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「何が問題なのか?」を聴いて -宣言文-

2016年1月29日、今日は、続けて二つ、
ブログをアップしたいと思います。

「止まるな」に続いて、
「何が問題なのか?」を聴いて、というタイトルで、
感想報告文をそのまま、ここに掲載したいと思います。

私にとって宣言文でしたから、
副題は

-宣言文-

とさせていただきました。


◆ ◆ ◆


崩残さんへ

あびです。

「何が問題なのか?」を聴いての感想を
書いてみたいと思います。

それでは、はじめてみます。



・・・



「強烈に、生き切れ!」

これは、

「魂の標識」といっていいと思う。

CDの語りは、私にとって
そのようにしか、聴こえなかった。

決して、「宇宙の」標識ではない。

なぜなら、宇宙、あんたは、

「生き切ったのか?!」

という疑問が、私にはあるし、
まったく己に誠実だとは思えないからだ。

私は、一人の自我復元者だ。

自我復元が至るのは、
一つの結末でしかない。

それは、

「私は、生きてすらいない、いなかった」

という事実だ。

決して美化されえない、永遠の拷問にしか思えない地点、
容赦ない事実だ。

それを誰が知りたいと思うだろうか?
誰がそこに行きたいと思うだろうか?

ありえない。

「死に続けること以外、もう、どうしようもない」

これが、私の自我復元だった。

AC人格との格闘、AC人格の完全抹殺。
自殺の先に自殺しか待っていない・・・「本当の」自殺。

その私にとって、このCDは、
「まったくその通りの事実」が、ただ、語られている、
としか思えなかった。

生きたい、どうしても生きたいと強烈に思い続けるのなら、
死、死、死、そして死・・・最後の最後まで、死しかない。
その事実に直面することになる。

私が、CDで聴いたのは、

その

「体験」

それ自体だった。

私は、自我復元で「生きる」ことを知った。
しかし、それは、自殺の連続の果てに、
行き着いたのではない。


自殺の連続の「中で」、


私は


生まれて初めて


生きていた


己を裏切りたくない一心に、その一心の中で
息をしていた。

CDを聴いた感想として、
一番「感じた」ことは、
語り手の呼吸だ。

私は思う。

宇宙には、そう、あんた宇宙よ、

お前にその「呼吸」はあるか?

その息遣いに尊厳を見出せず、
ただ存在しているそんな情けない宇宙をやっていたいのなら、
私は、あなたとは契約しない。

これは、

自我復元における毒親との契約破棄と同じだ。

「強烈に生きた者たちの証」

このCDは、それだと思う。

だから私は、

このCDの語りを聴いて、

この語り手、崩残さんの「笑顔」が

今もなお、見え続けていることが、

本当に、嬉しいのだ。



・・・



以上、感想です。


自我復元をはじめて間もないころ、
崩残さんから、こう、アドバイスをいただきました。

毒親に向けての契約破棄の文言を印刷したものを、
ずっと、私はどこに行く時も、持ち歩いてきました。


>「楽しくもないし、
>自分の意志も思考も、自由に行使できない、

>そんな契約違反の生ならば、
>殺したければ、この私を殺せばいい。

>何がどうこうしたら、お前は死ぬんだぞ、とか、
>何をしないと、お前も死ぬんだぞ、とか、

>そんな、情けない、脅迫しか出来ない、間抜けな生命を、
>いつまでもやっていたいならば、
>私を好きに、殺しなさい、あるいは苦しめてみなさい。

>あなたたちが、愚か者にとどまるために、
>そうしたければ、そうしなさい。

>二度と私はあなたたちのような愚か者とは
>契約などしない。」


今回の「感想」は、
これを、今度は、「宇宙」に向けて、
私が書いたことになります。

感想を書く前から、
思っていました。

私は、つねに、宣言してきました。


「 宣 言 」


です。

無明庵で学んだのは、
その「生き方」でした。

死のみ、でしたが、
そこに息づいていたのは、まさに「息」でした。

感想にも書きましたが、
そう、特に、私が好きだったのは、
崩残さんが終わりにさしかかるとき、

一度、息を整えたときの、
あの息と、そこから醸し出した雰囲気です。

かっこよかったなぁ!

この部分は、ラブレターなので
感想とは別として。

でも、私は思います。

己に向けてのラブレターなのです。

うん

この息です。

このCDから感じとったもの、


それは


「息」


なんです。



・・


よろしくお願いします。


あび


◆ ◆ ◆



2016.1.29
あび

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by jh-no-no | 2016-01-29 20:02 | 私の生き方

「止まるな」

一月の終わりに、また、ブログを更新したい。

この一か月、私は、何をしてきたのか、
結局、止まらなかった、ということだった。

リハビリを終えた、で、何か変わるか?
何も変わらない。
変わる必要は、何一つ、無かった。

そのまま、

止まらないで、行けばいい。

それだけだったと、今日、あらためて思った。

なぜなら、

「止まれ」

これこそが、毒親の声だったからだ。

止まれ、生きるな、死んでいろ、
自分など見失ったままでいろ、
まわりを見ろ、それに気をとられろ、
ほら、親だぞこっちは!おいっ!!

こういう脅迫の家で
私は育った。

何度か思ったことだが昨日も思ったことがある。
今のような事態になって(以前と変わって)、
毒親たちにしろ、Pにしろ、その親や兄弟姉妹にしろ、
私の兄弟姉妹にしろ、友人?だった人たちも、
誰一人、私と険悪な関係になるのを回避しよう、と
努める者は誰一人もおらず、

ただただ、「責める目」で、全員とも
私を見ただけだった。

私が個人として生きることなど、
「これっぽっちも」考えていなかったのだ。
それは、悪気どころか、しごく当然かのように、
私は、生きていなくて当然な存在として
40年以上、人形(ロボット)のように、いただけだった。

だから、今、私は、清々としている。

「止まらない」

これが私の意志として、明確である。

さっきも思ったが、
昨年12月、今年1月と、
よく寝ないでやってきた日があったなあと思う。
週に一度は徹夜していたし、かつては8時間近く寝ていたのに、
今は、4時間程度は、ざらだ。

理由は、私は、
とくに、自我復元、これは、
「寝る間も惜しんで」やりたいことだから、
止まらないでやりたいことだから、
なぜなら、それが、私の生き方であり、
その道を開いたのであり、
喜んで、私は、寝ないのだ。

昨年も書いたように、
身体に「ありがとう」。
でも、身体も私に言うだろう。
「どういたしまして!」と。
それが、健全な自己の関係性だ。

一食は白米生活、と書いたりしているけれど、
私は、自我復元と同じくらい「寝ないで」没頭しているのが、
食べて料理をすること、これに今、「没頭」している。

楽しくてしかたがない。

今日も、ずっと、作っていたし、
食べていた。

生まれてはじめて、
私は、楽しく、過ごしている。

何度か書いたけれど、
私のいる今の場所は、
「中心の技法」「関心地図」「日記」
それ自体が、今、いる場所だ。

それと忘れてはならない、
私にとってはすごいアイテムがある。

「不自由の自分ルール」

だ。これは、まるで奇跡のような手段なのだ。
まったく、何が起こるかわからない。
なんとなく予想しても、そうでないことが多い。

しかし、このルールは、どんなルールを設けるか、が
実は難関なのだ。というのも、自我復元、なんでもそうだけれど、
「切羽詰まった設問」でなければ、何の意味もない。
ただ、ルールを決めているだけになる。

しかし、今、打破したいこの状態に立てられる設問、ルールには、
ここで「止まってしまいそうになる原因」をぶち破る力がある。

最近で、一番、印象的だったのは、
「相手の目を気にしてみる」というルールを
仕事中にやってみたことだ。

そして、昨日、私は、私にとって
思いもしなかったルールを設けた。
思いもしない、というより、つねにそういうものだが、
「それはしちゃいけない」と思いこんでいるものが、
土壇場では、不自由のルールになるのだ。これが鉄則だ。
それは小手先ではできない。自ずとルールから舞い降りてくるものだ。

「名付けてみる」

というルールだった。

最近、どら焼きとか作っていて、
ふと、こういうことをよく私は考えている。

「あびどら焼き製菓」

なんていい名前だなあ、とか。
そうだ、そういう活動、仕事をしよう、とか。

問題は、

そう問題は、私が「そう名付けた瞬間に」

いやぁーーーーーーーーーーな気持ちになることだった。
(嫌)

私は、小さい頃から、よく名前をつけることをしていた。
たとえば、ファミコンのゲームの登場人物、野球選手などに、
自作の名前をつけていたし、そういう日常的なシーンから、
目標や指針など、そういったことを設定しては、しばしば、
それを端的にあらわす「名前」をつけていた。

要は、それが、
「格言」世界なのだ。

毒父世界のそれだ。

その「名付ける」ことが、何をなしてきたか?といえば、
実は、AC人格問題から見れば、この一点に尽きる。

「止まる」

ことなのだ。

名付けるとは、停止を意味していた。
もっとちゃんといえば、それは決して自発的な停止などでなく、
「止まれ」「動くな」「見るな(ちゃんとは見るな、という意味)」
「自分とか言うな」「顔色を見ろ」、そのために、

「止まれ」

という、命令。

それを、あたかも、自分で自発的にやっているかのように
錯覚させるのが、「名付ける」という行為だったのだ。
それは、毒父自身が、そのAC人生全体を貫くやり方だったのだ。

そこで、私は、名付けることを避けるのでなく、
むしろ、自覚してやってみることにしたのだ。

まず思ったのは、
私は、他にもしたいし、できる、ということだった。

しかし、予想外のインパクトは、今日、起きた。

なんと、

名付けても、大丈夫だったのだ。

私が今やりたいことは、

「全力で楽しんで食べて遊ぶ」

ということだ。そして、それを、こうやって、
そう、今のように、名付けてみるのだ。

「全力で楽しんで食べて遊ぶ」、と。

嫌~な感じがしてくるのだ。その瞬間に。

ところが、それは事実としてありながら、

私は、それにまったく影響されていない私がいたのだ。

そして、それが、

私だった。

いや、そんな説明的なことはどうでもよくて、
名付けたから、だから何?と、私は思っていた。

名付けても、もう、効力は失っていたのだ。

理由は、簡単だった。

私がやりたいこと、今、体験し、体験し、体験し、
という連続は、「名付けようにも名付けられないから」だったからだ。
だから、名付けても、それは嘘ではないのだが、その瞬間に褪せてしまおうが、
体験中の私には、どうでもいいことだったのだ。

その私は、

止まっていない、

ただそれだけだった。

止まらないのだ。

止まらなければ、名付けても止まらないのだ。

つまり、名付けることは、

もう、私を「止められない」「止められなかった」のだ。

そして、逆説的だが、

そうなると、なんと、褪せないのだ。
名付けたものが。

ああ、これが、日記の言葉として、
本当は、私が、書いてもよかったこと、
「今日、こんなこと思ったよ、感じたよ」と
堂々と書くことを、本当は、やらねばならなかった。
やれないのなら、そこに疑問を持ち、
徹底的に、探求し、問題にぶちあたっていくべきだった。

日記をかけない、というのは、
典型的な「感情の死に方」だったのだ。

そして私は根本的な問題(AC問題)から逃げ、
私は、一番腐った生き延び方、
「今、あるがままに、平然といればいい」
という、精神世界を冒涜する最たる毒人間として存在していた。

思えば、AC人格との格闘も、生体反応を失う時も
同じことが毎回起こっていたのだ。

「止まれぇ~」

毒親の呪いの声である。

リハビリの生き方とは、止まらない生き方だったのであり、
止まらない生き方が、自我復元という生き方だったのであり、
それが私の生き方であり、過去も、今も、未来も、私は、
そうやって生きてきたし、生きていく。

これが、当たり前の生き方なのだ。

生き方には、これ以外、他にあるだろうか?
止まりたいのなら、死ねばいい。
じゃあ、死ねるのか?と自問し、本気でイエスと言えるのか?
言えないのだ。そういう中途半端な生が、ACという生き方なのだ。

AC人格との闘いとは、
つねに、「怠惰さ」との闘いだった。

もしも私が怠惰さを一切許さず、
誠心誠意、己を生きようとし続けるのなら、
AC問題は必ず解決する。

否、

「解決し続ける」のが、

本当に、私が望む生き方なのだ。

「止まるな」

ということだ。

私は、ばんばん、日記を書いていこう。

書き殴るつもりで!

そこに、その日記に、

私の生き方を、すべて、投じていこう。

やっぱり、最後は言いたいね。

毒親、

ざまーーーーみろ!!!

私は、もうあなたが見ることは二度とない笑顔で

生きている。

私は、今、「私」という個人を生きている。

昨日、電車に乗りながら外を見て思ったのだ。

ふと思ったことなのだけれど、

「崩残さんって、ああ、たとえばああいうマンションにいたりするんだなあ」

とか思った。いや、喩えだよ。マンションじゃないのは知ってるけど。

そういうことじゃなくて、

私は、たとえば崩残さんは、つねに「私の中にいた」。

それは、決して、いいことでない意味で、なのだ。

私の中には、本当は、誰もいないのだ。

もしも、誰かがいたとしたら、
それは、妄想の中で、AC人格が保身のために「設けている亡霊」なのだ。

考えてみれば当然だ。

私の中に、誰もいるわけないのだ。

私は私だ。この身体も、脳も、肌も。

毒親も、何もかも、私の外にいる。

私と、外界、なのだ。

こんな当たり前なことを、
昨日、電車の中で、はっと気づいたのだ。

そして、今までは何だったか?

私の妄想の中だけがすべてだった。

・・・とは、どういうことか?

私すら、そこにはおらず、
外界すら、きちんとそこにおらず、

「自分不在の亡霊屋敷」

私が生きていなかった40年の監獄とは
そういう狂気の世界だったのであり、
なぜ、そんなことになったのか?
それは、誰のための世界観なのか?
その世界観のあらゆる価値観とは、
誰のための、何だったのか?

「毒親都合で生きて死ね」

そういうことだった、から、

私は、それをやめることにした。

それが、自我復元だ。

「自分都合で死んで生きる」

毒親に言うことは、本当に、一言しかないね。


 ざ ま あ み ろ


これが、私の生き方だ。


2016.1.29
あび

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by jh-no-no | 2016-01-29 18:54 | 私の生き方

たった一つの約束

本当に多くの記事を書いてきたこのブログだけれど、
今回は私にとって、大きな節目となる投稿になると思う。

全身全霊で、書いていくつもりだ。

タイトルは「たった一つの約束」。

これについて書いていくと思うし、
そして、私がこの3年の間、何を思い出す道だったのかを
明確にしていこうと思う。

解毒に容赦はないからだ。

雪国への旅を終え、それから数日、
私は、ただ一点に向けて関心を向け続けていた。

「生きたい」

ただそれだけだった。

また、ただそれだけが、自我復元を成し遂げる一本の神経だった。
それすら自覚とは無縁なところからスタートした自我復元だったが、
それでも、私を支えてきたのは、この「生きたい」というものだったことは確かだ。

そして、毒親の毒とは、

「生かさせない」

という復讐心であり、それと真っ向から戦おうとする決意、
これが、私の自我復元だった。

だから、単純なことだ。

我が子でありながら、生かさないという狂気の洗脳から、
生きたい、絶対に生きたい、その出口を探し続けること、
これ以外ない。

「生きたい」

これが鮮明に聞こえ、浮かび上がる。

この2日間は、それをかみしめた。

今日、この声は、別なものへと変容した。

「生きろ」

私が見たのは、狼だった。

狼の目、声、それは、私の目、声だった。

それは絶対だった。

生きたい、などというまだ選択の余地のある「きれいに見えるもの」ではなく、
それは、まるで、戦地で返り血が目に入っても進めと命じる高官のごとく、
絶対的だった。

私はこれに従う。

これだけには従う。

これ以外には従わない。

そうなんだ、人間が従っていい対象は、
私が私に向けた命令、それのみだ。

たった一つ、私が私に望んだこと。
原始、その時から変わらずに、死なずに、そして唯一残った魂。

「生きろ」

これは声であり、目であり、私であり、約束である。

AC人格との闘いはつねにそうであったが、
食欲、睡魔、性妄想、拷問の仮想恐怖、
これらに対しての

「怯え」

が、今日、午後1時20分、消えた。

生きたい、が「生きろ」へと、
その声を発する主体へ、私の決意が、
はっきりと切り替わった時だった。

「どんな生理的身体的脅迫も、私を邪魔することはできない」

そう思った。

なぜなら、あまりに当然なのだが、それは、
「生きろ」だからだ。
「生きない、かも・・・」などという選択肢は、無い、のだ。

初めから、そんなの、無かったのだ。

それは、この生の初めからどころか、
ずっとずっとおそらくそれは魂の始まりから、
無かったろう。

それは、つまり、

「死ぬ恐怖」

など、始めから無く、すべからく妄想であり、
AC人格とは、「死んでしまうかも」という恐怖心で生きながらえており、
「生きたい」という、実は、妄想側の希望すらも、妄想であり、
私は、もがき続けたのだ。

「生きたい」

その扉の「向こう側」が、
私の中心だったのだ。

雪国への今回の旅は、
その扉で、どうするか、どうするかとは、
「その先のわからない扉に手をかけますか、どうしますか?」
という、究極の選択に迫られた、といってもいい。

「生きたい」

これだけが支えだった。

それに間違いもなかった。

でも、やはり、私は忘れられなかった。

「私は、どこだ?」

という自問だ。

自我復元をやってきて、これだけは言えるのは、
誰にとってもそうなのだが、自分に最も厳しいのは

「自分」

だ。それは当然のことなのだ。

AC人格との闘い、それは、
ACが死ぬことを拒絶する壮絶な闘いだ。

だけれど、

本当に死を絶対的に拒絶している存在がある。

それが、

「自分」

なのだ。その程度は、ACが死にたくないとごねるレベルとは
「雲泥の差」なのだ。

ゆえに、当然にして、死ぬ運命にあるのは、
AC人格のほうであり、私、自分、己は、絶対に死なない。

なぜか?

それは、明確である。

私が、そう願ったからなのだ。

「生きろ」

これは、「生きよう」という思い、約束、契約。

これが、私の「意志」。

私は、ようやく、死んでも大丈夫だ、と思えるようになった。
今日だ。

毒親の元に生まれることは、二度とないだろう。

なぜなら、私は、

「私でないもの」を、決して
「私のものだ」と、誤魔化さない人間になれたからだ。

「私は、どこだ?」
この自問を忘れない覚悟ができた、と同じ意味だ。

だから、私は、AC人格を受け入れることも二度とない。

この位置、私のこの自問を放つ位置から、
私は、もう、ブレない、と決意したからだ。

だから、扉は開いた。

これは決して、これからいいことがある、などという
馬鹿げたおとぎ話、ACの保身話のある世界ではなく、

「本当」

のものだけがある世界の入り口だ。

本当の恐怖、本当の喜び、本当の不幸、本当の幸福、
本当の悲劇、本当の苦しみ、本当の笑顔、本当の探求。

どれも、「本当」だけが、ここにある。

「生きろ」

狼がそこで私に放ったのは、それだけだ。
その言葉、一言。

その瞬間、その狼は、私であり、生きろという約束そのものとなった。

見えている物は同じでも、
私が見ているこの世界は、まだ私は何も知らない世界だ。

そう思った時に、あるいは、同時、または逆かもしれないが、
私の頭の中に、あの二人の毒親のプロファイル写真が力なく浮かび、
それはそこで「永遠のさようなら」だった。長かった。本当に長かった。
この今感じている長さとは、この3年の格闘の長さでもなく、また、
42年という失った自分の生の長さでもなく、もっともっと長いものだった。

長かった。

・・・

私は、今、食のことに関心の多くを向けている。

昨日から始めたことがある。

一日二食のうち、一食を「白米一合のみ」としたこと。
その一食は、一切、おかずは無し。

ブログにも書いてきたが、
私は、「満腹感」との闘いをずっとやってきた。
この不快感との闘い。

満腹感とは、「おなかがいっぱいだ、ふぅ~」というものだけを言わない。
おなかを満たしたい、という欲求、ここから不快を察知することから、
満腹感との闘いは始まる。AC人格はつねに狡猾だ。
おなかがいっぱいにならなくても、「満腹な感じ」を得る技も身につける。

問題は、なぜ、満腹、つまり、腹を「満たしたいか」ということなのだ。

この格闘の末、私は、一つの結論の行きついた。

「おなかは、私ではない」

おなかという器は、私という器ではない。
この自己同化をなぜしてしまうのか、これが問題だった。

これは、食のことだけではない。
なぜ、満たしたいか、ということなのだ。
なぜ、それを満たさねばならないのか?
それは、いったい、誰がそうしろといい、それに従ったのか?

とことん、毒親分析である。
毒親はどこにでもいる。そしてどこでも私を支配する。
私の意志など、許されなかったわけであり、
「あれは私の意志だった」など、何一つ、無い。

何一つ、だ。

私が描いたり感じられる幸福感や満たされた思いは、
ことごとく、どれも、親が「仕込んだ」ものだ。
目的は一つ。「子どもに、自分を捨ててもらうため」だ。
最低最悪の極みだが、これが事実だ。

毒親は、子どもを生かさないことだけを考えている。
これ以外、何も子どもに対して関心がない。
いかに、この道具を使って、恨みつらみを晴らすかの
復讐のアイテムとしか、考えていないのだ。

雪国への旅から帰り、
私は、一つ決意したことがある。

「不誠実な食べ方はしない。
今後は、一口たりとも、不誠実な食べ方をしない」

と。それは、一秒も自分を裏切る生き方をしない、
というのと同じことだったからだ。

では、不誠実とは何だろう?

私はこれを定義する必要があった。

それが曖昧なまま一日、二日が経ち、私は結果としては
不誠実な食べ方をしてしまったことがあった。

珍しく、下痢をした。

水分を多くとりすぎたからなのだが、
食べ方に問題があった。

不誠実とは、どういうことかを身をもって体得した。

そこに自分がいなければ、
どんな真剣な顔で食べていようが、笑顔で食べていようが、
それが不誠実だ、ということなのだ、と。

それで、私は、一食を「白米一合のみ」と決めた。
腹を「満たす」のは、もう、やめた、と思ったからだ。
腹は私ではない。私は、この食べている私が私だ。
味も私ではない。その感覚も私ではない。

とことん、私は、私なのだ。

それがそこにいないで、
その食事が「おごそかだ」といえるだろうか?
おごそか、厳かとは、「威厳があること」とある。
威厳とは、堂々としていること。怯えていないことだ。

満腹を求める、おなかを満たすことを求める私の衝動は
怯えである。どこも堂々としていない。

満たそう、とする意地汚い精神と、
「私は、どこだ?」と自問し生きようとする精神とは
相容れるものではない。

食べる根底が狂っていたのだ。

ならば、生きているとはいえないのと同様、
食べているとは言えないと思った。

どんなグルメであっても、
何も食べていないに等しい。
味にどれほど詳しく、敏感であっても、
「だから、何?」の世界である。

昨日、私は、職場の休憩時間、
白米一合を20分かけてゆっくり食べた。
味わうのでもなく、満足しようとするでもなく、
ただ、私は、そうやって厳かに食べてみたかった。

つまり、食べている時、
私は生きていたかったのだ。

食べている最中、そして食べ終えて
私は、「満腹に」ならなかった。
量の問題ではなく、私は、別の何かが満たされることは
一切なかった。

私がしたかった食べ方だった。

かつて書いたことがある。

私は、味覚を失ってもいい。

しかし、それでも、私は、食べることを知っている人間でありたい。


2016.1.22
あび

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by jh-no-no | 2016-01-22 16:28 | 私の生き方

笑顔から始まる

Rさんと衝突し、Sさんにも思いをぶちまけた。

それから、一昨日、

Rさんに対して、こんな気持ちを向けはじめていることに気づいた。

「信じたかった」

意外な気持ちだった。

この気持ちこそが、AC人格の動機だったから、
私は、これを天敵のように避けてきたのものだったからだ。

そして、昨日、

私は、生まれてはじめて、
心のなかで、弱音をはいた。

「つらかった」

と。

仲間外れにされている、そう思い続けてきた
ここ7ヵ月以上の日々、それは思っていたことであり、
なのに、言えなかった言葉だった。

なぜなら、つらい、と認めたら、
Rさんに認めてもらいたいというAC人格を
私が認めてしまうことになるからだ。

そうやって掘り続けてきた。

でも、なぜだろう。

「信じていられたら・・・よかったのに」

そう思っていることを、素直に思い、
でも、結局、Rさんを信じられなかったこと、
信じたくて、信じようとして、でも、その都度、裏切られて、
私は仲間外れにされ、いじめられて・・・

悲しかった?寂しかった?のか・・・

きっとそうだろう、と思った。

私は、「哀」という感情こそ、
他のどんな感情と比較しても、
それはまるで氷の塊の芯のように、
真っ白になって死に絶えたかのように、
そもそも、私は、悲しいということを感じたことがなかった。

自我復元を始めるまで、
楽しいも嬉しいも、怒鳴ることも夢中になることも、
そして怖いという感情すら、私は知らなかった。
私は自分自身、本当に「自分には感情がない」と思っていた。

恐怖という感情の氷から、少しずつ、本当にそれは少しずつ
気が長くなるような時間をかけて解け始め、
毒親やPに怒りを向けられるようになり、
AC人格との格闘を経て、楽しい、嬉しい、夢中になること、
それらの氷が、ちょっとずつちょっとずつ、解け始めていった。

でも、悲しい、というのが
まったくわからなかった。寂しいもわからない。

今まで、私は、他の方の報告文やブログを拝読し、
まったくわからない箇所が共通してあった。

それは、

「親にこうこうされて、悲しかった、寂しかった」

という部分が、まったく理解できなかった。

私は、親に何かをされて悲しかったり
寂しかったりした記憶が、一つもなかったからだ。

そんなことをここ2日考えていた。

昨日、私は、思い切ってRさんに、
「仲間外れにされた気持ちがして、私は悲しかったんです」
と直接言ってみようと思った。それに間違いはないと思ったから。

それで休憩室で、もう一度、自分の気持ちを見てみよう、とした。

というのも、一つ、どうもやはり、しっくりこなかったからだ。

「カナシイ」
「サビシイ」

これにリアリティーがどうしてもついてこないからだった。
きっとそうなのだろうけど、これを言った時に、
私は本当に「言ってよかった」と思うだろうか、と考えると、
どうだろう?となった。それでもここは動くべきだ、と思ったり、
いや、しかし・・・と思ったり、揺れていた。

正直、信じたかった、と思っただろうことも、
仲間外れにされたくない、と思っただろうことも、
考えれば考えるほど、「本当にそう思っているのか?」と思い始め、
しかし、こうやって、行動を阻止しようとするものに対し、
私は警戒を強め、それでもやってみよう、いや、しかし・・・を
繰り返していたのだ。

実際、Rさんと話したら私はどう言うだろう?

シミュレーションはしてこなかったが、
一度、独り言でやってみることにした。
悲しい、寂しい、そう言えるだろうか、と。

その時、私は、独り言であれ、
はじめて、私は、この言葉を口にしたのだ。

「つらかったなあって」

仲間外れにされた気がして、つらかったなあって。
私はRさんにこう(独り言で)言った。

この時だった。

「もう大丈夫だ」

と思ったのは。ああ、どちらでも大丈夫なんだと。

どちらでも、とは、
Rさんに話してもよし、話さなくてもよし、
(結果的には、その日、話すことはしなかった)
私は今、リアルな気持ちの氷が解け始めたことを知り、
そのことこそ、いや、それだけが、ここ2日間の迷い、妄想の中で、
一点のリアルだったのだ。

仲間外れにされ、
Rさんを信じたくても信じられず、
いじめられていると思っていて、
悲しく、寂しかった・・・のだろうが、
そういうことよりも、私がずっと言えなかったこと、
ずっと思っていたのに言ってこなかったことが、

「つらかった」

という、まさに、その気持ちだった。

つらかった、が言えなかった。

この2日の間に、そういえば、と思い出したことがあった。
これと似たことがあったことを。
それは、「初めて泣いた日」というタイトルで書いた時の
あのPとの出来事、私は、一緒にあなたとやりたかったのに、
いつも出来なくて、それがどんなにしんどかったか・・・と言った時、
思いがけず、泣いてしまった時のことだ。

その泣いてしまった当時は、ただそれが起こっただけで
どういうことかはわからなかった。
ただ、こうやって泣いたことで、やっと泣けた、と思った。
そしてこれがPに対して、私の気持ちをつきつけたもの、
ずっと言えなかったことをついに表明したことだったから、
それは、ピリオドだと思った。まさに、ピリオドの涙だった。

たしかに、私はその時も、Pに
「どんなにしんどかったか、あなたにわかりますか」と
しんどかったことを訴えてはいた。

でも、ここがとても微妙かつ巨大な格差なのだが、
私はこの時、まだ、「しんどい(つらい)」ことを
認めていなかったのだ。しんどかった、つらかった、という思いを
自分が感じてきたものとして、「認めてはいなかった」。

むしろ、認めるどころか、認められないからこそ、
Pに訴え、その自分と離れる、その自分を葬るために、
思い切って、つけねばならないけじめとして、Pに話をしたのだから。

今は思う。

それは頭でそう思っていた計画のようなものに過ぎない。

私があの時泣いたのは、
本当は、「つらかった」という思いが、涙を押し上げたのだ。
ずっと言えなかったこれが、涙となってこぼれだしたのだ。
今はそう思う。あの時は、そうは思わなかった。
そんなことより、あの時は、かつてのそういう自分と別れるために
必死にとらねばならない行動であった。
AC人格を解除するために、やらねばならないことだったから。

でも、なぜだろう。

自分でもわからない。

AC人格に自分を売らない決意ができたからだろうか。
理由は自分ではよくわからない。

一昨日、「信じたかった」と弱音を心のなかで吐いたこと、
それは、弱音、と書いたが、なんというか、入っていた力がぬけて、
ありのままに、そう感じた思いが、ぽろっと出た感じだった。
強音、という言葉はないと思うが、たとえば、私が先ほどのPの時のことで、
「初めて泣いた」と言葉した時のそれは、弱音ではなく「強音」だ。

そして、昨日、最弱音、と言ってもいいかもしれないが
「つらかった」という言葉を、私は、はじめて口にした。

これはACとの格闘がつらかった、という意味のつらかったでは
当然ない。そうではなく、仲間外れにされ、そういう毎日が、
私は、つらかった、という、おそらく、ごく普通の意味で
つらかった、という意味なのだろう、これが。

私には、このごく普通であろう「つらい」を
40年以上、一度も言わなかったのだ。
誰かに言う以前に、私の中ですら、言ったことがなかった。
思いつきもしなかった。
Pに対してもそうなのだ。ああやって涙を流すまで、
20年以上の間、私は、自分がつらかったことを自白したことがなかった。
しつこいようだが、我慢しているつもりがなかったので、自白という自覚すらないし、
感情を押し殺しているとさえ、思っていなかったのだ。

それでじゃあ、どういう行動に切り替えていたか、というと、
上から目線で相手を軽蔑し、利他的なことをやっている特別な自分を演じ、
内心はいつもイライラし、しかし、そういう自分を保身し、酔い、
でもいつもイライラし、攻撃的で、でも、いつも笑っていた。笑いを作っていた。
あらゆる感情などなく、それも自覚しながらも、これでいいんだと確認を繰り返し、
違和感はずっとずっと溜まり続け、イライラと作り笑顔の人生だけだった。

感情のかわりに、私は、論理武装した。
「私はこう思っている。こう考えている」を主張した。
まるで主体性がある人間かのように。私自身、自分は他の人よりも自分の考えを持つ
主体的で自立的な人間であると、ずっと思って生きてきた。
どんな上司に対しても、文句を言ってきた。
「あなたの言っていることは、これこれこうでおかしい」と非難してきた。
私は、怖いものなんてないと思っていた。どこに出ても、誰に対しても何でも言えた。
こう育ててくれた親を感謝すらしていた。親以上に、私は自立的な人間になったのだと。

その意味で、今回、SさんやRさんと衝突したことで出た私の挙動は
これらのACのやり口をくまなくやってしまっているものだったから
私は、ああ、これでは完全にACだし、コミュニケーション障害と言われて当然だ、
と自分でも思っていた。けれど、「何か」だけは違っていたのだ。
それが、前回の投稿の内容である。

昨日、私ははじめて「つらかった」と思えた時、
つまり、「つらかった気持ち」をはじめて自分の思いとして認められた時、
ガチガチの氷の芯が、解け始めた。

カナシイ、サビシイ・・・

それはまずどうでもよかった。
これをそう呼ぼうか呼ぶまいか、そのこだわりからは離れていった。
相当囚われていたから、簡単ではなかったけれど。でも、離れていった。

休憩時間も終わりになり、トイレに行き、
鏡を見ると、私は自分の「微笑んでいる」その顔を見て思った。
「こんな顔、今まで見たことない」と。
唇は赤々としていて、肌につやがあり、目に力が抜けて
まるで子どものような顔だった。こんなふうに、私は笑ったことがなかった。
そして、「よし!」と口にして、職場に戻ったのだ。

ピリオドの涙は、今、

「笑顔から始まった」

のだ。

つらかった、が言えた所から、
スタートした。また、私の人生がここから、笑顔からスタートした。

話は戻るが、Rさんに対して「信じたかった」と感じた時、
いったいこれは何だろう、とその日ずっと考えていた。

毒親のことを考えた。

悲しい、寂しい、という思いの記憶はない。
あるのかもしれないが、今は、思い出せない。
しかし、明確なことは、私は、親に対して、
「信じられない」とは決して言えなかった。
言うことが許されているものでは、決して、なかった。

親を悪く言えなかった。親に「あなたのせいだ」となども
ずっと言えなかったことだった。
言いたい局面があったわけではないが、言えないことはわかる。

そこには、「親は絶対だ。逆らってはいけない」という毒父の
恐怖の植え付けがある。

もしも「信じたかった」とでも頭によぎったとしたら、
それは親を「信じていない」と思っていることとイコールだから、
私は、おそらく、「信じたいのに、信じられない。信じたかった」とは
絶対に言えなかったろうし、思うことも自分で禁じていたろう。

親は当然のように、信じる対象だった。

でも、きっと私は、信じられなかったのだと思うのだ。
確かな確証はないけれど、逆に、私は彼らを
「本当に」信じていた実感がない。
親は尊敬すべきものだ、というものがあっただけだ。
そして、それを裏付けするものが、AC人格の保身のために
用意され、あてがわれ、自分でもさらに強化してしまったものでできている。

親の親のことを考えると、
とくに父は、「親を信じない」とは考えてはならなかったろうし、
つまり、私とまったく同じAC人格を生きてきただろう。
母は、となると、どちらかといえば、Pが私を利用したように、
そういう父を保身のため、あるいは、便利なように利用しようとした、
といったほうがいいように思う。その意味では、洗脳の主犯はやはり毒父だ。

これが連鎖し、感染し、また強制され、調教され、
洗脳され続けたのは確かだろう。

「信じられなかった」

はずなのだ。父も自分の親に対して。

では、私は?

私は、父を信じられなかったと思っているのだろうか?
私はずっと親を尊敬していると思って生きてきた。
当然信じている、と思っていた。
世界の誰よりも、私は、親を信じていた。
それが誤認であれ、私はそう思ってしまっていたのは確かなのだ。

しかし、これについて思ったことがある。

「信じるしかなかった」

のではないか、と。

「信じたかった」という気持ちの背景には、
恐怖があったのではないか、と。

たとえ、何か悲しかったり、寂しかったりしても、
そう感じることは、親を信じていない証であり、
親を信じていない、と自分が認めることは、命にかかわる問題だったのではないか、と。

つまり、推測するに、

「恐怖」が
「悲しみ」や「寂しさ」を見えなくさせてきたのではないか?

それは、父が子どもの頃、自分の親に対して、そう思うのを隠した感情だ。
そう、今、思ったのだが、自分のことでなく、毒父に対してはわかるのだ。
掘ってきた通り、彼が親に対して思っていたのに抑圧してきた感情のメインが、
悲しいや寂しいという感情であることを。

ん?

しかし、どうだろう??

あの父は、もしかしたら、私と同じように、
自分の親に対して、見捨てられてしまうこと、自分に関心が向けられていないことを
悲しいとか寂しいという自覚があるだろうか・・・そう今考えてみると、
はなはだ疑問だ。なにより、彼は、「自分に関心を向けられていない」ことそれ自体すら
今もなお絶対に受け入れられていないはずだからだ。
ならば、そこにあるのは、無自覚に植え付けられている見捨てられる恐怖しかない。
この無自覚な強迫観念だけで、生きている、といっていい。私がそうであったように。

わからないが、ここがどうも震源ではないか、と思う。

悲しい、や、寂しい、が
わからないようにさせられたのだ、きっと。
なぜなら、毒親も、またその毒親も、
「親は絶対であり、信じる対象であること」を
たとえ子どもがそう思えない時があっても
ねじ伏せる必要が、親都合として、あったからだ。

本当に私が感じていたのは、
きっと、信じたいのに信じられないと思わせる
悲しさや寂しさだったのではないだろうか。

たとえば、私は、毒父の存在とは
逆らったら殺されるようなものだった。
もちろんこのことに気づいたのも自我復元をしてからであり、
もしも自我復元をしなければ、それすらわからず、
「尊敬できる、いいパパだった」で終わったはずだった。

しかし、実際は、彼に対して、逆らったら殺される恐怖が
実際にあることがわかった。
そのなかで唯一逆らえたのが母だったから、
反抗期の時は、反抗の先が母に向けられただけで、
言い換えれば、父に向けられなかった分、母にいくことで
そこをさらに誤魔化していた、というのが事実だろう。
父には言えなかったのだ。

私がショックだったのは、
母は私に関心を向けてくれなかったことだ。
中学の頃、私は、学校に出かける直前、母と口論になると、
玄関で遅刻してしまうそうになるに焦りながら、
私は、必死だった。これはつい最近わかったことだが、
「なんで僕のことに関心を向けてくれないのか」が主訴だった。
この癖がいまだにあって、私は時間に追われ、ギリギリになると
相手や物事に対して、とりつかれたかのように、だだをこねるようになる。
なんとか、押し通そうとしてしまうのだ。それをやらかすのが、時間に追われた時だ。
でも、結果、母との時がそうであったように、自分が折れるしかない、と
思っているところがあり、やけになっているだけだったりするのだ。

私は、母との反抗期を経て、
もう誰も私のことを理解してくれることはない、と思い、
もう親にわかってもらおうとは思うことはなくなり、
そうやっていくうちに、自分はついに特別な存在となり、
自立的で主体的な人間だと思うための論理武装に明け暮れた。

話はずれてしまったが、
あと一つ思うのは、
私は、ずっと「一人だった」という気持ちがあることだ。

これはかなり前にも掘ってきた感覚だけれど、
私は、誰からも関心を持たれなくて当然だと思っているところがある。
誰からの関心も期待していない。
もっといえば、私は、どうせ誰からも関心を向けられない人間だ、
と思っているのだ。

これは、悲しいことじゃないんだろうか?

なぜ、私はこれを普通に思えるのだろうか?

悲しかったこと、あったんじゃないだろうか?

でも、気づいた頃は、大人の気持ちをおしはかるような
大人子供のようになっている自分しか見つからない・・・


とにかく、この2日間、私が感じてきたことを
書いてみることにした。


なんか、煮え切らない。

なのだが、私はここで止まらない。

少し前に、私はもっと「やんちゃ」に生きていこう、と
思った。汚い言葉ももっと使っていいし、憎まれていいし、と。

でも、その前に、

私は、

「つらい」と感じて生きてみたいのだ。

なぜなら、それは、確実に

「笑顔」から始まる人生になるからだ。

煮え切らないのなら、煮え切らないままでいい。

煮え切りたいのではないからだ。


そうは思っているけれど、
迷宮のなかに今私はいる。


今やるべきだ、と自分で思っているのは、

やはり、やはりだ、

「つらかった」

という思いを認めたのだから、

もう、

つらいという気持ちを抱えておく必要ななく、
ありのままに、感じればいい。
つらいとは、実は、そう思って我慢することで、
ACが生きてきたというのが、実は、起きてきたことなのだ。

つらいと思っていて、でもそんなことないと否定することで
私のACは生きながらえてきた。

その「つらい」を受け入れた今、
もう、方向を変えていいのだ。

一点を見ればいいのだ。

つらかった

そう、

だから、

もう、

笑いなさい。

笑いたい。

もう、私は笑いたい。

いや、でもダメだ。

何が、毒親との生活のなかで、
私はつらかったのだろうか?
つらかった記憶がない。

なんでだ??

これは思い出せないものなのか?
麻痺しているのか?
それとも、本当につらかったことはないのか?

・・・いや、違う。これらを分析することが今やることじゃない。

感情を開放していくことが、私が、今やるべきことだ。

今、覚悟が決まった。

私は、やる。感情を開く。

だって、もう、

つらい、って

言ったじゃないか。

笑ったじゃないか。

だから、

もう、

出たんだ。

洗脳の迷宮から、出たんだ。

悲しい、寂しい、を見たくなかった父がやったことは、
私にその感情を最初から打ち砕くことだったのだ。

親に逆らったら殺す、という恐怖を植え付けることで、
親を信じないという選択肢を許さず、
私に、悲しい、寂しい、と感じることを許さなかった。
親に対して、関心を自分に向けてくれない悲しさや寂しさを子どもが
抱く、ということは、親を信じていないことだから、
私は自分に関心を向けてくれなくても、そこに不満を持つこと自体、
許されないことだったのだ。

そこに、深く恐怖を植え付けたのだ。

なぜなら、

これこそ、毒父にとって、ババ(毒祖母)に見捨てられたことを
認めてしまう、という死活問題だったからだ。

その保身のためのAC人生が、父の人生だったのだ。

だから、今、私は、

悲しいや寂しいがわからなくていい。

これから知ればいいのだ。

この感情は、未来にあるのだ。

つらい、と認めた昨日のあの休憩室のあの時から、
時計の針は動き始めたのだ。

やっと悲しめるんだ。

やっと寂しがれるんだ。

きっと、その喜びが、鏡の中の私の笑顔だったに違いない。

時計の針は動き始めた。

過去への逆流が、また、反転した。

その流れに乗ろう。

その調子に乗っていこう。

そう、笑うのが目的ではないのだ。

笑い始めから、時計の針が進むその人生を
私がこれから生きていくこと、
禁じられた感情を手にしていくこと、

「これから」

なのだ。


2016.1.15
あび

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by jh-no-no | 2016-01-15 07:42 | 私の生き方

大人の私との「接続」を切る

1月に入り、12日が過ぎた。

前回、「一年生から始めたい」ということで、
劣等感を掘り出したことで、詰まったパイプが流れ出し、
ようやく、「感情」という深部に辿りつきそうだ。

今、私は、もう、感情体、そんな言葉はないかもしれないが、
感情の塊として生きていこうと思っている。
それしかできないし。

桜の間の記事
【重要 自我復元における「八正道」】
http://www.mumyouan.com/k/?S565


を読み、これを実践してきた。

>自分の子供の頃に、意識で戻って、

意識の力で戻るしかなかった。

ただ、ひたすら時間を移動すること。
そう意志すること。

私は、今年に入って、やはり何か行き詰まっていた。
ゾンビになっていたのとは違うのだが、
何か、そこから動けなくなっていた。

自我復元とは生き方だと思うし、
それは私の生き方だと思う。

だけれど、それに依存すると、
やはり、それもまた身動きができなくなるのだ。
AC人格の企てとは狡猾なもので、
ありとあらゆる「価値観」に便乗しようとしてくる。

そうすると、私は闘って闘って一日が終えて、
また闘って闘って一日が終えてを繰り返す。

でも、私は、今私は生きているかどうか、と
思うかどうかのわかりやすい基準、というか感覚は、
「元気があるかないか」であり、
ACの挑戦にのめりこんでしまうと、気づくと、
元気が落ち込んでいく。それは、よくないのだ。

なぜなら、元気をなくし、やる気を奪い、
笑顔を消させて・・・それ、何なの?といえば、
毒親による私への支配以外、何ものでもないのだ。
だって、私は、元気でいたいんだから。

そういうことで、なんとか踏ん張ろう、踏ん張ろうの毎日で、
先ほどの重要記事「自我復元における真の八正道」がアップされ、
私は、「今ここ」にいる姿勢をやめることにした。

厳密にいえば、今ここにはいつもいるけれど、私はそのポイント自体を
そのまま「過去」へスライドさせていくようにした。
意志し、意識で「戻す」ようにしていった。

といっても、こう書けるのは、今日になってやっとであり、
ああ、ここ数日自分がなんとかやろうとしていたのは
こういうことだったんだ、と、今になって理解をし始めている。

今ここ、にいる。

しかし、私の目の「癖」は、やはり、
妄想の存在する「未来」を向いていて、それと対峙していた。
桜の間の小説と同じことが私に起こっていた。
へんなストーリーをなんだか考え出してしまうのだ。
そのたびに、いや、これはおかしい、とは何とか気づけるものの、
とてもそれは危険だったし、そもそもが、自分で何をやっているのか、
ふと気づくと、わからなかった。「何やってるんだろう?」って。

気づけば、

「己を死守することだ」

と言っていて、それはもちろんいいのだけれど、
はっと、目が覚めたのが、真の八正道の記事で、
そもそも、私は、なぜ、自我復元をやり、今も続けているのかといえば、
感情を開放するためなのだ、ということに、あらためて気づかされた。

そのために、劣等感もそうだし、
昨年末もそうだし、一気に掘って掘りまくったのは、
「感情へのトンネル」を貫通させるためなのだ。

あくまでまだ「トンネルで道を作る」段階だが、
じゃあ、次は、当然、その道を行け、ということになる。

そこが私は、見えなかった。

なぜなら、「未来」を向いていたからだ。

なぜ未来を向いていたか、といえば、
妄想のありかが「未来」だったからだ。
当然だ。「こうするとどうなるんだろう」が妄想だからだ。

しかし、これは、今思えば、
「思い切り」が必要だった。
思い切るまでに時間がかかった。

思い切る、とは、その言葉の通り、
「切る」という思い切りのことなのだ。
でも、私という思考パターンは、どうしても「理解しよう」としてしまう。
納得したい、というやつだ。大人の私はもう意味がない、だって・・・
このだって「・・・」を確かめたいというわかりにくい反射があり、
そこに、私は、この自我復元で初めて「生きた」経験を、武器にしようとしてしまう。

でも、思い切ることでわかったことは、
私が今見ている世界、過去という地点の「今」といっていいかもしれないが、
そこには、自己確認という概念すらないのだ。

それは、「中心」にそれがないのと同じことだった。
中心にただ戻り、休むだけ。そこでやることはないのだ。
自己確認もする必要がない。

これは、今日、ぐっと過去に意志して戻るときに気がついたが、
結果として、これと、中心に戻ることは同じだった。
ああ、こういうことをやっていたんだ、と理解した。
ただ、今までは、「思い切り」がなかった。
だから、感じ方も違う。似ているが違う。
今は、もっと楽観的なのだ。

なぜなら、大人の私との接続を「切った」からなのだ。

桜の間の小説のことを思い出しながら思ったのだが、
「なんかおかしいぞ」と最初に思った段階で、
本当は話は終わりなのだ。そこを、妄想は続けてしまう。
それをしでかすのが、常に、大人の私だったのだ。

でも、これは、簡単ではなかったと思う。
本当に長い道のりだった、と。

この接続を真に切る、という決意は、
この大人の私は「もう、どれもが使い物にならない」というほど、
めった打ちにされ、最後の一息もさせない殺し方が必要だったからだ。

大人の私にさようなら、と書いたりしたが、
そんな綺麗に聞こえるような要素は何一つない。
冷酷なまでに「断たれる」だけだ。
だから、接続を切る、というふうに言うようにした。

昨日、今日、私は大きな出来事があった。

まず昨日は、職場で、Rさんの思惑に対して
私はさすがに行き過ぎじゃないか、と思い、本人とぶつかり、
男性先輩のSさんもいる中で、問題をテーブルに広げてみせた。
Rさんはこそこそ逃げて帰ってしまったのだが、
仕事後、私は、この馬鹿寒い中、外でSさんと徹底的に話し合った。

Sさんは言う。

「あびさんは、何が気に食わないんですか?
どうしてそこまで譲れないんですか?もっと気楽にできないんですか?
僕は角を立たせたくないから、ああ、思ったことは言いませんよ。
あびさん、不器用なんですよ。もっとRさんを持ち上げて、また持ち上げて、
それでもダメなら、店長に相談して、それでダメなら、そこでさすがに
Rさんに言う、くらいにうまくやらないと、あびさんみたいに言われたら、
誰でもひきますよ。ああ、もういいやって。シャットダウンみたいな。
結局、Rさん、もう話したくないってなって、折れちゃったじゃないですか。
ああなったら、おしまいじゃないですか。もっと話し方とか、あるんじゃないですか」

まさに、私は、そうだな、と思った。

まったく、この日、私は、彼の話は理解した。
彼は、私に「あなたはコミュニケーション障害です。10歳以上も僕より年上なのに、
どんな人生経験をしてきたんですか?大人げないですし、おかしいですよ」と、
かなり、ぶっちゃけ話になったので、これに近いくらいのことはSさんは言った。

それはそれで、私は清々しかった。

私自身も、まったくだ、と思ったからだった。
そうやって思いっきり、お互いにぶつかって話せば、少なくとも
今のような事態にはなる。これは、少なくとも歪んではいない、と。

この背景は今、割愛しているが、
その時も私は思っていた。やっている行動や反応は、まだACのそれなのだ。
だから、あー、と思いもした。

でも、

何かが違うのだ。

ACの挙動のパターンなのだけれど、また、
だからこそ、完全にコミュニケーション障害そのものなのだけれど、
だけれど、今までとは違った。まず第一に、嫌じゃなかったのだ。
イライラでどうかなるあの嫌なドキドキ感はなかった。
つまり、コントロールはきいていたのだ。
でも、私は、Rさんのやっていることが嫌だった。
だから、嫌だ、と言った・・・というと、それは違くて、
まだ、私は、そこがストレートに言えなかった。
感じてはいたけれど、言えなかった。

しかしそれは怖いから、ではなく、
また、認めてほしいからでもなく、
毒親の亡霊が憑いているでもなく、そうでなく、
ずっとそうやってきたから、できなかった、というやつだった。

だから、ここは改善できる、と思ったし、
私は、今からこそ、今回のことをきっかけに
「感情そのものとして存在してやる」というくらいに思える力が沸いた。
だから、Sさんと話していても、不思議なことに、元気が湧いてきたのだ。
そのSさんも、私から見ていてだが、夜中1:30~2:30、気温零度くらいの立ち話でも
あながち、納得して、まあ、私への非難ちゃあ非難なんだけど、
それでも、私は、こうやって、オープンにして事を広げることの健全性を感じていた。

話はなんかずれていった気がするが、
そう、何が今までと違うのだろう、というと、
私は、どこに立脚しているか、といえば、
私自身の感情なのだ。
不慣れでも、そこにいようとしていること。
実際不慣れで、感情をもっとストレートに「表現できれば」なおよかったが、
それでも、できなくても、ああできない、と客観的に感じながらも、
私は、自分の感情のために話をしているのは明確だった。

まさにここから、桜の間の小説ではないが、
自分の今の事態を「理解しよう」とかすると、
ACの思考を借りてきてしまうのだ。妄想してしまう、ということ。
それは、大人の私の思考パターン、ずっとやってきた考え方や価値観を拝借してしまう。

それで、あ、おかしい、と気づく。
違和感が起こるからだ。
あ、これはまずい、と。
これは借りてはまずい、と。
借りてしまったら、その借りるやつとはAC人格に他ならないからだ。

しかし、それは咄嗟に起こるから厄介で、
そうすると、格闘モードになってしまう。
それはそれで格闘するしかないのだけれど、
(そう、こういうシーンは、他にも今年に入っていろいろあった)
もう一度、この自分が陥っている事態を考えてみると、
そもそも、どこで道を誤った、というより、へんな道(ストーリー)を作ってしまったか、
というと、

「Rさんがやっていることは、僕は嫌いです」

という、まさに、「気にいりません」と思った、
そこで、もっと私は、感情的になってよかったのだ。

それを昨日、夜中家に帰ってきて、思った。
反省すべきは、コミュニケーション障害の私ではなく、
もっと徹底的に感情の塊になって、それだけで突っ込めばよかった、って。
たとえ、私が悪くなってもだ。実際に、私が悪くなってもだ。
ACそのものの言動になって、ドンビキされ、完全に馬鹿にされても、
そしてそれが事実だとしても、私は、もう、今何も失うものはないんだから、
感情の塊として、ともに心中するつもりでやればよかった。

それでどうなるかはわからないけど。

でも、それ以外、やれないもん。

なら、適当に薄めたりせず、やり切ればいい、って。

そう思いながら、今日を迎え、今日は仕事はなかったけれど、
私は、以前より、堂々となれるような気がした。
感情に駆け引きはないからだ。駆け引きのないところでは、
結果がどうなったとしても、妄想で「大丈夫だろう」という自己確認は不要だ。

玉砕するかもしれないが、それだけのことだ。

そして、今日は、仕事が休みで、私は、服を買いにいった。
この年で、と思われるかもしれないが、若者の街、原宿に出向いた。
ここで、今日は、帽子、靴、セーター、こういったものを買うことにしていた。
先日は、これも思い切ってデパートに行ってズボンを買ったのだが、
今日はその続きで、半日、10件近く、渋谷から表参道までの道々、
ショップにどんどん入っていった。

渋谷につくまで、電車のなかで私は、
時間を戻っていった。今日一日、そこを徹底したことで深く理解したことは、
これは、大人との私との切断を、決定的にする、ということだった。
ここ数日、大人の私とさようなら、という思いだったが、そのぬるさを
今日、もっと決定的なものにし、「接続」を切った、そう思った。

そこに残るのは、何かそれこそ特別な何かや、特別な私ではなかった。
ただ、そこに残るのは、「大人の私ではない私」というだけで、
しかし、それに不安とかはなかった。

ブログに書いたかどうか忘れてしまったが、
私は、服というのを、見下げて生きてきた。
というのも、私は、服に支配されるのが怖かったからだ。
私は特別な存在であり、服になど私が限定されるのはまっぴらだ、と思っていたからだ。
だから、私はわざと適当な服を買った。高いから、といいながら、むしろ好都合だった。
それどころか、ここ20年、私は、おそらく片手で数えるくらいしか、
服を買わなかった。全部、Pの親が誕生日の際などに渡されたものだった。
今思えば、「そんなみすぼらしい服を着ているのが、身内にいてほしくない」という
それだけのことだったのだが。

それで、私はパンツを買いに行ったとき、
支配されまい、でなく、逆に支配されていい、と思い、その時は臨んだ。
はじめてだった。そこで、はじめて、服と私は「対等な関係」を気づけたのだ。

その日はそれで充分だったし、時間もなかったので、
その続きが、今日の原宿ショッピングだった。
なぜ、原宿や渋谷を選んだかというと、面白いものがあるような気がしたからだ。
というもの、パンツを買った時、私は、自分が「面白いもの」を買うことに
ワクワクしていることに気づいたからだ。

似合うとかどうでもよかった。

「これ、着てみたいな」

それだけだった。

今までは、これが似合うかな、とか思いながら、
数は少なくても服を買っていたけれど、
所詮、見下げることのできる適当な服(というレッテルをつけて)を買い、
「まあ、似合う」とかやっていただけで、まったくこれは服に対して失礼の極みだった。

最初に書いてしまうと、
今回、服を買うことで、
私はずっとそうやって服を貶めてきたことに対して、
はじめて、そうでなく、
「服の尊厳」を守れた、と思えた。

仲直りできた。きっと。

買ったものは、すぐその店でそれを着て、
着てきたものを、逆に、袋につめてもらった。
アウターを買い、靴を買い、帽子を買い、カーディガンを買い、
そうやってどんどん変身していくと、
前に「身体が喜々として」という話を書いたことあるが、
服たちは、喜んでいた。
私のことなど知らないかのように、らんらんと弾んでいた。

服が服を選んでいた。

そういう買い物だった。

白地に黄色・エンジ・紺の3色からなる民族衣装っぽい刺繍のあるアウター、
ボルドー色で黒で縁取ったカーディガン、帽子は多くが女性が買うような
つばが広めのグレーのハット、ややパステルっぽい紫パンツ、
赤オレンジといった色合いのスニーカー・・・これ、一歩間違えると、
かなり、悪趣味なコーディネートだ。でも、服が服を選ぶとこうなった。

それはバランスとか、組み合わせとか、そういうのとはまったく違った。
むしろそれを完全に無視したような選び方だった。
お店を外からのぞいて、あるいは、少し歩いただけで、
「これっ」と買うものは、疑いもなく、決まった。

不思議だった。

これは直感でもなかった。

ただ、「これいい」だけだった。

だから、戸惑うことなく、すぐ、これください、だった。

値段がはったものもあったが、
高い、とは思わなかった。
また、思ったより安いものもあったりしたが、
安い、とも思わなかった。

ただただ、いいものが買えた、と、また、いいものが買えた、
の連続で、たった数時間で、まったく知らないお店で
それらを買いそろえ、私はコーヒーと焼き菓子までその恰好で食べることもできた。

そして、私は、自分でこう思った。

「おしゃれだ」

と。これは発見だった。私はおしゃれをするのが好きだったのだ。

ただ、このおしゃれ、というのは、今までの大人の私がいうそれではなかった。
先も書いたように、一歩間違えれば、いや、たぶんもう間違っている可能性大だが、
へんな恰好といえばへんなのだ。でも、私は、どう考えても、これは、
おしゃれだ、としか思えなかった。

ひとつだけ、迷ったのがあった。
もう一つ、帽子があって、それを買おうかどうか。
最初、こんなACの声もあった。
「これ、緑だよなー。緑は、お金と人の脈が切れるって桜の間に書いてあったなあ」
とか。でも、その時の私は、それでもいい、欲しければ買う、だった。

だが、もっと、迷いは本質的に迷っていたことだった。

矛盾するのだが、それを試着し、うなっている時に思ったのは、

「おしゃれになってしまう」

だった。

なんじゃそりゃ、だが、これが、決定的にそれを買わない理由だった。
すごい、それが違和感大だったのだ。

私は、いい服を買いにきているんじゃないのだ、と。
似合う服を買いにきているのでもない、と。

服が服を選んでいることを理解したのはその時だった。

私がおしゃれを感じて、ジャッジして、「これがいい」と判断していたのでなく、
これがいい、と思ったのを手にし、身に着けてみると、
「あ、おしゃれ!」と、私が思った、というのが、それ以外の買い物で
起きていたことだったのだ。

つまり、

今日という一日は、

私は、素のまま、

欲しいのをただ買っていただけだったのだ。

素材も、値段も、どこ製かも、色も、バランスも、
時にはサイズすらも、どれも重要ではなかった。
素直に欲しいのを買おう、とかも思っていなかった。
でも、どこかで思っていたことは、
もう服の尊厳を損ないたくなかったということは確かだった。

私は、もう、服を貶めたくなかった。

ただそれだけだったなあ、と。

それで、最後に入ったお店でトイレをかりて鏡を見た時、
私は、この恰好で、これが服の最後の買い物になっていい、
この恰好で死んでも悔いはないと思った。

おしゃれだ、と少なくとも私一人は思っているのだが、
でも、これは普通のおしゃれとは違っていた。
おしゃれの定義を服が決めているかのようだった。
こういう服をあびは着て歩きなさいよ、って
服が、へんな言い方だが、「これがおしゃれ」を強制していた。

対等な関係、仲直りし、
そう、私が服の声にはじめて耳を傾けた。

昨日、今日、と経験しているこれらのことは、
ぜんぜん違うようなことでありながらも、
どこか同じところがあった。

帰り道、自転車に乗りながら、思った。

やはり、これは、私の生き方が変わったのだ、と。

いや、もっと感じていることを正しく言うと、
「大人だった私」は、今、「蝉の抜け殻」として、
距離ある存在として、私は見えるようになってきている。

別人なのだ、それは。

ずっと着てきた「大人(=大人子供=AC)」という「服」だけに、
まるで、それは、私そっくりさんの抜け殻に見える。

そして、まだ、コミュニケーション障害もそうだが、
やっていることは、大きく変わっていない。
だけれど、昨年までずっと苦しんだこと、その変わっていないこととの格闘の末に、
今、私は、自分が想像していなかった「位置」が変わった。
私はもっと何かできるようになったりするんだろう、と思っていた。
また、そうでないければダメだと思っていた。

でも、今、こう理解している。

まず、その大人子供というACから「抜け出す」ことが最初なのだ、と。
抜けたら、はい、こんなすごいことできます、なんて何もなかったのだ。
あったのは、「大人の私でない私」だけ。

でも、それが、ずっと置いてきてしまった
「私」だったのだ。

「感情の塊」

その私。その私に「今の私」が重なるように「戻る」、
これを、今年に入って、振り返るとそれはきわどく結構しんどい時はあったが、
それでも、やはり、「もう、使えない」と痛感し続け、今年もそれをし続け、
行きつくのは、「もう、やっぱり、使えない」なのだ。

その信号が、いつも、私の場合、
「元気が奪われる」という信号だった。
なぜだ、何が今起こっているんだ、なぜ元気が奪われなきゃいけないんだ?
おかしいだろ、これ私の人生だよ、元気出せ、目を開け!

この毎日だった。

そして一週間がたち、時間を戻ること、そこ一点に目標を定めた時、
私は、未来でなく、過去に逆流していった。
後ろを見た、という感じでなく、後ろに引っ張られるように、後ろ、過去に
流れていった。むろん、自然に、ではなく、そうしようと意識して意識して。

自我復元という私の生き方にしがみつかず、
その流れに乗ってみる。
すると、また、不思議なものだ。

そこにあったのも、私の中心であり、
自我復元という私の生き方の中に、今も確かにある、ということ。

でも、それは大人の私ではもうない。

それをやめた、あるいは、やめようとしている私だ。

むしろそれは楽観的だ、と先ほども書いたけれど、
なぜなら、感情は、誰も阻害できないからだ。
すべてが感情であり、この感情かあの感情かとか
そこに正解があるわけもなく、ここにあるのは感情の塊。

だから、自由なんだ。

感情の原石。

私はこれを手にした、とか思わない。

というか、ぜんぜん、思っていないし、
手にしていない。

私が今取り戻しつつあるのは、
その「手」のほうなのだ。
原石、宝石を受け取れる手。

その「手」に、私は、この自由ゆえに、
はじめて、すべての「責任」を感じていこうとしている。

ちょっと、怖い。

でも、答えは自分で知っているのだ。

私は、感情とともに死ぬ覚悟があることを。

どうなってもいい。

これが、あるのだ。

今日のこの「おしゃれ」にただならぬ気配があるのは、
その迫力を、私にいよいよ突きつけてきている高揚感なのだ。


◆参考記事◆

桜の間の記事

http://www.mumyouan.com/k/?S566

http://www.mumyouan.com/k/?S567




2016.1.11
あび

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by jh-no-no | 2016-01-12 03:33 | 私の生き方

一年生から始めたい

今回から、新しいカテゴリにして、
タイトルも決めていたけれど、
今、私にとってリアリティーのあるもの、
そして、こういうスタンスで取り組みたい、という思いから、

新しいカテゴリは、

「私の生き方」

初回のタイトルは、

「一年生から始めたい」

に決め直しました。

赤ちゃんから、でなく、一年生から。

というのも、リハビリの最後のほうで掘り当てることができたのは、
私が「社会という場」に出て、最初に、どこで躓いたか、
という理解だったからです。

よく思い出すシーンがあります。

そのくらいしか覚えていない、ということでもありますが。

小学生になる時に、算数セットのようなものかな?
おはじきのようなもの、たぶんそれは、数を見て覚えるためのものだったり、
マッチ棒のような形のプラスチックの細い部材が、いろいろな色でそろっていたり、
入学式の日か、最初の授業の時にもらったように思います。

へんな感覚があります。

不安な感覚。

これから知らないところに入っていくことに対する何か。

それから、教室や友だちとの間で、いつも感じていた疎外感。
どうやって振る舞っていいかわからない。
今思えば、挙動不審になっていて、こういう感覚を
大人になるまで、なってからも、ずっとずっと私は持っていました。

これが、劣等感だ、ということに
ずっとずっと気づくことなく。

なぜなら、私は、ずっとずっと
父親から、

「あびは、すごい!あびは、一番。世界一。てんさーい!」

と言われてきて、いつも父は言った。

「普通じゃないんだ」と。

私は、疑いもなく、自分のことを
みんなとは違う、特別な何かだと思いこんできた。
だから、まわりとうまくやれなくても、
自分がおかしいとは、一度も考えたことがなく、
「なんか、居心地悪いな」と感じていた。

でも、まさか、これが

「劣等感」

だとは、夢にも思ったことがなかったのです。

しかし、それを今、自分が受け入れたい、と思った時、
違和感だらけの今までの生き方には、
たった一つも、「そこに自分がいる生き方」はありません。

昨日から今日にかけても
ずっと考えてきましたが、どれも、違います。

カテゴリの名前や初回のタイトルを
「生の記録」や「喜びの器」としたいと
リハビリ中は思いましたが、今は、そこにリアリティーはありません。

それは当然といえば、当然です。

見えるものが同じなら、変化していないともいえるのですから。

私が今、望む自身の生き方は、
「本当に生き直すこと」なのです。
何かがわかることで終わることでもなく、
リハビリの時のように、がむしゃらにやればいい、というものでもない。

それに、あのように出来たのは、私の力ではないと思っています。
私がやったのかもしれませんが、これは、何かもっと大きな力が
「私の主体」を、あれほどにしてまで、助けようとした、としか、
私には認識できません。

だから、ここは、
そう考えても、やはり、仕切り直すべきだ、と
さっき、ようやく、決心がつきました。

私は、ずっと、「家庭は」
理想的だった、と思ってきましたし、そう認識してきました。誤認ですが。

しかし、よく思い出してみれば、
一年生と書きましたが、おそらく、保育園の頃から、
私は、そこは、居心地がいい場所でなかった、ということを
あらためて思い出しました。

こういうことも、たしかに、過去のブログで触れてはいました。
高校の部活動でも仲間に入れないことの感覚など。
でも、抑圧されていた感情は拾えなかった。

昨日、ここは、ああ、こういうことじゃないのか、と
理解が進んできたことは、

父も母も、まったく社会生活がダメだったはずだ、
ということでした。

主に、これは「学校生活」です。

しかし、私は、これこそが毒すぎるのですが、
あの二人から、学生時代の話を、まったく聞いたことが
子どもの時からもなかったのです。

二つのエピソードがひっかかりました。

これは、かつても書いたことですが、
父は、高校の時に、ある部活動の部長をやっていた話です。
この話しかないのかよ、というくらい、
思い出してみると、ないのです。

へんに、威張っているわけです。
虚勢をはっている。なぜか、です。

あと、母については、
何もといっていいくらい知りません。
卓球部に入っていた、くらいしか知りません。

しかし、こう言い聞かされてきました。

「ワタシは勉強ができなくて、嫌だったから
あなたには、そういう思いさせたくない。」

だから、それ、学校の宿題以外にもこのドリルやれ、
とか、尻を叩くための押し付けだったのですが、
ふと思ったのです。

何か、様子がおかしい、と思ったのです。

勉強ができない、といっても
どうもそれほどできなかったようでもないし、
父も、妙に、そればかりだ。

ここは、フィーリングみたいなものが働いたのですが、
「この二人、本当は、学校生活、みんなとうまく
やれてなかったな」と気づきました。

彼らこそ、

劣等感を隠し続けていたのだ、と。

そして、彼らが育った家庭環境を思い出せば、
やはり、それは私の場合同様、基本は「飴」による調教だったろうから、
壁にぶつかっただろう現実は、「学校」だったはずなのだ。

毒親二人も、思ったはずなのだ。

「あれ、おかしい・・・」と。

劣等感と自覚していたかどうかはわからないが、
いずれにせよ、それは恥として、抑圧してきたのではないか?

にもかかわらず、私から見て二人は、つねに、
「偉大で」「完璧で」「他の人より正しく優れていて」
まったく劣等感のかけらも感じられなかった。

というのも、彼らが社会に出た姿を
私は一度も見たことがなかったからでもある。

I商店という自分の城、
子育てという自分の城、

ここだけで、あの二人は虚勢をはっていた。

私とまったく同じ。

社会に出たらやられるから、
こうやってひきこもるのだ。Pの城のように。

家庭で親の言いなりにさせるだけじゃなかったのだ。

学校でもやっていけない人間にすること。

そういえば、父と母は、私が小学生の頃の体育会のVTRを見ると、
必ず言うことがある。というか、それしか、言わない。

「あびだけ、曲がってるの。一人だけ、整列して横にずれている」

という話を、いつも「楽しそうに」話していた。

私は、それを、

「だけれど、立派な子になったよね。昔はこうだったのにね。」

と解釈し(されられ)てきたけれど、

ここに、本当にあったのは、

「ざまーみろ」

と、ほくそ笑んでいただけだったのだ。

そういう腐った世界で、

私は、ずっと、

大人よりも大人でなければならなかった。

AC(大人子供)である。

私もそうあらねば、と思っていたし、
ある時からは、誰よりも私は「できた人間だ」と
当然のように思っていた。
虚勢をはっているつもりすらなかった。
私は当然、すごい人間に決まっていることに
何の疑いも持ったことがなかったのだ。
小さい頃から、大人よりも大人だと思っていたところがある。

リハビリを終え、

昨日から、ずっと考えていた。

AC(大人子供)として生きてきた、とは、
「自分を捨てたこと」なのだ、と。

親が、私に、

「自分を捨てるようにさせたこと」

なのだ。

「調子にのるな」

この記憶に残らない恫喝の声で、
私は、それに従う訓練をずっとさせられてきたんだ、と
今もなお、反応してしまう自分を見て、
ああ、これは、もう違うのだから、やめなきゃな、と思った。

私はずっと「調子にのるな」と言われるのが怖い、と言ってきたし、
思いこんできたが、はた、と気づいた。

誰かにそう言われたこと、あるか?

と。実は、一度もないのだ。

しかし、事実は、

ただ一人、

父が「顔色で」言ってきたということ、
彼から私は、そう言われてきたのだ。

彼から、だけだ。

目的は?

父から言えばこうなる。

「黙らせるため」

だ。反抗的な意見や態度を察知したら、
「親を何だと思っているんだ・・・」という出だしで、
あの毒父は、本気で、

「殺す」

と、言ってきたのだ。声ではなく、もっと本質的なところで。

「調子にのったら、どうなるか、わかるか、あび」

私は、昨日、思った。

これには、私は、決着をつけたではないか、と。

「馬鹿かお前は!」

と電話越しに怒鳴る父に、

「馬鹿はお前だろ!!」

と、「調子にのってんじゃねー」と言ってやった時がある。

それで、もう、彼の出番は終わった。

だから、もう、これは、

私の中でも、もう、葬らねばならない、
そう決心した。

私は、「自分を生きよう」と決めたのだから。

そう思った時、

今、何もできないけれど、

このまるで一年生みたいな私なら、
一年生をまっとうに生きようと思った。

そうしたら、

私は、私の生き方を追求していきたい、と思った。

だから、今日からのブログを

「私の生き方」

として、そして、一年生から、私は、この世界を

そう、

「楽しみたい」

と思っている。不器用に楽しみたいのだ。


2016.1.1
あび

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by jh-no-no | 2016-01-01 23:56 | 私の生き方