<   2013年 12月 ( 8 )   > この月の画像一覧

違和感を放置してきた甘さ

調子にのるな、と言われて怯える自分に直結する記憶を
いくつか思い出した。

ひとつは、父親からベビーベッドの下に閉じ込められたこと。

記憶を掘りおこすときにいつも思うことだが、
これは自分の記憶なのか、そのあとになって父や母から
聞かされて覚えているだけの記憶なのか、ここがいつも曖昧になる。

そういう曖昧さがある記憶については、わたしは自分で「思いこみだろう」とか
「それほどでもなかったんだろう」とか、過小評価する癖がある。
そうやって、見過ごされてきたことも多いんじゃないか。

この記憶についても、非常に曖昧だが、
自ら後でイメージ付けをしていたとしても、その光景をなぜか覚えている気がするし、
それに、事実としては確かにあったこと。
なにより重要だと思うのは、その影響がずっと今も残っている、という点。


・・・


ベビーベッドの下は、空洞になっていて柵がある。
ベッドの床は、おそらく板だったろう。
たとえ下に閉じ込められても、その板を持ち上げれば、
脱出できる。


おそらく3歳か4歳の頃の出来事だと思う。

父は何度もその時のことを話した。

「Abyはあの時はほんとに言うこときかなくて、
ベビーベッドの下に閉じ込めて、柵のまわりに枕とか置いて
真っ暗にして、板を上から手で押さえたんだけれど、
子どもといえ、力が強いんだねぇ。おおーっと、って
大人の力もはねのけちゃうんだよ。びっくりした、すごいなって。
それで、しかたがない、お父さんがベッドにのっちゃたよ。
いやあ、それにしてもあの時のAbyの力って、すごかったよ。」

と笑って話す。まるで、子どもの武勇伝のように。

わたしはその話を、なんでもないように、それこそまるで
自分の武勇伝かのように思いこんできた。


もう一つは、記憶としては覚えていたけれども、
問題視せず、ずっと素通りしてきた記憶です。


自営業を営んでいたので、倉庫には食材を入れておく
巨大な冷蔵庫があった。

母はわたしを叩くことはしなかった、と言うけれど、
押し入れや衣装ケース、そういったところに閉じ込めるのは
してきたはずで、それは母本人も認めている。


母はよくこんな話をした。

「Abyはね、どこからも出てきちゃうのよ。衣装ケースもさ、
裏からジッパーを開けちゃうし、押入れも手の平で上手く開けちゃうし。
最後は冷蔵庫よ。でもね、これもね、ある時さぁ、非常ボタンを見つけたみたいで
ポ~ンとそれを押して出てきたのよね。屋上に鍵をかけて締め出しても、
もうね、ぜんぜんこりないのよ。」

これも、いつも笑い話として、家族団らんの話題として
よく話され、わたしも一緒になって笑っていた。


実はこのときの感覚がよみがえってこない。

こわくなかったのだろうか?

そんなことはあるんだろうか??


そう思うのは、わたしは、妄想でいろいろな恐怖心を自分で肥大化
させてきてしまったけれど、あえていえば、
閉所に閉じ込められることへの恐怖心がなにより強い。
密室・脱出系の映画なども最近多いことは情報として知ってはいるが、
見たくないし、つい最近までは、DVDのパッケージに手を触れるどころか、
そのような分野の棚の前を通れないほどだった。


この現在の自分の状態と照らし合わせたときに、
ベッドの下に閉じ込められ、真っ暗にさせられ、父親が上からこれでもかこれでもかと
押さえつけ、のっかっている。出られる保障はない。

想像するだけでも、子どもにとって、これほど怖い体験はないのではないか?

これは想像だけれども、これに相当怖がったわたしの様子を見て、
これは使える、と思って以後、閉じ込めるタイプの罰を与えたのではないだろうか、母は。


ぞっとしたのは、こういう出来事を、つねに笑い話にして繰り返し繰り返し、
子どもにきかせていた、ということだ。


わたしの中で、この二つの出来事は、武勇伝であり、また、
わたしがいかにやんちゃで、わがままで、身勝手で、親を困らせたか、
という記憶として完全に定着していたものだった。
この夏の母からのききとりから、それがまったく違っていたことがわかった。
それにしても「いい子だった」ときいたときは愕然した。


それ以上に、こういったいろいろな出来事を美化し、武勇伝のように聞かせたこと、
それによって、わたし自身が、これらを武勇伝と認識したのは、
とんだ間違いだったんじゃないだろうか。


感覚はよみがえってこないが、明らかに、あれを笑い話にすること自体、
異常だ。完全に虐待と言われてもいい内容だ。
ただ、それを虐待ともなんとも思わずに、むしろ笑い話として、ときに自慢話にしてきた自分。
なんでだろう、と考えたとき、両親こそ、それを笑い話にし、武勇伝にすりかえていた
張本人であることに、今まで気づかなかった。

楽しかっただろう、嬉しかったに違いない・・・そういう記憶こそ、
裏があるんじゃないか。本当は嫌だったんじゃないか?そう疑いはじめている。
というのも、「Abyは嫌な記憶ってないでしょ。我慢しているようでなかったし、
自分一人(兄弟も放っておいて)自由に遊んでいたよね」というのが、
いつも両親の言い分だったからだ。

いずれにしても、「調子にのるとこうするぞ」という直接的な暴力はないと
思いこんでいただけで、見つかってきた。
おそらくこの基本的な直接的恐怖体験のうえに、見せしめタイプの恐怖を与える、
という仕込みがあったのではないか、というふうに思う。


・・・


「調子にのるな」ということに怯える自分を考えるとき、どうしてか思い出す出来事が
もうひとつある。どうしてこれを思い出すのか、いまだ、わからない部分があります。
それは高校一年生の頃の体育祭のことです。

長い竹を立てて、その根元を数人の生徒が支え、一人の人が旗を持って登り、
頂上に立てて戻ってくる、というクラス対抗の種目でした。


わたしは、それが得意だった。


まさか、本番で失敗する、しかも「登れさえしない」ということがあるなど
想定もしていなかった。


おそらく原因は、わたしの足の裏に砂がたくさんついていて、乾燥し、
滑ってしまったことだが、そんなことはどうでもよく、わたしはひどく落ち込んだ。
クラスとしてはビリになり、最悪な結果になった、と思った。

相当ショックだったのか、いつもわたしのことをからかうような友だちも
そのときばかりは、「どんまい、気にすんな、気にすんな」と励ましたが、
誰が何を言おうとまったく立ち直ることができなかった。

馬鹿らしい話なので、この話をしたことも大人になってからないが、
人生の中で、この出来事以上に、悔しいと思ったことはなかった。
家に帰って、「竹はどこで売っているの?一年間練習して来年は見かえしたい」
と思ったほどだった。


なぜ、この記憶を思い出すのかわからない。
ここはもっと掘り下げたいのだけれど、ひとつ考えられるのは、
失敗する直前まで、わたしはかなり「調子にのっていた」。
わたしがトップバッターだったのも、最初に一番に帰ってきて、
全体の雰囲気をもりあげるためだったし、まわりもそれを期待した。

その期待に当然こたえらえる、と思っていた。

この記憶は、誰に言うようなこともなく、恥ずかしい思い出だったので、
自分のなかで時々思い出したことがあったが、
これがなぜ、これほどに強烈な印象を持っているのか、それがわからなかった。
現時点で思うのは、きっと、「調子にのっていた自分」に対する異常な反応ではないか、
という気がしている。この程度のことで、あれほど屈辱的に感じるなんて
子どもじみている、と思っていただけだったが、「調子にのるまい」と、
事前に釘をさす癖が強まった一件だったと思う。


調子にのるな、という言い方は、たとえば母からは「エラそうに」という言い方だったり、
父からは「そろそろそのへんにしておかないとな」という言い方だったり、
Pさんからは「うるさい」というとどめの一言だったり(Pさんは、わたしにこう言うと黙る
ことを知ったので、これはいい、と思ってよく使った、と後に暴露したことがある)、
いずれも、そこに「調子にのっていると、こうなるかもしれないぞ・・・」という脅しがあったから、
どんなことになってしまうかを、可能な限り妄想をふくらませて、自分の言動に
制限に制限を重ね、萎縮させてしまう。

たぶん、ある時から、わたしは誰からそう言われなくても、自ら
「調子にのるな」と事前に釘をさしておく、そういう習慣がついていた。
そうすれば、恐怖を回避できる、と。
その意味では、成人後は、その種は毒親から植えつけられたとはいえ、
加害の当事者は、ほとんどの場合、わたし自身だった。


・・・


桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S296
に書かれていた、

>親に反抗したり、トラウマやAC人格を掘ったつもりでも、
>自分・親・学校の関係性の中で形成されたAC人格がまったくノーチェックである。


の箇所を見て、とくに、学校を含めた関係性の中で形成されたAC人格が
まったくノーチェックだったことに気づいた。

中学生以降は、幼少期ではないのだから、ここはそれほど大きな影響を
受けていないだろう、と勝手に思いこんでいたが、ACののさばりを強化させた原因は、
かなりここにあるのではないか、と疑ってかかってみると、とっても大きなものがあった。

小学生の低学年の頃は、毒親基準で「ダメな担任だった」ということで、
中学年以降、親にあてがわれるようにして毒親基準で「いい担任」にあたった、
ことになる。

「Abyちゃんは、指示通り、ちゃんとできる子ですよ。よく努力しています。
努力することが人間大事ですが、結果も自ずとついてくるものですから
安心して下さい」

という「いい担任」の言葉は、両親にとって、
最高の賛辞にきこえただろう。

わたしはその意味で、いい子を演じてしまった。

演じた、という意識はなく、そもそもそういうように育てられたから、
それが発揮できる環境が整った、というだけだった。

親にはめられて中学を受験するが、受験勉強をはじめるのが(その頃は
受験戦争という言葉がピークだった)遅かったため、
「指示されたことをこなす」ことで点数がとれるような教科は限られていた。
実力テストは苦手で、その結果、軒並み、受験に落ちた。
なんとか、その当時まったく無名な出来たばかりの私立中学に合格し、
通うことになった。(なんでもいいから、私立に入れたかったのだろう)。

とりあえず指示されたこと、要求されたことは、それなりにこなしたから、
中学最初の中間テストのとき、考えてみれば、ここから、
AC人格ののさばりを酷くさせていく最悪のシナリオが始まった。

なんとか合格できるほどのギリギリで入ったわたしが、いきなり、
学年でトップの成績になってしまった。
中間テストは、まさに言われたことをそのままやれば
100点になる仕組みだったからだ。

この時、わたしはどう思ったか、覚えていない。
ただ、その後に続くストレス「これを維持しなければならない」という
プレッシャーは、今思い出しても、あれは病的だった。

わたしの教科書はアンダーラインが全部にひかれていて、
チェックシートを使って暗記するあの赤のペンは、助詞以外には
すべてひかれているという異常さだった。
教科書をすべてを暗記しなければ、という強迫観念にとりつかれた。

これは高校卒業まで続いた。

相当なストレスだったが、とりわけ高校時代は部活動が酷かったせいもあって、
それでもまだ試験勉強期間中のほうがマシだ、と思い、その、
言われたことをしっかりやる、という機械のような「こなし仕事」に甘んじた。

どんなことをその時思っていたか、といえば、
「高校卒業すれば、こういう勉強も部活ももう終わりだ。それまでの辛抱だ」と。
ずっとずっと、こういう窮屈さに滅入っていた。

他人やまわりの状況にあわせて、自分の言動を制限したり調整したりする、
そういう自分がブクブク太り、のさばっていくと同時に、そういう自分はいつか
終わるんだ、今だけなんだ、今我慢していればきっといつか自由になるんだ、
そんなことばかり考えていた。

さらに最悪なシナリオが大学で待っていた。
指示されたことなら出来る、という能力は大学受験では通用しなかった。
浪人覚悟でやろう、としていたところに指定校推薦の話。
この話はもちろんいいことばかりではなく、大学入学してからの成績を追跡され、
高校に通達され、推薦枠の増減に影響する、というものだった。

大学でも、わたしは同じ能力を発揮しなければならなかった。
受験をスルーしたため、入ってしまえば今の大学教育は高校と変わらず、
基本は、言われたことを理解すれば、点数にはつながった。
だから、わたしは母校に迷惑をかけまいと、結局、中学、高校と
変わらないストレスを背負うことになった。

今思えば、進路決定のときに、自分で選ぶべきだった。
「親のために」と考えた自分がもたらした結果だった。

その大学生活ではどんなことを思っていたかというと、
「社会に出ればもうこういう勉強もおしまいだ。やっと清々できる。今だけの辛抱」と、
そんなことばかり考えていたから、就職も大学での専門知識を生かそうなど、
これっぽちも考えておらず、全部白紙に戻そう、としか考えていなかった。
結果、義務的に通っていた4年間を終え、就職活動もしなかった。


・・・こういうことは、今の自分にそれほど影響はないのではないか、
と思いこんでいたが、大間違いだった。
白紙になんて、出来てなんていなかった。
物事に対する向き合いかたが、完全に、自動的に、
そうなってしまっていた。

「他人やまわりの状況にあわせて、自分の言動を制限したり調整したりする」
というAC人格の癖が、自分の肌のようになっていた。

結果、どういう言動をとるか、というと、とりあえず、他人やまわりの状況を見て、
何が要求されているか、どうすれば無難か、どんな言動が要求されているのか、を
勝手に推測する、という習慣がついた。この癖は酷くて、たとえば、他人やまわりから
実際に要求や指示がなくても、「こういう要求だろう」と勝手に相手や状況を決めつけて、
「これでいいでしょ」と言うような態度だ。

当然、自分の言動に制限に制限を重ねて出力していることを自分で知っているので、
ここに傲慢さ、上から目線の態度が出る。それも自分で知っているから、調子にのるな、
と言われることを避けようと、ひかえめな態度を演出する。
「謙虚」や「正直」として誤魔化すことを常套手段としてきてしまったために、
そういう時、AC人格そのものになってしまう。

何をやっても、あるいはやらなくても、正直ごっこになってしまう。

自分以外のことにあわせて、自分の言動を制限し調整する、そういうわたし。
そうやって振舞うこと、自分を押し殺すことをよしとしてきたから、
わたしにとって、「最大限に自分を押し殺すこと」が正直であり、謙虚なことだと
思いこもうとした。

そういうのをやめたかったのに、やり続けてきてしまった。

とくに成人後は、その「やめたかったのに」という自分の声も無視するようになった。
「これくらい我慢できるでしょ」と自分でやってしまった。


・・・


年内にブログを読み返そう、となど書いておきながら
手が出なかった。というのも、そのときはなぜかわからなかったが、
自分で自分を裏切っている感覚でいっぱいで、印刷物を手にしても、
読み返せなかった。

読み返そうとしたりする、こういう自分の態度が嫌だった。

こういうのをやめたかったんじゃないか・・・

そう思ってウダウダしているときに、先ほどの桜の間の記事を読み、
最初は、いつもの仮想上の恐怖の反応癖でとり乱しそうになったが、
(睡魔に襲われる、という悪魔のような麻痺の手口がやってくるのを
はじめて体験した。はじめてのことだったので、これか、と思った)、
こういう時、自分がどう動き出すかを観察してみると、
それがまさに「正直ごっこ」を始めてしまう、その入口だった。

最大限に自分を殺す、という最もやってはいけない、のさばらせてはならない、
そういう偽人格の味方をするのは、いつもいつも、この瞬間だった。

そしてやるべきこと、見るべき箇所をスルーしてしまう。

>親に反抗したり、トラウマやAC人格を掘ったつもりでも、
>自分・親・学校の関係性の中で形成されたAC人格がまったくノーチェックである。


この箇所を直視するまでに、まる一日かかった。
何度読んでも、自分のAC人格が邪魔するから、見えていても
見ないのと同じだった。

>無明庵(というよりあらゆる秘教的システムの原理)を、舐めるのも
>いいかげんにした方がいい。

わたしのAC人格はここばかりに反応してしまうのだけれど、
反応の仕方がおかしい。

こわくてしかたがなかった。
情けないと思いながらも、それは認めざるをえなかった。

舐めてなんていない、と言い訳をしようとする素早い反応。
そこでしでかすのは、やはり正直ごっこ、でしかない。

違う。

それは絶対に違う。

それは、わたしは一番やりたくないこと。やりたくないと思っているはずのこと。


何度も何度も読み、何に左右され、何を見落とすのか。


そう思ったとき、記事に書かれているいろいろな言葉が、
自分の言葉のようにズサッと流れこんだ。


わたしが、わたしを舐めているんだ、と。


「いつまで正直ごっこやってんだよ。お前、おれをいつまで舐めてるんだ。
そんなんでいつまで誤魔化せると思ってるんだよ。変わりませんでした???
なに嘘言ってんの、変えませんでした、だろ!いつまでしらを切るつもりだ」


そう言っているのは、自分自身なんだ。
自分以外の誰か、じゃない。

まわりの目を気にして、わたしがわたしの声を
一番ないがしろにしてきたんだ。


中学と高校のとき、そして大学のときの勉強に向き合う姿勢
については、随分軽視してきてしまった、と思った。


軽視していた、まったくそう、軽視していた。


なぜだろう、と考えると、
こういう自分はいつか終わるんだ、卒業したら終わるんだ、
本当はこういう自分は嫌なんだ、と思ってきた記憶だけが強いからで、
あの頃の自分のやり方を、今の自分が味方するはずなんてない、
という思いこみがあったからだと思う。甘くみていた。

部活動も含めて、学校生活のなかで
のさばらせてきてしまったAC人格は、自分が思っていたより酷い。
その種は毒親が植えつけたとはいえ、植えつけ時期が10年とすれば、
30年近くは、自分が自分の加害者となって、偽人格を相当に
のさばらせてきたわけだから、甘くみていいはずがない。


2013.12.28
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-28 22:02 | 復元ノート 1

2013年の総括

・全体
・目標と反省点
・変化報告、復元作業など
・年内残り一週間の計画

について、2013年の総括を以下にノートします。


・・・

【全体】

今年、2013年に入ってから自我復元作業をはじめました。
分割自我復元法について知ったのも、また、無明庵のサイトを読み始めたのも
昨年2012年の夏以降でしたから、作業のことやその背景や注意事項、
サイトの内容についていくだけで、最初のうちは精一杯で、他の方の復元ブログを
読み始めることができたのも、今年の半ばになってやっと、という具合でした。

初回の自我判定の依頼をしたのがその頃です。それから数ヶ月が経ち、
2013年7月にこのブログ「自分を裏切らない為の 分割自我復元ノート」を
立ちあげることになりました。

「何を自分がしているのか、なぜこうしているのか、何に向かって動いているのか、
日々全くわからないで生きている自分って、一体なんなんだろう」という疑問がつねにありました。
前回のブログ記事で、自我復元をはじめた動機は「こわかったから」というだけだったのではないか、
と書きましたが、この時点では、ただただ、自分はまっとうには全く感じられない、
自分はあまりにぼんやりしている、ぼけーっとしている、という漠然とした思いしかなく、
こんな漠然とした状態で、自己分析も出来ていないままに依頼を出してもいいものだろうか、
と思いましたが、その時わたしは、この時期を逃してはいけない、という強い感覚があったことと、
崩残さんがどこかで書かれていた「信じるのは後でいいから、まずできるかやってみなさい」
という内容のメッセージがあったこと、それと、砂手さんがサイトの中で書かれていた
「なぜ、己を売り渡すことが大罪なのか」ということの説明が、初回判定依頼文を書き、
送信するという決意につながりました。

初回判定の結果が届きました。生来の自我率5/6(83.3%)で、作業回数67回の結果、
4.7%の回収、2013年中旬現在、88%という結果でした。今ふと、同封してくださった
書の匂いを思い出しました。あの時、「こんなに墨の匂いっていい匂いだったっけ」と
強く感じたのを思い出しました。わたしはいただいた物や作品などの香りを嗅ぎたい、という
欲求がどこかにあるみたいで、この時もそうでした。

自我率の数値については、正直、どうとらえていいものか、あまりに不勉強だったせいもあり、
まったくわからず、お手紙に書いてくださったことを「そうなんだ」と受けとり何度も読み返す、
ということしかできず、ただ、回収がわずかでもなされていたことは、嬉しかった、というよりも、
驚きでした。というのも、イメージだけは何とか持とう、としても、呼びかけや回収の実感が
ほとんどなかったからです。「信じるのは後でいいから、まずできるかやってみなさい」とだけ、
それだけを思って、3ヶ月間続けました。

お手紙につづき、崩残さんから続いていただくことになったメールは、わたしの人生にとって
初めての大きな出来事でした。わたしが今までの間、他者から当然のように拒絶され、また、
自分でも反射的に自虐的になっていた事柄に対して、また、「自分は偽善者なんだ」と
自分で自動的に決めつけていることに対して、そういうレッテルを簡単に自分に貼らないように、
と指摘してくださったこと、ここからはじめて「自問」という、今までやったことがないテーマに
とりくむことになりました。

ある出来事があり、そこでのわたしの暴走が転機となりました。もしもこの一件がなければ、
自分自身の機能不全家族の問題にとりくむまでに、とんでもない時間がかかっただろうと思います。
その時に、食欲を失う、という、これもまた生まれてはじめての経験をしました。
前回までブログを書いてきて、まさにこれが「仮想上の恐怖」という調教由来のトラウマによる
反応だったと思いますが、この恐怖、「こわい」という影響力は、掘りおこしの過程にある現在も、
残留しています。

続いて、2013年7月、分割自我復元ブログを立ちあげ、Aby(アビ)という名前で、参加させて
いただくことになりました。自問という、復元作業のなかでも重要なテーマに直面することからの
スタートでした。「わたしは自分でやっていることがわからない。なぜそうしているのか、どこに
向かっているのか。自分のことに焦点をあてたことなんてない。自問なんてしたことがない。
何が問題で何が問題じゃないかもわからない・・・」、こう思っている自分がいつもいたので、
「ブログを書く」ということ自体が、次の大きなハードルでした。自問ということに向き合おうとすると、
胸の嫌な感じがぐっと強まるため、そこから逃げていた、ということだと思います。

初回判定依頼の際は、「自分の育った家庭におそらく問題はなかったと思います」「トラウマと
気づくものは今のところありません」と書いていたほどでしたので、まず、機能不全家族であった
だろうという疑いをもって過去の経験の思いこみを見直し、事実をあばいていく作業から始めました。
両親に対してこの疑いの目を向けることはそれほど苦ではありませんでしたが、次第に
苦しくなっていったのは、同居し、共に生活と仕事を半生に渡ってしてきたパートナー(Pさん)を
疑っていくことでした。それだけPさんへの依存が強かった、ということだと思います。

Pさんを逃げ道にしている自分。逃げていないと誤魔化そうとしている自分。自問ということから
逃げている自分に気づくまでに、ブログを書き始めてから3ヶ月近くかかりました。
拒絶するほどの反応、それに対して逃げたり麻痺させたりしている自分の行動から、
AC・被調教人格の掘り出しに着手することになります。自分のこととして、自分が完全無自覚な
ACだったことに気づきつつあるのが、この頃でした。「このままでは見捨てられてしまう」と
勝手に不安を妄想し、崩残さんにとり乱したのもこの時期でした。
同時に、わたしのこの異常な恐怖心、実態のない仮想の恐怖はどこからくるのか、という、
ようやくトラウマの問題が浮上しました。ところがこの時点では、トラウマという認識はなく、
ただただ怯え、その際の崩残さんからのアドバイスもスルーしてしまっています。
「こわいというものの実態」にせまる、ということに目を向けるのに、さらに1ヶ月近くを要しました。

今年の10月に入り、夏以降、母への2度目のききとり調査を行い、はじめてわたしは、
「多くのことは、自分の意思で決めたことじゃなかった」という具体的な事実を知り、
洗脳による調教の可能性を調べていくことになりました。今まで父親については、それほど
毒性はないだろうと、どこかで思っていたところがありましたが、わたしがとり乱し、恐怖するものが
何であるのか、それを掘りおこしていく重要な箇所でした。ところがなぜか、「トラウマだ」という
認識が持てず、自分の問題なのに実感がともなわないのはどうしてか焦りました。
不快年表の作成とその後のひきつづきの日常の不快掘りと、そこから麻痺、逃避させていく
手口の日々の具体的な観察が、また転機となりました。

仕事をしている時も、Pさんといる時も、朝から晩まで、また夢のなかでも、そのすべてが、
観察と自問の対象になりました。頭の中だけの分析に頼っていたウエイトから、少しずつ、
日々の具体的な事象や感覚にウエイトが移っていくことで、逆に誤魔化しのきかない思いが、
日に日に増えていきました。前回ブログを書き終えてから、この残留する恐怖と向き合おうと
観察を続けています。「こわいのにこわくないと思おう」「こわいのにこわくない理由を探そう」
という、この〝安心したい〟という自動的な衝動があることに、先日、気がつきました。
自分の気持ちを放っておいてまで安心しなきゃいけない、と思いこんでいる自分がいます。
こうやって「こわい」という気持ちは放置されて、妄想がどんどんふくれあがっていくのを見て、
ようやくですが、この恐怖心はトラウマだったんだと気づきはじめたところです。

直近で掘り出していたのは、高校の3年間のことでした。しごきの酷い部活動でした。
わたしの頭の中は毎日といってよいほど、「生きてこの時間を終えているだろうか」という
妄想にしばられました。みせしめのような部員に対する暴力(そのころは、それは運動部なら
当然と思わされてきたものでした)を見せつけられることは、トラウマに対するACののさばりを
酷いものにさせた原因の一つだったと思いますが、それに対してその時わたしがとった行動は、
「こわくない、こわくないはずだ」という、麻痺か逃避かの選択ばかりでした。しごきそのものは
リアルなものでしたが、わたしが恐れていたものは、それでも仮想上の恐怖の中だったこと
を思い返すと、トラウマの重ね塗りのような3年間だったと思います。

先日、家の近くの小学校のそばを通りました。お昼休み、この寒いのに半ズボンで子どもたちが
遊んでいるのを見て、「一緒にまざりたいな。半ズボンで」と思った自分にすこし驚きました。
他の人の様子を見て、そこに自分をまじえてみる、ということもかつてありませんでしたし、
まして「うらやましい」と感じたこともなかったので、その時そう感じたことは新鮮な体験でしたが、
元気に大声をあげている一人の子を見た時、「自分はああいうふうには出来なかったなあ」と
思ったのと同時に、今ならどう?と問いかけてみると、「調子にのるな」という調教由来の声に
しりごみするのを感じ、この言葉をとくにこわがり、そう言われることを回避しようとして今も
行動してしまうことが多いことにも気づきました。

ACの起こりに注意をはらいながらも、「仮想上の恐怖」からの影響は、まだ強く受けて
しまっていますが、自我復元をはじめて約1年、ようやく「トラウマ」というところに近づいた、
自分の問題に触れてきた、という感触があります。わたしにとってこれは苦しくても大きなことです。
「自分に焦点が合う」という経験すら、無かったからです。スケッチブックが描けるようになりたい、
という思いがずっとあります。この思いを忘れないこと、偽人格に負けないこと、
以上、2013年の【全体】の総括です。


・・・

【目標と反省点】


「こわい」という仮想の恐怖心からでなく、自分の意思から行動に移せるようにしたい。
トラウマ掘りとともに、自動的に反応していた「安心したい」という偽人格ののさばりを
ゆるさない覚悟でのぞみたい。


スケッチブックが描けるようにしたい。
15年ほど前に無明庵の書籍から離れ、「やるべきことはやろう」と思って、結果、
Pさんへの滅私奉公にすべてを費やしました。保身に走ったわたしは、当時「やるべきこと」というのを
そのように考えていました。「こわいから」無明庵から離れ、「こわいから」無明庵に再会しましたが、
「やるべきことはやった。もうこれ以上自分を無視することはできない」という思いあってこその一年
だったと思っています。2014年は、それを行動に反映させていく一年にしたい。


全自我に戻るんだ、という意思を2014年も貫きたい。
自虐思考と我慢思考の保身から、「自分は全自我に戻りたいと思っていないのではないか」
という相反する考えに直面しましたが、その両方の言い分をテーブルに広げることで、
見えてきたことが沢山ありました。「問題視しないことで、問題解決と思いこもうとする癖」は
徹底的に解除したい。


契約の確認と変更する力をとり戻すんだ、という意思に、今年は目をそむけてしまうことが
ありました。契約という未来への不安を勝手に妄想したり、それこそ、「調子にのってるんじゃないの、
いい気になるなよ」という自分でつくりだした声におびえたり、調教由来の恐怖が流れこんだための
保身に大きな原因があったと思っています。「契約は自分自身のことなんだ」と焦点が合う時も
あれば、不安に押し流されてしまう時もあるのが現状ですが、これも問題視しないという麻痺に
走るのでなく、掘りすすめる場所、じっくり考えていくこととして、やはりここも
「テーブルから問題をなくそうとする」という自分の癖の解除とともにとりくみたい。


仕事と今住んでいる場所、Pさんとの関係、無償活動としての内職、これらについて判断する力を
とり戻せなかった一年でした。いずれも違和感を抱えながらでしたが、そのために掘っていく
具体的な場でもありました。2014年はこれら現状の仕事と生活環境を、どう考え、どうしていくか、
自分で意思決定できる能力をとり戻していく一年にしていきたい。


自分自身に関心を向けることから逃げていたことで、手書きノートに思考を羅列しながらも
具体的に自分が感じたことや関心を向けたこと、身のまわりの変化、興味の変化、
客観的な変化の記録、そういったことをないがしろにしてきてしまった。丁寧さに欠けたと思います。
関心地図も途切れ途切れになってしまったことも反省点です。自問を軸に、日々の出来事に
アンテナをはり、こと、不快に関しては一歩もひかないで掘り下げていくつもりです。


・・・

【変化報告、復元作業など】

<身体的な変化>
まったくといってよいほど、風邪をひかなくなりました。とくに、11月頃になると空気の乾燥とともに
喉をいためると同時に風邪をひくことが多く、年によっては1ヶ月の間に3度も通院して点滴を
うつこともありました。今年は一度もありませんでした。
それと声ですが、今までは中高音域の声が、たとえば歌を口ずさむ時、ブレーキがかかるように
感じることが多く、不快感があったのですが、2ヶ月ほど前、楽に出せていることに気づきました。


<環境の変化>
夏頃からプライバシーを確保するための生活環境にシフトしていきました。今まで
プライバシーの確保の意識があまりに低く、それがPさんへの依存度と比例していました。
シフトしていく際、Pさんは拒絶の反応を強く示しましたが、なんとかのりきり、今現在は
自我復元の環境を守ることができ、仕事面でも「共同で何かをする」という今まで15年近く
続いた関係も変わり、共同作業は最小限となっています。
Pさんが態度を軟化させているな、と気づくこともあり、その時はわたしの中の偽人格の挙動を
注視し、自覚的な自己確認を意識しています。依存人格の掘りおこしのみならず、ここでは
崩残さんからご指摘いただいた同居人への情報と理解が、わたしの内面的な注意力を
高めているように感じています。つねにPさんの言動にふりまわされてばかりだったのですが、
その「ふりまわされる」ということが、とくに今年夏以降、激減しました。ただ、Pさんが下手に
出ていることはあるので、ひきつづき自我復元環境には注意をはらっていくつもりです。


<内面的な変化>
ブログを書きながらも最初のうちは、「変化しただろうか、変化したに違いない」と思いこみたくて、
小さな変化も過度に変化と思いこんで、「これでいい」と思いこむことをくり返していました。
ところが、この「これでいいと思いこみたいわたし」こそ、AC人格の挙動そのものだったことを
掘っていくことで、何ひとつ変わっていない、という事実に直面しました。
これでいい、と思いながら日々自己確認する、というパターンが身についていたわたしには
それ自体がうけ入れがたく、このループから出よう出ようと、偽人格が理由をつけては
逃げようとしていました。その「逃げよう」としている、ということ、自分が本当に向き合うべき
問題を問題視しないようにしている自分に気づきはじめたのが、不快年表を書き始めたあたりでした。

内面的には何も大きな変化がない、ということを自分で認められたのは、この時です。
その時同時に思ったのは、内面的には大きく変わってなどいない、というのを
本当は自分でもわかっていたのに、そこからずっと目をそらしていた、という事でした。
思考と行動が大きく変化する、という内面的な変化に至らなかった、というのが
現時点での認識です。


<復元作業や夢のこと>
呼びかけや回収の作業は、ほぼ毎日実施でき、それぞれに20分程度かけることが出来ました。
今でも呼びかけや回収時の実感というのは薄いのですが、それでもイメージだけはという気持ちで
作業はずっと続けています。ただ、振り返ってみると、トラウマ掘りなどの自問で保身で現実逃避
してしまっている時は、どこか作業とも連動しているのか、わたしの場合はイメージもぼんやりし、
集中力に欠けました。(死人禅もアドバイスいただいたことに留意して続けていますが、とくに
11月は途中で考え事が止まらないなど、集中力が落ちてしまっていた時期でした)。

夢については、直接、呼びかけや回収作業と関連づく内容を覚えていることはなく、朝起きて
思い出せるのは、自問の作業に関連する主観的な夢がほとんどでした。掘っていく場所にも
なったので、寝ている時間も今後も活用してみたいと思っています。

記憶に関しては、とくに幼少期は事実関係そのものが、ほとんど思い出せていない状態です。
3歳の頃に身内を亡くしていて、一緒に遊んでいたのに全く記憶になく、母にきいても
「AbyはCちゃん(仮名)がいなくなっても、まったく気づかなかったみたいだから、
亡くなった説明もしたことがない」というのをきいて、また他の方の自我復元報告を
読ませていただきながら、どうしてこの時期をまったく覚えていないのか、思い出せないのかは、
トラウマ掘りとともに来年も探っていくつもりです。


・・・

【年内残り一週間の計画】

今回、総括を書くにあたっては、「一年を振り返ってどこに関心のウエイトがあったか」ということを
自分自身確認したかったので、今まで書いたブログやメール、無明庵のサイトの記事、それらを
見返さず書く、という方法でやってみました。(今回は手書きのノートに書いて転記しました)。

「調子にのるな」という声の仮想の恐怖が、随所にあることに気づきました。
飴による調教によってつくられた偽人格に対して、親(とくに父親)が「調子にのると痛いめにあうぞ」
という脅しをかけて、親に都合のいいようにコントロールされたのではないか?という可能性を
疑っています。このあたりを掘る作業を続けたい、ということと、もう一度、ブログ、メール、桜の間の
記事などを読み返してみて、とくにその当時は「こわい」と思って曲解したり、スルーしてしまった
箇所に印をつけてみようと思っています。

それと年内にもう一度、フルで見たいと思っている動画があります。桜の間に掲載、
リンクしてくださった「omnia」のライブ映像です。→ http://www.mumyouan.com/k/?S194
初回判定前に拝見し、それからいろいろな局面で、いろいろな思いを抱きながら、
感じ方を変えながら、ともに歩いてきた感じがしています。

自分のことを何十年もないがしろにしてきたわたしにとって、とくにこのブログを書きはじめてからの
半年は、正直、かなり苦しく、孤独感で押し潰されそうでしたが、それでも一方で、
やっと自分のことに目を向けたね、という麻痺し続けていたものをとり戻せつつあります。
そのことは正直、嬉しいです。

「自分を裏切らない為に」書きはじめたブログです。
ひとつの区切りとして、2013年の総括といたします。


2013.12.22
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-22 13:25 | 復元ノート 1

行動の動機

今日も、あいかわらず胸がおさえつけられている感じで
ときどき、ズキン、と胸が痛む。

身軽でないこの感じは、よくわからないけど、
昆虫標本にされた蝶のようで、胸にピンでとめられている、
といった感じがする。

前回のブログの続きのようになりますが、
父親似の気狂い・・・やはり、気になる。
そこがとても気になっている。

ブログを書く時もそうだけれど、癖のひとつに
「(頭のなかで)まとまったら、記録する」というのがあって、
それまでためてしまうのだけれど、今日はそれはやめてみよう。
まとめてしまう前でないと、記録できないこともある気がするから。

ひきのばさず、ノートしてみようと思う。


・・・


「このままじゃダメだ」


このままとはどのままなのか、と自問して答えられないのだから
この強迫観念にとりつかれているとしか思えない。

この呪いのような言葉が出てくる直前、
強い停滞感をどうやら感じているみたいで、これを察知して、
「このままじゃダメだ」という言葉が生じてくるようだ。

このまま、とはどのままなんだ?というふうな視点で
自己観察を続けてきたところがあるが、
一度、検証の仕方を180度反転させて、
「このままだと、どうなるからダメなのか?」と自問し、
わたしがどうなることを避けているのか、という視点で
いったん、考えてみようと思う。


そんなことを思ったのも、今朝起きて、ふと、
「バナナを創った宇宙人」を購入する動機を
思い出したことがきっかけだった。


無明庵の書籍から離れて10年以上たち、昨年の夏、
死人禅行法をやっていなかったことが気になり、
ガイド音のCDを購入し、行法に必要な情報をサイトで確認し、
(このときから無明庵のサイトを少しずつ見るようになり)
そうしているときに、新刊案内がアップされた。


それを購入した動機は、ひとつだった。


目次がサイトに掲載されていたので、読んでいて、
「惑星上で絶対にやってはならない事」
という項目をページをなんとしても読みたかった、
ということだった。

その頃はまだ自我復元のことも知らなかったので、
結果、とんちんかんな不安を自分で妄想し、
勝手に不安になっていた、という愚かな結果だったわけだが、
ここに今、掘り起こしていくものがある気がしてならない。


「父の調教」の記事のなかで、崩残さんからのメールの
一部(以下、ピンク文字)を掲載させていただき、
父親似の気狂いで、わたしどう自分を裏切り、どう逃げたか、
そこを明らかにする作業を行った。


1/実体ははっきりしないのに、
  怖いと他人から言われたもの(人でも理論でも)を、
  そのまま怖がる癖です。

2/怒ると何をするか予測できない相手を怖がる癖。

もしもそうだとしたら、それは、
父親からの、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」で
調教された可能性が大です。



今回、はっと思ったことは、この「1」で、
「実体ははっきりしないのに、怖いと他人から言われたもの
(人でも理論でも)をそのまま怖がる癖、これこそが、
「バナナを創った宇宙人」を購入するに至った動機、
そのものだったこと。

そう考えてみると、もしかしたら、わたしが無自覚に行っている
日々の行動の動機とは、そのほとんどが、こういった癖、
未来を勝手に不安がる妄想、それが動機なのではないか?


自我復元についてはどうだろう。


全自我に戻れなければ、契約を変更できなければ、
もっと酷いことになる、罰せられる、苦しいことが待っている・・・

こういう自分の目で見てもいないのに
わたしは勝手に妄想しているところが強い。


「無との境界領域に幽閉された種族の話」が
無明庵の書籍に書かれていたのが怖かった、という話を
以前、このブログにも書いた。
この話のリアルさに恐怖して、書籍から離れた。
ここにも、自分の目で確認したわけでもないのに、
怖いと言われたから怖いと妄想した痕跡がある。


崩残さんに対しても、
わたしは怖いと思っている。


なぜだろう?


AC人格に容赦ないから怖いんだ、とか
そういう理由ならば納得もできる。
でも、どうも、そうじゃないようなのだ。

考えてみるほど具体的な原因が、むしろわからなくなる。
崩残さんと父とは、冷静に見てみれば、どこも似ていない。
そんなのはわかっている・・・けれど、
ここはそのままにしては、肝心なところを放置してしまいそうだ。

たとえばメールの内容を見ても、そこに
怖がる原因が見出せない。なのに、
今までをふりかえってみても、つねにわたしは酷く怖がっているのだ。
厳しい内容が書かれているかどうかとも無関係なようだ。
表面的には「絵文字」を使っていたとしても。

今までもブログのなかでも、「これでいい」と言ってほしい自分、
ということを何度も考察してきたけれど、わたしが怖がっているのは
もしかしたら、そうじゃないのかもしれない。

逆説的だけれど、

もしも、

「それでいい」と言われたら、

わたしはそれこそ、怖いのだ。

というのも、その前提に、
「このままじゃダメだ」という考えを
わたしが強く持っているからだと思う。


では、このままだと、どうダメなのか?


全自我にならないとどうのこうの、とか
契約違反をするとどうのこうの、というのは、
それは借りものの知識にすぎない。

わたしがそれを唱えたところで、
そこにリアリティはゼロだ。

わたしにとって、「ダメなままでいい」ということは
絶対にあってはならないことで、
以前、崩残さんにひどく取り乱したメールを送った時も、
「Abyはずっとそうしていろ」と見捨てられたに違いないと
勝手に妄想を膨らませ、あることないこと、
不安をどんどん捏造したのが原因だった。


〝実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇〟


そのときわたしは、崩残さんを
「実態のない仮想の敵」にしてしまっていた。


だから桜の間の記事を読んでも、何が一番怖かったか、
というと、「いつまでもそうしていればいい」と、いつ、
わたしが言われてしまうか、ということだった。

崩残さんがたとえば他のブロガーや読者の方々に対して
コメントをされていると、その内容とはまったく関係なく、
自動的に「Abyはそのままそうしていろ、と言われている」
と勝手に思いこんだりしたのも、そこに起因していたように思う。


完全に被害妄想なのだが、
この妄想は、では、誰が作っているのか、というと、
わたし自身なのだ。


崩残さんを怖がっているのは、
わたしはどこかで崩残さんを、父親似の何をするかわからない人と
思ったりしているんじゃないだろうか・・・いやそんなはずはない
・・・だってぜんぜん違うじゃないか・・・じゃあ、どうして怖いんだ・・・
まさか・・・いやそんなことはない!・・・

そうやって、わたしは目をつぶってきた。
でも、ここはもう誤魔化したくない。
ブログを書いていて、怖い、という気持ちがよぎるときも
そこに崩残さんの目がある、だから怖い、と
妄想に妄想を膨らませたとき、
怖さはピークになる。


そんなこと思ったりする自分はおかしい、
そんなはずはない!


そう思いたくて誤魔化していた。


これもまた、前回ブログ記事に書いた、
「自分なんてどうでもいい」「我慢すりゃいい」なんて
思ったりする自分はおかしい、そんなはずはない!
というのと、からくりとしては、そっくりだと思った。


誤魔化している場合じゃない。


それならそうで、なぜそうなのか、どうしてそういうふうに
思ってしまっているのか、問題はそこにある。
「問題視しないための口実をつくる」というのはわたしの悪い癖で、
「これでいい」という麻痺技などその最たるもの。
問題はなにもかも、そのまま放置されてきた。



見えてきたことは、

このままじゃダメだ、と言いながら、

このままだと「〇〇のようになるぞ」という脅しを自分に課していた。

そのためなら、あることないこと、未来に不安を作り上げて、

目の前にいる人や理論を、まるで父親「のように」仕立てあげて

勝手に不安を妄想し怖がる。



何もかも、「このままじゃダメだ」ということを
まずわたしが認め、受け入れること、それを前提に
ことをスタートしている。

「なぜダメかっていうと・・・」

という、その理由の箇所を、わたしがどんどん捏造していくのだ。

だからその理由自体にも、まったくリアリティがない。
自分で経験したことでもなければ、きちんと自分の
目や手で確かめたことでもない。


そもそもなんでそんなことをしているのか?
というのが、放置され続けた問題だ。



なんでだ?



本来、このままじゃダメだ、と言うくらいなら、
そもそもわたしは何をやっていて、何に向かっていて、
それに向かっていくうえで、これこれこういう理由でダメだからここを改善しよう、
そういう具体的な検証の上での「このままじゃダメだ」という事実確認で
あるべきじゃないだろうか。
なのに、わたしの場合、こわいとか、そういった脅しとして機能している。
百歩譲って、これこれこういう理由でダメだ、というなら、
それを解消して、じゃあ、どうしたいの?と自問しても、
何も出てこない。


これって、おかしくないだろうか。


このままじゃダメだ、からいろいろなことがスタートしてしまっているだけで、
そこにビジョンも目的もない。だからスケッチブックも描けない。
いろいろ迷って描けないのでなく、本当に主体的に目的やビジョンを
考えたこともなく、ただ、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」を
自分自身に与えることで、それを「掛け声にして」歩いてきた、
というだけだったのではないか?

「どうするか?」という何かの選択の際、真っ先に浮かぶ思考は、
「こうしたらどんな問題が起こるだろうか?」というもので、
わたしはこれをリスク管理の一部と考えていたわけだけれど、
これしかないのを見ると、何かを成し遂げるための付随機能では
どうやら、ない。


「バナナを創った宇宙人」の目次を見て、勝手に
不安を捏造し、きっとこういうことをすると処刑されるんだ、とか
そういう妄想を作り上げた張本人は誰か、といえば
わたし自身だ。



自分で威嚇を捏造し、自分自身に施す。

こわい・・・

CD-Rを購入する。



日々の行動の動機は、もしかしたら、ほとんどが
この「恐怖」を自分に課すことで、
成立しているのではないだろうか?


初回自我判定依頼のときもそうだった。
「死後こうなったら怖いから」
だから、自我復元をやりたいと思います・・・なんじゃこれ?

こうやって自分で未来の不安を妄想し、捏造している。
「このままでは、そうなっちゃうぞ。だからこのままじゃダメだぞ」
と、そうなっちゃう、の、「そう」という内容を捏造したり、借りものの
言葉をあてはめて、きっとそうなんだと怯えるように、
自分で自分に仕向けている、ということばかりやっている。


なんでこんなことしてるんだよーーー!


こわい「から」、そうしている。


たったこれだけ。


なんてつまらないを人生をおくってきたんだろう。


行動の動機をもう少し、つめよってみたいと思う。
というのも、「自分の時間を必死に守ってきたわたし」という、
こいつの挙動にも、大きく影響を与えている気がするから。

現実の場面でのいろいろな選択に、
父親の調教に由来する無自覚な言動が
随所にあるように思えてならない。


2013.12.15
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-15 21:36 | 復元ノート 1

自分の時間を必死に守っていたわたし

ひとつ前のブログを書き終えた後、
違和感が残った。

自分でも、どこで違和感が生じたのかは
なんとなくわかっていた。


>「わたしは自分自身に関心なんてないんじゃないだろうか?」
>「別に自分が我慢すればいいんじゃないだろうか?」
>という声を、わたしのなかに生じさせて、
>不快を起こさせ(目をそらさせ)、
>「そんなことない」というふうに思いこめるようなものに
>こじつけでもなんでもいいから誘導し、
>実は、これらの声そのものに目を向けさせないようにすることで、
>わたしに埋めこんだ両親の自己否定を「そのままに」させておこう、
>という手口。


>わたしのことをダメだの、ダメでいいだの、
>父がわたしに言う資格なんてない。

>わたしの感情を押し殺せだの、快は悪いだ、不快を耐えろだの、
>母がわたしに言う資格も、ぜんぜん、ない!



この最後の赤文字の部分。


書いているときは、ただ違和感のみで原因は
まったくわからなかった。

それでここは、そのまま書いてみて、どこに違和感があるのか、
どうして違和感を抱いたのか、時間がかかっても
ここは考えてみようと思った。



相当な不快感があるのだから、これは何かあるだろう・・・



できるだけ避けて避けてきたところ、
そこが震源地だった。



>「そんなことない」というふうに思いこめるようなものに
>こじつけでもなんでもいいから誘導し、
>実は、これらの声そのものに目を向けさせないようにすることで、


と、自分で書いておいて、


「そんなことはない」と思いこめるように、
〝わたし自身が〟そうやっていたことが原因だった。
そんなことはない、とこじつけでもなんでもいいから誘導し、
この声に目を向けさせないようにさせていたのは、
わたし本人だった。


これはACの声だ、ACはわたしじゃない、
わたしは違うんだ!!、と。


・・・そんなことはない。わたしがACなんだ。


わたしこそが

「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」

と思っているんだ。


わたしはこれだけは認めたくなくて、
逃げまくっていた。
調教すらその口実として、
「だからわたしは違う。わたしはそんなんじゃない!」と叫んでいた。
それが赤文字の部分に明確にあらわれていた。


「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」


自分がそう思っているなんて、絶対に認めたくなくて、
だからこそ、わたしは自我復元をしているんだ、
そんな自分でいいはずがないから、だから・・・!!!
と、思いこみたかった。

だから、これだけは認めてはならなかった。


でも、それは間違っていた。


認めたくないだけであって、事実、そうだった。


仕事をするときも、Pさんと共同で何かをするときも、
それだけじゃない、私自身が自他を区別するとき、
「さあ、これからは〝他〟のことの焦点をあてる時間だ。
〝自〟のことはいったん置いておこう」と気持ちを切り替えて、
〝他〟と関わろうとするとき、わたしはいつも自ら、


「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」


と半ば自動的に、いや、完全に自動的に、
「そういう設定の上で」、ことにあたっていた。

それは疑いもない事実であることを
わたしが本当は知っているからこそ、ときに、
もっと自分を自虐的に貶め、もっと我慢を自分に強い、

そう、

わざと、なんだ。

わざと自分を辛くさせる、ということまでして、

「わたしはそんなんじゃない、本当は!」と
言おうとしていた。


それは妄想にすぎず、目の前の現実は、

「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」

ということからすべてはスタートしていて、
それで終わる。それでわたしはいつも言う(思う)。


「わたしは本当はそんなんじゃない」と。


違う。


それこそが事実だった。


「そんなことはないわたし」なんて、
どこにもいなかったんだ。
でも自分でそう思いこみたくて、
ありもしない自分を捏造し妄想した。


「自分なんてどうでもいい、なんて思っているはずがない自分」
「自分が我慢すりゃいい、なんて思っているはずがない自分」

こういう自分を、自分で作り出していた。

わたしはこういう自分は、どこか傷ついている自分、
なんとかしようと必死にもがいている自分、この自分こそ
助け出さないといけない自分・・・たぶんそうなんだろうな、と。
当然、「味方側にいるわたし」だと、無意識にそう感じてきた。


これも違った。


「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」

というAC・調教人格と、矛盾しながらも「対」として存在していて、

「自分なんてどうでもいい、なんて思っているはずがない自分」
「自分が我慢すりゃいい、なんて思っているはずがない自分」

という自分、そんなはずはないんだ!と叫んでいる自分も
共犯だった。


考えても思ってもいないことだった。


というのも、わたしは、これこそは、わたしがわたしである
根拠みたいなものだと思っていたから。
(どうしてそんなふうに思っていたのか、何の根拠もないのだが・・・)



 ダンボールで自由に創作して、
 制限なく楽しむわたし。


 一人頭のなかで、
 自分ひとりの世界を楽しむわたし。


 レッドタイガーなどのヒーローと自分を
 重ね合わせて「自分は強いぞ、かっこいいんだぞ」と
 妄想していたわたし。



子どもの頃のこういうわたしこそ、
わたしらしいわたしだと思っていた。


 「わたしはこんなんじゃないんだ。
 もっと価値のある人間なんだ。もっとそうなるんだ。」

 「やりたいことをやってやるんだ。
 我慢なんてしないんだ。わたしは自由人なんだ」


そうやって、暴走しまくったのが、不快年表でも明るみになった
学生時代からの学校・職場での暴走だった。

おじろくの家出型の反乱人格で、
自己愛性人格障害や境界性人格障害に
酷似した人格。


完全な暴走


わたしは間違っていない。正しいんだ。
自分自身を生きるんだ。好きなように生きるんだ!


まるで、家出をして(結局は出戻ってくる)
おじろくと同じ。家出おじろくにすぎない。


わたしがこれを認めたくなかったのは、
自我復元をも保身の道具にしていたからだ。
矛盾するようだけれど、
「自我復元をしたい」という自分を保身することで、
「自分なんてどうでもいい、我慢すりゃいい」と思っている自分に
目を向けないようにしていたんだ。


そのどちらの自分も、テーブルに広げてみることにした。


「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」


そう思っているのなら、それでいいからと
覚悟を決めて、手書きのノートに
自分がこう思っていることを書き出した。


当然、それと対の人格も暴れ出す。


仕事の時間になった。


この仕事は、わたしはずっとその時間は、
我慢している時間、自分のことは押し殺している時間と感じている。
だからいつも、本当のわたしはここにいるわたしじゃないんだ、
これは仕事だからしかたがないんだ、
仕事が終われば、また自分の時間が持てる。


そうなんだ。


わたしは小学生の頃からもそうだったけど、
「自分の時間を持つこと」に必死だった。
成人してからアルバイトをしてもそう。
これは仕事だ、これが終われば自分の時間だ。

いつも自分の時間、自分の時間、といって、
それを確保しようしようとばかりに必死だった。
だから友だちに遊びに誘われても、わたしがいつも思うのは、
「自分の時間がなくなる」という感覚だけだった。


思えば、これはわたし自身、長い間、
維持し続けてきた欲求だ。
だから最も馴染みがあり、それゆえに、
わたしはこれは「誰もがそうなんじゃないか」と思っていたほどで、
食事をとる、というのと同じくらいの感覚で
「自分の時間の確保」は大事なことだった。


この強迫観念は相当に強い。


自分の時間を作ることと、
それ以外とに分断してきた。


ここまではわたしの時間、そこからはそれ以外の時間。
その区分けにしたがって、どちらの人格が登場するか、
という使い分けをしている。
おじろくとしての滅私奉公のための時間か、
家出おじろくという妄想の時間か。


先日も、そうやって仕事の時間がはじまった。


自分なんてどうでもいい、我慢すりゃいい、
そう思っている時間がはじまった。
自分はそう思っているんだ。


今だってそうなんだ・・・


わたしが自らそう思うように、自ら滅私奉公の時間なんだ、
と決めてかかろうとしていた。


「わたしが」調教されていたんだ、ということに
いまさら気づいた。
実は今まで調教されていたんだということに
気づいてさえ、いなかった。



「・・・なんで自分から決めてかかっているんだ???」



考えてみれば、今までアルバイトをしても、
Pさんと共同作業をしていても、そのスタート時点から、
「ここでは自分なんてどうでもいい」と思っているし、
「この時間は我慢するのはしかたがない」と思ってしまっていた。


思い返してみると、学校もなにもかも
そうだった。


今は我慢しよう、学校から帰れば自分の時間がある。
だから、ここでは本当の自分じゃなくてもしかたがない。

こうやって、わたしはいつもいつも、しのいできた。


そう、「しのいできた」という感じがする。


とりあえずそれを済ませれば、
自分ひとりの時間を得て、
自分ひとり好き勝手に妄想を広げて、
何かやりたいことがあれば好きにやれる。

そういう意味では、わたしの両親は、
「これも計画されていたのか!」というほどに、
わたしが自分ひとりで何かをする時間は確保させた。
たとえば、妹と弟の世話をしなさいとも言わなければ、
友だちと遊びなさいとも言わない、わたしにとって勉強は
自分の時間を確保できる時間だから勉強しやすい環境も整えてくれる、
保育園でも「Abyちゃんは外で遊ばないで一人で室内で遊んでいます」
などと保育者が言おうものなら、
「一人で静かに室内で遊んでいることのどこが悪い!」と言い返した。

習い事もそうで、考えてみればチームでやるものはほとんどなく、
個人技のものが多かった。だからわたしは、一人の世界を妄想し、
「熟練していく自分」をヒーローと重ね合わせてその時間を過ごした。
だから習い事も勉強も嫌いじゃなかったし、むしろ好きだった。

そういう自分一人の時間、一人妄想の世界に生きる「わたし」を
わたし自身上手く作り出せるように「手伝った」という形跡も
母と父の調教手口を調べていくうちに、少しずつ見えてきた。

考えてみれば、そりゃそうだ。
父と母がその雛形作りに関わっていないわけがない。

だって、母は我慢思考を植えつけておいて、「個として自立すること」を
口だけだけれど、その矛盾することも強いていたのだから。


父も同じ。

自虐思考を植えつけておいて、
「Abyはもっとすごくなれるよ。Abyがここまでって
自分で線を引かない限り、努力していけば、もっとすごくなる、世界一になれる」と、
口だけだけれど、その矛盾を強いていたのだから。



なんという毒性。



「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」

というAC・調教人格をあてがっておいて、

「自分なんてどうでもいい、なんて思っているはずがない自分」
「自分が我慢すりゃいい、なんて思っているはずがない自分」

というもう一対の「正反対の」AC・調教人格も、植えつけておく。



そこでわたしは、どうしたか。



「自分なんてどうでもいい、なんて思っているはずがない自分」
「自分が我慢すりゃいい、なんて思っているはずがない自分」

そういう自分こそ「あるべき自分だ」と目標に掲げ、それに努力し、
そういう人格も自分でせっせとこしらえ、

「自分なんてどうでもいい」
「自分が我慢すりゃいい」

というふうに日々すごしている自分、滅私奉公のようにすごしている自分は
「本当の自分じゃないんだ」と言いながら思いながらも、現実逃避し、
滅私奉公の自分を保持する。



滅私奉公することは

「前提」

のようになっていく。



滅私奉公が前提なのだ。
「そうしている」自分から何事もスタートしている。

それでなんとかしたい、とあがいている。

なんとかする、とはわたしの場合、つまり、
「これでいい」と自己同化できるものを使って自己確認することであり、
そういう制限に違和感や窮屈を感じたときは、
脳内妄想に「家出」して、一時の快でまぎらわす。

もちろん、この快を得る、というのは、不快に耐えるべきだ
(というか、不快は常態として受け入れられる人間であるべきだ)
という母のルールからいえば違反なので、罪悪感を感じるようになっている。
快がどこか悪いものだ、と思っているのも、ここからきているように思う。

だから、わたしの一人妄想は、
いつもこっそりやっている。

昔からそうだった。


父の声も強い。

「調子にのっていると、そこまでだぞ。
自分で自分をすごい、と思ったら、そこで線を引いたら
それで人間おしまいだ。」

こういう自虐思考がびっしり植えつけられているから、
「あくまでもこれは妄想だから」という区分けで
これまたひっそりとやっている。
「自分は本当は偽善者なんだ」というふうに思ってきたのも
おそらくそこに関係しているだろう。


自分の時間を必死に守っていたわたし。

他と区別してこしらえた「自」という妄想領域を
必死に守ってきたわたし。

そうだ、ビデオに映っている小学生の頃のあのわたしだ。


この「わたし」こそ、もしかしたら、
強烈なのさばり方をしている。


昨日、今日と、胸のあたりが
なぜか、すごく気持ちが悪い。


・・・


それに、へんな夢も見た。

また父親似の気狂い教師や、気狂い社員らが現れた。

なんだろう、と思っていたのだけれど、
気狂いのやつが登場したタイミングはどういう時だったか、
もう一度、考えてみることにした。

まず、父親本人。

父が、仕事とわたしの弟のことで荒れていたとき、
それこそ何をするかわからない状態だったので、
その危険を感じた翌日には家を出て、それが、
本格的にPさんとの同居に繋がった。

その数ヶ月前に、わたしは学校を中退した。
それもまた、父親似の気狂いを恐れ、わたしが逃げたからだ。
それは何に繋がったか、といえば、
「Pさんが希望する職種」を選択することに繋がった。

アルバイト先でも気狂いの社員が現れたときは、
たまたまPさんはそのアルバイトをその直前にやめていて、
ある仕事の契約社員として別の仕事をしていた。
わたしはタイムカード不正事件を契機に、そのバイトをやめ、
わたしもPさんと同じ、その会社の契約社員として、一時期、働いた。
つまり、Pさんの後を追うべくして、そのタイミングで
気狂い社員が現れた、ということ。


この気狂いの登場に対しわたしがそこで戦わずに逃げた結果、
Pさんとの接点がまた一つまた一つ、増えていく、という流れが見える。
Pさんというパーソナリティの選択には、母の調教由来が深く関連していそうだが、
Pさんと出会うタイミングだったり、Pさん関連の環境の移行に関しては、
どうやら父親の調教由来が関連しているようだった。


過去のことを考えているせいか、
過去のアルバイトの光景が立て続けに夢に出てくる。
目が覚めて、気がつくと、過去のことをあれこれ回想していた・・・


わずかだけれど、幼い頃の過去の記憶が
よみがえってくる部分がある。
たとえば、公園での遊具の触感とか、まわりにあった物とか、
ある場所を通りすぎたときの感覚だとか。

やや広角レンズになったような。

このあたりは思いこみかもしれないが、
過去の記憶に対して、どこか「ガードが下がった」感じがする。


・・・


それにしても、この胸の嫌な感じはなんだろう。

対の関係にあるAC人格を掘ってみたあたりから、
この感じが続いている。

さっきも、ぐわーっと嫌な不快感が
ふいに襲ってきた。

わたしのなかで、目をそらしたいものが
潜んでいて、それがぐっと顔をあげてきたような、
何かを拒絶するときの不快感に似たものを感じる。

どういう不快感なのか、なぜ、それが沸き起こるのか、
今、整理がつかない。でも、きっと何かある。

どこからくるのか、徹底的に掘り下げ、
調べてみようと思う。



2013.12.15
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-12-15 00:33 | 復元ノート 1

悪魔の手口

>「自分なんて無価値だ」
>という自己否定の感情なのではないだろうか?
>父の自己否定の感情が、わたしにそっくりコピーされた?

>いつから?


このことに関して、わたしのなかでひっかかっていた
父との出来事がある。

時期が定かではないが、たしか、小学生の終わり頃だったと思う。
その頃、わたしは幾何の問題を解くのが好きで、また、
自分で問題を作るのも好きだった。

今思い出したが、同じような出来事が三度あった。
わたしのなかでは、一度と思っていたが、相当同じ印象だったせいか、
同じエピソードだと思いこんでいたようだ。

どれも、父に「こういう問題を作ったんだ。やってみてよ」と
自分で作ったオリジナルの問題を出したときの出来事。

どれどれ、と仕事の手をやすめて嫌な顔はひとつせず、
見てくれようとする。問題を解く。
それから、「はい」と正解をわたしに告げると、
こう言った。


「面白い問題だね」、と。


そう言われて、わたしはそのとき、
すごくがっかりした。

面白い問題だね、うんうん、と言いながら、ここをもっとこうすると
さらに面白い・・・などと父はわたしを持ち上げつつ、
アドバイスをする。

わたしは、そうだね、とあいづちを打ちながら、
どこか、すごーくがっかりした気持ちだった。


父は、子どもたちのことを決して悪くは言わない。
いつも持ち上げる。素晴らしい子どもだ、と言う。
そういうやさしい父親だ、というのが、
わたしが抱いていた父の姿だった。

今あらためて考えてみると、幾何の問題を出して、
「はい、Aby。答えはこうだろ。」と父が言ったとき、
そのときにわたしに伝わってきたのは、
わたしを完全に蔑んだ態度だった。

父の顔は笑っている。もちろん口に出さないが、
父が語りかけていた態度は、あきらかに、

「こんなのは・・・たいしたことない」

という、嘲り笑うような態度だった。


ひどい、と思った。


わたしはそのとき、そう思ったんだ。


でも、わたしのこのがっかり感は、自分が何日もかけて考えた問題を
あっさりと解かれてしまったからだろう、大人にとってはたいしたことない
問題だったんだ、なのにわたしは自分が作った問題はなかなかのものだって
自分勝手に思いこんでいただけだ、それほどでもないのに・・・

がっかりした、と思っていた。

もちろん、
がっかりはしたかもしれない。

でも、このエピソードが強く印象に残っているのは、
がっかりしたからではなく、そういう父の態度にどこか違和感を覚え、
「なんか酷い・・・」と思ったからだ。

そう思わせておいて、
「Abyは面白いのを考えたね。いい問題だね」と言う。
こんなのたいしたことない、と徹底的なダメージを与えておいて、
口だけは「すごいね」と言って、態度も表面はニコニコ。

このエピソードと重なるのは、わたしが100点をとってきても、
「100てーん。素晴らしーい!でも習ったことがテストに出るのだから
当たり前といえば当たり前。でもこの当たり前のことが出来たら神様だ」
という、あの父の口癖だ。


〝当たり前のことができたら、一人前〟


父の口癖の筆頭にあがるものだが、これがどういうことを言っていたのか、
いまいち、分析しきれていなかった。

つまり、父がわたしに伝えようとしていたのは、

「当たり前のこと」とは、たいしたことないこと、
別に価値なんてとりわけないもの、場合によってはダメなもの
(完璧な人はいない、ダメで当たり前などなど)、そういうものの総称で、
「一人前」とは、それこそ、「それでいい」という父からの承認だ。

だから、結局、こういうことを言っている。


〝Aby、お前はダメでいいんだよ〟


である。


たいしたことない自分でいいんだよ、それが人間なんだよ、
一人一人なんて価値なんてないんだよ。
まわりがあっての自分。(と言いながら、ここで混乱させるようにして、
「自分あってのまわり」ともわざわざ言う)


「ダメでいいんだ」


それが父のベースにあるから、幾何の問題を出したときも、
わたしに伝わってくるのは、まず、「たいしたことないよ、こんなの」
という蔑みであって、にも関わらず、「いい」という。

つまりそれは、この幾何の問題がどうのこうのではなくて、
わたしに伝わってきたのは、「こんな問題はたいしたことはない。だから、
こういう問題を自分で考えたっていうAbyも、つまらない、たいしたことないんだよ」
という侮蔑だったのに、口では「この問題、面白かったよ」と言って持ち上げておいて、
「そういうAbyでいい、すごいよ」と言うことで、わたしが感じたこの「ひどい」
という感覚を麻痺させる。「よい父親」を演じたのだ。


先月の終わり頃、ひとつ、やってみた作業があった。
それは、自分が苦手と感じているものは何か、リストアップする、
というのをやってみた。
というのも、けっこう、そういうのはあるな、とふと思ったのと、
にも関わらず、その出来ないことや苦手なことに対して、
悔しいとも感じないし、どこかでそんなの別に出来なくたっていい、とか
そういう気持ちや考えが自分にあると思ったのと、また、
「Abyはコンプレックスとか後悔とかを感じないから」とPさんが
言っていたことと何か関係があるのではないか、と思ったからだ。

リストアップしてみると、かなりある。

というか、だいたいわたしは、得意なものなんてほとんどなく、
ひとつひとつ見ていくと、だいたい「苦手」に振り分けされる。

苦手だからといって、それをやってこなかった、というと
そうではなく、むしろやってきたことだった。
すごい、上手い、素晴らしい・・・そう言われてものばかりだったのに、
わたしは苦手意識を持っている。


考えてみれば、おかしいことだ。


その苦手なものを避けるようにして、気がつけば、
今の仕事にたどり着いている。
つまり、今までやってきたことを活かしていないどころか、
避けるようにして、今の仕事環境がある。

よく他人からも「どうして急にこういうことをやりはじめたのですか?」
と言われ続けるほど、経歴とは無関係なことをやり続けている。
これについて、わたしは「自分は自由なんだ、好きなことをやっているんだ」と
思いこんだ半生を費やしてきてしまったわけだけれど、
実はそうではなかった。

ふたをあけてみれば、
苦手と「刷りこまれた」分野やジャンルを
見事なくらいに避けていた。

幾何の問題についても同じで、
ああいうことの繰り返しが、苦手意識をつくっている。
わたしが苦手と思っている分野や事柄ひとつひとつを見てみると、
どこかで父が関与していた。

「お父さんも下手だったんだよね。
でも、それで人間の価値が決まるわけじゃない」とか、
「Abyは不器用だけれど、努力家だ。それが一番!」とか、
ありとあらゆる手で、

「Abyは、本当はダメでたいしたことないんだけれど、いい!」
という目茶苦茶なことをやってのけたのが父だった。

わたしの自虐思考はどこからくるか、というと、
おそらくこのあたりから来ているようだ。
自分なんてたいしたことはない、自分はダメだ、
自分なんて所詮・・・、最後には無気力人間になって、
「死んでも悔いがない」なんて、悔いそのものまで麻痺させられた。
そこにある手口が、ダメで「いい」という思考回路であり、
それがどこから来ているか、というと、

「自分なんてたいしたことないんだ。
だから、誰も自分のことを認めてくれないんだ。
自分に関心を持ってもらおうとか思うからダメなんだ。
自分はダメじゃない、価値があるんだ、大事な存在なんだ・・・
そう思ったりする自分がダメなんだ!」

という父の自己否定感情から来ていている、
そう思った。

「自分なんてたいしたことはない。人間なんてそもそもたいしたものじゃない。
どちらかというと迷惑をかけて生きている存在で、まわりに依存しながら生きている。
でもそれが〝当たり前〟であり、ダメで当然であり、それでいいんだ。
それでこそ人間味があるんだ」

父は態度で伝えるだけでなく、ご丁寧にしばしば定期的に説教話にとりまとめて、
子どもたちに話伝えては、ひとつひとつ、自尊心をたたきわり、ひとつひとつ、
苦手意識を刷りこんでいった。


ダメで「いい」、と言い続けた飴による調教。


・・・


父がどうしてそういう自己否定に至ったかについては
実質上おじろくとしての生活がそうさせたのだろうが、
決定的だったであろう出来事を見つけた。

そのエピソード自体は耳にたこができるほど
何百回ときかされた話だった。

わたしはこれをただの自慢話だと何十年も思ってきたが、
このエピソードとそれに関連する格言をあれだけ繰り返していた
背景には理由があった。たぶん父本人は無自覚だろうが・・・


「お父さんはね、部活動をとりまとめる部長をやってたんだ。
部長なんてやりたいともちっとも思っていなかった。
いやだって言ったんだけど、まわりがどうしても僕にやってほしい、
やってほしい、というから、しかたがなく、ひきうけた。
部長だからってそれがエライわけでもなんでもない。
でもね、あの学校のあのときの部長は、世界で一人しかいない。
そういう一人に選ばれたというのは、すごい責任と重さがある。
覚えておきなさい。〝アメリカの大統領は一人しかいない〟という言葉。
アメリカの大統領がエライわけじゃない。でも、この一人しかいない、
その一人に選ばれた、まわりに選ばれた、任された、という責任感っていうのかなー。
別にね、お父さんがケネディと一緒って言いたいわけじゃないんだよ。
あれ?そう言っちゃってるのかな、わっはっはー」


キャバクラでもきっと同じ話をしていたのだろう。
思春期に入ってからは、「またこの話か」と呆れていたが、
わたしはどうして父がこの程度の話、たかだか部長になった、なんていう
話を何度も執拗に繰り返して話すのか、まったくわからなかった。
あそこまで自慢するには、あまりにたいしたことがない話だからだ。


その違和感がずっとあったのだけれど、
その謎が解けてきた。


父はずっと自分の母親が兄ばかりに目がいくこと、
自分の存在が無視されていること、かまってくれず、
何をやっても認めてくれないこと、
それをずっと嘆いていた。

おそらくこの部長を頼まれたときに父は、
「こんなダメな自分でも、いいと言ってくれる人がまわりにいるんだ」
と、まるでまわりが救世主のように思ったに違いない。
だから父は、子どもたちを持ち上げまくる。
そうやってまわりを持ち上げることで、相対的に自分を持ち上げ、
そういうまわりに恵まれた「自分」というのを捏造する。
(父を無視し続けた母親ですら、世界一の母親と持ち上げていた。)
このときに、この「自分はダメな人間だけれど、価値がある」という
自虐思考を手にしたのではないだろうか。


この部分を、父はわたしに植えつけたんだ。


わたしは自分で、どこか自分は間違っていて、まっとうでない、
と思っている一方で、そういう自分でいい、という思いこみがあって、
それが不自然でならなかったし、違和感のなかでも大きなものだった。
だから、「こんな自分は嫌です」と言っても、自分で嘘をついている気がするし、
だからといって、「自分は間違っているんだ、ダメなんだ」と言っても、
何がどうダメなのか、というと、それにも答えられない。
自分はこれでいいのか、ダメなのか、そういう漠然として不安のなかを
泳いでいるだけで、完全に思考停止していた。


「自分自身」というテーマに関して、
わたしはいつも、思考停止していた。


別の言い方をすれば、
誰かと話をしていて、いざ「自分」に焦点があたると、
そこに自分の意見など、一つもなく、
AC人格だけが全面に登場し、とうとうとテープレコーダーのように
血の通わない言葉を話し始める。

つまり、思考停止している。

先日も仕事でわたし自身のことをきかれたとき、
コイツが作動し始めたので、あっ、と思った。


思考停止するのは当然だ、と思った。


なぜなら、はなから「自分なんて・・・別に」というところから始まっているから、
そもそも「自分に関心を向ける」ということを、自動的にはねている。

自問という行為自体、わたし自身が拒否してしまっているから
自問ごっこにはなっても、調教由来のこの考えに侵食されている限りは、
他者化された自分への自己確認(自己同化)しかそこにはないから、
「自分のために、、、」と言葉にしても、つねに強い違和感が残る。

それは元をたどると、
「自分に関心を向けてもらおうと思った自分がいけなかったんだ」
という父の自己否定の感情が見つかってくる。
これが転じて、自尊心の否定につながり、
まわりへの依存感情につながっているようだ。


でもそもそも、なぜ、自分なんて・・・と自虐的に自分をとらえ、
挙句の果てに、それでいいんだ、なんて
自己矛盾したようなことを考えなきゃいけないのか?

父自身がそう考えて、思春期を乗り越えてきたのはわかったけど、
なんでわたしを巻きこむんだ!


母も母だ。


我慢できるのが自立した子だ・・・って、おいおい、だ。
「自立をそう定義して、そう思いこんで我慢してきたわたしはすごいでしょ。
Aby、あなたも我慢しなさい。不快は耐えるものよ。逃げちゃダメよ」
って言い続けたわけだけれど、なんで不快を耐えなければならないのか?

逃げちゃダメって、不快を耐えることで逃げてきたのは
母じゃないか。我慢して、自分の感情を押し殺そうとして、
数年後には子どもが生まれたからって、子どもを利用して代理復讐。
自分の問題に他人を巻きこむなよ!!


その結果、わたしにもこの
「不快は耐えなければいけない」
という強迫観念がある。

その裏返しとして、快を欲するのは悪い、
という強迫観念もある。


たとえば映画を見たり、遊んだり、お祭りに行ったり、
そういう「楽しいイベント」と呼ばれるものに時間を割くことを、
「本当はダメだ」という感覚がある。
冷静に考えてみると馬鹿馬鹿しいのだけれど、
たとえば映画を見ようとDVDを借りようとすると、心のなかで
「2時間だけだから見てもいいですか。
有意義な時間にしますから、いいですか?」と
誰に向かってかわからないけど、そう言葉にはせずとも
そういう気持ちで了承を得なければ、と自動的に思う癖がある。

だから、どんな楽しいと感じたとしても、同時に罪悪感が生まれて、
急激にその楽しい感覚はさめ、やがて麻痺されていく。
なかったことになる、といった感じだ。

こういったことの繰り返しだから、結果として
「自分の人生で楽しかったことは何ですか?」と他人からきかれても、
「(思考停止して)・・・とくに・・・ないです」となってしまうか、
紋切り型の答えで取り繕う。つまり、思考停止状態。

どうしてそう思うに至ったか、を考えると、
やはり母の影響が大だ。
母の口癖で「けじめをつけなさい」というのがあるが、
いつも楽しいことがあっても、たとえばお祭りや旅行にいっても、
帰ってくると気持ちを切り替えなさい、気持ちが切り替えられないのなら
もう遊ばせません、ということをよく言っていた。
それに反抗することなく、けじめは大事だと思って指示通りに従った。

でも、これによってわたしに植えつけられたのは、
「楽しいとか嬉しいとかそういうのは非日常的なことで、
息抜きとしてはたまにはいいだろう。でも、それは本当はダメなことで、
我慢が大事なんだ(不快は本当は耐えていくべきものなのよ)。」
という考え方だった。


その部分を、母はわたしに強く植えつけた。


「自分」「自分自身」というテーマだけでなく、
この「快や不快」というテーマそのものにも、
ブレーキがかかっていることに気づく。

ブレーキがかかっている、というのは、
完全に思考停止している状態。

それもまた当然だ、と思った。というのも、
「不快は耐えるものだ」という刷りこみから
はじまっているのだから、そこにそれ以上、
考える余地が奪われている。

だから、自問と同様、
快や不快について考えているようでいても、
たとえ不快年表を作成し、なんとかしようとあがいても、
その根底にあるこの「不快は耐えるものだ」という根強い調教を
あばいていかないことには、それも「ごっこ」にすぎない。



「わたしは自分自身に関心なんてないんじゃないだろうか?」


「別に自分が我慢すればいいんじゃないだろうか?」



この声の正体は、何か?


誰か。


父の声、母の声だったんじゃないか?

わたしはてっきり、これは自分の声だ、と
思いこんでいたけれど。


父は、口ではよく、
「自分自身が一番だよ。自分を大切にするんだよ」と言った。

母は、口ではよく、
「自分の意思を持ちなさい。自立した人間になりなさい」と言った。


でも違ったんだ。


それは口だけで、本当にわたしに伝えていたメッセージ、
植えつけていたメッセージは、まるで逆の、


「Aby、まわりを大事にしなさい」
「Aby、あなたは我慢しなきゃダメよ」


自尊心と自立を謳いながら、
実際に導いたのは「滅私奉公」だ。

Pさんにしろ、自分の今の仕事にしろ、
このメッセージに従うべく、環境づくりが進んでいったのが、
わたしの成人後の人生だった。


「わたしは自分自身に関心なんてないんじゃないだろうか?」
「別に自分が我慢すればいいんじゃないだろうか?」


危機一髪のところだった。
これって、もうすぐで「自我復元なんてやめちゃえばいいんじゃない?」
という、悪魔のささやきだった。もちろん今だって、このAC人格ののさばりを許さず、
そもそもコイツの出番を作ってしまった不安の温床を掘り進めて、
洗脳に至った原因を究明しようとしている真っ只中だけれど、
分割自我復元法のことを知ったちょうど一年前、
その段階でもこの悪魔が口を出してきたのは事実だ。

今思うと、それこそAC人格の罠だが、
「自我復元作業をはじめてしまったら、もう、
後戻りできないかもしれない。それでもいいのか?」という妄想もあった。
今の生活、今の仕事、今のパートナー関係を維持していけば
それでいいんじゃないか、と。

もしもそこでやめていたら、以後死ぬまで、
自分の意思なのか?それとも他人の意思なのか?
違和感ばかりで、その気持ち悪さを誤魔化しつつ、
「これでいいんだ」と思いこみ、またそう言ってくれる人を
自分のまわりにかためては、「やっぱりこれでいいんだ」と保身し、
利他的な仕事をしている、と思いこんでは、結局は、
父と母から植えつけられた自己否定の感情と同じものを、
今度はわたしが加害者となって、まわりの人に植えつけ、
連鎖させていったであろうことが、不快年表のなかで
繰り返されるパターンを見ていても想像できる。

いや、もうそれはすでに3年前からは、
100%の加害性をもって、猛毒をふりまいていた。


・・・


わたしはある時期にいる女性、ある特定の状況にある女性を
ターゲットに内職を続けているが、どうしてこの状況にある人々を
ターゲットに選んだのかがわかってきた。


その状況にある人の特徴は、

・自分のことをなかなか考える余裕がなく、まわりの目が気になっている。
・自分が我慢すればいい。なんとか自分一人で対処しよう。


社会状況が手伝って、その女性の多くは、しばしば
こういう心理に陥りやすい。


ここで、わたしは、
まさに父や母と同じことを言うのだ。


「自分が大事ですからね。ご自分を大事にされてくださいね」
「一人の女性として、自分の意思を持って、それを表現していいんですよ」

と。

しかし同時に、わたしはそれと逆のメッセージを
それと気づかれないように植えつけていた。


「・・・とはいっても、まわりの目は気になっちゃうものですよね。
自分のことを考えていいよって言われても、頭ではわかっていても
なかなかできないですよ。みんなそうですよ。おかしくなんてないです」

と言いながら、「ダメでいい」という父の自己否定を連鎖、
相手に植えつけて、加害した。


「・・・とはいっても、自分の意思って何だろうってわからなくなるのも当然です。
だって、そういう社会構造なんだから。女性とはこうあるべきだ、という刷りこみって
大きいですよね。だから、自分の感情や考えを表に出せないのはしかたがないです」

と言いながら、「感情は押し殺せ」という母の自己否定を連鎖、
相手に植えつけて、加害した。


口では反対のことを言っておきながら、
そういう状況にない相手をまず不安にさせておいて、
「自分のことをなかなか考える余裕がなく、まわりの目が気になっている」
「自分が我慢すればいい。なんとか自分一人で対処しよう」
という状況から抜け出せないように、それでいい、と最後は
その状況にいるその人たちに「飴」を提供する。

飴をもらったその人たちは、
「そうよね、それでいいんだよね。悩んで当然だよね」
といって、帰っていく・・・

わたしがやっていることは、毒親とまったく同じ方法だった。
植えつけている自己否定の内容も同じならば、
口だけの理想像も同じならば、不安のままにさせておきながら、
自己否定を埋めこむ方向へと誘導し、悩んで当然だよね、と
自己否定感覚をも麻痺させるために「飴(=ねぎらい)」でしめくくる。

こういう洗脳ができやす状況にいる人をターゲットに選び、
それも上手い具合にわたしの苦手な分野は避けて、
しかも、滅私奉公AC人格の保身に最適な環境を整えた。

この一連の環境整備を、わたしはまったく無自覚に行っていた。
おそらく父や母が無自覚にわたしを洗脳したように。
どこを輪切りにしても、同じ構造が見えた。

毒人間の連鎖だった。


・・・


「わたしは自分自身に関心なんてないんじゃないだろうか?」

「別に自分が我慢すればいいんじゃないだろうか?」


この声は、自我復元をはじめてからも強く機能し続けた。
どう機能し続けたか、というと、
「そのように思ったり、感じたりしてはいけないのだ。
そういうふうに思ったりしたら、全自我に戻れないぞ」という脅しとして。

そうすると、わたしはこわくなって、この声自体を消そう、
この声から目をそらそう、そんなことはない、わたしは本気なんだ、と叫び、
叫びが通じないと、泣き落としのように取り乱した。

この状態にいるわたしこそ、AC人格そのもので
「こんな自分でもいいですか」と媚びる。


なぜ、そもそもわたしは、この声から
目をそらさなけばならなかったのだろうか。


それは悪魔の手口だった。


「わたしは自分自身に関心なんてないんじゃないだろうか?」
「別に自分が我慢すればいいんじゃないだろうか?」
という声を、わたしのなかに生じさせて、
不快を起こさせ(目をそらさせ)、
「そんなことない」というふうに思いこめるようなものに
こじつけでもなんでもいいから誘導し、
実は、これらの声そのものに目を向けさせないようにすることで、
わたしに埋めこんだ両親の自己否定を「そのままに」させておこう、
という手口。


わたしのことをダメだの、ダメでいいだの、
父がわたしに言う資格なんてない。

わたしの感情を押し殺せだの、快は悪いだ、不快を耐えろだの、
母がわたしに言う資格も、ぜんぜん、ない!


2013.12.08
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-08 23:59 | 復元ノート 1

(3) 母の調教

「(2) 母の調教」の続きです。 


・・・


「後悔とかコンプレックスとか、そういうのが
見えてこないAbyに興味を持った」

というのが、Pさんがわたしに関心を持った理由だ。

Pさんは、感情をおもむろに出すのは、格好悪いと思っている。
感情があっても、それをコントロールでき、いざ対人関係では
さらりと平然と対処するのがクールで、理想的な人間だと考えている。

どうしてそこまでの執着を持つに至ったかはわからないのだが、
感情をストレートに出すこと、出す人に対しては、
どこか軽蔑しているところがあるのは確かだ。

同時にPさんは、自分のなかに抱え持っている恨みの感情や嫉妬、
コンプレックスや後悔の気持ちに対して、いつもそれを必死に隠そうとする。
感情を押し殺せないのは稚拙だ、と考えているところがあって、
つねに「平然といられること」「感情が揺れ動かないこと」がいい、
と思いこんでいる。

それがいい、と思いこんでいるだけで、
Pさん本人はむしろ感情的で、
自分の気持ちを制御するのが苦手だ。
これもわたしの母にそっくり。

感情に焦点をあてて見ていけば見ていくほど、
金太郎飴みたいに「母と同じ顔」が見えてくる。


わたしは母と同じような人、
母と同じような自己否定感情を持った人を見つけた。


偶然に。無自覚に。


そしてこの人には「わたしが必要なんだ」と、
何の根拠もないのに思ってしまった。
占いや運命をまったく信じていないようなわたしが、
運命だと思ったほどだった。
わたしはPさんを見ていると、もどかしくてしかたがなかった。
もっと思ったこと、感じたことを発揮したらいいのに、
押し殺す必要なんてないのに!
そうしたら、もっとPさんはPさんらしくあれるのに!
どうして気持ちを押し殺すの、こうしたい、というのがあるのなら
やればいいよ!!って。

今思えば、わたし本人がまったくそうじゃないのに、
他人にはこんなことを言っていること自体、正気の沙汰じゃない。
バッチリ、調教由来の考え方に洗脳されている。
・・・きっと、そんなふうに言ってほしかったのは、「母」なのだ。
自分の母親からそう言ってもらいたかったのに、言ってくれなかった・・・

「〇〇を習いたかったのにやらせてくれなかった。
△△もやりたかったのにダメって。わたしの気持ちなんか、
一切耳をかさなかった。」と、先日も電話で母が嘆いていた。
感情をないがしろにされ、ずっと我慢してきたんだ、と。


母の監視役のごとく、Pさんに切り替わった。


「Aby、感情は押し殺しなさい。
わたしも許されなかったのだから、あなたにも許さない」


母の声がきこえてくるようだ。


わたしがPさんに抱いた不快は当初どうだったかといえば、
「こうしたい」とわたしが言えば「いやだ」、
「こうしたくない」とわたしが言えば「いやだ」、と
なんでもかんでも否定されたことだった。
毎回毎回、嫌がらせとしか思えなかった。

たまに「いいよ」ということがあっても、それでなにか問題があれば、
「Abyのせいだ」とわたしを責めたし、たとえ上手くいったようなことがあっても
「別にこんなのはたいしたことない」と過小評価、というより、無視した。

それはとても不快で、しばしば口論になったけれど、
「うるさい」「もう話したくない」と、Pさんが感情的になった段階で
わたしがひいてしまった。なんとか説得しようとしても、最後にPさんが
「いやだ」と感情に訴えかければ、もう、どうしようもなくなって、
聞きいれてしまった。

「他人の気持ちを察しなさい。でもあなたは我慢しなさい」
という母による調教由来の行動を無自覚にとって、
自分を裏切ってしまっていた。

母からすれば、自分を傷つけた実の母親をわたしと重ね合わせ、
Pさんがわめき散らしてAbyを困らせ、
自分の母親と違って「聞きいれ、屈する」人間に育てあげたことで、
代理復讐をはたしたのではないだろうか、と考えてみると納得がいく。
泣きわめき、それでも自分を見捨てて家を出た母親を
母はずっと恨んでいたのだから。

「Pさんを大事にするのよ。やさしくね(・・・いい気味だ)」

と無自覚に思ったに違いない。

表面的には、「Abyには同じ思いをさせたくない」と言う。
結局それは、自分と同じ思いをして生きろ、ということを言っている。


母はわたしにPさんをあてがうことで、
「感情を押し殺せ」という命令の継続を可能にした。
「どうしていいかわからない」「本当にこれでいいんだろうか?」
という不安はそのままに放置され、不安を住処に、
「これでいいんだ」というAC・調教人格がやりたい放題、顔を出す。


幼児期だけでなく、小学生になってからも先生をあてがい、
中学、高校、大学と、そっくりあてがったうえに、
Pさんもあてがい、わたしを監視し、見事、両親は
代理復讐をはたした、という流れが
ようやく見えてきた。


・・・


保育の連絡ノートに書かれた保育者からのコメントに
母が苛立ちを感じたのは、おそらく、

「子どもらしい子どもを嫌ったから」

であり、したいことをし、したくないことをしないような子は
「このバカタレめ」と思ったらしい。

実際、わたしがそういう「子どもらしい」行動をしたら、
わたしにも「バカタレめ。あのバカたちと同じだ。
やりたいことをして、やりたくないことはしないなんて
世の中通用すると思うなよ」と言い聞かせた、ということだった。

そして母はなにより、そういう子どもらしい子どもを
「子どもらしくていいわね」なんていう親や保育者をなにより軽蔑していた
(・・・書いていて思ったが、Pさんも同じように考えている。)


母は子どものなかにある感情を「否定」していたから、
おそらく、子どもはただのバカだ、何も知らない、というところから
すべてがスタートしている。まずは、


「我慢を教えなきゃ」


というところから調教が始まる。

何かやりたいことをやっているところへ、
「やめなさい」と言ってくる。
子どもからすれば、やりたいことをやるのが普通だから、
どうして否定されているのか、まったくわからない。

わたしは、どうしていいかわからなくなる。


同様、やりたくないからやらないでいるとすると、
「やりなさい」と言ってくる。
子どもからすればやりたくなければやらないのが普通だから、
どうして否定されているのか、まったくわからない。

わたしは、どうしていいかわからなくなる。


そこで、「ああしなさい、こうしなさい」と命令、指示が飛んでくる。
その指示に従えば「それでいい」という〝実感がないOK〟が得られる。
OKと言われたから、OKみたいな。自分でOKとか何も思っていない。
でも従えば、母の気分がよくなる。
「よしそれでいい」という承認(=飴)が待っている。
間髪いれずに飴の約束された指示が飛んでくるから、
「どうしていいのかわからない」という不快も、
〝急激に〟麻痺していく。

実際、当時の感情を思い出そうとしても、
「不快の記憶」が思い出せない。
事実関係も出てこない。

あくまでも、これは母の調教を分析してみたうえでの推測だけれど、
観察と聞き取りからこう考えてみると、
不快が即座に消去され、麻痺し、不快の記憶が残りにくく、
命令や依頼といった指示に依存し、〝実感がないOK〟に依存してきた
わたしの行動パターンや、そこから作り出されたAC人格の様々な挙動
(不安に陥れる手口)が少しずつ理解できてくる。

子どもに何かを教えるときに手っ取り早いのが、
不安にさせることで、したいことをさせない、したくないことをさせる、
という我慢を自立と称して徹底させることは、効果抜群だったろう。
100%、これでいいのかと不安になるからだ。

そこで鞭を与えず、むしろ鞭は(父の場合も同じだったが)、
他者へのみせしめという架空の恐怖を植えつけることで済ませ、
子ども本人には指示を与え、その通りさせるべき飴をやって誘導する、
というのは、「そこから抜け出さそうと考えないようにさせる」という意味でも、
巧妙な洗脳だったのではないか?


どうしたらいいんだろうか?
本当にこれでいいんだろうか?


こういった漠然とした不安の原風景のようなものが
幼少期の母との関係にあるように思う。


・・・


大学に入学してからは、
当然そこには「指示」はなかった。

わたしは自立した、と思ったわけだけれど、
前にも書いた通り、おじろく満期、ということで、
母と父に尽くす時間を終えた、というだけだった。

残されたのは不安ばかりで、
「どうしたらいいんだろう」「何をすればいいんだろう」
「これでいいんだろうか」「間違ってはいないだろうか」
を繰り返した。

浅はかにもわたしは、これは哲学的な問いだと錯覚し、
哲学や思想に関する本にも興味を持った。
当然これは、わたしの意思、自立の証と思いこんでいたが、
そうでなく、不安なまま放置されたわたしが、
なんとか不安を麻痺させようと、「こうすればいい」という
次なる指示を探しあさっていただけだった。

どんなものに自己同化しても、
時間がたてば不安になる。
不安になれなければ、わざわざ不安となるような問いを
自ら作り出す。何の根拠もない思いこみを捏造する。
毒親の思うつぼで、不安になりさえすればなんでもいい、
という行動パターンを、むしろ、論理的かつ哲学的と誤認した。

どんなものに自己同化しても、
時間がたてば不安になる、というなか、また、
大学生生活やバイトでのトラブルが重なったとき、
そこにいたのが、Pさんだった。

わたしにとってPさんは、すがるべき「指示」だった。
母があてがった、ということを考えると、
まさに指示そのものだった。

Pさんとの20年近くの歳月を振り返ってみると、
いかにわたしが感情を根絶していくか、という
ストーリーの骨子が見えてくる。
母による代理復讐という視点が
それを浮かび上がらせた。

何度かブログにも書いてきたことだけれど、
Pさんと話していると、ふと、わたしがテープレコーダーに
なったような気がして、そのときは違和感だけが目立つ。
これっていったい何だろう、と思ったら、無自覚に
「わたしが完全に感情を押し殺している状態だ」、
ということに気づいた。

なぜそうしているか、というと、その状態をPさんがわたしに
無言で求めているからであり、それに従うと、Pさんから
「OK」の承認が出るからで、わたしが我慢さえすれば、
Pさんが「それでいい」と言うことが約束されているのを、
わたしの中のAC人格が知り尽くしているからだった。
(Pさんとの衝突を幾度も経て20年近くかけてだが。)

滅私奉公、とはこれそのものだ。

「誰かのために何かをするのが好き」なのではなく、
「誰かからのお願い」を指示と思いこんでの指示依存AC人格が、
そう錯覚をさせて、わたしを滅私奉公へと誘導している。

こういったプロセスを、わたしが子どもであることを利用し、
短期間で効率的にやったのが、
わたしの母だった。

逆にいえば、

20年かかろうがもっとかかろうが、
感情のふたの重石をどけるなど
絶対に許さない監視を
母は今もしつこく続けている、
ということになる。


・・・


感情の麻痺という意味では、もちろん、
父の影響も多大にある。

たとえば、父はすぐに


「わからない」

「しかたがない」


ということをよく言っていた。

知らず知らずのうちに、わたしも困ったら
わからない、しかたがない、と言う癖がついている。


結果、どういうことになるか、というと、
わからない、と済ましてしまうことで、
「したいことがあっても、したい」と言えなくなる。

また、

しかたがない、と済ましてしまうことで、
「したくないことがあっても、したくない」と言えなくなる。


それが身についてしまうと、自分が困ったり、不快に感じたときの
逃げ道として、それを口実にしてしまう。
「したいことがあってもしたいと言えないこともある。
したくないことがあってもしたくないと言えないこともある」と。

こういう考え方に屈してしまうと、我慢が当たり前になってしまうので、
自分で自分の不快をなかったことにしてしまう。
麻痺させて、打ち消そうとしてしまう。
不快が麻痺していく過程そのものだ。

しかも、わからない、しかたがない、という決定は、
自己責任をおわない、間違うことはない、と思っているから
そう思いこめているうちは、AC人格にとっては都合がいい。
(死後、それこそ間違いだった、と気づいては遅い!!)

自分の存在なんて無価値だ、という父の自己否定感情が、
無自覚にわたしにもコピーされていて、自分の意思も意見もなく、
「わからない」「しかたがない」で済まそうとしていたことを思うとゾッとする。
それこそ死後、それが大間違いだったことに気づいても、もう遅い。

わたしに植え付けたものは、母と父で違うものかもしれないが、
結果として、「無力化させ主体性を奪うことに成功した」という点では、
共犯による調教であり、母も父に劣らず猛毒母だった。

本当の意味でわたしの自立を
絶対に許さなかったのが、母だ。


・・・


おもに母の代理復讐ということと、
Pさんとの出会いがどう調教と関連しているのか?という部分が、
不透明なまま保留となっていたのが気になっていた。

父の調教との関連をしばらく分析していて、
どうもそれだけでないような気がしてならず、
母の調教を掘り下げたくて、今回は母に電話で
話をきくことにした。

その後、整理していくうちに

桜の間の記事
「無力感と自己否定を感染コピーさせる毒親」
http://www.mumyouan.com/k/?S163

を思い出し、代理復讐としてPさんをあてがったのではないか、
という可能性について考えてみたのが、今回(1)から(3)の投稿です。


・・・


まったく違う話になってしまうのですが、

夜中におねかがすく、という癖があって、
きまって寝てから「2時間」たつと、とりあえずおなかがすいて起きる。
最近は妙にそれがコンスタントに起こった。

トイレにも行きたくなる。

もぐもぐ食べると、安心して眠れるし、
トイレにも行ってスッキリ。

身体にはあまりよくないとは思うけど、
まあいいか、とスルーしていたのですが、
先日それで目覚めたとき、


何か、おかしい・・・


と思った。


どんなことが今起こっていたのだ??


すると、驚いたことに、おそらく眠りが浅くなったときに
「これでいいんだろうか?」というあの漠然とした不安が
スッとよぎった。

まさか・・・、と思ったが、そのまさかで、
「トイレに行って、チョコレートを食べて安心」という
そんなくだらない快で、この不安を消そうとしていた自分に気づいた。
この不安自体は、寝ていても自動的に発動するらしい。

しつこすぎる

それから2日間くらいしかまだ経っていないけど、
2時間後に目が覚めたとき、それを意識化することにしたら、
次の日からなぜか、途中で目が覚めなくなった。
といってもまだ2日間ほどしか経っていないので
これからどう出てくるかわからないのですが・・・

それは経過観察するとして、これは注意しなきゃ、と思ったのは、
自動的に得ている「快」の裏に、不快があるかもしれない、
そう疑ってかからないと、不快を見逃すかもしれない、
ということ。

わたしは歌を歌うのが好きで、
無意識に口ずさんでいることがある。

よーーーーく考えてみると、こういう時って
たいてい、直前にちょっと我慢していた何かがあることが多かった。
でも、それはかなり弱い信号のときだから気づきにくく、
「わたしは歌が好きだから」と、疑いなく、その快に
身をゆだねてしまう。

その時こそ、かなりアヤシイ。

だいたい、自動的な快、って
不自然じゃないか??

不快時にそこに潜む「実体のない不安」をあばく、という作業と同時に、
こういった自動的な快の裏に潜む「隠された不快」にもアンテナを向けて、
AC人格ののさばりを許さない作業を続けたい。


◇ ◇ ◇


「分割自我復元法の詳細」
http://mmjhb11.exblog.jp/19220808/
のページの「重要情報」のリンクを追加・更新しました。

桜の間の記事
「無明庵の年表」
http://www.mumyouan.com/k/?S285
に記載された、自我復元に関する重要記事のうち
「★印の記事」へのリンクを追加・更新してあります。


◇ ◇ ◇


2013.12.01
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-01 18:39 | 復元ノート 1

(2) 母の調教

「(1) 母の調教」の続きです。 


・・・


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」

という言葉を、母はどんな場面で言われたのだろうか?
それが気になったので、確かめたくて話をきいた。


暴力のあった家庭。
いつ、兄や母親に暴力を振るうかわからない父親。
母の母親は、兄たちを守るために、いつでも家を
飛び出していけるような態勢。
落ち着くことのできない家。
仕事も忙しくて相談もできない母親。


でも本当は父でなく、わたしの母は「母親」に甘えたかった。
母親に目を向けてほしかった。
相談もできない状況だったから、反抗期もなかったという。
それどころじゃなかった、と。
不穏な家、いつ母親が出ていってしまうかわからない状態。

そうやって家を出て行きそうになり、いつ自分が置いていかれるか、
いつ娘のわたしが見捨てられるかわからない。
急にいないことに気づく。


・・・今日は家に戻ってきた。

・・・今日はまだ帰ってこない。


どこかに行くときは、紙に書いてわたしに渡してほしい、と
頼んだことがあったみたいで、ある日、手紙が置いてあり、
「〇〇へ行きます」と書いてあったのを母は見つけ、
すぐに家を飛び出して、でももう姿は見えず、泣きわめいた。
無事帰ってきたものの、このときの不安な気持ちを母親に訴えても、
「そんなこと言われても、わたしにはわからないよ」と
話にものってもらえなかった、ということだった。

「わたしは仕事で忙しいんだから。これしかないんだから」
の一言で片づけられたことに、母は今でも強く恨んでいる。

「仕事を理由に子どもを見ない親は育児放棄だ」
と考え、そういう類の他の母親を軽蔑していたのも
この記憶が強いためだった。

いとこの両親(つまり、わたしの父の兄とその妻)は
まさにこのタイプで、いとこの不幸を母は強く望んでいたであろうし、
同い年のいとこで子どもには非がなくても、
「あんなふうになったら、うちの子じゃないから」と、あんなふう、
という実像もないまま、子どもたちに言い聞かせた。


仕事にかこつけて、娘を見捨て、兄だけをかばった母親を
わたしの母は恨んでいた。そしてなにより、母にとって
決定的だったのは、いくら泣きじゃくっても、


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」


と、感情そのものを否定されるようにして、
有無を言わさず宣告されたことだった。


こういった母の経験は、わたしに対して、
「他人の気持ちがわかるようになりなさい。察しなさい。
我慢は大事です。そして自立した大人になりなさい」という
子育て方針として、見事にあらわれている。


このエピソードを詳しくきいていくうちに、

もしかしたら、


「感情を押し殺せないのはダメだ」


と、この悲しい出来事のときに抱いただろう自己否定の感情を、
わたしに植え付けた可能性はないだろうか?


「自分なんて無価値だ」という父の自己否定の感情が
わたしにコピーされただけでなく、それとは別の、しかし、
感情の否定、という意味では非常に似た自己否定の感情を、
母からもコピーされたのではないか?


・・・


私は仕事柄、赤ちゃんと呼ばれるかなり小さい
子どもにも接することがある。

とくに赤ちゃんは、当たり前だけれど、快・不快が中心で、
「したいことはする、したくないことはしない」という行動が見て取れる。
子どもによって差はあるが、1歳後半にもなると、かなり親からの刷り込みも
影響していて、子どもによっては、まわりの空気を読もうとし、結果、
したいことも我慢し、したくないこともイヤイヤやっている場面を
たくさん目にする。

そういうふうに、まわりの目をすごく気にしている子どもは、
とりあえず「どうしていいかわからない」という顔をするし、
自分から動く、ということがなかなか出来ない。
わたし自身を見るようだが、客観的に見ると、それがよく見える。
「したいことをしている、したくないことはしていない」子どもとは
まったく違う動きをする。

観察していて気づいたことだけれど、幼い頃というのは
幼ければ幼いほど知識に頼ることがないだろうから、
今自分がどう感じているか、が行動指針になっているように見える。
逆にいえば、行動の動機の根拠が「自分の感情」しかなく、

したいことがあればそれに向かう、

したくなければ途中だろうが、なんだろうが、放り出す。

次から次へと自分の関心をコンパスにして動く。
まわりに人がいることは知っていても、行動指針に影響していることはなく、
必要があれば、まわりの人にサインを出す。
必要がなければ、すきなような、動き回る。

いたって自然に見える。

ただ、一方で、
動けない子がいる。あるいは、もう少し大きくなると、
決まったことなら動ける、という子がいる。
そういうタイプの子たちから共通して感じるのは、
「どうしたらいいのかわからない」という感情、不安だ。

指示待ちで、不安なまま思考停止している状態。

したいことをする、したくないことをしない、という
当然に認められるべき感情をそのまま行動に移せれば、
何も迷うことはなくただそうするし、むしろ邪魔されたら怒るわけだけど、
その「感情そのものをおさえなさい」と調教に成功したいた場合は、
子どもは当然ながら、何を根拠に動いていいかわからなくなる。
だから、フリーズしてしまうし、誰かの命令や指示を待つようになる。
大人になるにつれて、いくら自分の頭で考えているようであっても、
その命令や指示に従ったことによる陳腐な成功体験による知識と
自己同化(穴埋め)しているだけ、という意味では、大人になっても
指示待ち状態であることには変わらない・・・


子どもたちを観察していて、無自覚にわたし自身が
受け入れてしまっている思いこみがあることに気づいた。


「どうしたらいいのかわからない」という不安、そういった感情は、
わたしはずっと、誰にでも持っている感情で、ごく自然なことで、
だからこそ、それこそ勉強し、経験を重ねていくんだ、と、
それこそ、調教由来の考え方に染まりきっていたが、
目の前の出来事を観察していくと、そもそも、


「どうしたらいいかわからない」


という漠然した不安感、実体のないただの不安というのは、
不自然な感情ではないだろうか?ということだった。


これは自然な感情でなく、不自然な感情では?


こういう感情を持ったまま大人になると、
AC人格による麻痺がより巧妙になり、のさばりが酷くなることはあれ、
不安はそのままに放置されてしまうのではないだろうか。


このことと、わたし自身のことがリンクしたのは、
先日の電話で、母からこんな話をきいたからだ。


「わたしがとくに5歳よりも小さいくらいの頃、
どこかオロオロしていたり、どうしたらいいのか戸惑っていたりするような
そういう光景って、なかった?」

ときいて、母から予想外の答えが返ってきた。


「なかったよ」


「え?本当??」


少し黙ってから、


「・・・というかね、、、わたしはとりあえず必死だったのね。
子どもなんて生まれちゃった、と。なんとか一人前にしなきゃ、
自立した大人にしなきゃって。」


意味、わからない。


それで、もう少しわかりやすく、と思って


「んー、たとえば、何か買ったりするでしょ。どっちにしようかな、とかさ。
それは簡単すぎる例けど、たとえば他に、公園いくかいかないかとか、
どっちにする、と言われて、モゾモゾみたいなことはなかったかな?」


きっと、言いにくかったのだろう。
「だからね」と言い出しにくそうに話し始めた。


「だからね、どっちにする、なんてきいたこともなかったよ。
Abyに選ばせなかった。こうしなさい、と言うだけだった」

と。


そこまでだったか・・・と、事実を知って驚いたけど、
どこががいろいろつながってきた。


「Abyはね、こうしなさい、と言ったことに対して、
逆らったこともなかった。いい子だったのよね。
わたしは、なんとか子どもに正しいことを教えないといけない、
ダメなことはダメといわなきゃいけない、そう思っていたから、
自由奔放にしている親を見ると、イライラしてしかたがなかった。
なんでダメなことをダメと言えないんだろう、叱ることも
できないんだろう、と。だからわたしは、そういう親にはならないと思って、
厳しく育てたし、たくさん我慢をさせた。
おなかがすいた、とAbyが言っても、我慢しなさいともよく言った。
おなかがすいたって言えば自動的に出てくるわけじゃないのだから。
こっちは疲れているんだし、女中じゃなんだから」


母の話をきいているうちにわかったことは、
「したいことを我慢し、したくないこともできるようになる」のが
どうやら自立の定義らしかった。
文句が言いたいことがあっても、それをぐっとこらえられる人間こそ、
自立した人間だ、という思いこみが母にあった。

「喜怒哀楽の感情は、表に出してはいけない。
あくまでも対人に対しては平然と振舞える大人。
そういう自立した人間に育てなきゃ、という思いで精一杯だった」

と、そんな話も先日きくことができた。
そういうスタンス自体は、今でも間違っていなかった、と母は思っている。
ただ、少し厳しすぎたかな、という程度で。
ふと思い出したが、父がわたしの妹に対して、
「鏡を見てごらん。あなたは世界一美人なんだよ。だから
怒ったりしてはダメだよ。相手を不愉快にさせてしまうからね。
それくらい、あなたは素敵な女性なんだってことを自覚しなさい」
という調教と、実質的には変わらない。


感情を表に出してはいけない。

感情は押し殺せなけばならない。


おじろくとして育った父だけじゃない。
いや、むしろ父は仕事をしている時間もあったし、
格言という言葉の影響を与えるには、比較的、
大きくなってからだろうから、
母による調教の影響は、もっと強い可能性が高い、と思った。

「0歳の頃から、子どもとしては見ていなかった。
自立した一人の人間として見ていた」と言うくらいの母だから、
言語レベル以前に、強い影響をわたしに与えていたに違いない。


「自分にはどうして喜怒哀楽がない、と思っているんだろう」
とわたしが思いこむのも、これでは当然だ。


どういう感情が不自然もなにも、
生じて当然な子どもらしい感情が起こらず、
当時の感情そのものを「覚えていない」こと自体、
これは相当不自然なのではないか?


わたしはそもそも泣いた記憶が、ほとんど、ない。
わたしが忘れているだけだ、と思っていた。
だいたい、泣かない子なんていない。
そう思っていた。
ところが、まさかと思って母にきいた。

「Abyは泣かなかったよ。うん、泣かなかった」


とりわけ5歳までの記憶が思い出せないのも、
感情とリンクしている出来事がほとんどない。

鮮明なものは、不快年表にもあるが、今のところ、
たった2つ。泣いた記憶の2つだ。

それは、親に何かを伝えたかったけど、少し時間がたってしまって
忘れてしまったことがショックで、泣いたこと。
親に抱っこしてあやしてもらったと記憶しているが、
なぜか、この「思い出せなかった」ことが、相当、嫌だったららしく、
このことを覚えている。
このことはなぜ覚えているのか、わからない。

もう一つは、今のところ最古の記憶で、
たぶん4歳頃だろう、当時(インターネットで調べてようやくわかった)
「レッドタイガー」というヒーローがいて、後楽園遊園地で
おそらくショーを見たことがあって、帰りにポスターやお面を
買ったのだろう。その当時住んでいた家の他のことは
ほとんど覚えていないのに、そのポスターが貼ってあった場所も
覚えているほどだ。

というのも、わたしは、そのお面を母に「破られた」ことがあり、
大泣きした。「なんてことしてくれたんだー!」というショックだった。
わたしはレッドタイガーが本当に好きだったから、
この世の終わりくらいの泣き方をしたのだと思う。
たぶんわたしが悪さをしたか、言うことをきかなかったかだろうが、
それはないだろう、という思いだったろう。
おそらくその時に涙を浮かべてながめていたのが、
そのポスター、破られていない等身大のポスターだったんだ。

お面を破られた話を母にしたら、
「そういうこともあったけ」と覚えていなかった。
ただ、それを話したときに、わたしが小学生の頃のエピソードを
ひとつ、母が話した。

それは、毎日やることになっていたドリルを、わたしがおそらく
やりたくなかったのだろう、一日さぼってしまったとき、
母が「そんなんなら、もうやらなくていい」とビリビリに破いて、
その時、わたしは「なんてことしてくれたんだー!」と大泣きして、
一人でセロハンテープで貼り合わせていた、という。
母はこのときの、わたしの嘆きようが印象に残っているようで、
わたし自身は、忘れかけているのだけれど、
母はこのことが強く印象に残っている、ということだった。

その話をきいて、わたしは、
「きっとお面の出来事と重なったんだ」と思った。
たしか、お面もセロハンテープで貼り合わせていた気がする。
わたしにとってはお面事件は、相当悲しかったらしく、
不快年表でもまっさきにあがったものだった。

それで、はっと思ったのは、わたしにしても母にしても
わたしが感情的になった出来事は、実は、ほとんどないようだ、
ということだった。それには驚いた。
わたしは子どもというのは、つねに感情的なものだ、と思っていたから、
わたしのイヤイヤ期はどんなだったか、どれほどてこずらせたか、
という話を期待していたのに、今回も、

「そもそもAbyはね、そういうことがなかったよ」

と母が言うのをきいて、それは嘘だろ、と最初は思った。

でも、ここで母が嘘を言う理由もないし、わたしと母の記憶を重ね合わせても、
酷く感情が麻痺したような子ども時代であったことは、明白だった。
今でも母は、わたしのその無感情ぶりを決しておかしいことでなく、
「Abyは、小さい頃から自立していた」と思いこんでいる。
「それに比べ、一番下の子は甘やかしすぎちゃって、いやなときはいや、
好き勝手なことをする子に育っちゃったよ。失敗した」と言っているところを見ると、
どうやら、母にとっての自立とは、「我慢」のこと以外、何ものでもなかった。


・・・だんだん、母の、自分の母親との確執の内容と、
いろいろなパーツがつながってきた。


泣き喚いても戻ってきてくれなかった母。
高校生の頃、結局は、母親は兄たちを連れて、夫からの
暴力から逃げるように、出て行った。
娘と夫を置いて、娘を見捨てた。

母は泣いても泣いても、
「わたしにはね、人の心とか感情なんてわからないんだよ」
と言われて、話もきいてくれず、兄たちからは
「泣いてばかりで自立できない、ダメなやつ」と侮蔑された。

母の母親は、その兄の味方をしたのだ。

母はきっと、感情を自制できず、これを自立できていないことと
思いこみ、「感情を押し殺せない自分はダメだ」と自己否定に
至ったのではないだろうか。だからわたしは母に捨てられたのだ、
とさえ思っている可能性がある。


「感情を押し殺しなさい」


今わたしが日々漠然とぶちあたる不安、しかし、どこから来るかわからない
この「どうしたらいいのかわからない」という実体のない不安が、
もしかしたら、母のこの自己否定感情が、コピーされたことにも
起因しているのではないだろうか?

選択の余地も与えず、マシンガンのように
「こうしなさい、ああしなさい」と命令だけ、間髪いれず、
わたしの反応なんか完全無視して与えて続けていたのであれば、
そこに自主性など、根こそぎ、奪われるにきまっている。
「感じて動く」という行為を、全否定されるようなものだ。


したいことは我慢するように!

したくないことはできるように!


感じた通り動くな!と言っているのと同じだ。

そこで混乱する。

子どもを不安にさせさえすれば、やりたい放題。

毒親が子どもに歩かせたい方向に指をさす。

「あっちへ行きなさい」

従う。

それでいい。

これでおしまいだ。


「ほめるってことも、あまりなかったね。
それでいい、って感じくらいで。それにAbyは逆らわなかったから、
叱ることもほとんどなかった」と、母が言うとおりだったのだ。


母の言う「いい子」とは、無感情で、何があっても
「平気な顔」でいられる子のことだ。
しかもそれを自分で制御できる子。


「わたしは困っていない。平気、大丈夫」
「自分でなんとかする。相談してはいけない」


こういったAC人格の行動も、強く母からの影響が見られる。
教えて、なんて言ってはならない。それに、教えてもらうような状況、
相談するような状況になってはダメなのだ。なぜなら、
母からすればAbyはつねに「自立しているはずだから」。


平然としていられる人でありなさい。


プールで溺れて水の恐怖を感じ、
「こわい」と思いながらも、わざと水の中で宙返りするなど何度も繰り返し、
「こわい」と感じてしまうのはいけないんだ、こわくない、こわくない、と
自分の感情を否定し、しかもそれは、自分ひとりで、誰にも相談することなく、
大丈夫にならないといけない。


こんなところまで、母の調教は浸透したのだと思った。

ここまででも随分酷いが、母の代理復讐はここで終わらない。

大学に入学し、わたしはPさんと出会う。

わたしが選んだ人だ、と思っていたけれど、
母のその自己否定の感情を分析してみて、はっと思った。

同じような人、知っている。

Pさん・・・だ。

Pさんも、母に「あてがわれた」??


 ・・・ 「(3) 母の調教」に続きます。



2013.12.01
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-01 18:39 | 復元ノート 1

(1) 母の調教

「教えて」

というわたし自身の言葉で、目が覚めた。

小学校の夢を見た。

といっても、わたしはもう大人で、卒業以来、はじめて
校舎を訪れた。夢のなかで。

そこにいたわたしはどこか大人でもあり、
当時のわたしでもあった。

大人でもあった、と思うのは、観察視点が今のわたしで、
「小学校の校舎に入れたんだ、記憶をたどろう」という、
トラウマ掘りの動機がわたしにあったし、同時に、わたしの姿は、
どこか、子どもの頃の写真のわたしでもあった。


わたしはいろいろと校舎を眺めている。
グラウンドの様子や、通路、遊具・・・

気がついたら、ある一室で、みんなが何かをしている。
昔にはなかった教室のようで、パソコンなど機器がたくさんあり、
今風の実験室のようでもあり、視聴覚室のようでもあった。


「どうしてまだやってないの?」


そう言われて、はっと気づく。
みんなは着々と何か作業をしていて、
わたしはその間、はぐれていたのだろうか、
わたしだけが、みんながすませている作業を
していないようだった。


(どうして教えてくれなかったんだろう?・・)


そう感じたかどうか定かではないが、おそらくそう感じていただろう、
と思ったのは、目が覚めたとき、

「教えて」

と大人か子どもかわからないけど、
はっきりわたしが言ったからだ。


「教えてほしい」なんて、学校の先生にも親にも
言ったことがなかった。

いつだったろう、いずれも小学生前後だと思うが、
遠足か何かで、はぐれてしまったことがある。


あれ?みんないない。


不安でしかたがなかったけど、そう、確か、このとき感じた感覚で
一番近い感覚が、「どうして教えてくれなかったんだろう」だったような、
今になって、そういう感覚を思い出した。
はぐれたわたしが悪い、とも思わなかった。
といって、なんで声をかけてくれなかったんだろう、教えてくれなかったの、と、
誰かにきく、という選択肢もなかったと思う。
ただ、不安だった。


先日、小学校の通信簿を探しあて、
行動欄に書かれた担任の先生からのコメントを読んでみた。


小学校低学年の頃は、

「もっと自分から」
「もっと自主性をもって」
「もっと積極的に」

と、主体性の欠如が指摘されている。
ソフトな言い方では、「活発さに欠ける」とも表現されている。

低学年の頃の担任の先生は、
「I先生」という人だった。

I先生の評価に対して、わたしの母と父は、
「あの先生はよくなかった。Abyのことをちゃんと見ていない。
いい加減なことばっかりいっていたなあ。でもよかったよね、
中学年から高学年は、Y先生になって。Y先生は素晴らしい先生だった」と
昔からよく話していて、わたしも何度もきかされた。


わたしはそれを鵜呑みにしていた。

「I先生はダメな先生で、Y先生は素晴らしい先生なんだ」と。


中学生の作文が出てきたので読んでみると、
その洗脳のされ方は徹底されていた。
Y先生は、それこそ父が好きそうな「格言好き」な人で、
「結果、自然に至る」といった言葉も、Y先生からわたしは教わり、
父もこの言葉を好んだ。

そしてその作文には、
「中学校生活でも、結果自然に至る、といった言葉を胸に、
小学生の頃に学んだことを応用して、充実した学校生活をおくりたい」

といったことを、まるで自分の意思かのように書いている。
いくつか残っている作文を読んでみたが、読書感想文含め、
今見ると、どこにも自分の言葉があるように思えない。
誰かからきいたことを、予定調和的にテーマにあわせて書いているだけ。
とりわけ、感情に関しては、無感情で、
喜怒哀楽というものが感じられない。

それは成人になっても、
「どうしてわたしは、喜怒哀楽がない、と思っているんだろう・・・」と
何度も思ったし、今もそう思いこんでいる。
喜怒哀楽自体がない、というより、ないと思いこんでいる、
といったほうが、どこかしっくりくる。


そのY先生というのは、通信簿などでも
わたしの行動をどう評価していたかというと、

「指示されたことをしっかりこなします」
「たいへん努力をしています」
「(親へのメッセージとして)お子さんを励ましてあげてください」

まさに、わたしの両親の調教方針とぴったりの先生だった。
わたしもこの先生は素晴らしい先生だったと、
大人になってもずっと尊敬していた人の一人だった。


Y先生をあてがったのも、わたしの両親だったのか・・・


Pさんをあてがったのも、実は母だったのではないか、と
今になっては思うが(これについては、後述)、Y先生もそうだった。
両親があてがった人だった。
こう考えてみると、中学、高校の校風も、他校と比べることがなかったから
当時はわからなかったけど、部活動も含めて、あれは軍隊だった。
学校の方針、そこでは箴言と呼ばれていたが、とくに格言好きな父は、
「親に滅私奉公せよ」と自分に都合のいいように解釈しては、
「あの校長は素晴らしい人だ」とわたしに何度もきかせた。


中学から一貫教育としての6年間も、
「Abyは自分から私立に行きたい、っていったんだよね」と
思いこまされて、まんまと、親好みの学校に入学した。
いや、こういうのをあてがわれた、というのだ。

「高校を卒業したら、もう、これ以上苦しいことはないだろう」と思ったほど
しごきも当然な部活動生活を、わたしは受け入れ、我慢してしまった。
身体の隅まで、我慢が浸透していったが、それを我慢とは思わず、
わたしは「努力」だと思いこんでいたし、父もまた、それを努力と評し、
わたしを励ました。Y先生のように、わたしを励まし、持ち上げた。

高校3年の夏にもなると、部活動も引退となり
勉強に集中できた。わたしは浪人しても、
希望の大学を受験したかった。
やっと自分が自由になれたような気がして、
自分で進路を選んで、希望の大学に行きかった。


「選択肢がたくさんあるんだね。何やろうかなー!」


と、それだけで、すごく、うれしかった。
これからはなんでも自分の好きな道を歩めると思った。
今までが不自由だ、とも思っていなかったのだけれど
(そう洗脳されていただけですが・・・)
とても解放された気がして、徹夜して勉強しても
まったく苦に思わず、むしろ、自ら喜んでしていた。


ところが、自分の意思で生きていた「はず」なのに、
なかなか進路も決められない。


迷っていた頃だった。

運良く(と思っていたが、実は運悪く)、
指定校推薦の話がきたのだ。
前年までに例がない話だったので、たまたま、
そういう話が舞い込んできた。


「Abyさんは、部活動もよくやって、学校の成績もいい。
でも、範囲が決まっていないような実力テストはめっぽう弱い。
受験は厳しい。先生は、指定校推薦でAbyさんを推したい」

わたしは迷った。

・・・いや、本当は迷わなかった。
迷ってなんていなかった。断ろうと思っていた。

わたしは自分の行きたい大学に行きたいし、
学部も自分が興味のある学部に行きたい。
学校も指定され、学部も指定されているなんて、そんなの嫌だ。

この思いを両親に伝えた。

両親は「どうしてそんなもったいない判断をするのか」と、
わたしに指定校推薦を受けるように促した。

先日母が「あのときだけでも、Abyに決めさせてあげればよかった」
と言っていたが、いまさら、ふざけるな。
皮肉なことに、高校生のわたしは、当時、
「今回ばかりは、親の希望に従おう」と思ってしまったのだ。
というのも、わたしはずっと、自分の好き勝手に生きてきたと
完全に洗脳されていたからだ。まさか、母の言うように、習い事をはじめ、
それまでの選択も、「親が決めていた」など思いもよらなかった。

自分の意思を曲げたのは、大学の進路だけだ、とすら
大人になってもずっと思い続けてきたし、それも「曲げた」
というより、それこそ、親孝行だと思ってしまった。


まんまと大学の進路まで
完全にあてがわれた。


そしてその大学は、実は「父が行きたかった大学」だったようだ。
ところが、大学に行くこと自体かなわなかったらしく、
実の兄に忠実に従うべく、高校卒業後は、おじろくのごとく働いた。


わたしをその大学に行かせることで、
父の代理復讐に、まんまとひっかかった。


わたしが自分の気持ちを曲げて、父が行きたかった大学に行くことで、
それがまるで父の功績かのごとく、父はキャバクラで自慢しまくった。

「本人の努力も尊い。
しかしもっと尊いのは努力できる環境を与えることである」

というのが、父が証明したかった事だったと思う。
環境を与えてくれなかった「父の両親」への恨み。
環境を与えてくれなかった、というより、兄と比較され「存在しない人間」
同然に無視されたことに対する恨み。


どんなに努力しても、見向きもしてくれない。


父は高校生のとき、まわりからの推薦で部活動をとりまとめる役を
まかされたようで、そのエピソードは耳にたこができるほどきかされた。
「自分はやりたくなかったんだけれど、まわりがやれやれっていうから
しかたなく、ひきうけたんだ!」と、父の一番の自慢話だった。

自分にも環境さえあれば、こうなれるんだ、という
(歪んだ)成功体験だったのだろう。
個人がいくら努力したってダメなんだ、環境次第なんだ、と。

わたしに対して幼い頃から「努力、努力」と言い聞かせながら、
最後の最後は、「それができたのは、お父さんのおかげでしたー」と
一言で自分の功績に仕立て上げることができたのも、
わたしがそれを受け入れる素地そのものを、すでに洗脳済みだったからで、
(典型的なのは、誕生日になると父はこの日の意味のことを
「今日まで育ててくれてありがとう」と親に感謝する日だ、と子どもたちに教えこんだ)
わたしは、ふざけるな、などと思うはずもなく、むしろ両親に感謝した。

わたし個人の努力など、ことごとく無力化され、ないがしろにされても、
そこに違和感を抱かないほどに、わたしの中にも、
「わたし個人の努力なんて、べつに・・・」という考えが根強い。
だから当然、悔しい!とか、がんばったあー!とか、
そういう普通の感情にもブレーキがかかる、といった感じがする。

母は父のことを
「あの人は生まれてきてはいけない人だったと思う」
ということを、わたしに言ったことがある。
父も「自分は存在してはいけない人間だったんだ」と
どこかで思っている。
自分は無意味な存在だ、だから、実の両親からも
無視されてきたんだ、と。

環境が大事なんだ、と言いながら、結局父が言ってきたのは、
「お前自身は、それほど価値がないんだよ」という
自己否定の感情だったのではないだろうか?
ただ、わたしはあまりにこの感覚を普通に受け取ってきた。
「Abyは、海の大きさからすれば、水一滴にもならない。
そのくらい世界は大きいんだ。でも、その一滴がなければ
海もない」という例え話もよくわたしにきかせた。

教訓としてきかされていたけど、今考えてみれば、
ここにあるのはやはり、

「お前個人には、そもそも価値なんてない。
価値を与えるかどうかは、環境(=海)だ」

である。一滴に価値を与えている言い方をしているようで、
それは錯覚。違う。

「お酒とタバコがあれば、いつ、死んでもいい」とこれも
何度も聞き飽きた父のセリフだが、お酒とタバコ程度の自分でしかない、
ということの表明であり、馬鹿馬鹿しいと思うわけだけれど他人事じゃない。
わたしはいつからか、お酒やタバコどころか、「いつ死んでもいい」
などと考えていたのだから。
父からのこのようなセリフは、「悔いのない人生の象徴」として刷り込まれていたので、
わたしもそう思いこんでいたが、そうではなく、これはただ漠然とした、

「自分なんて無価値だ」

という自己否定の感情なのではないだろうか?

父の自己否定の感情が、わたしにそっくりコピーされた?


いつから?


いつからだろう。


・・・


I先生と似た話があった。

この夏に母からきいた話だ。

わたしは保育園に通っていて、よく連絡ノートに
「Abyちゃんは、本を読んだりして、あまり外で遊ばず、
一人で室内でおとなしいことが多いです」と書いてあったようで、
母はそれに対して、それのどこが悪いんだ、
外でお友だちと元気よく遊ぶことが、そんなにエライのか!と
二十歳ちょっとの母は同じくらいの年齢の指導的な保育者に
くってかかったという。

保育者から見えれば、I先生と同じように、
積極性にかけ、まわりと上手くやろうという意思も見られず、
といって、何か自主的に行動するわけでもない、いわゆる、
ぼけーっとした子どもに見えたと思う。
通信簿を見ていても、ズバッといってしまえば、
「ぼけーっとしていて、主体性に欠けます」という内容だ。
いいも、いやも言わない。
言われるがまま。言われなければ何もしない。

そう評価した保育園の先生や、I先生を、
父も母も非難したが、Y先生より、こちらのほうが
はるかに正確な描写だったのではないか?

今朝、起きたときの

「教えて」

は、「どうしたらいいのかわからない、教えて」の
教えて、だったのではないだろうか。
ただ「教えて」と言葉で伝えたことはなかった。
先生に「教えてください」とは言わなかった。


言えなかった。

母の教え通り、それは察するべきものだったから。


「言わなくても、相手が何を言いたいのか、何を感じているのか、
わかるような人間になりなさい。目つきや態度、言葉づかいで、察しなさい。
お母さんがAbyに対して、いつもそうしているように。」

母からこう言葉で指導された記憶はない。
しかし、母から話をきいてみると、
「徹底してAbyにはそう言い聞かせた」という。
だとすれば、他人に、「教えて」など言えるはずもない。
教えられなくても、わからないといけないのだから。
相手は何を求めているか、どんな指示をAbyに出しているのか、
教えられなくても、読み取れなくてはならない。

しかも、無自覚指示待ち人間のわたしにとっては、
それが死活問題だったから、余裕なんてどこにもない。

教えてほしい、という言葉すら知らなかった可能性もあるが、
(実際、わたしは、相談や質問といったものが、いったいどういうものなのか、
どういう意味があるのか、わからない大人になってしまった)。
目覚めたとき、「教えて」という言葉が出てきたとき思ったのは、
「小学生のわたしは、本当はこの言葉が言いたかったんじゃないか」
ということだった。


教えて、教えて、教えて・・・


と、「どうしていいかわかないで不安」な
そういう小学校生活だったのではないだろうか?


どうしていいかわからない、

本当にこれでいいんだろうか?


こういった漠然とした不安は、いつから生じたのだろう。
不安となる実体がないので、「これでいい」の「これ」がどれかも
実はわかっていない。どうしようもこうしようも、検討すべき
自分の考え、元になる素材、実体が何もない。

不安そのものはどうして生じたのだろう?
そもそも、なぜ、こういう不安が発生したのだろうか??


今年の夏に母からきいた「母の母親」に関する話で
気になっているエピソードがあった。


それは、


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」


と、自分の母親から言われたことに対して、
すごく母が怒っていることだった。
この話になると、母の恨みの感情が全面に出てくるので、
わたしはどこかひっかかっていた。


母は末の娘で、年の離れた兄ばかりがいた。
父親は暴力を振るう人で、標的は兄や妻だったという。
一方、娘(わたしの母)にだけは甘く、物もなんでも買い与え、
孫のような育て方だったようだ。

母の母親は、母の兄たちを守るべく、また自分も逃げるために、
いつ娘を置いて家を出てもおかしくない状況だったようで、
娘だった母は、母親の姿が見えなくなると、毎日のように
泣いていた、ということだった。

そういう母に対して、兄たち全員、年甲斐もなく、
「いつまでも自立できないなあ、お前は。もっと大人になれよ」と
ただ馬鹿にし、守ってくれることなど一度もなかったみたいだし、
そもそも、遊んでくれたこともなかったという。

このあたりからは、一週間ほど前、どうしても
ここは掘り進めたくて、母に電話して詳細を確認した。
以前にも、母親にもっと甘えたかった、見捨てられそうだった、
とは聞いてはいたが、どうも、まだ何かあるような気がしていた。
父の調教だけでなく、母についてももっと深く、
「わたしのこの不安」に起因する何か、を探る必要があると思った。


 ・・・ 「(2) 母の調教」に続きます。



2013.12.01
Aby



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by jh-no-no | 2013-12-01 18:32 | 復元ノート 1