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(後半) 「お手紙」の返信

「(前半) 「お手紙」の返信」 の続きです。


・・・


1/27(月)、この日は、1/25(土)に感じていた無力感と
焦燥感がピークになり、「やっぱり何も起こらない、やっぱり
自分はダメなんだ、やっぱりこうなったじゃないか、いつもと
同じだ・・・」と、どうしようもない状態でした。

「このままじゃダメだ、なんとかしたい」とブログでも
書いたりしていたけれど、本当のわたしは、おそらくずっと、
ブログを書きながらも、「どうせ自分は最後はダメだろう」と
思ったりしながら書いていたんだ、呼びかけや回収も
どこかで心の底ではそう思っているわけだから、自我だって
わたしに分けてくれるはずなんてないんだ、そうだ、だから、
「このままじゃダメだ」とブログに書いても、いつもどこか
嘘っぽく、リアリティーがないんだ、結局、わたしは、ここから
抜け出したい、という切羽つまったものがないんだ、
そのことを怖くて認められなかっただけなんだ・・・


やっぱり自分はダメなんだ、

わたしは不幸に決まっているんだ、


わたしは本当はそんなことを思っている人間なんだ・・・


そう思った時でした。


この、
「わたしは不幸に決まっている」
というのは、何なんだ?

それこそ、このような何の根拠もない、馬鹿みたいな
「不自由」は、誰が決めた??

この数日は、もちろん、自分ルールは続けていましたが、
それどころではない気分だったのですが、はた、と、
「おい、今日のルールは、言葉の最後に「ね」がつかない
ようにする、というルールだけだ。わたしは不幸に決まっている、
などという不自由を設定した覚えはないぞ」と思ったのです。


わたし、じゃない。


わたしは不幸になんてならない、
そう決めることは、わたしにできること。


わたしはそんな不自由を決めた覚えはない。


そのとき、桜の間の記事の中に、

>自我復元と、トラウマ掘りで、
>自分で治療をすることを決意してください。

とあった箇所を思い出し、そうだ、
わたしが決意していなかったんだ、決意しきれていなかったんだ、
ということと、


>あなたが、自分が死にそうなときに、
>一体、誰の目を気にして、
>一体、誰のために、治ろうとするというのですか?
>あなた自身のために、決まっています。

という箇所を思い出して、そうなんだ、
「決まっているんだ」と思った。当然だ、と思った。

この時ほど、「決」という言葉が響いてきたことは
ありませんでした。


・・・


桜の間に、「なぜ母親からのトラウマが大きいか?」という
記事を少し前に読んでいたこともあって、そういえば、
母も父も、「母に見捨てられた」ことへの恨みが強かったことを
鮮明に思い出した。母も父も、それぞれ異なるAC像だけれど、
それを生み出した根っこの感情は酷似していた。

母に見捨てられたこと。

そこで両親二人に生じたのは、「自分なんてどうせ」という
感情だったと思います。今まで、二人のことを整理してきて、
この自己信頼の極度の欠落がひとつの特徴だったと思います。
口ではいつも明るい未来や、幸せな家庭、そういった理想の
イメージを発信していましたが、よくよく見てみれば、悲壮感のような、
全く幸せそうなところがない、そんな感じでした。
わたしとPさんもそうですが、まさに囚われた二人という雰囲気です。
どうして他の家族と比べて気づかなかったのだろう、と思うのですが、
どのくらい洗脳されていたか、というのも、最近になって
ひとつわかったことがありました。

桜の間の「なぜ母親からのトラウマが大きいか?」の記事にあった

>本当にあなたの母親は、
>安心できる存在だったか、

という箇所を読み、早速、やってみたのです。

父親についても興味があって
やってみました。

おそろしいことに、あれだけブログで毒親ぶりを分析しても、
わたしの中に埋め込まれた記憶、いや、記憶ではなく、
まさに洗脳という言葉そのものだと思いますが、植えつけられた
「イメージ」が、チープな格言そのもののような理想像で出来ていました。

母を例にあげてみれば、

・自慢のお母さんだった
・子どものことをよく見てくれている
・しっかりしていて、頼れるお母さん
・上から目線でなく、対等に接してくれた
・必要なものはちゃんと用意してくれた
・心配なときは、そばにいてくれた
・厳しいところもあったけど、嫌じゃなかった
・好きだった
・いいお母さんでよかったと思っていた
・恨んだり、嫌ったりする感情は持たなかった
・いつもそばにいてくれたように思う
・いつもにこにこしているお母さん
・子どものことを責めない、悪く言わない
・どんなときも味方をしてくれた
・美人できれいなお母さん
・子どものことを第一に考えてくれてうれしい
・反抗期のときも精一杯接してくれた
・世界一のお母さん
・完璧なお母さん


わたしの頭の中ではこうイメージ付けがされている。
しかし、どれも実感としての記憶がない。
実際の記憶(実感を伴う記憶)が先にあって、
このように思っているのでなくて、
「直に、こう思っている(思い込まされている)」のです。
父についても、理想イメージの洗脳、という意味では同じでした。
「良い」と言われそうなイメージばかりで、出来ています。
もちろん、そこに、実感としての記憶は伴っていません。
なんというか、「こういうのを、このように言うのですよ」というような、
そんな類のイメージ付けになっているのです。

崩残さんのお母様のお話が桜の間に書かれているのを読み、
その都度思うのは、子どもに与える心象の違いです。
わたしの母とわたしとは、血の通った会話があったようには
思えないのです。自我復元をするまで、というか、最近まで
毒親だと理解はしても、記憶との整合がとれませんでした。
ほんの少しずつです。
「実感のなさ」が毒親理解と少しずつ、
つながりつつあります。


話がそれてしまいました。


「自分なんてどうせ」という感情、この自己信頼の極度の欠落が
わたしにコピーされたのではないか・・・、1/27(月)の夜になって、
そこが腑に落ちてきました。

とはいえ、その自己否定の感情(自分なんてどうでもいい、
どうせダメなんだ、最後は失敗するんだ、やっぱりわたしは不幸だ)は、
その後、わたしは、「このままじゃダメだ、もっと自由になるんだ」という
AC人格を育てあげることで、この自己否定感情を放置してしまった。
むしろ、この自己否定感情がつねにあり続けるからこそ、
その感情を見ないように、「このままじゃダメだ、自由になりたい」と
叫ぶようになる。でも、それこそ、母と父の理想像と同じで、
まったくリアリティーがない。だからわたしはいつもブログを書いていても、
「このままじゃダメだ、なんとかしたいんだ」という思いこそ、
嘘にきこえるし、わたし自身、それを嘘だと知っているからこそ、
それをストレートに言わず、オブラートに隠すように言おうと、
こそこそやってしまっている。


わたしが逃げてはいけなかったのは、まさに、自分はずっと、
「自分は不幸に決まっているんだ、どうせダメなんだ、
自分なんて・・・」という、裏切り行為をやっている、ということ、
そんなことはないんだ、ではなくて、まず、裏切っているその現場を
押さえてみて、自分が自分を裏切っていること、ここから目をそらしては
いけなかったのだと思います。


だから、そもそも、自分ルールを開始して、
「楽に感じた」とか、「肩の荷がおりたような気がした」とか
「解放されたような気持ちになった」とか、そういう感情を(受け入れた
フリをしつつも本心は)拒絶して、「そんなのは本当は間違っているんだ、
苦しいと感じていくようになるのが正しいんだ」とか言って、
自分を不幸に追い込んでいこう、という無自覚な行為こそが裏切りで、
1/22(水)の朝起きて一時間後、「楽しいと感じたことは、これは言えないや、
報告できないこと」と、決めつけた段階で、無自覚な裏切りは、
着々と進んでいたことに気づきました。

この日の夜は、ひとつ宣言をして
床につきました。

「わたしはもう無自覚な裏切りはしたくない。
不幸でいいとか、そういう自分で作ったのではない不自由とは解約だ。
夢の中であっても、わたしはNOと言う」


・・・


1/28(火)の朝、自分でも驚いたのですが、「そんな契約をした覚えはない」
とおそらく口には出していませんが、はっきり口に出したのと同じ現実感を
ともなって夢のなかで叫んでいたようで、そのとき、
「よしっ!」という掛け声のような自分の声(頭の中で、ですが)で、
目が覚めました。

リアルな世界でも、夢の世界でも、はじめて、
自分を守った、自分を裏切らなかった、と、そう、
感じられた夢でした。

どんな夢だったかを思い出そうとしました。

細かい設定や背景はわからなかったのですが、
どうやら、高校の部活動の監督のような人
(父親似の気狂いの象徴だと思います)が怒鳴り散らしている。
なんだかわからないけれど、今日は月曜日だ、どうしてこうなったんだ、
誰が悪いんだ!!・・・といったような、犯人探しをしている。

犯人探しの場面へ。

「ハスキーボイスで、かつ、月曜日A係のヤツは誰だ」
みたいなことを、気狂いのそいつが言っている。

なぜか、そこにいる人たちはみんな「ハスキーボイス」
ということになっているようで、わたしもその一人。
今考えるとそれもへんな話で、わたしはハスキーボイスではない。
で、その月曜日A係、というのは、わたしなのでした。

この段階で、いつもなら、おそらく夢の展開は(現実社会でもおそらくそう)
わたしはなんとか隠れようとする。あるいは、本当はA係じゃないとか、
なんとか嘘を言おうとしたり、わたしだけじゃないとか言って、
わたしが罰を受けるのを避けるためには、隠蔽だろうが、論理武装
だろうが、考えられる限りの言い訳を取り繕う。いつもなら。

ところが、今回ははじめて違った。

「Aby、じゃあ、お前が犯人だな」

みたいな展開になったとき、わたしは、まったくそれは不当なことで、
だいたい、ハスキーボイスとか、月曜日がA係とか、まったく関係ない、
わたしにあてつけようとしているのが明白だったから、

「ふざけんな」

と思って、こう、怒鳴ってやった。

「そんな契約をした覚えはない」、と。


・・・こんな感じの夢でした。そこで目が覚めた。


はじめて、ちゃんとNOと言えた、というより、
隠れなかった、自分を守れた、というのがうれしくて、
このことがとても嬉しかった。

これは「起こったこと」の一つかな?とも思いましたが、
何が起こったか、とか、その「起こる」というのも、
曲解をしていたのだと思いました。

何も起こらなければ、そう、崩残さんに報告すれば
いいじゃないか、どうしてそれを恐れる?
誰のためのAC人格解除なのか、桜の間の記事に
タイムリーにそういうことが書かれていたけれど、
この大病の真っ只中にいて、怖がっている場合じゃないだろ、と。

でも、何か起こるに違いない、と思っていたことで、
かえって何もぜんぜん起こらなかったことから、焦り、
「やっぱり自分はダメだ、ダメに決まっている」という裏切り行為を
現行犯逮捕できた。このことは収穫だった。
その意味では、新子さんのブログ内に「Aby」という言葉が
登場したことも、そのプレッシャーがあってこそだった。

それに今思うと、一次不快としての感情を直視する、という
ポイントに引き戻してくれたのは、それこそ、新子さんのブログだった。
その時は、何も起こらない、ダメだ、と生体反応ゼロの
ゾンビそのものだったけど、「このままじゃダメだ」とあがく醜いACの
原動力になっていた自己否定の感情の存在に気づけた。

それにわたしはずっと、勘違い、というか、それをずっと
隠そう、いつかそれが「苦しいもの」に変わるだろうと思っていた、あの
自分ルールを自分に課したことでの、なぜか、ふと楽になった解放感、
不自由も自分で決める不自由は、不自由じゃない、
むしろそれは自分決めたこと、自由も自分で決めたこと、今書いていて
わかってきたことですが、それは、得体の知れない毒親が仕込んだ
不自由とは、雲泥の差でした。毒親のそれは、不安からはじまって、
いつ終わるともわからない不安なままという拷問のような不自由。
だけれど、自分で課した不自由は、むしろ、楽しかった。

楽しいという気持ちも、
それはちゃんと起きたことでした。
でも、起きたことと認められない、認めたくなかったのは
わたし自身でした。

1/28(火)のルールは、ガムを口から出さない、というものでした。
日頃ガムはあまり食べないので、これはこれで不自由かな、と
思って数日前に設定したものでした。

今日で7回目のルールだったのですが、不思議です、
今までは自分の決めた不自由は、不自由じゃない、むしろ、
気分転換になる、くらいに思っていたのですが・・・

わがままになってきたのかな?

なんだか、「ガム、邪魔だなぁ」と思うようになりました。

おかしいぞ、と思ったのですが、よく考えてみれば、
おかしくもなんともない、いつも口に入っていれば邪魔に
決まっているんです。そう感じるのも、当然だと、そんなことも
わからなくなるほど、「得体の知れない不自由の猛毒」に
不自由感が麻痺しまくっていたようです。


・・・


以上、ご報告させていただきます。

よろしくお願いいたします。

2014.1.29
Aby



◆ ◆ ◆



崩残さんからのコメントは次のようでした


「これが、私がAbyさんから聞きたかった報告です」



◆ ◆ ◆





2014.01.29
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2014-01-29 17:56 | 復元ノート 1

(前半) 「お手紙」の返信

桜の間の記事
「ブログの人達への手紙/その3」
http://www.mumyouan.com/k/?S314


に関して、結果をご報告した内容のメールそのままを
以下に掲載いたします。

文字数が多くなってしまい、アップができなかったので、
前半と後半にわけて、アップいたします。

「(後半) 「お手紙」の返信」の記事の終わりに、
崩残さんからのコメントを掲載させていただきます。


◆ ◆ ◆


崩残様

Abyです。

「自分ルール」を自分に課すことで、その間、
内面的に起きたことをご報告いたします。

自分ルールは、1/22(水)から、今現在、1/28(火)まで、
自分で日ごとに別のルールを設定し実施したところです。

書いてみたら、長文になってしまいました。
(日付、サインまでの部分が送信されたら、
すべて送信できたことになります)

よろしくお願いいたします。


・・・


最初に、この7日間、設けたルールは以下の通りです。

1/22(水)
「右のかかとは床につけないで生活する」

1/23(木)
「12:00など、ぴったりの時間に、毎時、必ず家から外に出る」

1/24(金)
「Pさんと言葉を交わす前に、頭のなかでスタートと言い、
話し終えたら、頭のなかでゴールと言う」

1/25(土)
「入浴と洗顔の時以外、指先で自分の顔に触れない」

1/26(日)
「ノートに文字を書くときなど、一日、漢字を使わない」

1/27(月)
「~だよね、のように、ね、で終わる言葉を言わない」

1/28(火)
「食事と歯磨きの時以外、ガムをずっと口に入れている」


今のところ、このようなルールで進めてきました。
桜の間でご指摘くださったように、調教由来の影響とは
どういうものか、考えることから、ルール決めをしました。

決めることは、それほど難しくなさそうに思えたのですが、
スッと考えつくものは、口に出さずともどこかで
「これは本当はやっていけないことだ」とか、そうやって
決めつけているものが多く、ひとつ目のルールすら、
なかなか決まりませんでした。

たとえば、作り笑顔をしない、というルールにしても、
それはどこかで「これはいけないことだ」と自分で思っているので、
これを我慢して、それで大丈夫だ、平気だ、と思うことも
調教に由来したものだったり、また、とくに、Pさんとの関わりでの
ルール設定に調教由来のものが流れ込まないことは、
それ以上に難しいと感じました。それで気づいたのですが、
Pさんとの間では、自分のなかで、「これはいい、これはわるい」という、
暗黙のルールや、自分で思いこんでいるルールが相当ある、
ということでした。しかも、それらは親からの洗脳の影響を受けていました。

崩残さんが例示してくださったルールのようなものが、
スッと出てこないこと自体、あれ?と思ったのですが、
ルール決めを実際やってみて、

>ここに、おおいに、今までの親の洗脳によるものの影響が、
>紛れ込むことはあり得るので、それは注意してルールを決めてください。

ということの意味がわかりました。


・・・


1/23(水)初日、朝一から、まだルールを守る一日が
これから始まろう、というのに、わたしはどこか、ワクワクしていました。
なぜか、まだ決めただけなのに、楽しかったのです。

「右かかとを床につけない」というのは、それほど負担も少なく、
やや不自由といった感じでした。

その時に起こったことは、今まで何かずっしりと重かったもの、
重かった荷が肩からおりた、という、ほっとした気持ちでした。

不思議だな、とは、もちろん思いました。
不自由を課したのにどうして?なぜ、むしろ楽になったんだろう?

こういうことが「起こった」と、その時、そう思ったはずなのですが、
それはわたしの中で「脇に置かれて」いました。
これは時間が経つにつれて、じわじわと膿のように表面化してきましたが、
この時点では、まさか、「楽に感じた」など言えない、報告できない、
と思ったわたしがいました。

その時もわかっていたはずのことですが、わたしは
崩残さんに「楽しかった」とか、「楽に感じた」とか、「うれしかった」とか、
そういう明るい報告はしてはならない、という、仮想の恐怖が依然として
そこにありました。

「苦しいです」とか、「ダメでした」とか、そういう報告であればこれ以上、
傷ついたり、怖い思いをすることはないだろう、という、以前、ブログでも
書いたことですが、事前に自虐的なダメ出しをしておくことで、万一、
「調子にのってんじゃねーぞ」と言われても、ショックを軽減するための
保身、姑息な計算がそこにありました。

しかしそのときのわたしは、また瞬時に、その姑息さも隠そうとする
計算が働きました。

「そういう姑息なことは考えているわけじゃないよ。
Aby、よく考えてごらん。崩残さんは何が起こるかが重要だ、と
桜の間に書かれている。今までの報告者のことも考えてごらん。
それは吐くような、あるいは自己嫌悪で苛まれるような、そういう
苦しくて耐え難い出来事に決まっているじゃないか。
今、こう感じている楽さ、楽しさ、肩の荷がおりた感覚は、ワナだ。
ここからの落差こそ、これから起こることだ。だから、こんなことは
起こったことでもなんでもない。」

後に、コイツの、この思考こそ、どうしようもないヤツだったのですが、
その時は、自分を引き締める上でも、楽に感じている気持ち自体は
それはそれとして、一方、これから起こるだろう、何か苦しいことを
待ち構えようとする、そういうわたしがいました。今思うと、この、
「これから何か苦しいことがくるのを待ち構えようとする」びっしりと
わたしに身についた態度。これは最低なものでした。

そのことは、後述させていただきます。

今思うと、瞬時にいろいろな予防策をはっていたのだと
思いますが、その時は、むしろ頭のなかでは、「何か起こるとか、
そういうことは考えちゃいけない、ルールをしっかり決めて、
そして生活、仕事をすること。それでいいんだ」と、何度も、
自分に言い聞かせていました。実際、わたしは先回りして危険を
回避し、危険因子をテーブルに広げるどころか、生じないように
計画してばかりの人生だったので、これは避けたい、と思っていました。

それに今回、崩残さんからいただいたメッセージは、
わたしにとって、正直、まったくどういう意味なのか、
先回りできるようなことができない不可解(難解)な内容でした。
もちろん、頭のなかで論理的に考えることは、少しは可能なように
思いましたが、考えてもわからないことでしたので、これは
やってみるしかない、やろう、と、それだけを思っていて、
その意味では、先回りするようなことはできそうにない、と思って、
とりかかれたように思います。
(ただ、これも、その時そう思っただけで、随分と、
先回り、というか、決めつけが入り込んでいました。)

このチャンスを逃してはいけない、だから、全部、見えるように
出すんだ、隠すな、ここで隠しちゃ何もわからなくなる、と。
見据えるんだ、何が起こるかをちゃんと・・・。

わたしは小さいノートを携帯し、可能な限り、
変化や気づいたことのメモをとりました。
できるだけ、思考観察のようなことでなく、起こったことを
メモするように、と。

そんなことを考えつつも、この初めてやった「自分ルール」は
わたしにとって、快適に思えました。上記のようなことがストレスと感じても、
焦りや恐怖というものでなく、心地よいモチベーションに思えました。
「自分ルール」というのは、不自由なのに、です。
なんでだろう、と思っていたのですが、不自由というのも、
自分で決めると、それほど負担ではなく(実際、一度、右のかかとが
キッチンで食事を作っているとき、ついてしまいました。でも、
あ、あぶない、気をつけよう、というくらいしか思わず、
それにも驚きました。わたしが普段感じている罪悪感の強さを
100とすれば、1程度なのです)、むしろ、「それ以外なら
何をやってもいいんだ、だってルール違反じゃないからね」という、
妙な開き直りがありました。

「こんなことやっていていいんだろうか」という日々の不安から
一時的だとしても、解放されたような気がしていました。
ブログを書かなきゃ、という焦りも、どうしてか、グッと薄れたのです。
崩残さんに対して日々抱いている仮想上の恐怖も、なぜか、
急激に薄れていったのです。

次第に、そのわずかな不自由さ以外のことは、自分で何でも
決めていいんだ、という気持ちになって、急に、わたしの
裁量権が100倍くらいになったような気になったし、全部、
自分の時間になったような気になり(時間に追われている感覚も薄れ)、
なんだか急に、「さあ、何やろう!」みたいな
大きな気持ちになりました。
(一方で、「これはずっとは続かないものだろうけどね」という気持ちも
あったように思います。それでも、今は今のこの感情を大事にしよう、
とか思っていました。)

なんだか回収作業も集中力があがったように思い、その他、
生活一般、ひとつひとつのことを意識的に自分で行動している気が
強まってきました。気のせいだとしても、そう思えたのです。

一日がスタートし、時間とともに、少しずつですが、
「考えはじめる」ようになってゆきました。

気楽さはあったのですが、やはり、一方で、
「こんなことをずっとしていてはいけない」とか、
「少しいろいろ考えて整理しなくちゃ」とか、
気持ちがざわついてきました。
でも、そういうざわつき自体、よくあることだったので、
気にしないようにして、それよりも、何か考えなきゃ、
これはどんな意味があるのだろうかとか分析しなきゃ、
という気持ちが強くなっていきました。
それ自体は、むしろ、良いこと、やるべきこと、
考えるべき大事なことのように思いました。

こんなことを次第に考えるようになりました。

「どうしていつも、ああしなきゃいけない、こうしなきゃいけない、
と考えてばかりいるのだろう?とくにこうしなきゃいけない、と、
いつもビクビクしている。強迫観念のようなものでいつも動いている。」

この得体の知れないものは何だ???

自分で決めた不自由なら、それとわかる。
でも、これって誰が決めたんだよ。
なんでこうしなきゃ、とか、こうすべきだ、とか、
「すでに決まっている」のはどうして?

その時、もちろん、わたしの頭の中では、
これこそ親の調教由来のものだ、仮想上の恐怖が
亡霊のようについているから、さっき、右かかとがついたときに、
「あっ、ついちゃった、まずいまずい・・・!」なんていう暢気なものじゃなく、
「困った、どうしよう、こんなんじゃいけない・・・」という、妙な、
異常な、計り知れない恐怖、実体のない恐怖がつきまとうのだ、と。

「このままじゃダメだ」という、あの意味不明な前提のようなものは、
いったい、なんなんだ?

きっとこれは、親が刷り込んだものだろう、という、その程度のことで、
この日は済ませてしまいました。感覚も大事にできた、考えもした、
そういうへんな満足感もあったのは確かでした。
寝つきもスッキリしていたように思います。


・・・


二日目、1/23(木)になると、それでもまだ、
この「自分ルール」は新鮮で、思わず、日は変わったのに
右足のかかとを床につけない癖が残っていて、
「身体って不思議だ」と思った程度の気楽さでいました。

やはり、時間に追われた感じもなく、ゆったりとしていて、
「今こんなことしている場合か」という焦らせるものが、なかなかやってこない。
「さあ、やっていこうか」という、今までに、少なくともここ半年以上、
無かったんじゃないだろうか、というほど、どこか心が穏やかでした。

だからこそ、だったのですが、ふと、わたしはどうしていつも、
あんなコソコソ生きているんだろう、正直に生きていけないんだろう、
と思ったりもし、この日の不自由「時間ちょうどに一度外に出る」というのなんて、
どちらかといえば、不自由であっても、気分転換にもなって楽にも感じたりもし、
さらに気持ちも大きくなりました。

「自分で決めた不自由以外は、自分で決めたものじゃないんだ。
そんなのいらない!」と、この日も元気で、自分でもちょっとあれ?
と思うような感じでした。

仕事中も、比較的元気で、たとえば「つまらないな」と感じても、
いつもなら「そう感じちゃダメだ」という気持ちが生じてしまう場面でも、
「それはそれでそういうことなんだ」と、へんに落ち着いていました。

次の日から、次第に、不安の波が
じわじわと押し寄せてくるようになります。


・・・


その時は思っていませんでしたが、わたしはどこかで、
これは長続きしないもの、どんでん返しくるもの、と思っていたのだと思います。
二日もの間、この頃にはないくらい、ゆったりしているように思えることは
かえって不安になっていったのだと思います。

その自覚はないのですが、1/24(金)からは、他の方のブログを丹念に
読んだり、妙に、いろいろと「整理しよう」とし始めているのです。
今になっては思いますが、感覚や感情よりも、考えや思考が、
どんどん追い越しをはかっているような、そんな一日がスタートしていました。

もちろん本人はそんな自覚がないので、この日から、1/26(日)あたりには
ピークになるようにして、いろいろ、考えはじめるようになります。
それも今になるとわかるのですが、「何も起こらない」ことへの焦りが
じわじわと迫っていました。当然、わたしのなかでは、この気楽で、
どこか解放的に感じていたことは、「起こったこと」としてカウントしておらず、
それどころか、(調教由来の恐怖から)「こんなことしか起こらなかった、
しかも楽だった、みたいなことを報告できるわけがない」と思いはじめていて、
そのことが、これから何が起こるのか、そして、何も起こらなかったらどうしよう、
という焦りをうみました。

振り返ってみると、1/24(金)、1/25(土)くらいは、冷静なふりをしています。
メモを見ても、分析をしたり、観察をしようとすることで、その不安を
まぎらわしているのが、垣間見れます。

そのことにやや自覚的である場面もあるにはあります。

実際、その日もなんどかは、「こういう不安なときは、わたしはいつも、
頭の中を整理しよう、考えをまとめよう、自問しようとするんだ」と
思ったりもしました。たしかにわたしは、自問しようとすること、それすら、
不安をまぎらわす道具にしてしまうことがあって、なぜ自問しようと
自分がしているのか、それを自問しない癖があります。

・・・などど、このように「考える」ということは、理屈ぬきに
「よし」というような態度があるために、このあたりから、混線してきます。
今のままじゃ不安だから、だから、ACのコイツが出てきて、
「こうすれば安心だ、これでいい」などと言い出すのだ、と、今までも
ブログで何度も書いたようなことを反芻(自己確認)したりします。

さらに、この、
「こんな自分でいいのか?」という疑問、この実体のない疑問は
どこから生じてくるのか・・・少なくとも、わたしが決めた不自由じゃない、
じゃあ、なんだ?と考えることで、この不安に直視した、と思うことで
これもまた、そうすることで、そう思うことで「安心」を得ようとします。

このあたりになると、混線は酷く、だんだんと
おとしどころを決めようとする思考の癖が出てきました。
ですから頭のなかでは、「だんだん整理がついてきた」などと思えても、
そういう姑息さや計算高さは、自分では当然誤魔化せませんから、
いやーーな感じが、じわーーと広がって、内心、焦っていきます。
ただその焦りを隠そうとするために、わたしは今、親から洗脳された
不自由を意識化しようとしているんだ、と、頭ばかりが前に出ようとして、
感情はどんどん鈍感になっていきました。
今になって、「鈍感とはあのようなことだ」と思えますが、
いろいろ考えているときは、そんなことを思いもしませんでした。


・・・


1/25(土)になって、桜の間に「新子さん」のブログに関する記事が
掲載されていて、拝読しました。

最初に生じた感情、一次不快、そこを直視し書かれた
新子さんの記事をみて、この数日、感じていたこと、
自分ルールを開始して「楽に感じたこと」を、わたしは隠そうと
していたことに気づきました。まさに、書き換えていたのです。

「苦しくなかったら、それは間違っている、おかしいぞ」という
思考がつねにあって、「楽に感じた、どこか自由に感じたのも
それも感情だから大切にしよう」と頭では思いながらも、ずっとどこかで、
「本当は、それは間違っているんだよ。苦しくなっていくのが
正解なんだよ。後でどんでん返しがくる仕組みなだけだからな、
調子にのっているなよ。痛い目にあうぞ・・・」という思考があるのに、
感情を受けとめているフリをしていました。

いえ、そのときは、フリだとは思っておらず、
感情は感情で大事にしているよ、どんな感情も大事なんだから、
と、それこそ、桜の間で書かれたことを、実はまったくリアリティーなく、
その言葉だけを借用していました。

自分ルールを開始し、楽だと感じたこと、自由をすら、その解放感
とともに感じたこと、こんなこと、報告できるわけがない、だって、
きっとこれは自己嫌悪とか、そういうものが募っていく「はず」だから、
苦しくなっていく「はず」だから、という、根拠のない思いこみがありました。
まさか、「不自由を自分に課してみて、楽しいとさえ、ふと感じたりしました」
なんて報告できるわけがない、きっとそんなことをしたら・・・間違っている、
と言われてしまうにきまっている(これ自体は、調教由来の仮想の恐怖
から来るものだと思います)。

なぜか、「これはさすがに言えない」と思いこんでいました。
自分ルールをやっていると、なんだか得体の知れない不自由からは
解放された気がして、「このままでいいんだろうか?」という疑問も
薄れてしまって、これではわたしはAC人格解除をあきらめてしまった
ことと同じじゃないか・・・

こんなこと、言えるわけないじゃないか。

苦しくないとダメなんだ。

わたしは、「楽に感じる」とか「楽しいと感じる」とか、
そういう感情をまったく拒絶していました。
なんで苦しくならないのか、苦しいことになぜ反転しないのか、
自己嫌悪のようなものがどうして生じてこないのか、

どうして苦しくないの?
どうして自己嫌悪が生じないの?
どうして何も「起こらないの」?

どうして、どうして、

新子さんのブログの中に掲載されていた、崩残さんから
新子さんへのメール文面に、

「それゆえに、たとえばAbyさんのような人にも
大きな刺激になると思いました」

という箇所を読んだとき、わたしはこの言葉にも
左右されてしまい、何度も何度も読みながら、
「どうしてここまで書いてくれて、このチャンスを
手にできないんだ!自分ルールという不自由を制するために
崩残さんが考えてくれたものも、生かせなかった。
もう四日目なのに、どうして何も起こらないんだ、
自分はどこまで鈍感なんだ、なぜ、なぜ、、、」

新子さんは、他の報告者の方の記事を読んで
すぐに体調に変化があらわれるほどのことが起きた、
とあるのに、わたしは、何も起こらない。

この日の夜に近づくにつれて、なぜ、なぜ、と
疑問を綴る気力もなくなり、生体反応も失せていき、
「やっぱり自分はダメなんだ」という考えに
浸ってしまいました。

こんなことも考えてしまいました。

そういえば、自我復元をはじめたときも、
どこかで「わたしは、やっても、きっとダメだろう」
と思っていた自分を思い出しました。
そう思うと同時に、今もどこかで、わたしは最後は
失敗するだろう、やっぱりわたしはダメなんだ、
全自我になれないんだ、99.9%まで復元しても
わたしのような人間は、最後の0.1%が埋まらないように
なっているんだ、抜けられるはずがないんだ・・・

今、こう書いていても、ぞっとするほどの「自分への裏切り」
ですが、このときは、もう、そう思っている何かがわたしにある
ことは、認めざるをえない状況でした。

しかし、それでもなお、「こんなことは崩残さんに言えない」
とかたくなに保身をしていました。


・・・


1/26(日)の朝、なぜか、この朝というのは、頭が動き出すのが
鈍いからか、前日の無気力は一時薄れていたようで、
今日の自分ルールのことを考えると、やはりどこか、グッと
楽に感じて、急に、あんなこともしたいな、こんなこともしたいな、
という気持ちが沸いてきました。

この日はそれも束の間でした。「楽しんではいけない。
楽しいと思ってはいけない」という考えが、頭をあげてきました。
楽しい感情を避けようとしている。
我慢思考と自虐思考、そういえばこのことをブログにも書いたっけ、
そうだった、だから、わたしは、その反動としてまたさらに
「このままじゃダメだ」とか「自由になりたい」とか、
そういう人格を作り出してしまったんだ・・・などなど、
かつていろいろ考えたことを、これまた反芻(自己確認)して、
頭を整理しよう、そして安心しようとし、いっそう、
鈍感になっていったように思います。

朝一に束の間感じた、楽しい気持ちなど、どんどん、
無くなっていきました。しかも、気がつけばブログで書いたような
ことを、(これはいつもよく起こっていることですが)別の角度から
さも新しいことを書いているかのように、新しい納得を自分に
しようとしている。

完全に、頭も混線してきてしまい、自分が何を考えているのか、
何をしているのか、ブログも書き続けてきたけれど、
わたしは何かひとつでも変化があったのか、重要なことが掘れたのか、
考えれば考えるほどわからなくなっていきました。

この日は朝から体調が悪く、自我復元をはじめてから
一度も風邪をひかなかったのに、はじめて体調を崩しました。
自分を無自覚に痛めつけているのだろうか?とふと思い、
こんなこと、一度も思ったことがなかったのですが、
「もしかしたら、わたしは自分のことが嫌いなのか・・・」。

客観的に見てみても、どう考えても、自分をわざと
痛めつけているようにしか見えない。
わたしは自分で自分のことを大事にしてきた、と思ってきた。
でも、どこがだろうか?考えてみれば、自分をいたわったことすら
ないのではないか?こうやって「楽しい」と感じたことも、
無かったことにしようとする、自分はダメなんだ、といつも
自虐的だし、きっとこうやって身体も痛めつけている。

「わたしは自分のことが嫌いなんだろうか?」

夜、床につきながら考えていました。




 ・・・ 「(後半) 「お手紙」の返信」に続きます。




2014.01.29
Aby



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by jh-no-no | 2014-01-29 17:54 | 復元ノート 1

(後半) 自分の世界、という逃げ道

・・・ 「(前半) 自分の世界、という逃げ道」の続きです。


母の育った家庭で気になっていたことがあった。

母は、四人兄弟の末っ子で、上三人はお兄ちゃんだ。
母の母親は、兄ばかりを目にかけて、娘の母には目もくれず、
甘えさせることもなかったという。

ただ、母の父親は、母を目に入れても痛くないくらい可愛がったらしい。
その父親の暴力が原因で、母親が兄たちを連れて逃げ、別居していた頃も、
母は父親と二人暮しをしていた。母が思春期の頃だ。
母の父は、娘の母に何でも買ってくれたという。
父親には存分に甘えることができたようだ。

ただ、母の希望は、自分の母から愛されることだった。
甘えたい、自分を見てほしい、わたしの気持ちがわかってほしい・・・
なのに、それが叶うことはなく母は失望した。

「わたしは父でなく、もっと母に甘えたかった」

と母は言っていたが、母にとっても、こういう「娘と父の関係」は
幼い頃から続いていて、自分が真っ二つにきりさかれる体験だったと思う。
高校を卒業して、まるでその父親の暴力性がそっくりのりうつったような
今の夫(わたしの父)と出会い、結婚し、別居を繰り返しながらも、
結局はここに自分の幸せはあるはずだ、と信じきっていて、
あれだけ夫から罵声を浴びせられ、無視をされ、抗うつ剤を多量摂取しなければ
やっていけない状態にあるのが自分でもわかっているにも関わらず、
「そこを自分のテリトリー」としている。

その意味では、父も似ている。

父は幼い頃、両親と一緒に寝たこともない、という。
昔はよくあったのかもしれないが、おじいちゃんとおばあちゃんに
めんどうを見てもらったことが多いらしく、父の兄もある時期までは
似た環境だったようだが、両親の期待は兄にばかりかけられ、手をかけられ、
仕事をつぐのも長男というところがあって、それこそ、おじろくのように、
長男のために働かされて、親の関心はつねに長男の兄に集中していたようだ。

おじいちゃんとおばあちゃんから大事にされた、と父は言っているが、
それはそれほど嬉しいことでないようで、「もっと母に見てほしかった、
甘えたかった」と、昔からよく話していた。
その不満をかかえながら、「理想の家庭」を作ろうとし
(実際作ってきたと自負している)、一家の大黒柱だ、と鼻高々に
「こここそ、自分のテリトリーだ」と叫んでいる(としか見えない)。


だんだん見ていくうちに、どうもこうやって
「これは自分の世界なんだ、自分の時間なんだ、
だからここは誰にも邪魔されないんだ、でも、
一歩外に出れば、そこでは、はいわかりました、といって、
ちゃんと社会生活出来るんだぞ」という、そういう主張に満ちている。


両親二人ともに共通するのは、

「わたしにはわたしの世界を持っている」

という主張。

完全にそれを「自立」だと信じている。

当然、社会生活など出来ていない。


わたしもそうだけれど、そんな自分の世界を持っていたと(錯覚)しても、
そこでの主張など、「あんなやつらとはわたしは違う」という主張以外になく、
だから、そんなマイルールは外では一切通用せず、
母と父に「何をしたいの?」ときいても、まったく自分の意思や考えがなく、
父は「子どもが幸せならそれでいい、なーんにもいらない」と答えることしかできず、
母は完全に思考停止してしまう。考えたことがない、、、と。
たまに機嫌がいいと、「自分の人生を生きること」のような、
何も考えていないのがバレバレな答えを言う。


こういったことが、脈々とわたしにもコピーされている。


母も父も、生育環境を見聞きすれば、
「自分のことは自分でしろ、相談するな」と言われ続けてきたのは明らかで、
父の口癖のひとつは、「親の背中を見て盗め」だ。
母は、保育連絡帳からもよーくわかったが、
「心配をかけることをしてくれるな、頼むから」という、客観的にみて、
どう見ても、相談の余地なし、といった具合だ。
実際、母は自分の母に相談にのってもらえなかったどころか、
話もきいてくれなかったことを今も恨んでいる。
これもまた代理復讐のひとつに違いない。



「あなたの居場所、あなたのわがまま、自己主張が出来る場所を
ちゃんと用意してあげているでしょ。だから、そこで、一人で、やりなさい」


「・・・だから、くれぐれも、他人様には迷惑をかけないようにしなさい。
もちろん、(親である)わたしたちを心配させることは、親不幸だ!!!」



わたしの母も父も、わたしに対してそうしてきたし、
さかのぼってみれば、母の母も、父の母も、わたしの両親に対して、
同じ逃げ道を用意し、あてがってきたんじゃないだろうか。


わたしが昔から感じていた疑問は、
喜怒哀楽がない、という感覚だった。
なんで、自分には感情が沸いてこないんだろう・・・

不思議だったけれど、
随分大人になるまで、他の人も自分と同じくらいだろう、
小説やドラマはあれば大げさに演じているんだ、と
本気で思っていた。

成人してからだ。どうやら、わたしの感情が
他人と比べて、どうやら希薄だと気づいたのは。


沸くはずがない。


だって、みんなの前では、他人の前では、それを抑えるように、
我慢しなさい、自分を消しなさい、捨てなさい、と言われてきたのだから。
感情的になれば、それは親に心配をかける結果になることであったり、
調子にのるなよ、と恐怖が誘発する仕組みになっていたり、
まわりのことをよく見なさい、相手の気持ちを察しなさいと叱られることになったり。

でも、そこで、自分の感情を押し殺すことに
同意してはいけなかったんだ。
用意された、用意した自分の世界で発散すればなんとかなるだろう、
と甘くみた自分が馬鹿だった。


これはどこか、「セックスと自慰」に似ているな、と
ふと、寝起きに思った。


セックスの不満は自慰で解消できる、と思っているのと
すごく似ている、と思った。


違うんだ。


わたしは、もっと、異性の人ともいろいろなお話をしたりして
会話を楽しんだりしたかったし、スキンシップだって交歓したかった。
そういうのをふくめて、わたしはセクシャルな行為で、
その感情の交流を、どこかでずっと、夢見ていた。

今でもそういう妄想はある。

感情を抑圧し生きてきて、では実際その場になって感情を交歓しあえるか
というと、自信はないけれど、セックスっていうのは、
きっとそういうものだろう、と思っているところが
わたしにはあるようだ。

Pさんと出会った頃、他の異性との接触は一切、
許されなかった。このことで口論になったこともある。
最後はわたしが折れてしまい、Pさんとの関係だけを20年続けて、
わたしはセックスに対して、大きな不満を残すことになった。

アルバイトを選ぶときは、女性の多い職場、おもに接客業の
仕事を選んだのも、そこにはいつも、異性の人と接したい、
いろいろ話がしたい、という動機があった。

そして15年以上の歳月をへて、3年ほど前に、
ついにバイトでなく、自分の内職として、
異性の方と言葉を交わす機会と場を作ることができた。
作ってしまった。

これのタチが悪いのは、無償のボランティアとしてやっていることで、
わたしの下心や罪悪感をそれで無いことにしよう、隠そうとしてきたことで、
いかにも相手のためにやっているかのような仮面をかぶっていたこと。
まるで、その場を自分の性的不満のはきだめ、自慰のような場所、
それこそ「自分の世界」としてしまったこと。


本当はそんなことをすべきじゃなかった。

そんな動機でやるべきじゃなかった。


自分の感情を出せないからしかたがなかった、とか、
Pさんとの関係でしかたがなかったからといって、
それを自分で抑圧し、その代替として、他の理由をとってつけて、
「わたしがやりたいことは、こういうことです」と
自分でもリアリティーをまったく感じていない理由を
もっともらしく語っていただけだった。

今の仕事にしてもそう。

わたしが親から、また、まわりに大人からしてほしかったことを、
「叶わなかったから」、だからかわりに、誰かにしてほどこそうとする。

仕事をしていてつらいと感じるのはなぜ?と、
そう感じるのはおかしい、好きでやっているんだから楽しいはず、
と自分に言い聞かせることも、しばしばだった。

しんどいのは、考えてみれば当たり前だ。
自分が欲しい物を相手に買ってあげて、
「これほしかったでしょ」―「うん」という返事が返ってくることでよし、とする、
そういうAC人格を新たに育てようとしてまで、自分の気持ちを
押し殺そうとしているのだから。

さらに、代理復讐もしてしまった。
内職の際、我慢思考や自虐思考を
無自覚に植えつけ、コピーしてしまっていた。
(以前、ブログにも書いた通りです)


「じゃあ、仕事も内職もやめたら?」

という、これまたACの声がきこえてくる。


やめることで解消されることじゃない。
もちろんやり続けることで解消されることでもない。

わたし自身が解毒しなければ、
どこにいっても、何をやっても、また「自分の世界」と称して、
一時の快で済まし、常に外の世界に怯え、毒親の連鎖に加担し、
結局、自分のやりたいこともわからない、違和感が残ったままだ、
と泣き言を言うことになるのだ。


数日前、はっと思った。


自分で決めることなんだ。
自分で決めて自分で責任をとる、そういう当たり前のことを
してこなかったから、こうなったんじゃないのか。
こわいから、争いになるかもしれないから、間違うかもしれないから、
怒られそうだから、罰せられちゃうかも、見捨てられてしまうかもしれないから・・・

だから何なんだ、そういう理由だったら自分を裏切っていい、
切り売りしていい、どうしてそんなことが通用すると思っているのか!!


逃げるなよ


一時の快、といえば、わたしは逃げ道として、
大好きだった「音楽」を利用し、汚してしまった。
今でも音楽は好きだから、でも今はここに逃げるときは、
音楽を汚してしまっている。

Pさんが昔言っていたことだが
(あなたが言うなよ・・・だけれど)、

「Abyは、つらそうなとき、よくCD屋さんに言って視聴したり、
アルバムを買ってくるよね」

と言われたことがある。

無自覚だったが、たしかにそうだった。

Pさんとのおじろく生活がかなりしんどい、と感じていた頃、
(今も状態としては同じだ)、バイトの帰りによく音楽を視聴した。
6、7年ほど前のことだったと思う。

その当時、たったその視聴一曲と、缶ビール1本で、
「感情を抑圧してすごした一日の自分」と取引をしてしまった。
アルコールの力と音楽の力を利用し、効率よくハイになれるような
そういう状態に持っていこうと、そんなどうしようもない工夫ばっかりしていた。


音楽も汚してしまった。


自分の世界を守りたかったためだけに。

そんなことのために、汚してしまった。


そうでなくて、自分の世界を、でなく、
この世界で、「自分が」
生きなければいけなかった。

どこを輪切りにしても、そこで
自分が生きていなければいけなかったんだ。


◇ ◇ ◇

桜の間の記事
・「精神世界があなたにもたらした混乱」
http://www.mumyouan.com/k/?S302

・「AC人格と正常人格」
http://www.mumyouan.com/k/?S310

◇ ◇ ◇



2014.01.16
Aby



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by jh-no-no | 2014-01-16 02:45 | 復元ノート 1

(前半) 自分の世界、という逃げ道

幼少期から今まで、どこを輪切りにしても問題だったこと、
問題だと思ってきたこと、それは何だったのか、
もう一度考えてみた。


「邪魔されない自分の時間がほしい」


これは5歳以下の幼少期から今日まで、
どの時期に焦点をあてても、いつも感じていたことだった。


誰にも邪魔されない自分の時間がほしい、
誰にも邪魔されない自分の世界を守りたかった・・・


でも、これって本当に本当の本心だろうか?


それとも、これは何かから逃げて、そこで作り上げてしまった
妄想世界や、AC人格なのではないか?

昨日の夜になって、いや、これは違う、本心じゃない、
ことに気づいた。


わたしが本当に叫びたかったのは、

「誰も邪魔するな」

だった。


それが言えなかったから、そう親に言えなかったから、
また、友だちにも先生にも、誰にもそう言えなかったから、
誰にも邪魔されない自分の時間をできるだけ確保しようと


「ひきこもる」


という選択肢を作ってしまった。


いや、まずそれを作ったのはわたしじゃない。
調べていくうちに、まずその逃げ道を作ったのは、
両親、とくに母親ではないか、と思うようになった。


昨年夏に母から、

「Abyは、保育園でもよく一人で遊んでいてね、
保母さんからも、外でお友だちと遊ぶのはそれほど好きでないみたいで
部屋で一人遊びをしています、と言うものだから、
それのどこが悪い!と反骨精神いっぱいで反論したわよ。
一人一人個性があって、何が悪いってね。
生意気な保母だったわぁ~。それにね、友だちとはうまくやっていたのよ。
外遊びだって、やるときはちゃんとみんなとやっていたわけだし。」

こうきいたときは、最初は、どちらかというと、
我が子のことを尊重しているようにも思え、
問題視せずスルーしてしまった。


年始に実家に戻ったとき、たまたま、その頃の「保育連絡帳」
というのが約2年分(5歳前後)あったので、それを持ち帰ることにした。
先日、そこに書かれた母と保育者との連絡事項を読んでみることにした。


わかったことがあった。


母が最も関心があったのは、うちの子(=Aby)が他者、
とりわけお友だちや先生に迷惑をかけていないか、つまり、
他者のことを考えてちゃんと行動しているか、わがままを言っていないか、
自分が好きなことを他人様の前で言ったりやったりしてはいないか、
心配かけていないか・・・、そんなことばかりで
家での出来事の連絡事項も、妹と喧嘩してお兄ちゃんなのに我慢が足りないだの、
親の言うことをきかないで逆らうことが増えただの、好きなことばかり言って
他人の話はきかないだの、親が困ることをするだの、心配をかけるだの、などなど、
実に関心は、

「〝他者関係〟において、Abyはどう我慢し、自分を押し殺すことができ、
(そう直接は言わなくても)どう自分を犠牲にできたか(=それが母の言う自立の定義)」

いろいろ書いてあっても、つまるところ、
その確認に母は明け暮れている。


そこで大問題だと思ったのは、
「Aby、自分の好きなことをするのなら、一人でしなさい」
という雰囲気が、これは感覚的なものだけれど、
あちこちから感じられたことだった。


この、

「一人でしなさい」


一見、個性や主体性を尊重しているようでいて、
それは違った。


めぐり巡って、母も父も言っていることは、

「親に心配をかけるな。嬉しい報告以外、いらない。
嬉しい報告というのは、親にとって嬉しい報告であって、
Abyが楽しいとか嬉しかったとか、Abyの基準ではない。
それと、親が心配になるようなことは、知らせるな。
あれほど親を不快にさせるな、他人を不快にさせるな、と言っているだろ。
悩むなら一人で悩め。自分勝手に楽しむのも、自分一人でやりなさい。」

ということが本心で、


そのための逃げ道、


「だから、Aby一人の時間、誰にも邪魔されない時間や機会を
わたしたちは守ってあげているでしょ。ひきこもったって、いいじゃないの、ってね。
Abyは一人で何でもできるわよね。ほら、近所のおじさんだって、誰だって、
Abyちゃんは一人で何でもできるんだね、おつかいだって店番だって
もう一人で何でもできるんだねー、すごいねぇって。」

そういう逃げ道を用意し、実際に
母はわたしに、よくこう言った。


「自分の意思を持ちなさい。自立した人間になりなさい」


ふたを開けてみれば、
自分の好きなことを自分ひとりで(こそこそ)楽しみ、
「本当はこれって自分勝手なんだよね」とどこか罪悪感を持ち、
困ったことがあっても誰にも相談できず、「自分は悪くない理由」を
なんとか捏造してでも作ろうとし、嘘をついたり、隠蔽しようとして、安心しようとし、
こわいのにこわくない、こわくない、と自分に言いきかせる、
そうやって自分一人で何でも抱えよう、自分一人でなんとかしよう、という
完全にひきこもった人間に育った。

他人と関わるときは従っていればいいんだよね、
(逆にいえば、従わないと罰せられるから、それはこわいことだ)
誰かと関わるときは、自分勝手なことはダメなんだよね、我慢しなきゃいけないんだよね、
相手の気持ちを察して、相手が喜ぶことをして、一緒に笑ったりするのがいいんだよね、
自分だけが楽しかったり、そういうのは勝手だから「調子にのるな」って怒られるんだよね、
わたしが怒ったりするのも相手を不快にさせるからダメ、我慢しなきゃダメ、
泣いたり不安な顔をすると、お母さんはもっと不安になって心配するよ・・・


喜怒哀楽をこうやって抑圧していた。


母からすれば、これが
自立した子どもの必要条件だった。
保育園の生活でチェック、監視していたのはこれに尽きた。

別にいい子になりたい、とか、褒められたいと思った記憶は一度もないが、
こうなるべきだ、こうあるべきだ、と当然のように教育された。
父が言うには、これが人として「当たり前」というものだった。


こうやって感情を抑圧してさえすれば、
親は笑顔だったり、機嫌が悪くならなかったからだろうし、
基本的に相手(親)の言うなりになってさえすれば、「OK」の承認がおりたのだ。


これが悪質なのは、


「・・・Aby、きっとストレスもあるだろうね。ちょっと厳しすぎたかな?
寝顔を見ていると、ちょっと言い過ぎたな、と反省の毎日です」

と保育連絡帳に、しばしば保母さん宛てに書いては
それを免罪符のようにしていることは百歩譲っても、

「Aby、自分一人なら自由にやりなさい。でも、他人と関わるときはダメよ」と、
幼少期の時点で、わたしにわたしの世界を「二分」させたことだ。


自分一人の世界と、それ以外の世界。


このメリハリ(よくこれを、けじめ、と言っていた)をつけることができる人間が、
自立した人間だ、と母は考えていた。
昨年夏、母からきいてあいた口がふさがらなかったのは、

「他人の前で喜怒哀楽を出したらダメよって
子どもたちにはよくそう言ったわ。
自立した人間は、誰に対しても平然といられることだからね」

とさらりと、当たり前のように言ったことだ。


どこから仕入れた教訓だよ、とその時は思ったが、この


「他人の前では」


というところが、落とし穴だった。


・・・


保育連絡帳を見ても、わたしはよくブロックで遊んでいたことになっている。
(・・・になっている、というのは、わたしは、この連絡帳を読んでも、
たった一件、不快年表に書いた一件しか、エピソードを思い出せなかった。
連絡帳は基本的にインパクトがあったことを双方書いているのに、だ。
ということは、たとえブロックで遊んでいても、心ここにあらず、というか、
楽しくもなんともなかったのではないだろうか?と想像した。
ちなみに、不快年表でも書いた一件とは、わたしが5歳の頃、
お店で音の出るおもちゃの鉄砲で遊んでいたら、おじちゃん(父の兄)に、
「警察呼んだから、もうすぐ来るよ」と脅されたこと。咄嗟に逃げて、
店のダンボール置き場の陰に隠れていた。怖くて怖くてしかたがなかった。
こういう脅し方を、父だけでなく、父の兄も子ども相手にやってきたんだ。)


ブロック、、、かあ、と思った。

好きだった記憶がまったく、ない。

結局わたしは、ただ、

誰にも邪魔されない自分の時間を確保したかった、

このときから、ただそれだけだったのではないだろうか?


以前からその傾向は強いと自分でもわかっていたつもりだったが、
これは酷い、と思いなおした。

昔のビデオ(10歳頃のわたしが映っている)を見たときに最初に感じた、あの
「自他をくっきり分けて遊んでいる、異様な感じ」は
どうやら勘違いではないようだ。


小学校に入っても、中学校に入っても、高校、大学になっても、
そして今でも、わたしは誰かの誘いに対して、まず「断ろう」と思っている。
どんな誘いかは関係なく、まず、断りたい、と。

どうしてそう思うか、といえば、
誰かと何かをするときは、自分の時間じゃなく、自分の世界が邪魔されるから、
できるだけ(しかたがない場合を除き)、とっととそういうのはこなすか、断って、
自分の時間を確保すること、これに病的に執着している。


ここのところそんなことを考えているせいかもしれないが、
昨日の夜は夢の途中で、3回、起きた。
どういう時に起きたかが問題なのだが、それは、
「断りたいときにその場では断れず、よし、目を覚ましてしまえ」
と思って、本当にそうやって目を覚ますことで、そこから逃避したことだ。
具体的なシーンは覚えていないが、あれは確かに、少なくとも
嫌なのに嫌と言えない、断れない、という感覚の時だった。

目を覚ましたとき、「まぬがれた」と一瞬ほっとしたが、
いや、これがわたしが逃げ道として、わたし自身、
作り続けてしまったものじゃないだろうか?


本来なら、その場で、夢であれ、現実世界であれ、

「邪魔しないでよ」
「いやだよ」
「わたしは行きたくないよ」

とたったその一言が言えればよかったのだ。


断っちゃいけない、と思っている。
だから誘わないでほしい、と事前に誘わないでほしい雰囲気を出しているのに、
相手は気づいてくれない。


断りたければ、断ればいいのに、
ここでも従わないといけない、嫌だと言っちゃいけない、
というふうに思い込んでいる悪い癖が出てしまう。
だから、「嫌なわけじゃないんだよ、従いたくないわけじゃないんだよ」と、
嘘でも別な理由、「これこれこういうわけで、しかたなく断っているんだよ、わたしは」
ということを毎回、毎回してしまう。
わたしはこうやって、10のうち、10といってよいほど、
友だちからの誘いを断ってきた。こういう姿勢が、わたしは間違っていない、
わたしは悪くない、わたしのせいじゃない、わたしは一生懸命やっています、
と言って怯え、逃げ、隠蔽しようとする癖につながっている。


「邪魔しないでよ」


その一言が言えなかったがために、
「自分の世界、自分一人の時間」をなんとか死守しようとし、
ではあなたは何をそこでやりたいのさ?と言われても答えられるような
主体性を一度も育ててこなかったために、それに答えることもできず、
ただただ、強迫観念的に、自分の世界、自分一人の時間を守ろうとする。

わたしは、これは自分を大事にしていることだ、
自分を守り抜いていることだ、こういう世界を持つことが自立だ、
とつっぱって生きてきた。

精神世界も、そして自我復元でさえも、わたしは悪用してしまった。
「そこなら、自分の世界を築ける」と思って。

自分の世界を守りたい、
自分のことを大切にしたい、
自分を尊重したい、
自分のやりたいことをしたい、

そういう不満の反動の実現のために、
「精神世界はそういう場所だよね、それが叶う場所だよね」
とやってしまった。それが肯定される世界に違いない、と誤認した。

考えなけばいけなかったのは、
どうしてそんな不満、自分の世界や時間を守りたい、作りたい、
尊重されたいなどと思ったか、ということであったのに、
そういう自問からはずっと避けて通ってきた。


その結果、


他者との関係性において、
喜怒哀楽といった感情を、「そこでは」犠牲にしてもしかたがない、
という自分を捨てる行為に甘んじてしまった。

親がそうしろ、と言ったらそうしなさい。
そうすれば機嫌をそこねないけど、親の言うとおりに出来ないなら、
どうなるか覚えておきない、と言って、
母はわたしの大事なおもちゃをハサミで切ってしまったこともあったし、
父は直接わたしを殴らなかったけど、わたしの前で見せしめとして
他者を殴って恐怖を植えつけた。

親の機嫌をそこねる、イコール、
罰を受ける。それは当然のこと。

だから今でも、相手が怒り始めたり、機嫌をそこねたりしたら、
理由がどうであれ(たとえ相手に問題があっても)、
「怒らせてしまった、機嫌をそこねてしまった」わたしがいけなかった、
と即座に思いこむ癖がついている。



「他の人と関わるときは、自分は捨てなさいね」

「自分一人で誰にも迷惑かけないなら、そこでなら好きにしなさい」



という毒親のメッセージに完全に洗脳されたまま、
「自分一人の別な世界」、それこそ、AC人格が生きる世界を
せっせと、小・中・高・大に至るまで、自分自身で作ってしまった。

勉強はわたしにとって、好きなものだったので、
小学生の頃から、わたしは学校で習ったものでなく、自分で参考書を買って、
習っていないことを勉強することは、自分だけの時間として大事な時間だった。

学校で習っていない漢字を覚えたり、幾何の問題で角度を算出したり、
歴史も歴史書を別に購入して教科書に書かれていない歴史の背景を
自分で勉強し、裏付け、なるほど、と思うのが好きだった。
化学も暗記するだけじゃつまらないから、化学記号をゲームの主人公にしたてて、
自分でロールプレイングゲームを作ったり・・・
学校だけでなく、どこでも、言われたことをそのままするのが
嫌でしかたがなかったので、テスト内容に直接関係する勉強は
ギリギリになるまでやらず、自学自習ばかり、熱心にやっていた。


この使い分けは
本当はやってはいけないことだったんだ。


学年があがるにつれて、また成績に対するストレスが増すにつれ、
つまらなくてもなんでも、必死に暗記中心の勉強に耐えねばならなかったし、
教科書を一冊覚えるような勉強の仕方は、本来なら、自分を真っ二つに
切り分けるようなものだったはずなので、従うこと、倣う事、そういうことでの
メリット、飴に自分を売り渡してしまった。


今になって思うが、
あんな暗記やめちゃえばよかった。


でも、それが出来なかった、それをしなかった。
やめたい、と口に出せもしなかった。
当時はそんなこと、思いつきもしなかったのだ。


それはきっと、それこそ
「従わないと罰するぞ」という脅しが
そこらじゅうに地雷のようにあったからだったろうし、
なにより、自分のせいになること、自分が悪いこと、
そうなることがこわい、という、まるで軍隊そのものの心理で、
「軍人が命令にそむいたら、問答無用で処刑」という恐怖、
わたしの家庭はどの宗教にも表面的には属していなかったので
「無間地獄に落ちるぞ」とか「神からの刑罰」とかそういうのはなかったけれど、
毒親自身が、まさにカルト教祖であり、「従わねば罰する」だったから、
植えつけられた恐怖は同じようなものじゃないだろうか。

妄想に妄想を拡大して、自分が悪いことになりそうな要因を
先回り先回りし、さらに捏造してまでこしらえて、
それを隠そう隠そうとする隠蔽体質がびっしり、身についている。


だからそのかわり、従うかわりに、


・・・わたしの時間は残してね、わたしの時間だけは邪魔しないでね、

・・・わたしの世界はそっとしておいてね、だからなるべく誘わないでね、

・・・わたしの時間減っちゃうからね、誰も関わらないでね、


という、自分を二つに分ける、という、
まるで分割自我のようなことを、自分でもやってしまったんだ。
もちろん、これは親が十分にその準備をしてきたわけだが。
とはいえ、その後、要所要所で、「それはおかしい」と声をあげず、
従うことの飴と罰せられることの鞭におどらされて、
こじんまりとした自分の世界に甘んじ、「ここでいいや」としてしまった。


成人後は、もっと
やってはいけないことをしてしまった。


大学に入り、気がつけば、「自分の世界、自分の世界」と
歪んだ自己愛全開で叫び散らしていただけで、
あれ???何をしたらいいのかわからない。

で、何をしたか、というと、

わたしのそのAC人格をPさんに投影し、依存し、

Pさんの世界を
「自分の世界」に置き換えようとしたことだ。

わたしはPさんの夢にのっかろうとした。

それを自分の夢にもしてしまおう、
Pさんの夢をラクをして横取りしようとした。
どうしようもない始末だ。

それで何が起こったかといえば、
性的な不満を内職で「代用しようとし」、
仕事だって、Pさんのために貢ぐような形で「お金のため」に
続けることになってしまった。
その今の仕事も「自分がやりたいことだ」と思っていたけれど、
気がつけば、自分がやりたいことを「相手にかわりにやってもらう」仕事を
しているだけで、本当は、自分がやりたかった。
「邪魔されたくないよね」と相手に言ったりして共感的な態度を取り繕っているが、
違う、わたしはわたしがそう言ってもらいたかった。
誰かから、たぶん、親から、そう言ってもらいたかった。

だから今でも、その呪縛からはなれられず、じゃあ何をしたいの?
と言われても答えられないにも関わらず、ただただ、
自分の時間を守ることに執拗にしがみついている。


「ここはわたしの場所、わたしの時間、
わたしのテリトリーだから邪魔しないで!」


これはわたしがずっと育ててきてしまった、
AC人格の声だ。


そうでなく、最初から、

「誰も邪魔するな!」とそう一言、
言えればよかった。

〝ここでは〟とかヘンな限定などせずに。



  ・・・ 「(後半) 自分の世界、という逃げ道」に続きます。



2014.01.16
Aby



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by jh-no-no | 2014-01-16 02:44 | 復元ノート 1

「従う」ということに躊躇がない

年末から年始にかけて、随分、いろいろなことがあった。

何かひとつ出来事があると、なにかそこから気づきを得よう、
そういう態度は、学生の頃から身についていて、それを自己確認のツールにした。
また、ひとつ何かに気づくたびに、新しい自分になれたような気がした。

この繰り返しは、違和感そのものだったけれど、
違和感を麻痺させるのも、この繰り返しだった。


この繰り返しは、必ず不安を残す。


「これでいいんだろうか」という不安。


放置してきた違和感をにらみ続けよう、
麻痺させる前に自分はどういう行動に出るのか?
昨年、2013年の総括を書いてから、
頭の中はそればかりだった。


「間違いたくない」


この思考はどこからくるのか、どうしてこんなにも根強いのか。

間違いたくない、間違いたくない・・・


ここでストップしてしまって、逆にいえば、毎回、ここで
考えるのを放棄していた。違和感を放置していた。


「一生懸命やっていれば・・・」


何日かかかったが、この「一生懸命やっていれば」という思考が
あまりに自動的に生じているようだ、ということがわかった。


ただ、これもよくわからない。


何を一生懸命やればいいと思っているのか、どこから
この「一生懸命やっていれば・・・」という考え方がくるのか。


桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S301

で、「AC人格が共通して言う典型的なセリフ」として、

『~~~をすれば、私は、~~~が、もらえる』
『~~~をすれば、私は、~~~を、避けられる』


がある、という箇所を読んだときに、
今まで見落としてきたところがあることに気づいた。

「~がもらえる」というところばかりに気がいってしまっていたが、
「~をすれば」という、飴をもらうための手段、については
まったくノーチェックだった。

一生懸命やってさえすれば・・・というのは、
この飴をもらうために身につけてきた、ほぼ自動的なパフォーマンスだった。
これは無意識、無自覚にやっていることで、例外なくやっていることだったから、
「誰だってそうだろう」とさえ考えたこともなく、自動化された考えだった。


それでもやはり、よくわからなかった。


どうしてそう思うのか、なぜそう反射的に思ってしまうのか。

たんに「努力」にまつわる格言をたくさんきかされたから、
というだけでは納得できないほど、絶対的といってよいほど、
この「一生懸命やってさえすれば」という観念は強迫的に横たわっている。


一生懸命やっているので、ゆるしてほしい。
一生懸命やっているので、わかってほしい。
一生懸命やっているので、もういいでしょ。


こういった媚びる姿勢が、底辺にじっとり流れている。

どんなに知らん顔をしても、行動の動機の根っこのほうには
つねに、こういう姑息な動機がある。
同時に、これが恐怖の原因となっているから、いつ、どの場面でも、
「わたしは一生懸命やっています」というパフォーマンスをする。

このパフォーマンスが姑息なのは、
「媚びているのではなくて自分のためにやっています」
というふうに誤魔化している点で、ここにも調教由来の考え方が流れ込んでいる。
Abyは何でも自分で決めているんだよね、という親によるすり替えが、
自動化されてしまっている。


・・・


年始、今年も実家に戻った。

「正月は戻ってくるものだ。絶対そうしろ」ということを、毎年言ってくる。
「だから、そういう、〝親には絶対服従〟というのは嫌だって言っているのに、
なんで毎年そういう言い方をするの?」と反論して、毎年、険悪な雰囲気になる。
今年も例にもれず、そんな感じだった。

父はセクハラ発言が昔から酷く、Pさんはもう長いこと、
わたしの実家には顔を出しておらず、Pさんとも険悪な関係が続いている。
さらに今年は、なぜ顔を出さないのか、ということでPさんとわたしの母が
口論になり、結果、「Pさんを好き勝手やらせているAbyが悪い」と憤慨し、
父もそれに便乗し、「馬鹿Pなんかと別れればいいんだ。まあ、馬鹿Pと一緒に
いられるのも、Abyくらいしかいないだろうけどな。こっちは親なんだ、無礼者が!」
と、わたしにあてつけるように言った。ここにも代理復讐を垣間見た。
「俺の妻より馬鹿なヤツにお前は尽くしてりゃいいんだよ」としか聞こえなかった。

また、こんなこともあった。

昨年夏以降、母から昔の話がきけた。
成人後は両親とかなり距離をとってきたから、今年ほど(といってもたかだか数時間だが)
昔の話をしたのは今までになく、母も「Abyと話ができて嬉しいよ」とも言っていたが、
どうもそれは表面的なこたえだったようで、本当は、昔の話や自分のことを
Abyに話したくないんだ、というようなことを言ってきた。

「なんで子どもからきかれたことに、親のわたしが答えたりしているんだろうって、
ふと思うのよねえー」と、少し前も電話越しで言っていたが、
わたしからすれば、なんでそんなふうに思ったりするのか、それ自体、謎だった。
わたしもハッと思ったのは、親に何かをきいたりする、
どこの家庭でもあるような、そういうことすら、親と子の間で皆無だったことに、
このとき、気づいた。思い返してみれば、わたしは両親に「相談」ということを、
まったくしたことがなかったのだから。報告のみ、だった。

次の母の発言からもわかったが、相談するな、一人で考えろ、
親の背中を見て盗め(これはよく父が言う)などなど、
そんなことを本気で思っているような毒親たちだ。

「子どもが親に何かをきいたり、話をしてくるときっていうのはね、
だいたい、悩んでいたり、困っているときなのよね。
わたしはね、そういう姿を見たくないし、ブレるような
人間に育てたつもりはないのよ。今さら昔のことを
きかれても困るからね。なんだか昔のことを思い返すと、
崩れていく気がして不安になる。今のまま、自信持ってね」

この母の発言に対して、父がまた便乗する。

「Aby、自分の幸せは自分で決めるんだよ。いつも輝いていてほしい。
親に心配かけたり、親を不安にさせるのはよくないぞ。
親、とくに母親がいて、Abyは今生きているんだから。
Abyはいつも自慢の子どもだったし、こんなすごい子って世の中
どこ探してもいないだろ。お母さんはね、そういうAbyでずっといてほしい。
それが母親ってものだ。それに比べてなんだ、あの馬鹿Pは。
子どもを産んでないから、母親の重さっていうものがわかっていない・・・」

二人とも冷静に話しているつもりみたいだが、
わたしから見て、そうでもないことがよくわかった。
父はあの不気味なニヤリを要所要所見せてくる。
まるで親というより、「長男」という存在であるわたしに対する狼狽、
としか思えない、そんな様子で、「こっちは親なんだ、お前は子どもなんだ」
と言いたげに、むしろ怯えているようにも見えたほどだった。

実際、話している途中に、何が気に食わなかったのか、
(だいたい年末年始は、昔も、一度は大暴れする。なんだかんだ理由をつけて)
注文したお茶の数が違った、というただそれだけで、
父はその店員にぶちきれた。なんとか手は出さずに済んだが、
店内に響き渡るほど怒鳴り散らし、テーブルもバンバン叩いて、
マナーがなってねーだの、何様のつもりだ、だのと暴れだした。

久々に、あのニヤリを見た。
まったく関係ない他人をこうやって見せしめにして、
わたしを振り向いてニヤリ。こうやってわたしを威嚇していた。
親である俺様を不機嫌にさせると、こうなるぞ・・・と。
それがよくわかったし、再確認できた。

大人になった今でも、何をするかわからないこの暴れようは怖い。
子どもにとっては相当怖かったに違いない。
いや、怖いというより、今回感じたのは、
これではまったく思ったことが言えない、感じたことも
当然押さえこまされる絶対服従の感覚だった。

「親が人を殺せ、といったら、殺すのが子どもだ」

よくこんなことを父は言っていたのを
まざまざと思い出した。

年始からとんでもなく疲労したが、
何が疲労したか、というと、こういうことよりも、
わたしの内面がひっかきまわされることだった。
母に喧嘩をうったPさん、Pさんと母親どっちが大事なんだと
言わんばかりの母、Pさんと母を手駒にして揺さぶりをかけてくる父。
そこにわたしの妄想癖が作動してしまい、
誰もかれもが自我復元の邪魔をしてきている、ガードしなければ、
もしかしたらわたしが無自覚に誘発しているのか?など
妄想が妄想を生み、数日とはいえ、かなり疲弊した。


・・・


年末からなんとしてもこれだけは死守したい、と思ったのは、
「行動の動機を見据えること」だったから、
ひとつひとつの出来事に振りまわされそうになりつつ、
反射的な判断や行動に出ることはせず、出来事と内面の観察に
できる限り注視した。

ひどい孤立感にも襲われたが、それによって
見えてきたこともあった。

ひとつは、わたしが思っていた以上に、
「親には絶対服従だ」という命令が、父だけでなく母もともに、
それが尋常じゃなく強い、ということ。

「親は絶対だ。親は命令する側だ。子どもは従う側だ。
その関係が親子だ。自分が親であることをAbyにわからせるためには、
どんな格言を乱用しようが、嘘をつこうが、見せしめ、場合によっては
直接恐怖を与えようが、手段は選ばないぞ」

父も母もグルになって、言いたいことの趣旨はこれだけに思えた。
ここまで露骨に態度や言葉に出されたことは、成人後はなかったので、
ややショックを受けたが、確認できたことのほうが収穫だった。


というのも、ここまでダイレクトに意思表明してくれたおかげで、
わたしが今まで、「従う」ということになんの躊躇もなかったことに気づいた。
従うことが、あまりにも日常的になっていた。


従ってさえすればいい、安心だ、大丈夫だ、間違いはない。
従わないとこわいことになる、不安だ、孤独だ。


一生懸命やってさえいえれば・・・、というのと同じくらい自動的に、
従ってさえすれば・・・というのが、身についてしまっていた。
間違いたくない、というのも、そこには、忠実に従っていれば・・・
という思いも含んでいる。

ここ数日、父も母もPさんも、全員が自我復元を邪魔してきているような、
さらに、わたしのAC人格がそのきっかけを無意識に作ってしまっているんじゃないか
という妄想(ここには調教由来の恐怖、あらぬ未来を勝手に妄想する癖
も出てしまっている)に襲われたときも、これは危険だ、と思ったのは、
孤立感や孤独感が迫ってきたとき、無明庵に従っていれば、あるいは、
Pさんに従っていれば、という、安易な逃げ道で安心しようとしている自分、
安心したいと思っている自分がいたことだった。

しがみつこう、失いたくない、という衝動が起こった。
同時に、しがみつけなかったらどうしよう、失ったらどうしよう、という恐れ。
実際にどうこうでなく、仮想の恐怖や妄想からくるのだけれど、
頭でそうと理解しても、どうにもこうにもできなくなる時がある。


なんでこんなに怖がっているのか・・・と。


一方で、それが仮想の恐怖であり、霧が晴れるような瞬間がある。
しかし、ふいに波に足をすくわれてしまうかのように、
気がつくと恐怖心でいっぱいになっている。


AC人格解除の手をやすめたくない。
コイツはなんとしてでもクビにしなければ、
この違和感をずっと放置することになる。


依存、という言葉を今までも使ってきてしまっていたが、
実は自分でわかっていないのに使ってきたことに気づいた。

無明庵にも、Pさんにも、結局わたしは依存していたんだ、ということ、
これを認めるには大きな拒絶反応が起こったが、
「従っていればいいんだ」という無自覚な動機がそこにはあった。

Pさんとの関係について考えてみると、
20年近くの時間をかける中で、
「従い合い、従わせ合う関係」を作ってきてしまった。
わたしのこのAC人格にとって、相手に従い、相手が従ってくれる、
この関係こそ居心地がよく、この「従う」ということに
何の疑問も持たせないトラップだった。

さらに考えてみると、無明庵と出会う前も、
わたしはつねにすがりつくものを探していた。
「何に従っていれば間違いがないか」というモチベーションで
行動していたわけだが、その自覚はなく、
「従う対象を探している」とは、まさか、思っていなかった。


どうすれば間違わないか。

これは純粋に自分への自問かのように錯覚し続けた。

どうすれば?などという自分の意思はここにはなかった。
そこを考えることもなく、「これは自分が考えているんだ、
自分の意思なんだ」とつっぱって歩いてきた。

そうでなく、この「どうすれば間違わないか?」とは、
「何に従えばラクか、安心か」という依存対象を
必死に探しているだけだった。

もちろん、これは親に従ってさえすれば飴をもらえる、
しかもそれがあたかも自分の意思であるかのように調教されたことに
大きく影響していると思うが、学校生活という長い時間のなかでも、この
「従う」ということになんの躊躇もせず、それは自明のごとく、次から次へと
依存してきてしまった。そして成人後も、今度は精神世界にも
その拠り所を求め、パートナーに求め、内職や仕事にも求めた。

従ってさえいれば大丈夫だ、という成功体験が、
あまりにも多かった。

それが不満で不自由で窮屈だったのに、
わたしは「従っていれば安心」という飴と、毎回、
取引をしてきてしまったんだ。


2014.01.08
Aby



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by jh-no-no | 2014-01-08 18:12 | 復元ノート 1