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行動ポート

まる4日かかって作ったものが、昨日、完成した。

縦横高さ、それぞれ1mもない、やっと人がひとり、あぐらをかいて座れるくらいの
小さなスペースだけれど、どうしても作っておきたかった場所ができた。

道着を掛けて、しまっておける場所だ。

一週間前、

道着を注文した。京都の武道具屋さんだったので、試着ができず、
自分ではじめて「裄丈」というものを測った。
首の真ん中に糸の先をテープでとめておいて、糸のもう一方の先端を
横に腕を水平に伸ばした指先につまんで、糸の長さを測る。
肩幅が広いわりに、なんだか短い気がして、近所の洋服店で測ってもらった。

裄丈の測り方、それ自体、ぜんぜん違っていた。
自然に腕をさげて、少し、肘を曲げるようにし、首の根っこから肩、肩から肘、
肘から手首、この4点間の距離を合計したもの、これが裄丈というものであることを
測ってもらってはじめて知った。

自分で測ったのとはだいぶ違っていたので、念のため、いくつかの洋服店でも
測っていただいた。そうすると、3cm以上の誤差が、なぜか測る人によって生じた。
なんでだろう?と思って、家に戻り、もう一度自分で糸をつかってやってみることにした。

ひとつわかったのは、肩や手首の基点をとる時、「そのどの辺りか」で変わるようで、
どうも、ここが一番あやしいな、と思ったのが、手首の基点。手首の骨の出っ張りまでとするか、
手の平の広がりがはじまる直前のところまでとするかで、わたしの場合、3cm以上違う。

裄丈だけをみると、4号サイズにしようか・・・と、随分、迷った。

手首の骨の出っ張りを基点とすることにして、自分で測ってみると、
裄丈は78cm弱。測ってもらった数値のうち、「低いほう」の数値だった。
そのことと、8月の体験稽古で、「長いよりは、やや短めのほうがいい」と感じたので、
4号サイズではなく、背丈にみあった3号サイズを注文することにした。

道着が届き、一度、洗濯、陰干しをし、4~5cmの縮みは想定していたものの、
着てみると、短すぎるということはなく、ちょうどいい感じだった。
測定誤差、収縮率が最も小さい結果だったので、「思ったより、長めだ」といった印象。
思ったのは、もしも誤差や収縮が最大で、「思ったより、短めだ」となっても、
それはそれで、そういうこととして納得できる道着選びが出来たことはよかった。

道着選びをしている、というよりも、裄丈測定を半日以上、ずっとやっていたことになるが、
以前のわたしは、こういうことができなかった。ある意味ではミリ単位でうるさいタイプの見掛け
完璧主義なのだが、それはただ強迫的に「細かい」だけで、そこまで細かく正確である必要が
どこにあるのか?という無自覚な自問に答えられる自分は、どこにもいなかった。
だから、今までは「じっくり、取り組む」などということは、実質上、無理なことだった。
急いでたくさん確認を繰り返し、「完璧だろう」と思いこもうとするのが、せいぜいだった。

それが今回は明確だった。

納得いく道着がほしい、その道着で稽古をしたい、
ただそれだけだった。

そのためには、自分の裄丈を知っておきたい、
裄丈差5cmで号(サイズ)が切り替わるわけだから、1~2cmならまだしも、
5cm近くの誤差の可能性は把握しておく必要があるのは、当然のことだった。

サイズ以外にこだわったのは、専用道着であることと、名前(姓)の刺繍をいれないこと。
「柔道着のが安いから、それでもいいよ」、と度々アドバイスをいただいたけれど、それはやめた。
「名前をいれておかないと、まわりの人にわかりにくいかな」と、一瞬頭によぎったけれど、
いれたくない名前は、いれたくない。

道着を注文した。

注文してから気づいたのだが、道着を掛けて、しまっておけるだけの容積すら、
プライバシーを確保できる自分の領域がなかった。

すでに物置となっていて、ふすまもなく、床のベニヤもいつ底が抜けるかわからない状態の
押し入れがあり、そこをなんとかすることにした。その押し入れ下段、向かって右側半分を補強し、
仕切り板をつけ、扉、錠つきの場所を自作することにした。

正面奥と向かって右の壁面は、白のペンキで塗装することにした。
これは自分でも驚いたことだが、わたしは今まで、塗装をしたことがなかった。
塗り始めて、はじめて、そのことに気づいた。

考えてみると、こういうことはPさんがよくやっていた。
パソコンの設定などもそう。なんというか、「実用的な技術」にかかわる多くは
ほとんど、Pさんがやっていて、ではわたしは何をやっていたかというと、
およそ、案や計画、アイデアを出すことをしていた。それと、重い作業や細かい作業。
塗りながら思ったのは、なんだか、わたしがやっていたのは、下準備で始まり、
下準備で終わり、あとは、Pさんにバトンタッチ。

これを共同作業だと思っていた。でも、それで何がわたしに残った?
ペンキひとつ、塗ったことがない自分が残っただけだった。

釘一本、今回は自分で買い直し、この場所を作った。
これはとても魅力的な作業で、楽しい作業でもあった。
だけれど、久々に気持ちが大きく揺れて、苦しい局面が何度かあった。
ここでいつもペンキを担当していたのは、いつもPさんだったからだ。
でも、自分の人生に、主役は二人はいらない。まして、わたしは脇役ではない。

そう、下準備のための下準備、それは飛び立つことのない滑走路のようなものだ。
この半畳足らずの場所は、もう、滑走路ではない。
だいたい、狭いし、助走なんてとれないし。
ヘリポートなんだ。行動を起こすためのヘリポート。垂直に飛ぶだけだ。
そしてここは、離陸のための所。戻って到着する場ではない。一方通行だ。

どこへ行こう。

何度もホームセンターに足を運びながら、自転車に乗りつつ、そうだ、野宿とかしたいね、と
そんな妄想もしたりした。野生に戻るとか言って、野宿ひとつできないなんて、なんて情けない!
これからやりたいこと、たくさん、あるんだ。


考えてから、行動する。


こういう考え方に、この一週間、度々、疑問を持つようになった。
考えてから行動する、というけれど、わたしは「行動」に移ったことがあったろうか?

AC人格の挙動を観察しながら、ある一つの特徴に気づいた。
わたしのAC人格は、「なんだかんだ言っては」行動を阻止しようとしてくる。
理屈ではなく、結果的に、いつもそうなのだ。
なにかしようとすると、歯止めをかける「ために」「考え始める」ということを
見事に仕掛けてきていた。

行動しないために、考える。

ということを、AC人格は実際に工作しているのに、
頭では「考えてから、行動するもの」と思いこんでいる。
だから考えるのだけれど、結果は、いつも「考えておしまい」なのだ。
この変化の無さを、わたし自身、どこかでわかっている。
どこかでずっとわかっているから、何もかもが徒労や不毛と感じ、
読書感想文状態に陥る。

この「考える」という助走は、飛ぶことがないのだ。
滑走路で終える役目であることを知らなかった、ということ。

それで、トントンと作りながら、ねじをとめながら、ゆっくり、じんわりと
意識化されてきたことだけれど、ならば、滑走路をやめればいいのではないか?
いつか飛び立つ立派な滑走路なんだ、という妄想はもうやめて、そんなのおりればいい。
それは何も、考えなくていいとか、そういう麻痺の道ではなくて、順序を変える。

考えてから、行動する

ではなくて、

「行動してから、考えれば」

いいのではないか、と。

ヘリコプターで上にまず飛んでから、操縦席でゆっくりでもいそいででも
考えたければ考えればいいではないか。

「やるべきかどうか」で悩んだ末、結末先にありきの行動とはいえない行動もどきに出るくらいなら、
「やるならどうやるのか、やらないのならどうやらないのか」と行動に移し、さあ、どうしよう、と
その場で悩み、葛藤し、ここでAC人格が顔をもたげてきたら闘うなりして、結果、
勝とうが負けようが、よほど、そのほうが納得がいく。

居つく場所を作ったのではなく、もう、戻らない場所を作ったつもりだ。
だから行動室じゃない。離陸専用、滑走路無しの行動ポート。

作っている最中、以前、生前記憶の素材探しの時に見た
あの光景を何度か思い出した。

http://mmjhb11.exblog.jp/20897853/

>飛行機のようなものが、時折、そこを行き交っては消えていく。
>この飛行機のようなもの一つ一つは、どこか「選択肢」一つ一つのように思え、
>それを眺めているというのは、選択する、選ぶ前の自分、というふうでもあり、
>「選ぶ自由がある」という気がした。何を選ぶかは、自分次第であり、
>選んだことの責任は当然自分にある、ここには自分しかいないのだから(当然)、という思い。

>終始、そういった意味では孤独感を感じさせるシーンでもあるけれど、
>それが不快ということはなく、むしろ清々しく、しかしそこは、のんびりくつろぐ公園のようでもなく、
>自分の意思を失ってはいけない時間と空間であり、「そこにいるんだ」という自覚をもたらすような
>土地の光景だった。


今回感じているイメージと、この光景は似ていると思った。
それであらためて、自分が書いたその箇所を読み直してみると、
たしかに光景としては似ていたけれども、大きく、異なる点があった。

7月初旬のこの頃は、「行動」という感覚がまるで希薄、というか、皆無だ、と思った。

>そのまま、ただそこを眺めていた。

あくまでも観察者のようで、飛行機のようなものに乗っているのは、
わたしではない、まるで別人のようだからだ。


昨日、注文していた最後の部品である取っ手が届き、それをとりつけた。
道着選びから始まり、釘一本妥協しないで選び作ることに専念した一週間だった。

手の平と指にいくつかまめができた。

お風呂に入るとき、すごくしみた。

顔を洗うと髭が、髪を洗うと髪の毛がたわしのようにこすりつけるから、
「痛い、痛い、痛ーい」と声に出してみる。でも、嫌じゃなかった。
自分が作りたくて作ったのだから、それで痛いのは、ただ、痛いということ。
こういう経験すらしたことがなかった。痛いのは、いつも、ただただ嫌だった。

痛みも苦しいことも、毛嫌いすることはない。
今までこんな言い分は、きれいごとだと思っていた。
そう思わないと、怖くてしかたなかった。

楽である必要などない。

10月3日が初稽古。まだまだやれることを、やっていこうと思う。



2014.09.28
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-28 23:01 | 復元ノート 1

読書感想文の記憶

ここしばらく、子どもの頃の読書感想文の記憶が気にかかっていた。

中学生以降、とくに顕著だったろうか。
課題図書があるとすると、わたしは、本の裏に書かれているあのわずかな
「あらすじ」ともいえないほどのあらすじを読み、それだけで、
ほとんど、読書感想文に書くことが決まった。

一応読むようにはしたが、読んでも読まなくても、読書感想文の中身は
ほとんど変わらなかった。読む前に、感想文が書き終えている、少なくとも、
頭のなかではすでに書くことが決まっていた。

「本を読む」ということが一つの体験だとしたら、
わたしはその体験の「結末」を、体験する前から、すでに
「決めていた」ということだ。


関連して思い出したことがあった。

こういうことを、よくやっていたのが、父だったことを思い出した。
たとえば、テレビで手品がやっているとすると、父の反応はおもに
次のふたつだった。

「おっ。これは難しいぞぉ~」と子どもたちの前でニヤリとして言う。
今思えば、これは、そのトリックが「パパはわかっていますよ」というときに
こう言っていた。

もうひとつは、

「んっ、これ、わかんない。」と妙に真剣な顔をする。で、トリックがあかされると、
「あたまい~ぃ」と言ってニヤリ。どこか、ひとを小馬鹿にした態度。
今思えば、その態度からは、「そのトリックがどれほど頭がいいかを、パパは
わかるほど、パパは頭がいいんだ」と主張していて、この「あたまい~ぃ」をきくと、
「本当はわかっていたんだよ」とすらきこえてしまうほどの、そういう力があった。


わたしの父の印象は、手品にかかわらず、何やっても「驚かない」のだ。
「パパはわかってました」といつもそうだった。「おおー」と言うだけで、それが
本当に驚いていないことなど、いくら子どもだってわかるし、おそらく父は
だまそうとも思っておらず、「パパはわかってました」と、子どもに言いたかったはずだ。


「さすが、お兄ちゃん」


この言葉は、父がわたしに発した言葉の中でも、
最も数が多かった言葉だったろう、と、先日、ふと思い出した。
(名前でも呼ばれたが、わりと、お兄ちゃん、と呼ばれることも多かった。)
勉強でも、スポーツでも、習い事でも、また、父の仕事の手伝いから
カラオケに至るまで、わたしはいつも、「さすが、お兄ちゃん」と言われ続けた。
成人してからも、Pさんの夫としても「さすが」、仕事のことも「さすが」と
わたしに言い続けた。

言葉だけ見れば、褒め言葉のように聞こえるけれども、これも
今になって思えばだが、この言葉の意味するところは、つねに、
「パパは、最初から、知ってました」というものだった。
優勝しても「そうなることは、パパはわかっていた」とか、
あるいは負けても「それも、パパはわかっていた」とか、
実際にそう、後出しジャンケンのように言ってくることもあった。
へたすれば、「10年前にこの日のことはわかっていた」と言い始める。

「さすが、お兄ちゃん」と言ったときの、あの父の感じは、手品で
「あたまい~ぃ」と言ったときの、ニヤリとしたあの感じに似ていた。
「パパには、最初からこうなることは、わかってましたー」それだけ。

だから、「さすが、お兄ちゃん」と何百回言われても、
うれしいとは感じたことはなかった。むしろ、
「とーぜん」と言われているようなものだったので、正直、
なんという印象も抱かない。「よーし」くらいな感覚だ。

それもそうだろう。
父にとっては、予定通りなのだから。

なんというか、わたしがまさにそれと同じになっちゃったんだけど、
ほんとうに「かわいくない」父だった。当時は、そうは思わなかったけれど。


わたしの日々の行動選択は、「今、これをやっていいだろうか。
それともよくないだろうか」を往復していて、迷った挙句、
「やる」にしても「やらない」にしても、どちらかに決めた時は、
その時にはすでに、その行動の「結末」を決めていることに
昨日、ふと気づいた。

日々起こるひとつひとつのことが、小さな体験の連続だとすれば、
わたしはその体験の「結末」を決めてから体験しよう、としていた。


「これをやったらこうなるだろう。
これをやらなかったらこうなるだろう。」


と、わかった(と思いこめた)時点で、行動に出るという癖だった。
それで、その「こうなる」という勝手な予測(決めつけ)が「OK」であれば
やる、やらない、と行動に出るのだけれど、その「OK」が
完全に他者承認による基準であり、わたしの「目的」でもなんでもなかった。

わたしはこのあらかじめ決めた結末、これを「目的」だと考えていたから、
わたしは何でも目的意識を持ってやっている、と思いこんでいたわけだが、
これは「目的」というものでもなんでもなく、「結末」というもの、つまり、
AC人格が先回りして予想立てるシミュレーションの内容だった。


ある行動をするか、しないか。こういう思考の往復を、わたしは自分で
「迷っている」と考えていたが、いや、これは「怖がっている」と思った。
する、しない、いずれの〝体験〟も、その体験を前に、怖がっている。

「まずやってみよう」が、ぜんぜんできない。たとえそうやった気がしても
それは「まずやってみよう、をやってみるのが、今は正解だ」という根拠を
AC人格がかき集め終えた、というだけのことで、まずやってみたわけじゃない。

この、怖がっているんだ、と気づいたときに、
なんで怖がっているのかを見てみると、それが、
「まだ、結末が決まっていないから」という理由だった。


これから〝体験〟をするのに、
なぜ、あらかじめ、結末をわたしは決めようとしているんだ?
それじゃあ、体験する意味、まったくないじゃないか?


読書感想文、まさに、これと同じだった。
それで、だんだんと、父のあの「最初から知ってました」という態度に
まつわる記憶がズルズルと、思い出されてきた。


手品、最初からわかってるなら、見なきゃいいじゃん。


これと同じことが、この馬鹿げたことと同じことが、
わたしの毎日毎日に起こっていた。だからわたしは、何もかも徒労だった。
結論がわかっていることに向かってやらなければならないことばかりだったから。
だからわたしは、何かひとつ終えるたびに、「しばらくほっといてくれ」と願い、
この何もやらなくていい放心状態が、わたしにとっての束の間の安堵感だったし、
「なんて平和なんだろう」と錯覚させる時間だった。
自分で作り出していた強いストレスから解放された、というだけのことなのに。

じゃあ、その「平和」を維持できるのか、といえば、それが絶対無理なのは、
その心地よいと思いこめている状態を、「いつまでこうしていていいのか?」
という自問が起こるたびに、ザワザワしはじめ、その「いつまで」ということの「結末」を、
早々に「決める作業」にかからなければならなくなるからだ。

しかも、その「結末」というものの内容は、全部、借り物だ。
「今、自分はやるべきことをやっているんだろうか」と脳裏によぎるとき、
わたしはその答えを、その「借り物」の中から探すことをしている。
そうやって「結末を決めてから」、行動に出たり出なかったりする。


昨晩、思ったこと。
まず、やってみればいい。問題があれば問題が起こるから。

安心してやってみればいいのだ。
不安なままやってみればいい。

それがいつも難しかった。
いや、今も難しい。

でも、何を恐れる必要があるのだろう。

AC人格が出てくるのを恐れるのだろうか?
それで自分がどうかなっちゃうのを恐れているのだろうか?

それって、たとえば、事故が起こるかもしれないから遠足はやめましょう、
というのと同じじゃないのか。

昨日たまたま、「決闘」をテーマとした本の中に興味深い話があった。
決闘は今は法律的に禁止されているみたいだけれど、かつての感覚からいえば、
「死者が出るから決闘やめましょうって、それじゃあ、決闘できないじゃないか」
というのと同じようなものだったみたいだ。


自分がどうかなっちゃうのなら、なっちゃえばいいじゃない。
いやかもしれないけど、やってみないとわからないじゃん。
事故は起こるかもしれないし、死ぬかもしれない。
だから遠足やめましょう、決闘やめましょう・・・って。


要は、それでいいのかだ。
わたしがそれでいいのか、ということ。


あと、これはやってはまずいな、と思ったのは、
自分の体験を無かったことにすること、あの体験はよくなかったとかいって
葬ってしまうこと。自分の「履歴」から消そうとしたくなるのは、なぜか。
残さなければ、その問いからも逃げることになる。
それにそれは逃げるようなものじゃない。自分から逃げてどこいくの。

どうもわたしは、体験しているときと、そうでないときがあるようだ。
んなわけ、あるわけない。これもあれも、それも、全部、わたしが体験したこと。

これは8月の一連の体験で思ったことだけれど、9月に入ってそれを手書きノートに
体験記として書いてみたとき、「どこどこスーパーでどら焼き買って食べた」とか、
そういうことも書いてみた。わたしは日記というものを、今まで一度も書いたことがなかった。
でも、はじめて、どら焼きひとつ、手書きの文字で書きとめたとき、それから、
あらためてその場面を読みなおしてみた時は、そこを読むのが、ちょっと、楽しみだった。
こんな思いは、生まれてはじめてだった。どら焼き買って、食べたよなぁって。

思い出したくない、忘れたい、と思う体験も、
これが自分の体験なんだ、と受け入れられると、
恐怖よりも、そこから掘っていこう、掘ろう、としている自分に
目が向いていく。今だ、と思って掘っていく。


今回はまだ自分の行動パターンをもう一度見直し始めたところで、
それを特徴づける一つの思考パターンが、父と似ていた、というのが
新たな発見ではあったが、ただ、「似ている」というだけなら、何も
強迫観念のようになることもないだろうから、ここはもっと掘り下げていきたい。



2014.09.17
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-17 23:05 | 復元ノート 1

④去勢されたものを掘り始める

『③去勢されたものを掘り始める』の続きです。


・・・


足の指を痛めた体験に話を戻します。
体験を終えて、そのときのことを、何度か思い出していました。

それでこんなことを、ふと考えました。「もしも、足の指の痛みを、〝相手から〟与えられていたら、どうだったろうか?」と。それまで、わたしは漠然と、わたしは「痛み」に反応しているんだ、痛みが怖いんだ、と思っていました。ならば、今回だって痛かったのだから、こわかったのか?もう、やりたくないと思ったのか?というと、それはないのです。「自分でやったんだから、当たり前じゃん」ということなのか?いやいや、動物として、「もう、行きたくない」と思うべきは、こっちであってもいいのではないか?合気道でいくら間接をきめられたからといって、別に痛みとしては0.5秒くらいだったろうし、今回のほうがずっと痛いし、K指導員との組手にいたっては痛くもなく、ただの痛みの想像だよ?

「もしも、足の指の痛みを、相手から与えられていたら、どうだったろうか」と考えると、「もう、行きたくないな」となることは、すぐ、想像がつきました。わかってきたことは、わたしがこわがっているのは、痛みそれ自体ではなく、その痛みを与える「相手」、与えうる「相手」、この「相手」をこわがっているようだ、ということでした。体験を終えて時間が経ってしまったせいか、相手に対する恐怖心がわからなくなってきてしまって、これもまた、もどかしいので、「相手をこわがっているんだ」ということを、また、確認してみたいという気持ちがあります。それと、もう一つわかったのは、こういうように「相手」をこわがっていたであろうケースでは、まさにAC人格の反応としてわかりやすい反応として、「もう、行きたくない」「もう、いやだ」という生体反応が一気に奪われていくような感覚に、どれも、陥ったことです。そこに関心を向けたくないがゆえです。たかだか痛みひとつで、「やりたくない。本当はやりたくなかったんだ」という、そんなこと本当は思ってもいないのに、自分の意思がぶっとんでしまうこの感じは、仮想の恐怖に翻弄されるAC人格の挙動そのものだと思いました。

あらためて思い出すと、自分の感じ方が相当へんだ、と自覚できた体験の一つは、W合気道会で、師範と生徒の実演を、体験初回、見学したときのことでした。合気道では、木刀や杖を使うこともあり、その日、師範が放った木刀が、たまたま、相手の生徒のひじにあたってしまったのを見た時、わたしは「なんでそんなことをしたの?どうして・・・」とその師範に裏切られたような気になりました。その瞬間、師範の「見え方」は変わりました。こわい人に映るようになりました。何回目かの時も、たまたま、師範の手が相手の頬にパシッと入ってしまい、それを見た時も同じ恐怖心を抱きました。わたしの意識の向かう先は、つねに、痛みを与えた「人」であって、「痛み」のほうではないのです。拷問と同じで、わたしは、こういう自分の恐怖心を相手役の生徒にも投影し、「見ているだけでもこわかったのだから、あの人はもっとこわかったろう・・・」と勝手に想像しては、その生徒と自分を重ね合わせ、師範という「人」を恐れます。痛み、痛みの想像を通して仮想の恐怖のスイッチが入るという仕組みだと思います。でも、冷静に思うと、このケースでも、それこそ、相手の生徒はこわいと思っているだろうか?といえば、はなはだ疑問なのです。師範のそのあてみは反撃であって、そもそもは、相手の生徒が攻める役として横面を手刀で切り込みにいっています。それをかわしての反撃なのですから、相手の生徒も反撃が来ることくらい、わかっているわけです。それにだいたい格闘技ですから、多少はあたることもあります。ゆえに、こわいと思うのであれば、その攻撃やそれに伴う痛み、それにストレートに反応するのが、本来、正常な反応ではなかろうか?そういう意味での「こわい」はあるかもしれませんし、あるべきでしょうが、わたしの「こわい」とはまったく恐れる対象が違います。

父は痛みその自体は、直接は、わたしに与えなかったと思います。だけれど、あの「かなわない」という感覚を支えているのは、身体的な暴力のイメージであり、実際の痛みの想像を媒介(手段)にして、その痛みを「与えうる」父を恐怖するように調教する。「逆らったら、こうなるぞ」という仮想の恐怖。「敵視できない」という去勢は、ここにも効果的に作用していて、「敵にまわしてはならない」という恐怖を助長する。わたしという自我に侵入し、定着する。細い細い糸でつながりつつある感覚ではありますが、毒父による洗脳と調教の筋書きのイメージが浮かびあがってきたように感じます。

ふりかえってみると、どの体験でも、痛みや痛みの想像に対して「正常に反応すべき箇所」では反応せず、とんちんかんな箇所で反応しているのは、つねに、恐怖の対象が痛みではなく「相手」になっている時でした。それは「敵にまわられたらどうしよう」という焦りのなかで起こる歪んだ恐怖、仮想の恐怖です。「正常な敵対関係」は、痛みや痛みの想像に対してストレートに反応することが前提であって、でなければ格闘技の練習にすらならないことを痛感したのが、今回の一連の格闘技体験でした。


・・・


その時はまったくなんとも思わなかったのですが、B空手道場で、K指導員以外に、おそらく小学校6年生くらいと思われる女の子とも組手をしました。驚いたのは、わたしが前に出て突くようにしても、バンバン出てきて、「ワン、ツー、上段蹴り!」と型どおりではあるのですが、わりとマジに放ってくるのです。いくら子どもとはいえ、さすがに当たったら痛いなと思って、頭部への蹴りはよけました。ただ、やはり、「このくらいは当たったとしても大丈夫だ」という感覚はあったので、ちっともこわくはなかったのです。それでも思い返すと、あのミット蹴り受けのときのように、「蹴ってくるぞ、守る」「蹴ってくるぞ、守る」という純粋な反応の繰り返しがありました。

この体験は子ども相手だったせいもあり、K指導員との組手の動揺もあったりで、忘れていた体験でしたが、今思えば、ああいう体験が、大事だったのだと思います。まったくバカになんてできないものでした。剣道部のしごきのような、毎日が仮想の恐怖で満ちた体験などより、リアルに殴る、蹴る、という体験が必要だったのだと思います。それは、何も、本当に殴る蹴るをやらなきゃダメだとか、そういうことではなく、ごっこでもいいから、やったほうがよかったのです。はじめはそこも勘違いしていたから、総合格闘技もやらなきゃ、とか、格闘技性の高い拳法もやっておかなきゃ、とか、スパークリングで殴る蹴るを実際にやらなきゃダメだ、とか、そんなことも考えたりして、だからいろいろやろうとした、というのもありました。でも、それは体験を進めていく途中でも注意し続けたことですが、「仮想の恐怖」をなんとかしよう、という意識では、AC人格をさらに育ててしまうのと同じで、いくら本格的な体験をし、たとえK-1の試合に出たとしても、助長するのは、仮想の恐怖であり、最悪、麻痺し、そもそもの目的、「去勢されたものは何なのか」ということを調べ、それをとり戻していく、という目的は達成されないことを、体験のたびに、忘れそうになっては確認し、忘れそうになっては確認しの繰り返しでした。

少林寺拳法は、わたしが想像していたのとはまったく違いました。わたしは何か特定のかわった型とか、そういうものだと漠然とイメージしていました。参加されていた方が教えてくださったのですが、少林寺拳法は、よく、空手と合気道を足して2で割った感じ、と言われるそうです。それをきいていた先生は「まあ、そうなんだけど、実際は違うけどね」と言われていました。その実際のところは一度の参加ではまったくわからなかったのですが、たしかに見た目、やっている動きはその通りで、打撃と間接ぎめが主たる攻撃要素で、かつ、空手とは違って「たてけん」、すなわち、拳を縦にして突くところや腰のひねりは日本拳法やボクシングのそれに近く、偶然ですが、今までやったことの基礎動作を網羅したようなものが、表面的な理解ですが、少林寺拳法でした。ですので、演舞といえど、かなり迫力があり、はたから見ると、本気で突きにいっています。もちろん、決まった型どおりにやっているので、そう動けるのですが、その本気の突きをよけて、寸止めといえど、水月に勢いよく蹴りこむ。最初見ているだけで、お決まりの「こわい」感覚があったのですが、実際、わたしも二人一組でやったとき、相手の本気の突きを実際によけてみて、蹴りこむ。とくにこの「よけた瞬間」、わたしはここでも「あっ、今、守った」と感じました。スロー映像を見るような印象が、今でも残っています。

こういうこと、こういう経験が大事だったのではないか。殴る蹴る。実際に殴る蹴るでもいいのだけれど、そういうことよりも、「敵対関係」という関係性のリアリティーこそ、大事、というか、本来動物として養っておかなければならないもの、失ってはならない感覚だったのではないか。実体験の去勢とは、つまり、この感覚を奪うことであり、要は、子どものけんかひとつ、ろくにできなかった、させなかったということ。「暴力のイメージ」を植えつけるためにも、父は、仮想の恐怖が「仮想であること」に気づかないでほしいがゆえに、実体験の去勢をした、ともいえるのではないか。

わたしが知っている関係性とは、「実は敵だったヤツが親として君臨した毒親と、子どものわたし」という従属関係であり、他者関係において顕著にあらわれていました。

わたしは殴りあいの喧嘩というのをした記憶がありません。たぶん、本当にしたことがないのだと思います。殴られたことは、人生のうちで、たった、一度だけあります。小学校の卒業式の前日に、なにがしゃくにさわったのかわかりませんし、原因も覚えていないのですが、一番仲のよかった子に、顔面あごのところを、げんこつで殴られました。つかみあいをしていたわけでもなく、たいした口喧嘩をしていたわけでもないと思うのですが、突然、殴ってきました。覚えているのは、ただショックを受けて、呆然としていたことです。殴り返そうとも、文句を言おうともしませんでした。痛みは覚えていません。痛かったかどうかも覚えていません。ただ、仲よしの友だちに、顔をしかもグーで殴られたことの精神的なショックが、大きかったように思います。それと、「こんなことになって、まずいことになった」という事態に対する焦りがあったように思います。これに対して、どう、親が対処したのかも覚えていないのですが、「どうしてそういうことになったの?」とおそらくきいてきたと思います。

これを思い出したとき、思いました。

父はわたしたち子どもに「命をかけても子どもたちを守る。子どものためなら、命なんていつでも捨てられる。」とよく言っていましたが、わたしが友だちにただぼけーっと殴られていた時、誰がわたしを守ったのか?誰も守ってくれはしなかった。わたしが自分を守るべきだったのだ。殴られても、それからでも何かすべきだったのだ。父は何からわたしを守ってくれたというのだろう・・・このことを考えていたとき、皮肉にも、守ったのは、「父自身の暴力」からわたしを守っただけで、そういうのは守ったとは言わず、自作自演、暴力をふるわなかっただけで、いや、それも間違いで、「かなわない」という恐怖を与え続けたことそれ自体が暴力であり、思えば、父が威張って言っていたこと、たとえば、「子どもの時から貯めた貯金20万。ぜんぶ、Abyの出産費用に使ったんだよ」という話など、わたしは偉いパパだと子どもの頃はずっと思っていたけど、それこそ親として当たり前のことで、彼の言う「子どもを命をかけて守る」というものの実体は、こんなことばかりでした。いざ、立場が揺らげば、「他人のせいにしちゃいけない。つらいのはみんな同じ。努力。あきらめたら人間おしまい・・・でもね、Aby、いざというときは、パパは何でもしてやる」と言うけれど、その「いざ」というときは一度でもあったのか。その「いざ」もわたしは友だちに殴られただけだった。わたしは何もできなかった。自分で自分を守ることができなかった。

9月に入り、しばらくした頃、Pさんとの間で、こんな出来事がありました。

自我復元を始めてからは、距離を置くようになったので、当然、Pさんは放っておかれている、そう感じてきたと思います。時折、「なんでこの頃、つめたいんだ」とか「なんでキスしてくれないんだあー」とか言ってくることはありましたが、先日は、「つらい、さびしい、孤独だ。こんな生活・・・」とすすり泣きまでされ、随分、罪悪感をあおってきました。以前なら、わたしも感情移入し、随分と動揺しました。彼女のことが好きなわたし、そういうAC人格がいるからです。今は、罪悪感をあおっているのがわかってくると、その動揺からは距離が持てるようにはなりました。ただ、いつもそうですが、彼女の言動それに対しては何も答えられず、黙ってしまいます。それしか、どうしていいのかわからなくなるからです。

罪悪感をあおっている様子をよく見ていると、最初は冗談で言っているように聞こえる「Abyのこと、恨んでいるんだからね」という言葉も、まったく冗談でなく、本音なことに気づいてきますし、これでもか、というくらい、容赦なく攻撃をしてきていることにも気づいてきて、それを観察する、という姿勢をわたしはとるようになります。すると、こういう思考が起こってきます。

「どうして、この人は、これほどに攻撃的になれるのだろう?いくら今、寂しいと感じていたからといって、ずっと好きだった相手に対して、どうしてここまで敵視できるのだろうか?」

わたしには、まるっきり理解できないのでした。それで、今回、格闘技体験をしたおかげで、わかったことがありました。わたしが、わたしだけが、Pさんをこの期におよんでも「敵視」していないのです。今までの関係性から離れようとし、実際離れているからPさんは苛立ち、怒っているわけですが、なのに、わたしだけが「かつての関係性の中で」Pさんを見ていたのです。かつての関係性とは、従属の関係性です。

わたしがPさんの自我という家に、滅私という大義名分で「侵入」し、管理者・世話係として奉仕という大義名分で「定着、君臨する」という、親がわたしにやったことをそっくりPさんにやって作り上げてきた関係性・・・この境界線もへったくれもない、侵入関係(依存関係)が、かつての関係性であり、病的な関係性であるわけですが、わたしはこの構図のまま、Pさんを見ている。だから、敵という認識がありません。攻撃されているのにです。

今回、「Pさんはわたしを攻撃しているのではないだろうか」とはじめてしっかり疑って見て、ようやく、「Pさんは、わたしと違って、異様なほど攻撃的だ」ということにはなんとか気づき、それと同時に、これと同じことを父や母のメールにも感じていたことを思い出しました。だけれども、「まあ、勝手に怒りを向けるのはいいけれど、どうして、実の子どもに、あれほどの言葉を放てるのだろう?つい勢いで、というのがあるかもしれないが、あれから何も言ってこない。言い過ぎた、という感覚はないのだろうか?」という思いがわたしにはありました。別にあやまってほしいとかでもなんでもなく、あまりに攻撃的なあの態度が、どうして出てくるのか、ぜんぜん、理解できなかったからです。

その親に対しても、わたしは、無視する、という、そういうふうに言うとなんだかこちらに無視する主導権があるように聞こえますが、事実は、「どうしていいのかわからないから、無視せざるをえない」という状態にありました。

それでやっと気がついたのは、このような状態、親から見ても、Pさんから見ても、もはや「敵対関係」にある事態になっているのに、わたし一人が、敵視できていないのです。むろん、それをした張本人が「親」なのですが、親にとってはそんなことはどうでもよく、「今までの心地よい関係性をぶち壊すようなケンカをうってきたのは、Abyのほうだろ」というのが、きっと、彼らの、そしてPさんの主張であり、父も母もPさんも、わたしを敵視し、怒りをぶつけて当たり前だったのです。攻撃的になれるのは、当たり前でした。敵なんだから。「なんで自分のことばかり、考えているんだろう」って、そりゃそうです。敵が、わたしのことを気遣うわけがないのです。敵である彼らからすれば、Abyこそ宣戦布告しておいて、何しようとしているの?と、まるで、格闘技の体験に来ておいて、何したいのお前?と同じ状態になっている。

父、母、Pさんに対して、「どう対処していいのかわからない」というのが、無視したり、放っておいたりしていることの理由であり、では、なぜ、そういうことが起こるか、というと、あいもかわらず、以前の関係性のなかでしか彼らを見ることをしていない一方で、その関係から離れようとはしていても、もはや敵視すべき関係性にあることが然るべき関係性であるにも関わらずそれができないでいるものだから、「かつての関係性〝でない〟関係性」という、結局、自分でもどう理解していいのかわからない状態に宙吊りにされている、というのが、今の自分の現状だと思います。

自我復元を決意したということは、宣戦布告をしたということです。

Pさんとの一件で、Pさんも、父も、母も、はじめて「敵」なんだ、ということを知りました。こんなことは当然、自覚のうえで自我復元とAC人格分析をしてきたつもりでしたが、攻撃を受けていたことをいくら知っても、それは友だちにいくら殴られてもということ似ていますが、攻撃されて殴られて、でも、その相手を敵だと「わたしが」認識できなければ、関係性は何も変わっていくはずもなく、それで誰が得をするかというと、敵対関係になることを阻止しようとし続けた毒親が笑うだけであり、Pさんも一緒に笑うだけです。

かつての関係性をやめたい、ではなく、変えていこうと思います。去勢されたものをとり戻しながら、そこを変えたいと思います。

長くなりましたが、以上ご報告させていただきます。

Aby


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桜の間 参考記事

「自我の概要のイメージ」
http://www.mumyouan.com/k/?S384


2014.09.15
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-15 13:10 | 復元ノート 1

③去勢されたものを掘り始める

『②去勢されたものを掘り始める』の続きです。


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総合格闘技で、柔術を体験したときのことです。

体験からもいかにわたしが、正常な反応に鈍いかということを痛感する出来事があったのですが、それは後述できればと思います。もう一つ、ここでの体験でわたしにとって貴重だったのは、柔術のスパークリング(乱取り稽古)を見学させていただいたことでした。

合気道は別としても、それまで体験した空手やキックボクシングなどはおもに打撃系のもので、今回は、基本、寝技という点が大きく違う点でした。生徒二人がまさに「とっくみあい」をしているように、床をはうように、バトルをしている、そういった印象です。柔道以上にそのさまが生生しく、それこそ野生の動物がとっくみあいをしているようでした。

この見学体験が、もっと体験の最初のほうであれば、「なんて、乱暴なんだろう」とそこに喧嘩のイメージ、というより、「暴力のイメージ」をあてがい、こわくなって、まちがってもやりたいなどとは思わなかったと思います。後に思いましたが、この暴力のイメージも、作られた(父によって作らされた)イメージです。今回の一連の体験で、随分、なるほど、と感じたことは、どんなに乱暴に「わたしからは」見える競技も、非常に合理的に動作というのは組み立てられていて、それを、当然ですが、お互いが「了解」の上で、格闘技をしている、ということでした。まわし蹴り一つ、理にかなった動きをしていました。だから威力もある重い蹴りが放てるのだと知りました。

これはキックボクシングでよくわかったのですが、はじめは、見ているだけだと、なんだかみんながみんな超人のように見えてきて、あんな蹴りをくらったら死ぬ、と、びびりながら見ていました。ところが、自分もやってみると、だんだんと「らしく」なっていくのです。ボクシングも「らしく」なっていきます。イメージだけでは、出来ないのです。むしろ、イメージは、リアリティーがそこに無いため、そういう類の妄想しか生みません。同じ人間ではないと感じてしまう恐怖もそうでした。つくづく、わたしの「格闘技イメージ」は、リアリティーの無い漫画(久々に「修羅の門」という漫画を手にとってみましたが、わたしの脳内はこういったものが格闘技だったのです。体験の影響か、まったく面白くありませんでした。)でしかありませんでした。

そういう脳内イメージでなく、実際にやってみると、不思議と、見ていてもこわくなくなるのでした。もちろん、あれがあたれば痛いのは変わらないでしょうが、なぜか、同じ恐怖は出てこなくなります。「ああなっているから、こうなるんだ」とわかるだけで、ぜんぜん、違うのです。さらに生意気なことに、自分の何倍ものパワーで蹴りを放っている人を見ても、「もう少し最初に腰のひねりをためておけば、もっと重くなるんじゃないかな」とか、初心者だからこそ気づきやすいことに目も行くようになると、同じ人間としか思えなくなり、あの、超人や得体の知れないものを見るような「見え方」が嘘のように氷解します。(これがまったく氷解しなかったのが、父です)。

話を柔術に戻しますが、見た目は道着の襟や胸元を乱暴にひっぱったりしているのですが、腕十字などの技にもっていくためには当然のことであって、なにも、道端の喧嘩のように、「なんだ、おらぁ~」といきがって胸ぐらをつかんでいるわけではないのです。これは寝技という近接した技の掛け合いだからより顕著に感じたのかもしれませんが、攻守同時というか、守るために守り、守るために攻め、という自分を死守し抜くという技の掛け合いが、その生生しさとあいまって、野性的で、わたしは見ていて、「これなら、やりたい」と思ったのです。

問題は、なぜ、「これなら、やりたい」と思ったか、ということでした。最初は、「自分もだんだん野性的な感覚を取り戻してきたのかな」と思いこみたかったのですが、それはそう思いこんだだけで、実際は別のところに要因がありました。なかなか認めたくなかったのですが、「これなら、やりたい、やれそう」と思った理由は、「痛そうでなかった」からです。あまりにバカバカしい理由で、これはしばらく、認めるのを躊躇しました。しかも、体験を経るにつれて、理屈もわかってきて、漠然とした仮想の恐怖も薄れていたこともあって、「純粋にやりたいと思ったのだろう」と考えやすかったのです。

もしかして、痛くなければいいと思っていないか。
打撃系でないから、痛くなさそう・・・というだけのことじゃないのか?

こういう感覚は、思えば、合気道を体験しはじめたときにも感じました。合気道は、試合がないからこそ、もしも試合なら100%反則になる技も想定して稽古します。ある意味、だからこその迫力のようなもの、殺気のようなものが、実演を見ていても感じることが多々ありました。この殺気のようなものは、なまじ、寸止め空手の激しい試合を見ていても感じないもので、おそらくそれは、やらないけれども、その気になればいつでも殺せるところを狙っているという意思が強く伝わってくるからだと思います。わたしは「ここに」本物を感じ、ここでなら、「自分で自分を守る」という意思もとり戻せるのではないか、と合気道に甘い活路を見ていたのですが、よく考えていくと、打撃系の格闘技に比べて「痛い思いをしなそう」だから、合気道を選択肢に入れ、かつ、それをやる意味を捏造したかったにすぎないのではないか?という自分のもくろみにうすうす気づくようになり、いよいよ、おじいちゃん先生に手首をきめられたとき、「やっぱり」と思いました。痛みひとつで、やりたくなくなってしまったからです。

この「痛み」の影響については、最後の最後まで気づかなかったことでした。これほどまでに、身体的な痛みに弱いとは、自分でも思ったことがありませんでした。そもそも痛いのなんて誰だって嫌にきまっている、と思っていて(それはそうだと思うですが)、手書きのノートにこう書いた記憶があります。

「こんなの、やりたくない」

だって、自分が痛いか、相手を痛い思いさせるしかないじゃん、と。自分がやりたくないということ以上に、なんで、こんなことをやりたいなどという人がいるのか、まったく、わからなかったのです。強くなってどうすんの?痛いだけなのに、誰かを痛めるだけなのに?なのに、なんでこんなたくさんの人が、空手だの合気道だのやってんだろう、極真や総合とまでなると、もうぜんぜん、なんでこんなのをやりたい人がいるのか、さっぱりわからない。「去勢されたものをとり戻すため」と目的を掲げ、やり続けてきたものの、格闘技というものが、なんだかわからなくなっていきました。

それから、昔、よく、父がテレビでプロレスを見ていたことを思い出しました。わたしは興味がありませんでした。痛めあう競技だからかというと、ところがなのですが、そうではありません。それどころか、わたしはむしろ格闘技のようなもの、カンフーや技とか、そういうのが大好きでしたから、ジャッキーチェンの映画もよく見ましたし、北斗の拳の漫画だって大好きで、「プロレスなんて、なにも超人的なものがなく、つまらない」と思っていたのです。これはスポーツ観賞全般への興味の希薄さにも通じるものがあります。プロ野球を見に行こうと誘われても、全然おもしろくなかったのです。所詮、人間技だと思っていたからです。それでふと気づいたことがありました。わたしの頭の中の世界は、まさに漫画、ゲーム脳になっていたことです。そこに実際の痛みがない。痛みの想像すらない。わたしの中での「格闘技」には、痛みという概念がありませんでした。

体験期間中、いつ頃だったか忘れてしまったのですが、父が見ていたそのプロレスを、あらためて動画で見てみたことがありました。どうせつまらないだろう、と思って見始めたのですが、面白いかどうかではなく、今まで感じたことがなかったことを感じました。それは、「痛そう」というものでした。それは意外な反応でした。プロレスを見て、いくら血を流していても「痛そうだ」などと思ったことは、子どもの頃、一度もなかったからです。「プロレスは本当は演技なんだよ」と父が頻繁に言っていたことも、もしかしたら影響があったのかもしれません。ジャッキーチェンもしかり、わたしを非現実的な格闘技イメージに誘導したのも、父だったのではないか?そもそも、父こそ、漫画脳、ゲーム脳だったのでは?とすら、思えてきました。

いずれにしても、今回、いろいろなものを体験しているさなかだったからかもしれませんが、はじめて「痛み」ということに目を向けることになりました。


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「痛み」に関して、このことが父に由来していることは、検討がつきました。それは、おそらく、父に対して「かなわない」という感覚に、アンテナを向けていたからだと思います。かなわない、という恐怖の先に想定しているのは、暴力の矛先がわたしに向くことでした。それは、命の危険とも言えるし、なによりそれは、身体的な痛みの想像によるものだったのではないか、と思っています。痛みを想像したかどうか、という具体的記憶としては、そもそもあったかどうかわからず、今のところ思い出すのが困難に感じてはいるのですが、父の腕、あの感じ、力ではかなわない、逆らったらやられる、というあの脅迫的な感覚は、明らかに言葉の暴力とかではなく、「身体的な暴力」のイメージからくるものです。

逆にいえば、言葉で負けるなどは一度も思ったことはありませんでした。ただ、最後の切り札は親(とくに父)による身体的な暴力のイメージによって、「親に従わなければならない」という結果になることを、つねに知っていながらの抵抗でした。母に対しても、最終的には同じ心境になるのは、母のバックに、やはり、父がいたからです。母は、「親」という鎧をつけている間は、父を味方につけられることを、経験的に知っているはずです。いくら「妻としての母」を見下そうと、「親としての母」を父は見下すことだけはできないのは、父の歪んだ親像、女性像から想像がつきます。

ふと、こんなことを考えました。また拷問のことですが、なぜ、わたしがあれがそれほど怖いのか、というと、結局は、「身体的な」痛みや苦しみへの恐れにあります。たとえばですが、わたしは身動きもできない狭い箱のようなところに閉じ込められたら、気が狂うと思います。それは、動けないという、身体的なことが大きく関係します。別の言い方をすれば、身体的な痛みや苦しみといった不自由が介在しないかぎり、苦痛に対する想像力が乏しいようにも思います。拷問というのは、わたしにとって、「痛みの極」にあるもので、実際の痛みの妄想の頂点にあるものです。恐怖の最高峰であるがゆえに、AC人格の妄想が進んでしまうと、こんなことも考えてしまいます。

「もしも契約変更をする能力も取り戻せず、変更できず、Pさんと別れでもしたら、死後、ペナルティーとして処罰されてしまうのではないか?その処罰とは何だろう、すごい痛いことだろうか・・・」

と、ここに、拷問のイメージをあてはめてしまい、最悪、だから自我復元しなきゃ、とか、崩残さんに見捨てられないようにしなきゃ、と今までも幾度とそういう思いを往復してきたわけですが、こういうストーリーを組み立てること自体、仮想の恐怖の産物で、それを作り出しているものこそが今問題で、それは、妄想とはいえ、やはり「痛み」なのです。身体的な痛みです。初回判定依頼の際にも、「苦痛のないこと」を自分にとって重要なこととしてあげましたが、この苦痛とは、身体的な苦痛のイメージがほとんどを占めています。

いずれにしても、実際の痛み、あるいは、実際の痛みの想像が、恐怖の引き金になっていることは確かなようでした。しかし、引き金になっていることと、純粋に痛みに対して恐れているのとは別問題だ、ということを自覚しやすくしてくれた、予期せぬ体験がありました。


・・・


これはだいぶ終わりのほうの体験ですが、日本拳法を体験したときのことです。はじめは、まったく拳法という分野自体、頭になく、というのも、少林寺拳法もそうですが、わたしの勝手な思いこみで、拳法っていうのは、なんかこう、型をやったり、演舞のようなことをやったり、そういう動作的なものなんだろう、と思いこんでいて、格闘技の範疇から完全に外していました。さらに日本拳法に関しては、「日本拳法」というのがあることすら、今回、はじめて知ったのです。調べてみると、どうやら、自衛隊員がよく訓練しているのが日本拳法であるらしく、ある意味、非常に実践的かつ攻撃力主体の、バリバリ、格闘技でした。その意味では、突き、蹴りともキックボクシングに近く、少し前にキックボクシングの基礎を教わっていたので、日本拳法も短い時間で動き方には慣れることができました。

といって、乱取りのようなことはできなかったのですが、ミットをつかって蹴りを受ける、蹴りを放つ、という体験から、いろいろわかったことがありました。こういったミット受けは、空手でも多少はやりましたが、型どおり蹴れるかが求められていることだったので、それほどは威力もなく、今思えば、非常に弱い威力の蹴りであり、蹴り受けでした。その威力が増していったのは、キックボクシングあたりからでしたが、そこでも蹴りはしましたが、受けるのは「最初はこわいと思うから」と言われて、受けるのは見学になりました。後になってわかったのは、見るほうが、はるかに怖いことです。

ところが、その日本拳法の会では、当然のように、蹴り受けをすることになりました。最初は、見ているあの感覚で受けようとしますから、はなから「こわい」と思っているところがありました。実際の痛みの想像からくる恐怖です。練習をされている方が、腰を入れてバッチリまわし蹴りをしてくるのですから、いくらミットがあっても後ずさりします。ところが、数回受けているうちに、まったく、感じ方が変わりました。

分厚いミットがあるので当たり前なのですが、「痛くない」のです。仮想の恐怖が急激に薄れていくのがわかります。同じ人間に見えてきます。上ずった意識がスッとおなかのほうに降りてきて、一方、目は高い位置、双方を俯瞰するような位置にスッと移動したように思いました。ごく自然に、ミットで守ろうと、わたしはしていました。「来い、守る」「来い、守る」「来い、守る」という自分で自分を守るということが、当たり前のようにできているとはじめて感じたのがこの時でした。練習をしている、練習になっている、と感じました。これは、うれしかったです。

次に、蹴りをやる側になりました。ここでアクシデントが起こりました。数日前のキックボクシング体験の時に、足首あたりで蹴っていたこともあって、そこが少し内出血しているせいかやや腫れていました。「今日は力を加減して蹴ろう」と思っていたのですが、「すねで蹴る感じでやるように」と言われて、ああ、だからこの前は痛めたんだと思い、痛めた箇所をかばう気持ちもあって、必要以上にすねで蹴っていました。「すね」だったこともあって、手加減せず、思いっきり蹴ることにしました。まったく予想していなかったのですが、蹴った時に、ミットを受けている相手の「ひじ」に、思いっきり、足の指があたってしまいました。「すね」すぎて、指先がミットからはみ出すぎてしまっていたのです。

咄嗟に、「すみません、大丈夫ですかっ!」と相手にきいたのですが、その方は冷静に、「こっちはひじだから。こっちのがかたいから、痛かったのは、そっちだと思う」と言われました。「あ、わたしは大丈夫です」と何も考えずに答えて、残っている発数の蹴りを続け、ちょうど休憩に入ったのですが、気がつくと、随分、痛い・・・。すでに完全にあざになっていて、まずいな、と思って、コールドスプレーをお借りして処置をしました(これは数日で治りました。あと、これは余談ですが、毎日のようにいろいろやってよかったと思うのは、使う筋肉も様々で、最初は20年ぶりといってよいほど久々の運動で全身筋肉痛でしたが、だんだん慣れてきて、あれだけ無謀にやっても、怪我という怪我がなかったのは、8月中、いろいろな身体の部分を動かしていたからではないかと思います。偶然でしたが、無理がなかったという意味でも、空手→合気道→総合→拳法といった大きな流れでの順番は、結構よかったのかなと、振り返ってみて思いました)。

このことは、その時、気がつかなかったのですが、後になって、「なぜ、わたしは、わたしが痛かったのに痛い、と言わなかったのだろう?他人のことを気にしている場合じゃないのに。だって、これ、へたしたら、ヒビがはいっていてもおかしくない打ちみじゃないか。なんで、平気な顔をしていたのだろう?」と思いました。というのも、たまたまなのですが、わたしがあざをつくった直後、大人と乱取りをやっていた中学生くらいの男の子が足をくじいたらしく、「いたー(痛ー)!」と叫んで、ついに泣いてしまい、ちょっと大袈裟ではないか?と見ていて思ったのを思い出したからでした。わたしがおかしかったんじゃないか?わたしも「いたー」と言う場面だったのではないか?なぜ、我慢したのだろう。

話はそれてしまうのですが、我慢といえば、こんなことがありました。総合格闘技の柔術に参加した時です。体験としては、地味な「チョークスリーパー」という技を教わりました。スリーパーホールド、要は、首絞め、相手をおとす技です。しめられると、あたり前ですが息ができず、そのままにしておけば、気を失います。もちろん、その前に、相手の体をたたいて合図をするわけですが、わたしはなぜか、「なるべく我慢するほうがいい」と思っていました(おちなくてよかったのですが)。それは価値観とかでなく、自動的に、そうしてしまっていました。それに気づいたのは、わたし自身がやっているときでなく、他の生徒が絞められているとき、対照的な二例を見たからでした。一人は「えっ、まだ苦しくもなんともないだろう」というときに、とんとん、と合図をすぐ出します。もう一人は、顔が真っ赤になるまで我慢している人がいました。今度は、わたしから見ても、「大丈夫かな、この人」と心配してしまうほどでした。それで指摘されていました。「我慢しなくていいからね。入っていればいいわけだからね」と。最初は他人事だと思っていたのですが、よく考えてみると、わたしも同じことをやっていたわけです。反射的に。守ることに、あまりに、鈍感なのです。地味な技といっても、首絞めです。死に至らしめる技です。練習とはいえ、「こわい」と感じても十分なものです。この感覚は、わたしにありませんでした。

一方で、今度は逆をやったときです。これも後になった気づいたのですが、相手の首を絞めていたとき、わたしは「うわの空」で淡々と絞めていました。「あのなんともいえない感覚は、なんだったんだろう」と思ったとき、わたしは相手から意識をそらし、罪悪感をもって絞めていたこと、それがすごく居心地が悪かったことに、後に気づきました。なぜだろう?と思ったとき、これもそうですが、相手を敵と想定していないので、攻撃している意味がわたし自身、意味わからなくなっているので、罪悪感をその納得の落としどころにしていたようでした。守ることだけでなく、攻めることもできない。格闘技になっていない。この「敵視できない」という欠陥は、体験の最後の最後まで、きいてきました。


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『④去勢されたものを掘り始める』に続きます。


2014.09.15
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-15 13:09 | 復元ノート 1

②去勢されたものを掘り始める

『①去勢されたものを掘り始める』の続きです。


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「敵にまわしたら、Abyは生きていけないぞ」という恐怖の下味は、血祭りにあげるのを目撃したり、おそらく生活の中でも巧みにやってきたのが父だったのだ、ということを今までも掘ってきたことでしたが、分析してもそれでも悩ましかったことは、この恐怖をなかなか「実感」として、実感を伴った記憶として思い出せないことでした。それだけ、見事に、「罰を与えない処罰者」を演じ続けたのが、両親、とくに父親だったのだと思います。

しかし、今回の一連の体験で、実際に、相手の、とくに「腕」に何度も触れることで、リアルに感じていたことで思い出したことがあります。

それは、父に対して「かなわない」という感覚です。これは幼い頃だけでなく成人してからもずっと、「かなわない」と思っていました。口論でかなわないのではなく、力でかなわないということです。わたしは父に殴られた経験もありません。それに父はそれほど大男でもなく、誰が見ても「こりゃ、かなわないや」というK-1選手のような人でもなんでもありません。それでもわたしは、今も、自動的、反射的に「かなわない」というスイッチが入ります。どうかなわないのか考えたこともないその思考停止具合が、いかにこれが父から「植え付けられたイメージ」であるか、と検討がつきます。

「力」で思い出すのは、父と腕相撲をした時の記憶です。もちろん、幼い子どもですから、まったく太刀打ちできません。その大きく覆いこむような骨太の大人の手と組んだ時点で、わたしは「圧倒的な敗北感」を感じていました。ああいった感覚を抱くのは異常だったのではないか、今回、はじめてあの圧倒的な感覚に疑問を抱くようになりました。誰だって自分より圧倒的に力の強い大人と腕相撲くらいするだろうに、そのたび誰もが、ああやって、圧倒的にかなわないことを思い知らされるような感覚に陥るだろうか?しかも、父は、たぶん、毎回、負けてくれたのだ。これでもか、とやっつけられたわけでもない。父は、決して、そういうことをしなかった。だから、わからなくなる。だけれど、あの「かなわない」という感覚は、こういった腕相撲という特定のときだけに感じていたのではなく、言ってみれば「ずっと、つねに」持っていた感覚でした。あまりに日常で、今に至るまで、あまりにいつもあったものだったので、さらに、気づきにくいものでした。

今回、多くの体験の中で、相手の腕や手首に触れる、という、格闘技以前のごくごく初歩的な場面を何度も経験することができました。ただそれだけで、何度、父のあの力、腕、かなわないという感覚を思い出したか。もちろんその都度、父の顔を思い出したわけじゃないのですが、触れた瞬間に咄嗟に感じとったものは、父の手、腕、びくともしないだろう力、どんな抵抗も無意味であることを思い知らされるような、あの、かなわなさでした。

空手に参加していると、「このツキは、こうやってよける」というちょっとした動作の指導をしてくださるときに、それとなく、相手の腕とわたしの腕が触れ合います。たったそれだけで、相手の「見え方」が変わってしまうのです。これは最初、なんて言葉にしたらいいのかわからなかったのですが、その言葉が「かなわない」でした。意外にも、空手以上にこの経験をたくさんできたのが、合気道でした。というのも、合気道は相手の手首を掴むところから、技のかけあいの多くがはじまるからです。そこで、こんなことも発見しました。同じ男性でも、その手首が華奢な方が稀にいます。わたし自身もなぜか「手首」が他のパーツに比べて妙に細いタイプです。いくら相手が師範であろうと黒帯の学生であろうと、そういう華奢な手首に対しては、なぜか同じ反応が起こらないのです。どんなにおじいちゃんで、力そのものはどう考えてもそれほどでもない方であっても、手首が骨太であれば(といっても、ごく普通のサイズだと思いますが)、やはり、毎回、手首を掴むたびに、どこかビクッとしました。その「ごつい」感じが、わたしには父の手や腕を身体感覚として想起させていたのだと思います。

ここでもおかしいのは、手を掴みにいくほうは攻めている側であるにもかかわらず、掴んだわたしのほうがビクッとします。常識的に考えても、手首をギュッと掴まれたほうが、本能的にもビクッとしてしかるべきかと思うのに、今度は掴まれる側(守る側)になると、ただ、ぼけーっと掴まれているだけで、頭が真っ白になっていることがほとんどでした。掴まれ、かつ、相手からのパンチや目潰しがすぐに届く距離なのに、ありえないくらい危機意識が起動しない。こんな具合なので、自分が攻めている側の役をやっているのか、守っている側の役をやっているのか、わたし一人、最初から最後まで、随分混乱していました。「初心者だから混乱しているに違いない、慣れていくものなのだろう」と最初は思っていたのですが、どうも、そこに原因があるようではなさそうでした。攻守の心理状態が、まるで正反対なのです。

ですので、こんなこともよく起こりました。攻める側が手首を掴みにいくのに対して、その力を流すようにして守る側が相手を振り回していくわけですが、なぜ、振り回すことができるのかというと、敵であるはずのわたしが、がっしり手を掴み、離すまいとして抵抗し、まさに格闘しようという姿勢があるからです。ところが、いざやってみると、わたしがぜんぜん、相手の動きについていかない。へたすれば、つかんだ手を離してしまう。「自然について来て。でないと、練習にならないから」と何度も注意されました。最初のうちは、なぜ、そうわたしの体が相手に「自然についていかないのか」がまったくわからなかったので、頭で次の動きを考えながら、自分の足で「動いてあげている」ような形をずっととっていました。そうするほか、どうしていいのかわらず、これが自然かどうかなど、ましては、わたしが「敵」としてまったく機能していないことなど、思いもよりませんでした。

話が少しそれてしまいましたが、手首のごつさや腕の力が伝わってくるとたん、「かなわない」という感覚は身体感覚をともなって一気に流れこみ、急に相手の「見え方」が変わりました。この「かなわない」という感覚はどこに由来しているのか探っていくと、父に対するこんな思いに行き当たりました。

「パパに反抗し、パパを怒らせ、パパを敵にまわしたら、パパにやられる。殺されることも十分ありうる。」

というものでした。ところが、この「 」書きの部分は、手書きのノートに書いた文言なのですが、あらためて言葉として書き出してみると、これらの言葉のリアリティーが薄れています。もどかしいのですが、「かなわない」という感覚を、毎回、安定して表現ができないようなのです。別のところには、「いつでもわたしを制圧できるけど、そうしないでいてくれている」「罰しないでいてくれたから、よかった」といった書き方もしています。

ただ、思うのは、この「かなわない」というのは、おそらく、身体的な感覚として強くインプットされているような気がします。やはり、父の腕、父の拳、このあたりから放たれる圧倒的な何かです。またいくつか、エピソードを思い出したので、書いてみます。

一つ目は、父の拳に関するエピソードです。今回、極真空手の体験のとき、ひとりの男性の方がわたしの顔に突きをあてるフリをしたときに、彼の拳の人差し指と中指の骨が真っ平らになっているのが見えました。しかも、そこには根性焼きのように見えるほどの拳だこがあり、それを見て、父の拳を思い出しました。父はよく自分の拳を見せては「柱をたくさん叩いて突きの練習をすると、こうやって平らになるんだよ。極真空手の人も、みんな、ぺしゃんこ」と自慢をしていました。

二つ目は、あれはいったいなんだったのか、と今でも思うのですが、父は、子どもは当然親よりも身長が大きくなる、というようなことを話していたのだと思います。それで、「もし、パパより、大きくならなかったら?」という疑問に対して、父は、当然かのようにこう言いました。「ぶっとばしちゃう(笑)」と。結局、わたしは父の身長をこえなかったのですが、といって、そう言われてから後を怯えて暮らした記憶はありません。ですが、父が「ぶっとばす」と宣言した時のことは、強く記憶に残り続けました。

直接、力や身体的な要素ではありませんが、もう一つ、強く記憶に残っているエピソードがあります。

反抗期、中学生から高校生にかけての時期に、母に「どうして、パパには同じことが言えないの」とよく責められましたが、そのとおりで、父には反抗の態度を示すことはできませんでした。こわかったからですが、その恐怖感の感覚と、かなわないという感覚は連動します。敵にまわさない、と言うと、なんだかわたしに主導権があるように思えますが、「まわせない」といったほうが正しいように思います。父が「まわさせなかった」のだと思います。それで思い出したことですが、わたしが反抗期の時、それはつねに母とわたしの口論でしたが、父はまったく見てみないフリでした。いや、一度だけ、ありました。それは、ある時、母と口論の際に「お前」と言ってしまったときがあって、それを母が父に告げたようで、その日の夜、父に呼ばれました。そこに母もいました。そこで父が話していた言葉で覚えているのは、出だしのフレーズのみです。

「Aby。オマエという意味がわかるか?元々はオンマエといってね、目上の人を敬う言葉だったんだよ。知ってたかな?」

という部分です。父の顔は笑っていたと思います。あの、ニヤリという笑い方です。「・・・敬う言葉だったんだよ。知ってたかな?」と言われたとき、その父のニヤリにあわすように、こちらもぎこちなく口角をあげながら頷いたのみで、覚えているのは、しばらく続いたであろう説教の間、わたしはピクリとも動けなかった、という感覚の記憶です。これも、かなわない、という感覚です。

わたしのなかに侵入してきた彼は、そこに定着するために、わたしに植え付けたのが、この恐怖の下味「かなわない」という調教だったと思います。これこそ、「パパを敵にまわしたら、Abyは生きていけないぞ」と言われていることと同じことだったのかもしれません。

父が最後の最後まで徹底したことは、以前の父のメールがモロそれですが、「パパはいつもAbyの味方です」という味方洗脳の姿勢を、彼自身の保身のために、絶対に崩さなかったことです。病的なほどに。

崩残さんがメールでお話してくださったことですが、正常な親なら、自分を倒せるような子どもに育てるものです。種の保存としてそれが当たり前に思えるからです。親に「かなわない」などという思いを子どもに刷りこみ続ける親が、動物の親にいるとは思えません。いるとしたら、子どもが食われるのを見届けてやるという加虐趣味の精神異常の親か、そもそも、「親こそが実は敵だった」という場合です。代理復讐への執念という広い意味では、加虐性ももはや高いといわざるをえないようにも思いますが、今回大事なのは、後者、親は「敵」だった、という認識だと思います。正確には、「実体、本質」としては敵なのに、味方のフリをし続けた、ということだと思います。本質とは、脅しの本質としてという意味です。

「敵視」できないようにする。

動物として、自分で自分の命を守り抜く動物として、この去勢は致命的です。野生の動物なら、わたしはすでに生きてすらいないでしょう。親元をはなれる以前に、親とはぐれた瞬間、食われます。敵に対する正常な警戒心自体が去勢されているからです。

なぜ、こういう去勢をしたのか、ということを考察してみると、やはり、親子の世代間連鎖に行き当たります。「わたし」と「親」の関係というのは、「わたしの親」と「親の親」との関係です。同じことをされているわけです。父はずっと自分の母親のことを自分の味方だと疑っていません。母もそうです。自分の母親のことを自分の味方だと疑っていません。もちろん不満はたくさんあります。でもその不満はすべて「味方なはずなのに、どうして・・・」という類の不満に収束します。味方であるはずの親からの承認をずっと気にしながら、不安と嘘の安心を浮き沈みし生きてきたのが、父であり母です。

父は自分の母親に、母は自分の母親に、自分というテリトリーへの侵入を許してしまったわけですが、そこでの自己信頼の欠如の不快を、てっとりばやく穴埋めしようとAC人格がすぐに思いつくのが、自分の子どもを利用して、今度は、「侵入する側にまわる」ということです。それが、てっとりばやく、自分の惨めさを直視しなくても済む方法だから、本人の感覚としては、甘い蜜のある場所に吸い込まれるように、「これぞ、わたしが求めていた場所。わたしが求められている場所」とでも思いこむようにして、「侵入」します。ここでも、自我というもののイメージを家屋と考えると、ビジュアルとして理解しやすいものでした。今度は自分が「罰を与えない処罰者になりかわる」ということをやっているわけですが、絵として考えると、情けないことに、要は親が「子どもにかくまってもらっている」ようなことになると思います。これはわたし自身にもいえることで、わたしの場合、どこを「隠れみの」にしたかといえば、Pさんという「家屋」だったり、仕事や内職の場で出会った人たちの「家屋」だったりしたわけです。その現場がカルトになります。そしてカルト教祖が恐れるのは、仲間の裏切りです。この安泰な構造がゆらぐことです。ゆらぐとは、「敵にまわられそうになる」ことです。だから、その裏切りを許せません。Pさんに対しても、こういう感情はありました。彼女がわたしに従わない時(従わせているという自覚すらありませんでしたが)、わたしが見届けていたのは、彼女の失敗でした。「わたしに従ってさえいえれば」という恨みの気持ちが、つねに、他人の不幸をほくそえむのです。

これは、そもそもが、わたしの認識している家族愛というのが、「親はわたしを裏切らない」というところから来ているからです。安心の根拠が、「裏切られるか、裏切られないか」という判断基準しかありません。ここにあるのは、「敵にまわられそうになる」という仮想の恐怖なのですが、そこに敵そのものの実体はなく、あくまでも仮想であり、ここに、本来の「敵」というものの像、概念、本来なら動物として失ってはならない敵意識、敵視するという感覚が去勢されています。「敵」はいないのです。「敵にまわられたらどうしよう」という恐怖、その歪んだ仮想の恐怖だけがあります。

この親のもくろみどおりのことが、今回の一連の体験のなかで、あらゆる局面で起こりました。格闘技体験なのに、わたしの前に「敵」はいませんでした。いるのに、です。だから、言われます。「よけましょう。こわい、という感覚を持ちましょう」と。一方で、こわい、と思っていました。正直、合気道の実演を見学する際に、あてみがたまたま相手に(軽くですが)入ってしまったのを見るだけでびびっていましたし、キックボクシングで蹴りを放ち、それをミットでバシッと受けているのを見るだけでびびっていました。後でやってみてわかったことですが、「見ているだけ」のほうが、よほど、こわいのです。拷問についてもあれこれ考えたのですが、見させられていること、そのシーンを連想させられていることがこわいのです。こんなことは考えたこともなく、むしろ考えないようにしてきたことですが、「拷問を受けている人は痛いかもしれないけど、こわい、だろうか?」と考えてみました。もちろん、それはわからないし、こわいかもしれません。だけれど、ここで重要だったのは、なぜ、わたしが「こわいはずだ」と決めつけているのか、という点でした。「見たり想像したりするだけでこんなにこわいんだ。ならば、当事者はその数倍、数百倍もこわいに違いない」と自分を当事者と重ね合わせて、そういうイメージをふくらませます。これこそが、公開処刑の目的なのだ、と気づきました。

わたしの「こわい」は、こういった仮想の恐怖であり、本来感じとるべき正常な「こわい」という感覚、敵に対して、純粋にこわいと感じる感覚が相当に鈍いということ。体験を経るにつれて、わたしが意識を向けたのは、これはどっちの「こわい」なのか、ということでした。結果として思うことは、やはり、その多く、ほとんどが、前者の歪んだ恐怖、本来なら感じる必要性のない恐怖だったと思います。


・・・


それと今回の体験で、もう一つ、重要なことがわかりました。それは、わたしが身体的な「痛み」に対して敏感だ、ということでした。敏感とは、よい意味ではなく、仮想の恐怖の引き金となる、という意味で敏感でした。正常な恐怖には鈍感なのに、歪んだ恐怖に対して抜群の効果をあげていたのが、実際の痛み、あるいは、実際の痛みの想像、というものでした。

これに気づいたのは、体験もかなり後になった頃でした。というのも、たしかに今回のように「単発での参加」の場合のデメリットは、まず、最初から「痛い思いはしない」という点だったからです。スポーツ保険に入っているわけでもないので、当然、会のほうでも怪我をさせないようにはからってくれます。それは結果としては、「身体的に痛い思いをさせない」ということになります。もちろん、B空手道場のように、「怖い思いをさせる」ことはできますし、他でも見ているだけで、随分、怖い思いは感じはしましたが、実際に「痛い」と体が感じるのとは、まったく別です。

ありがたいことに、W合気道会は、5回ほど、続けて参加できたために、最後のほうで、この「痛い」体験をすることになりました。といっても、合気道ですので、手首の間接をきめられるだけで、あざにもならないものですが、それでも次の日もやや痛みましたので、わりと痛かったのだと思います。この会で、最初の頃から随分わたしの相手をしてくださった「おじいちゃん先生」がいました。正直、初回に参加したときは、手首を持って相手がまわるのにあわせて一緒にまわる、という基本動作を延々としたときは、それこそ盆踊りの振り付けのようで、格闘技に抱いていたわたしのイメージとはまったく異なり、しかも、そのおじいちゃん先生は、とてもやさしく、あたりもソフトで、もちろん、痛いことなど何もない。関節をきめる場面でも、そのフリ程度でした。

回数を重ねたこともあり、8月も終わりの頃、初心者ではあるものの、みんなと一緒に稽古する感じになったとき、そのおじいちゃん先生に、ガクンとひざを落とすほどに、手首の間接をきめられました。「あっ」と思った瞬間から、そのおじいちゃん先生の「見え方」が急変しました。稽古後に、「もう、来たくないな」と思ったとき、これと同じ気持ちを抱いたB空手道場のことを思い出しました。

あのとき、K指導員との組手が終え、稽古を終えたとき、この空手道場には「もう、来たくない」と思いました。その時は、この感覚は、高校の剣道部の部活もいよいよ終わりとなったとき、「もう二度とやりたくない」と思ったのと似ているな、と思ったのですが、よくわかりませんでした。K指導員に対して恐怖を感じていて、また組むことを恐れていたのは確かでしたが、体験もかなり最初のほうだったこともあって、「こんなのでこわがっていてはダメだ」と漠然と思っている自分が「こわがっている自分」を否定したい気持ちがあり、「もう、来たくない」という思いから目をそらそうとしていました。

前者のケースは、実際の痛みが恐怖の引き金となっていますが、後者のケースは、実際の痛みの想像が恐怖の引き金となっています。

話が時系列的にも交差してしまうのですが、このB空手道場の件と、おじいちゃん先生の間接をきめられた件との間に、この実際の痛みに対して、「もしかしたら・・・」と疑問を感じはじめるきっかけがありました。


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『③去勢されたものを掘り始める』に続きます。


2014.09.15
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-15 13:08 | 復元ノート 1

①虚勢されたものを掘り始める

報告文を、以下、掲載いたします。
文字数の都合上、今回も、4つに分けて掲載しています。


・・・ ・・・


崩残様

Abyです。

8月いっぱい、はじめての格闘技を体験し、感じたこと、分析したことをご報告させていただきます。

8月4日から29日まで、3週間強、という期間でしたが、空手、合気道、総合格闘技、拳法、大きくわけて、この4種類の体験をすることになりました。

最初は、すすめてくださった空手をいくつかの公民館で体験してみて、その中から参加したい空手クラブを探し、やってみて、様子を見てみようと思っていたのですが、結果的には、18箇所の道場・団体でお世話になり、見学だけでなく、うち、13箇所で実際に体験させていただきました。

格闘技体験、といっても、もちろん入口の基礎ですので、総合格闘技でもスパークリングをやるわけでなく、キックボクシングや柔術の基礎の体験です。拳法に関しては、日本拳法と少林寺拳法を体験しました。空手は、極真空手の道場も行ってみましたが、おもに足を運んだのが、松濤館と剛柔流という流派の空手道(寸止め空手)です。合気道にも合気道会や養神館などいくつかの団体があったのですが、おもに合気道会に所属する会に参加し、5回ほど継続して体験をさせていただいたところもありました。

以下、ご報告させていただきます。
サインまでが本文です。長文になりますが、よろしくお願い致します。


・・・


「去勢されたものが何なのかを調べること」
「去勢されたものをとり戻すこと」

この二つを目的に、見学や体験に参加することにしました。また、日常生活でも、これらに関連するAC人格の挙動に注意を向けることにしました。今回の体験で、去勢されたものをとり戻すまでは今のところできていないのですが、今までまったく気づかなかった「去勢されていたもの」については、いくつか、徐々にわかってきたことがありました。そのことを中心にご報告させていただきます。


・・・


なにより、この一連の体験で、わたし自身が驚いた発見は、

「敵視できない」

ということでした。このことは、体験のはじめから躓くことになりました。

まず、直面したのは、わたしのあり方がまったく「格闘技になっていない」ということでした。これは空手でも合気道でも、顕著に現れた現象で、わかりやすかったのが、空手ではわたしは「攻めても守ってもいない」という状態、合気道では「攻める側をやっているのか守る側をやっているのかがわからない」という状態が何度もありました。

いくら体験参加とはいえ、格闘技体験に来ているのですから、攻めてもいない、守ってもいないなど、相手からすればわたしが何をしたいのかまったくわからなかったでしょうし、攻守が混同するなどありえません。なのですが、こういう状態にある自分自身の心理状態は、「おかしい」と指摘されるまで、それが異常であることに、まったく、気づいていませんでした。

「よけましょう。こわい、という感覚を持ちましょう」と、端的に指摘してくださったことで、自分がおかしいということを自覚しました。それは、5回ほど通わせていただいたW合気道会というところでした。合気道では、攻守役にわかれて技を磨くわけですが、守り側の反撃(あてみ)に対して、わたしは一切、「守る」ということをしなかった、思いつきもしなかったのです。もちろん、あてみといっても、本当に打撃してくるわけではないのですが、試合がない合気道だからこそ、ルール無用の急所の攻撃を想定しており、その相手の攻撃に反応しない、というのは、ありえない感覚なのだと思います。

それを指摘される前にも、実は、同じような指摘を受けていました。ただそのときは、無我夢中で気づかず、しばらくしてわかったことでした。それは、空手の体験で、はじめて「組手」という、いわゆる乱取りやスパークリングにあたる実践稽古を、B空手道場というところで体験させていただいたときでした。

空手でも他でもそうですが、なにせ初体験・初参加ですので、こういった組手のようなことはまずやらせてくれませんし、多くは基本動作の練習になるのですが、驚いたことに、ここでは「やってみましょう」といって実際に組手をやることになりました。またとない機会でしたので、やらせていただきました。

通常、組手をやるときは、顔面部分を守るために、メンホーというものを被ります。空手道では寸止めを基本とはしていますが、実際には当たるし、当てます。ところが、当然ですが、わたしはメンホーを持参していません。ケンサポという手につけるサポーターは貸していただいたのですが、わたしはメンホー無しでやることになりました。「空手がこわいものだ、ということを知ってもらうことも体験」と師範が言われていたので、これも意図的にそういう状況になさったのだと思います。小学生から成人まで、何人かの方と組手をやることになりましたが、一人、若い男性で大柄な指導員の方(K指導員)がいて、寸止めといっても、ギリギリ、パシッと入るようなツキとケリが連発します。「これはやばい」と思って、わたしは顔つきが変わりました。わたしから見る相手の「見え方」ががらりと変わったのです。

K指導員から、二つのことを指摘されました。

「ぜんぜん、(僕に)当たってないよ」
「間合いが近すぎる。それだとすぐに頭部にケリが入っちゃうよ」

この二つの指摘それ自体は、当然のことでした。前者の指摘ですが、そもそもわたしは当てるつもりなどなかったからです。それは「寸止めだから」という意味ではなく、寸止めにすらなっておらず「突く形」だけをしていました。やっているフリ、攻めているフリです。後者の指摘に関しても、それも当然でした。守ろうとなど、まったく思っていなかったからです。

なので、その時は、むしろこれらの指摘は言われて当然のことに思えて、かえって疑問を抱くことがありませんでした。しばらくして、やっとです。「攻めてもいない、守ってもいない。あなた、何やってんの?」と言われていたことに気づいたのは。

格闘技になっていない。

だんだんと、自分でもおかしいと思うようになってきました。K指導員と組手をやるときは、わたしは正直、こわいと思った。でも、そのやばいと思ってとった行動の結果、わたしがやっていたのは「攻めも守りもしない」という客観的に見えれば、明らかに自殺行為。十分おかしいのですが、わたしの中では、なぜ、こういう行動を咄嗟にとったのかはわかりました。

「攻めもしない、守りもしない」というのは、完全に「降参」という姿勢、媚びる姿勢でした。格闘技だけではありません。わたしのAC人格の典型的な保身方法です。攻めないのは、相手を「怒らせない」ためです。相手をカッとさせてはいけない。感情的にさせてはいけない。相手をカッとさせてしまうから、わたしも感情的になってはならない。「あなたを攻めるつもりは、さらさらありません」と意思表示する。ただ、一生懸命やっているフリはする。けれども、相手に伝えようとしているのは、「フリなんだ」ということ。これでは格闘技ごっこにすらなりません。ただの茶番です。

同時に、丸裸になる。「わたしは無防備です。まさか、守ってもいないこんなわたしを、殴ったりはしませんよね」と、相手に対して戦意のないことを伝えようとする。完全にお手上げ、はなから降伏している意思を伝えようとする。これも相手を「怒らせない」ためです。守ろうとすれば相手はエスカレートして攻めてくるだろう、守ろうとすればするほど相手は感情的になるに違いない。だから守ってはダメだ。無防備なら、相手はきっと手加減してくれるはずだ。ちゃんと寸止めをしてくれて、痛い思いはしなくて済むはずだ。守りに関しては、「守るフリ」すらほとんどしていませんでした。

こういう自分を、別の人を通して、客観視する機会もありました。総合格闘技の体験の際、少し早めにジムに到着したため、柔術クラスの前の女子クラスのスパークリングを見学する機会がありました。攻める意思も守る意思も感じられない一人の参加者がいました。見た目は一生懸命動いているのですが、相手に呼応して動いているだけで、明らかに、「敵対関係」にないのです。パンチの形はとるのですが、それは型どおりの素振りでしかなく、当たっていない。あれでは相手がよけなくても当たらないといった感じです。しかも守らないから、顔の前にグローブをあてられて「届いちゃってますよ」と指摘されている。まさに、守ろうという気がある人がとる間合いじゃないのです。この見学をしたのは、随分後になってからでしたので、「自分もこうやって見えるんだ」と、攻めもせず守りもしない様を、比較的冷静に観察することができました。格闘技をしているとはまったく見えません。

攻めも守りもしない、その意思を持たない、相手に伝えまいとするというのは、「あなたとは争わない、戦わない」という表明ですが、その目的は、相手をカッとさせないため、怒らせないためです。そのためには「敵にまわしてはならない」と思うのです。逆にいえば、敵にまわさなければ大丈夫だ、助かる、と思っています。もちろん、「こわいから」そうするわけですが、そもそもおかしいのは、書いて整理するとわかりやすいのですが、「敵にまわさなければ」という仮定自体がおかしく、格闘技において、相手は「敵」以外何者でもありません。W合気道会の師範の方がよく「合気道は踊りじゃない」と言われていたのですが、わたしが相手の手をとる姿勢は、社交ダンスでもやるようなものだったと思います。その証拠に、後に、こんな指摘も受けました。わたしが攻める側のとき、相手の手首をとったとき、「あのね。これから攻めようと思っている人がそうやって横から手をとることはないんだよ。上からグッと掴むでしょ、ふつう」と言われ、ハッと思いました。相手を「敵」となど考えていなかったからです。

敵にまわさなければ、大丈夫だ。

わたしがいつも怖がっているのは、「裏切られること」だ。味方、と思っている人に、裏切られることや見捨てられること。これを何より怖がっている。

桜の間の記事の「自我というもののイメージ」は、体験と理解を重ねていく上で大きなヒントになりました。構造理解やルールや考え方を他者承認に利用してしまう危険性がわたしにはつねにあったので、そうしてしまいそうになるとき、すなわち、「体験」のほうを劣位に置き、切り張りし、理屈に誘導、こじつけてしまう癖の見え隠れには慎重になりました。これは今も継続して慎重に考え進めたいと思っているのですが、この「家屋」という概念は、わたしにとってイメージがつかみやすいものでした。

「自分の上に置いた者=親の亡霊」は、つねに、わたしという家(自我)の管理人になっていて、というより、わたしが家に招き入れてしまって、この家の主人にしてしまっている。こういう従属の関係が、「わたし」という世界の中で起こっている。わたしの世界観(他者関係)というのは、つくづく、この「シェアハウス」のようなものだと思いました。本来なら、シェアするものでないのが、自我なのだと思います。ましては、主人はわたし一人でなければならないのに、その権限を明け渡してしまうなどあってはならないのに、これが常態になっている。そして、わたしは、その人を「味方」と認識している。現実には、わたしの父がそうであったように、ただの「侵入者」なのですが、わたしの中では、これを「味方」と思うように洗脳されていた、ということだと思います。仮想の恐怖をちらつかせた上での、もちろん、味方像です。つまり、本当は、最大の「敵」です。

ふと思い出したのが、タイムカード不正事件のことですが、あのときもわたしがとった行動は、「敵にまわさないこと」でした。敵にまわすまい、と考える時、とたんに相手の「見え方」が変わります。今回の体験でわかったことなのですが、わたしは「敵」それ自体がこわいのではなく、「敵にまわられること」をこわがっているようでした。味方が敵になること、これがわたしにとって「見捨てられる」ということの定義であり、仮想の恐怖になっています。

へんな言い方ですが、わたしには、「敵」という実体のある概念がなく、味方でいてくれるか、それとも味方に裏切られるか、という、対人関係においてこの従属関係しかなく、その味方が裏切ること、わたしを見捨てること、それが「敵にまわられることだ」と思っていて、それを恐怖しています。この歪んだ恐怖、仮想の恐怖が、まさに、組手のとき、満開になったということだと思います。攻めもせず、守りもしなければ、きっと大丈夫だ、怒らせなければ大丈夫だ、と。この前提にあるのは、そもそも、「みんな味方なんだ」という設定(=洗脳)です。敵というのはいない(ことになっている)のです。練習とはいえ、格闘技になるわけがありません。

敵視できない、という欠陥。

実際にわたしは「やめて」といえば、助かると思っているところがあります。他者に対しても「やめてといわれたら、やめましょうね」ということをずっと言ってきました。でも、これはとんでもなく、おかしいことだったのではないかということにも、最近気づき始めました。もしも、野生で生きていて、今にも食ってきそうな敵を前に「やめて」はありえない。やめるわけがないのが「敵」であり、もしもその敵との対面で、結果、助かったにしろ助からなかったにしろ、逃げたか倒したか、いずれも自ら戦うしかなかったはずで、「やめて」と言ったらやめてくれた(あるいは、やめてと伝えようとしているうちに食べられてしまった)など、この自然界にありえない。ここで通用しても、一歩外に出たら食われてしまうようなことを、わたしは他人にも言ってきてしまった。「やめて」と伝えてわかってもらおうなど、最後の局面では、どこであっても通用しないのに。

こういうこともありました。「じゃあ、やめてと両方とも言ったら、どうなるのか」と。わたしはそれならそれで言い合えばいいのではないか、と楽観的に考えていました。これは間違っていました。こういう考え方での言い合いの末路は、ふたつしかありません。「やめてくれてよかった」か「やめてくれなくて嫌だった」です。言い合っていた人たちは、結果としての「よかった」か「嫌だった」しか表には出しませんが、問題なのは、その感情の理由が「やめてくれたか、そうでないか」という、まったくそれが相手次第ということです。これが野生で通用しないから云々より、むしろ、こういうことが通用してしまうような隷属の世界に居場所を見出してしまうAC人格を助長してしまっていることこそが問題でした。わたしが育った家庭のような、そういうところを「心地よい」と錯覚してしまうわたしと同じような人間を、今度はわたしが毒人間の大人として、作り出してしまっている。そこで巣食う恐怖は、きっとわたしと同じ、「やめてくれなかったらどうしよう」という仮想の恐怖であり、それに怯える人たちを生み続けていることになります。

「みんなの意見を尊重しましょう」とか「争ってはダメです。暴力はダメです」とか「友だちと仲良くしましょう」とか、挙句の果てに「喧嘩はいけません」と、わたしの両親は聞こえのいいことを言ってきましたし、わたしも実践してきました。ただ、これは誰のためだったのか?

「他人のせいにしてはいけません」ということも、両親はよく言っていました。これはてっきり、自分の責任、自立、というのを躾けるためのものだと思っていました。一方で、親に対して、こういう感覚がありました。「パパのせい」「ママのせい」、この言葉だけは言えないな、という感覚がありました。というのは、わたしがこの言葉を発しようとするならば、そこに明らかに攻撃性があったからです。決して、パパの責任とかママの自立のためにとかでなく、パパのせい、ママのせい、と発言することは、彼らを攻撃していることであり、そこに歯止めがかかるのです。それでわかったことは、彼らは、責任や自立を躾けたかったわけでもなんでもなく、「親のせいにするな」と伝えたかっただけで、その意味は、一言でいえば、「親に逆らうな」ということだったことに気づきました。「親は絶対だ」ということも、両親、とくに父は連発していましたが、何が絶対なのかというと、絶対的な存在だなどと曖昧なことを父はずっと言ってきましたが、そうではなく、それは、「絶対に逆らうな。絶対に攻撃するな。絶対に敵にまわすな」というものだったと思います。わたしが「パパのせい」「ママのせい」という言葉に攻撃性を感じるのも、それを言うことに反射的に拒絶するのもそれが原因だと思いました。

「何してもいい、何言ってもいい。だけど、パパを怒らしちゃダメだ」と、あと一歩踏み込んだらやばいという、あの、境界線のギリギリに立たされて問答無用の撤退状態となる感覚になる言葉を、父からよく聞いたような覚えがあります。「敵にまわしたらいけない」というスイッチがここで入るように思うのですが、その感覚が思い出せそうで、どうもうまく思い出せません。

こういった「味方洗脳」は、なにも、道徳的なことはひとつもなく、ただ、毒親がわたしという「家」に侵入し、しれっと「味方」で居続けるためのものでした。「敵にまわしたら、Abyは生きていけないぞ」という脅しがあるのだと思うのですが、このことについて、続いて、体験とともに書いてみようと思います。


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『②去勢されたものを掘り始める』に続きます。


2014.09.15
Aby


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by jh-no-no | 2014-09-15 13:08 | 復元ノート 1