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④命がけの自我復元

「③命がけの自我復元」の続きです。


・・・


仕事のこと、Pのこと、言葉のこと、自我復元のこと、
これらについて、今、思うこと、この6月を振り返って思うところを書いた。

では、これから、どうするか。
これらにどう手を打っていくか、生活改善をしていくか、それが問題だと思う。

まず、Pのことで、先日思ったことがある。

私は、Pとのこの関係をどうしたらいいのか、と
戸惑っていて、見ないように目をそむけてきたところがある。

しかし、一つ覚悟が決まったのは、
私は、この関係を、「見届けよう」と思った。

見届けるとは、最後まで、それはその行く末をどんなに残酷でも
見届けようということ。これは、自我復元を完結するためにも、必要だと思った。
けじめ、といってもいいかもしれない。なんとなく別れるとか、なんとなく別れない、とかでなく、
そうではなく、自我復元が必然的に至る結末を、ちゃんと見据え、見届けること、
どのような事象も見逃さないで、その終わりまで見ることが必要だと感じた。

なぜなら、それが「事実」だから。

おそらく、それ以外に、私自身が納得できないと思うから。

あと、今回もブログを書き進めていく中で、
どうしても「言葉」に引きずりこもうとする力があって、
「自分で」という言葉に、「しがみつこう」としている自分がいる。

まず、しがみつこう、としている自分、
言葉にしがみとうとしている時に、そういう自分を生のまま、
宙ずりにしてみようと思う。
これは、その渦中にいると、相当勇気がいるのだけれど、
ただ、最近、それは、不可能ではない、と感じるようになりつつある。
関心地図の効果かもしれないけれど、関心地図は私にとって
心地よい体験をさせてくれる。

それは同時にどういうことか、というと、
心地よくない体験が、「これは心地よくない」とわかりやすくなった、ということでもある。
言葉への執着の気持ち悪さは、以前からあったものではあるが、
どの程度、その気持ち悪さに直視できていたか、というと疑問がある。
これをもっと直視したい。

これもそうだけれど、「私」というものが、「直視したくないこと」など
何もないと思えるとき、清々とする。どれも、すべて体験したい、という時ともいえる。
正直、AC人格の挙動すら、見届けたい、と思える時がある。
それすらも、「私」にとっては、「体験」に思えるから。

今回、書いていて思うのは、
いろいろ書いたけれど、これらを頭で、それはつまり言葉でくくろうとすると、
どうも、わからなくなってゆき、「何にもわからない」ようにすら思えてくる。
今まではこれが不快で、耐えられないものだったのだけれど、
それについても、はたして、そんなに不快なものか?とも感じ始めている。

自我復元について。

そう、これも今月思ったことだが、
私はずっと、「変わらない」と思っていた。
私は、自分が変わった、と思わなければ、次回の判定依頼もしない、と決めていた。

では、その「変わらない」というものが、何なのか、を見てみると、
様々な分析の「気づき」といった言葉も含め、そういった「自分以外の何か」、
いわゆる「他者」が、「私を変えてくれる」と思いこんでいるようだ。
何かが、私を変えてくれる、と。

「なんで変わらないのだろう」

という疑問自体、おかしいのだ。誰に、何に、変えてもらおうと思っているのか?
この問いの最も不可解なのは、「どう変わりたいのか?」に答えられないことなのだ。
それも当然だと思った。なぜなら、このなんだかモヤモヤしている自分を、誰かや何かが
きっと「変えてくれる」と、ただ、そう思っているだけだからだ。
自我復元もまた、まるでカルトのように、「自我復元が変えてくれる」と思ったりもする始末。

変えてくれる、誰かが私のために、なんとかしてくれる。

この考え方こそ、抹殺しなければならないだろう。

それは、表裏の関係で、先ほども書いたが、
「お前のためにオレはやってやっているんだ」という歪んだ利他精神を殺すことでもある。
だから、「お前もオレのためにやるのは当然だ」と思っているわけだから。

お前のために、の、この「お前」とは誰か?

元をたどれば、父の母親、「ババ」なのだ。
私にとっては、Pという存在だ。

Pに対してもよく抱いた感情だ。
どうして、お前の幸せを考えてやっているのに、
お前は私の幸せを考えないんだ?考えてくれないんだよ、というものがある。
こうやって最後に、子どものようにだだをこねるのは、
私であり、父なのだ。

父がよく言っていた格言。

「自分の幸せは、自分が決める」

もっとも、彼が実行してこなかった言葉だ。

私もまた、他人とは、つねに、「してあがるか、してもらうか」の関係しか知らず、
今に至っている。

でも、これは、変えていける、と思っている。

たとえば、今回のレントゲンのことでもそうだけれど、
自分の意志というのは、他人を動かす力があるのだ。
それは何もエラそうな意味でなく(エラそうだ、と思うこと自体が病気だ)、
自分の意志が他者を動かす、他者に影響を及ぼすのは、至極、当然のことなのだ。
それは、なにも自分の都合のよい方向に相手が動いてくれる、という意味でも
もちろん、ない。

今回のレントゲンの件がよい例だった。

その医師は、最後まで、胸部のレントゲンの医療被曝は(被爆という言葉も避けてその人は
使わなかったが)、最も低いものだ、とか、自然からの放射線はもっとあるだとか、
健康とのリスクとを比較すればどっちが賢明か、とか、必死に私を説得しようとしていた。

言うまでもなく、これが科学的姿勢とは到底言えない。
真逆であり、こういう安全神話の洗脳が、現在の日本に至っているわけであり、
その意味では、この医師は、はなから、放射能を気にするなんて・・・と、
実際、「神経質だ」とも言ってきた。

でも、私が知りたかったことは、数値だった。
公開できないものなのか、教えていただけるものなのか。
その一点だった。その数値は「低いので気にしなくていい」と連発されていたが、
なら、教えてほしい、気にしなくていいくらいの数値なら、そうだと見て、
私自身が、安心することもできるからだ(と、実際、そう伝えた)。

さらに、僕がどうしてもその一方的な押し付けに対して言いたかったのは、
安全かどうかは、自分でその数値を管理して、それで判断したい、ということだったし、
それをしなかったら、ただ、お医者さんの言われるままにそうだと鵜呑みにしているだけで
人間とは私は思えない、と真剣に話すと、そのあたりから、相手が「動きはじめた」。
ならば、数値をレントゲン技師にきいて、詳しい数値、間接撮影、直接撮影の違いも含めて調べ、
折り返し、電話します、という流れになった。

先ほども書いたけれど、「受け入れてくださってありがとう」は
間違いなのだ。ただ、この会話で、双方に影響を及ぼしあった、ということであり、
これは、私が、自分の意志なくして、そうはならなかったことなのだ。

やってくれてありがとう、とか、
やってあげるから感謝しろ、というのは、
ぜんぜん世間では当たり前ではないのに、そうとしか見ることができないできた。
でも、今回思ったのは、これは不健全なコミュニケーションであり、
健全なコミュニケーションでは、自分の力で、その場を切り開き、その場を形成していくことじゃないか。

一方、だからこそ、怖いと思うようにもなった。
それはいい意味で怖い、と思うようになった。
それは、自分次第で、結果が変わるからだ。
当たり前のようで、私はこれも、初体験だった。
この電話だけでなく、会社で、自分の意志を伝える機会があり、
その時も、その伝えることで、現実という世界は、違うものに変わっていった。

相変わらず、S先輩とは不愉快な関係を続けているが、
私は、これに対して、無視してやれ、とか、まあ、いい対応をしているとは思わないが、
それでも、私は、この関係を、今は、大事にしている。
私はこの不愉快な関係になったことに、責任を持ちたいと思っているから、
そういう目で見ていると、私はこの不愉快な職場の雰囲気すら、どこか楽しい。
(決して楽しくはないのだけれど・・・)

そういう不愉快な中でも、関係というのは変わっていくのだ。
Sさんも私を気にしているのがわかる。
それは、今もなお、もちろん自分のAC人格からきた部分は反省はしているが、
ひいていない部分もあり、それはそれで、何一つ妥協していない。
そういう態度や言動は、やはり、相手に影響を及ぼすのだ。

正直、私は、ろくな対人関係を作れているとは思わないし、
ずっとやってきてこなかったから、たぶん、私のほうが、客観的に見たら問題だ、
と思われる部分は多いとは思う。それでも、それでも私は、今、
では、どこに問題があるのか、この現実の対人関係の中で、実際に体験し、
多少いじめられてもいいから、その中で知りたいのだ。

仕事については、これはやっとPの城の「外」の現実に
触れる機会、それは、本当の現実でAC人格が出てくるのと格闘するのに
よい場だと思っている。悠長なことは言っていられないが、AC人格を殺す場面は
買ってでも出る必要があると、今、思っている。

現実の場で、現実に殺すことが大事だと思っている。
社会で通用しなければ、当然ながら、死後も通用しないのは当然だ。
Sさんも不愉快だけれど、もっと毒が強いのが、女性先輩のRさんだ。
彼女は、絶対に、その人の陰口を、「その人がいないところで」しか言わない。
そして、よくあるやつだけれど、その他人同士を敵対させる。
「あの人がそうだから、あなたに迷惑かけることになってしまっているのを
ワタシ、わかっているわよ」と、耳打ちし、全員を敵対させておきながら、
自分だけは安全なところにいようとする、最低なタイプ。そういうやり方でしか、
自分の安全を確認したりできず、心配でしかたがないのだと思う。

しかし、私は、こういう人と接すると、なんとしてでも、この人の思い通りにさせてなるものか、
と自動反応してしまうのだ。20代の頃のバイトでもそうだった。
この投稿の最初のほうに書いたけれど、なんとか、気苦労でもいいからさせてやりたい、
私はぜんぜん平気で、楽しく仕事しています、と演じようとしてしまう。
でも、これは、相手の思うつぼでもあって、こういう人は今までもある時点で
うってかわって、「Abyさんが頼り」と言いながら、利用してくるのだ。
そうすると、こっちは「利用されまい」とまたやっきになる。

これはまだこれから実地で経験し、刺激されるACを殺していく必要があると思っているが、
ただ、それに対して思うのは、当然、妄想をたくましくして対応することではない、
と思っている。わからないが、ここでもまた、「自分の意志」を表明していくしかない。
今までの経験から、こういう人に対して私がやってこなかったのは、完全に自分の
感情を閉ざしてきた、そして、「平然」を装ってきた、ということだ。
そして、本当は感じてもいないことを、その人に話してしまうのだ。

こんな感じだから、本当に、嫌な職場だな、と以前なら思ったろうし、
やめていたかもしれない。でも、今は、やめたいとなど思わない。
ここで掘っていくぞ、と思う。せっかく、ACが顔を出してきているのだから。
殺すチャンスである。


以上、少し長くなりましたが、6月最後のブログです。
内容に追加などあったら、また追記したいと思っています。



2015.06.30
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-30 06:26 | 復元ノート 1

③命がけの自我復元

「②命がけの自我復元」の続きです。


・・・


話はだいぶ戻るが、相手の言いなりになることは楽なことだ。

何も考えなくていいから。

父は、おじろくを「強制された」のではない。
そう私は思っている。たとえ、父がその時赤ちゃんであっても、
そのほうが楽だ、と思ったはずだ。
抵抗し、自分の頭で考え、意志を示すより、楽だ、と。

言葉というのは、私にとって、「制限」の機能しかない、と思った。

なぜ、そんな不自由を自らかって出るのか。
それを欲するのか。

それは、「怠惰」だからだ。

しかし、一方で、私はこの6月何度も思った。

私がしたいことは、

「体験したい」「体験し尽くしたい」「体験で埋め尽くしたい」

残りの人生、私は、ひたすら「体験」で隙間無く埋め尽くしたいと
幾度も思った。

これと、怠惰さ、とは、まったく相容れない。
怠惰さとは、私にとって、「体験するのが面倒」ということであり、
そういう怠惰さにとっては、ある言葉、ある格言、ある気づきの「言葉」、
こういったものだけを、「目標」とか「目的」と称して、それに限定し、突き進むほうが、
「楽」なのだ。言葉の言いなり、であり、元をたどれば、父、母の顔色とセットの言葉、
これに従っていれば、安全だ、問題なく過ごせる、楽だ、というわけだ。

だから、私にとって言葉は、実は、「命令」なのだ。
だから、手放せない。命令を忘れたりしたら、死活問題だったからだと思う。
実際、今でも、自己分析をしていて掘ったことを「忘れてはならない」、
気づいたことは大事だ、として「言葉にくくろう」とする時、私にとってその言葉は
「自分より上の存在」であり、命令であり、恐怖の対象となっている。
このことに、今、だんだん気づいてきている。

だから、私が気づいたこと、それが言語化されたものを「忘れてはならない」と
思ってそれにとりつかれてしまうのは、決して、その言葉が、大事だとか、
価値があってそれを忘れたらもう手に入らない、とか、全自我になれないとか、
そういうことではまったくない。

強迫観念なのだ。

そして思う。この言葉という狭い空間に「おっちめられ」、
制限の中、私は何を失ったか、何を奪われたか、といえば、

「体験すること」

を、完全に奪われたのだ。

むろん、それのほうが楽だ、と怠惰な精神が選んだのは、
私自身であり、私の責任である。

言葉の世界に、まったく無かったのが、
今、ようやく生まれて初めて体験しつつある「体験」という体験。

合気道を始めたのは、去勢されたものをとり戻すためだった。
最初は、そのことだけを意識して稽古に臨んでいた。
でも、ここ最近は、違うところに関心が移っている。

それは、

「動く」

というのを、いつも私は楽しみにしている。

こんなの、別に合気道でなくてもいいかもしれないが、
そういうことは考えたりはしない。
稽古が始まるとき、「今日も動こう!」と思っている。
それがただ心地よい。付属的に、その間に体験する痛みや床に顔をつけたときの
ひんやりとした感じ、そういったものも好きだけれど、まず、動くことが楽しい。

プラモデルもそう。最初はものづくりの基礎訓練だ、と思っていた。
もちろん、それは修行ということではなく、そういうことをしてみたいと思っていた。
だけれど、そういう感覚も、やっていくうちに、「おお、こうなった。なるほど~」とか言って
ただ作ることが、今は楽しい。

はじめる前は、「何でこんなの作っているんだろう。どんな意味があるんだろう」という
思考がきっと湧き上がるに違いない、と思って、半分ビクビクしながら、プラモデル作りは
開始した。でも、ミニ四駆を作り、ザクを作り、グフを作り、ドイツ歩兵のフィギュアを作り、
次は、「海軍 九六式一号艦上戦闘機」を作ろうと思っている。これは値が少しはったが、
どうしても欲しかった。かっこよかったから。飛行機、あ、これいいなって。
これを見たとき、ああ、子どもの頃も、きっと僕は今と同じように感じただろうな、と思った。

余談だけれど(いや、余談じゃないんだよね。私の中では)、プラモデルって、
その通りつくる、んじゃない、ものだったんだ。
このこだわりの世界ったら、もう、覗くとすごい。たまたま近くで見つけた模型店があって
そのお店のおじさんは、昭和40年くらいからそのお店をやっているみたいで、
もうそのお店の中は、ちょうど私が育った頃のもの、グレートマジンガーとか、
キャシャーンとか、デビルマンとか、ミクロマンとか、懐かしいものばかりで・・・
あ、これは完全に余談でしたが、そのお店のおじさんが、最低限に意図的に配慮し、
抑えてくれている中で、模型の魅力を「先回りせず」教えてくれる。
この先回りせず教えてくれるのは、本当にありがたい。
だって、やってみて、わかることが多いから。
「デカール?なにそれ」から始まり、とりあえず、やってみよう、うまくいかない、
こういう接着剤がいるのかな、と思いこんで相談してみると、それがなくても上手くやれば
できるものだよ、やってみなさい、と言ってくれる。たたがシール、でも、とんでもなく奥が深い。

ミニ四駆は、一番簡単だろうと思ったから、最初に近くのおもちゃ屋さんで買ったのに、
この世界もすごい。レースで零コンマを競うのに、ギアから塗料から、変形から、
とんでもないのだ。戦闘機もそう。プロペラ一つ、リアルにするために、様々な工夫、
磨き方から、使用する塗料まで、それは想像すらしたことがないものだった。

今までの私だったら、一言、めんどくさい、で終わっていたろうし、
そもそも買わないだろう。

でも、今は、やってみたいのだ。これは前の投稿にも書いたけれど、
プラグを直したとき、もう一度開けてみて、引っ張ってとれないのを確認したときの
あの感じ、自分がやったことを、また自分で確認し、自分でやってみる。
ものづくりは、その連続だから、ワクワクする。だってやったことが、上手くいこうが
失敗しようが、その結果が、また結果として、自分のやったこととして立ち現れてくるのだから
こんなに面白いことがあるだろうか。

面白い、というより、
私はこういう違和感のない体験をほとんど、か、まったくしたことがなかった。
今書いていて思ったけれど、たいていの人からすれば、「そんなの当たり前じゃん」って
思われるんじゃないかな、と思った。でも、私はこんなことすら、本当に、やったことがなかった。

そして、甘酒もプラモデルも、それぞれに、日々の日記とは別に、専用の絵日記をつけている。
これを書くのが、まったく嫌ではない。ただ、何時に何度、とか、この塗料を買ったとか、
そんなことがメインなのだけれど、そういうことをやっているうちに、日々の日記も
同じように、力まずに、少しずつだけれど、書けるようになってきた。本当に少しずつだけれど。
しんどくなったり、違和感を抱くときもあるけれど、それをいったりきたりしながら。

そう、甘酒は、今、麹だけで作るやり方に関心があってやっている。
そして私はそれぞれの麹の「原料っぽさ」が好きで、これってなんなんだろう?・・・と思っている。
ほろ苦いものでもあり、実は、糖化が進むほどに、私はこれが失っていってしまうもののようにも
感じている。だけれど、この頃発見したのは、冷たくして味わうと、その「原料っぽさ」が
際立つことがわかってきた。あ、これは、この甘酒、この麹の「個性」のようなものなんだ、と。
麹菌を手にいれて、麹を作ることからもやってみよう、と、これまた、
「背伸び」をしてしまいそうになったこともあった。

だけれど、それは、冷蔵庫と同じなのだ。

ふと思った。

私は、麹を「はい」と与えられた子どものようなものだ、と。
ネットもない。では、これどうする?
最低限のことは、ネットで調べたけれど、ほとんど頼らず進めていこうと思っている。
このほろ苦さはなんだろう、と成分などを少し調べて、ひょんなことから
「アーモンド」にあるなにかか?と思って、アーモンドとご飯を少量口にしてモグモグしてみたりした。
でも、やってみると、相性はいいけれど、ちょっと違うかな、とか。
・・・というのを、甘酒絵日記に書いてみたりする。

食べられるものだ、と知ったら、
当然、まず食べるわけだよね。
だから、まず、そのままの麹を食べてみたり、匂いをかいだり。
ぜんぜんまだ醗酵していないのに、取り出して食べてみたり。
でも、そういう変化の中で、毎回違う味がある。
おかゆをまぜるかまぜないか、それだけでも、ぜんぜん違うものになる。

そういうなかで、300ccのマグボトルしか持っていない私は、
本当にこれ保温できているのか?から始まる。
最初は、保温性の高いものを買おうとか、最初からヨーグルトメーカーを
買っちゃえばいいんじゃないの?と思ったりもしたが、美味しい甘酒を作るのが目的じゃない。

甘酒作りを楽しむ、いろいろ実験して楽しむのが目的だから、
この500円の水筒でどこまで美味しいのができるか、というのも
十分に取り組むだけの楽しさがそこにある。だから、これにあったスプーンは?となり、
やっとこさ、見つけると、「よし、柄の長さOK、幅は小さめだけれど、範囲内だからOK」となり、
納得して買い、そうなると、徹底的に使いこなそうと思うのだ。
書いていると当たり前なのだけれど、どれも、私は今までやったことがないことなのだ。

そして、なにより、こういうことを「書ける」ようになった。
以前は書けなかった。ここに、何も価値を感じなかったから。
いや、以前は、そもそも、やらなかった。
「だからなんだ?何の意味がある?」と自分で問い詰めて、ただ、黙るだけだった。
当然、こういう見方は、他人に対しても投影する。
私は、松の間や梅の間で手裏剣術や測定の記録を閲覧するのが、苦しかった。
そこに、当時、まったく魅力を感じなかったから。
でも、ここに大事なことがあるんだ、いや、それも今の自分はわかっちゃいないんだ、
だいたい、なんでこういうのをめんどうに思うんだ、毛嫌いするんだ、という自問だけは
かろうじて残っていて、ほんと、ここ数ヶ月だ、松の間と梅の間を楽しみに思うようになったのは。

とくに、私のなかで「体験」や「実験」ということ、妄想でなく、実際にやること、
そういったことに関心が移っていったために、最近の松の間の一連の投稿は
どれも、どの記述も、どの動画も、わからないことがあっても、楽しく拝見した。
合気道で「動く」ことを楽しみにするように、動いているのは、崩残さんだったり、
他の演舞者だったりするのだけれど、私は、その動いているのを見ているのが、まず、
それだけで、興味深く、パソコンの前に座った。

記事を読んでもわからないところは、松の間も梅の間もある。
だけれど、どこに向かっていっているかはわかるので、あまり細かいことは気にせず、
動画の雰囲気やそこから伝わることに関心をあわせていた。

以前なら、先ほどと同じように、
こういったことは「書けなかった」。なぜなら、「だからなんだ。動画の雰囲気やそこから
伝わることに関心をあわせていた・・・で、それで、Abyは何がわかったんだ?」と
自分で問い詰めては、それに答えられず、だから、私は書けなかった。

でも、で、それで?という思考展開こそ、妄想の入口だったのは、
今だからわかることだ。そこから先は、本人も、「ぜんぜんリアリティーのないこと」の
寄せ集めをする他、「語れることなどなにもなかった」からだ。
そこで語れば嘘になる、と思う一方で、黙るのもまた、何かおかしいと感じていた。
言わない、言えないことがある、そうずっと思っていた。

ブログを書きながら、つねに抱き続けてきた違和感でもある。
でもだんだんとわかってきたのは、体験というものを、私自身がめんどうで、
毛嫌いしてきたことであり、それを、言葉でなんとか、別のものに取り繕うとしてきたからなのだ。

体験したから、だから何がわかったのか?
それでどういう価値があると知ったのか?

それを、「言葉」で何とか言うしかなかったから。

でも、自分ではどこかでずっとわかっている。
とりあえず、それでしのいでいるだけだ、と。

これが苦しかった。

ブログを書き始めて、ちょうど二年になる。

この二年の間、私は一日もこれに悩まなかった日はなかった。

ブログをなぜ書いているのか?
書いていて、苦しかった。
何が苦しいかというと、しかたなく書いているからだ。
いや違う、いやそうだ、その葛藤から逃れられることは
たったの一日もなかった。

6月の後半もこれに悩み、しかし、もう少しこれは
ちゃんと見ていこう、それだけは思って、様々なことと同時に掘ろうとしていた。
私にとって言葉とは何なのか?という自問も、そこと大きく関連していた。

迷宮入りしていた。

どう考えても、私は、崩残さんが怖いから書いている、
自我復元をしている、としか思えなかったからだ。
これに「汚染された」、いや、今思う。
AC人格に、支配され続けた二年だった。

松の間の一連の投稿を読み、
そして、崩残さんの「AC人格への容赦ない姿勢」をあらためて見たとき、
私は思い出した。

ちょうど二年前。まさに、ちょうど二年前の今日の前後に、
私は、崖っぷちだった。

崖っぷちにいることを、はじめて、知った日だ。
崩残さんがそれに気づかせてくれた。
いや、崩残さんだけじゃない。
つまり、それだけ、私は暴走し、他人を巻き込んでしまった。
でも、結果、それが無かったら、かなりの確率で、
自我復元を続けてこられたかどうかわからない。

生まれて初めて、食事がとれない、という経験をした。
まさに、地獄だった。
私は、15年前、無明庵の書籍にとびついた。
精神世界だけに関心があったわけではなく、むしろ、
精神世界という分野は、そのとびついた前後含めて
おそらく数年間だっただろうが、私は分野をこえて、
十分に精神世界のカルトのおかされていて、
無明庵の書籍と出会ったとき、私は、まさにそこの「言葉」に魅せられた。

つまり、都合よく、解釈し、自己陶酔していた、というだけなのだが、
その当時は、最高の言葉に出会った、と思った。
そして、もう、私は、これ以上、探すものはない、とすら思った。
そしてやり残したことを後はやろうと、そこでやったのが、
Pとの関係作りという、あのままでは墓場となったところを作ったわけだが、
15年を経て、サイトの存在はほとんど知らずに、そういえば、と思って
死人禅をまだやっていないことが気になり、サイトを知ったのが、
2012年の頃だった。そして、2012年夏、死人禅を開始し、翌年、
2013年に入って、自我復元を開始することになる。

そして、2013年の夏、大きな事件が起きる。
私は、とんでもない暴走を無自覚にしてしまったのだ。

それがちょうど、今から二年前のことだった。

私はそれから、崩残さんを恐怖し、ただその恐怖心だけを頼りに
AC人格を掘り進めた。実際、毒親を崩残さんに投影し、崩残さんを処罰者として
私は見て、その恐怖は何なのか、その恐怖の中をあがいた二年だった、といってもいいほど
それは前にもブログに書いたが、それは事実だった。

それは疑いようもない事実、としか、考えたことがなかった。
実際、それで掘り進めてきたのだから。
でも、つねに、その恐怖心が動力だとしたら、私の自我復元とは何なのか、
悩まない日は一日たりともなかった。

復元ブログを書くときは、毎回、とんでもなく苦痛だったし、
書いたときと次に書くまでの間も、当然、生きた心地などしない。
二年前の地獄から始まり、ずっと、地獄だ、と思っていた。

でも、松の間を読み、もちろん、それだけがきっかけだったわけじゃない。
この6月のこれら掘り進めてきたことの接点にそれがある。

私は、思い出したのだ。

思い出せた。

正確には、当時も意識できていなかったことを、不思議な言い方ではあるが、
「思い出せた」のだ。

なぜ、自我復元を始めたか、を。

何もすごいことではない。

崖っぷちにいることを、ずばり指摘してくださったのは
崩残さんだったのは事実だ。
逃げ場は、1000のうち、1もなかった。
しかし、逃げることはできたのだ。

全面的に逃げること、だけは。

逆にいえば、崩残さんはそれ以外の逃げ方は許さなかった。
今だから、自我復元をやってきたから、だから思う。
それは当然なのだ。

AC人格とは、万のうち、1の逃げ道を許せば
それで生きのびてゆき、そのたった「1」に見えることが、
その人間を全支配し、AC人格のゾンビとして生きることになる。

自我率のことは私はわからないが、
たとえ99.99%だとしても、0.01%でも逃げ道があれば、
AC人格からすれば、それで、十分、その人間をゾンビにできると思うからだ。

99%なら、あと、1%、ならば、その1%を100倍の力でAC人格はあがき、
残りの99%も全面支配してくるだろう。

99.9%なら、1000倍、99.99%なら、10000倍の力で、
私を殺してくるだろう。

極端かもしれないが、こういうAC人格の抵抗力を
私は感じている。力とはパワーだけでなく、狡猾さや麻痺の力もある。
格闘をしてきた中で、AC人格の抵抗の手口は、あまりに多岐に渡ることを経験してきた。

しかし、もしもそこに一切の容赦なく、その逃げ道を許さなかったら、
AC人格の出番はない。全面逃走しか、AC人格が生き延びる術はないのだ。

その崖っぷちの局面で、私自身、崖っぷちだ、と気づく。

そこで、私は、二通りの選択がある。

全面逃走するか、しないか、だ。

これは、まったく、「自分の意志」でしかない。

私はその時、今から二年前のその時、
逃げない決意をしたのだ。

この決意は、「崩残さんが怖いから」で出来る決意などではないのだ。
この決意は、唯一、自分自身が発しないと、出来ない決意だった。

私は、自分で、自我復元をしよう、と決めたのだ。

今から二年前の今、そう決めたのだ。

そして、自我復元ブログを書こう、と、自分で、決めたのだ。

自分で、そう、決めたことを、
私は二年越しに思い出すことができた。

「命がけの自我復元」とタイトルとしたが、
まったく、その通り、私は命がけだった。
もう後がなかったし、その崖っぷちを目のあたりに、
「どうするか」を問われた。

崩残さんに問われたのではない。

私が、この日、この40年、ずっと無視し続けてきたもの、
そこから「目をそらさなかった初めての日」がその日だった。

自分を裏切らない、これ以上、もう裏切ってはならない、
「そのために」はじめたのが、自我復元であり、復元ブログだったのだ。

それだけ、なのだ。
何のためでも何でもない。
もう、これ以上、自分を裏切るまい、そう思って、それではじめたもの、
そして続けてきたもの、それが、自我復元であり、復元ブログだったのだ。

命がけの、というのは、まったく誇張ではない。

これを命がけと言わずして、他に命をかける場面などない。

私は、この6月、最後の最後に、これを思い出せて
本当によかった、と思っている。

本当に嬉しかった。

この二年、ずっと苦しかったことの原因。
それは、自分の意志を見失ってきたこと、しかし、一度も失わなかったものだった。
AC人格に支配され続けた二年。

怖いから、しかたがないから、だからやってきたと思うしかなかった二年だった。

でも、それは違う。

恐怖心が掘り続けてきたのは確かだが、
恐怖心が自我復元を進めてきたのではない、ということ。

たった一つの、「やろう」と決めた意志、
自分を取り戻そう、と、自分で、決めた、
それだけが、推進力だったのだと、それをその当時も自覚できなかった記憶を
今、思い出すことができたのだ。


・・・


「④命がけの自我復元」に続きます。



2015.06.30
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-30 06:25 | 復元ノート 1

②命がけの自我復元

「①命がけの自我復元」の続きです。


・・・


Pのことを書きたい。

Pに繋がれたものは、何なのか。
これをこの6月後半は考えていた。

これをもう一度、しっかり、自問する必要がある、と思ったからだ。

自問とは、「なんで、Pに束縛されたままなんだ?」とただ唱えて
悩み考えた気になることではなく、もっと、分析的な姿勢にならねば、と思った。

Pといて、いったい、何がよかったのか?

ここからだ。それがわかっていないから、解けないのだ。

そこで、関心地図などをやるときや、ふと、暗がりで一人でいるときに思い出す
Pとの過去のある場面などを、あらためて、意識的に思い出す。
もちろん、こうやってみることは、今までもやってきたことだが、
「つらいな」では、やはり、そこから進まないし、「敵だ、Pは」と思い込もうとしてもダメ。

そこで、はたして、こういう「よかった」という感覚は、
もしそこにPがいなかったらどうなのか?と考えてみた。
たとえば、その旅行なり、その思い出の場に、一人で行くとなったらどうか、という
ある種、これも妄想を働かす。

すると、不思議にも、おおまか、だいたい、私一人でも、
その時の楽しさを満喫できそうなのだ。Pがいなくても、たとえば、絵を見て「きれいだな」
と思ったり、その自然の景色を見て、「ああ、来てよかったな」とか。
これ、Pがいなくても、同じか、むしろ、もっと気楽に伸び伸び楽しめそうだよね、と。

こうも考えてみる。別の人とだったら、どうか。
それでも、どうやら、いいのだ。むしろ、もっと刺激的な女性とデートしたらもっと楽しいかも、
とか考えてしまう。

じゃあ、それらをさっぴいて、何なのか?

Pといて、何が、「よかった」のか?

そこで、わかったことがある。

それは、あの魔が差すときの声にヒントがあった。

「自我復元と出会わなかったら、今も、別に問題なく、Pと暮らしていたろう」

というものだ。何が、「問題ない」のだろうか・・・。

それで気づいたことは、

ただ、

「楽だった」

ということだけだったのだ。

楽しい、のではなく、「楽(ラク)だった」だ。

これも自分にとっては、最初、信じられない発見だった。
以前にも何度も書いたように、まるで怠惰で、「全自動身体洗い機」を求め、
「くるしゅーない」と、ダラダラしているのは、Pだ、私はPに利用されたのだ、と
そう書いてきた。まるで、私が被害者で、Pが加害者かのように。

ところが、今回の発見は、私もまた、その、

「全自動身体洗い機」

を求めている、怠惰な人間だった、ということであり、
Pとの関係は、加害者・被害者ではなく、つまり、

「怠惰さ」

ということで接点を持つ共依存関係だった、ということだった。

今住んでいるこのPの城を見回したとき、
一つ、気づいたことがあった。
それは、Pのものしかない、というけれど、
実は、ぜんぶ、といってよいくらい、私が選んだり、買ってきたり、
提案したり、こしらえたり、そういうものばかりなのだ。

あれ?と思った。

Pの言いなりの人生で、
Pのものばかりに囲まれた人生、
これが自分の生だったよね?

一瞬、わからなくなったが、
こういうことだった。

「Pの好み、顔色といってもいいが、その好みを
私が察して、いろいろと買いそろえてあげて出来上がった環境」

これがPの城なのだ。

Pからすれば、表面的には、こういう文句が私に言える。

「Abyが好き放題やってきたじゃない。ワタシは、それを受け入れただけだ」と。
今、彼女はそう直接言ってきてはいないし、それどころか、今はおそらくだが、
「しばらく好き勝手にやらせておこう。そうすれば、気が済んで元の鞘におさまるだろう」
と思っているかもしれない。何一つ文句を言うことなく、だんまりを続けている。

一瞬騙されそうになるのだが、言いなりになっているのは、実は、Pじゃない。
「Pの顔色に言いなりになってきた」のは、私のほうなのだ。

ところが、大問題は、

それが「私は楽だ」と思い、
それを「望んだ」ということだった。

自分で考える、のではなく、
「言いなり」にそれに従うのは、「楽」であり、
逆にいえば、従うことの「メリット」というのは、楽、以外ありえない。

毒父のことを考えるとき、
彼が自分の母親に屈し、言いなりになった、そしておじろくになったのは、
ある程度、その毒をのまされた不幸ということで、それはしかたがなかっただろう、
彼も、別に、ああいうゾンビになりたかったわけではなかっただろう、と、
今までは、どこかで、そういう同情が働く余地があった。

それは言うまでもなく、自分自身への甘さでもあるのだが。

ところが、この「楽だったからだ」という動機を見たとき、
幼少期の毒父に対して、たとえ彼が赤ちゃんであれ、
「同情の余地はない」と結論した。

先日、仕事中、ベビーカーにまだ3ヶ月にもなっていないだろう子と
目があった。真剣に見ている。社会を、精一杯見ている。
しかし、そこで思ったのは、そこには十分意志があり、この時点で、
この子は、楽に流されるか、そうしないかの判断はこの子自身が出来るはずだ、
と、その子の目と表情を見て感じた。子どもという存在が、それほどやわではないことは、
私は見てきた経験がある。大人が思っているよりも、シビアで、厳格な判断力を
個人差(おもに家庭環境だと思うが)はあるが、ある時期までは持っていると思っている。
大人よりも、その鮮明さは、桁違いに感じることもある。

私の憶測も含む部分はあるかもしれないが、
だとしたら、やはり、どんな家庭環境であれ、
「楽に流されたほうにも、十分、責任がある」と思ったのだ。
毒祖母のせいだ、で済まない、
言いなりにさせられたんだ、では済まない、
もっと根本的な問題を、「人間として」抱えている、と思った。

「言いなりになるほうが、楽だ」

そう思ったからではないか?

怖かったから、恐怖を与えられたから、というのは、
毒親のせいにして、自分の責任を見ないには都合がいい理由だ。
だけれど、楽なのを選ばなければ、「言いなりになる以外の道」が、
それこそ、無数の道があったはずなのだ。

この頃、生体反応をとり戻すとき、その時、感じることがある、
というより、それを感じるとき、そうだ、この生体反応を奪っているものこそ、
根絶せねばならないものなのだ、と気づかされる。

それは何かというと、

「何でも、できる」

と思うときがある。

それは、スーパーマンだ、ということではまったくない。
そうでなく、「何でも、どれもを選択する自由がある」ということ。

しかし、これは、生体反応を奪われているときは、
こう思うことは、絶対に、できない。少なくとも私の場合には。

どれもを選択できる、ということは、
その大前提として、どれもに直面する準備がある、ということであり、
なにもそれは、何か用意せねばならないわけではなく、
この体験あの体験と「限定」や「制限」をせず、
「そのどれもを、体験する覚悟がある」ということ。

それには、条件がある。

「自分で」

考えようとしているか、どうか。とことん、である。
言い換えれば、自分で考えようとしないところで「このあたりで済まそう」
としたところが、他人に舵を明け渡してしまった地点だ。

もちろん、そうなると、その「このあたり」を正当化し始めるから、
それ以外の選択肢を「見ない」「無かった」ようにする。あるいは、馬鹿にしたり、
間違っていると思い込んだり、価値が無いと思いこんだり。

ここで何が起こっているか、というと、
「制限」なのだ。

これにも関連した出来事が私にあった。

甘酒作りの話になるが、2箇所の麹屋さんから麹を取り寄せ、
温度管理を中心に、絵日記として記録しながら、どう味が変化するか、
食感はどうか、などなどを実験中である。

ある時、私は、背伸びをした。

今の冷蔵庫は、Pと共同で使っている。
新しいのを自分用に買えば、甘酒や麹の保存など、実験のために
もっと自由に冷蔵庫を使えるだろうと考えて、かなり時間をかけ、
また足を運んで、冷蔵庫を自分専用に買うことを検討していた。

今思えば、相当に、妄想を働かせていたと思う。
でも、本人は、妄想と格闘しているつもりなのだ。
でも、格闘が、はなから間違っていることがある、それを今回知った。

実験とは、「自分の1」の経験から、その上にまた、「自分の1」の経験を
「重ねていく」ことであって、その間に、いかなる「自分以外のもの」を挟んでもいけない。
私は頭でそれを半分理解しているつもりだったし、それを実践していこう、そう思って
はじめた甘酒作りだった。だから、何か、すごいものを作ろうとか、そういう目的はなかった。

ところが、どうしても、今までの癖、悪癖が出てしまう。
「冷蔵庫は、もっと自由に使えたほうが、いろいろ実験できるだろう」
挙句の果てには、
「生活食材もこの際、100%くっきりPと分けるいい機会だ」とか、
ここまでくると、もうダメである。完全に、正当化が無自覚に開始してしまう。

そういう最悪の正当化の前にも、無自覚な悪癖として、
「冷蔵庫があれば、もっと〇〇できるだろう」とかいう「想像」というのがあるが、
これは、健全な想像か?ということが問題だった。

ただ、今は、こうさらりと書けるけれど、一週間以上も、「冷蔵庫を買うぞ、これは
自分の意思だ、これは貫かねば」と妄信していた私には、なかなか、これを否定する考えを
受け入れることができなかった。

でも結論からいえば、

「冷蔵庫があれば、もっと〇〇できるだろう」

という考え(アイデア)のようなもののなかに、どこに、「自分の1」の経験からの
知識や発想があるか、といえば、どこにもなかった。
ただの「血の通っていないアイデア」でしかない。

後で「言葉」についても書きたいと思っているが、
これが私にとっての、私が固執し続けてきた「言葉」の本質でもある。
毒親からすれば、その子の「1」の体験など待ってらんないわけで、
私の母は、本人が自白していたが、「0歳から大人のように躾けなければと思っていた」
というように、そんなの、出来ると思っているとしたら、こういうのが「大人だ」という
ただの「親都合の理念」を、言葉と顔色で調教する以外にあるとは思えない。

子どもが体験することなんて、幼稚で間違っている、見守ってなんかいられないし、
待てないし、だいたい、子どもは馬鹿だ、というのが、母の子ども観だったし、
それより最悪なのは、自分の思い通りにだけ動くロボットに調教しようとしたのが
毒父だった。格言やことわざを乱用したわけだが、それは、「こうすれば大丈夫だ」
という、それに従っていれば大丈夫だ、という「それ」にあたるのが、言葉だったのだ。
それに逆らうと、父は、キレるだろう、手がつけられないだろう、と思っていたわけだ。

冷蔵庫の話に戻る前に、この言葉の問題だが、
ふと思い出したことがあった。
感覚的な記憶であるが、父と話しているときの私は、いつも、こういうふうに
彼に話していたように思うのだ。

「〇〇なんだよね」

これは、たとえば、「何でも続けることが大事なんだよね」みたいなものだったりする。
すると、父は、「そう、それが大事」となるわけだが、ここにいつも、彼の「正解~」という
予定通りの反応がある。これは、たとえば、「学校でこうことをやったんだ。一番だった」
という報告の中にも、「一番はすごいんだよね」がある。その価値観は誰の価値観か、といえば、
当然、父の価値観だ。こういうのが、父子の会話となっていて、その後に続く会話は、
「昔から、〇〇といってね・・・云々」という格言の由来のような話をきかされるハメになる。
それを「うん、うん」ときく。

この感覚的な記憶を思い出すと、
なんと、血の通っていない話なんだろうと思う。
私の言葉にも、彼の言葉にも、どこにも、自身の体験が存在しない。
一番になったのは、体験ではない。
その過程で体験したのが、体験だ。
一番だった、のは、ただの結果でしかなく、経験から見れば、
だからなんだの世界だ。

また、父の学生時代の実験の話ですら、それは目的は「自慢」「恨み」
そういったことにあるので、体験談のように見えて、そういう体験談風の格言に
しがみついているだけなのだ。

冷蔵庫の話に戻るが、
どうしても違和感があったので、土壇場で購入をやめた。
でも、それでわかった。私の違和感は、そこに、自身の経験が無かったからだ。

では、どんな経験をしただろう、と考えてみると、
「こんなこと」ということでも、ひろってみると、
たとえば、今の300ccの小さい魔法瓶(マグボトル)の口が小さくて、
スプーンも入らなくて取り出すのが大変だった、せっかく適温に鍋で暖めても、
これでは移し変えるとき、温度が冷めてしまう・・・といったことは、やってみて感じたことだった。

ならば、適当な柄の長さとその幅が小さめなスプーンを買ってみて、
次はやってみたら?となった。
しっかり必要な柄の長さと、口に入るスプーンの幅をはかる。
これもしっかり絵日記に記録する。

それでやってみると、だからといってもちろんすごいことが起こるわけじゃないが、
ふつうにやりやすくなったし、鍋からの移動もスムーズだった。

以前は、「だからなんだ?」とこういうことに対して思ってばかりいて、
結局、スプーンすら購入することもせず、あれこれ先回りして、そもそもの
甘酒作りすらも、「こんなことして、どんなすごい意味があるんだろう」と考えては
やめてしまったろうし、そもそも、やらなかっただろう。

でも、今は、こういう冷蔵庫を買う、買わない、スプーンを買う、買わない、
ということを通して、体験から知ったことから、次の体験をする、ということが、
いかに、違和感のないものか、というのを体験しつつある。
これは何でもそうだけれど、「自分で」考えたところからのものでないものは、
すごく気持ち悪い。

甘酒の麹もどのくらいの放射能汚染までなら、私はそれを購入するのか。
今まで購入した麹屋さんに、直接電話して、いろいろ話をきいたりした。
他の食材も何でもそうだけれど、対応は、本当に様々だ。
かなり細かい数値まで検査しているところもあれば、検査していて知っているけれど
公開はしませんと断言されることもあれば、公開していないからダメだろうとダメもとで
問い合わせると、かなり詳しいところまで教えてくれるところもある。

私のなかで、ではどのラインまでか、というのは今もまだ自分で
決められていないのだけれど、こういう、じかの体験の中から判断したことは、
少なくとも、自分で責任が持てる。あっているか間違っているかも含め、
それ自体を背負う責任を持つということであって、もしもここに自分で判断したものでない
不純物が混ざると(それで済まそうとすると)、「これで大丈夫だよね」という自己暗示にしか
つながらない、ということだ。

逆にいえば、これで大丈夫だよね、という怠惰な精神が、
他者の言葉を借りて済まそうとするのだ。
それは、「冷蔵庫があれば実験の幅も広がるよね」という借り物(だろうがアイデアあろうが)
の言葉も同じ。そうしておけば、自分で考えずに済んで楽だからだ。

でも、これはおかしい、と思う。

だって、自分でいろいろ考えたほうが、楽しいでしょ。
ふつうに考えても、そう思うでしょ。
ところが、その当たり前のことを、AC人格に蝕まれて生体反応を奪われているときは
思えなくなってしまう。何か、ひとつ、手っ取り早く「ある制限」に「従ったほうが」「楽だ」と
なぜか、考えてしまうのだ。

昨日、職場の健康診断があった。
私は、この数年は、健康診断は受けると病気が発見されて医者に殺されるから
受けないほうがいい、そう、「話をきいて」、ここ数年受けないできた。

でも、今回は、受けることにした。
それは、特別な決意があって、ということではなかったが、
受けて、その結果は、自分で考えればよいのだ、と思った。
レントゲンのことで、今回、私は被爆のことを随分と考えた。
胸部だけなら医療被曝としては低いものだ、とはいえ、ではどのくらいなのか、
というと、今この地域で住んでいるだけで外部被爆してしまう量を基準にすれば、
たった一瞬のレントゲンで、1ヶ月~2ヶ月分の被爆を一気にしてしまう。
医師の方に直接話をきき、実際に空間線量をはかって計算してみると、
そういう計算になった。これが胃のレントゲン、人間ドックとなると桁違いで
これはもはや殺人行為といってよい、とその数値からもわかる。

では、やめるべきか、というと、
問題は、一年にどのくらいの被爆までは許容できるか、が、まず自分で
決めておく必要があるわけで、いくら自分で計算したとはいえ、即座に高いと判断して
やめようとしたり、しかたない、とするのは、それも、まだ自分で考えたとは言えない。
そう思った。

そして、これははじめて知ったことだったが、会社の社会保険にはいっていると、
胸部レントゲンは、法的には拒否できないことになっているようで、
今回、場合によっては、もしもX線検査を拒否して、こじれることになれば、
会社をやめる覚悟も必要だ、と考えていた。

が、それも、そこで終わらせては妄想どまりなのはわかっていたので、
その場合、どこまで交渉できるか、それは、私にはすごく欠けている力なのだが、
大事なことは、上から目線になったり、泣き寝入りしたりするのでなく、
「交渉する力」なのだ。「私はこう思っている。協力していただけますか?」と
相手に話す力、これが無いことに気づいたのは、約半年前、今の仕事の面接後、
どうしても保証人がいないで困った時だった。

その時は、それに気づき、店長代行に率直に話し、その窮地を突破した経験は、
ああ、こうすればいいのか、と初めて体験として知ったことだった。

でも、それは今回もそうだけれど、やるだけのことはやって、それで
決めなければならない。それでクビになったらしかたがない。
また仕事を探せばいい。

こういうようにどの選択肢も、私は経験していいんだ、
というか、それ以外、何がある、と思えるとき、
生体反応をとり戻すことができる。

今回は、直接、健康診断を担当される病院に連絡して、
自分が不安に感じていること、知りたいことを明確にして電話をしたら、
「こんなの気にすることないですよ」で一蹴されるかと思ったら、
30分を2回に分けて、その医師は時間をとってくれた。
それは、決して、放射能のことで共感してくれた、ということではなく、
むしろそうではなかった。でも、私はその電話を、納得して心残りなく切った。
そして、胸部のX線検査は受けることにしたのだ。

ちゃんと自分が思っていることを言い切ることは
大事なことだった。

なぜなら、それによって、周囲は「動く」からだ。
だから、安易に、「とりあってくれて、感謝しています」などと言ってはならない。
私は、最初の電話で、その医師にそう言ってしまい、反省し、
次の電話の機会のときに、失礼なことを言ってしまったことを謝り、
本当に私が言いたかったこと、「知りたいことが知れて、よかったです」と話した。

これもこのところずっと関心を外さず見てきた点だが、
「お前のためにやってやっているんだ」という、どうしようもない歪んだ利他精神は、
これも、この6月の後半、はじめて気づいたことだが、その利他精神のもう一方の側面は、
「オレにためにやってくれるのが当然だろ」という考えがある、ということだった。

私は時間に焦るとき、この癖が拡大する。
つまり、もしも、私が死んで、死後、「早くしなさい」とか
「時間がもう無い」という状況に追い込まれたら、私の中で暴走する思考は、
「わたしのために、なんとかしてくれよ」という、だだをこねる思考なのだ。

冷蔵庫のことで、たずねたいことがあり、電話で問い合わせて、
その電話が、20秒10円という有料なものであった上に、
仕事の時間まであまり時間がない、という状態だったため、
まんまと私はその罠にはまった。嫌だな、と感じながらも、後になって
ああ、これが、この罠だ、と自己分析がなんとかできた。

わたしにとって、「自分のために誰かが何かをしてくれるのは当たり前」となっている。
だから、誰かが何かをしてくれたら「感謝すべきだ」と思っているし、
それは逆に、誰かに私が何かをしたら「感謝されるべきだ」と思っている。
だからこの前にも投稿で書いたように、お客さんから「はあ?」みたいな態度を取られると、
すごく理不尽さを感じて、毒父のように顔色が豹変してしまうのだ。


・・・


「③命がけの自我復元」に続きます。



2015.06.30
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-30 06:24 | 復元ノート 1

①命がけの自我復元

仕事中のイライラから、この6月は様々なことがわかった。

むろん、これは、今まで毒親分析をしてきたそのままだったわけだが、
大事だったのは、じかに、実社会でそれを体験し、自覚することだったと思う。

今回の投稿には、仕事のこと、Pとのこと、言葉のこと、自我復元のこと、
多岐に渡って書いていきたいと思う。

それらはまったく別のことのようでいて、
今の私にとって、どれもが大きな関心であり、
そのすべてに課題があるものだ。

仕事中のイライラ、それは、おもに仕事仲間であり、
同じ立場のパートといえど、上司にあたる者に対するイライラである。

先日も感じたことだが、
仕事中の気持ちの歪み具合は、あまりに酷いものだった。
よく、これだけ、醜い手口をとっさにとれるものかと愕然とする。
しかし、それは、それだけ、毒親、おもに毒父からの感染が酷い、ということだった。

他人を馬鹿にする、あるいは、他人を庇護する、
この裏に何があるか。仕事中に生じているものは何か。

何度かI商店の話を書いてきた。

これは、私の父が働いていたお店であり、
父の兄、また、父の妹もそこで働き、また、私の母も、父の兄(以下、おじちゃん)の妻も
そこを手伝い、同じフロアの一部をテナントとして他人にも分譲していた、そういうお店だ。

I商店はビルの1階であり、その8階に私たち家族は住んでいた。
また2階に、おじちゃんたちの家族も住んでおり、
そのおじちゃんと同じ階の同じ部屋に、父の両親も住んでいた。

正確に書くと、私が幼い頃は、離れの2階建ての家があって、
その1階に私たち家族が、そして2階に、おじちゃんの家族が住んでいた。
私は覚えていなかったが、母が言っていたことによれば、私が5歳くらいに
少し離れた位置にあるI商店のあるビルに引っ越しをした。

その時、父の両親がどこに住んでいたかが定かではないが、
たしか、私が暮らすことになった8階の管理室に父の両親が住んでいて、
私たちが8階の管理室に引っ越すときに、もしかしたら、そのタイミングで
父の両親が2階に移ったか、どうか、という感じだ。
詳しいところはわからないが、およそ、こうだったと思われる。

その時点では、父の兄の家族、つまり、おじちゃんの家族は、
まだ、離れの家にいたように思う。ある時点で、そこから、
すでに2階で暮らしている父の両親と、おじちゃん家族は暮らすようになった、
というふうに、私は記憶している。

この生活位置は私が成人してその後もずっと続いた。

唯一変更が起こったのは、それは私が大人の何歳の頃からかは知らないのだが、
私たちが住んでいた(今は父だけが住んでいる)8階の管理室の「隣」の部屋に、
父の母親だけ、引っ越してきたようである。
その少し前には、父の父親は亡くなっており、父の母親一人だったはずだが、
どうしておじちゃんの家族と2階に一緒ではなく、一人、8階の一室に移ってきたのか、
そのあたりは不明である。

ただ、ここで重要と思われるのは、
父の隣の部屋に移ってきた、ということだ。

また、これは後で触れると思うが、
こういった流れのなかにつねにあったのは、
いかに、父は、自分のそばに「お母さん」を置こうとしたかがわかる。

しかし、これは、父の希望が叶った、というようなものですらなく、
私から見ると、父の両親、とくに母親にとって都合のいいように
「父が動かされている」としか見えない。

父の母親は、最期は、その8階の部屋で、ある日当然亡くなったらしいが、
隣に住んでいた父は、まるで、「ボクのそばで静かに息をひきとりたかったんだろう」
のような都合のいいことを、かつて、私たちに話していたのを覚えている。

管理人を押し付けられただけであり、
死に際の世話(とすらいえないものだが)を押し付けられただけであり、
ところが、父からすれば、「頼りにされた」としか解釈されない。
というか、おそらく、そういうことも、あの毒祖母(父の母親)はわかってやっていたろう。
結果、おじちゃんには、何も押し付けることなく、それまでもおじちゃんを
かなり過保護に育てたはずであり、ぜんぜん、父に対する態度とは、違っていた。
そのことにすら、父は、ほとんど、気づいていなかった。

父の頭にあったのは、
「平等なのに、どうして、自分のほうはあまり見てくれないのだろう」
それだけだった。そもそも平等でなんかなかったのに、彼はそれを直視しなかった。
もちろん、平等だ、平等だ、とこの父の口癖と同じことを、毒祖母も言っていたように思う。
わずかだが、実際にそう言っていたのを、覚えている。
だから、この「子どもたちは平等だ」は、ずっと、この家系に続いてきた嘘だろう。
この嘘に、父は、そして、「私も」、全員が、洗脳されてきた。

住まいの位置の移り変わりの中に、
すでに、母親の取り合いのように、「父 vs おじちゃん」構造がある。
が、先に書いたように、対立していると思っているのは父だけであり、
父の母親は、最初の最初から、おじちゃんとともにいる。

そして、そのI商店の社長は、父の父親(以下、ジジ)であり、
父の母親(以下、ババ)が、当然その社長の妻なわけだが、
実質、このI商店は、代々、ババの家系が引き継いできた商店であり、
ジジは、地方から若い働き手として、いってみれば、嫁いできたようなものだ。

だから、実質の権力は、ババ、つまり、父の母親に集中しており、
親類は当然のこと、地域の人たちも、つねに、彼女の顔色をうかがいながら
仕事、生活をしていた。

そして、このI商店を、継ぐことが、はじめから決まっていたのが、
父の兄、おじちゃんである。長男だからだ。

今、私はようやく、Pという囲いのなかでの「仕事らしきに思えたもの」から抜け、
実社会での仕事につき、この「おじちゃん」というものが、相当、強い感染の影響を
もたらしていると気づきはじめた。

一言でいえば、

「ボクは、おじちゃん(おにいちゃん)になりたかった」

ということだった。

それはどういうことかというと、
これは、自分でも信じがたいものだったが、

「おじちゃんみたいに、ボクも、さぼりたい」

というものだったのだ。

自分の母親を、兄にとられて、自分のほうは見向きもしてくれない、
ボクは見捨てられたんだ、そういう恨みを抱いたまま、今もなお、
ゾンビのように生きている父について、また、その分析は、今までも掘ってきた。

その恨み、なのだが、
どこへ、どう向かったか、というのが
今回、新たに「自分の中に発見」したことだった。

この仕事中のイライラは、どう考えても、自分の舵ではないと感じていたから、
いったい何なのかを見ていこうと思った。分析、ではなく、観察をすることにした。
そこで、私は、ふと、小さい頃から、その「おじちゃん」について
何をきかされてきたのかを思い出すことになる。
これは、何も、特別なことを思い出したのではなく、むしろ、ずっと、
それしか、言ってこなかったことを思い出したのだ。

「おじちゃんは、仕事をしない」
「おじちゃんは、2階でラーメン食べてばかりいる」
「(おじちゃんとは違って)オレは、働くのが生きがいだ」
「(おじちゃんとは違って)オレには、お客がついている」
「おじちゃんは、さぼってばかりで、どーしようもない」
「おじちゃんは、帳面つけるだけで、現場で汗をかいて働いているのはオレだ」

要は、

おじちゃんは、ろくに働きもしない。
オレはおじちゃん以上に働いている。

なぜ?

I商店を守るため。
お母さん(ババ)を守るため。

お母さんに、ボクを見てもらうため。

だから、ボクは必死に、このI商店のローンも返すためにも、
大学にもいかず、やりたいことも我慢して、朝から晩まで働いてきたんだ・・・

・・・を、捏造したいがために、父は、おじちゃんを

「さぼっている人間で、ダメな人間」

と仕立て上げた。

私たち子どもたちも、もちろん、妻(私の母だった人)もみんな、
「おじちゃんは、さぼってばかりいる人だ」と思いこんでいた。
当然のように思っていた。

でも、よく考えてみると、私は、おじちゃんが「さぼっている証拠」を
この目で見たことがないのだ。
むしろ、父のほうが、勤務中には酒は飲むは煙草も吸うは、
仮眠しては何度も店から電話がかかってきても起きないは、で、
客観的に見れば、誰が見たって、父のほうが「さぼって」いるのだ。

こういうことに気づいたのは、私自身、とくに上司にあたるパートの先輩たち
(最近ブログでも書いたSさんやRさん)に対して、
「あいつらは、さぼってばかりいる」と思っていたわけだが、
まったく、さぼっている根拠はどこにもないのに、
たとえば、二人で「私がきこえないところで話している」ただそれだけで、
私は、彼らはさぼっている、と決めつけていたのだ。

実際にさぼっているかどうかは重要でなく、
何の根拠もないのに、そう思いこんでいることが問題だった。

そして、もうひとつ、私が幼い頃にそれに関連して垂れ流していた
父(と母も便乗して)の言葉は、

「いつも、ボクの見えないところで、お母さん(ババ)と
おにいちゃん(おじちゃん)はコソコソ話している。」

というものだ。こう言葉にする時もあったかもしれないが、
私が記憶しているのは、もう、つねにこう思っているんだオレは、という
あの父の歪みきった顔、恨み全開の顔だ。

今思ったことだが、私の母も、基本、父の考えに賛同していた。
というのは、なぜだろうか?と考えると、表面的には、父は、おじちゃんのことも、
ババのことも、「よいふうには言っていなかった」ので、
「ワタシのことをもっとかまえ。ウチの家族のが大事だろ!」とつねに苛立っていた母は、
そうだ、そうだ、と便乗した、ということ。
当然だが、この便乗は、永遠に叶わない。
そして、母は、その怨念を抱いて自殺したのだ。

叶うわけがない。
なぜなら、父は、本当はおじちゃんになりたいのであり、ババにボクを見てもらいたい、
その一心が、「なんだ、あいつらは、まったく」という恨み節を支えているものだったからだ。

自分の話に戻るが、私は、自分のきこえないところでコソコソと話しているように
見えると、それだけで苛立ち、さぼっている、というレッテルを貼る。

おぞましさはここからだ。

ある時、その上司の女性の先輩Rさんが、人員不足から焦っているときがあった。
私はその時、同期の同僚と、Rさんにきこえるようにわざと、(余裕そうに)笑ったり、
雑談(私語)をしてみせたのだ。まったく無自覚に。

これは、私はよくやっていることだった。
昨日も、とんでもなくわかりにくい隙間をねって、やってしまっていた。
見た目は、まったく、平然さを装っていて、むしろ、平然であること、
まったく動揺もしておらず、疲れてもおらず、どんどん仕事をするまじめな人間を演じる。

私は心では、彼女にこう言っているのだ。

「焦ろ。いつもさぼってばかりいるんだから、もっとせめて焦ろよ。
気苦労くらいしろよ。オレは、そんな気苦労などしないよ。
たんたんと仕事して、あんたたちよりたくさん仕事しても、ぜんぜん楽だし。
疲れていないし、こんなの、ぜんぜんたいしたことない。」

そして、いかにも充実した時間を過ごしていたかのような顔を
見せようとする。

この反射的な振る舞いこそ、猛毒の感染のなせるものなのだ。
こうやって、私は、彼らに仕返しをしている。
そして、おぞましいのは、なにより、

「オレが、今度は、さぼる番だ」

と思っている、というのが、その中心にあった。

20歳頃から、いくつものアルバイトを転々とした。
8年近くやっていたところでは、社員の代行をしていたから、
私は、異動の多い社員より、何でも自由にできた。
もちろん、そのような立場になったのは、誰よりも仕事をしているのを
みんなが認めたからなのだが、行き着く最後は、何だったか?

私は、人目を盗んでさぼっていた。
仕事中、自分のこと(今思えば、Pへの依存に関する事柄)ばかり
あれこれ考えていたし、ただ、単にさぼっていることも多かった。

他の仕事もそうだった。

最後は、さぼってばかりいた。
いかに、仕事をしているか、を見せることだけは考えたが、
それでも、私はさぼり続けることに、罪悪感すら感じたことがなかった。
ただ、「こんなことしていても、つまらない」とは思っていたが。

これを思うと、つまらないのも当然である。

私は、父の「おじちゃん(おにいちゃん)になりたい」を
父の代わりにやっていただけだから。

「さぼること」が、いつの間に、どの仕事も、そのゴールになっていた。

これに気づいたとき、もちろん今の仕事も、
私がこうありたいと自動的に目指してしまっているのは・・・というと、
信じがたいことだったが、「私も、さぼりたい。さぼれる立場になりたい」というものだった。
これは、たとえば、同期の同僚が、「そのさぼっていると思いこんだ先輩のやっている仕事」を
私よりも先に「教えてもらっている時」、嫉妬心として働きだす。
さらに、「オレは、そんな仕事したくない。たんたんと今の仕事をするのが好きなんだ」と、
さすがに、これは、ぜんぜん嘘だ、と自分でも気づくわけだけれど、反射的には
そういう考えが浮かんできてしまうのだ。

自分でも信じられなかったが、
「さぼる」ことを批判するために、私は一生懸命に誰よりも働こうとしていた。
それは、おじちゃんを批判するため、なのだが、矛盾しながらも整合しているのが、
そのおじちゃんに実はなりたい、自分もさぼりたい、というのが、同時にあるのだ。
以前、私は働くのが嫌いだ、と書いたことがある。本当は、嫌いなのだ。
一生懸命働いているのは、さぼっている「おじちゃん」を捏造し、浮かび上がらせるために、
父が必死に演じてきたものだった。

仕事中のイライラは、自分の見えないところでコソコソと話し、
あいつらさぼってる、こっちは一生懸命働いているのに!
という場面で出てくるわけだが、この「自分の見えないところで」という妄想を
父がたくましくしただろうと思われるのが、2階にババとおじちゃんたちが住むことになった、
そのあたりからじゃないか、と推測した。

何かと、「2階でおじちゃんたちは・・・」ということを話していたように思う。
まるで、おじちゃんの悪口のオンパレードだったが、言うまでもなく、
本当に悪口を言いたかった、恨みをぶちまけたかったのは、毒祖母に対してだったはずだ。
当然、それは言えない。そこで、「おじちゃん」を徹底的にさぼっている悪者に仕立て上げた。

さらに、私の母は、おじちゃんの子どもたちと遊ぶのを、
基本的には、遠ざけようとした。「馬鹿になる」とかいって。
父も母も、二人とも言っていたのは、「あのうちとは、レベルが違う」というものだった。
徹底的に、おじちゃんの子どもたちを、大人げもなく馬鹿にしまくっていた。
私も、ああ、うちはあそことはぜんぜんレベルが違うんだ、と、ただそう信じてしまっていた。
そして大人になる頃には、「私たちの家族は幸せ」、「おじちゃんちは不幸」と、完全に、
そう思いこんでいたし、その感覚は、今もなお、私の身体にしみこんでいる。

このことに気づいてから、まだ、反射的な思考回路はあるままだが、
相当、細かい違和感にも仕事中その場で気がつけるようになった。
こんなことに一生振り回されたら、今後、どこに行っても最悪だ、と思っていたから、
まだ舵はとれないのだけれど、感染源がわかっただけでも、振り回され続けるというのは
随分、減ったように感じている。

話は変わるが、書いておきたいと思うのは、
先ほど、母は、父の言動におおむね賛成していた、と書いたが、
では、夫であるその男性「自身」に対しては、子どもの前で、いつもどうだったか、
といえば、いつも、ボロクソだったし、そう言われても、父はいつもニコニコしていた。
「ボクは、いいんです~。その分、子どもが立派だから~。
ふつう、こういう親からこういう子は生まれないと思うんだよねぇ~。
おかしい・・・でも・・・この子の父親、だぁれ?はあーい、パパでーす」
と、ずっと言い続けていたキチガイだ。

なぜ、今、甘酒作りをしているか、プラモデルをしているか、というと、
これは、むしろ、父が「好きなジャンルだったろう」と思われるからだ。
父は、私に、父が好きなことをやらそうとした。
ところが、だ。徹底的に、それは以前にも書いたが、必ず、挫折した。挫折させた。
結果がそれを証明している。

私は、父の行きたかった大学の、さらに学部も、「偶然」かのように、
私はそこを選び、入り、成績もよかった。しかし、私は、その道にまったく興味が持てず、
就職活動もせず、ダラダラとしていれば大学院にエスカレーターのように行く仕組みだったので
ダラダラと大学院に行き、つまらない毎日を過ごしながら、中退し、Pへの滅私奉公に辿り着く。
学生時代は、実験が最もつまらない授業だった。
ところが、父は、実験系のクラブを高校時代、わりと本格的にやっていたようで(彼の話なので
誇張は多々あるだろうが)、私たち子どもたちは、その自慢話を耳にたこができるなんていうのでは
すまないくらい、自慢話をきかされた。

重要なことは、父は、自分がやりたいことは、I商店のために断念した、ということであり、
父が私にほどこしてきたことは、剣道などの習い事も含めて、「父がやっていたことを
子どもにもやらせて、褒めるだけ褒めておいて、絶対に、挫折させること」だった。

話は少し戻り、これに加担したのが母だった。

「パパはダメだ、実験の自慢話、もうきき飽きた。結局、I商店になっちゃったじゃないの。
言うことはエラそうなことばかりだけど、こんなちっぽけなところから出られないじゃないの」

と、こういった馬鹿のしかたをよくしていた。なのに、たとえば剣道もそうだが、
どうして始めたかといえば、私は覚えていないのだが、かつて母からきいたことには、
「パパもやっていたからよ」と。そろばんも、ぜんぶ、パパがやっていたから、らしい。
剣道に関しては、てっきり、私はプラスチックの剣(おもちゃ屋さんで売っていた毒々しい
色がついた短くてちょっとかたくてやわらかい剣)を振り回すのが好きで、だから、
自分からやりたい、と言ったと思っていたし、40歳近くまで、実際、そうきかされていた。
が、事実は、違う、ということを、母は最後の最後に、さらりと言っていた。
「そういうのが好きなら、こういうの、あるよ」というような誘導尋問だったと記憶している。

となると、そこからは、父のストーリーで、私の剣道は形作られる。
「パパは一番強かったけれど、先輩を立てるためにわざと負けた」だの、
脳ある鷹は爪を隠すだの、たくさん、きかされて育った。

そこでも母は加担するのだ。

「馬鹿じゃないのー」と。笑って話すのだ。

こういうことばかりだった。父のように育てようと二人がしておいて、
私に染み込ませるメッセージは、「どうせ成功しないのよ」というものだったのだ。
母は父を馬鹿にすることで、父は自分自身を自虐的に演じることで、
たまったものじゃない、父のようにやらせておいて、それをきかされる毎日に、
私が自分で成功イメージなど持てるはずがないのだ。
実際、これもブログにかつて書いたけれど、今までやってきたものは、
そのすべてに苦手意識がある。何一つ、自信を持てているものなどない。

図工もその一つだ。

私は図工は好きだった。けれども絵も苦手だと思っているし、
プラモデルのように、指定されたようにそれを作る、というのも苦手だと思っている。
だから、「他のやつとは違う」という視点で、絵についても、創作についても、
私は自分で作り出した。当時は独創性からくるものだと思っていたわけだが、
このブログにも書いてきた通り、結局は、日の当たらない所へとPと心中するための
準備だった、というだけにすぎない。

父がおもに「私に嫌いにさせたもの」は、実用的なもの、体験的なものに直結する分野だ。
それは、父が実は、本当はずっとやっていきたかった、でも、
やり続けるのは断念せざるをえなかった、という分野。

しかし、「彼が」嫌いにさせたのであって、「私が」自分で嫌いになったわけじゃないから、
今も、プラモデル作りと甘酒づくりはやっているし、好きも嫌いも、今体験中。
正直、プラモデルは、ちゃんとその通り出来あがる、それだけで嬉しい。
Pの城の中心に作業台を作り、どんと構えてやっているが、出来たプラモデルを
その作業台に並べてみると、この小さな模型越しに、この今まで見てきた共同作業場の光景が
「半分」入れ替わるように感じるほどだ。プラモデルは、なかなかすぐに出来上がらない、
というところがいい。今まで私は、とっとと出来上がるもので、思いがけないものが
出来上がるものがいい、と思ってきたから、それとは、まったく逆のもの。
今、4種類のプラモデルを作ったけれど、また作ろう、と思うので、続けたい。

それと、また話はそれるけれど、自分で今の仕事を見つけて始めてから、
そのお金で買ったものは、簡単には捨てられない、ということをいつも思う。
本当はゴミとなってもいいビニールや、プラモデルのラインの部分(切った残り)すら、
捨てられずにとっておいている。これは、自分のものだ、という感覚からきている。

先日夢で、高校の部活動の監督が出てきて、私は監督に、
「ああ、防具は、捨てちゃったよ」と言われて、
「大事な防具だったのに・・・」としがみつくように言った時、その監督は、
「ようやく、だな。ほんと、よかったよ」と言い、私は涙が滲んだところで目が覚めた。

目が覚めて、そのようやく、だな、という意味は、すぐにわかった。
「やっと、自分のものなんだ、と言えるようになったんだな」という意味だとわかった。

こういった夢だけでなく、「自分で」とか「自分のものだ」ということは、
ずっと最近の関心ごとだった。


・・・


「②命がけの自我復元」に続きます。




2015.06.30
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-30 06:23 | 復元ノート 1

Pに繋がれた鎖

どうしても断ち切りたい。

Pという鎖。

外側から掘り進めてきたけれど、
もっと直接、見ていく必要があるんじゃないか、
そう思って、一体、なぜ、私はPに束縛されたままなのかを
先ほど仕事から帰ってきて、考えていた。

Pが死のうが自殺しようが
それ自体に対して、罪悪感も何もない。
そう思える。

しかし、私をPに縛り付けているものがあり、
それは、やはり、罪悪感なのだ。

それは、どういう罪悪感かを見てみた。

「私は、彼女から笑顔を奪ってしまった。
幸せを奪ってしまった。」

こういう罪悪感なのだ。こういうのが、
今なお、根強くあるのだ。

これを今見なければ、ダメだ。
そう思って、いくつか、掘り進めていった。

Pが笑ってくれること。

これが、私の幸せだった。
Pが笑ってくれさえすれば、もう、それでよかった。
本当にそう思っていた。

ここから、私は、考えるのをしてこなかった。
これはACなんだ、未練を振り払わねば、
そういう掛け声だけで、「済ましていた」ということだ。

今思うことだが、

掛け声だけでは解除できない。
掛け声は大事かもしれないが、それで済まそうとするのも
AC人格の姑息さだからだ。

この問題は、私にとって、
何よりも重要な問題なのだから、
他のことで誤魔化してはならない。

そう思いはじめていくうちに、
「笑顔」ということで思い当たることがいくつか出てきた。

まず、随分前から、私は自分ルールとして
笑顔を禁じていた。それは今も続けている。
これは、つねに笑顔でいようと(無自覚でもそう)していた今までの私とは
まったく別ものだった。

ところが、これは、今になって気づいたのだが、
私が笑顔をやめて思ったのは、私が今まで思っていた以上、
というか、相当以上、他の人は「笑っていない」ということだった。

あんなに、いつも他人と目があったら笑う、という
自動反応しているのは、私だけ、といっていい。
そのくらい、他の人は、いつも笑っているわけではなく、
むしろ、そんなに笑ってなんかいない。普通に真顔なのだ。

つまり、私は「笑顔を作らなくなったから」といって、
何も、実は、私が浮いている、ということもなく、
むしろ普通で、何も支障はきたさない。
おそらく、自分でこのルールを課す以前は、
そんなことしたら、「どうしたの?」「なんか怒ってるの?」とか
思われてしまうに違いない、と、当然のように思いこんで、
そんなことはしようとは思いもよらなかっただろう。

次に思ったこと。

まず毒母と衝突した。次に毒父と、そしてPと。
それを境に、彼らがとった行動がある。私に対して、

「笑わない」

ということだ。一斉に、笑わなくなった。

しかし、これは、実は、まず、
「私が、彼らに、笑わなくなった」のだ。
笑顔を、彼らに向けるのを、私がやめた、ということに対しての反応として、
彼らは、私に対して、「笑う」のをしなくなった。

これは、気づいていないわけではなかった。
ただ、それほど、重要視していなかった。

こちらが笑わなくなると、まるで自分の真似をしているかのように、
毒母も毒父もPも笑わなくなるのを見て、
「いったい、何なんだろう」と思ってはいた。

そして、私はこう思った。

「どうして、彼らは、元に戻りたい、と思わないのだろう」と。

なぜ、敵対関係から、元に戻りたい、と思ったりしないのだろう?
元の関係に戻りたいと思うのなら、「Aby、どうしたの?前の関係に戻りたいよ」と
どうして、言ってこないのだろう、と。

そこでまた、私は、このところで考えるのをやめていた。
そこを今日、はじめて、考えてみることにしようとしたとき、
すぐに、あっ、と思った。

「幸せじゃなかったからだ」と。

もしも幸せだったら、あの時、本当に幸せだったら、
なんとしてでも、その時の幸せに戻りたい、と思うだろう。

しかし、誰も、誰一人、
「Abyと仲良くやっていきたい、だって楽しかったじゃない?
幸せだったよね。問題があるなら、一緒に解決していこうよ。
幸せだった時に、ワタシは戻りたいよ」

とは、言わなかった。

むろん、そんなことを言われたら、
ACの私には、相当にきつかっただろうから、
言われなくてほっとしていたところもあった。
掘ってきた通り、彼らは、「やはり敵」であったし、
怒りをあらわにして、私にぶつかってきた。

だから、逆に、それで安心していたところがあった。
やっぱり敵なんだ、そう思いこめたから。
実際に敵なのだけれど。

しかし、今、問題なのは、
相手が敵か、というのはもうわかっていることであり、
今なお「私の中」に残る、Pに繋がれた鎖なのだ。

誰一人として、
昔の関係に戻りたい、と思っている人はいない。
つまり、私といて、別に幸せでもなんでもなかった、ということ。

これは、自分でも気づくのにしばらくかかったが、
では、私はどうか?というと、同じなのだ。

本当に幸せだったのなら、
自我復元など放り投げて、いつでも、今すぐにでも
昔の生活に戻ることはできたはずであり、できるのだ。

が、

私は絶対に、それはしない。

ということは、それは何か、といえば、
私もまた、Pといて、また両親といて、何一つ「幸せ」などとは
これっぽっちも思っていないからなのだ。

昨日、日記に書いたことがある。

「Pが笑ってくれる」という選択と、
「私が生きる」という選択、どちらを選ぶか?といえば、
あまりにその答えは、明白だった。

日記にそれについて、こうも書いた。

「どうせ、私が生きる、を選ぶに決まっている」と。

どうせ、とは、死に際に、本音のところでそう思って
100%、もしも、Pを選んだら「後悔する」という確信からこぼれ出る言葉だ。

今、私が、「Pから笑顔を奪ってしまった、幸せな私との生活を変えてしまった」
という罪悪感を抱くのは、当然、そう刺激している無自覚なPの態度がある。
それは、Pが、徹底して「笑わない」という態度だ。

Pから、こういう恨み節がきこえてくるようだ。

「もう、笑ってあげないんだから。
Abyは酷いことをした。どのくらい酷いことをしたかを思い知らせてやる。
ワタシが笑わない、ということであんたを苦しめてやる。」

もちろん、苦しいのはAC人格だ。
これも日記に昨日書いたことだが、結構である。
苦しみ、その苦しみで悶絶して死ねばいい。
そう思っているし、それは今も変わらない。苦しくていい。
しかし、ACが死ななければダメだ。

苦しいのは、楽しい。

と言ってきたし、それはそうだ。
だけれど、目的は、「生体反応を奪う元を断つ」ことであって、
楽しんだり、苦しんだりして、「これでいいんだ」と思い、
元を断つ手を休めてはならない。
苦しかろうが楽しかろうが、ACが死んだかどうか。
それが、今、監視を緩めてはならないところだ。

話は戻るが、

どう考えてもおかしいのは、

誰も、幸せではなかった。

なのに、変わってしまった関係に、罪悪感を抱いたり、
Pたちからすれば、「Abyのせいで」と苛立ちをあらわにするのは
なぜだ???

誰も幸せじゃなかったわけだから、
なんの執着もなく、とっとと、そんな関係は解除すればいいだけだ、
と思える。

ところが、その鎖が強固なのは、
原因があるはずだ、ということであり、
さらに、そこを掘っていく。

次に思ったこと。

Pが笑っていた昔のシーンを思い出す時、
私は苦しくなる。

そのシーンだが、その時、私はどんな顔をしていたのか・・・

そう考えたとき、はっと思った。

私が「笑っていた」のだ。

私が笑っておらず、Pが笑っているシーンなど、
ぜんぜん関心もないし、そもそも、そういうシーンはあまり記憶にない。
だからこそなのだが、Pの笑顔は「私があげてきた」と思いこんでいる。
だから逆に、今、私は「Pから笑顔を奪った」という心情になる。

「笑い合った日々」

の記憶、ということになる。

あの幸せだった日々・・・

ここがおかしい、と思ったのだ。

私たちは、幸せではなかったのに、
どうして幸せだと、少なくとも、私は思っているのか、というと、

「笑っているから」

なのだ。

そこで辿り着いたのが、

「笑っていれば、幸せなのか?」ということだ。

言い方を変えると、幸せだったから笑っていたのか?

でも、これは違う。


幸せでなかったのに、笑っていたのだ。


だんだんと、この不気味さは、
私が育った家庭環境と、自宅下にあったI商店で働く父親家系の面々を
思い出させた。

自我復元を始める前、私は理想の家庭環境に育ったと感じさせた根拠は、
まず第一に、みんな、笑い合ってきた、という記憶による。
パパも、ママも、兄弟も、親戚も、おじいちゃんおばあちゃん、おじちゃんおばちゃん、
お店の人たちも、みんないつも「笑っていた」という記憶。

しかし、この記憶の裏には、膨大な「不機嫌な顔」があったことを
今まで掘ってきたわけだ。父の、母の、あの不機嫌な顔。
そして、掘るに掘っていくと、「不機嫌な人たち」といってよいくらい、
真逆な事実が浮き彫りになっていった。

しかし、重要なのは、

「笑っていた」

というのは、事実だったことなのだ。

そして、あらためて、それの意味は何だったのかに気づく。

笑っている、というのは、

「不機嫌でない」という

〝印〟や〝合図〟にすぎなかったのだ、と。

そこでようやく繋がってきたのは、

Pは幸せだったのではない。
不機嫌でなかった、に過ぎなかったのだ、と。


「不機嫌でない」


ただそれだけが、少なくとも、私の中で培われた
「笑顔」や「笑い」の定義だったのだ。
それを、幸せ、と誤認した。幸せというものに、安易に、結びつけた。
もちろん、その原因は、幸せでもないのに、酒のんで煙草すって
「ああ、もう、パパは幸せ~。子どもたちも立派に育って、もうこれ以上
幸せな父親はいない~。」とニヤニヤと上機嫌、この繰り返しが、
幸せな家族像、という虚像を私に植え付けたに違いない。

笑顔という言葉は、
大学時代も、自分探しのような最中、
最も重要な言葉だったことを思い出した。
それからその後も、私は、最後は「笑顔」こそ、辿り着くべき地点だと
自分自身、無数の格言のようなものを作っていった。

サークル活動では、私はこの「笑顔」が注目され、
「さわやかすぎる!」と沢山の人に何度も言われて、
実は、二十歳近くになって、私は「笑顔が取り柄なんだ」と知ったのだ。
そこから、私は、バイト先の接客業でもそれを発揮し、
教育担当の時は、笑顔の作り方を指導する立場でもあった。

内職では、この「笑顔」こそ武器だった。
そして、私はこれを天職だと思った。
自分の目指すところに、しっかりと向かっていったと思った。


ところが、今、これらについて思う。


自分ルールで私は笑わないをやっているから、というだけでなく、
そもそも、これだけ必死な格闘の毎日に不用意に笑顔など出るわけもなく、
それでも笑みが「浮かんでくる」としたら、私の記憶では、この半年で、たった数度、
もう後がない、そういう切羽つまった時、それでもそこに「闘い続けてくれている私」が
いることを知ったとき、その時に浮かんでくるくらいで、つまり、言いたいことは、

「笑顔かどうか」



「生きているかどうか」

とは、まったく関係ない、ということ。

むしろ、不用意に笑う余地のない綱渡りの場でこそ
生体反応を失わないでいようとする生命経験があるのであって、
とんでもないが、笑ってなどいない。
私のいう「笑顔」の出番など、まったくない、といっていい。
不用意に笑ってしまった時ほど、不快なものはない。

これに気づき、もう一度、Pのことを考える。

Pは「生きていたのか」といえば、
笑っていただけで、NOだ。
不機嫌でなかった、というだけ、それはつまり、
Pにとっては、全自動身体洗い機でもしゃもしゃ洗ってくれる人がそばにいて、
「うれしいー」という、ただそれだけのこと。

私が過大に「Pの幸せ」と思いこんでいたのは、
ただ、便利な道具が手に入って「楽だわぁ~」というものに過ぎなかったのではないか、と。

Pの幸せを奪ってしまった、というのではなく、
どうしようもない怠惰なお嬢様から、便利なおもちゃをとりあげて(というか与えなくなって)
Pは「何するんだ!」と怒っている、というだけ、というのが実状ではないか?

そう考えれば、

「Abyのせいで、こうなったんだ。
Abyがそんなこと言わなければ、ずっと今まで通りいられたのに・・・」

といって以前涙を見せた時、私は一人、胸が苦しくなったが、
あまりに、馬鹿げていないだろうか。

「私のせい」で、結構、ではないか。

そういうことだったのだ。


不機嫌で結構だ。


私は彼女から幸せを取り上げたのではない。


「彼女が不機嫌で構わない」という選択を、私はしたのだ、ということ。


これは、対毒父とも同じことだったのだ。
不機嫌で構わない、さあ、やるならやればいい、と。


先日、仕事先でS先輩とぶつかった話をしたが、
私は、正直、今、この険悪な感じを、生まれてはじめて、
やめよう、解消しよう、とは、「思わない」。
不機嫌、結構じゃないか。とことん不機嫌でいこうじゃないか、と。
それでどうなるか、まったく私は未経験だ。
でも、それが、今、怖いとは思わない。

むしろ、どうなっていくか見届けたいと思ってさえいる。

話はそれるけれど、自分ルールは、
仕事中、いつもやっている。
仕事柄、一日に、300~400人の人と直接対面するから
その数だけ、ルールを遂行できる。
物理的、身体的、動作的なルールの場合もあれば、
姿勢とかスタンスとか、心理的なルールもある。

たとえば、昨日、一昨日は、
「不機嫌で、毎回、接する」というのをやっている。

これは、いざやってみると、おかしなものだけれど、
いたって、「普通」なのだ。
これをやると、いかに、私一人、今まで一方的に笑っていたのかが
病的だと思えるようにわかってくる。

不機嫌ってどうやるか、というと、
笑わない、ということだったりする。
今までもそもそも笑わないルールの毎日だけれど、
私が不機嫌をやろうとすると、なんとなく怒ったような投げやりな顔つきになる、
というのが、せいぜいなのだ。

それもそうで、不機嫌じゃないのに、
不機嫌を何時間も続ける、というのは、考えてみれば難しいし、
しかし、考えようによれば、ここに、私の思いこんでいる「不機嫌」がある。

結局、ここにも、笑わない、ということが
私にとって、重要な意味を持っていることがわかる。

Pは、

「ワタシ、笑ってあげないからね」

というこの復讐の仕方に対して、私のACは強く反応していた。

これが苦しくて、ここから目をそむけていた。
ここから生じる罪悪感があるのに、そんなのない、と思いこみたかった。
敵だ、敵だ、と唱え、しかし、やはり、罪悪感はあった、ということだ。

しかし、この罪悪感は、
持つ必要のないものだ、ということ。
彼女から幸せを奪ったのではない。
そもそも、Pは幸せではない。幸せではなかった。

ただ、私が、Pを、

「不機嫌にさせなかった」

ということ、他の誰よりも、Pを不機嫌にさせないことに秀でていた、
ということにすぎなかった、ただそれだけなのだ。

しかし、

不機嫌にさせてよい、のなら、
何一つ、恐れることはないのだ。
何一つ、義務などもなく、それによる罪悪感を抱く必要もない。

以前、ブログに書いたことがある。

学校から帰り、お店に寄る時、
父の顔色を見て「ただいま」と目は真顔で顔は笑おうとしている。
そして、不機嫌そうに働いている父が、私に気づき(というか、なんというか
今思うと、この気づくタイミングもあやしく、不機嫌な顔も少しの間、
わざと見せていたように思う。きっとそうだ、あれは。)、急に、顔が豹変し、
にこーとして、「お帰り」と今思えば作り笑顔満開で、出迎えてくれた。

I商店で働く父家系の人たち、また、その仲間たちもみなこれに毒されてしまったのか、
私が思い出すのは、不気味な笑顔なのだ。
今だから、それを不気味だ、と思える。
でも、私はずっと、それが普通だと思っていたし、それが明るく理想的な家族像だと
何も疑わずに思っていた。みんなにこにこしていた、いい所だった、と。

でも、今、こうやって社会に出て、
訓練された笑顔をやめてみれば、まわりも誰も、あんなわざとらしい笑顔などしない。
たまにそういう人がいると、すごく目立つほど、ああ、あれはおかしかったのだ、と気づいた。

人はそんなに、四六時中、笑ってなどいないのだ。

そして、笑っている=幸せ、などでは決してない、
というのは、私自身、身をもって体感できるようになったことでもある。

甘酒作りやプラモ作りをやっている時、
笑っているか?笑ってなどいない。といって、妙に真剣を取り繕うこともない。
たんたんとやるときの顔は、自然に真剣な顔になるだけだ。

笑顔については、その元凶は
やはり、毒父家系の中にある。
そこは、毒父の母親も同じようなタイミングで笑いかけた。

どうも、笑う、ということが、
義務のような作業としてやっている人たちなのだ。
ぜんぜん、自然なタイミングではない。
皮肉にも自然なのは、不機嫌でいるときがその人たちの常態なのだ。

それも当然だ。

だって、彼らにとって「笑顔」とは、
「不機嫌でなくいてやる」ということを相手に示すやり方なのだから。
要は、心から笑ったことがない人たちだ。

私もそっくりそうなって、笑いたいから笑うというのではぜんぜんなく、
笑うことで、「私は不機嫌じゃありませんよ。あなたには不機嫌でなくいてあげますよ」
という意思表明をしてきた。その自覚すらなく。

だから、相手が、私の意をくまないような態度をとると、
「お前のためにやってやってるのに、何だ、その態度は」と
毒父のあの顔に豹変する、というその癖まで感染してしまった。

そもそも、不機嫌はダメだ、というのを
植えつけられた、ということでもある。
だから、私は、ずっと笑っているような子どもだった(大人になっても)のだから。
それは、言うまでもなく、毒父を不機嫌にしてはならない、という恐怖が
ベースになっていたはずだ。

ただいま、という時、顔色をうかがいながらも、
私は笑顔を作っていた。そこに無理をしていた感覚はなかった。
そういうものだと当然思っていた(とも思わないほど、当然のことだった)。
それに対して、「笑顔が返ってくる」。
この毎日が、毒父のいう「幸せ」、また、夫の顔色をうかがって生きていた毒母のいう「幸せ」、
というものと重なってゆき、私にとって、相手が笑ってくれること、そして、
その時、私も笑っていること、これが、何よりも幸せだ、と思うようになったということだ。

不機嫌、というのが、
最近、私は、やっていて楽だと感じている。
なんというか、私が思いこんでいたより、ぜんぜん嫌なものじゃないのだ。
ずっと不機嫌でいようかな、と思うほどに。

実際、そうなんじゃないだろうか?

不機嫌=ダメ、というのは、暴君の毒父が、
不機嫌というのを「暴力のちらつかせの合図」に利用したから、
私がそう思うようになったにすぎず、
不機嫌自体は、なんら、無害なものに思うのだ。

ただ、不機嫌、というだけ。

そこで、Pに戻ると、

Pは不機嫌なだけ、なのだ。
(動機が有害なので、Pの不機嫌は、その意味では十分有害ではあるが。)

そこに、「私が彼女の幸せを奪っている」と考えるのは、
顔が曇る、つまり、笑顔でなくなる、イコール、幸せが壊れる、壊した、という
毒親によって植え付けられた思考回路だ。

そして、Pだけじゃない。

私自身が、「あの時、僕はPと笑い合っていた。楽しかったからだ」
という呪縛がある、ということなのだ。

笑っていたのは、確かだ。

しかし、本当に楽しかったのか?

本当に幸せだったのか?

なら、戻ればいいじゃないか。

でも、私は戻りたいとは思わない。
笑っていたかもしれないが、ただ、笑っていた、
それだけではないか?

笑っている、笑っていた。

そして、今、私も、Pも、「笑っていない」。

では、今、私は死んでいるのか?

そんなことはない。

Pは、笑わず、ダダをこねているだけだが、
私は、笑わず、「私が生きる」を選択し続けている。

この選択を、いざ、という時、
それは死に際という本番に、必ず行使するために、
ボケずに、今、このふざけた「ダダこね」でしかない幻想の鎖を
私は徹底的に断ち切る。



2015.06.12
Aby


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by jh-no-no | 2015-06-12 08:23 | 復元ノート 1

解除すべき声

この二ヶ月の間、一日も休まずやり続けてきた妄想との戦い、
先日、今までまったく気づきもしなかった呪いの声、
それは、

毒父の「毒」

その猛毒が、まるで私の生の前提としてインプットされていることに気づいた。

前回の投稿で、仕事の男性先輩のSさんに対するイライラ、不満、
これについては、まず置いておいて話を進めてきたけれど、
この不満やイライラは、私のコントロール下にあったものではなく、
検討すべきことだった。

そして、それ以外にも、仕事中、今までも含め、
なぜ、私は他者にイライラしてしまうときがあるのか、
この不快感は何なのか、をその場でよく考え、堀り、見ていくことを続けた。

実は、この中に、猛烈な毒があったのだ。

しばらく前から、仕事中のイライラが、とても父に似ていることには気づいていた。
たとえば、私がお客さんに話しかけたことに対して、「はぁ?」みたいな態度をされたりすると、
たちまち、私は、毒父と同じ「顔」になっていて、これは、とても気味悪く、
なんだ、これは?と思った。

仕事仲間に対しても、私がやったことに対して、
ダメ出しをしてくると、その人に対して、恨み丸出しになる。

もう、そんなことばかりなのだ。

そのすべてに共通していた声を、私は、やっと見つけた。


「お前のためにやってやってんのに、何だ、その態度は!」


この当然のように放っていた悪臭、毒父の毒。

父がキレる時、まさにこの時だ。

そして、こう続けて言うのだ。

「こっちが下手に出てニコニコしていりゃいい気になるんじゃねえ。
こっちがキレたら、こうだ。調子にのったら、どうなるか、しらしめてやる」

といって、相手を馬鹿にし、私は冷静さを装い、たんたんと相手をいじめる。
あるいは、キレる。

私は、これを、ずっと今までバイト先でも就職先でも、
Pとの仕事や生活のなかで、延々とやってきたのだ。

父のあの「感謝」という言葉。

父はこう思っている。

「なんでオレに感謝しないんだ、この野郎」
「オレは、お前のためにやってやってきただろうが。
感謝の気持ちを忘れたのか。お前は馬鹿か?」

ずっと、父はこれであり、私はまったく同じ、これだった。

おじろくの呪いである。

毒父は、自分の母親に見捨てられていた。
そもそも、労働力という道具としてしか見られていなかった。
私の二人の毒親が、私に口にせずにも言い続けたことと同じだ。
それは、

「生かしてやってきただろうが」

だ。だから、オレ様の役に立つように動いて当たり前。親の都合で動いて当たり前。
それをしない、それがわからないやつは、感謝を忘れた「親を親とも思わない馬鹿だ」、
というのが、毒父の考えであり、それに毒された毒母の毒だった。

毒父は、それでも、「お母さん、お母さん」と思い続けた。
父の母親は、長男ばかりの名を呼んでいた、と思われる。
それに対する恨みつらみを、私はきかされて育った。
だから、父は、一声、自分の母親から「声をかけられる」ただそれだけで
思考停止し、舞い上がっていたのを覚えている。

「お母さんは、口には出さないけれど、
ボクのこと、I商店のために身を粉にして働いているのを知っているよね。
それは、お母さんのためなんだ、それも知っているはずだよね。
口には出さないけど、感謝してくれているはずだ。
役立ってくれてありがとう、って、本当は、そう思ってくれているはずだ。」

しかし、父は、今に至るまで、一度たりとも、
その実感を得たことがなかった。完全に妄想の世界だ。

それも、当然なのだ。

毒父の母親は、父のことに感謝など、欠片もしていなかったのだから。
それを父は直視しなかった。

ただの労働力だったこと、生かしてやっただろ、としか思われていないこと。

それは、身に覚えがあるはずだ。

それは、私に対して、あなたたちがしてきたことだからだ。
そして、Pも、身に覚えがあるはずだ。
あなたが私にしてきたことだからだ。

そのことが、あなたたちと実際に衝突し、対立することになって
浮き彫りになったのが、母の自殺以後、今日までに起きた出来事を通してだ。

それでも、私は、その呪いの声に気づかなかった。
その呪いの声が、いかに「自分のものでない前提にたったもの」であるかに。
「お前のためにやってやってんのに」という、完全に、インプットされていたとしかいいようのない
魔の前提だ。

私は、

そんな人生を選んだ覚えはない。

そう言いたい。

だけれど、選んでしまったから、こうなったのだ。

だけれど、その選んだ根拠となる「リアリティーのない声」は
毒父の呪いの声、毒父の毒であり、私のものではない。

私の意思ではない。

私は、そんなこと、誓った覚えは「ない」。
選んだ、選んでしまったかもしれないが、
「私は」「そんなこと」「思ってもいないし、考えてもいない」。

そして、この毒の最も恐ろしいのは、

「あなたのために生きていけるのなら、それでいい」

この、「それでいい」という、いったい、何がそれでいいのか
まったくわからない了解、前提こそ、最悪だった。

イライラすることもある、不当に扱われることもある、
あなたに対して不満を抱くこともあるだろう・・・

・・・だけど、ボクは、

「それでも、あなたのために生きていけるのなら、いいんだ」

というものが、私に完全に、感染、コピーされていたのだ。

結局、父は自分の母を恨んでいないのだ。
認めてくれないでお母さんお母さんとしがみつき、
足下の自分の家庭を犠牲にしてまで不満タラタラだったのに、
そして、まわりをあれほど振り回し、妻を自殺にまで追い込んでおきながら、

ありえない、、、と思うのは、

「それでも、別に、いいんだ。
お母さんのために、身を粉にして働いた人生を送れたのだから。
ボクは幸せだ」

と、あの男は本当に(100%妄想世界だが)思っているのだ。

ありえない、あきれて何もいえない。

しかし、これが、そっくり、私に感染していたことに
この二ヶ月の格闘の末、知ることになった。

イライラしたり、不満を言ったり・・・

私もまた、毒父と同じように、
こんなことは、実質的には、「演技」だったのだ。
思っているのは、たった一つ、

「お前にためにやってやっているんだぞ、オレは。認めろ」

それだけなのだ。

完全に、キチガイである。

不満でも、イライラでも、はたから見てどう見ても不幸でも
本人一人は、それでいいらしい。
父が言っていることは、いつも、これなのだ。
そして、そういう夫に振り回されては、一人「ボク、幸せ」とのたまう夫を
私の母だった妻は、どれだけ恨んでいたことだろう。

魔がさすことがある。

それは、

「もしも自我復元に出会わなければ、私は、Pのために尽くす人生を
問題なく送れていて、それでよかったのではないか」

というものだ。

これは、私という人間が、自我復元と出会ってはじめて苦しみ、
今も苦しみ、しかしそれだけが「私のリアルなもの」であり、
生まれてはじめて、一日数秒でも、生きられるようになった「私」との

〝一騎打ち〟

なのだ。

昨日は、相当に苦しかった。しんどいと思った。
しんどい、という感覚しか、そこになかった。
そして、ふと思ったりした。

「私は、こんなことで、これからもっと多くの障害に
耐えていけるのだろうか」

しかし、

こうも思うときが、必ず訪れる。あきらめないからだ。

「どんな障害でもこい。私は、一人、素手で、すべてに立ち向かう」と。

1000本の槍が飛んでこようと、その槍の中を
「私が進む」と決意したら、やり通すだろう。たとえ、身体にずぶずぶと
槍が何本も刺さろうが、私は、怖くない。

私は、怖くない。

そう思うことがある。昨日もそうだ。

こうやって、まったく、真逆の考えや反応に引き裂かれる。

しかし、勝敗は、私にあがる。

なぜなら、

「楽しい」

からだ。生体反応が失い、それに抗うことも、そこに「生きている実感」がある。

解除しなければならない声を、
ようやく突き詰めてきた。


「お前のためにやってやってんのに、何だ、その態度は!」
「あなたのために生きていけるのなら、それでいい」
「お前にためにやってやっているんだぞ、オレは。認めろ」


「それでよくない」のだ。

Pのために、他者のために、尽くす。

その人生で、別に「いい」など、私は「思わない」。
そんな考えは、私のコントロール下に、まったく、ない。

この戦いの最中では、この妄想外しは、

「妄想を焼き殺す」

といったほうが、実体にあう。

昨日、いや、その前からずっとだけれど、
胸が焼けるようだった。

はたから見たら、何を格闘しているのか、
正直、自分でも何をやっているんだろう、と思う。

「ただ、私が自分の意思を行使すること」、
たったこれだけのことに、私は、苦しんでいる。
ただやればいい、ただ思うようにやればいいことをただやるのに、
ありとあらゆる妄想との妨害に、格闘している。

それは、格闘、という言葉から感じる「激しさ」は
見た目にはなく、もっと、じんわりと陰険な戦いなのだ。
生体反応を奪い、めんどうにさせ、意識を低下させ、
もう、生きているとはいえない状態を「つきだしてくる」。

しかし、

私は、それに「抗らう」。

当たり前だ。自分の意思が行使できない、あるいは、
それを阻害されて、「はい、別にいいです」など、
そんなの、おかしいからだ。

私は、全部を見る。

なぜなら、「私」に「全部」のことが起きているからだ。
その一部にも目をつぶったら、誰がそこを見るというのか。

私以外、誰か他にいるわけじゃない。

そう、誰かが、他に、私の気持ちをおしはかってくれるわけじゃないんだ。
崩残さんが、以前、指摘してくださったことを思い出した。

私しか、いない。

全部を見るから、怖くないんだ。
怖くてもいい、といったほうがいい。
怖い、怖くない、そんなことはどうでもいい。

今、私は、この瀬戸際にいる。

この一騎打ちに、勝つか負けるか。

私しか、いない。

このエゴを貫く私を邪魔するものは、
焼き殺す。

AC人格の解除とは、そういう問答無用の意思の行使だと思っている。
よしあしではなく、それは、自分の生の責任は、自分で負う、という当然のことではないか。

私が気持ち悪いのは、
この誰ともいえない声に、従わされてしまっていることだ。
だから、私は、それが嫌だから、
毎日毎日、「自分の意思だけで」生きよう、選択しようとしているのだから。

私は、まず、この当然な生き方をやる。

その中で生じる問題は、対処すればいいのであり、
事前に妄想し不安になったり、安心したりすることが
私のやることじゃない。

これが、自分の意思を行使する、という生き方だと思う。


2015.06.05
Aby

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by jh-no-no | 2015-06-05 18:25 | 復元ノート 1

自分を裏切ってしまった

5月、今日で最後という日の最後の最後で
自分を裏切ってしまった。

ずっと、絶えず、自分の意思だけで貫こうと、
この5月、特に後半はやってきたのに、
私は最後の最後で、取り返しのつかないことをした。

取り返しのつかないこと、
もう、戻せないこと、吐いても元には戻らないこと、
どんなに自分の頭をたたいても、終わってしまったこと、
取り返しのつかない事実、
自分を裏切ってしまった。

自分を裏切ったら、全部、もうダメなのに、
自分を裏切らないことだけ、それだけが、
私は死守すべきことだったのに、
私は、死んだ、と思った。
裏切った=死んだも同然だ。

自分を裏切ることが、こんなにも苦しいことだということも
今まで知らなかった。
自分を裏切ったら、「何もかもおしまい」なのだ。
どんなに気をはっていても、あと一歩のところで、踏み外したら、
まっさかさまに堕ちる。

完全な裏切りだった。自分への、絶対にしてはならない裏切りだった。
こんなに惨めなことはない。
悔しく、悔しい。やってはならないのに。
やってはならないことなのだ、自分を裏切るということだけは。
なのに、その絶対にやってはならない唯一のことを
私はやってしまった。時間は戻せない。
自分に対して、罪を犯した。
自分に向ける顔など、一瞬にしてなくなった。

自分を裏切ったら、そしたら、どうなるのか。
自分を裏切らないことを、また、やれるだろうか。
やれなければいけない。でも、やってしまった裏切りは、
まぎれもなく、自分への裏切り。許されない。

こんなに悔しいことはない。
仕事の帰り、自分の頭を叩きながら
「なんでやってしまったんだよ」と悔しくて悔しくて、
もう絶対に裏切りたくない、という思いよりも、
裏切ってしまったことのあまりの苦しさで、
今もだけれど・・・本当に、私は、自分を許せない。

こんなに惨めなことがあるだろうか。
これでは、私は奴隷だ。奴隷として生きることを
自分で選択してしまったのと同じなのだ。

だけど、今、復元ブログを書いているのは、
懺悔をしたくて、自白したくて書いているのではない。
私は、そういう裏切りを、この大事な今日、犯してしまった、
自分の意思でないことを選択してしまった、でも、

私は、

絶対に、

絶対に、

それは嫌だったのだ。絶対に。

これが失敗、というものだと痛感した。
失敗とは、本当に失敗のことなのだ。
自分を裏切ったら、「自分を裏切った」という事実だけが残る。
なぜ、なぜ、と後悔している。
でも、なぜもなにもない。自分を自分が裏切ってしまった、という明確な理由だけだ。
あまりに、それが、明確だった。完全に、自分を裏切った。

自分を裏切ったら、何も残らない。
本当に何も残らない。生きていない。

そのところに、堕ちてしまった。

でも、這い上がりたい。

いや、這い上がる以外、ない。
どんなに今、重症を受けたとしても、
それでも、私は、這い上がろうと思っている。
這い上がるとは、自分の意思を絶対に曲げないこと。
今日、私は自分がしたことを許さない。
絶対に許さず、自分を責め続ける。

当然だ。

誰かが許しても、私は許せるはずがない。
だから許さない。

今、Aby、それでどうするつもりか。
「自分は自分に顔向けできない」と思った、それで、どうするんだ?

今、私は、生きなければならない。
今だ。つねに、今だ。まだ、今がある。
自分を裏切った自分のままでいいわけがない。
言い逃れはしない。死ぬまで自分に顔向けできないのが自分への裏切り行為だから。
だけれど、今、この今から、私は、

「裏切ってはいけない」

たとえ、裏切ったことの始末をこれから背負おうとも、
背負いながら、けれど、私は、自分を今、裏切ることは

絶対に

だめだ。

今日、やってしまった取り返しのつかないこととは、
仕事の男性の先輩から、ポテトチップスを「どうぞ」と言われて、
それを食べてしまったことだった。

食べたものは、受け取ってしまったものは、
もう、戻せない。どうにもならない。
こんなに惨めで悔しく、苦しいことはない。
自分で自分を許せないことをしてしまったこと以上、
どうしようもなく許せないことはない。

今日、その人とは別の女性の先輩からも、同じその場で
どうぞと言われて、食べてしまった。

食べたくなかったのに。

もう、食べない、と以前、自分に誓ったのに。

この女性の先輩から、しばらく前に、味見ということで
みんなにまわしてポテトチップスを食べていて、
私は、ポテトチップス自体、内部被爆を考えて、自分では
絶対に食べないようにしていたのに、その時、
「どうぞ」と言われて、断れず、食べてしまったことがあった。

その時、私は誓ったのだ。
もう、次は、絶対に断ると。
なのに、やってしまった。

そして、それよりも、今日、私が、絶対に許せない自分への裏切りをしたのは、
もう一人の「男性の先輩」から、ポテトチップスをどうぞと言われて、
断らなかったことが、最悪の裏切りだった。

一週間前、こんな出来事があった。

その男性先輩(Sさん)と、私は、職場で始めて衝突した。
衝突というより、Sさんの態度が、私はすごく不快で、
「不快だ」ということを、直接、話したことがあった。

たしかに私は新人なので、そのベテランの男性先輩に比べたら
「こいつ、何やってんだ?」と思う部分もあるだろう。だけれど、
あまりに見下した態度は、いくら先輩だとはいえ、不愉快にしか思えなかった。
最初、私はなんか嫌だな、と感じてはいたものの、忙しい時間だったせいもあって
とりあえず、その人の指示に従って仕事をしてしまった。

だけれど、それからしばらく時間がたって、やはり、
あの時感じた不愉快さを、このまま言わずに、というわけにはいかなった。
不愉快だったことを、ちゃんと話そう、と思って、数時間後になってしまったけれど、
Sさんに、自分が感じたことを話した。

Sさんは、そこでも、「はぁ?」みたいな態度で、
「だったら、なんでその場で言わなかったんですか?」
「そう思ったとしても、今、言うべきじゃないんじゃないか」
と、まったく、私が不快に感じたことに取り合う姿勢すらなかった。

それでも、私は、「私はそうは思わない」とはっきり伝え、
「こいつ、何やってんだよ」という見下した態度を不愉快に思ったし、
今言うべきじゃない、ということにも、私は納得がいかないと思ったから、
その通り話をした。

そんなことがあった。

成人してから、バイト先で上司にキレる、という、
それこそ、私自身が「何でも馬鹿にしてやる」AC人格丸出しだったのだけれど、
今回は、そうでなく、ただ、不愉快だったことをしっかり伝えようと思った。
これと同じようなことは、随分前になるが、稽古仲間との間にもあった。
その時は、その人があまりにおせっかいに教えたがるので、
「やめてほしい」と伝えたことがあった。それから、その稽古仲間とは、
関係性が変わってきたのだけれど、今回は、違った。

まだ一週間だから、なんとも言えないけれど、
お互いに、険悪な雰囲気のままで、以前の私なら、
この状態を耐えられなかったろうし、そもそも、このような状態を
私は絶対に作らなかった。たとえ、かつての私のように「キレた」としても、
かつてもそうだったけれど、結局は、最後は、毒父同様、
「言い過ぎた」という方向に自らもっていって、「わかってほしい」という流れに
うまくもっていくのだ。もう、これは、エセ利他精神と、顔色人格混合の
最低最悪のAC、あの毒父がキレるだけキレては、最後は、「和解」しようとする、
実に姑息な、無自覚かつ計画的な、どうしようもない折り合いの付け方なのだ。

それで、私は、今回、自分が不快に思ったことがどうなのかは
まず置いておいて、この今の状態、「和解にもっていきたくなる流れ」に
私は絶対に従わない、と決めた。

和解など、しない。

ずっと険悪なら険悪でいい。

生まれて始めて、この状態のままで結構だ、
私は和解などしない、折り合いもつけない、
それで、これから起こるすべてを見届けて、立ち向かう事すべてに
対処しよう、そう決めたのだ。

そして、今日、やはり仕事中、嫌な空気がずっとあった。
それでいい、と思いながら、やはり、苦しかった。
今日は、5月の最後だ、絶対に屈しない、この5月、
ずっとやってきたじゃないか、って。
でも、まだ、どうしても、この孤立感がしんどく感じることが波打ってきて、
この孤立感こそが、今私がここにいること、ここで自分の意思を行使していることだ、
とわかりながらも、それでも、過去のACが総出で襲ってくる。
もう、これは総出だな、とわかるくらいACももはや、なりふり構わず、攻撃してくる。

一人、で戦うのが
とても苦しく感じてしまうのだ。
自分の意思を行使することなのに、
そうとわかっていても、苦しい、と。
でも、それでいい、苦しい、それでいい、苦しい、という波打つ中に
ずっといる感じに陥ることが多かった。

とくに、今日は、なぜか、仕事中、苦しかった。
でも、なんとか仕事を終え、貫けた、と思った。

最悪なことは、まったく予想をしていなかったその後に起こった。
仕事を終え、みんなで解散をするその場で、
新商品のポテトチップスを買ったから、ということで、
その女性の先輩と、男性の先輩のSさんが、みんなに一つどう?と
配り始めたのだ。

この時、私は、断らねばならなかった。
断りたかった。「僕はいいです、結構です」とその一言を言うべきだった。
それは当然、だって、絶対に、食べたくなかったから。
もらいたくもなかった。Sさんはどういう心理かは知らないけれど、
ここで私がもらったら、

「私が、和解に屈した」

ことになるからだ。その時、私は、あまりにあまりにあまりに甘かった。
和解、なんていう言葉で理解しているから、ダメなんだ。
和解じゃない。従属なのだ。その時、私は、
「相手が和解を求めているのなら、拒絶することはないかもしれない」
と、一瞬の間ではあるが、相当に迷いながら、ポテトチップスに手を出し、
それも相当に迷いながら、口に近づけ、相当に迷い、私は、食べた。

食べた直後、さあ、帰ろうという、その時点で、
私は、取り返しのつかないことをした事実に、血の気がひいた。

「やってしまった」
「食べちゃった」
「どうして食べたんだよ」

自分の意思とは、「自分で決めて、自分で実行すること」なのに、
その一番の基本が、その時の私から「ぶっとんでいた」。

今、これは気づいたことだが、
やはり、まだ私は、「その場のまわりの状況で、判断している」のだ。していたのだ。
だから、こういう間違いを犯してしまった。これは、このことは、母の自殺の時も、
随分、自己分析したことだった。稽古でも、これが「命取り」であることを
あれほど知ったのに。なのに、ぜんぜん、ダメ、同じことをしてしまった。

甘い。あまりに甘い。

でも、この5月、私はそうしないことをずっとやってきた。
この5月の後半は、甘酒作りもプラモデルも、やるぞと決めたことは
やりきった。絵日記もつけ、実験と物作りを徹底してやった。
当然、ACが邪魔をしてくる。それでも、私はこの5月の妄想外しの徹底で至った結論は、

「思うように、やればいい」

ということだった。これは、まったく簡単ではなかったが、
これを阻害するものは、ことごとくAC人格の手口だったから、
私は、思うようにやればいい、そして、終わりの方には、
思わないことはやるな、と思うようになり、結局、この5月後半は、

「ただ実行する。ただ実践する。ただやる」

ということを、私は、ACの妨害があろうがなんだろうが、本当に、楽しんだ。
このただ実行する、思うようにやることを阻害してくるのが、ことごとくACだった。

「自分の意思を行使する」

この5月は、自分の意思だけを行使しようとし続けた一ヶ月だった。
そういう強い思いを持ちながら、5月最後の職場に臨んだ。
これは本気だった。

つまり、まわりなど、どうでもよかった。
ブログにも書いたけれど、エゴに生きることに、私は疑いを持たなかった。
疑いが差し込もうものなら、そう気づいたら、できるかぎりすぐに、
「問答無用」に切り捨てた。私だけが、生きればいい、と思っていたから。
ずっと私がやってこなかったこと。思った。残る時間、私は、私だけが生きることをしても、
それでも、今まで失ったものはとり戻せはしない、と。

それでも、昨日も、その前の日も、最後の最後まで、
私のなかで、あまりにのさばり続けているACが、
「よしあし」で判断しようとするその妄想癖だった。こののさばりは尋常じゃなかった。
様々なACの挙動の中で、とりわけ、タチの悪いものなのだ。
そして、このよしあし妄想と戦ってきた一ヶ月だったといってもいい。
何度も書くけれど、この妄想(そもそも妄想はすべてそうだと思うが)に
リアリティーは、ゼロだ。どうでもいいことともいえる。

ただ、これがどうでもよくないこと、重要だったのは、
毒親にとって、なのだ。だから、私にとっても「重要なこと」のようになっただけで、
本当は中身のまったくない、私が実感し得ないもの、考え、格言、言葉、
その羅列でしかない。そうわかっていても、自動的にこれが反応する。

もちろん、それに気づく。
だから外す。でも、これは、簡単ではなかった。
私のなかで、これは、今までも本当に姑息なAC人格の挙動だが、
「これはACの挙動じゃないから、これでいい」というのが、一番、タチが悪かった。
こうやって、そのACは居残り続ける。

この戦いは、たいてい、そのループから抜けることができない。
が、必ず、抜ける時がある。その時がくる。はっと、気づくときがくる。
自分が思っていることが、明確に、わかるときがある。

そのときは、いつも思う。

自分が思っていることは、それほど多くない、と。
それほど複雑でもなく、なぜそう思っているか、という余計な理由もなく、
ただ、自分が思っていることがわかる、と思うときがある。

話が横道にそれてしまっているのだけれど、
もう少し続けて書いてみたい。

これはこれからも、継続して見ていかねばならないことだけれど、
自分が思っていること、というのは、実は、
「自分の意思で、考えたり、決めたりしたこと」だ。

反対に、自分が思ってもいないこと、というのは、
「自分の意思で、考えたり、決めたりしなかったこと」だ。

だから、自分が思っていることを、好きにやれ、思うようにやれ、
というのは、まぎれもなく、

自分の意思で考えたこと、決めたことを、やれ、

ということだし、思ってもいないことなどやるな、というのは、

自分の意思で考え、決めたことでないことなど、やるな、

ということなのだ。

これは、私には当たり前のことではまったくなかった。
今も、ここが、まだ自分の血になっていないから、
「一人がしんどい」などと泣き言を言うような隙が出てしまう。

そんなことなどないのだ。

一人で十分だし、むしろ、それ以外は、不要なのだ。
だって、自分の意思は、私一人の中で完結しているものだから。
他人などどうでもいい。他人などはどうでもいい、と、「私が自分で」思っている。
なのに、そうじゃないんだ、これは孤独でつらいんだ、過去のあの時楽しかっただろ、
そういう馬鹿なことを、今もなお、ぶっこくのが、まだ死に絶えないAC人格なのだ。

話を戻したい。

そういう格闘を、綱渡りのように、必死にやったこの5月だったのに、
私は、肝心な最後に、綱から堕ちてしまった。愕然とも失望とも言ったりできない、まったく、
「私一人が背負わねばならない裏切り行為」をしてしまった。

食べたくない。

絶対に、私はもらいたくない。
絶対に、私は食べたくない。

そう考え、そう決め、そう思っていた。
私がそう思っていた。

ならば、それを貫く以外、あってはならない。
なぜなら、そう決めたのだから。
当たり前のことだ。それは自分が自分に約束したことだから。

〝まわりの状況〟

など、見てはならなかった。なぜなら、それを見て判断しよう、その方向に
誘導し、ACの挙動を誘発する局面にもっていこうとするのがAC人格だからだ。

まわりの状況は誰が作っているのか、といえば
まわりなのだ。

Sさんなのだ。

決して「私」ではない。

ならば、もしも私がまわりを見て、いかにも「自分の意思で決めよう」と唱えたところで、
「まわり」というものの管理者がまわりであり、Sさんであるのなら、私は、
Sさんの言いなりになっているのと、まったく同じなのだ。
「状況を見て」など、ないのだ。

稽古で訓練してきたのはなんだったのか。
状況をよく見ろ、相手をよく見ろ、など一つも教わっていない。
ただ、つねに、「入身」という立ち位置(相手からは届かないけれど自分からは届く距離)を
途絶えさせない稽古で教わってきたことは、

自分に有利な状況を、自分で作れ、自分で作り続けろ、

ということだったし、それはブレることなく、一貫して、
その稽古をしている。

私にとって、まわりの状況、他人の都合などを「配慮」しようとするのなら、
何が起こるか。それが顔色をうかがうAC人格をはじめ、今まで掘ってきたAC人格が
ここぞとばかり出てくるのは当然だ。だって、そう、毒親が仕込んできたことだから。

今日のポテトチップスの時、その瞬間、私は迷った挙句、
「これでいいんだよね、大丈夫だよね」と思いながら、その裏切りの一口をしたのを
今、あたらめて思い出した。その時、私は、そう思っていたのに、頭で書き換えていたその時の
言葉は、

「これは自分の意思だよね」

だった。でも、これは嘘なのだ。これでいいだよね、あれはダメなんだよね、
そういうACループの葛藤、迷いだった。

立ち戻れなければならなかった。

和解など、本当にどうでもいいことだった。
望んでいないんだから。Sさんが望もうが、というか、実質的には、
「こいつ、騙されやがった」と思ったに違いない。無自覚でもそう思ったはずだから、
それも悔しいけれど、他人に馬鹿にされたりすること以上に、悔やみに悔やみきれないのが、
自分が、自分を裏切ったことだ。

私は、和解など、ちっとも望んでいなかった。
私は、ただ、食べたくなかった。
もらいたくなかった。そのただ一つの意思を私は捨てた。

今回は、ACの手口に「気づきませんでした」とは、
私が言えない。ACの手口に気づいていたかどうかは問題ではない。
自分で自分を裏切っていることを、手口を分析する以前に、自分で
「わかっていた」からだ。

だから、許せないんだ。今回ばかりは、自分が許せない。

今思うと、ここ数日のみならず、この5月中は、
この戦いだった。自分との戦いだった。
そして、この数日、辿り着いたのは、妄想を外すということは、
「自分の意思を行使する」ことに他ならない、ということだった。

そして、今日も何度も思った。

今の私は、まだ、妄想が吹き荒れている。

以前なら、私は、そういう自分を「ダメだ」と思い、ダメなレッテルを貼り、
ダメなことを自覚している、だから、大丈夫だ、とか、いや、それも自己暗示だ、
とか、そのループをずっと繰り返していたし、今も、一つ油断すれば、
結局、この「これでいいんだ人格」に足をひっぱられる。

だけれど、今、私は、この妄想が吹き荒れる世界で、
もう一つ、別の世界を、存在させようとしている。
妄想はなくしたい。でも、私の今の関心は、妄想をなくすことより、
妄想でない世界で、生き直すこと。それは、

「自分の意思を行使する」

そうやって、生きる、あるいは死ぬ選択をする、ということ。
選択の問題だ、と。どっちをあなたは選ぶんですか?ときかれて、
私は、今日、その自分の意思の行使を捨ててしまった、選ばなかったから、
私は、絶対に、自分を許せない。

たとえ、私は、AC人格が総攻撃をかけてきても、
妄想がどんなに吹き荒れても、

もう、

もう二度と、

私は、自分を裏切らない。

死んだとき、「もう二度と」は通用しないんだ、と
仕事から帰りながら、取り返しのつかないことをした、と思った。
吐き出せもせず、時間も戻せない。

今日から6月に入る。

もう一度、は許されないし、
私は自分が犯した裏切りを許さない。

自分が自分を裏切るということが、
こういうことなんだ、と今になって知った。

自分を裏切る苦しみをはじめて知った。

最悪な一日からスタートしてしまった6月だけれど、
それでも自分で決めているのは、あきらめないこと、
やろうと思ったことは、やり遂げること。

甘酒作りも、プラモ作りも、
私は、この6月、さらにやる。


2015.06.01
Aby

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by jh-no-no | 2015-06-01 06:36 | 復元ノート 1