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掘る意思だけは必ず残る

父のことで、二つ、掘ってみたいことがある。

一つ目は、先日見た夢に関することだ。

こんな夢だった。

ようやく、という感じだが、夢に父が出てきた。
いつも、母と妹と弟、Pさんばかりで、出てきてもどうでもいい傍観者として、
安全な位置にいて、知らん顔しているのが父だ。
現実の立ち位置と同じ。

その父が、父の母親(わたしの祖母、毒祖母)に、とつとつと話をしている。
何を話しているかというと、人間ってこうされるとつらい、みたいなことを
話しているのだ。

父の言いたいことは、要は、自分がつらい、と言いたいのだ。
自分の母にされたこと、されているこの状態はしんどいのだ、と言いたいのだけれど
自分を主語にして話さず、遠まわしに母親に話している。

それをわたしは見ているような位置にいるのだが、
それからの展開は、よくわからなくなるのだが、最後にはなぜか、
「ということは、どういうこーとだ?」という不気味な問いかけがわたしに向き、
わたしが死へと追いやられる、それはどこか、火で殺されるような印象だった。

それから、それと同じ夢のなかで、別のシーン。

これは、わたしが以前、アルバイトをしていたところが舞台で、
その頃の上司も登場していた。わたしはその頃と同じ社員代行として
その夢のなかでも、えらそうに振舞っていた。

接客の仕事でシフトが組まれている。
どうしても勤務の都合で、人が少ない時間帯が生じる。
そこには、社員代行の立場のわたしが率先してフォローしなければならないが、
わたしはわざと手伝いに行かないで、社員がそこのフォローに入っている。
わたしに入って欲しい雰囲気は出しているが、わたしはわかっているけれど、
手伝いに行かない。

その場面は、気がつくと、上司だったその社員の姿は、わたしの父になっていて、
上司なのか、父なのか、よくわからなくなる。ただ、父であろうとわたしの態度は変わらず、
父がわたしにどうしてほしいのかはわかっているけれど、
わたしは手伝いに行かない。

目が覚めてから、ようやく父が出てきたな、と思いながらも、
妙に気になる夢でありながらも、よくわからない夢だった。

この夢のことを意識して、随分時間が経ったときに、
父に対して、こういう思いをわたしは抱いていたことを思い出した。

「パパの言っていることはわかるけど、
パパの思い通りにはさせないよ」

父に対してわたしはこんな気持ちを抱いていたんだった、と
ふいに思い出した。感覚的な記憶で、つかもうとすると消えてしまう。
ただ思うのは、父が「こうなんだよねぇ。人間っていうのはさ・・・」と話すのを
どこかわたしは、「そうだよねぇ。わかるよ、パパがそう思っているのは。
でもね、そう上手くはいかないんだよね」と、愛想笑いはしながらも、
非常に冷たい目で見据えている、そんな自分がいたような気がする。

それから、
「これは、父の母親、父、わたし、と連鎖している」
と、はっと思った。

「あなたの言いたいことはわかるけど、思い通りにはさせないよ」

これが連鎖している、と感じた。
その夢のなかでも、父の母親は、自分の息子である父が
何を言いたいのかはわかっていた、だけれど、
無視したのだ。

思い通りにはさせまい、としたのではないか。

父の兄のことだが、確かに母親に目をかけられて
父に向ける関心よりはるかに多くを受けてきたに違いない。
だが、ふと思ったのは、父の兄ははたして思い通りの人生を歩めたのか?
これはわからないが、憶測だが、そうではなかったのではないだろうか。
わたしが知っている父の兄(長男)は、新しいもの好きで、音楽やパソコン、
とりあえず、いろいろな分野の新しいものが大好きな人だった、という記憶がある。

でも、結局は、I商店という祖母の城を守るために、
祖母が亡くなるまで、一歩も外の世界に出ることはなかった。
祖母が亡くなってしばらくして、I商店はつぶれた。と思っていたが、
あれは、父の兄がつぶした、のではないか、と今になっては思う。
ようやく、外の世界に出られるのだから。店なんてやってられっかよ、
まさにそんな感じで、兄の子どもたちがひきこもっていられるような
フランチャイズ経営に乗り出して、空いている土地を駐車場にして、
ビルのテナント料で十分やっていける、と、実際、経営はどうなっているかは
知らないけれど、余生を過ごしている(と思う)。

父の父親も、地方からそれこそ父の母親のところに
滅私奉公に来たような人で、社長とは名ばかりで、
実権は父の母親が握っていたに違いない。
社長という柱にくくりつけられた人、そんなイメージがある。

父の話だけを聞いていると、自分だけが不自由な思いをしてきて、
父の兄も妹もみんないい思いをしてきたかのように話すのだけれど、
それは父の偏見だろう。

誰にも自由など与えなかったのが、
父の母親だったのではないか。

父の理解はこうだ。

自分の母親は自分の気持ちを本当はわかってくれているはず、
と思っている、というか、思えないのだけれど、そう思いたくて
母親たる者の幻想をつくりあげたのだから、まさか、
「わかっているけど、あんたの思い通りにはさせないよ」などと
母親が思っているとは、想像したこともないだろう。

憶測だけれど、この、
「あなたの言いたいことはわかるけど、思い通りにはさせないよ」という連鎖は、
父親家系の、その前はわからないがおそらく、この毒祖母にあるのではないか、
と思っている。

父もそういう人間だった。

「わかるよ。うんうん、わかるわかる。」

と言うのだけれど、「でもね」が続くような展開になるのだ。
「そう思い通りにはいかない」と口に出さずとも、父の顔はいつも
まるでそう言っているかのようなのだ。

今月の半ば頃にも、以前のアルバイト先の夢を見た。
アルバイトの先輩が登場し、わたしはその先輩と話をしている。
夢から覚めてその時感じていた気持ちを言葉にすると、それはお互いに
「だまされまい」という駆け引きだった。
現実に、当時、そう意識したことはなかったけれど、あれは話し合っていたのではなく、
だまされまいとしていたのだ、と、この夢で気づかされた。
だまされまいとは、「思い通りにはさせまい」という気持ちだ。

わたし自身のことを、先日の夢からあれこれ考えてみると、
見事に、誰に対しても、「あなたの言っていることはわかるけど、
思い通りにはさせないよ」と思って接していることに気づいた。
父に対してだけじゃない。Pさんに対してもそうだった。
仕事の場でもそうだし、とりあえず、誰に対してもそうなのだ。

それと同時に、わたしは、それを言われることを
恐れていることに気づいた。

「あなたの言っていることはわかるけど、思い通りにはさせないよ」

これはどういうことかというと、

「いくら顔色をうかがっても、ダメなときはダメだよ」

ということだ。おそらく父が父の母から植え付けられた恐怖は、
どんなに顔色をうかがい、忠誠を誓い、媚びへつらっても、
「わたしがダメと言ったら、ダメなんだ」
それはつまり、

「殺すときは、殺す」

という、そういう恐怖だったのではないか。

わたしのなかにある恐怖は、これに近い。
どこかで、顔色をうかがったところでダメだ、という
完全に降伏した状態にある。

これは、顔色をうかがい、必死に泣くまいとしたのに、
それでも殺された、という感覚に近い。
従っても殺されるときは、殺される。
こういう感覚がわたしのなかにあるのだ。

ふと、こんな映像がよみがえった。
記憶違いかもしれず、妄想かもしれないが、
父ならばやりかねないことだ。
子どもの腕をもって、ライターの火を近づける。
実際にはやらないのだが、顔は、あの真顔だ。
こうなると、どんなに謝っても無駄だ、という感覚。
それでもやめたとすれば、父の気が変わったからだ、
と考える以外ほかにない、という感覚がある。

それでも顔色をうかがうしかない、生き延びるには
これしか方法はない。しかし、それも確実ではない。
これほど不条理なことはあるだろうか。
これほど人を無力にさせるものはあるだろうか。

何もしたくない。

何もしたくない、というのは、
どうとでもしてくれ、という、人間としてありえない、
そんな状態なのだ。

だけれど、この状態にいると、
これ以外の反応が起こらなくなる。

それでも、たったひとつ、起こることがある。

掘ろう、という意思。
これだけは、かろうじて見つけることができる。


・・・


もうひとつ、掘っていきたいのは、
父は、しかたなく生きてきたのだ、ということ。

父の話をきいていると、
死なないために生きている、と言っているのと同じだ。
食わないと死んでしまうから生きているらしい。
食わないとしかたがない、って、まるで、生きたくないのに
生かされているかのようだ。

でもそれは嘘じゃないのだ。

死んだほうがマシな生を、父は生きてきたのだ。
しかたがないから息している、生きるためにしかたないから息している、
そんなのおかしいよ。

生きようとして、皆生物は、必死に息をしているんじゃないのか。
生きたいと思うから、食べていこう、仕事をしていこう、自立したい、
そうやって、これからを生きていくために、生きようとしてやっているんじゃないのか。

死んだほうがマシな生とは、それこそ、死だ。
ならば、父は、死ぬために食っている、死ぬために仕事をしてきたのと同じことだ。
生きていくためにはしかたがない、と口では父は言うけれど、
生きようとしていないじゃないか。

わたしは自立したい。

それが父、あなたと違うところだ。
当然、母とも違う。
Pさんとも違う。

自立する気のない人たちとは交差しえない。

しかたがない、と言って生きている人は、
自分の生を生きていない人だ。

したくない仕事、やるべき仕事、
そんな区別は、そういう人には、本当は、ない。
どちらも「しかたなしに」やっているんだから。

仕事だけじゃない。

生そのものがそうなんだ。
しかたなしに生きている生、それしかない。

相手の顔色や反応次第で、これは自分のやるべきことだ、
正しいことなんだ、これでいいんだ、と一時的に思えるだけのこと、
ほんの一時的に「しかたない感覚」が麻痺しているだけのことであって、
全部とっぱらえば、しかたなく生きている自分、しか残らない。

それは、何もしたくない、というのと同じなんだ。

終わらせたい、というふうに、なんでも閉じていくほうに
わたしがもっていこうとするのは、もう何もしたくない、
と言っているのと同じことなんだ。

これでいいでしょ。もうこれでいいよね。
まだやらなきゃいけないの。いつまでやらなければいけないの。

ならば、早く死ねよ。

自分でもそう言いたくなる。
死んだほうがマシだ、という生を甘んじて送っているのなら、
文句言っている暇があるのなら、早く死ねばいいんだ。

生きようとする、生きたいと思う、
そういう魂だけが生きる資格があるんじゃないのか?


わたしは自立したい。



2014.10.29
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-29 03:56 | 復元ノート 1

泣くことを禁じた家族であった可能性の考察

「生きようとしてみろ」

父がほくそえむのが見える気がした。

父はわたしが生きようとし、もがくのを見たいのだ。
ざまあみろと言いたいのだ。
兄に言えなかった分を、当然の権利であるかのように
子どもだったわたしに言い、快楽ですらあっただろう。

父は命というものを、なんとも思っていない。
あの人は、子どもを殺すことも、なんとも思っていないだろう。
これは記憶違いかもしれないが、先日、こんなイメージが脳裏に
夢の映像を見るように浮かんできた。

わたしではないかもしれない。妹だろうか?
泣き喚き、嗚咽している子の口と鼻を片手でふさいで
それをわたしは見せつけられている。
まるで、殺人現場を目撃するかのようなシーンだ。
口と鼻もふさがれて、目だけが恐ろしく死にたくないと訴えている。

父はそのとき、なんとも読めない表情で、しかし薄笑いしている。
見せしめるようにして笑っているのも気味が悪いが、このなんとも読めない顔は
人を殺すのをなんとも思っていない、いっさいの許しの余地を与えないもの、
つまり、殺そうとしている者の顔なのだ。

不快年表で最初の記憶として書いたのは、年齢は正確にわからないが
3歳とか4歳とか、おそらくかなり古い記憶だろうと思ったので、一番に書いた。
「何かを思い出せなくて、泣いて、それで父に抱っこをしてもらっている」記憶だ。

これに関しては、よくわからない部分が多かった。
なぜ、これほど不快と記憶しているほどに、なにがそんなに嫌だったのか、
それほど思い出せなかったことが嫌なことって何だろうか?
それにしても、あの父が抱っこしてあやしてくれている、というのも、どこかへんな話だ
と思っていた。

それで、先日、はた、と思ったのは、それはわたしの思い違いで、
わたしが不快だったのは、父がそのとき、何かしたからではないか?
具体的には思い出せないのだが、こういうことをあの父なら言ったに違いない
というセリフが浮かんできた。

「泣いたってしょうがない」

なんていっても、あの父は、子どもを自分の話を聞かせる道具、
「聞く人形」としか思っていないから、覚えてはいないけれども、
幼い子相手にこんな説教をしたとしても、なんらおかしくない。

「人間は忘れる動物。人間、忘れるからいいんだよー。
ぜんぶ覚えててごらん?辛くてしかたないから(ここで父は苦笑い)。
嫌なこと忘れるから、生きていける。どう?(ここで父はニコリ)、
泣いてスッキリっしょ!(スッキリするわけがないからわたしは泣き続ける
・・・するとここからだ)・・・もう泣かない(←ここで少し怖い顔になる)。
泣いたってしょうがないんだから。もう泣くのやめなさい。
(←ここで、真顔。次の瞬間、あの不気味なニヤリで、にこっ~とし、
次の瞬間、さあ、と言う時に、また、真顔)。」

先日、こうノートに書いてみた時、この真顔が、つまり「不機嫌な顔」として
わたしが記憶している、実は、父の「普段の顔」だったのではないか、と思った。
それで今新たに思うのは、この顔が、殺人者の顔だったのではないか、ということ。

それで彼の普段の顔とは、どういうことかというと、
「父親の顔、でない顔」ということだ、と思った。

先日、幼い頃のVTRを見かえしてみたときに、
父と母を見て、「こんなに不機嫌な人たちだったろうか」と認識を新たにした。
それでどういうときに彼らが不機嫌になったかを思い出してみると、
父が父親であれない時、母が母親であれない時、不機嫌だったことに気づいた。
それでわたしは気遣ったのだ。

父が父親の顔であれるように、母が母親の顔であれるように、と。
これがわたしが記憶に残してきた「理想の父」と「理想の母」、
理想の顔だったのだ。

泣く、という行為に対して、母は言わないが、
相当な嫌悪を持って子どもに接しただろうことは、
今までのことからも想像はつく。

母の心の傷は、泣いても自分の母親に振り向いてもらえず、
振り向いてほしいという期待を、余すところなく、粉々に打ち砕かれたことだったろう。
「子どもは好きじゃなかった。でも、生まれちゃったからどうしようって
感じだったわよ」と子どもに平然と話す親だ。平然どころか、大変だったのよ、
育ててあげたのよ嫌だったけど、という恩着せがましい感じを出しまくっている。
泣いても無駄だ、と母親に言われ、母親を恨んでいるような母が、子どもが泣くのを、
特にわたしは夜泣きも酷かったらしいから、それを母が冷静に対処できるとは思えない。
殺意を持ってもおかしくないだろう。自分は母親に殺されたのだから。

ふと思うあの親たちの異常さは、平気でこう言いそうなのだ。

「殺さなかったじゃないか。なのに感謝の気持ちを忘れるとはどういうことだ?」
そう本気で思っている人たちなのだ。彼らにとっては、殺してしかるべき存在、
それを生かしてやったじゃないか、と本気でそう思っているだろうな、と、
実の子であるわたしが、違和感なく思えてしまう。

一方、父だが、「Abyはよく泣いたよ。ほんと、よく泣いた。大変だったけど、
子どもから教わることばかりだった」とそんな感じの父の記憶だったから、
まんまと容疑者からも逃してしまってきたけれど、この「泣く」ということに関して、
父は、もしかしたら母以上に、何かやったのではないか、という疑いが出てきた。

父こそ、泣くことを、許さなかったのではないか?
逆にいえば、父は、幼少期、泣くことを許されなかったのだと思う。
父がよく言っていたのは、「泣いていいのは親が死ぬときだけ」。
もしかして、と思ったのは、あながちこれは美しいことを言っていたのでなく、
本当のことで、つまり、父は親の前で泣けなかった、ということだったのではないだろうか?

それはかんぐりすぎではないのではないか、と思うのは、
今まで思い出してきた父の格言というのは、ただかっこいいから、
かっこうをつけたいからと名言ぶっていることは無かった、ということだ。
そこを否定されると、自分の存在意義に関わることを集めたのが、
父の格言集だったわけだから。

もうひとつ、これも記憶違いかもしれないが、ぼんやりとこんな映像が
浮かんできた。今度は弟だろうか?泣いている。
父は言う。「あぁー、うるせーうるせー」。この時の顔だ。
あの目と、あの歪んだ口の形。

随分前にブログで父に対して「お前何様だよ」とめった刺しにしたくなった
気持ちを書いたことがあったが、その時に浮かぶ顔が、この顔なんだ。
そして、この顔は、とくに最近、わたしは「これが父の顔だ」として
思い起こされる顔だ。あのいい親づらした父親像は浮かんでこなくなっている。
この真顔、不機嫌な顔、殺人者の顔、こっちこそ殺してやりたくなる顔。
これが、普段の父の顔だ。

わたしはこの父の顔を見たくなかったから、この顔にしないように
努めたのだろう。母はおそらくだが、その練習台だ。というか、母が
練習をさせたのだ。母の保身のために。

父を不機嫌にさせることは、母にとって恐怖だったからだ。
父は父自身だけじゃない。母が「母親」の役目をまっとうしていないと許さなかった。
育児放棄だと、彼の基準で母を追いつめた。それは、今までもわたしのせいで
母が怒られてしまい、母は友人と会えなくなったり、友人の家に行けなくなってしまった、と
わたしが思いこんでいる出来事からもわかることだ。

母にとって「母親」であること、それは「父の母親のようであること」が、
おそらく夫である父からの暴力を避ける方法だったのだと思う。
だからわたしは、母が「母親であれるよう」気遣ったのだ。
具体的には、母の機嫌がよくなるように、いつも気遣っていた、
ということになる。

この練習、母の躾の一番である「目つき、態度、言葉づかい」とは、
わたしの目つき、わたしの態度、わたしの言葉づかい、のように見せかけて、
母のそれらをよく見なさい、ということだったわけであり、この成果は、
父との間でも発揮される。父が「父親であれるように」わたしは気遣った。

正直、気遣った記憶や自覚は出てこない。が、わたしの中にあなたたちの顔が
普段のあなたたちの「不機嫌な顔」ではなく、まるでその下絵の上に下絵が
見えなくなるほどに上塗りされた「理想の母親の顔」「理想の父親の顔」に
上書き保存されていた、という事実、これも、この事実それ自体が、
「わたしが気遣っていた」という証拠なのだ。そして、このAC人格こそ、
上官の顔色を気にしながら、上官が上官であれるように、それはわたしが
優秀な部下、優秀な軍人、優秀な召使い、優秀な奴隷であるように、
わたしが自分でそうしてきてしまった証拠でもある。

生まれてすぐの頃、Abyはよく泣いた、と二人は言うけれど、一方で、
子どもの頃はAbyは泣かなかった、とも言う。わたしの記憶では、
わたしはまず泣いたことがない、といっていい。泣いたと言える記憶は、
たった二度だ。その不快年表の最初の記憶と、それと同時期に、母に叱られ、
レッドタイガーのお面を破られたときだけだ。

泣きながらセロハンテープでお面をはりあわせる。
それでも元には戻らないと、そう思いながらはりあわせる子どもの気持ちが、
どれほどのものか、母にわかるだろうか。

元に戻らないのだ・・・
壊れてしまったのだ・・・

それを親であるあなたが子どものわたしにやる、これがどんなことなのか、
どれほどの無力感を与えるか。

わたしはこう思ったに違いない。

「泣いてもしょうがない。泣いても元に戻らない」

泣くのを我慢する子の顔。父の顔、母の顔、実はいつも不機嫌そうなあの顔とは、
泣きたいのに我慢している顔のようだ。涙が溜まりに溜まってよどんで顔面の内で腐り、
ぐちゅぐちゅになってむくれ、目や鼻や口という隙間という隙間から膿として出てきてしまっている、
そんな顔、しみったれた顔、恨みでいっぱいの顔。

これが、いつもの、本当の、
あの人たちの顔だったのだ。

VTRのわたしは10歳頃だろうけど、もう、それと同じ顔になっている。
この家族の人たちは、自然に笑っている、ということがまったくない。
「今から笑いますよ」と心しないと笑顔を作れていない。それもそうだ。
笑いたかないんだから。みんな、本当はそう思っていたはずだ。

たぶん、泣くことが自然にできない家族は、笑うことも自然にできないのだろう。
泣きたいのに泣けない、その状態で、人は笑うことはできるものだろうか?
それをやろうとすると、目を安定させようと無理に見開き、
無理に口角をあげようとするものだから、へんに前歯を見せるように上唇をあげるような形になるし、
その作り笑顔の特徴は、もって数秒なのだ。それをこえて笑顔を維持することは、
泣きたいのに泣けない状態では、おそらく、困難なのだろうと思う。
数秒もしないうちに、ゆらゆら不安定になり、その顔をやめざるをえなくなる。
こういう笑い方が、家族全員の特徴になっている。

泣くことを禁じた家族、

そんな感じだ。

泣くことと、生き死にの問題が、おそらく直結している。
泣くことは、殺されること。

生きようとしてみろ、

泣くな、

殺すぞ、

殺すぞ、というよりも、おそらく父がやりたかったのは、

「生きようとしてみろ」

のほうだ、という気がする。ここがとても今回ひっかかっている。

昨日、そのことを考えていたときに、
拷問のことが、ふとよぎった。

拷問の何が怖いか、というと、苦しんでいる人間を「見ているやつ」がいて、
「生きようとしてみろ」と薄笑いを浮かべている、この屈辱的状態を
わたしはいつも想像して、恐怖を感じている。

こういうシーンをわたしはなんとなく想像してしまい、また、実際、
こんなことがあったら耐えられない、と恐怖していたのだが、
考えてもいなかったのだが、わたしは拷問を実際受けてきたのではないか?
苦しんでいるのを見て、生きようとしてみろと薄笑いを浮かべていた処刑者とは、
まさに、それが、父だったのではないだろうか。



2014.10.25
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-25 18:28 | 復元ノート 1

何もしたくない、なんてことは、ない

「何もやりたくない」

この自分の気持ちに、切り込んでいく必要がある。

何もかも、しかたがないからやっているんだ、
本当は、何もやりたくない。

すべてのことを心の中で、本当は、こう思っている。
「だから何なの?」って。

それでだから何なんだろう、どうでもいいよ、って。
そうしたからどうなるというのだろう?
そうしなかったらどうなるというのだろう?

この、すごい末期の病人の自分は、いったい何なんだろう。

いつも考えてばかりいて、いつも行き着く先は同じだ。
「これでいいのか、正しいのか」の確認、確認、確認。

こればかりなんだ。これがすべて、わたしがやっていることの全部で、
やりたくない仕事を延々とやらされているようで、
もう嫌なんだ。

「何ももうしたくない」という声は、ここからもれてくる。

自分のやっていること、やることがどうして
正しくなければならないのか?まったくわからない。
だけれど、そんなことをいうと、こう言ってくるんだ。

「じゃあ、何もできないじゃん」と。

正しいと思えないと、何もできない。
だって、それじゃあ、ただ目茶苦茶じゃないか、って。

正しさを求め、それにしがみつこうとしているうちは、
何とかその正しいと思われるものにしがみつき、
自分がやっていることは正しいんだ、と思いこもうとしているから
本当は思いこめず苦しくても、進路を見失っていないと思っていられる。

でも、正しさが基準でないのなら、
わたしは何を基準に言動の判断をすればいいのか、
まったくわからない。

しかも正しさは、自分では判断ができない。
判断ができないから、誰かに決めてもらう。
その誰かの「指示」が、わたしにとって「正しさ」なのだ。

昨日、こんなことにも今まで気がついていなかったのか、と思ったことがあった。
わたしの軍人のような対人関係は、恐怖があるときにだけ
そういう対応になったり、コミュニケーションになったりするのだと思っていたが、
ぜんぜん違っていた。この事実誤認には唖然とした。

恐怖がそこにあろうとなかろうと、
わたしは、つねに、軍人だったんだ、と。
誰に対しても、「軍人」さながらの存在だったのだ、と。

あなたの言っている考えていることは、こういうことですよね、と
自分が相手の考えや気持ちを理解していることを「示そうとする」ことか、
あるいは、自分から言いたいことがあるときは、これでいいですか、
こうしていいですか、と相手に「許可をもらおうとする」こと、
この二種類しかない。

これはわかっているつもりだったが、つもりだったんだな、と思った。
見事に、わたしは、この対応の仕方、話し方しかできない人間を
ずっとやってきたことに、今さら、気づいた。

どういうことかというと、わたしは好んで、こういう対応をしていると思っていたのだ。
好きでやっていて、上手くもいっている。
誰からも求められていて、評価されている。これでいいんだ、
どうも話の輪に入れないときがあるけれど、みんなのような話をわざわざする必要なんて
僕には必要がない。みんなの話なんてくだらない。

そう思ってきた。いかにも、自分のほうに会話の選択の余地があるかのように思ってきた。
ぜんぜんそれが違っていた。やろうにもやれない、できないのだ。

「忠誠心を示すこと」
「許可をもらおうとすること」

これしか、わたしは誰に対してもやれていなかったのだ。
たとえ1歳相手の子ども相手であってもそうであり、Pさんにもそうであり、
初対面の人にもそうであり、怖がっている人に対してもそうであり、
怖がっていない人にもそうであり・・・

みんなに対して、上官に従う軍人、をやっている。

こういう軍人が、まるで自分は正常で、あたかもまわりの人が病気だと
勘違いする環境とは何か。理屈からも、わたしの今までの現実からも明白なのは、
「上官になりたい人」のそばに、わたしが寄っていった、だけなのだ。
そこでは、わたしはほぼ完璧に振舞えたからだ。

上官になりたい人、とは、要は、
自分の思い通りに好き勝手にやりたい人である。
道をあけろ、何か言うときはオレがいいと言ったら話していい、
勝手なことはするな、オレの邪魔をするやつは許さない、という
目茶苦茶なやつであり、Pさんはまったくそれそのものである。

Pさんだけじゃない。最悪なのは、最後には、わたしはそういう
上官役を相手にさせる、ということをしてまで、自分の居場所を確保した。
「自由にやっていいよ」と、わたしの言う自由とは、
「上官役やっていいんだよ」と、相手に言ってあげて、
わたしが召使役をやってあげること。
ここでしかできないかもしれないけれど、あなたがこういう世界、
こういうわたしに出会えたことは、ほんの短い間だったとしても
あなたにとって幸せな体験だったろうし、わたしも楽しかったよ・・・

書いてみるとよくわかる。
気持ち悪い、というレベルでなく、もはやヘンタイだ。

自分のいるべき所じゃない、と逃げていつも行く先は
そういう世界だった。一切の苦痛がなく、そこは理想的に思える世界。
わたしの育った家庭しかり、Pさんとの仕事と生活しかり、内職しかり、
わたしが選んで従事したアルバイトしかり、どこも理想的に感じていて、
わたしは本気で、自分は恵まれている、と思っていた。

わたしは軍人としての成功体験を重ねすぎた。
実際、AC人格としてのその軍人は、成功してきたのだ。

なぜ、コイツがAC人格なのか、
それに気づいたのが、自我復元と出会ってから今日に至るまで
わたしが人生ではじめて自覚した「恐怖」ゆえだった。
あらためて、このことを思った。

「恐怖」が、この対人関係のパターンを作り出しているのだ、と。

恐怖のなかにあっては、これ以外の、いわゆる「普通」の会話や接し方が
まったくできない、どうやっても、このパターン、「忠誠心を示すこと」か、
「許可をもらおうとすること」、これ以外に取れない。
そうでない振る舞いをいくら必死に取り繕っても、取り繕っていることを
自分に誤魔化し抜くことはできない。嘘は、いつまでも嘘だからだ。

こういう二つのパターンになってしまうのは、
「怖いからそうなってしまうんだ」、と思っていた。

怖くなければ、もっと普通にいられるのに、と思った。
それがとんだ思い違いだったのだ。
恐怖がそのパターンを作り出したからといって、恐怖がなければ
このパターンでない自分であれるにきまっている、ということなど、
そんなのは、現実に、どこにも、無かったのだ。

怖くなくても、わたしはこのパターンしかできない軍人であり、
365日どこにいようが誰といようが、軍人というAC人格だった、ということに気づき、
こんなことにも気づいていなかったのか、と唖然とした。

恐怖が、このパターンをつくっていたことにも気づいていなかった上に、
恐怖を感じない日常の場面であっても、このパターン以外の言動をわたしはとれない、
ということにも気づいていなかったのだ。

そして重要なことは、この軍人を軍人たらしめるのに、
一度恐怖を植えつけておけば、わざわざ手をかけて脅さなくても
勝手に、軍人を自ら率先してやる、一生やり続けるということだ。

一度、「なに、逆らってんだよ」と顔色を曇らせ、
「なに、勝手にやってんだよ」と背中をド突けば、後は、飴を与えておけばいい。
たちが悪いのは、「たち」なんてもんじゃない、犯罪そのものなのは、
ここに苦痛が、どこ探しても、見つからないことだ。

ただ、その苦痛を与える方法がある。
それが恐怖を与え続けることなのだ。

簡単なことだ。

あのパターンをもっと過敏に、もっと神経質に、
もっともっとやらないとダメだ、と、これでもかこれでもかとやらすように
恐怖を与え続ければいい。いくらやっても、飴を与えなければいい。
あるいは適当に与えては、調子にのるなよ、と脅せばいい。
「あんた、やってること、間違ってるよ」とささやけばよく、
それを繰り返すなり、見せしめるなりすれば、ささやかなくとも
そう言われているんじゃないだろうか、と勝手に妄想をふくらませるから、
どんどん雪だるま式に恐怖は増大し、
強迫的に任務をこなそうと血眼になる。

なぜか。これしか、抜け道を知らないからだ。
軍人の生き延び方は、これしかない、と思いこんでいる。

「何もやりたくない」

もう何もやりたくない、とわたしが思い、
何でもよくなって、恐怖すらも麻痺しはじめ、殺されるのが何が怖いんだろう、
抹殺され、消されるのが何が怖いんだろう、怖いって何だろう、
こうやって、血の通わない人形のようになるとき、
生きているとは到底自分でも思えないとき、
もう、何もしたくなくなる。

いや、最初から何もしたくなかったのだ、と
そう思っていたことを思い出す。
何もしたくないのに、作り真剣顔、作り本気顔、作り正直顔をしている自分。
嘘ばっかりじゃないか。不毛と知って頑張ることほど不毛なものはない。
「しかたがない」とは、不毛だ、と言っているのと変わらない。

「何もしたくない」

ここに追いつめたのは、何も思い出せないけれども
絶対に毒親たちに違いない。悔しいのは、思い出せないことだ。
恐怖の下味を、いつ、どうやって、きっとあの毒父が植えつけただろうが、
その犯行の現場の記憶が、ぜんぜん出てこない。
出てこないが、「親の言うことは絶対だ」と妄信しているカルトな父、また、
その父からそれを洗脳された信者が母なのだから、何もしないわけがない。

わたしの育った家庭が「理想の家庭だった」と疑うことがなかったという事実、
それ自体が、すなわち、あなたたちが、わたしを軍人として、召使いとして、奴隷として
利用してきたことの揺るぎない証拠なのだ。

じゃあ、誰がそういうわたしへと調教したのか、
親以外誰がいるんだよ。親以外、誰が得するのか、という話だ。
子どもを軍人に仕立てあげて得をする存在は、子どもの利用価値からして、
この時代、この日本で、少なくとも成人するまでの期間、あなたたち親以外、
誰がいるというのだろうか。

この、何もしたくない、という感覚は、
軍人が軍人としての任務も放棄するほどに、
追いつめられた末の末期症状のようなものだ。

昨日、この状態に完全に陥った。

そして、この「何もしたくない」状態は、
わたしにとって何も珍しいものではなく、ただそれを口にせず顔に出さないように
しようとしているだけで、いつも、そういう心が折れた状態であることを知っている。
何もしたくないけれども、しかたないから、しているのだ。

軍人をやめられずに、やっている。しかたなしに。

でも、何がしかたがないのだろうか。
なんでしかたがないのだろう?

そう考えていくと、やはり、わたしは正しくあるためには
しかたがない、となるのだ。
正しいとは何かといえば、上官の指示に従い、許可を得ること、
これが正しい、とわたしは思いこんでいる。
その証拠に、「OK」と一言言われれば、「済んでしまうような」
言ってみれば、それほどに「重みがまるで無い、空虚な」正しさなのだ。

それで満足してしまう。
本当に満足してしまうから、だから、おかしいのだ。
あれほど自分で考え悩み、これでいいのかどうかと考えるような事も
上官のOK、たった一秒で解決したと思い、NOと言われたら言われたで
NOが正解だったのだと、たった一秒で解決したと思えてしまう、
そんな馬鹿な話、そんな程度の正しさがどこにあるのだろうか?

どうしてこうなるのか考えてみると、
そもそも、これでいいのかなど、これが正しいのかなど、
わたしが決められるわけがないのに悶々と悩んでいるということだ。
なぜ決められないか、というと、実は、正しさの基準は最初からわたしが
「相手にある」としているからなのだ。

ただそれに気づかずに、悶々といかにも自分の頭で考えているかのように
思いこんでしまうのは、わたしの頭のなかに寄せ集めたパーツが、
本当は相手の顔色をうかがったり、今までの相手の言動から寄せ集めたパーツでしかないのに、
まるで自分の考え方や正誤の基準だと思いこみながらあれこれ考えているからで、
「これでよさそうだ」と思ったとしても、どうしても最後に、「たぶんこれでいいと思うのですが、
これであってますか」というジャッジを、「相手に」してもらう必要がある、という、
まったく、学校のテストの採点のようになってしまっている。

だから、いくらその過程で時間をかけてどう悩もうが、〇となれば「よかった」でおしまい、
×となれば「ダメだった」でこれもおしまい。たったこの一瞬のために、その採点者の
顔色をうかがい続けることが、どれだけ不毛と感じていても、やめることができない。
いくら強がっても、これでいい、と自分で思うことができない自分が消えないから、
どうしても他者の承認を求めようとしてしまう。

でも、それは当然で、これでいい、正しい、というジャッジは、
わたしがいかに軍人として適正な言動をとっているかどうか、なのだから、
必然的に上官の存在を必要としてしまうのは当然なことなのだ。

そこで思うのは、やはり、なぜ正しくなければならないのだろう、
ということなのだけれど、これがさっぱりわからない。
正しさの基準を上官に求めていることから考えると、
正しいと言われる言動をとらないと「上官に殺されるから」正しくあろうとし、
それが強迫観念になるのだろう。

毒親にこの恐怖を与えられた、という記憶は
なぜ、消えているのだろう?まるで放射能のようだ。
実害だけは確かにある。

でもわかったことは、命乞いするような恐怖を与えずして、
ああいったパターンの対人関係は生まれず、身につけたりしない、ということだ。
だとすれば、まず、恐怖があった、ということなのだ。
恐怖を感じると、軍人パターンに陥るのではなく、
軍人パターンしかできないのは、恐怖によってそれが作られたからなのだ。
恐怖に屈したから、軍人というAC人格になったのだ。
でなければ、誰が、あんな自分に何のメリットもない他者関係を
好き好んで身につけようとするだろうか?あんな気持ち悪い世界、
どう考えても健全じゃない。だから、友だちとの会話にもまざれなかったのだし、
今でもまったくまざれない。

先週、稽古後、更衣室でぜんぜん会話に入れない自分を、はじめて
惨めだと思った。黙って着替えて、逃げるように更衣室を出ていく自分が惨めだった。

「何もしたくない」

この病的状態は、憶測だが、毒親からの恐怖に対して
どうしていいのかわからず、それでも、顔色をうかがい、許可を求め、
それでも止められない恐怖に屈し、主体性を完全に放棄した時に認めてしまった感覚が、
この「何もしたくない」であり、毒親に降伏を認めたときのその感覚を、わたしはずっと
抱えながら生きてきたのではないだろうか。

「何もしたくない」

これは病気だ。だけれど、ここからしか軌道修正はできない。
自分を裏切らないためには、自分を裏切ったところから、次こそは
自分を裏切らない方向に舵をきりなおさなければならない。

何もしたくないのなら、しなければいい。
軍人の真似事など、もうしなければいい。
怖くてもするな。何もしたくないと言いながらしかたないからと
父のように力なく自分の母親の言いなりなるような真似はするな。
だけれど、何もしたくないといって、主体性を手放し、腹を敵に見せるように
ぼけーっと寝転がるのもやめろ。そんなこと、わたしがやることじゃないだろ。
何もしたくない、と思うのなら、何もしたくないなどとバカなことを言っている軍人AC人格を殺せよ。

「何もしたくない」

これが本心なんだ、これが自分なんだ、だから消えたいんだ、
と言っていたのが、去年の5月の初回判定依頼のときのわたしで、
今もまだ、何もしたくない、なんて言ってしまっているけれど、だけれど今は、
消えたくないんだよ。

「何もしたくない、なんてことは、ない」

弱い声だけれど、だからわたしは掘ることをやめないんだ。



2014.10.24
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-24 04:24 | 復元ノート 1

(後半)父の洗脳から抜けること

『(前半)父の洗脳から抜けること』の続きです。


・・・


父はこの自身の不満を誤魔化そうとした。

二度目の誤魔化しだ。一度目は、お母さんにわかってほしい気持ちから目をつぶり、
二度目は、その気持ちから目をつぶるために魂を売った仕事観にもかかわらず、
それも直視できず、「仕事の価値」を捏造した。

その捏造が、わたしに感染した「自分しかできないやるべき価値のある仕事」という矛盾だ。
仕事には二種類ある、という嘘。よくそういう矛盾する嘘を、堂々と言ってやってのけたものだ。
金のための仕事と、本来自分がやるべき仕事。父の場合、これが同じI商店で展開した。
死んだような目の「本当のあなた」と、本来自分がやるべき天職としての仕事なんだと生き生きと
語るように見せかけた演技の「嘘のあなた」だ。

わたしは、後者の父を信じてきた。すりこまれてきた。
「仕事なんてしたくない」という気持ちは、自分にも「あったことは」知っていた。
でも、それが仕事観だとは思わなかった。だって、それはわたしにとって「仕事じゃなかったから」。
いつか、いつの日か、自分しかできない、特別な役割としての〝仕事〟というものがある、
ずっとそう信じてきたから。

そして、その夢がPさんとの出会いで「叶った」と思ったのだ。
Pさんとの共同作業は、わたしの夢として、これだ、と思うのに十分なものだった。
これがわたしの〝仕事〟だ、と。でも、今になって、はっと目が覚めたときに、
幻想のその〝仕事〟たるや、Pさんとの関係を続けるための理由、これこれこういうすごい
価値があるから、一緒にやろうよPさん、というだけの「捏造された理由」だったじゃないか。

それは今から4年前、内職をはじめたとき、これが表面化した。
もちろん、これ自体に無自覚だったので、随分掘り進めた後にわかったことだったけれど
内職をはじめた理由は、「毎日を仕事もせず暢気に本を読んで過ごすPさん」に対する苛立ちだった。
わたしはひたすらバイトや仕事をし、お金をかせぎ、それでもPさんはわたしを見てくれない。
それは父がひたすら働いても、何一言も言ってくれない父のお母さんへの思いと重なる。
わたしには、こんな働き方を続けるのは、3年が限界だった。まず、身体がSOSを発信した。
毎週のように熱を出し、毎週のように点滴をうつような月もあり、それでも、Pさんは心配すらしない。
もう耐えられない状況で、今度は、やり方をかえた。それが、内職だった。

今度は、他者がいかにわたしを「社会的評価」を与えるだけの価値があるかを、
Pさんに見せしめる方法に出た。もちろん、これも無自覚にやっていた。
こういう一連のやり方に、わたしが無自覚なのは、そもそも、共同作業というものの目的が
「Pさんにわかってもらいたい」というわたしの依存心にあったという事実から、わたし自身が、
ずっと目をつぶってきたからなのだ。Pさんに認められない、という事実があってはならなかったのだ。
これは、まさに、父と同じ。ここを隠していたし、父もおそらくだが、本人は、隠していることすら、
自覚がないと思う。そして、父もまた、お客さんに「Eさん(父の名前)がすすめてくれたものじゃなきゃ、
オレ、買わないよ」と言ってくれること、また、商店街で父がやっている仕事が表彰されること、
市場でも自分にしかこの値段では卸してくれないんだよ、というこういった「社会的評価」を重ねた。

それは何のためか?

お母さんに、兄でなく、自分をみてほしかったからなのだ。
Eちゃん、今まで気がつかなかったよ。ごめんね。Eちゃんのこと、見てあげてなくて
わるかったね、と、お母さんに、言ってほしかったからなのだ。
なぜ、そうだと手にとるようにわかるかというと、わたしがPさんに抱いた気持ちと同じだからだ。

父は兄を恨んでいたろうから、長男であったわたしを
自分と同じように苦しめてやろう、と淡々と代理復讐のはけ口にしようとしたのは
もはや間違いないだろう。「Abyのことは、見なくても何でもわかる」のは
彼がそのように設定をしたからであり、そう証言しているようなものだ。

つまり、やるべき仕事、などという「捏造された理由」は、
「こんなお金のための仕事なんてしたくない」という自分の気持ちから目をそらすため、
本来の自分はそんな自分じゃないんだと言い逃れるための手段であり、幻想であり、
まったく実体のない、とってつけたものでしかない。

元をたどれば、ふざけんな、と言いたいが、「お母さん、見てよ」という気持ち、
そこからくる恐怖を直視できなかったがゆえに、どんどん、仕事観が歪んでいった、
ということになる。わたしもそうだ。Pさんにわかってほしかった、そこからすべては
スタートしていて、その叶わぬ思いに対して、そう、最近見た夢からまた思ったことだけれど、
わたしがやるべきこと、そして父がやるべきだったことは、そんなPさん、そんな親はいらない、
と見切りをつけるべきだったのだ。好きだった、今も好きだ、それならそれでいい。
でも、いらない親はいらないし、いらないパートナーもいらないのだ。
どんな好きでも、嫌いになる権利や、関わらなくてもいい権利はあるはずだ。
そもそも、父やわたしが利用された気持ちとは、お母さんに対して、あるいはPさんに対して、
「好きだ」という気持ちなんだから。

話はそれてしまうが、その最近見た夢なのだけれど、具体的背景は覚えていないが、わたしがPさんに
酷いことを言ってしまって、その後、もう一度、Pさんの元に戻ったときに、Pさんは傷ついたように
悲しい顔をしていて、その拍子に彼女が笑みを浮かべたとき、わたしの中の罪悪感が堰をきるように
どっと解放され、安心し、それで目を覚ました時に、わたしは思ったのだ。「Pさんと離れたくない」と。

それで思った。わたしはPさんが好きだったし、今も好きなんだと。そしてわたしが気づいたのは、
そういう感情を、Pさんは、そして父の母親は、ずっと利用し続けたのだ、ということだった。
罪悪感を与え、それを最高潮まで高める術を、Pさんたちは知っている。

こんな夢を以前、随分見たことがある。これは以前にブログでもどこかで書いたように思うが、
フィギュア人形のようなものを、これでもかこれでもか、とミンチにして存在自体を消滅させて
しまうほどの攻撃性、暴力性をもって、こなごな、ぐちゃぐちゃにする、なんとも後味の悪い夢だ。
わたしは母に反抗したとき、また、Pさんと口論になったとき、それはつきあって初期の頃だけれど、
それは人格をまっこうから否定するほどの攻撃性をもって、わたしは言葉で責めたと思っている。

その夢でわかったことは、そうやって酷いこと言ったときの罪悪感は、そのフィギュア人形を
めためたにした時の罪悪感と似ていて、自分でもうコントロールがきかない。
それで、今回の夢で、ズタズタになりながらも、力なく笑うPさんを見て思ったのは、
「死んでなくて、よかった」「生きていて、よかった」という、ああ、救われた、という安心感、
罪悪感の強い解放感なのだ。

これはもう、他のことはどうでもいいと思ってしまうほどの感覚を引き起こし、自分が最初に
何を思っていたのか、なんで怒っていたのか、何をPさんに主張したかったのか、すっかりわからなく
なってしまうほどの効果がある。それで思ったのだ。彼女たちが利用したのはなんだったか、というと、
Pさんや、お母さんが好きだ、一緒にいたい、というわたしの気持ちなのだ。

Pさんも、父の母親も、わたしや父を「つきはなす」のが目的ではない。
むしろそうでなく、従順に、そばに仕えさすのが目的だ。ここがこういった手口の要になる。
しかし、そうと気づいた今となって、なんでこんな人を好きでなけばならないのか、
嫌いになってもいいのではないか。好き嫌い以前に、酷いことされたこと、なぜそれがわからない?
どんなにわたしがとり乱しても、悲壮な顔はするものの、最後は笑って立ち位置をまったく
変えていないのは、つねにPさんだった。それがPさんにとっては計算通りなのだ。

これに関しては、成人してからのことだが、ある時、父が一度、父の母親に
わたしたち子どもの前で、口で責めたことがあった。その時、父の母親、わたしにとっての
おばあちゃんは、悲しそうな顔で、わめく父をじっと見ている。何も言わないのだ。

せめて言うとしても、「なんでそんなこと言うの・・・」と力なく言うだけで、いかにも被害者のように、
その特徴は、徹底した「無抵抗ぶり」なのだ。まるでフィギュア人形のようで、わめく父の声だけが
宙を漂うような、時間に比例して着々と強まる罪悪感を見せつけられているような感覚。
Pさんもそうだった。彼女は、何も言わず、じっと聞いている。これはわたしにはこたえた。
父もきっとこたえたに違いない。だって、わたしが求めていたのは、「僕の話をきいてよ」という
ことだったからだ。これは、わたしにとって無視と同じだった。コントロールがきかないほどに
とり乱し、相手の人格をズタズタにするようなまで言ってしまう。「あそこまでパパに言わすなよ」と
よく父はそういう言葉を口にしていたが、同じだ。わたしもいつも、「なんであそこまで言わすんだ」
とPさんにあたった。

それと、Pさんがわたしをあおるのに、決定的な毎回の言い方があった。それはわたしに
「もう、わかった」と言って、わたしの話をもう聞きたくない、というときに言う言葉だった。
これは、思い出したのだが、おそらく、わたしの母がよくわたしとの口論で言ってきた言葉だ。
「もう、わかったから」と言う。もちろん、何もわかっていないし、わかろうとなどしておらず、
いかに切り上げるか、それしか伝わってこないセリフだった。ぜんぜん、相手にしてくれない。

そう、ぜんぜん、相手にしてくれなかった。

これに関しても、もう一つ、別の夢を、先日見た。

飛行場のような場面で、わたしがあるゲートから出発する飛行機の席を
わたしとPさんの分を急いで確保したのだが、時間もないそのようなときに、
Pさんは、別のゲートにどんどん入っていこうとする。入っていってしまう。
わたしは追いかけて、「Pさん、Pさん」と言うけれど、どんどん行ってしまう。

Pさんが入っていったゲートで、「あっちの席とったよ」と言っても、まったく
意に介さず、なんだかお化粧などをしていて、まったく聞いていない。
無視している、という悪意すらないような残酷さで、まったく相手にしておらず、
Pさんは自分のやりたいように、着々と何か準備をし、どんどん行ってしまう。
わたしは自分の話をきいてほしい、自分のことを見てほしい、そういう気持ちがあるのだろう、
Pさんに立ち止まって欲しいのだ。「止まって、聞いてよ」と思っていて、どんどん離れていくPさんに
わたしはついて行きたくない。でも、ついて行かなければならない、でもついていきたくない・・・

立ち往生しているとき、わたしは目を覚ました。

夢か、と思ったとき、なら、ついて行かないと突っぱねてやればよかった、と思った。
夢の中でそれが言えず、夢か、なら、と思ったのが情けないと思いつつも、
「ついて行きたくない」それが本音だったんだ、と気づいた。

この夢が気になったのは、Pさんと、わたしの母が、重なり合ったことだ。
あれはPさんだったのか、母だったのか、目を覚ましてからぼんやりわからなくなり、
こういった出来事は、実は、母との間に思い出せないだけで、結構、あったのではないか、と
それが一番気になったことだ。

あの夢は立ち往生した葛藤の場面で目覚めたが、おそらく、現実の世界では、
わたしとわたしと母の間で、「ついていってしまった」、自分が屈した、自分を裏切ってしまった場面が
実際に過去、あったのではないか?と、そう思った。

ここで新たに気づいたことは、母に対しても、とんでもなく違う記憶を持っているのではないか、
ということだった。わたしの母の印象は、記憶では、同じ土俵にたって喧嘩もしてくれた、少々
大人げない母だったけれど、同じ目線で相手にしてくれた、という記憶に「なっている」。
ところが、この夢や、この夢からそういえば、と思い出せる範囲の母との口論での不満感は、

「相手にしてくれない苛立ち」

なのだ。まったく、どうして、こんな逆のイメージになっているのだろう。
ここは今はまだよくわからないのだけれど、これは父が本当は不機嫌だったんだ、と同じくらい、
本当は、母はわたしを相手になどしてくれなかったんだ、という感覚がある。
おそらくだが、ここも、父が何らかの操作をしたように思う。なんといっても、あれだけ母を
妻や女性としてはバカにしているのに、「母親たる者は」という位置づけとしての「母」を、
父は子どもたちに決して悪く言ったことがない。
子どもたちのことをいつもよく見ていた、あれほどの女、母親は、世界にどこにもいない、
ほんと、バケモン、と、そんな具合に、子どもたちにも言い聞かせていた。

いつもにこやかで子どもに優しい父
いつも子どもと同じ目線で渡りあってくれた母

これは、書きかえる必要がある。

いつも不機嫌な父
いつも相手にしてくれない母

なぜわたしが、自分より上に置いた者が不機嫌になると恐怖するのか、
ここもまだわかっていないことだが、まず、父が実はいつも不機嫌だったとすると、
そして、その顔色をうかがっていたとすると、その謎にせまっていけるように思う。
先日思ったことだが、わたしは罰を恐れている、というより、あるいは痛みを恐れているというより、
そういう罰や痛みを「ちらつかせられる」ことに反応しており、つまりそれは、そういう「ちらつかせ」は
相手が不機嫌であることの合図だ、と、どうもわたしは感じて怖がっているようだった。

不機嫌にさせること、不愉快にさせてしまうこと。

相手をこうさせてしまうのはダメだ、こうさせてしまうくらいなら
自分の意見は撤回してもいい、撤回するのはしかたがない、と
自分が思っていることに気づいたときには、結構、びっくりした。
それはしかたない、と当然のように思っていたのだ。

これは相当、強い恐怖感だった。
不愉快にさせてしまうこと、それがそんなにいけないことなのか?
と自問するまでに相当な時間がかかった。それは、自分の意見を撤回するほど、
自分よりも上におく基準なのか?と。

ここは、もっとつめていきたいところだが、
今までどうして自分より上に置いた者の不機嫌や不愉快に
あれほど恐怖するのか検討がつかなかったのだけれど、
父が実は不機嫌が常態であり、その顔色を日々うかがっていたとなると、
この仮想の恐怖の植えつけの主犯は、父ではないか?と思うようになってきた。
ここは、もっと掘り下げたいと思っている。

わたしの今までの記憶では、不機嫌という意味では、母がよく不機嫌だった、と
思っているところがあった。いや、母に対しては、もっとわたしが見るところは、
「相手にしてくれなかった」そっちの事実のほうじゃないだろうか。つまり、今回の夢でも
思い出す現実でも、妙に、Pさんとわたしの母がかぶるのだ。
なんというか、母とのことが、Pさんとの間でも、見事に似たことが展開している、という点。
まるで、子ども時代に、母相手に、Pさん相手の練習をしているかのような感覚だ。
そして、この「相手にしてくれない」のは、父に対する父の母親の態度とも同じであり、
父の母親は、わたしの母のようであり、またPさんのようであり、わたしはまるで父なのだ。

話が随分、あちこちにいってしまったのだが、とりあえずこのところ、なんだこれもだったのか、
と思うのは、呪われたかのように、同じようなことが、そっくり、感染、連鎖していること。
そして、こういった歪みが、仕事観、仕事観といっても単に作業としての仕事の問題でなく、
「わたしがやるべき役割」というのが、捏造された仕事像にある以上、避けて通れないAC問題で、
同時に、実際に今、わたしを苦しめているのは、「仕事なんてしたくない。でも、食っていくためには
しかたないでしょ。死ぬぞ」とAC人格が、「ふざけんな。だったら死んだほうがマシだ」というわたしの
本当の声を押し殺そうと、幅をきかせていることだ。幅をきかせているのも当然だ。
そうやってしかたなくゾンビのように無気力の生きるACの自分あってこそ、
「そんなはずじゃない本来のわたし」がどこかにポンと落ちているかのような幻想を、
「本来やるべきわたしの仕事」として位置づけられるのだから。そこまで捏造をしてやっと
誤魔化し続けてきたのが、「Pさんにわかってほしい」という叶わぬ思いであり、要は、
Pさんと別れさせなくするための、十分すぎるほどの準備だった、ということではないか。

最近、以前にはこれだけは思えない、と思っていたことが
なぜか、それほど抵抗なく思えるようになったことがある。
なぜかはわからないのだが、以前、わたしが怖がっていたのは、
もしもPさんと別れたりでもしたら、どんなペナルティーが死後待ちうけているのか、
という恐怖だった。これはすごく大きく、びくともせず、立ちはだかっていた。
だから、もしもPさんから別れ話でも持ちかけられたらどうしようかと
完全に思考停止状態だった。

だったのだが、一ヶ月くらい前くらいからだろうか。はた、と思ったのは、
すでにPさんのことをわたしは、世話放棄している。もうすでに手遅れだ。
ペナルティーがあるのならあるんだろう。でも、わたしはそれを甘んじて受けるつもりもない。
わたしを罰することの出来る者などいない、それを「いる」となど、わたしが認めてはならない。
以前もこういうことは思ってはいたが、恐怖が圧倒していた。

これと同じで、仕事のこと、「食えなくなったら死ぬぞ」という恐怖、この恐怖と今、
格闘している。恐怖が圧倒しているのは確かだ。そこに乗じて、こう考えたら怖くないぞ、と、
ありとあらゆるAC人格がもとのもくあみへと引きずり込もうとする。
怖くていい。それでもわたしは、ならば、死んだほうがマシだ、という
自分の声を売り渡さない。わたしはもう自分を裏切りたくない。
何もかもが見えなくなっても、父の洗脳を解くことをやめない。

今日、昼どき、うたた寝をしてしまった。

こんな夢を見た。

となりのおじさんがわたしにクレームをつけている、といったことを
父がわたしに言ってきた。

わたしはその時、苛立った。父がその人とグルになって
わたしをこらしめようとしていることが、みえみえだったからだ。

となりのおじさんを引きずり出して、どんな因縁をつけてきているんだ、と
椅子に座らせて、わたしも椅子に座り、対面した。
すると、父が間に入ってきそうになった。
わたしの態度があまりに横柄だったから、「なんだ、その態度は」と
言ってくるように、すごんできた。

そのとたん、わたしは、「お前は黙ってろ。この人と話をしているんだ。
直接、きこうとしているんだよ。お前が(因縁をつけていると)告げたことなんて
信じてねーよ。お前は黙ってろよ」

そう、言おうと父に必死だった。この発言内容のことよりも驚いたのは、
この言葉が、口だけパクパクして、夢のなかで、声として出ていなかったのだ。
なんとか声にしようとするのだけれど、必死に口を動かし、子音を飛ばすように、
息づかいも必死なのだが、声が、まったく出ない。
かなしばりで手が思うように動かないのに似ていて、声が出そうと思っても出ない。

声は出ないが、言いたいことは、父には伝わっているようだ。
怒って立ち上がってきそうだったが、わたしは続けて父に声が出なくても話し続ける。
「この人とはずっと隣で、今までやってきたんだよ。信頼関係があるんだよ。
そこにお前がわって入ってくるんじゃねーよ」

そこで目が覚めたのだが、この感覚もはじめてじゃない、と思ったのだ。
覚えていないが、こういうことが、父との間に、あったのではないだろうか。
恐怖で声が出なかった、というようなことが。
あの声の出ない感覚ははじめてじゃないような気がする。

この夢のことを考えていたときに、
先日、こんなことを考えていたのを思い出した。

もしも父に口ごたえをしたら、彼は言うだろう。
数分もしないうちに、「Aby、もう、そのへんにしておけよ」と。
それでもわたしがやめなければ、おそらく、こう言うだろう。
「殺しちゃうかもしれないよ、ほんとに」と。

今まで父がそんなことを言ったことはない。
だけれど、わたしは、父がそう言うことが見えるのだ。
ということは、父は口に出さなかっただけで、父が伝えていたのは、
やはり、「言うこときかないと、殺すぞ」という暴力のイメージに違いない。
父はわたしを殺すことぐらいはする、そうわたしが思っていることが、
その確かな証拠なのだ。

なんでこういう夢を見たのか、なぜこのことを関連して思い出したのかわからないけど、
父はどんなことまで、わたしにやったんだ?
記憶を掘っていくこと、それとAC人格が、この今のわたしの現実に
どう影響を与えているのか、継続して掘っていこうと思う。



2014.10.16
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-16 04:21 | 復元ノート 1

(前半)父の洗脳から抜けること

父の洗脳から抜けること

これが今回の生のミッションだ。
死んでも残る問題、それは、父の洗脳、これだ。

死んだところでどうにもならない。
失敗した、と思うにきまっている。
何も変わらないという最大の後悔が、死に際か死後直後、
鮮明になるのは、想像してみれば明白だ。

何が変わらないか、それこそ死んで残る問題であり、
父の洗脳以外何ものでもないわけであり、
死んでどうにかなるようなものでなく、ただ死ぬだけで、
これは今生きているうちに、絶対に、これだけはなんとかしなければならない、
それが、父の洗脳から抜けることだ。

今、わたしがどうしても抜け出したいと思っている父からの洗脳は、

「仕事なんてしたくない」

というものだ。勝手に父だけ思っていてほしい。

仕事なんてしたくない、でも食っていくためにはしかたない。
生きているんだからしょうがない。

しょうがなくないだろ。

わたしのなかに、わたしがずっと押し殺していた声があった。

「食うため、金のために仕事をするくらいなら、死んだほうがマシだ」

父は、そしてわたしは、この声と向き合うことから逃げ続けた。

仕事なんてしたくない、でも、食っていくためにはしかたない、
お金が無くなったら、食べていけなくなって死んでしまう。
だから、しかたない。仕事するしかない。

父の仕事観は、しつこくきかされてきた。
「働かざるもの食うべからず」、つまり彼は、
食うために働いていたのだ。仕事とは、そういうものだ、と、
びっしり、わたしに植え付けた。

わたしはこれを許せない。
なぜなら、これは、「うまれてしまったんだから、生きているんだから、
生きていくしかないでしょ」という、無気力ゾンビな人生を、
「Aby、お前も同じようになれ」とはめたことと同じだからだ。

わたしが屈したのは、食べていけなくて死ぬ恐怖だ。
今もわたしに巣食う「働く動機」とは、死んでしまうからなのだ。
これは生きている動機といってもいい。死んでしまうから、生きている、
たったこれだけの生、そこに何の輝きがあるだろうか。

あるわけがない。

父よ、ひとりでやっていてほしい。

そう言いたいが、これが父の洗脳である限り、この謎は
解かなければならない。わたしが自力で解かなければならない。
でなければ、死んでも、腐った目のままだ。輝くことなど、二度とない。

父はI商店で働いていた。父親家系の親族中心に運営していた店で、
つまり、父の母親が頂点に君臨するカルト商店、父の母親、わたしにとっての
「おばあちゃんの城」それが、I商店だった。

Pさんの城、と同じといっていい。その城をただ守るためだけに
父はおじろくとして、ただの労働力として従事した。
やっていることが、わたしとまるっきり同じ。父-父の母親、という構図が、
わたし-Pさん、という構図になっただけで、今回もいろいろ掘りおこしてみたが見事に同じだ。
以前父が言っていたが、「見なくてもわかる~。いっけん、Pさんがトップにいるように
見えるけど、Abyが支えているのなんて、パパは、見なくてもわかる」らしいが、当たり前だ、
そうもっていった、そう調教したのが父なのだから。わざとらしい。

その城で、父の目は腐っていた。

あれは腐っていた目だ、と思った。これに限らないが記憶をたどるときに厄介なのは、
焼き付けられた記憶がそれと違うことで、わたしの記憶では、父は「いつも笑ってくれる、
子どもたちに優しいお父さん」ということになっている。

ある記憶を思い出した。学校や習い事から帰ると、店にいる父を見て、
「じゃあ、上に行くね」と、そう、この「じゃあ、上に行くね」という言葉が先日スッと口から出て、
よくこうわたしが父に言っていたのを思い出した。

店が1階にあり、わたしの家はそのビルの8階にあったから、上というのは、
「家に行くね」ということなんだけど、それで気になる感覚を思い出したのは、
父を見てから、この言葉が出るまでの「間」の感覚だった。

まるで、様子をうかがうかのように、目に99%意識があり、1%無いに等しい意識で
「ただいま」と言う不気味さがある。わたしの目や顔は、まったく笑っていない。
油断できない状況で、まるで、帰ってきたら荒れている部屋を見て誰かいないかを
確かめるような用心深さがある。

しかし、わたしに焼き付けられた記憶では、「ただいまー」と元気よく言うと、
父が、「おー、お帰り」とこの世で一番素敵な笑顔を返してくれた、ことになっている。

ところが、あの不気味さ、用心深さを先日思い出したような気がしたときに、
実は、父は、いつもといっていいくらい、不機嫌だったのではないか?と思い始めた。
つまらなそうに、疲れたー、と言いながら仕事をしている。考えてみると、
こういう父の姿が、記憶のもう一方にあったのだ。確かにあるもので、父はいつも
どこか難しそうな顔をして、不機嫌そうに仕事をしていたし、仕事に限らない、
いつも不機嫌な顔をしているのだ。それをわたしはうかがっている。

「今、話しかけて大丈夫だろうか」

こういうのがあったのではないかと思った。それでたいていは、
「じゃあ、上に行くね」となったのではないか、と。
この「じゃあ」って何だ?ということなんだけど、ただいまに対してお帰りしか聞いていない。
つまり、わたしは父の顔色を見ました、いつものように不機嫌そうだ、それがわかった、
「じゃあ、上に行くね」の、「じゃあ」なんじゃないか?

昨年母が「よく小さい頃は、パパの機嫌、顔色だけはよく見るのよ」と言って躾けた、
と言っていたが、そう言われたことも、わたし自身がそうしていたことも思い出せずにいたが、
それはわたしが思い出せないだけで、事実は、父は不機嫌だった、ということだ。

仕事中、父はあの不機嫌な顔をよくしていた。
これがどのように記憶がすりかえられたか、というと、ひとつは
「パパはいつも真剣なんだ、一生懸命なんだ。だからだ」
というのがあった。でも、これはおかしいよ。一生懸命仕事をしている人は
みんな、眉間に皺をよせて、苦しそうに仕事をしているか??
でも、これが、わたしにとって、というか、父が植え付けた一生懸命仕事をする人像、
誇りをもって仕事をする誇らしい父親像だったのだ。

あれ、ただ、不機嫌なだけだったんじゃないか。

急に、そう思いはじめた。

でなければ、「ただいま」と目でじっと追うように、こそこそと
様子をうかがう必要が、どうしてわたしにあったろうか?

おじいちゃんがタバコ屋さんで店番しているときもあって、
その時は違うんだ。「ただいまー」と言っている自分が笑っているのを思い出せる。
目と声が一致している、というごく当たり前の感覚だ。父の場合のように、
双方が無表情で、「ただいま」と言った瞬間に豹変するように父が「にこっー」って笑い、
それに合わせてわたしも作り笑いをするようなぎこちなさは、少なくともおじいちゃんとの
間にはなかったと思う。

あれは、死んだ目で働いている、というんじゃないか?

一生懸命とか、誇りを持って取り組む真剣な顔とか、そんなんじゃない。

なぜわたしがそう、あれが誇らしい姿であると思いこんでしまっていたかといえば、
父がそう言ったからなのだ。父の仕事の話は、いかに自分がお客さんから頼られ、
自分がいてこそのI商店であり、こうやって先祖代々続いたこのI商店をいかに守り抜くことが、
いかに誇らしいことか、そうやって誇りを持って仕事をすることの尊さを、延々、子どもに話し聞かせた。
わたしはそういう父を世界一素晴らしいパパだと、心底、尊敬していた(と思いこまされていた)。

いつか、父に言ってやりたいと思った。

「お母さんに自分を見てもらいたくて、必死だったんだ。
だけど、ずっとパパのことを見てもらえなくて悲しかった」

となぜ、正直に言ってくれなかった?なぜ、それを隠すために、
その気持ちから逃げるために、馬鹿げた仕事観、それは人生観といってもいい、
そういうものを子どもにも植え付けたんだ?

仕事に関して、父は、完全に矛盾することを言っていた。
仕事はお金じゃない。それの極めつけが「金は天下のまわりもの」という父の口癖で、
「一生懸命働いていれば、生きていれば、お金というのは自然についてくるもの」とよく言っていた。
I商店を守ること、お客さんの満足、誇りを持って仕事をすること、生きること、
それが大事なことなんだよ、と子どもたちに説教する。

なのに、だ。

「生きていくためには、働くっきゃない。やりたいも、やりたくないも、食べていくには
しかたないでしょ」と、これも耳にたこができるほど聞かされた。それの極めつけが、
「働かざるもの食うべからず、と言ってね・・・」と格言からスタートの説教がはじまる。

この矛盾はどこから来るのか、どうして、父はこんなことをしているのか。
お金のためにしかたないんだ、という部分を「作っておいて」、
お金のためじゃないんだ、と言おうとする自作自演は、何のためなのか、
これがどういうことなのか、わかってきたことがある。

父は高校時代、化学系の部活動をやっていて、
「その研究を本当は続けたかったんだ、〇〇という会社では唯一その研究をしていて」
云々と、本当は大学に行って自分の好きな研究を続けたかった、という話を子どもたちにも
きかせていた。

しかし、店のビルを建てたばかりで、みんな(父親家系の人々)でローンも
返済しなければならなかったし、働かざるをえない状態だったから、高校卒業して
当然のように働くことになった・・・というのを、「しかたなかった」「本当はやりたいことがあった」
みたいな言い方、雰囲気を醸し出しながら、子どもたちに話していた。
父がすごいのは、こういうエピソードを聞かせる繰り返し頻度が、半端じゃないことだ。

ここまでのストーリーでは、父は、「自分のやりたいことをあきらめて、お金のために
しかたなく働くことになった」ということになる。

これは、はたして本当か?ということが、今回、疑問視したところだった。

お母さんに認めてほしくて、振り向いてほしくて、店をメインに継ぐ兄だけに
母親の目がいってしまうのが怖くて、それで、働くことにした、というのが本当ではないか。
もちろん、たとえ今後本人にきいても、まず、「そうだ」とは言わないだろう。
「あの時はしかたなかった」というに決まっている。選択の余地なんてなかった、と。

この気持ちから目をそらし続けた父が思いついただろうことは、
「お金のためにしかたなく働いた」という言い訳だったのではないか、ということだ。
それから子どもが生まれて、もう、必死に働いた、とよく話していたが、その話も
恩着せがましくというより、そう、父の話の特徴は、相手のことなんて何も考えちゃいない、
ただ、自分の正当化のためだけに、話をしているのだ。
わたし自身がそうだったから、これはよくわかる。今になってわかることだが、
父にとって子どもは、「自分の頭を整理するために、話を聞かせる人形」としか思っていない。
これも、わたしと同じだった。他人とは、そのために存在するものだった。

話がそれてしまったが、父にとって、「お金のために、しかたなかったんだ」
という言い訳は、都合がよかった。何に都合がよかったかというと、お母さんに振り向いてほしい
という感情、それに伴う恐怖から目をそらすのに都合がよかったのだ。
「父はやりたいことがあったのに諦めざるをえなくなったから、お金に恨みを持っているんじゃないか」
と最初は思ったけれど、あれは、嘘だな、と思うに至った。

わたしと同じような、自分の意思もないような人間が、「やりたいこと」なんて
本心からあったとは思えない。実際、その点に限って父の話す様子を思い返してみると、
諦めた悔しさとか、恨みとか、そういうものが一切、感じられないのだ。
むしろ、「だからね・・・」と意気揚々と、「しかたなく、お金のために」という話に繋がっていく。

父にとって、お金のために、という大義名分は、
「都合のいい」ことだったのだ。

大学の頃、わたしはずっと「仕事なんてしたくない」と思っていた。
自分は、特別な人間で、やるべきことが他にあるんだ、
それが本当の意味でわたしがやるべき〝仕事〟なんだ。
こんな既存の仕事のなかに、わたしがやりたい仕事があるわけがない。
所詮、こういう仕事は、食うため、金のための仕事だ、
就職した人たちは、食うため、生活のため、しかたないといって落ちぶれた人たちだ、
自分の人生を捨てた人たちだ、自分はあんなふうにはならない・・・と、
本気で思っていて、わたしは就職をしなかった。

そして、バイト三昧の日々を送った。
アルバイトは、お金のため、食うためにやるものだ、しかたがないんだ、
これは、わたしの「本来の仕事じゃない」と、わたしは思い続けた。
お金のための仕事なんてしたくない、そう思いながら、
わたしはお金のために仕事をしていた。これはしかたがないんだ、
本来ではないんだ、と言い聞かせながら、しかたなく働いていた。

Pさんとの共同作業を経済的に支えていたのは、
いくつもかけもちしながらのアルバイト生活だった。
最初はPさんもいくつもかけもちし、「城」をつくるのに必死だったが、
だんだんとPさんはバイトをしなくなり、ある時から、わたしだけが
「お金、生活のために」仕事をするようになった。
その頃には、共同作業は破綻していて、どういう状況だったかというと、
「Pさんが毎日読書三昧で何もせず城でのんびり過ごす生活」を
わたしがやりたくないアルバイトをして経済的に支えているだけの状況だった。

それが耐え切れず、内職をはじめ、Pさんにリベンジした、というのが
今までもブログで書いてきた今日に至るまでの筋書きだったが、
このリベンジ、要は、わたしもまた、Pさんに認めてもらいたい、
Pさんにだけわかってくれればそれでいい、という、まるで、父が自分の母親に
抱いていた感情とそっくりだ。

わたしもまた、この感情、「Abyのこと、ちゃんと見ていなくてごめんね。
見直したよ。これからは一緒にやろうね」と、これをPさんからききたい一心で
(もちろん当時は無自覚だったが)わたしは共同作業をやってきた。
こういうことが父と同じなのだ。この感情を隠している。そして、アルバイトは
食べていくためにはしかたない・・・といって、結局、どうだったか?
「食っていくためにはしかたがない」と言っているわたしだけが、そういう働き方を
し続けるはめに、自滅するように向かっていっただけじゃないのか?
こういう働き方の延長に今の仕事がある。性質はまったく同じだ。

「Pさんに自分を見てもらいたくて、必死だったんだ。
だけど、ずっと自分のことを見てもらえなくて悲しかった」

と、正直に、わたしはPさんに言うべきだった。
父が正直でなかったのと同じなんだ。わたしも父の仕事観を
都合のいいように、利用してしまった、ということになる。

それと、もう一方の仕事観、それは、父が誇りとか、
自分しかできないとか言って、威張っている類のものについてだが、
これは、ばかにできない。

というのも、考えてみると、「やるべきことがわたしにはあるんだ」、
「Abyさんしかできないんだよ、と頼られるすごい役割が自分にはあるんだ」
というこの考えは、これとどうも密接に繋がっているように思えてきたからだ。

父は自分の感情を隠す、カムフラージュするために、
「仕事なんてしたくないけど、生きていくためにはしかたがない」
という価値観を守ることに必死だった。

この価値観は、そもそも、父親家系に独特のものだったのかは
わからないが、可能性としては、すでに父にインプットされていた
強迫観念だったのではないかと推測している。
そうでなければ、わたしに、これほどの「食えなくなったら死ぬぞ」
という恐怖まで強く感染できるとは思えない。言葉だけで
それほどの説得力を持つとは思えないのだ。
「食えなくなったら死ぬぞ」が、「そんなの当たり前じゃん」で流せないのだ。

食うために働くか、それが嫌なら、死ぬか、どうするAby?

という、天秤にかけられる。

わたしの答えはきまっている。食うために働くなら、死を選ぶ。
これがわたしの答えであって、死んじゃうからしかたがないから
食うために働くしかない、という選択は、もうしたくないんだ。

これはわたしは今も怖い。どうしようもなく怖い。
でも、怖いけれども、これが答えなのだ。
わたしが「仕事なんてしたくない」というとき、それは
お金のため、食べるため、生きるために仕事をする、
それは、お金のため、食べるため、ただ、だらだらと生きのびていくために
死んだよう生きるのは、嫌だ、ということなんだ。

それは、父、あなたも同じだったはずなんだ。
なぜ、屈した?仕事なんてしたくない、というとき、
なぜ、でもしかたないから・・・といって、自分の魂を売ったんだ?
なぜだ?死ぬからか?死が怖いからか?

仕事なんてしたくない、そういう顔で仕事、いつもしてたよね。
子どもたちに、そういう顔を見せて、つまらなそうに、疲れたぁ、と言いながら、
無気力な姿を見せ続けたよね、本当は、仕事、あんな仕事の仕方嫌だったでしょ。
嫌だったでしょ、正直に言えよ。何が誇りだ、やりがいだ、自分にはこの仕事しかない、だ?

わたしは、今の仕事、これからも、こうやってしか仕事を選べないで同じようにしていく
仕事の仕方は嫌だよ。こんな、「仕事なんてしたくない。でもしょうがない。食べていくためには」
なんていう仕事の仕方は、わたしは嫌なんだ。何度も言うけど、なら、死んだほうがマシだ。

なら、死ねば?と、脅すのだろう。
わたしも自分に何度も言ってみたよ。怖くて怖くて、
でも、死んだほうがマシだ、これは変わらない答えなんだよ。

そういう働き方をして生きるくらいなら、死んだほうがマシだ。
たから、そういう働き方をするくらいなら、わたしは死ぬ。
それで満足か?誰が満足か?わたしは不満だ。生きても死んでも不満だ。
「もっと自分の人生を生きたかった。父の洗脳から逃れられなかった」
そう後悔するのは必至だからだ。こんな情けない生き死にがあるか。

わたしはまだこの洗脳から抜けられていない。
苦しくてどうしようもない。でも、それでいい。
ずっと苦しかったんだから。そう思ってきた自分の声を無視してきたのは、
耳をかさず、裏切ってきたのはわたし本人だったのだから。
ここで裏切らないために、わたしは、自我復元をやってきたんだ、とも
言っていいくらい、それくらいの思いがある。だから、怖くても、引かない。


・・・


『(後半)父の洗脳から抜けること』に続きます。



2014.10.16
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-16 04:20 | 復元ノート 1

「母親たる者は」というすりこまれた像

昨日、高校の頃の部活動の仲間とたわむれている夢を見た。

なんだか、からかわれたりもしていながら、わたしは楽しそうだった。
目が覚めたとき、この夢を、もっと見ていたいと思っていた。
それはわたしにとって、おかしな感覚だった。
この頃の部活動仲間との記憶は、あまりいい思い出がない。
どちらかというと、嫌だったなあ、という人間関係だった。

だからこそ、目が覚めて、妙に気になった。
楽しい・・・、よくわからない。でも、そう思ったのは確かで、
しばらくしてから、自分の気持ちをノートに書いてみた。

「もっとみんなと楽しく過ごしたかった」

わたしはみんなと、うまくコミュニケーションがとれなかった。
夢では、楽しそうに話していて、もっとこうならよかったのに、
そういう思いが夢になって、わたしは見ていたような感じだ。

中学生、高校生の6年間は、部活動での人間関係が
時間的にも多くの割合をしめていた。
「わたしは、みんなの輪に、入れなかった」
そういう思いを抱いてきた。

それが、嫌だったんじゃないか?
嫌だったんだ。わたしはみんなと楽しく話したり、ワイワイやりたかった。
でも、できなかった。それで、わたしはどうしたか。

その頃、どうも友だちとうまくいかない、友だち同士話し合っているように
わたしはその中に入れない。わたしと一緒にいる友だちもいたけれど、
入れない大きなグループがある。わたしはそのグループは、そこでのメインのグループで、
本当はそこが普通のコミュニティで、わたしと一緒につるんでいる友だちは
どこか、はじかれている少数派も少数派のグループだと思っていたし、実際、そうだった。

並行して、中学生になって、ある意味、はじめて挫折したことがあった。
部活動でわたしは選手に選ばれなかった。これは、高校の最後まで
基本的には続いた。部内で強くても、わたしは選手には選ばれなかった。

こういった「はじかれている」状況を、わたしはどう、装ったか。

夢から目が覚めて思ったことは、
「あ、あの時、みんなとうまくやりたかった、そう思っていたのに言えなかった」
ということだった。今日の夢のように、わたしは楽しく、みんなとやりたかったのに
そう言えなかった。そう思えもしなかった。そう思っていることにも気づいていなかった。

それでわたしは、どう、その時当たり前のように考えていたかというと、

「まわりと自分は違うんだ。自分はすごいんだ、特別なんだ」

という納得の仕方を、強がって、ではなく、当然のようにそう思っていた。

対人関係での特徴として、典型的なものがあった。
それは、初対面のときは上手くいくのだけれど、だんだん時間が経ち、
時間がたってくると、徐々に、だんだん、「バカにされる」という傾向があった。
傾向というより、ほとんど、そうなる。気づいたことだが、少なくとも、父もわたしの弟も、
みんなそうだった。母と妹は、社会でどうだったかをあまり知らないのでわからないが、
おそらく、同じだったろう、と推測している。

初対面のときにうまくいくのは、たんに、面倒見がいいからだ。
誰だって、面倒見がいい人に対しては、「最初の最初は」好意を持つ。
わたしの家族5人に共通する特徴は、第一印象がいいことだった。
とくに、みんな笑顔は「きれい」に見えたから、なのだが、第一印象だけで、
だんだん、ほころびを見せ始めるのだ。よくあるパターンだったのは、
わたしがたとえばAくんと友だちで、Bくんとも友だちだったとすると、
ある時、AくんとBくんが友だちになっていて、わたしは蚊帳の外になっているケース。
これは多かった。

時間がたってくるとどうもうまくいかなくなる、という自覚はあったが、
あれは、バカにされていたんだ、ということに、今になって気づいた。
いや、高校の部活時代も、露骨にバカにされていたわけだが、なぜその時は
その自覚がなかったか、というと、わたしをバカにしてくるやつらをこそ、
「わたしがバカにしている」と思っていたからだ。

まわりのこいつらがおかしい、としか、考えたことがなかった。
だから、そういうのは相対的なものだから、こいつらはバカだから、
わたしのことがバカに見えるのだろう、あわれなやつだ、と、
そこまで言語化して意識的に思っていたわけじゃないけれど、
そう思っていた。

言語化して意識的に思っていたのなら救いはまだあるかもしれないが、
完全無自覚という病気こそ恐ろしいものはない。わたしはそれを「自然に」やっていた。

育った家庭が異常すぎたから、であることは間違いないが、
わたしは、「まわりがおかしい」「自分は正しい、間違っていない」と
強がりでもなく、当然、そうだと思っていた。

「何かがおかしい」と思ってこれまでも生きてきたけれど、
わたしが何かがおかしい、という時、そこで除外しているのはいつも「自分」だった。
自分はまともなはずなのに、何かがおかしい。それは、まわりがおかしい、ということが
前提にある。つまり、なんら思索的でも哲学的でも何でもなく、ただ、
「まわりとうまくいかない」という日々の出来事を、「まわりがおかしい(自分は正しいのに)」
というふうにすることで、納得しよう、と、自動的にその納得行為を繰り返していただけだった。

この、

「自分以外のまわりはみんなおかしい」

という考え方は、思い返してみると、家族5人とも持っていた。
それがわかるのは、成人後、ごくたまに5人が集まったときの、
会話の様子だ。その様子を今になって振り返ってみて、
それではじめて気づける、という重度の自覚の無さだ。

全員がこの考え方を共有しているから、
この考えは当然になっていて、とりわけBちゃん(弟)が
この考え方をモロに表に出しすぎていたから目立った程度で、
それとて、「やりすぎだよ」くらいにしか、おそらく誰も思っていなかったに違いない。
だって、これが病気だ、とわかる人が一人でもいたら、それは、
自分が病気だとわかる人がいた、ということだけれど、それがなかったから
こういう狂った家族たちだったのだ。

「わたしたちは、みんなすごいんだよね。正しいだよね」

それで一致団結していた。誰もそれを否定しない。
みんながみんなを褒め称える。この中にいると、ここは
完全に理想の家族に思えた。みんながお互いを尊重している、
そうとしか思えなかった。40年近く、そう当然のように思っていた。

このカルト具合は凄まじい。誰も強がっていないのだ。
当然、わたしたちは、わたしたちが正しい。それが前提に
すべての会話がスタートする。

普通に、自分の話、自分はすごいんだ、という話をする。
それは自慢話、という自覚もない。それは幼い頃、父に対して、
「今日、こういうことも出来たんだ」と習い事や学校から帰るときの報告のように、
全員が全員、当然のように報告し、お互い、「すごいね」と言い合う関係だった。
学校から帰れば、習い事から帰れば、自宅下の店に寄ると、その報告を
わたしの父が「おー、すごい」と言って持ち上げる。父親家系の親族が店の中心だったし、
父親家系の親族は商店街でも力を持っていたから、みんながみんな、
「Abyちゃんすごいね」そればかりだった。だから、わたしは嬉しいもなにも、
そうやって言われるものだと思っていた。

先日から、桜の間の
「不満を隠さない家庭」
http://www.mumyouan.com/k/?S395

の記事がずっとひかかっていたのだが、今日の夢の件で、このあたりまで自分の家族のこと、
自分のことを考えていたとき、まさに、これだ、と、ようやくピンときた。

誰も、不満を言ったことがないのだ。
自身の不満を言ったことがない。まわりの愚痴じゃなく、自分の不満や不愉快を
口にしている人が、誰ひとり、いなかったのだ。

それもそうだ、と思うのは、誰も、自分の不満を「自覚している人」がいなかったからだ。
みんながみんな、自分たちは幸せだ、不満などない、自分は正しくまわりがおかしい、
そういう空気の中で麻痺した感覚が、どうして、たとえば、「みんなとうまくやりたい、
やりたかったな」などと言えるだろうか?思いつくことすら、シャットアウトして当然な環境だった。

「自分に不満がある」という、「自覚すら」
完全に欠落していたのだ。

それであらためて、よーーーく、見てみれば、いや、よく見なくても、
わたしたち家族5人とも、どういうことが起こっていたかを見ると、
誰も、社会で、

「うまく、いっていなかった」

のだ。自分も含め、誰一人、社会でうまくなどいっていなかった。
客観的に見れば、絶対、失敗しているとしか、もしも、裸の王様でいえば
正直な子どもがいたら、「失敗してるじゃん」と言われても当然、いや、
言われていたんだ、ちゃんと。だれけど、わたしたち家族はみんな、
「まわりをバカにすることで」その声を、せっかくの失敗経験を無視したのだ。

実は、みんな、わたしをちゃんと友だちは「バカにしてくれた」し、
選手からも外されたし、仕事でもトラブル続きだったし、親だって同じ目にあっている、
だけれど、当の本人たちが、「まわりがおかしいんだ」で済ませているわけだから、
そんなそれこそ本当のバカを相手にするバカが社会に出ているはずがなく、
「やらせとけ」と陰で笑われているのがたいていであり、ごくわずか、「コイツは使い道がある」
と父親似の気狂いが、「あなたしかいないんだよ」と待ち構えていただけだった。

そして、その「あなたしかいなんだよ」と言ってくれた人や所の話ばかり、家族みんながする。
違うんだ。その前に、ほとんどといってよいほどのたくさんの失敗があったはずなんだ。
無視され、仲間はずれにされ、みんなとうまくやりたかったのに、
気づいたらうまくやれていなかった失敗があって、それが「嫌だった」はずなのに、
嫌だった、と、誰もそれを言っていない。

わたしももちろんのこと、誰一人、
自身の劣等感に気づいていないのだ。

うまくやれなかった、それが悲しかった、という気持ちが見えなくなる。
わたしは見えなかったのだと思う。今日の夢で、通常では起こらない、
実際には起こらなかった部活仲間との楽しい会話から覚め、それで、気づいたことだ。

自分が入れないグループがあることに、意識的に気づいたのは、
大学生になり、サークルやアルバイトをはじめてからだった。

それは、「愚痴を言い合えるグループ」だった。

それに対してはわたしは、

「わたしはああいう負け組とは違う。わたしは満足しているし、
日々幸せだし、自分がやっていることに自信がある。
愚痴を言い合っているなんて、情けない人たちだ」

と思いながら見ていた。でも、本当は同時に、
何を話しているんだろう、なんだか楽しそうだな、
本音で話し合える間柄でいいな、と思ってもいたのだ。
でも、そんな気持ちを、わたしは言わなかった。
意識して言わないのではなく、言わなかった。

こういうグループは、一部の脱落者たちの集まりだと思っていたのだが、
よく見ると、わたしやわたしにくっついている「ごく少数の人」だけが、
実は、孤立していたのだ。

つまり、「愚痴を言い合えるグループ」という特殊なグループがあるわけではなく、
わたしたち以外は、普通に愚痴や不満を言い合える人たちであり、
コミュニケーション障害に陥っていたのは、完全に「わたしたちだけ」であり、
その中でも、「自分は正しくまわりは間違っていることを延々と主張している」という
幼稚きわまりない振る舞いを、恥ずかしくもなく、堂々とやっていたのがわたしだった。

「まわりはこんなこともできないんだ。僕にはできるんだ」と。

たとえば、選手に選ばれなくても、
「監督は見る目がないんだ。まわりのみんなにはできないこんなことだって僕はできるし、
わかっているのに、監督は、ちっともわかっていないんだ。それに気づかない監督は愚かだ」
ということを思っていて、そういうことに対しても、そうだ、そうだ、と家族全員が賛同しあい・・・、
これでは救いようがない。

いつか、自分のことをわかってくれる人に出会えるはずだ、
愚かでない人、自分のよさをわかってくれる人がいるはずだ、と。

ここに、「父の母親」が、その対象の理想としてあるんじゃないだろうか?

それから、わたしたち家族5人に共通する
こんな特徴もあった。

自分のよさに気づかない上司に対して、ボロクソに言い、
その上司に対しても直接現場でキレて怒鳴り散らす、まるで
父が業者の人相手にキレるのと、実質同等の振る舞いを、
なりふりかまわずしてしまう、自制心がまったくきかなくなる、
こういう性質を持っていた。これも、母と妹はわかりやすい例を知らないのだが、
ときどき本人たちから聞いた「上司にブチキレた話」から想像するに、血相が変わるほど、
同一人物とは思えないキレ方をしただろうことは想像にかたくないし、
父、わたし、弟は、そっくり、似たようにキレては問題を起こしていた。
(本人たちは、問題を解決した、と当時は思いこんでいた。自分がこうなるまで
わからないんだから、バカな上司だ。怒らせるんじゃねーよと思っていた。父そのものだ。)

30歳前後のわたしは、バイト先で、これが相当酷かった。

ターゲットは常に上司で、上司に対しては許せなかった。
自分より下と思っている人には、キレることは(これは他の家族も同じで)なく、
それはつまり、見下している、所詮愚痴を言っている負け組とくらいしか思っていないから、
それはそれでバカにする利用価値を見出していただけで、当時自分が思っていたような
寛容な人間だったわけでもなんでもない。わたしが思いこんでいた自分の寛容さとは、
「たいていの相手をバカにできる」、つまり、相手にしないで見下せる、という意味だった。

そういう中で、どうしても、相手にしないわけにいかない対象が、
どこにいっても、それが「上司」だった。これが驚くことに、家族「5人とも」そうなのだ。
それで、今回、これは100%、家族の問題だということに気づけたところがある。
わたしだけに固有の病気とか、考え方とか、そういうものではないと。

上司には、どこまでもくってかかった。
今思えば、どう考えても、やりすぎ、まったく自制がきかなかった。
あるとき、冷静になったとき、ある上司に、
「こういう感じになってしまうのは、父がそうで、なぜか似てしまうんです。
すみませんでした」と謝ったことがあったが、もちろんその当時は、
それがいかに重篤な家族問題だったかということには気づかなかった。

家族の問題、ここにも、「父の母親」が
「上司」に投影されているのではないか?

こういう母親なはずがない、と徹底的に否定して、
「あるはずの」「きっといるはずの母親像」を上司に投影しているのではないか?
「母親たる者は」という思いをずっと持ち続けて。これも父の怨念だ。

ひとつ、ずっと謎だったことがある。

わたしは両親に対して、20歳ぐらいから、「まったく」期待することがなくなってしまった。
これは自分でもわかるのは、中学生から高校生の頃の反抗期で、それは「母」が相手だったが、
「まったく自分のことを理解してくれない。言っていることとやっていることがこの人は支離滅裂だ」
と思ったその頃からで、大学生の頃になると、その頃というのは、両親に対しては、
「いかに期待できない人たちか」ということを、日に日に、確認していくような時期だった。
実際、その期待できない部分で、もしも妹や弟が困ることがあったら、わたしがそこを補うよう
面倒を見るのが兄として当然の役割である、と当たり前のように考えていたし、実際、そうしていた。

父に対してなどは、期待どころか、わたしが面倒みなきゃダメだ、とすら思っていて、
(母に対しては、一人で自立的にやっていける人だろうし、そうであるべきだと思っていて
そういう意味では、母に対しては冷たかったし、Abyは冷たい、と母も感じていたと思う)、実際、
いっときは、わたしが大学生の頃、おつまみを用意し、父の食卓に準備していた事もあったし、
おそらくそういった「この人は頼りない」という感覚は、自覚はなかっただろうが、
小学校4年生頃にはあっただろうと思うのは、ちょうどその頃、数ヶ月であるが母と別居したときに、
わたしはどうしても父を一人にすることはできなかった。
わたしだけでもいてあげないといけない、父のそばに残らないといけない、と思った。
それがフェアなことだ、冷静な判断なんだ、とわたしは思っていたのだけれど、
それもまた、「パパは頼りない」という思いを打ち消していた可能性は高い。

考えてみると、わたしにとって「母親たる者」は、母がその対象だったから、
中学3年生頃のわたしは、手を挙げるような暴力はなかったものの、
口では相当酷いことを言う反抗期だったのは確かだったが、それでも、
17、8になる頃には、だんだんと母に対してもあきらめるようになり、それからは
母に対してもわたしのほうが面倒を見る係りに、気づいたときには、まわっていた。
「親子の関係が完全に逆転した」と実感したのが、だいたい20歳頃だった。

母に対しても父に対しても、成人したその頃には、どんなに意見がくいちがっても、
「なんでわかってくれないんだ」という思いを抱くことは、一度も、といっていいくらい無くなった。
そもそも、くいちがうことなどは意見を言う前からわかるわけだから、そう、そういえば、
わたしから自分の話をしようとすることは、どんどん、減っていった。
年に数度、実家に帰っても、「うん、うん」と両親の話をきいているだけだったし、
両親もまた「最近どう?」とわたしに訊ねてきたことなど、社交辞令を除き、一度も無かった。

「この人たちにわかるはずがない」

と完全にあきらめていた。そしてわたしはこういう自分を「自立した」と思いこんでいた。
つまり、上司像、というか、「母親たる者は」という投影を、「親に」しなくなったのだ。
逆にいえば、このときに、「親は」、「逃げ切った」のだ。

これは今回、このあたりのことをノートにメモしていて
思ったことだけれど、こういう、まさにAC、大人子供にさせることの「悪」とは、
「親なのに」という感覚を麻痺させ、親免罪へと持っていくことだ。
「自立」と称して、「親なのにという期待を喪失させる手口」は、
彼らが逃げ切るやり方であり、理想の家庭だったと、子どもたちに
「思わせ続ける」ことから目覚めさせない完全犯罪への手口といえる。

成人したこの時期から、わたしは「外の世界」に目を向けるようになり、
分野はそれこそなんでもよかった。手当たり次第、わたしの居場所を求め始めた。
本屋や図書館に行けば、手当たり次第、全フロアー、全コーナーをまわった。
わたしの中で生き延びる父が植えつけた「母親たる者は」というものの像を
追い求める20代が始まった。

その中での「絶対的な法則探し」のようなものも、何も哲学的でも思索的でもない、
親ではない別のどこかに、その「母親たる者の像」を見つけるための「レール」「準備」をしていた、
ということにすぎなかったのではないか?

この時、わたしが描いていた絶対的な法則たるものの像とは、
「矛盾がないシステム」というとなんともたいそうなものにきこえるが、
要は、「何でもOK」といってすべてを受容できる考え方、というのを探していた。
排除することのない考え方。それは、すべての存在の説明がつく考え方。
30代終わり頃には、何でもOKなAbyさん、実際、そう言われるようにまでなっていて
(というか、そういう言う人しかまわりに集まらないカルト化した共依存集団に身をおいていただけ)、
それをわたしは、ひとつのゴールだ、と慢心していた。
最低なことに、自我復元に出会ってからも当分、その慢心からも
目が覚めることはなかった。

父が自分の母親を、こう表現していたことがある。

「すべてを包み込むあの大きさ」
「海そのもの」

父が称えて言うところの「あのひとは、バケモノだった」とは、
そういう意味だ。無限の抱擁力、寛容性という幻想を、
父は自分の母親に抱くしかなかった。もしもその受容力に限度があったのなら・・・
と考えることは、父にとって、「自分は見捨てられたのかもしれない」という恐怖と
直面すること、その事実と向き合うこととイコールだったからに違いない。

そう、すべての存在の説明、この「存在の」という点に何かある気がする。

「いちゃいけないものなんて無いんだ」

この証明を、わたしはずっとやってきたような気がする。

そして成人してからさらに20年が経ち、気がついたら、
「いちゃいけないものなんて無いんだ」と、わたしがまるで「父の母親」のごとく振舞う
カルト教祖のようになっていた。

成人してからどのくらいしてからだったか記憶が定かではないが、
ある日、父と話していたとき、父から「はじめてだ。ボクのことを理解してくれたのが、
お母さん(←父の母親のこと)じゃなくて、息子、Abyだったとは」と、涙でうるむほどの目で
わたしに言っていたけど、父がわたしにさせたかったのは、たったこれを言わす、
これを父が母親のかわりに子どもからこの一言をききたい、言わせたい、ただそのために
わたしは利用された、ということじゃないか・・・?

ちょっと待ってくれよ。
代理復讐などというもっともな名前をつけるのも幼稚な
しかしこれほどおぞましい代理復讐はあるだろうか。

どれほどそれがおぞましい結末を迎えたか、父は知らない。
成人してからの、それからのAbyに用はもう無かったのだろう。
どんな活動や仕事をしているのかも、きっと、知らなかったはずだ。
伝えていたつもりだが、ぜんぜん、聞いていなかったから。

わたしが父に「本当は、おばあちゃん(←父の母親)にわかってほしかったんだよね」
と言ったあの時、まるで彼は子どものようにはしゃぎ、上気していた。
思えば、この時にわたしが感じた達成感が、「わたししかできないこと」への成功体験の
原型ともいえるものだった。

30代後半になって、わたしの活動と仕事のベースにあった考え方は、
「いちゃいけない人は、一人もいないんだよ」というものだったわけだが、
これは父が自分の母親から言って欲しかったことそのものだ。

活動や仕事のなかでわたしがしてきたことは、

「父のコピー」

のような人たちを集め、わたしが

「父の母親」

を演じる、というものだったのだ。

だから、相手が大人であれ子どもであれ、わたしの意識は、常に、

「みんなの母親」

だった。

そしてわたしの心の底にあった思いは、

「あなたたちの母親はダメな母親だ。だから、わたしが、あなたの母親になってあげよう」

という、鳥肌が立つほど、ぞっとするものだったのだ。

そして、わたしは、そういう女性になりたかった。
そういう、女性という存在でありたかった。

すべてを包み込む、何でも受け入れてあげられる海のような、
父の中で生き続けているお母さんに、100%自覚なく、なろうとしていたのだ。


・・・


最近、といってもここ数日だが、今まで毒親分析してきたことが、
現実の生活のなかで、これがあのことだったんだ、と
今になって謎が解かれていくような感覚を感じている。

掘る手を休めず、ここは格闘を続けたい。



2014.10.11
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-11 03:44 | 復元ノート 1

わたしの中で生き延びていた父の怨念

「やりたいことが見つからない」

こういう思いを、成人する以前から強迫的に抱いてきたが、
この考え方は、普通じゃないのではないか。

まるでどこかに、自分のやりたいことが、ポンと落ちているかのようだ。
どこかにあるんだけれど、自分がダメで間違っているから、
それがいつまでも見つからないんだ、だからもっと努力しろ、
結果は自然に至るんだ、自然に至らない、見つからないのだとしたら、
わたしが間違っている、努力が足りないんだ、と、そう思いこんでいるところがある。

こういった考え方のベースには、

「見返り」

という考えがあった。これだけ頑張ったんだから、その見返りとして
こういうことが期待できるはずだ、もっと言えば、こういうことを
「期待していいはずだ」というのがあった。

わたしは見返りというものを期待することがない、
そういうタイプの人間だと思っていたところがあったが、
昨日、ふとしたことから、それは違う、ということに気づいた。

知人からジャズダンスの発表会のお誘いの電話があった。
断ったのだけれど、電話中はまったく自覚がなかったのだが、
電話をきってから、違和感だらけの気持ちの動きをノートに書いて追跡してみると、
こんな考え方がわたしにあること、これは今回だけでなく、
今までもたえずあったことに気づいた。

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?
いつも、わたしがしてあげていただけじゃないか。」

いつになったらわたしがほしいものをくれるんだい、という感覚。
ほしいものが来ない、それが手に入らない間は、
とりわけわたしが何かしてあげていたわけでもないのに、
わたしは、対人関係において、「わたしがやってあげてばかりだ」と
勝手に思いこんでいるのだ。

今回の電話でいえば、ジャズダンスを見にいくこと、イコール、
わたしがやってあげてばかりのこと、という図式になる。
その人は、ただ、誘ってくれているだけなのに、だ。

誰かの誘いに対して、

「興味がない」
「意味がない」
「時間のムダ」

わたしは、この3つのことを理由に、今までもたくさんの誘いを断ってきた。
第一に、興味がない、というけれど、これも間違っている。
興味がないのではなく、興味があるかないかを精査する以前の状態で、
「自分が関心があるかどうか」というところに、まったく、目が向いていない。

電話をきってまず思ったのは、興味がない、と思ったと思ったが、
興味があるかないかも、考えていなかったことに気づいた。
ジャズダンスのこと、何も、考えていなかった。
興味がない、とすら考えてもいなかったのだ。

このプロセスは、とんでもなく早い。
なんというか、興味がないのが「前提であるかのように」
「自分をスルー」してしまっている。

これに関しては、高校生の頃、大学受験でどの学部を目指すか、
進路を考えるときにも同じような感じだったのを思い出す。
どれも興味がない。いや、そのときは、そういう状況をわたしは
「どれも興味がある」という言い方をしていた。どれも好きだ、と。
でも、それは無自覚な嘘で、どれも興味がなかった・・・というか、
自分の内側に、興味を見出せなかったのだ。

いや、それもどこか違っている。自分のことが考えられなかったのだ。
これは今も根強くある感覚だ。自分のことを考えようとすると、
「どうせ、無理」という、声にすらならない、でも阻止してくる何かがある。
この居心地の悪さに、ユーターンしてしまって、自分の内側でなく、
外側、外の世界に、やるべきことや意味を見つけようとしてしまう。

ここまでのプロセスはあまりに早かったので、いつも、その
ユーターンをした「時点」が、行動の始まりの地点だと思いこんでいた。
ただ、この地点は、すでに、違和感があるのだ。
もうこの時点で、いやいややっている、しかたなしにやり始めている。
そして、わたしが実は逃げていながらも、依存している分析という行為、
まわりの空気を察し、読むという行為はここから始まっている。

ここからが通常は、なんとか自覚できるところとなり、
自分のやっていることが「意味があるかどうか」という判断をし始める。
そして、意味がない、と判断したものは、時間の無駄と処理される。

だから、たいていの場合、「(時間、都合が)空いていない」という断り方をする。
それが、かろうじて、嘘は言っていないと罪悪感を誤魔化せる方法だからだ。
こういう断り方は、今思いだせる範囲では中学生の頃には頻繁にやっていたと思う。
友だちが遊ぼう、と誘ってくれても、そんな気になどなれず、かといって
遊びたい気持ちじゃないなどと言ってはいけないと思っていたから、
「今日は遊べない」「今日は都合が悪い」と毎日言うしかなかった。
なにか用事があるの?ときかれるとなんとか嘘を言わなきゃいけなくなったから、
訊かないでほしいと思ったし、だから最初から、「誘わないでほしい」と思っていた。

今回の電話も、いつものそのやり方で済ましてしまった。
いつまでこんなやり方で、しのいでいるんだ?

それで今回思ったのは、わたしは何をもって「意味があるか」と
判断しているか、ということだった。

以前から、誘われると弱い文句がある。

「Abyさんにやってもらいたい、Abyさんに頼みたい」

と誘われると、じゃあ、と言って受け入れてしまうことが多かった。
わたしは、こう言われるのが、嬉しかった。

これを求めていた。

「それは自分じゃなきゃダメなのか」とわざわざ相手にわたしが訊かなくても
「そうなんだ、Abyさんじゃなきゃダメなんだ」と言ってくれるのを期待した。
そう自分で期待していることなど自覚もなく、期待していたのだ。

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?
いつも、わたしがしてあげていただけじゃないか。」

という部分の、

「あなたは、わたしにどれだけのことをしてくれたのか?」

と言う時、それはどういう意味かというと、

「あなたは、わたしに、どれだけ、Abyさんにお願いしたい、という
用件をわたしに与えてくれたのか?」

という意味がそこにあることに、今日の電話の一件で気づいた。

無意識にそれでその人を「評価」していた。
その評価が「高い」と、それじゃあ、行ってあげなきゃ、といって
つきあいで誘いに応じるというだけで、それはまるで、清算、
プラスマイナスゼロかどうかという計算を即座に行っている感じだ。

父親似の気狂いであった大学時代の教師K先生も、かつての職場の代表OHさんも
そういう人は皆、同じだった。「Abyさんに来てもらいたい、Abyさんにお願いしたい」
そういってわたしに近づいてきたし、わたしも自分を必要としてくれるところとして
近づいていった。

そのとき、わたしは「やりたいことが見つかった」
と、思ったのだ。

でも、考えてみたら、おかしい。やりたいことが見つかったのではなく、
自分が役立つ場所が見つかった、というだけだ。

やるべきことは何なのか、を探しているつもりでも
それ自体が見つかったことは、考えてみたら、無い。
「あなたが必要だ」と言ってくれる人に出会った、というだけだ。
それをもってして、わたしは、「やるべきことが見つかった」と言っている。
それは、やりたいことが見つかった、ということと、わたしにとっては同じだった。

「やりたいことが見つからない」

という思いが、そのゴールとして見据えている「行く末」というのは、
つねに、滅私奉公という墓場だったのだ。

滅私という感覚が最初に麻痺、スルーしているので、なんとか自覚的になれるのが
「奉公」という部分だが、これとて、「仕事を手にした」といった感覚だから、
わたし自身は「得た」と思っていて、言いなり、いや、言う前に動いてくれるコイツは都合がいいや
としか思っていない毒親と同じタイプの人間に搾取されているだけなことに気づかない。
わたしはただ、やりたいことが見つかった、と認識してしまうのだ。

「仕事を手にした」と書いたが、実際、わたしにとって、
「仕事」というものに対して、こういうイメージを持ってしまっている。

だから、「やりたい仕事が見つかった」と自分が思ってしまうようなところというのは
軒並み、毒親のコピーのようなヤツが舌なめずりして待ち構えている。
実際、かつて、「やりたいことが見つかった」と思って飛びこんだところに待ち構えていたのは、
Pさんであり、学生時代のK先生であり、はじめて就職した職場の代表OHさんだったのだから。

「やりたいことが見つからない」という焦り、衝動、自動再生の声は、
必ず、そこ(墓場)へと誘導していった。

父の口癖で、

「いろいろ出来るようにしておきなさい。出来ないよりは出来たほうがいい。
可能性は多いほうがいい。選択肢は多いほうがいい。そうすれば将来、
なんでも好きなものを選べる。自分がやりたいこと、したいこと、何でもできるから」

とよく言っていて、だから今のうち、たくさん努力しなさい。今しかできないんだよ。
苦労は今のうちにしなさい。そうすれば、どんな夢も叶うから、と。

つねに、父の話は、「未来」という無い所の話なのだ。
「今」は未来のその時のために努力し、頑張る時であって、
わたしにとって、子どもの頃から、「やりたいこと」は、「今」ではなく、
「大人になったらいつか見つかる何か」だと思っていた。
だから、今やりたいことをやろう、という発想自体、持てていなかった。

「やりたいこと」は、自分の内にあるものなんだ、というふうに考えたことなく、
どこか、外の、これから先の世界にあると思いこんできたのは、幼い頃から、
それが当然のことのように思わされてきたからではないだろうか。
やりたいことは、いつか「見つかるものだ」となんの疑いもなく思いこんでいたし、
人生とは、それをいつか手にし、「自分しかできない何か」で活躍することだ、と
そう思って疑ったことがなかった。

この「自分しかできない何か」という発想は、どこから来たのだろう?

この「自分しかできない何か」に関するわたしのイメージは、
「今は想像もつかないすごいこと」というものだった。
そういうものだったから、今できていること、やっていることはたいしたことないこと、
できて当たり前、今やれていることは、そういった未来からすればなんでもない
まだ価値がないものだ、と思っていた。

このあたりは、父による洗脳にちがいないと思うのだが、
何か腑に落ちない。こういうことを言葉で言われたくらいでは、
いくらわたしが子どもであったとしても、重大な影響を受けるとは思えないからだ。
むしろ文言だけとれば、それをプラスにもっていくことだってできるはずだ。
だからリアリティーの欠落したこういった文言の問題じゃなく、その言葉を発する
父の動機、思惑にこそ、言外の圧力があったはずだ、と思うのだが、
ここがよくわからない・・・

いや、ここで騙されてはいけないんだ。

わたしが表向き覚えているこういう父の発言、ストーリーというのは、
見せかけの、うわっつらの物語なんだ。いかにも夢のある、子ども思いのストーリーに
仕立ててきているのだから、ここで騙されちゃいけない。

考えてみれば、父の自慢話は、

「パパしかできない」

という点に、つねに話の「オチ」があった。

仕事の話で耳にたこな話のひとつは、お客さんからいつも、
「Eさん(←父のこと)いないの?Eさんがすすめてくれたものじゃなきゃ買わないよ」
と言われること、自分にはこういうお客さんがついていることを、子どもたちに自慢していた。

パパが頼られ、
パパにしかできない、

これとそっくりを、わたしも人生の目標にしてしまっていたではないか?
まさに、「Abyさんじゃなきゃダメなんだよ」、これと同じことを
父も言われることを、何より自慢していた。

これは以前にも掘ったところだが、もう一度掘り返すと、
つまり父は、本当は自分の母親に、

「Eちゃんがいてくれなきゃダメなんだよ」

と、ずっとずっとずっと言ってほしかったんだ。

自分の母親に振り向いてほしくて、自慢したかったのだ。
「これだけお客さんから、Eさん、Eさんって言ってもらえているんだよ。
だからお母さん、ボクにもそう言ってよ」、と思いつづけ、
結局、父の兄ばかりで、言ってもらえなかったのだ。

つまり、我が家というあの家、わたしが育ったあの家庭は、
そこでのわたしたち子どもの役目たるや、
父の母親がわりに「パパ、すごいね」と言わせるための道具か?

「そうなんです。パパ、すごいんですー」と、しらふでも自分で言っちゃっていたけど、

父が本当に言いたかったのは、

「そうなんです。パパすごいんですー。でも、ボクのお母さん、ちっともわかってくれないんです」

という、愚痴、うらみつらみだったのだ。



2014.10.09
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-09 03:11 | 復元ノート 1

何から逃げているのか

行動してから、考えてみたらどうか?と、先月の終わり頃、数日やってみたが、
これは、まったく、何の解決にもならなかった。

何の解決にもならないどころか、AC人格が掘られない状況をつくり、
さらには、これでいいと言ってもらいたいAC人格の出番も許してしまう結果だった。

「まず、やってみる」といくら強がっても、いざやってみると、そのあと必ず、
「これでよかったんだろうか」という不安が押し寄せてくる。
やる前に不安になるか、やった後に不安になるか、あるいは、
やった瞬間に不安になったり、不安に目をつぶってやってしまえとなるかの違いでしかなく、
何も変わらなかった。

行動と思考の順序を変えてみたところで、それは、順序を変えてみただけでしかなく、
やってみて思ったのは、どういう順序であれ、行動に対して、AC人格の思考が
圧倒的に支配的だったこと。

格闘技体験で、「柔術をやってみたい」と思ったときの感覚に似ていた。
これなら野性的な感性を取り戻せるんじゃないか、と思いこもうとしていたが、
そうではなく、「痛み」を避けていた。だからおそらく、もしも、その動機で柔術を始めていたとしても、
ずっと、その痛みというものを、無自覚であっても、意識し続けての稽古になったに違いない。

そう考えてみたときに、この「痛み」を避けてきたのと同様に、
そもそも、わたしはこの日常生活や仕事という現実生活の中で、
何から逃げているんだろうか、これが、わかっていないのではないか?
と思いはじめた。

なぜ、行動しちゃえばいいんだ、というAC人格の手口に、
やってみるまで気づかなかったのか?
それには理由があるはずで、何かから逃げたい、と思ったからに違いない。

「やってみる」という行動と、「考える」という思考の順序を変えてみようと「思った」ところに、
AC人格の動機があるのではないか?

行動を先にしてみることで、その後の「考える」というものの性質は、きっと変わるだろう、
AC人格のような計算高さではないものになってくれるだろう、という漠然とした期待があった。
ところがふたを開けてみると、何が変わっていないかというと、この「考え」の性質がまったく
変わっていなかった。これは、わたしにとって、何も変わらないのと同じことだったから、当然、
納得がいくものでなく、「それでも」とAC人格が暴走し始めていたが、ギリギリのところで、
麻痺しそうになっていた自身の不快感になんとか、気づけた。

「やるべきことを、早く、決めたい。決めてしまいたい。」

馴染みのある衝動だ。その衝動を助長すべく、「早く決める意味」も捏造を始める。
今やらねば、今この時にやらねば、この瞬間を逃したらおしまいだ、と。
あとになって冷静に思いなおしてみれば、どれもこじつけでしかなく、
つじつまがあっているだけで、要は、やるべきことを早く決めたいのだ。
こうなってくると、決めてもらいたいAC人格の出番すら許してしまい、
もはや、AC人格のオンパレード。

ここまでなってしまうと、今までAC人格が作り上げてきた論理的思考がスムーズに働き出すから
不快感や違和感があっても、見過ごしやすくなる。不快感の声がすごく小さいと錯覚してしまう。

これは昔からのわたしの癖だが、ある状況下においての行動は、異常に早かった。
「これはやるべきだ」と思ったら、明日やる、という選択はまず無く、
今すぐやらなければ落ち着かなかった。二度手間でも非効率であっても、
やるべきだ、と思ったら、すぐにやる。

これがただの衝動的な行動であることがわかるのは、
いつも「やっておしまい」だから。やれば、それで気が済んでしまう。
考えておしまいもそうだけれど、行動にしたってそれは同じで、やるべきことを考えた、
やるべきことをやった、それで満足してしまう。済んでしまう。
典型的なのは、たとえば本を購入するとすると、買って読まない、ということは
昔はよくあった。読書感想文とほぼ同じ心理状態で、買ったらもう読む必要はなく、
買った時点で事は終了していたから、本棚の本のほとんどは、ただ並べているだけだった。

何から逃げているのか?ということを、痛みの場合と照らし合わせて、推測と理詰めで
考えてみると、もしかしたら、「考える」ことから逃げているのではないか?と
思いはじめた。だから、すぐ、行動に出たがるのではないか?

頭のなかのメモのようになってしまうのだが、
思い当たるところを、いろいろ、探ってみた。

「終わりにならない」という感覚が自分のなかにあって、これはいったい何だろうと思っていた。
何が終わりにならないのだろう、何が終わりにならないのが嫌なのだろう?
それが、ずっと検討がつかなかった。ただ、なんだかわからないけれど、
「終わりにしたい」というのがあった。

もしかしたら、「考える」のを、終わりにしたいと思っているのか?

二十歳前後、わたしは毎日のように、「絶対的な法則」を探すことに明け暮れていた。
こう物事を考えていれば、どんなことにも対応できる、という公式を探していた。
対応できる、というのは、今思えば、どんな事象も「説明がつく」ということだけを目的としていて、
これこそ、説明がついた、わかった、でおしまい、解決、というものだったが、
その当時は、これこそ、わたしがやるべき究極の課題だと思っていた。
数理的、論理的な分野に学問としても興味を持ったのは、そのためだった。

学生の間は、ほとんど、それに関心が向いていた。
物理や論理に関する本を見ていると、自ずと、哲学や思想の話が登場してきて、
そのなかで、精神世界という分野もはじめて知った。無明庵を知ったのもその頃だった。
わたしは絶対的な法則作りのために、都合のよいところを切り貼りしていた。

ちょうどその頃、Pさんと出会った。

Pさんに惹かれたのには、理由があった。わたしから見たPさんの印象は、直感的かつ行動的で、
わたしには、それが魅力的だった。とてもピュアに見え、一方で、わたしから見ると、危なげに見えた。
この直感的で行動的な純粋さを守ってあげたい、と思っていた。

これが、ただのPさんの「わがまま」、自分のことしか考えていないただのわがままだと
やっと気づけたのが、自我復元を開始してから、随分経ってからだった。といって、Pさんのその
「自分のことしか考えていない」そのさまに、気づいていないわけではなかった。
むしろ、わたしから見ればその傍若無人さに惹かれたから、Pさんに惹かれた。

先日、ふと、こんなことを思った。

わたしは、楽しんで考えたことがない。

楽しんで、というのは、自分のために、ということ。
こう言葉にしたことは今までないのだけれど、
もしかしたら、他の人は、考えるとき、楽しかったりするのだろうか?

わたしの場合、やるべきことが何なのか、それを決定するために、
「考える」ということをしている。やる前に考えようが、やった時に考えようが、
やった後に考えようが、「ちゃんとやるべきことをやったか」の自己確認を目的としている。
そのやるべきことというのは、わたしの中に基準がないから、外部にそれを探そうとする。
逆にいえば、自分ではない「他の誰かや何か」の都合を「考えて」行動している。
無自覚に、結果そうしていることも多い。

たとえばわたしが「お茶をいれようか」という時は、相手が飲むかどうかが中心にある。
ところが、Pさんが「お茶をいれようか」という時は、自分が飲むことに中心がある。
だから、わたしの場合は、もしも自分が飲みたいというときは、相手を誘わないこともある。
そうすると、昔よくPさんが言っていたが、「なんで誘わないんだ」と怒り始める。
つきあいはじめた頃はわからなかったのだけれど、つきあっていくうちにわかってきたのは、
Pさんは、自分が飲まないときは、「お茶をいれようか」とは絶対に言わない、ということだった。
これはわたしにとっては信じがたいことだった。

わたしの場合、相手との会話は、つねに、相手に中心があり、相手を誘うということは、
相手のことを考えてのこと以外ありえない、と思っていた。まさか、自分が飲みたいから
ついでに(というか、自分一人だと悪いと思っているのか)相手も誘っている、とは思ってもいなかった。

わたしにとっての「考える」という行為は、自分のためではなく、自分以外の誰かや何かのため、
少なくとも自分ではない、他の都合にあわせたものになっている。

やるべきことのために「考えている」ことになる。

一方、「やるべきこと」に出くわすと、不快感が起こり、
いつ、このやるべきことが終わるのか、と思いながら、いやいややる。
わたしにとっての「考える」は、やるべきことのために費やされるから、もう考えたくない、となる。

そこでわたしはこういう行動に出てしまう。

「やるべきことをとっとと決めて、とっととやって、早く済ませてしまおう」

こうやって、「済ませた時点で」「解決」としてしまうAC人格がいる。
そして、このAC人格はこれで目的達成だから、済ませてしまったこの先はいつも無い。

たとえば、「宿題やっちゃいなさい。そうしたら遊んでいいからね」といわれたら、
とっとと宿題済ませて、それから「遊ぶ」というメインの目的がある。

記憶では、母は交換条件というものを嫌っていて、子どもたちが、もしも、
「これしたら、こうしてくれる?」というようなことを言おうものなら、強く叱った。
それがわかっていたのでそもそもそういった交換条件のようなことを持ち出すこともなかったが、
母もまた、たとえば宿題やったらあれこれしていいとか、そういった交換条件を言い出すようなことは
一度もなかったと思う。「〇〇しなさい」と言うだけだ。

思ったのは、むしろ、交換条件があったほうが健全だったのではなかったのではないか?
というより、わたしに交換条件を持ち出せる力すら無かったこと自体に問題がある。
「こうしなさい、はい、という感じで、Abyは文句ひとつ言わず、ちゃんとこなしたわよ」と
昨年、母はわたしに幼少期のことを話したが、それはつまり、AC人格で対抗することすら、
わたしはしないで従ってしまった、ということでもある。

母の躾けの方針の第一は、「目つき、態度、言葉づかい」だった。
顔色をうかがうAC人格を強化する上で大きく影響しただろうことは、以前にブログに書いたが、
それともう一つ、母が徹底していたのは、この「交換条件を一切、許さない」ことだった。
「〇〇したら、△△していい?」という言動を絶対許さなかった。

「交換条件はいけないことなんだ」ということは、相当植えつけられていて、わたし自身、
成人してからも、それは、見返りを計算しない立派な人間のあり方だと思いこんでいた。

でも、どうだろうか?

母はただ、命令していただけで、それにつべこべ言わず、わたしは従っていた、
という結果になっただけではないか?「〇〇したら、△△していい?」というその「△△したい」
という望みや意思を、「言わさない」ようにしただけじゃないだろうか。

これは、思った以上に、「子どもの意思を殺させる」のに
効果的な方法だったのではないだろうか。
こうされてしまったら、実質上、「親が何か言ったら、無条件に従え」と
言われているのと、なんら変わらないのではないか?

そういった印象とは正反対な、こういう環境が同時にあった。

親と関わらない、親の見えない、親のいないところでは
他の友だちよりも、かなり、自由だったと思う。
通常はダメと言われるようなことも、だいたい、OKだった。
だから、わたしの中では「なにやってもいい」と親はいつも言ってくれていると思っていたほどで
実際、ゲームが欲しいといえば買ってくれたし、10時間連続でやっていようと、
いい加減やめなさいとか、勉強しなさいとか、言われたこともなかった。

わたしがやっていることに文句を言われた記憶がないのだ。

ただ、これは、どうやらわたしが記憶を「分別」しているようだ。
親を怒らせてはいけない、親に逆らってはいけない、ということが前提にあるから、
親の言うことをきかずに、それで叱られた分、というのは、除外している。
自分が悪かったんだから、叱られて当然。どうも、こういう記憶は除いた上で、
「うちの家庭は、自由だった」という記憶になっている。

「パパがわからないところでなら、何やってもいい。
だけれど、パパがわかるところでやるならやっていいこと悪いこと、
言っていいこと悪いこと、けじめをつけなきゃダメだよ」と、父がよく言っていたことからも、
親のいる前、いないところでは、大きな区別がある。

先日、久々に母からあいもかわらずの一方的なメールが届いていたが、
ああいった一連のメールでの発言を見ると、それまではどちらかというと母と父は違う考え方だなと
思っていたことが多かったのだけれど、母は父に完全に洗脳されていたことがわかるようになった。
母本人はまったく自覚がないと思うけれど、あれでは一心同体で、父が洗脳部隊だとすれば、
母が実行部隊になっているだけで、「親に対してだけは許さない」というその大前提がそっくりなのだ。

わたし自身、その「例外」を認めてきてしまったから、いざ、
「親のいないところなら」といったところで、親との関係性での成功体験が元になっているので、
それこそ、親が目の前にいない今になっても、「やるべきことはこれでいいんでしょ、とっとと
やればいいんでしょ、それで問題ないでしょ」と言い、やるべきことがいったん終われば、強い
ストレスから解放され、ホッとし、それを安心や成功と思いこみ、やるべきことがわからなくなると
また不安になり、主体的に考えようとしたところで、その「考える」とは、つねに他者基準としての
「やるべきことは何か」を考えることに費やされているので、自分で考えた「つもり」なだけで、
新たにやるべきことを自身に課したにしかすぎず、その終わることのない「やるべきこと」のたびに、
いつこれが終わるのか、まだ終わらないのか、と文句を言いながら、いやいややりながら、
その「やるべきこと」をずっと繰り返しこなし続ける、というループを繰り返してしまっている。

やるべきことは何か、これでよかったのか、

問題は、これを「自分で」決められないことにあるわけであって、考えることの目的が、
「誰かや何かといった他者によって決められるやるべきことは何か」を知り実行することにあるのならば
いくら、「わたしは考えました。考えてこういうことがわかりました。やってみました」といったところで、
何をどう考え、何をやろうが、何の問題解決にもなっていない。

わたしの「わかった」は、相手の顔色を見て、あるいはまわりの状況を見て、
やるべきことがわかった、という意味でしかない。まったく毒親に都合のいいだけの
典型的な顔色AC人格そのものだ。

自分の意思が見つからない、という状況になると
それが居心地が悪く、その事実から目をそらそうとしてしまう。
次の瞬間、どうすればいいだろう、何をすべきだろう、と考え始める。
行動を先にしたところで、その「考え」の性質が変わるわけがない。
「行動してから、考えてみたら」としても、何も変わらない。

Pさんに惹かれた、というのは、これと同じようなものだったと思う。
Pさんのまず行動的な動きにのっかってしまえば楽だ、と思ったのは確かだ。
今回もそうだけれど、これは、「考えるのを放棄した」ということになる。
もう考えたくない、というやつ。

でも、これはやってはいけなかった。そんなことをした結果、どうなったか?
Pさんのわがままな行動の尻拭いを、「かわりにいろいろ考えて」世話しただけだったではないか。
つまり、彼女が自分のことだけ考えて好き勝手にわがまま放題いられるように
彼女の周辺のことは、かわりにわたしが対応しただけであり、対人関係において「相手」のことで
あれこれすべきことを考えるわたしの癖、AC人格の特徴が役立つことになってしまった。

考えることを放棄するのではなく、
なぜ、考えることから逃げようとしたのかを見ようとしなければ
何の根本的解決にもならない。

絶対的な法則探しも、「これさえやっていればいい」というのが何かを知りたかった。
言ってみれば、これだって、「もう考えたくない」という、考えることの放棄だったと思う。
考えることの「動機」を精査することなく、ただ、考えることを放棄しようとするのは、
自分を捨てることと変わらない。

考えたり、分析したりすることは、これこそ顔色AC人格のもくろみ通りだが、
わたしは「得意だ」と思っていた。だから、そこから逃げようとしているなど想像したこともなかった。
まったく、AC人格の思うつぼ。自分がコントロールできていないのに、得意もへったくれもない。
相手の顔色をうかがうために、必死に考え「させられ」、必死に分析「させられている」ような
今のような状態は、ただの病気、強迫的な「依存症」でしかない。

自分の意思のために、主体的に「考える」ことができていない。

なのだから、「考える」ことが嫌になるのも当然といえば、当然だ。
ならば、「考えたくない」ではなく、嫌だろうがなんだろうが、そこに入っていかないで
どうするというのだろうか?

痛みと同様、考えることを毛嫌いしてしまっている。
まず、そこを認めなければいけない。
そこを認めずに、逃げて、考えないようにしようとなどするから、
「ここで右に歩くべきか、左に歩くべきか」というあの強迫的な確認行為のようなものに
とりつかれるようなことになる。

先月末、まったくそれと同じ状態になってしまった。

痛みが仮想の恐怖の引き金となっているように、
考えることが不快感の引き金になっているのなら、
痛み同様、考えることそのものに入っていくしかない。
そうでなければ、何から逃げているのか、
わたし自身がわからない。

これがわからない、そんな状態で
死ぬわけにはいかない。

自分の意思のために考え、
自分の意思のために行動する。

自分でこうなったと思えない限り、
自分が変わったなどとは、絶対に言えない。



2014.10.05
Aby


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by jh-no-no | 2014-10-05 05:46 | 復元ノート 1