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生前記憶を探ることで浮き彫りになった点

今回、生前記憶を探ってきたことは、
わたしにとって、とても大きな収穫だった。

生前記憶それ自体から得たものだけでなく、
生前記憶を探る自身の姿勢から得たものがあった。

先日、生前記憶を探ってきた約一ヶ月をふりかえり、
「自分の記憶、自分のことをやれて楽しかった」と
自分でも思ってもいないような気持ちが
ひょこっと出てきて、驚いた。

というのも、作業をすすめていた最中は、楽しいなど
妄想ですら入りこむ隙間もないほど、正直、なんでこんなに
しんどいのか、とくに後半は、どうしようもない状態だったからだ。
表現は適切ではないかもしれないが、感覚としては、
「何を相手にたたかっているのかもわからなくなり、
でも、負けこんでいることはわかっている」ままに、
手足をバタつかせた。

結果は、惨敗だった。

早く結果を出そうと焦ったことがその原因と考えられたが、
正確には、「焦らずにはいられなかったこと」こそに病巣があり、
その発見が、AC問題に立ち戻る必要の自覚をもたらしてくれた。

へんな感覚だけれど、惨敗してくれてよかった。
こんなバタつかせが通用してはならなかったし、
なにより、わたしがそれを望んでいなかった。
かといって、それを望んでいないことをいいことに、
「間違わないようにその場しのぎで生きているこんな人生なんて
嘘の人生だ。本当の自分は違うんだ」というAC人格の言い分と妄想を
これからは、許してはならないと思っている。

なぜなら、こういうその場しのぎのことをやってきたから、
わたしは「自分の病気」に気づかなかったのだから。

「ミスしてはいけない、間違ってはいけない」という強迫観念は
わたしのなかでずっと生き延びてきた。
この強烈な不快に対して衝動的に応え続けることは
決して楽ではないのだけれど、わたしのAC人格はその障壁を
「なんとかクリアしてきた」と思いこんできた。
毎回、毎回、毎回、クリアしてきた、と。

対処療法であることを、AC人格は認めないものだから、
いくら本人が、この終わることのない拷問的な繰り返しに
「誤魔化しの人生」を感じ続けていようが、終わることはない。
「誤魔化していることも、わたしわかっているよ」と歪みの上塗りをすれば
もはや言葉遊びのように、AC人格が増殖していく。

所詮、対処療法であることにも気づかなくなる。

こうなってしまうと、ここに「根治」という考えが及ばず、
症状への対応にばかりとらわれて、病気の大元が
「自身にある」ことに気づかなくなってしまう。
もっとも、それがAC人格のもくろみだったろう。


「ミスしてはいけないという強迫観念の、根治」


これからAC問題として取り組むべき大きな問題として
浮上してきたのが、この強迫観念の「根治」であり、
何とかしたいというあがきで済ませてきたまやかしから
一歩、この強迫観念問題に踏みこめたことが、
わたしにとって、今回一番の収穫だった。


探る自身の姿勢からだけでなく、
生前記憶それ自体から得られたこともあった。

ここ数日の現実生活のなかで、ふと、気づいたことなのだが、
「他人の言いなりになっている」ことに、自分が思っている以上に
気づいていないことが多い、ということだった。
相手が子どもだろうが、想像上の見知らぬ人だろうが、誰だろうが。

それと同時に思ったことは、今回の生前記憶掘りは、
いかに自分が他人の「言いなり」になっていたか、それはなぜか、
そしてその顛末はどうだったか、ということが浮き彫りになっていく、
そういう作業だった。

そしてその同じパターンを、今回の生でもそっくり繰り返していて、
「このままだと、死んでも、同じことになる」ことの危機感を
自分の生が自分自身に対し、突きつけるものだった。


問題は、こう「突きつけられた時」、
わたしがどう、このことを現実感をもって対処できるのか。


言われたことを忠実にきちんとこなそうとするのも、
絶対的に安定な他者承認を求め続けるのも、確実感をピンどめしたいのも、
ミスしてはいけない、間違ってはいけないという強迫観念が元にある。
確かにそれは、この現実生活の中にある。

ここに、生前からの自分の主な性質としての「任務遂行至上主義」と
「自分のことはどうでもいい、平気だから」といった態度が加われば
相手の都合次第で、言いなりに動くロボットとなる。
相手の気分、顔色をうかがうAC人格は、その必要なチェック機能になる。

自己承認しているつもりの子ども時代という飴による忠誠の修行期を終え、
いざ社会に出て、仕事をし、パートナーと出会い、その実態はどうだったか。


・自己を売り渡す準備がすでにあった、自身の生前の主な性質。
・共同作業だと思っていたら、滅私奉公だったという顛末。
・強迫観念を抱いたまま、「自分の人生を生きたかった」と悔いる最期。


これに、今、自分自身が、どれほど日々の生活の中で
気づけているだろうか。


「どうなのよ」


と、自分の生が自分に対して、今、これから、
「見るべきそれらの方向」を照らし出してくれたのが、
今回、わたしにとっての生前記憶掘りだったと思う。



2014.08.05
Aby


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by jh-no-no | 2014-08-05 23:42 | 復元ノート 1