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9月をふりかえる

文末の探している該当記事ですが、すぐに見つかりませんでした。
少し時間がかかるかもしれませんが、わかり次第、リンクしたいと思います。

10/3 追記 Aby



生きにくいと感じたり、不安を感じたりすることに対して、
対処の仕方を、最近、意識的に変えようとしている。

しばらく前に読んだ「気分主義」に関する桜の間の投稿を
今朝も思い出した。

40年以上、少なくとも、私が覚えている生活習慣は
「気分」に支配されていた。
では、その気分とは何だったのか?

誰がその気分というものを「作り出そう」としているのか?
何が、今の私の気分を盛り立てたり、ゾンビのようにさせたりしているのか?

私がいつも思うのは、それは
「自分ではない」ということだけは確かだった。
それは、つまり、「自動的だ」ということ。

当然、それに、私は従いたくない。

すると、何が起こるか。

決まって、それは、生きにくいと感じる。
そんな冷静にそう感じたりするようなものでなく、
これはつねに、その「自動的に引っ張ろうとしてくる奴」の存在に
今も、また今も、と、気づき続ける作業のことだ。

私は、その状態を、
「好きだ」
と断言する。

この何も出来ない自分(と定義され続けた自分)を、
私は生き直そうとしている。
この一ヶ月は、よく思った。選択は無数にある、と。

これも相当前になると思うが、桜の間に書かれていたことだが、
AC人格は、複雑に考えることができない。
AC人格は、無数の選択など求めていないからだ。
ずっと繰り返している、ほんのわずかなパターンしかない。

AC人格の耳障りのいい選択肢だけを選ぶことが
許されてきた人生なのだ。それは、親が決めてきたレールだ。

しかし、本来、現実には、
選択先は、必ずしも、耳障りのいいものばかりではない。

このことにも私ははじめて気づいた。
気づいた、というより、それをやっと
「歓迎できる」ようになった。

私がずっと不安と思っていたことは、
決して、私が逃げたりする理由など、
たった一つもない、ということ。
むしろ、その不安の扉の先の、その無数の選択こそ、
本当は、今までも、自分の目で見ていかねばならないことだった。
なぜなら、「それが自分に現実に起こっていることだから」だ。

そして、不安の扉の一歩手前は、
最大に思える生きにくさが門番となっている。

毒親が埋め込んだ「自動的選択」をもし私がとらねば
苦しくなる、という罠が必ずあるからだ。

しかしここでも、この苦しさに甘んじてはならない。
そう意識することで、ここは、必ず、抜けられる。
苦しいことを直視している、と考えることすら甘えになることが多い。
苦しいと認識することがいいのではなく、
ここは闘いの場であり、引くか引かないか、という状態にある。

今朝もまさにその闘いであったけれど、
徹底的に、私の生は、手動的でなければならない、と。
それは、徹底的でなければならない。
どこも自動的であってはならない。
つまり、それが気分主義は私は絶対にとらない、という態度なのだ。
私が過去、「気分」と定義したものに、
これからの私は、用はない。私はそれに頼らない。
動力は、私の意思、それだけでいいからだ。

苦しいことは楽しいことなんだ。

不安もまた楽しいことなんだ。

生きにくいこと、結構じゃないか。
生きにくいと正常に感じられるようになったのだから、
「生きにくい」と感じて悶絶するほど喜んで然るべきだ。
これは大袈裟ではなく、本当に、そう思う。

今日の投稿の最後に、嬉しかったことを二つ書いておきたい。

一昨日、ついに、自分のパソコンを買った。
そしてモニターも。

ところが・・・

昨日、A社からお知らせの手紙が届いていた。
A社とは、今回、自分のネット回線を契約するために工事を依頼した所だ。

他社の電柱の使用許可が必要なことが判明し、
さらに一ヶ月以上、工事まで時間がかかる可能性もあり、
最悪、A社では工事ができないことがあります、
といった内容だった。

今までなら、私はただショックを受け、
それは相手への不満だけで終始しただろう。

でも、今回は違った。

お手紙に、「鋭意努めているところでございますが」と書かれているのを見て、
「頑張って!」と思った。

私は、A社が電柱の使用許可が得られるのを、じっと待とうと思った。

それは、自分がこの一ヶ月やってきたことに対して、
私自身に対してとるべき姿勢だから。

そしてもしも許可が得られなかったら、その時は、また私が動けばいい。
今から不安がる必要など、ちっともない。
きっとA社は勝ち取ってくれるさ、と思うし、
ダメでも、私は、よりピシッと立ち、
さあ、やるか!となることは、自分でわかっているのだから。

経験することは、楽しいことだ。
たとえそれが困難であっても、上手くいくことであっても。
ただし、最初から最後まで、

「AC人格」

に頼ってはいけない。

パソコンとモニタだけ先に届くことになるけれど、
今から、私は、このパソコンの「名前」を決めている。
ネットにつながなくても、ローカル設定というのは出来るみたいなので、
名前をつけるところまではできそうだ、と思っているところ。

もう一つ嬉しかったこと、というか、
一人で久々に笑ってしまったことがあった。

今度買ったPCに内蔵のHDDのことをネットで調べていたとき、
一連の書き込みを見ていて、ある人の書き込みに対して、

「馬鹿が本気にするからやめろ」

と書いてあるのを見て、思わず笑ってしまった。
まったくだ、と思ったからだ。

今までは、匿名だからって言いたい放題だな、
とくらいしか思わなかっただろうが、
今回は、このコメントこそ、リアリティがあった。

それから考えた。

馬鹿とは何だろうって。

それは、「自分の頭で考えないで済まそうとする怠惰な人間」
のことだ、と。
むろん、AC人格は、そもそも自分の経験ですらないから、
自分の頭で考えることなど、ありえない。
ただ、AC人格から抜けようとするのなら、少なくとも、
「自分の頭で考えようとしようとする努力」は、
どんな人間でもできるはずであり、やらねばならないことであり、
それもしない怠惰な人間が、「馬鹿」なのだ。

それに、AC人格は完全な間違いをしている。

それは、AC人格は、「自分は正しい」と思っていることなのだ。
AC人格であるかどうかに関わらず、つねに自問とは、
「自分の頭で自分は考えているか」を、生きても死んでも、
問い続ける姿勢のことであって、安易な答えなどどこにもないという
れっきとした事実すら、AC人格は見ようとしない。

私は、ずっと、自分は馬鹿じゃないと思ってきた。
むしろ、まわりの人よりずっとまともだ、と、
40年以上、それを疑うことが一度もなかった。

しかし、この頃、他人に接したり、他人が話す姿を動画で見たりすると、
どれほど私が、親のレールの上に用意した本当にわずかな反応だけで生き、
世の中の複雑さから、結局、「逃げまくっていた」人生だったか、と
感じるようになった。

鵜呑み、曲解、傲慢さ、怠惰さ、

この「馬鹿のオンパレード、馬鹿の定義そのもの」が
私に強いられてきた人生だった。

馬鹿が本気にしてきた生、
それが今までの私の生だった。
あまりに味のない、無味乾燥な生。
・・・どころか、有害。

私は、馬鹿にはなりたくない。

時間がかかってしまったが、先日ようやく
桜の間で紹介されていた動画「ツァイトガイスト」を見終えた。
私は、ここで話されている方のように、
「自分が生きている自分の生」を生きていく正常な機能を
とり戻していこうと思う。

10月の目標。

自分の日記は、「自分の今日の一日」をしっかり書くこと。
今までの日記は、それができていない。
苦しいとかいって、逃げ回っているだけじゃないか、って。
死んだとき、残るのは、「嘘のない日記」だけだ。
自分の1%しか書かないのなら、それだけの生でしかなく、
その後の生もそれだけの生を選ぶに決まっているのであって、
それが嫌なら、必死に日記が書けるようになれ。


◆参考記事◆

桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S494

もう一つ、本文の
>これも相当前になると思うが、桜の間に書かれていたことだが、
>AC人格は、複雑に考えることができない。

と書かせていただいた部分ですが、今探してみて、
該当の記事が見つからないので、わかり次第、
こちらにリンクをさせていただきます。


2015.09.30
Aby

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by jh-no-no | 2015-09-30 16:16 | 復元ノート 1