムチを打ってなんては思っていないけれど、
私が今書いた「ムリ」というのは、私の感覚では、
本当の身体の機能が回復し始めた・・・かも、という意味でのムリ。
だから、決して、本来はムリじゃないと思うんだ。

身体は、

そう、私は初めてこの自分の身体と向き合い、

この一週間、この自分という身体が、

「大きく休みたい、こわばらないでリラックスしたい」

という状態を経験すること、

一方で、それは、「下心」としての「ジャンプ」ではなく、
ジャンプしたい時は、ジャンプしたい、という思いも
なんとか、叶えようとすること。

とりあえず、、、

私は、

今、

踊りたくてしかたがない!

2016.6.26
あび

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by jh-no-no | 2016-06-26 15:11 | 私の生き方

日記をスケッチブックにしていこう-自我復元後日記[053]

私にはずっと、「しなければならないこと」しかなかった。

今朝、起きて、不快に感じたことも
この思考習慣だった。

でも、私には、それが違うことは、
調教速度の観察でわかっていたことだったから、
すぐに、こう思えた。

「したいことしかない」

私は、自分がやりたいことなど、
探す必要は、まったくない。

目の前にある、すべてだからだ。

「あれもこれも、しなければならない」

それが、今、私には、

「あれもこれも、したい」

になったわけだ。

女性でありたい、という羨望は、
決して、したいことではなかった。

それが、私に最後に残った毒父とP由来の
自己同化だった。

昨夜、ブログを書き終えてから、
踊りの動画を見てみた。

なぜ、今まで、女性の動きに執着していたのか
もうわからなくなっていた。

見て思ったことは、
踊りに、女性も男性も子どももない、ということ。

「みんな、踊りが好きで、踊っているんだなあ」

と、ほのぼのとした。

今朝、私は、やっと、
「自分の目」で、女性を、子どもを見ることができる、
と思えた。

私は、女性とどんどん接していこう。

子どもとも、どんどん接していこう。

「関心」というのは、私にとって、
決して、避けるものではない。

どんな関心であっても、
私が「決めている」ことは、
そこで私は、止まらない、ということだ。

「ゆっくりでも、止めないこと」

私はこれを必ず実行している。

「粘る」

というのはこういうことだし、
これこそ、私の「意思」なのだ。
D先生の受け売りでも、
おじいちゃん先生の格言でもなく、
私の意思が、それを見たにすぎない。

私は、どんどん、女性の踊りを見ていくだろうし、
私は、男性の踊りも、子どもの踊りも見ていくだろう。
そして、私は、

「時間をかけて」

私は、自分がしたいことをし続けよう。

私は、日々の「日記」を
スケッチブックにしていこう、と思う。

私がやりたいことは、
具体的な日常生活の実践から出てくる。
スケッチブックは、そこから
ゆっくりと、一つ一つ、綴られていくものだ。

「したいこと」

これを、たくさん、ゆっくりでいいから、
一つ一つ、日記に書いていこう。

毎日自覚したいと思っているのは、
「私のしたいことで、これからの人生は満ちている」
ということだ。

私は、この身体を

「治そう」

そして、予定されていた寿命の
倍以上、生きたいと思う。

昨日も、仕事をしながら、
動いているこの私の身体を見ていた。

私は、この身体がもっともっと
「華やぐ」ことを、楽しみにしている。

女性という自己同化をやめた決意は、
ようやく、私のこの「身体」をフルに活躍できる状態を作った。

この私の身体も、そして、私のこの声も、
性別や年齢とは無関係だ。

日記をスケッチブックにしていく決心とは、
それは、今生きているすべての瞬間をフルに、

「楽しもう」

とすることだ。

楽しむ、とは、「進むこと」だ。

ゆっくりとでも、止まらないこと。

私は、決して、「やめる」ということはしない。
止まった、と思ったら、それは、
間違っている、と毎回、私は自覚しながら生きている。

生命が、生命感を失うということは、
この身体を選び生まれてきた以上、
私は、「間違っている」と思っている。

ブログを書くことは、
私にとって、これは、実は身体活動だ。

どういう内容を書くか、は
いつも私は自分の関心にない。

書こう、という意思だけで、
私は、毎回、書こうとしている。

毎回、踊っている。

毎回、いろいろな踊り方をしている。

そして、ブログを閉じても、
日常に戻れば、どこも踊り場なのだ。

昨日仕事をしながら、
「踊り」で何が一番楽しかったか、といえば、
仕事をしながら研究し実践してきた、畳一畳のステップ、
これが、私は楽しかった。

動画で見たたくさんの踊りも、
これから、私は、老人になるまで楽しむだろう。
見るだけでなく、私は、つねに、私が踊り手だ。

打身も、踊りだ。

前回のレッスンの前、自主練で、
先生の手の動きと、私の手の動きを動画で見比べてみた。

D先生の手は、まるで、パペットのように、
意気揚々と飛び跳ねていた。
まさに、屈伸を楽しみ、ジャンプしては鈴を鳴らす、
その様は、人形劇さながらだった。

私は、まだまだ、
「身体運動」になりきれていない。

でも、私は、その身体運動をやりたい、
その一心で、この教室を選び、通っている。

大きく分けて、曲調は
ポロロンと弾く「アルペジオ系」か、
ギュッパーン!と弾く「リズム系」に分けられるが、
私は、リズム系に挑戦したくて、
この楽器を選んだ。

この楽器に似たものは、
どちらかというと、ポロロンと美しい旋律で弾く楽器として
知られている楽器だが、私はそれではなく、
「打身」と名付けたこの楽器を選んだ理由も、
私は、この楽器で、踊りたかったからだ。

今日は、また居合の稽古がある。

初身という「自分の身体」を、
私は、今、大きく振っている。

初身は、私とは別の物体ではない。

私そのものなのだ。

合気道を始めて、私は、
居合と出会った。

すると、不思議だ。

今、合気道の準備体操からすごく楽しい。

跳躍するだけで、私の身体は、
畳一畳のダンスのように、重力すら感じないほど、
私の身体全体が、パペット人形になる。

何も、こういった活動だけが
踊りではない。

「しなければならない」

そうずっと、義務感としてこなす生き方を強いられてきた
目の前の、私のすべての出来事=私の人生、そのすべてが、
今、私には、どれも踊りにしか思えない。

そして、私は、

これを、忘れたくない。


2016.6.17
あび

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by jh-no-no | 2016-06-17 16:11 | 私の生き方

女性という自己同化をやめる-自我復元後日記[052]

私が今日、決めたこと。

とうとう、決めたこと。

それは、

「私は女性なんだ」という自己同化をやめた。

意思で、決めた。

性の問題は、本当に深かった。

ここしばらく、男性という立場で、女性を性的な目で見てしまう、
そのことを、これでもかこれでもか、と調べてきた。

これは、毒父の毒であった。

しかし、それは、2段攻撃だとすれば、先発の毒で、
本当に深かったのは、その次にあったものだった。

私が女性を性的な目で見てしまう、その本当のところは、
性的欲求などではなかった。

それは、

「女性でありたい」

という、自己同化、これが、実は、
女性の胸やお尻を見てしまうことの、
本当の理由だった。

女性らしい髪型、メイドさんの服装でもいい、
私は、どうしても、女性ならではの特徴に「強い関心」があり続けた。

ブラシを調べていたらウィッグにくぎづけになったことも、
最近、この女性の踊りいいな、という、
そこに見た「女性的な振り付け」に魅かれたのも、
過去の話では、内職に没頭したことも、
女性ばかりの職場を転々としたことも、
こういったどれもが、

「私が女性になりたい」

という羨望によるものだった。

「女性の下着のお店で働きたい」

私は、こう本気で思っていたことがある。

そのくらい、私は、

私が女性になりたかった。

なぜか。

わからないことだった。

だが、それが、先日、わかった。

「次の生で、Pと女性同士で契約することになっていたからだ」

と、それが納得したのだ。

幼い子どもに対して、私は、反射的に
「優しい目」をしてしまう癖がある。

その目は、無条件に、すべてを許すような目だ。

しかし、これも、わかったのだ。

「次の生で、Pと女性同士として付き合い、子どもを二人で育てるのだが、
私が、子育ての担当をすることになっていた」

からだった。

そして、Pは、次の生では共同作業はせず、
名声を求めるアーティストを目指すつもりだった。

私は、その「夫(役)」を支える「妻(役)」であり、
「母(役)」という形で、Pのその活動を支え、
Pの世話をする予定だった。

もしも、私が自我復元と出会わず、
あのまま、だったら、
私の寿命は、本当に、42、3歳で、
おしまいだった可能性がある。

そのくらい、「次」の準備が整っていた。
あまりにも順調すぎるほどに。

昨日、私は、このことがわかった時、

私は、自分が女性でありたい、
という女性との自己同化がなければ、
女性にも、子どもにも、
興味など持ちえない、と
仕事をしながら、まわりの人を眺めながら思った。

今回の生では、私は男性だった。

まだ今のこの社会は、女性同士のカップルや、
その間で子どもを持つことが、容易ではない。

憶測だが、だから今回は、
異性のカップルを楽しめればいいくらいな曖昧さの上に、
「次の本番」の準備をしよう、という契約だったかもしれない。

その「次のための準備」こそが、
手のこんだ、毒親共犯の調教と洗脳だった。

ここ数日、私は

「関心」

を追ってきた。

そのためか、夢は印象的だった。

私は、夢で、

Pを捨て、

子どもも捨て、

共同作業という理念も捨て、

女性でありたいとすることも捨てた。

それらは、すべて、「強い関心だった」。

だけれど、

私は、

「関心」

で、自分の人生を描くことをしなかったのだ。

夢でも、また、この日常の生活と仕事でも
私は、それをやった。

それと重なるように、昨日、
職場で、ある女性の後ろ姿を見て思った。

その女性は、とても女性らしい風貌の女性だった。
後ろ姿から見ても、とても女の子らしかった。

髪型、体形、服装、しぐさ、どれもこれも。

私は、その後ろ姿を見て、こう思った。

「・・・それほど、面白いわけじゃないんだよなぁ」

それは、どういう意味かというと、
私が、そのような「いかにも女性」という女性に仮になったとしても、
私は、それほど、面白くない、と思う、
ということだ。

まさに、それは、

「Pとの記憶」

に対する印象そのものと同様だ。

「本当は、それほど、面白いとは思っていないんだ」

それが、私が思っていることだった。

だけれど、

「関心」

というのは、それは、とても強烈だった。

私がたとえ本当はそうは思っていないと思っても、
強い関心を目の前に提示された時、
「関心そのものを断つ」方法は、
私は、意思だ、と痛感している。

「私はその関心に従わない」

これを言えるのは、意思だった。

関心を消す、のではないのだ。

その関心を「断つ」から、だから、
それは「書き換える」というのだ。

契約を書き換える、とは、そういうことだった。

「私はそのような生を、望まない」

これが、私の人生というスケッチブックに
私がまず刻んだことだ。

「私は、女性でありたい、と思うのは、もう、やめる」

むろん、その決意を決定的にしたのは、
それはどこまでも「Pのための生」だったからだ。

しかし、この分析や気づき、憶測、これらが
私の人生を変えたのではない。

これに伴う「強烈な関心」を
私は、

「断つ」

という意思を行使したこと、

これで、人生を変えたのだ。

そして、夢でも、また、この現実社会でも、
私は、本当にこれらPにまつわるあらゆる関心を断つ、ということを、
ことごとく、

「実行」

したことが、この2日間のすべてだった。


2016.06.17
あび

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by jh-no-no | 2016-06-17 04:17 | 私の生き方

関心と関心の間-自我復元後日記[051]

昨日の朝、関心地図をやっていて、
初めて気づいたことがあった。

関心が何かに向くことによって、
そこから、連想、妄想が開始されるわけだけれど、
私は、今までずっと、その「関心」もその妄想中、
継続しているものだとばかり、思いこんでいた。

なぜ、はっと気づいたのかはわからないけれど、
連想、妄想が開始するやいなや、
私は、それらに、まったく関心が「今、無い」ということに気づいた。
おそらくは、その関心自体がどうなっていくのかを見ていく過程で、
関心が向いたというその関心自体の「記憶」が、
どうも、関心そのものとは異質だ、と気づいたからだと思う。

関心は一瞬であって、
その一瞬の後、
もう、その関心は無くなっている。

それは、あらゆる関心がそうだった。

外でなる音のような五感の知覚から、
頭のなかで展開する妄想まで、
連想、妄想の内容とは、一切関係なく、
関心はつねに「一瞬」でしかなく、
その直後、それは、無い、ということだった。

関心がもう無いのに、
その連想や妄想、知覚をさらに展開させたり、
そこに意識を向ける必要がない、と感じたのだ。

それから、たまたまだが、
踊りの動画を一つ見た時、
その時は、真剣に他人を見る、ということに集中していたのだけれど、
その女性は、短いスカートをはいて踊っていたために、
回転すると、ふわりとスカートがあがり、反射的に目がいってしまった時に、
まさに、その「関心」というのが、実は、その直後にはもう無い、
ということに気づいたのだ。

それは、一瞬でスカートが元に戻ったので、
より、わかりやすかった。
スカートが元に戻るやいなや、私は、
その人の頭部を中心に、肢体の動きにすぐ意識が戻っていた。

では、スカートがもっと長い時間、ふわりとなっていたら、
私は、2秒とか、10秒とか、ずっとそれに関心を持つか、といえば
NOなのだ。

その後職場でも試したのだけれど、
やっぱりどうしても反射的に、若くて綺麗な女性だ、と認識すると、
ぱっと目がいってしまい、胸やお尻に目がいこうとするのがわかる。
それで、あえて、それを続け、見てみると次の瞬間には、
もう、関心は無いことに気づいた。

関心とは、その関心がどうだかは別にして、
どんなものでも、「一瞬」であり、
どんなものであっても、継続できない、と感じた。

継続できるのは、記憶、妄想であり、
それは、関心を入り口に、自分で展開させているにすぎない。
「もう関心が無い」ことに毎回瞬時に気づくと、
そこから妄想を展開しようにも、展開する気が起こらないのだ。

昨日一日は仕事で、今日は休みだったけれど、
仕事と生活の場で、つねに、関心地図をやっているような2日を過ごした。

関心は、もちろん、微弱に様々なものに向いているのだろうけれど、
強い関心、関心地図に浮上するような関心というのは、
止めどもなく出てくるわけじゃない。
(別な言い方をすると、関心を入り口に自分が妄想しやすい関心が、
強い関心といった自覚をもたらしているように思う。)

となると、たとえば、ある瞬間に、
あるものに関心が向く、とする。

またしばらくして、別な関心に向く。

これをずっと繰り返していると、
こんな疑問が私に沸いてきた。

「関心と関心の間、私は、何をしているんだろう?」

と。

よくわからなかった。

ただ、不快ではなく、死んでいるわけでもなさそうだ。

淡々と仕事をこなしている。

またふと、綺麗な女の人だ、と関心が向く。
でも、それも、「一瞬」だ。

最初私は、そうやって関心が向いた時、
「見ちゃいけない」と自分が我慢しているものとばかり思っていた。

でも、それはよく自分の関心を監視すると、
「反射的に目がいった」そのまさに自動的な反射の一瞬の後は、
私は、女性の胸やお尻を見たい、とは、ぜんぜん思っていないことに気づいた。
まったく、関心がないのだ。

あえてその女性を見ても、
私は、その人の頭部を中心に、身体、その人全体を見ようとする。
そこに、もちろん、胸やお尻も見えてはいるのだろうが、
何度やっても、そこへの関心は、「ゼロ」といってよかった。

それでも、「気になっているようだ」というのはあった。
ただ、それは、関心があるから気になっているのではなく、
関心を入り口に、今までそこからエッチな妄想を展開させてきたことの
その「流れ」を感じている、というその感覚、その残像感覚であって、
関心があるから、気になっているのではない。

むしろ、関心がないものに関心が向いてしまい、
関心がないのに、気になってしまう、といっていい。

「なんだろな、これ」

と、ほとんど自分であきれたが、
それでもわかったのは、それほどに、
私は、女性をエッチな目で見る反射的な「関心」のスイッチが
今まで常備されていたんだ、ということ。

それも、納得いく。

毒父は、そういう目でしか、
女の人を見ていなかったから。
まったく同じ目に私はなっていた、ということ。

ただ、今ははっきり違うな、と思ったことは、
エッチな妄想を展開する気がさらさらない、ということ。
これは、毒父と、もはや、全く違う。

どんなに今までならスイッチが入ってしまう部位を凝視したところで、
エッチにすら、感じない、と感じた。
そもそも、凝視しよう、という試み自体、
自分で関心が向いていないのがわかるから、そもそもこんな試み自体、
面白くもなんともなく、とっとと、やめよう、と思っていたのが本音。

関心が向いてしまう、ということそれ自体、
最初、嫌だ、と思っていたけれど、
私が、本当に嫌だったのは、関心が向くことより、
その後も、その関心を入り口に、エッチな妄想を展開「させられている」、
そのことが、不快だったことにも気づいた。

関心がある、と思いこんでいた時は、不快それ自体、麻痺できるだろうが、
関心がない、と知って、なお、エッチな妄想を「させられている」と感じれば
それは、不快、という感覚になるのだと思う。

妄想すべてに言えるけれど、
させられている妄想は、「その妄想の間」、死んでいるのと同じで、
昨日も思ったけれど、少しの間でも妄想していると、まさに
その「夢」から覚めた時、私はこう思った。

「あ、今、生きていない時間があった」と。

こういうことを繰り返しているうちに、
何かに関心が向く、その関心の内容には
それほど、よしあしを思わなくなった。

それよりも、関心その後の思考の流れを
つねに観察した。

関心が一瞬であれば、
どんな関心であれ、その瞬間でおしまいなのだ。

関心とは、振れる針のようなもので、
パッと振れるだけ、その方角を示すだけだ。

となると・・・同じ疑問が何度もよぎった。

「じゃあ、今、私はどんな状態なんだろう?」と。

これはわからないまま、仕事も終わり、
家に帰り、明日は休みということもあって、
いつもより少し踊りの動画を多く見て、
1つではなく、今日は、5つぐらい見て、踊るぞ!と思っていた。

その中の踊りで、たまたま、音楽がいいな、と思い、
その音楽で踊っているいろいろな人、10人近く見たと思うけれど、
たくさん、見た。

夢中だった。

2時間以上、没頭し、
歌も歌ってしまうほどで、
総まとめとして、ぜんぜん踊れないんだけれど、
5種類の踊りを通して踊りまくった。

その後、はた、と思った。

「さっきの、あの没頭している間、あれはどんな状態なんだろう?」と。

関心が向き続けていた?

・・・なんてこと、あるか?

よくわからないけれど、関心のただ中にいた感じだ。
ただ、「関心」とは振れる針のようなものだから、
今まで言っていた関心とは、これ、違うな・・・

なんだ?なんだ???

妄想?か。

・・・なんて考えてみても、それこそ、そう考えようとすること自体、
ぜんぜん、関心がなかった。関心はつねに一瞬で、妄想かどうかなど、
知ったことではなかった。

ふと気づくと、また、関心地図の日常に
自分が戻っていた。

何かに関心が向いては、それは一瞬で去り、
しばらく時間が経って、またふと、関心が何かに向いたりする。

あれ?

と思った。

嫌な感じがしないのだ。

不安な感じがしてこない。

今までこうやって何かに没頭すると、
それから覚めていくにつれ、不安の影が忍びよってくるのが
いつものことだった。

「あんなことしていてよかったのだろうか?」
「現実逃避していたんじゃないだろうか?」

とか。そういう不安だ。

この不安が、

「起こっていない」

ことに気づいた時、

関心と関心の間の、この「なんでもないような時間」が
どういう所なのかが、わかった。

こう思ったのだ。

「ここに戻ればいい、そういう所。
そういう所だったから、私は、安心して夢中になれたんだ」

と。

関心と関心の間の、妄想も起こらない所。
目を閉じてゆっくり呼吸をすれば、中心の圧が強まった。

そこが、我が家だったんだ、と。

ここが、いつでも戻れる安心なところ、
不安の無いところだから、
私は、その我が家をベースに、
好きにやれたんだ、と。

好き放題、遊びに遊んで、
家に帰る。

「不安・・・にならない?なんでだ??」

当たり前じゃないか。

今までがおかしいのだ。

何かに夢中になったり、没頭すると、
必ず不安になる。
こんなことしている場合じゃないんじゃないかって。

今までは、そこでAC人格の妄想の入り口となる関心へ針が触れ、
見事に、妄想が展開していくAC人生だった。

今日も、私は打身の練習をしたのだけれど、
練習を始める前に、こんな思考が訪れた。

「本当に、やりたいんだろうか?」

だけれど、この思考自体が、一つの関心であり、
この思考自体、一瞬その後には、もう関心など私にはなく、
考えるに値しないものであることは、明確だった。

「やろう」

私は、自主練をやろう、と思った。

思った、というのは、「意思」だ。

それは、私が「決める」ことなのだ。

そして、私は、はじめてこう思えるようになった。

それは、

「安心して、決めていい」

と。

不安は不要だった。

決めることに、不安も安心もなかったのだ。

この関心と関心の間は、
決して、妄想に生きるAC人格が空漠とする時間ではない。

この時間、それは、まったく人生全体のことだけれど、
空漠でなく「空白」のここは、今、はっきりと言える。

「意思を行使する場だ」

と。

真っ白なスケッチブック、それ自体なのだ。

中心に休みたければ休んでいればいい。

しかし、思ったのは、運動と同じで、
その休息は、いつでもジャンプできる屈身のようなものだと。

それは、睡眠のようなものかもしれない。

でも、誰もがそうであるように、
睡眠のために寝ている人はいない。

力を抜くのは、次の動作への準備だ。

「次」に囚われることや強迫観念を抱く必要はない。

「次」とは、つねに、「今」のことなのだ。

そして、今とは、つねに、その直前のことだ。

我が家があって、外の冒険世界がある。

それは、別々の出来事ではない。

この不安無き我が家があるから、
いつでも冒険に飛び出していけるし、
いつでも戻ってこられる。

今も次もないのだ。

「意思を行使しなさい」

これだけが、本当は、私が自由にやっていいことだったんだ。


2016.06.13
あび

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by jh-no-no | 2016-06-14 00:18 | 私の生き方

真剣に見る-自我復元後日記[050]

前回の投稿では、仕事に行く前、
わだかまりをそのまま、テーブルに出してみて、
では、今度は、解決していこう、その思いを抱きながら、
職場に向かった。

職場で「他人」のことを、もっと知っていきたい。
そう思いながら自転車をこいだ。

仕事が始まり、まわりを眺めた。

他人ばかりだ。

他人の宝庫だ、と思い、
それに、7時間にわたって私は他人と
それも、300人以上の人と、一対一で接する機会が毎日ある。

それで、「他人がわからない、他人って?」って、
まったく、それこそ、何なんだろうか、と
まず、その一畳のスペースで思った。

今日一日、「他人」のこと、徹底的に調べたい、
他人とは?

これに取り組む前に、実は、自転車に乗りながら、
感じていたことがあった。

私は、他人とは、
自分に影響し、また影響を与えるもの、
そういった対象だ、と、あたかもそれが自明のようになっているが、
そもそも、他人は私にどれほど、影響を与えるものだろうか?
また、私は他人にどれほど、影響を与えているというのだろうか?

これに関連する気づきは、
前回のブログを書く前にも、ふと、思ったことだった。

「なんだか、私の中で、他人のウエイトが高すぎる」と。

それほど、他人と自分というのは、
私が思っているほど、「関係し合っている」のだろうか?
そんなに影響力を双方持っているのだろうか?

・・・これは、まったく、毒親が植え付けた「他人像」なんじゃないか、と。

極論、道端に咲く一輪の花と、
一人の他人は、どう違うというのだろうか?

影響力、という意味において、
また、依存、という意味においても、
他人と、その花とでは、私との関係はそんなに違うのだろうか?
その花に比べて、「他人」という存在は、そんなに「特別な」ものなのだろうか?

考えてみると、特に毒父は、
年がら年中、「他人」のことばかりを話題に、また、テーマにしていた。
格言だって、たとえば「努力」一つとっても、
「努力できるのは、そういう環境に恵まれているからなんだよ。
だから、感謝の気持ちを忘れちゃダメだよ」と言うわけだけれど、
その環境こそ、他人であり、感謝を示しなさいというその相手も他人なのだ。
言うまでもなく、その「他人」は、毒親だったわけだ。

決して、これは努力の話に見えて、そうではなかった。

お米一粒大事だ、っていう話だってそう。
汗水たらして炎天下で働くお百姓さんに感謝しなさい、
これだって、お米の話じゃなくて、お百姓さんという「他者」、
・・・当然、この汗水たらして働く姿は、毒父本人として植え付けてきた。

そんなに、他人って、私に影響を与えているものなのだろうか?
また、他人って、私にそれほど影響を受けているのだろうか?

はなはだ、これ自体、「そうだ」と思いこんでいること自体、
おかしい。だって、それ、本当に感じているのか?

それでふと思ったのは、
たとえば踊り手さんの動画を見る。

この人、いいな、と思う。

それは何かの拍子で、あっ、いい、と思ったからだ。

だけれど、では、次見た時、また思うかね?
「前にそう感じた」が正解であって、
今、また、「いいな」とその同じものを感じているのか?

同様、ある瞬間、

「この人、それほどでもない、ダメだ」

と何かの拍子で思ったとする。

いや、これ自体、ちょっと違う。
まず最初に、「この人」に対しての評価があるわけじゃないんだ。

踊りでいえば、ある動作、所作、
その感じが、いい、または、あれ?と思ったりしただけだ。

その時、確かに、その「他人」は私に影響を与えた、といっていい。
だけれど、それから、5回、6回、また動画を見る。
同じか?また影響を私は受けるか?本当に、いいって、思うか?
また、ダメだ、と思ったりするのか?

つまり、こういうことなんじゃないか、と思った。

その「私に与えた影響」に、
ずっと、こだわり続けているのだ。

それが、

「この人は、こういう人だ」

という決めつけにつながる。それが評価だ。

たったある瞬間に、あることをその人から「感じた」というだけで、
その人(他人)を、こうだ、と決めつけてしまう。
しかも、自分に都合のいい、快の影響を与えたら、その他人は「いい人」になって、
自分に都合の悪い、不快の影響を与えたら、その他人は「ダメな人」になって、
これって、毒親の身勝手さ、そのものじゃないか。

こうも言える。というか、こう言える。

たった一瞬のミス(・・・このミス、というのがまた健全な意味でなく、
毒親の顔色を曇らせるようなことのことなのだ)で、
「お前は失格」と人格を完全に否定する、その恐怖を与えたのが毒親だった。
たった一つのミスで、「そんなことをするようなお前なんだぁ。ふーん、わかった」
といって、豹変する「前兆」を醸し出すのだ。そう、醸し出すだけ。
決して、手は汚さず、証拠は残さない。

今書いたことは、ずっと掘ってきたことだけれど、
これによって歪んだのが、他人像なんだ、と思った。

他人というのは、すごく影響力があるのだ。
(同様、私というのは、他人に対してすごく影響力があるのだ)

・・・と、思いこんでいるのだ。

どんな相手と接するか、それがすごい重要にいつも思ってきたし、
私という存在も、他人に、それこそ、他人の人生に重要な影響を与えている、
当然のようにそう思ってきた。

はたして、そうか?という疑問だ。

対子ども、となると、
特にそのように思いこんでいる、ということに気づいた。
しかし、こう書いてみて気づくが、この「影響力」と私が思っているそれは、
決して、必要最低限の依存、最低限の世話の範疇ではない。

むしろ、「おせっかい力」が、
私が他者関係で前提としてしまっている「影響力の意味」なのだ。

だから、邪魔しない、というのも、ここがこうだと、
「そうするのが、この子にとって、この子の人生にとって重大なのだ。
それは、私次第なのだ」と思ってしまう。
実際、そうやってきてしまったのが、かつての内職だった。
完全に、これは、「共依存」なのだ。

そして、さらに思った。

踊り手さんの動画を見る時に、
こんな気持ちが起こるのだ。

「なんで、私は、これを今から見るのだろう?」

と。

そこに、理由が必要なのだ。

そうすると、そこで登場するのが、

「この人、ここがよかったよね。だから、また見て・・・」

この「・・・」が、また見て「影響を受けよう」なのだ。

でも、もうそれは過去の話でリアリティーがない。
それを本当はわかってしまっているから、
本当はつまらないのに、見る理由をつけてしまう。

なぜ、そんなことをしてしまうか?

つまり、私に、
「他人は、やはり自分に対して、強い影響を与えるものだ」
という前提があるからなのだ。

それがない、それがないその状態で、どう他人と接していいのかわからない、
どう他人を見ていいのか、知らないのだ。

だから、どんどん、おかしくなる。

何がなんでも、感想、コメントをその人に持とうとしてしまう。
それが、実際の対人関係でトラブルを引き起こす。
どんどん、相手を勝手に決めつけてしまうのだ。
そうしないといけないような気になってしまっているのだ。
でないと、「ただ他人と接する」ことになって、居心地が悪い・・・
というか、そうなってしまう状態を、自動的に避けていたのだ。

こういうことかもしれない。

結局、私と毒親との関係は、
まさに、この「他人関係」だった。
ただの他人、ということがなかったのだ。
つねに、あびはすごいだの、なんだのと、評価があったし、
私もまた、パパはすごい、ママはすごい、という評価があった。
こうだからすごい、ああだからすごい・・・まさにこういう会話で
親子関係が成立していた。評価の言葉だけの関係なのだ。

それは見た目、睦まじい家庭に見える。
私はずっとそう思いこんできた。
パパがいるから僕がいる、また、
僕がいるからパパがいた。
毒父がいつもそう言っていたのだ。

こうやって、私の「他人像」は歪んでいったのだと思う。

今書いたことほど、仕事前に頭で整理していたわけじゃないけれど、
「他人と私とは、影響を及ぼし合っているものだ」という思いこみ、
もちろん、影響は及ぼし合うだろうけれど、おかしいのは、
その「程度」なのだ。今通りすぎたその一輪の花と、他人はどう違うのか?

実際に花は見なかったけれど、そう思いながら自転車をこいだ。

さて、仕事が始まり、私は、
どれほど、私が、またお客さん(他人)が私に影響を及ぼすものだろうか、
見てみることにした。

・・・当たり前の結果だが、その人の人生に、また私の人生に影響を及ぼすほどの
影響力に、それっ、と出くわすはずがないし、
客観的に見て、考えて、他人と私とは、随分、隔たりがある。
作業としての業務の中での影響力はあるけれど(当然だ)、
私が今まで思いこんできた「おせっかい力」レベルの影響など、
双方、送受信することなど、まったくない、と思った。

ここまでのことは、文字で書くと長くなったけれど、
すぐに理解したことだった。

しかし、私は分析したいわけじゃなかった。

仕事に行く前に、テーブルに気持ち悪さを広げて、
それでいいわけでも、当然、なかった。
テーブルに広げたことで、すっきりした気持ちはあったけれど、
それは、今回の「他人問題」の半分だ。
正直な暴露と分析までが半分、それからは、AC問題と同じで、
実際の格闘、解決への本気さが、行動を起こしていく。

しばらく仕事を続けていくうちに、
私は、はっきり、「こうしよう」と思った決心があった。

「お客さん(他人)を、ちゃんと、見よう」と。

それは、物理的に、まず、目で目を、その人を、目をそらさずに、
「しっかり、見る」ということだ。
ちらっとそらしたりしてはダメだ、ちゃんと見る、
今までより長くアイコンタクトもとってみる、
相手が私を見ていなくても、私は、見る。

やっていくうちに、それは、ずっとやり続け、
真剣だった。私は、ずっと、そして仕事が終わるまで
真剣に、毎回、全員を一人一人、必死に見た。

休憩中、日記をとる。

まず書いたことは、「やり続けてよかった」と。
そして、これが、すべてだった。

他人に対して何か知ったわけでもない。

私にとって他人とは何かに気づいたわけでもない。

むしろ、そんなの何もなかった。

何も影響と言えるようなものは、ない、と実感した。

今まで私が思っていたような影響と呼べるものは、
あろうはずもなく、実際、無かった。
それは、仕事が終わるまで、その実感のままだった。

私がしたことは、

ただ、

「他人を、真剣に、見る」

ということだけだったのだ。

他人とは、とあえて言うのなら、
他人とは、私が今、このように真剣に見ている、真剣に向き合っている存在だ、
としか、言えないし、言えるわけがない。

それは、とても「爽快な」体験であった。

爽快、といっても、私本人は、
「真剣そのもの」だったけれど、思えば爽快だったと思う。

私は、これからも、他人に真剣に接しよう、と思った。

何のために、とか、そう、他人を自分との何らかの取引や下心の道具にせず、
ただ、真剣に、他人と接したい、そう思ったのだ。

それから、そう、

つまり私は、

他人がどう私に影響を及ぼすか、
私が他人にどう影響を及ぼすか、
という思考は、実は、他人をまったく「他人」として見ていない、
ということだった。

他人は、私だった、といってもいい。

私という存在を推し量るための、
私が私を評価するための、
そういう道具に、私は他人を利用してきただけだったのだ。

影響を受ける必要、なぜある?

影響を与える必要、なぜある?

他人を、ただ、他人として見る。

それは、自分を見るのと同じだ。

自分に対して、今、必死に真剣に日々自分を見ているように、
私は、今日、他人を見ていた。

私は、ほっとした。

気持ち悪いあの気持ちを忘れまい、そう思ってやって、
私は仕事中、「その目」で一度も他人を見なかった。
それで、ほっとしたのだ。

私はこれからも、他人を、他人として、
ただ、真剣に見ていこう、
日記にそう書いて、今日一日、仕事をまっとうした。


2016.6.12
あび

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by jh-no-no | 2016-06-12 03:44 | 私の生き方

気持ち悪い、納得いかない!-自我復元後日記[049]

昨日からすごく気持ち悪い、と思っていること。

仕事前のあがき、ここに書いてみたい。

他人をどうして私は、評価の対象にしてしまうのだろう?
それは、今までずっと、他人とは、私を評価する人だったからであり、
当然、それは、私もまた、他人を評価する目を持ってしまう。

今も、職場でも、職場でなくても、
どこにいっても戸惑うのは、
そう、昨日ブログにも書いたけれど、
踊っている人の動画を見て、その「他人」を見て、
どこか、私はいつも評価していて、気持ち悪るすぎる!!!

戸惑ってしまう。

他人と接していても、
評価対象として見なければ、どうやって接していいのかわからない。

だから、なんだか挙動不審で、
いつも仕事が終わって、仕事仲間とちょっとした合間に話したシーンを思い出しては
「なんか、すっきりしない」っていつも思う。

なんだろう、この気持ち悪さ。

自我復元を始めた頃も、私はこうやって人を見て、
大きなトラブルを起こした。

自分でわかっていないのだろうか?

他人って、私にとって何なんだろう?

でも、「これ、AC人格だからこうなんだ」っていうことで
納得したくもない。
だって、もう、しかたないことではないからだ。

私は怖がっている。

「あんた、何様だよ」

と言われることは、たぶん、すごく怖い。

お前に意見なんてきいてないし、
お前の意見に興味なんてねーし。

そう言われたら、私は口を閉ざしてしまう。

結局、私は、他人をずっと「自分がこれでいい、正しい」ということの
証明のために利用してきてしまった。

この目がまだここにあるのなら、
それは、すごく嫌だ。

でも、嫌だ、気持ち悪い、って嘆いてそれでよくなんてないんだ。

他人って何?

ずっと、このことばかり、頭にあって、
美しいことは言えない。
健全な関係?その言葉自体、リアリティーがないじゃない?

ただ、この気持ち悪さだけがある。

他人を見てきた今までの目。

もう、嫌だ。

ここがいい、悪い。

胸がすごく気持ち悪い。

他人って・・・私にとって何?

実際、こうやって、他人を前にすれば、
そこから逃げようとしているじゃない?

それでいいわけないんだ。

子どもと接することも、
私は自信がない。

子どもに対してこそ、
そういう目を持ってしまっているからだと思う。

それじゃあ、代理復讐じゃないか。

「気持ち悪い」

これだけは、忘れまい。

他人ってなんだか、私にはわからないけれど、
気持ち悪いことだけは、したくない。

それだけは、なんとしてでも避けたい。

他人について、もっともっと、
私は、知っていこうと、今、思っている。


2016.6.11
あび

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by jh-no-no | 2016-06-11 16:28 | 私の生き方

今日のこと-自我復元後日記[048]

「今日のこと」というタイトルで、
ブログを書いてみたいな、と思ったので、
書いてみよう。

さっそく、今一番大好きな「プリン」を近くのお菓子屋さんで
2つ買って、食べる速度を計ってみた。

愛用のティースプーンがあるので、
それをもって、お菓子屋さんへ。

その足で稽古場に向かい、稽古場の隣にある
小さなお花畑の中のベンチに座り、さっそく、
2つ、食べてみることにした。

まずは、一番好きなゆっくりとした速度で。

ティースプーンすりきりで一杯、といった感じで
30口。8分48秒。

次に、今まで食べていた速度で。
同じ30口で、ちょうど4分。

計算すると、約45%。

やっぱり、このくらいかな。

昨日も前回の記事の追記で書いたけれど、
計り方をあまり考えていなかった。

今回は、同じティースプーンを使い、
同じ回数を口に運ぶように計ると正確に計ることができた。

それで、呼吸に関しても思いなおしたのだが、
自分の好きなゆっくりとした速度にすると、
肺に取り込んだ空気量までわからないので正確にはわからないけれど、
倍くらい吸い込んでいるような気がした。

つまり、深呼吸になる。

やってみると思うのだが、
速度だけゆっくりして、吸い込む量を変えないと
かえって息苦しくなるから、どうしても深呼吸になる。

これは自慰でいえば「振幅」に相当するもので、
この距離にあたるものを無視してしまったので、
1/4になったのかな、という感じがしている。

うまく計れなかったのだけれど、
吸い込む量は同じ(つまり、深呼吸ではない)にして計ると、
やはり、呼吸も1/2ぐらいかもしれない、という結果になった。

それでふと、自慰についても思った。

1/700って、随分、1/2と違うな、と。

それで、逆に考えてみて、
非射精自慰の「振幅」「強さ」はそのままにして
動かす速さだけを、今度は、逆に「2倍」にしてみた。

つまり、今までのサルのような200往復45秒、かつ、
7cmの移動距離と1500gの圧というのは、
「自慰に必要な刺激を、相当にオーバーしていたのではないか?」
という気がしてきたのだ。

エネルギー損失があまりに大きすぎた、という推測。

それで、もしも、純粋に非射精自慰、つまり、
20秒45往復、2cmの振幅に、300gの圧、
それで、「射精に至る」のなら、
つまり、非射精自慰の刺激の2倍でよかったものを、
700倍も与えていた、ということになる。

快感時間の長さ比1/4も、ここに含まれているので、
それは考慮しなくても、175倍も与えていたことになる。

それで、試してみた。

驚いたことに、予測していた通り、
たった2倍で射精に至ることがわかった。

射精はしなかったので寸止めだったけれど、
それで今度は、その寸止め状態のまま、1/2に落としてみる。
すると、寸止めがきくかどうか、だ。

1/2に落とすと、なんと、
射精に至る方向から「引いて」いった。
つまり、非射精自慰の刺激では、射精には至らないのだった。

さらに、では、射精はしないその状態で感じている快感の「質」は
1/2に落とした時点で、はたして、「射精直前の快感」から
「非射精自慰の快感」に変わるか、という実験だが、
これは、パッとは切り替わるものではなかった。

射精には至らない刺激でも、やはりその時のその快感は
まだ、射精直前の快感で、その証拠に性器から手を離すと
快感は消えていく。

しかし、非射精自慰というのは、
性器に触らなくても感じる性的快感であり、
何度もやっていると、これがどっちの快感かがわかるようになってくる。

私が好きな快感は、
非射精自慰の快感のほう。

今日もそのまま試してみたけれど、
性器に触らずに、約1分、快感が継続した。

自慰の場合の1/700とか1/175というのは、
そもそも、必要のない刺激を与えていた、ということじゃないか、と結論。

1/2という数値にこだわることはないのだけれど、
こうやってみてみると、
「1/2の速度帯」というのは、ある一つのライン、
「感覚の質」が切り替わる地点なのかもしれない。

この「質」というのは、言い換えると、
「次」のことを意識して動かねばとして動いていた速度としては
「失格」な速度帯に切り替わった、ということだと思う。

失格、という烙印を押したのは、もちろん毒親であって、
これが、「調教速度 1」というやつだ。

自慰もそうだし、歩いてもそうだったけれど、
その調教速度では、「今を感じ取れない」のだ。
感度が落ち過ぎているためだ。
というか、今を感じ取るための速度でも感度でもない、ということ。

横断歩道を渡る時、
車がずらっと静かに並んでいる光景を
まじまじと、じっくり見る、見ていられる、
それが、歩く速度1/2だったし、

自慰も、射精を期待しない快感というのを感じ取るためには、
あのごくわずかな刺激を感じ取る敏感さが必要だった。

面白いことがあった。

しばらく前のことだったが、
さすがに外では自慰の実験はできないものの、
どのくらいの速度でしているのかな、と
手でリズムをとるようなフリをして、
自転車に乗りながら、計測していたことがあった。

すると、非射精自慰の速度帯で手を動かしていると、
なんと、自転車をこぐ速度も1/2近くになっているように
感じたことだった。それらは、影響しあうのだ。

今日、プリンを食べていて思ったけれど、
いつも口中香を意識しているせいか、
倍の速度でも、自ずと、口中香の食べ方をしようとしていた。
だから、かつてよりは、随分、美味しい食べ方になっていたし、
十分、美味しい、と感じた。

だけれど、今思い出したけれど、
何か、その他の感覚の敏感さ自体、差が生まれているように思う。

ベンチに座り、ぼんやりとまわりの光景を見ていた、
食べながら。

1/2の速度帯で食べていると(口中香の速度で食べていると)、
視覚も敏感になっているようで、
まわりが見えている気がする。
敏感、といっても、鋭い感じではなく、注意が働いている感じだ。

この注意の感覚が、かつての慣れた食べ方の速度だと、
働いていなかったように思う。
つまり、感覚全体の感度が落ちているのだと思う。

不思議だが、1/2の速度帯というのは、
たとえば「食べる」という場合、「食べること」をそれほど意識していない。
うまくいえないのだが、「食べている」状態を経験している。

しかし、今までの慣れた速度というのは、
「食べよう」としている。
これは、今ここに意識があるか、というと、そうではなく、
「食べてから・・・次」を、どことなく、意識しているのだ。
「食べたら、それから」というやつだ。

それは、仕事の休み時間の急がされる食事に似ていて、
食べたら仕事だ、というように、次の仕事の「前」の食事をとっている、
といった感覚だ。いつも、「次は」、がある。

面白いことに先日気づいたのだが、
妄想にも速度というのがある。

関心地図をやるとわかる。

ふと、妄想していることに気づいた時、
関心地図とは、妄想に与えていた速度を急激に減速させること、
そんなふうに感じた。

それは、ぐっと歩くスピードを落とすようなものだった。
質的に切り替わる、というのが、要。

特に私は、関心地図の妄想内容のトップにあがるのが、
つねに「予定」に関することだった。
後で何を食べるか、あれはこれからするかしないか、とか。

まさに、「次」のことばかり考えていて、
それについてもいつも思う。
その「次」になったらなったで、そのまた「次」を考えるのだ。

そうやって、いつまでも「今」にいられない。

それは、「生きていない」ということであって、
そうやって調教されてきた、ということなのだ。

しかし、先日も書いたように、
「次」のことなど、それは、「今」をバネ(屈身)にジャンプした結果であって、
次のことのために今準備しておく、という必要はないのだ。

今を十分に生きているのなら、
「意志」が自ずと次に導いていく。
意志は舵であり、今生きるという力が推進力だ。

なのに、明日、次、というものへの下心(という実は恐怖心)がなければ
今、やる気が起きない、というのは、飴由来の毒思考であって、
毒親の飴がなければ、ゾンビになってしまうんだぞ、という脅しに
従っています、といっているようなものなのだ。

今日、私は、何を書くか、ということは脇に置いておいて、
「今日のこと」というタイトルで、ぜひ、書いてみたい、
と思ったのは、この「次」という幻想を殺したい、と思ったからだ。

まず、書こう。

私は、書きたい。

この、今、ただ書いてみたい。

この気持ちを、どうしても、貫きたかった。

毎日、思う。

私は、今、やることを、やればいい、と。

この屈身の結果、どうなるか、は
もう私には、問題ではない。

問題ではない、とは、
その結果について「失格だ」と脅かす毒親の亡霊はいない、ということ。

なのに、それでも、ただ、このように今屈身を思いっきりする、
ということをしないとしたら、いない亡霊を、ずっと
お供えのように、私自らが、置いてしまっていることになる。

どもる問題を解決するに至ったのは、
まさに、この点だったのだから。

今、はっきりとした態度をしていればいい。

今、毅然としていればいいのだ。

今、私は、

「次」

を生きているのではない。

「次」を妄想し、「次」のために、「次」を恐れ、「次」を期待し、
永遠に「今」を生きられなかった私。

その私は、もう死んだ。

「今」を私は、猛烈に、

猛烈に、私が、生きているんだ。

たった今、私が生きているんだよ。


今日のこと、

そう、一つ、これを書こうと思ったんだ。

今日、稽古に行ったのはよかったんだけれど、
おなかがいたくなって、トイレに30分くらい駆け込み、
稽古を継続するのはやめて、早退した。

途中自転車に乗りながらも、
少し、おなかがいたくなって、
でも、まわりには何もなく、すぐトイレがあるような感じじゃない。

痛い・・・

と思いながら、しかめつらで自転車をこぎ、
時に、自転車を降りて歩いた。

そんな時、3人くらい、女性がすれ違って、
思わず、お尻とかに目がいってしまい・・・

「あび、しっかりしろ!」

って思った。

それで、改めて思ったのだ。

現実とは何か。

しっかりしろ、まさにそれ。

「尊厳」なのだ。

痛い、というこの状況に流されるのでもなく、
そこで妄想に流れてしまうのでもなく、
たとえ、それがどこでどんな状態でも、

「あび、しっかりしろ!」

これが、唯一の現実だった。

尊厳、それがあること。

先日のレッスンで、前回のブログで
「間違ったら、止めないで
ギリまで粘りなさい」と指導された、と書いたけれど、
ちょっと、違った。

正確には、

「間違ったと思ったら、間違った、で済まそうとしないで、
すぐに正しいフォームに戻しなさい。ギリまで粘りなさい」

だった。

あの時、私は演奏は止めなかった。

それこそ、間違っても「捨て置いて」進んだのだ。

でも、それは、捨て置いたのではなく、
粘らなかった、ということだった。
それを、即座に、見破られた。

というのは、私が「あっ、間違った」と思ったそのタイミングであれば、
まだ正しいフォームに切り替えることが、なんとか粘ろうとすればできた、
そういうギリのタイミングだったからだ。

私は、捨て置いたのではなく、
それは、ギリまで粘らなかった「結果」、
捨て置いて進んだだけのこと。

それでは、ダメだ、ということだ。

昔の私なら、「曲を弾けることがすべてじゃない」とか、
「間違うこともある」とか、平気な顔で斜に構えていたはずだ。

でも今は、先生の指摘がいかに「致命的」かがわかる。

曲が途中で止まってしまって
「それでしかたがない、と思っているような姿勢」や、
間違ったのがわかったのに
「間違ってしまったけれど、捨て置いて進めば、まあいいやという姿勢」こそ、
今、私が先生でも自分に突っ込みたい。

「誰の人生だよ」って。

それでいいのかって。そんなんなら、来なくていいよって。

粘ろうともしない、そんな人生でいいと思っているのなら、
学ぶ資格などあるはずもないんだよって。
だって、当の本人が学ぼうとしていないんだから。

音楽において、考えてみれば当たり前のこと。

曲を途中で止めないこと。

間違わないこと。

そのために、練習をしている。

だけれど、私はずっと、こう言われて育ってきた。

「できなくてもいい」

「完璧にできる人なんていない」

こうやって、私は、何もできない人間になった。

ダメなんだよ。

曲を完全に最後まで間違わないで弾く。

「そんなことばかりが価値じゃない」

なんて、社会に通用しなかった毒親たちの言い訳に過ぎない。

私は、今、踊り手さんで好きな人がいる。

とても「正確」なのだ。

あるコメントに、

「時計みたいに正確で、なんだかねえ・・・」

みたいな斜に構えたコメントがあったけれど、
私は、今、この踊り手さんが、
ここまで正確に踊れるようになるまでに、
どれだけ、練習したかが、わかるような気がする。

それは決して、ただ一生懸命練習した、というのでは決してない、
本当の練習。これでもか、これでもか、と、それこそ、
身体の快不快を直視し、追及し続けたに違いない。
それがすごく伝わってくる。

以前に気にいった踊り手さんがいたのだけれど、
その人は、まるで身体が自由自在に動いていた。

まるで、感情が思いっきり、解放されているように見えた。

確かにそうかもしれない。

久々にその人の動画を見て、あれ?と思った。

「雑に」見えたのだ。

どうして、この人はそれでいい、と思えたのだろう?

それでいいんだろうか?

つまり、感情のままに、といえばそうだろうけれど、
そう動いていることを、どこまで、その人は自覚的だろうか?と。

そんなことが、見えるようになってきた。

私は音楽の経験もないので、
そもそも、階名で覚える、ということもよくわからなかった。

その結果、自動演奏のようになっていて、
いったんひっかかると、ドツボだった。
正しい状態に戻れないのだ。

D先生(打身の先生)は、
「それこそが発表会でみんながボロボロになる理由だ」と言った。
感覚も大事。だけれど、それだけだから、そうなると。

運指も覚えるのはもちろん、
つねに階名が頭の中に流れていなければならない、と。

「先生は、いつも、そうなんですか?」

と質問したら、

「当然。ぜんぶ。運指から階名から何から何まで頭に入れている」と。

今まで私は、音楽は、感覚でやるようなものだと
漠然と思っていた。踊りもそう。

だけれど、D先生や、正確に踊るその踊り手さんに出会い、
私は、価値観がまったく変わった。

どこまでも粘ること、
すべてやること、
感覚も大事だけれど、頭で理解することも大事、それらぜんぶ、
そして、あきらめない、
とことん自覚的な練習すること、

それは

「完璧を求めること」

なのだ。

ただし、それは、「自分が、自分の完璧をとことん」という意味で、だ。

他人のため、他者評価のために、ではない。

自己評価が甘く、他者評価だけ厳しい、それこそ私のAC人格だった。

大事なのは、他者などどうでもよく、

「自分に厳しい」

ことだったのだ。

できなくてよいわけはなく、完璧なんて無いんだで済ますのではなく、
演奏中頭が空白になってしまったのでしかたがないことなど何一つなく、

「それでいいのか」

という自問を、私一人、自分に向け続けて、

どんな状況であっても、己を失わないこと、手放さないこと、その

「尊厳」

こそが、生きる、という主体性ある行為においては、
たった一つの現実だったのだ。

それが、人間に生まれる、ということなのだ。

人間に生まれたい、という意志だったのだ。

「ミスタッチよりも、曲が止めてしまうことのほうが、
はるかに、罪深い」

という言葉は、最初、大げさに聞こえた。

だけれど、それは日に日に、どこも大げさなものでないと感じるようになった。

粘れないのなら、

粘ろうとしない、そんなちんけな人生なら、

人間に生まれようとしたこと自体いい加減で、

「尊厳」そのものに対する冒涜だ、

私には、そう聞こえるのだ。

今、私が知ったことは、

「すべて」私の人生だ、ということなのだ。

完璧に、それらは私のもの、なのだ。

だからこそ、完璧に、そのすべてをくまなく見る、

そんなこと、当然すぎることであり、

それが、

私という「個」を

最大限に生き切る、ということなのだ。


2016.6.11
あび

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2016-06-11 03:13 | 私の生き方

決意と選択の日々-自我復元後日記[047]

6月10日 07:27

文末に「非射精自慰」について、追記しました。



・・・


「あきらめないこと」

無明庵で私がやってきたことは、
一貫して、これだった。

合気道のおじいちゃん先生は、
「ゆっくりでいいから、止まらない」
ことを、毎回、指導する。

先日の打身のレッスンで、
D先生(だじんのD)は私に言う。

「間違ったと思ったら、そこでやめない。
ギリまでねばりなさい」と。

その前のレッスンでも、
ミスタッチをしてもそれは捨て置いて、
曲を止めないことを、強く指導された。

私のこの毎日の日常は、
私一人でいても、これに徹底して取り組んでいる。

そして、

それは、成功している。

止めない、ねばる、とは、
こういうことを言っている。

「誰の人生を、あなたは生きているのか」と。

「それで、本当にいいのか」と。

その一秒は、本当に、それでいいのか、と。

この一週間、私は、
「現実とは何か」ということに、
いつも関心が行き、毎回、そこに戻っていった。

そして、それに対しての
私の結論を出した。

「主体的に、決意し、選択した経験」

これだけが、「現実」だ、と
私は、決めた。

認識した、のではなく、決めた。

受動的な経験は、私にとって、現実ではない。

身体が感じること、空腹感、性欲、こういったことすら、
私には、現実とは思えなかった。

それは、ただの「見える現象」にすぎなかった。

それは、ただ、外部の現象であって、
どんなに実感したり、飲み込まれそうな快感や恐怖があろうと、
それでも、私には、現実とは思えなかった。

そんなことより、
こうやって手をあげて、指を一本ずつ折ってみる、
それが、現実だった。

現実とは、私は、こう定義している。

「日記に書こうと思わない経験は、現実ではない」

何かを経験した、体験した、こういうことがあった、した、
それを日記に、本当に書きたい、と思うだろうか?
どんな出来事であっても、本当に書きたいか?

私は、そう思わない。

日記に書きたいことは、
自分が、決意し、選択し、主体的に為した経験だけだ。

それは、つねに、私にこう問いかける。

「今、私は、日記に書きたい瞬間を生きているか?」

この自問の日々を、私は、今送っている。

ここ数日も、体調が悪かった。

睡眠や食事も十分とっていても、
体調は、よくならない。

横になりたい、と、思う。

でも、たとえば、これを日記に現実として書きたいか?
といえば、答えは、NOだった。

それでは、状況にのまれているだけだったから。
それは、結局、「だからしかたない」という発想を生む。
それは、一番、もう私が大嫌いな言い訳だ。

体調がよくない。

だから、何なのか?

休めばよく、横になればよく、
しかし、それでも、そこで、そこがどこであれ、どういう状況であっても、
そこで私は、決意し、選択し、そういった主体的な経験をしていくこと。

「それを、今も、また今も、あきらめるな」

私が今、こう思えるようになったのは、
受動的な経験は、すべて、私には現実とは思えない、と
毎日毎日、感じ続けたからだ。

では、何が、現実に起こっているのか?

「起こっている」ことなど、無いのだ。

私が、何を、起こしているか、だ。

それは、どんな出来事の中にあっても、
それこそが、現実であり、それだけが、
本当に、私が「日記」に書きたいと思うことだった。

どもることと、性のことについて、
残り、書いておきたいと思う。

どもる、というのは、それが現象を表す名前なので
本質を見誤ってしまうが、本質は、それは、
その現象を起こしてしまう「元の原因」であり、
どもる、とは、恐怖心なのだ。

ジャンプができない、というのは、
結局、十分な屈身ができていない。
もちろん、十分な屈身をしたからジャンプが十分にできる保障はない。

だけれど、十分な屈身ができずに、ジャンプができるはずがない。
十分な屈身をし、後は、少しずつ、ゆっくりでいいから、
ジャンプをしてみればいい。

どもる、という恐怖心は、
ジャンプが怖いのではないのだ。
どもる言葉、それが怖いように勘違いしてしまうのだが、
実は、恐怖は、その「一歩前」に起きている。

屈身時、に起きているのだ。

「次の言葉が出ないかもしれない」

という、「次、未来」への恐怖心であり、
その恐怖心は、「次」に起きているのではなく、
「今」に起きている。どもる、という地点から見れば、
その直前に起きているのだ。

これは、運動の法則そのものだった。

打身をやっていても、
ここが失敗してしまう、と思ったら、
「ここ」のその前の運指を、「思いっきり」やることが解決につながった。
そして、失敗してしまう「ここ」という現場は、それほど関心を向けることなく、
焦らず、ゆっくり、やればいい。

ここは、どもる問題を解決するにあたっても
「1/2の速度帯」が役だった。

速度を、ぐんと落とせばいいのだ。

しかし、最初、速度を落とすそれだけでは、うまくいかなかった。
というのは、先ほど書いた、
「ここ」より、その直前にこそ恐怖心があったことに、
気づかなかったからだ。

この直前の恐怖心に気づいてから、
私は、どもる前の言葉を「思いっきり」言うことにした。
それから、1/2の速度帯で、ゆっくり、次の言葉を言えばいい。

そして、まっすぐ、相手の顔を見ればいい。

もちろん、ここにくるまでに、より重要だったのは、
「胸に落ちてしまうこと」を、何としてでもやめたい、という必死さ、
これがあってこそ、直前に思いっきり言うこと、次を1/2の速度帯で言うこと、
と続いていく。

というのも、「次を恐れて、今を思いっきり生きられない(恐怖心は今にある)」
という病理も、「調教速度1でこなそうとしてしまう」という病理も、
どちらも、AC人格が住み着いた「胸」を拠点としているからだ。

これら、どれも共通するのは、

「ずっと私は、生きていなかった」

ということなのだが、それはつまり、

「現実が、つねに、受動的な経験だった」

ことによるのだ。

性のことの問題をこの投稿の最後に書こう。

非射精自慰、ということを前回ブログで書いた。

この実験を、しばらくやっていて、
前回ブログでは、その快感は「射精直前の快感」と書いたが
それは、質的に、違っていた。

それは、射精の準備のための快感ではまったくなかった。

射精を目的にしていない快感である。

それは、ただ、「今気持ちいい」それだけ。

射精直前の快感は、それは、射精を期待して起きている快感であり、
これと、非射精自慰の快感は、まったく違った。
つまり、一般にいう、「寸止め」という射精のための「準備」ではなく、
その快感は、つねに、「結果」だった。

その2日間、射精はしたくない、という思いがあって、
一般の寸止めとどう違うのかを、何度もギリギリまで試したので
結構、しんどかったけれど、おかげで、こう、理解するに至った。

「射精の快感は、別に、いいや」

と。

どう考えても、それは、「次」の快感であって、
「今」にないものだった。

それは、それほど、私には興味がないことだったのだ。

そして、それは、ついに、女性への見方を変えていった。

私は女性を今まで、性の対象としか見ていなかった。

それは、結局、その女性を、
自分が射精するための妄想の道具にしてきただけだった、ということだった。

射精そのものに、関心が遠のいた時、
私は、女性の胸などへの関心が薄れていった。

ふと、こんな思いがよぎる。

「どう、女性を見ていいのかわからない」

今まで、性の対象、射精のための妄想の道具としか見ていなかったから、
どう見ていいのか、わからなくなってしまった。

「わからなくなって、よかった」

と思っている。

そう、あと、最近やっていること。

踊りの動画を見て、
毎日、数分でもいいから、見よう見真似で踊っている。

ぜんぜん出来ないんだけれど、
楽しい。踊ってみたい、やってみたい、まずそこから。

「体調」VS「踊り」

この軍配は、

「踊り」

にあがるのだ、毎日。


・・・


以下、「非射精自慰」についての追記です。


・・・


1/2の速度帯、ということで、
歩くスピードだけでなく、たとえば、
自転車でこぐスピードはどうか、
歯を磨く速度はどうか、
打身を弾く速度はどうか、
呼吸、食べる速度、などを調べてみた。

自転車をこぐ速度、歯を磨く速度、
打身を弾く速度、これらもやはり、1/2の速度が心地よかった。

食べる速度は、1/2よりも遅い感じ。
サンプルが少ないので、確かではないが、
40%~50%の幅ではないかと思う。
(プリンなどで試そう、と思うのだけれど、
せっかく味わえるのに、もったいない・・・と思ってできない。
でも、今度、やってみようかな。じっくり、「今までの食べ方」も
味わってみることにしよう。)

呼吸に関しては、1/2どころか、
1/4くらいの速度が、心地よかった。

次に、非射精自慰についてだが、
これについては、とても興味があったので、細かく調べてみた。

今まで自動的にしていた自慰と、
私が今回「非射精自慰」と名付けた自慰とで、
物理的に与える刺激のデータがどう違うかを実験してみた。

まず、手を動かす速度だが、
1/2どころか、1/4でもなく、
なんと、今までしていた自慰に比較して、1/10の速度だった。

次に、手を動かす振幅の大きさだが、
今までが7cm、非射精自慰では2cm、つまり、2/7(3割弱)。

次に、強さ。

これを調べるのは、さて、いったいどうやってやろう?
と思ったのだけれど、ごく普通のデジタルの軽量計を用いた。

雑な調べ方かもしれないけれど、
スイッチを入れて、手でつまむような形で挟むだけ。
こんな方法でも、わりと、感覚がつかめた。

今までの自慰の場合、1500g。
非射精自慰では、300g。
1/5、という結果になった。

最後に、「感じている時間」の比較だ。

ここで私が比べたのは、
「射精直前の快感」と「非射精自慰の快感」の
その時間を調べてみた。

つまり、「射精時の快感」はここに含まれない。
では、射精直前の快感とは、どこからどこまでとするか、だが、
これ以上刺激を与えたら射精を止められない、と判断した時点から射精の瞬間まで、
とした。

この間も、2つに分けてみると、
これ以上刺激を与え続けたら確実に射精に至ると判断できる時点から
射精を止めることがこれ以上できないと感じるまでの時間、と、
そこから射精の瞬間まで、となる。

前者が約5秒、後者は約3秒~5秒。
(後者については、射精はしなかったので計れなかったけれど、
だいたい、こんなものだろうと思う。)

つまり、「寸止め」時間が、前者の5秒にあたり、
もう寸止めも不可能で実際に射精に至るまでの時間が、
おそらく、3秒から5秒、ということ。

トータルで、8秒~10秒。

これを、「射精直前の快感」のピーク時間としてみる。

では、一方、

非射精自慰の快感のピーク時間はどのくらいか?
というと、30秒~40秒といったところだった。

時間を比較すると、約4倍、快感は持続する。

これは、どういうところをもってピーク時間というか、だが、
やってみるとわかるが、明らかに、「やばい・・・気持ちいい」と思う瞬間がきて、
そこから、「同じ気持ちよさ」が、安定して続いていく。
射精直前の快感は、右肩上りに急速に快感が増していき、射精に至るわけだけれど、
そこが、まず、違うところ。非射精自慰では、一定に、同程度に、気持ちいい。

しかし、30秒~40秒ほど経つと、
その快感は、消えていく。
それは、波が引いていくように、スッと引いていくから、
これも、やってみると、わかる。
刺激を与え続けていいのだが、刺激を与えても、
快感は、それと無関係に、引いていくのだ。

話が少しそれるけれど、
そのように、手による刺激とは無関係に快感が引いていくのに、
不思議なのは、それ自体を、自分がコントロールしている感覚がある、という点。

つまり、手で刺激を与えて、快感もそれによって生じ、また、
快感が引いていくのも、また私の手が行っている、と感じるのだ。
そして、また、そのままし続けると、また波のように快感が来ては、
また、去っていく。

さらに不思議なのは、
通常の自慰、射精を想定した自慰の場合、
手による刺激をやめると、「寸止め」が可能な地点より前であれば、
快感も、ピタリ、と止まるものだ。

ところが、非射精自慰は、前回のブログにも書いたけれど、
実は、性器に触れなくても、その快感は得られる。
つまり、手を離しても、ずっと同じ快感は持続するのだ。
言い換えると、手を離したらピタリととまってしまう快感とは、
まったく違う快感の「質」だ、ということ。

これは、他の運動でも言えることだったが、
1/2の速度帯、という試みは、
1/2という数値が重要、というわけではなく、
あるラインから、感覚それ自体が変わる、というその境界線がどこか?
ということを調べた、ということであって、
たとえば、呼吸においては1/4だったし、自慰に関しては、
速度一つとっても、1/10、というように、様々で、
この1/10、というのも、本当は幅があって、
1/5~1/6のあたりでも、私は、非射精自慰の速度帯だと感じた。

自分で、これじゃあサルだな、と思ったのは、
今までの自慰では、45秒で200往復もしていたこと。
これに比べると、1/10となると、45秒で20往復。
しかも、振幅自体が1/3以下だから、今気づいたけれど、
本当の速度の差は、1/30以下だ。

コントロールの話に戻ろう。

手を離しても快感が続く、となると、
これまたコントロールとは関係なく思えるが、
これも不思議なことに、自分がコントロールしているのがわかる。

快感自体を続けようとしている意思、があるのだ。

もちろん、この場合も、波のように一定時間が経過すれば
快感は沈静していく。しかし、これもまた、あたかも、
己と快感とが、まさに呼吸を合わせるかのようにして
「沈静していく」と感じる。

そして、さらに驚くことに、
快感が去ったその後も、静かに同じ刺激を続けるわけだが、
「快感がない」その時点もまた、とても心地いいのだ。
まさに、休んでいる、という穏やかさがある。
実際、性器は縮小し、血液がいったん引いていく(休む)のだろう。

これに対して、今までの通常の自慰、射精を目的にしての自慰は、
私には、自分でコントロールをしている、とは感じられなかった。
むしろ、射精の快感に囚われていて、それが欲しければ動け、という
強迫観念で自慰運動をしていた、と思っている。

これについても、あることに気づいた。

エッチな動画を見ている時、
どんな顔をして、私は見ているか?ということだ。
手で自慰をしながら、はたして、どんな顔をしているだろうか?

わかったのは、おそらく、私だけじゃないと思うけれど、
心から楽しそうに、笑顔で自慰をしている人はいないのではないか?
少なくとも、私は、真顔だった。

その真顔、というのこそ、
コントロールを失っている顔で、
強迫観念で、射精の快感の虜になって、サルのように動いているだけの顔。

しかし、非射精自慰では、
笑顔、というわけではなくても、いや、やはり、それは
質としては、笑顔で自慰をし続けている。
そこに強迫観念はなく、ただ、今が気持ちよく、幸せそうな顔をしている。

そう、それと、エッチな動画を見ていて実験してみたのだが、
実は、1/10の速度で自慰をしても、射精をしてしまいそうになり、
あわてて、手を離した時があった。

何が、違うのだろう?と思い、考えてみた。

先にも書いたように、手を離して快感もピタリと止まるのなら、
それは、「射精直前の快感」になっている証拠だった。
つまり、速度に関わらず、射精したい気持ちが強まれば、
微弱な刺激でも、射精してしまう、ということだった。

こんなことも経験した。

遮断射精では、もう一方の手の指で、
ある箇所を押さえるわけだけれど、
私は、そこを押さえるだけで、とても気持ちよく、
そのことを思い出して、非射精自慰をしている最中に、
そこを押さえてみた(軽く押さえた)ことがあった。

その時、ほんの少しの刺激で、
射精してしまった。

これについても後で考察してみると、
私の中で、射精をしたい気持ちがどこかにあったゆえに、
非射精自慰の快感が、ある時点から、射精直前の快感に
変わってしまっていたことが原因だった。

先ほどのエッチな動画を見ながら
微弱な刺激でも射精してしまいそうになった時も、
また、今書いたような方法で自慰をして射精してしまった時も、
どちらも共通して感じたのは、どうも、嫌だったことだ。

それが、結局、
「次」の快感に囚われて、「今」ここに私が不在だ、
という感覚である。

この差が、射精直前の快感と、非射精自慰の快感との
おおきな差なのだ。

今書いた2つの例は、どちらも最初、わかりにくかった。
前者は、非射精自慰をしているつもりだったし、
後者も、片方の手の指で、ある箇所を圧迫していることが
「今が気持ちいい」という感覚を強めていたからだ。
しかし、よく観察してみると、その時のその快感は、
「次の」「射精無し」では成立しないものであることに気づいた。

非射精自慰の場合、「次」はないのだ。

「今」しかない。

この感覚だと思う。だから、性的な快感という意味では
それがあろうがなかろうが、非射精自慰の「今」は
心地よいのだ。

しかし、そこに、「次」という要素が紛れ込んだ瞬間は、
今は今ではなく、次のための準備、「直前」という位置づけになる。

打身でもそうだ。

次のことを考えながら、運指をしなければならない。

それは事実ではある。

運動とは、今のことは、もう次のことといってよく、
だから、そこに連続性がある。
だからこそ、踊りは楽しい。
この一畳の職場での踊りの楽しいこと。
重力を感じないステップは、本当に軽やかで、
他人から見ても、「なんかこの人、楽しそう」とわかるらしい。

しかしそれは事実、正論であっても、
どもることもそうだったが、その正論では「踊れる」ようにはならないのだ。

まず、存分に、今、屈伸をすること。

次(ジャンプ)のことなんかどうでもいいから、
今その音を思いっきり弾くこと。

今日も仕事で思ったけれど、
そうすれば、本当は、軽く次の言葉は出てくるものなのだ。
それは、ポロロン、と力を抜いて放つ音のように、出てくる。
力などいらない。力を抜くと自然と出てきてしまうかのように出てくる。
・・・と、そう簡単には常にはいかないのだが、それでも、そうできる時はあって、
できない時もあきらめることなく、ゆっくり、少し力んでも言えばいい。
そうやって、どもることに対しては、対処していけばいいのだ。

自慰から話がそれてしまったが、
今までの自慰、射精を目的とした自慰というのは、
どうしても「今」から外れてしまう。
だとしたら、射精時の快感がいかに気持ちよくても、
そのための代償が高すぎるのだ。

「今」を失うこと。

今を失わず、射精もする。

・・・という誘惑が、先の2例でもある。

こうやって、丸2日、寸止めを繰り返し、
ギリギリまでを繰り返した結果、
そこまでして、射精をしたいのか?と。

この思いが残ったのだ。

すると、今日も、職場で試してみたけれど、
それは、「そこまで綺麗な女性の胸に目を向けたいか?」という問いと同じで、
わかったことは、本当は、それほど興味はないことだった。

それよりも、その人の顔、しぐさ、服装、
よほどそのほうが、関心が向いた。
一番向いたのは、その人の顔だった。

顔、というより、首から上の頭部に
私は目がいった。
私が関心を持っているのは、そこだった。

中心に圧がかかっているのを実感しながら、
女性を見てみる。
今までなら、自慰の対象にしてしまいそうな女性で試してみる。
どこを、私は、見る、とするか?
それは、自然とどこに目がいくか、ということでは断じてない。
今回の投稿にも書いたように、私が主体的にどこを見るか、ということだ。

すると、それが顔、頭部だった。

ここは、私はまったく射精の妄想ツールにはならない。

当然なのだ。

射精に関心が無くなれば、
女性の胸に関心も向かなくなる。

私は、今、はっきり思ったことは、
これから、女性と今までと違う関係を作れる、ということ。

私は、どうしても、今までのような女性の見方は、
絶対、嫌。

絶対、変えていきたい。

でも、もう私はそこに踏み出している。

この私の中心から、そう、その女性の頭部(中心)を見る時から、
私は、まっすぐ、その女性を見始めている。

それでいい。

そうしたから、何かいいことがある、というような
目算は、何もいらない。

もう、そうやって、そこから「見ている」ことが
今、ここに、確かに築かれている新しい関係なのだから。

最後に、というか、
本当は、これ(以下のこと)を追記しようと思って書き始めた追記だったが、
女性を見る、私が見たいように見る、というところまで、書くことができた。

さて、最初の「数値」の話に戻るが、

非射精自慰の速度が、1/10。
振幅が2/7、強さが1/5。
そして、感じているピーク時間が、1/4。

雑な計算だが、これらを掛け合わせてみる。

1/10×2/7×1/5×1/4=1/700

非射精自慰の快感感度は、
従来の射精目的の快感感度の「700倍」。

感度、というのは、
1/700の刺激でも、十分に感じ取ることができる、というもの。

これを計算してみて思ったのは、
今までの自慰では、感度が1/700に落ちていたんだ、と思った。
しかもこの数値は、やって体感すると、納得する数値なのだ。

700倍気持ちよく、
今ここの心地よさにあれるのに、

どうして、今を失ってまで、
1/700の快楽を求めるだろうか?

・・・射精は、別にいいや。

こう思ったのは、当然だった。

それでも、「射精したい」と囚われるのなら、
それこそ、囚われ、強迫観念である。

そして、何度も書きたいが、
女性は、射精のための存在ではない。



2016.06.09
あび

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by jh-no-no | 2016-06-10 07:27 | 私の生き方

綱の上だからこそ-自我復元後日記[046]

5月、今日でおしまいだった。

職場では、今月やったこと、
全部、やってみよう、そう思って取り組んだ。

仕事に行く前に、新しく、
今日、やってみよう、と思ったことがあった。

堕ちまい、として
私は、下に意識が囚われていた。

それをやめることにした。

私は、もう、この超高層ビル間にかけられた一本の綱の上を歩く、
こういう生き方をしよう、そう決意したのなら、
もう、下なんか、見ることはない、と思ったからだ。

堕ちたら、ダメだ・・・

そうやって、下の世界、胸のかつての位置を
結局、意識して、ビクビクしている必要なんてない。

「堕ちない」

と決意したのだから、もう、私は、
この綱の上を歩く、行くんだって、決めたわけだから、
私は、

「前を見れば、いい」

そう思った。

堕ちない、とは、降りない、ということだ。
私の意識が、どちらを選択したか、という問題であって、
「堕ちまい」として怯えるのは、事実誤認をしている。

綱渡りをするか、しないか。

「する」

そう決意し、歩き始めたら、
落ちてしまう、など考える必要はなく、そうやって怯えるのは
害でしかない。

なぜなら、私が選択した「生」に
誰も、ケチをつけることなど、できないからだ。

この綱の上の「生」は、誰の生でもない。
私自身の、私の生だ。

そこで「何を見るか?」は、
私自身の純粋な生だからこそ、私自身、ただ一人で、
何を見るかを、決めることなのだ。

下でなく、前。

前を向こう・・・

そう思った時、私の中で、視界のイメージが変わった。

目の前に広がるのは、

「広大な空」

だ。

呼吸でいえば、このところずっと、
「吐く」ことばかりに、意識がいっていた。

なぜなら、吐くときにこそ、
意識が落ちやすかったからだ。

しかし、私は、今日から、
下を見ないで前を見るように、
吐くことではなく、「吸うこと」に意識を向けることにした。

それは、広大な空の空気を
思いっきり、吸う、ということだ。

それは、その一本の綱の上の出来事だ。

そこで経験すること。

前を向いて、息をいっぱい吸う。

これが、私が今、選択し、立っている場所だ。

職場に着いて、私は、今日、
いつも、どもってしまうあのセリフを、
この今の「立ち位置」で、前を向き、めいっぱい息を吸って、
言ってみよう、これに今日はチャレンジしよう、と思って取り組んだ。

最初は、今までの習慣で、
どうしても、「下」をちら見してしまう。
それでも、それは決してダメなことではない。
それでも、十分、生きているのだから。

下を見る、というのは、
決して悪いことなのではない。
見て当然なのだ。
それほどに、この綱の上はとんでもなく緊張する体験であり、
決して、「平気」なわけがない。

しかし、私は思うのだ。

これは、ここ数日、いつも何をやるにしても思うこと。

「それは、本当に、楽しいのか?」

という自問だ。

自慰で一つ、面白いことを発見した。

性器にまったく触れることなく、
「すごく、性的快感が得られる」ことはある、ということ。
もちろん、それで射精したりすることはない。
ただただ、気持ちいい。次第に、快感は落ち着き、また意識していけば、
快感は訪れ、それは、ゆったりとした波のように、繰り返す。

射精せず、これを繰り返す、
というのは、実は、結構、しんどい。
ずっと、寸止め状態のようなものだからだ。

それで、私は、思ったのだ。

寸止め状態は、実は、気持ちいい、ということだ。
まさに、今、リアルタイムで気持ちいいのだ。
なにも、射精という「先の出来事」を期待することなど一切なく、
ただただ、「今」、気持ちいい。

これが、「苦しい」「しんどい」と認識してしまうのは、
必ず、「その後の射精」を期待し、期待しつつも、
それができないで我慢している、と思っていることによる。

子どもも自慰をするらしいが、
子どもは、まだ、射精はしない。
では、子どもは、不満だろうか?しんどいだろうか?
子どもが性器を触ったりして気持ちいいと思うこと、
また、これは私自身も経験したことだが、最初に射精をした時は、
それが自慰だと、まったくわからず、射精してしまったことを考えると、
そこにあったのは、ただ、今、気持ちよかった、だけなのだ。

もちろん、射精をすることで、さらに快感は高まる。
高まる・・・というか、質的に変わる。強烈な刺激に感じるから
高まる、と思ってしまうのだが、今回、私が思ったのは、
射精時の快感と、寸止め状態の快感、どっちが気持ちいい?と考えると、
どっちだ、とはいえない、と思った。

実は、今回、性器に触れずに、という試みは、
その前に、動き、強さ、スピード、これらをすべて
1/2よりも遅くしたら、どうなるか?と試みたのが最初だった。

結果、1/2どころか、最後には、
性器に触れずとも、射精直前に等しい快感にまで高まる、ということがわかった。

で、何を、今、言いたいか、というと、
「今、気持ちいい」ということ、これを今までずっと
見ないできたのではないか?ということ。
射精する「ために」、そのための自慰をする。
つまり、それでは、自慰行為それ自体は、楽しいか?ということなのだ。

これに関連して重要な発見は、
1/2以下にまで(これは自慰に限らず、私の場合、あらゆる運動に共通した)速度を
落とすことで、感覚の質自体が変わる速度境界線があり、
自慰でいえば、今までの自慰の動き、強さ、スピードでは、
私は、「自慰それ自体」は、まったく、どこもいいと思えないただの手の運動、
それこそ猿じゃないか、これじゃあ・・・と思った。

射精が「後に待っている(どっかからやってきて与えてくれる)」から、
この行為も気持ちいい、と錯覚してしまう自慰の速度帯が、かつての速度帯だった。

自慰それ自体が、気持ちいい、
それが「好きだ」というのが、
私は、今回、これいい、と思った経験だった。

歩く時もそう。

今、そうやって歩くスピードは、「本当に」楽しいか?

そうやって食べて、「本当に」楽しいのか?

自分がやる経験は、可能な限り、
そう自問しながら、このところ過ごしてきた。

それは、言い換えると、

「今、何が、本当に起きているのか?」

という自問と同じだった。

今、ここが、高度何百メートルの高さの綱の上だとしたら、
何が現実だろうか?

言うまでもなく、この綱の上、
そこで実際に見えるものが、現実だ。

一方、そこに本当はないもの、
それは「真下の光景」、そこに落ちたら・・・
という「恐怖心」、それらは、本当はそこにないものだ。

緊張はするだろう。

なにせ、一本の綱の上でバランス(舵)を
一秒も意識が眠ることなく、研ぎ澄ませているのだから。

だけれど、そこで何が見えるだろう?

何を体験するのだろう。

何を、本当は、体験できるのだろう?

それは、空の広大さを感じたり、
澄んだ空気を、おもいっきり吸うことだ。

そしてなにより、
一歩一歩、自分の足で歩いているという実感だ。

さて、職場での「どもる」ことに、
私が挑戦したことに話を戻そう。

私は、いつも、どもってしまった箇所で、
私は、もう、下(胸あるいは胸と喉の間)を見ることをやめた。

息をしっかり、吸う。

それは、それ自体、気持ちいいことだ。

中心とつながる。

それは、ここが、大空を仰ぐ綱の上だと認識することだ。

それから?

なんてことはない。

あとは、そのセリフを言うだけだ。

大きい声で言えばいい。

さて、私は、ここで一気にこの一ヶ月、踊りまくったこと、
それは、打身のレッスンで指摘されたことで理解を深めたことを
ここで、全部、出しきっていった。

ある動作が楽しい、というのは、
「その直前の動作」が楽しい、ということだ。

たとえば、ジャンプが楽しい、と思うのなら、
その人は、その前段階の「屈伸」が気持ちよく、好きなはずだ。

楽しい、と、好き、は
すごく、似ている。
同じように、感じる。

打身のコードの移り変わりで気づいたこと、
そして、明日からも、もう今からやりたくてソワソワしていることは、
コードの移り変わりが、とても気持ちよかった時は、
移り変わる直前も楽しかったことなのだ。
これを、もっともっと、体験したい。

逆にいえば、楽しくない時は、
その前も楽しくない。
ジャンプが楽しくないとしたら、
屈身している動作自体、おっくうに感じて、つまらない顔で
いやいややっているはずだ。

これは、畳一畳の仕事場で踊りまくって
何度も体験した「気持ちよさ」。

屈身し、伸びる。

伸びたい、と思う時、屈伸のあの気持ちよさ。

どもりそうになる前のフレーズこそ、
大きな声で言おう。

気持ちよく息を思いっきり吸って、
大きな声で言う。

それが、屈伸だ。

さて、私は、一つ工夫をした。

言葉と言葉をつなげるだけでなく、
ここで、目線と動作も連動させよう。

屈身したら、ぱっと相手の顔を見る。
見上げる。

そう、どもってしまう時、一番苦手だった、
「相手の顔を見る」というのを、
それこそ、「好きで」やってみせるのだ。

相手の目を見る、目を上げる、
これが、「屈伸(大きな声で言った言葉)」からのジャンプだ。

ジャンプは、それだけじゃない。

手の動きも、本当にジャンプさせよう。

そこに、かつて、苦しんで苦しんだどもってしまった言葉を
「はっきり、堂々と」言うのだ。

私が、今日、何時間かかけてやり続けたことは、
どもらないようにしよう、ということではない。

どもってしまった箇所こそ、
「最高に楽しい瞬間、大好きな瞬間にしたい」
その一心だった。

どの時間よりも、そこを好きになりたい。

無理に好きになろうとしたわけではない。

私には、もう、わかっていた。

私は、そこが、大好きになるはずだって。

だから、たとえ、一瞬怯んでも、
「楽しさの波」は、恐れを吹き飛ばした。

それほどに、それは、
「工夫の力」だったのだ。

工夫に、工夫に、工夫を重ねる。
工夫は、一度でなく、何度も、3度も4度も、
どんどん、重ねていく。

なんとか、楽しもうとする。

本当は楽しさを享受できるはずの楽しさを
楽しく取り戻していく。

力技なのだ。

「力技」だから楽しいんだよ。

魔法でも、テクニックでもない。
それが、自分の技術なのだ。

こうしていくと、
どもらない、ということに焦点が当たらず、
そこのフレーズが、「好き」になっていく。

また言いたい。

そう思うと、またその前の言葉が言いたい。
その時の動作をしたい。
次は、どんなふうに動こうか?
相手の顔を見てみたい。
そして、どもらずに言えた時、
「ああ、気持ちいい」と感じる。

普通に言える、というのが、
こんなにも気持ちいいものか、と感じる。
これは、いつもいつも、本当はやっていることなのだ。

だから、私は、今、話すことが、
前よりも好きになった。
声優になりたいくらいだ。
声を出す、という運動が、とても楽しいからだ。

踊りも好き。

これも、本当に、同じなのだ。

「好きだ」

という気持ち。

私は、これを大切にしたい。

好きだ、という思いが、
私の「生」、私の「身体」の中を流れる。

私は、この綱の上が好きだ。

一秒も意識が眠ることが許されない綱の上だからこそ、
私は、この「生きる」という経験を、


「大好きになろう」


と思った。



2016.6.01
あび

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by jh-no-no | 2016-06-01 06:26 | 私の生き方