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不快が麻痺していく過程

不快を感じたらすぐにメモをとる、という作業を
はじめるようにした。

メモの形状は、まずA4コピー用紙を縦半分に切って、
そうすると細長い紙が出来上がるので、今度は逆に、
横に半分、そしてさらに半分にして折る。
広げてみると、四分割された短冊形のメモ用紙ができるので、
それを、上から順に、


・時期と名称
・出来事
・感情
・考え


こうしておくと、不快年表につなげていくことができるし、
思い出した過去の不快も、短冊形のメモに記入し、
途中仮止めしたテープをはがして差しこめる。

時期と名称の欄には、
その出来事に深く関わった人、関心が強く向かった人も
一緒に記入するようにしています。

つなげていくと、巻物のようになっていくので、
全体の様子がわかりやすい。
一つの短冊が大きめなので、
長くなりすぎてしまうのがネックですが。

不快年表は、過去のことの掘り出しであるから、
現在進行形の不快を、すぐその場で貼り付けてしまうことは
ちょっと違うかな、と思っていたのですが、
まずはやってみよう、と思ってやってみると、
いくつか発見がありました。


・・・


ここ数日でも、仕事がらみで、他者との会話ややりとりのなかで、
「これは不快だ」とダイレクトに感じる出来事が、いくつもあった。


すぐに不快を記入する。


そうすると、感情欄はババッと埋まる。
「苛立ち」「理不尽さ」「困惑」・・・そういった感情に属する言葉が
乱暴な言い方になりながらも、記録される。


・ふざけんなー
・こっちが困っているんだ!
・なんでわたしがせにゃならんのよ?!
・しかたなくなんてなーーーい
・ちょっと待ってくれよ、それはないでしょ。
・ほんと、イライラするっ!


直接的な不快が10個近く、どんどん出てくる。
ただ、考えの欄は、すぐには出てこない。
だからまず、「感情のみ」、
感情欄に羅列することになる。


不快な出来事、といっても、おそらく仕事一般によくあるような話で、
今までわたしは「こういうことはよくあることだろう・・・まっ、いっか」で
済ませてしまっていたことだ。


① 約束の時間になっても連絡もないとか、
② 連絡はあっても自分勝手な言い訳だけを一方的に言ってくるとか、
③ 挙句の果てに、「これからも遅れちゃうこともあると思うんですが
  いいですか~(いいですよね?)」みたいなことを言う人。


実際、そんなことが立て続けにあった。
思えば、今までもよくあったことだった。


短冊メモをとっているとき、あれ?と思ったことがあった。
というのは、少し時間がたつと、
なぜか「考え」の欄がちょっとずつ書けてくる。


書けてくる?

・・・ん??


出てきた自分の考えを見て、かなり驚いた。


どんな「考え」が生じはじめていたかというと、


・わたしは困っていない。大丈夫。平気。
・たいしたこと、たいした我慢じゃない。
・自分でなんとかする。わたしが工夫しフォローすればいい。
・まあ、しかたないか。別にいいや。
・相手を困らせてはいけない。
・こちらを必要としているんだ。できる限りしてあげよう。
・へんな人だったな。かかわりたくないな。
・穏便に済まそう。嫌われないようにしよう。


まさにわたしのAC・被調教人格オンパレードだったのだけれど、
それ自体に驚いたのではなく、


・ふざけんなー
・こっちが困っているんだ!
・なんでわたしがせにゃならんのよ?!
・しかたなくなんてなーーーい
・ちょっと待ってくれよ、それはないでしょ。
・ほんと、イライラするっ!


という不快を、ことごとく


〝打ち消そうとする〟


わたし自身の「考え方」の働き方の
素早さに驚いた。


こうやって、不快は麻痺されていく、なかったことに
なっていくのか・・・と、リアルタイムで観察した。

感情と考えは、わずかな時間差で生じる。
ぼけっとしていると、それはほぼ同時に感じるし、
不快が麻痺してしまえば、「考え」が中心に座る。

その考えにしたがって、
とる行動を判断してしまう。


感情との矛盾にも気づかない。


不快そのものが発生したことへの自問もない。


不快年表の一つ一つの出来事でもそうだけれど、
その矛盾に「その時期の、その時点で」まったく気づいてはなかった。
むしろ、その時点では、その不快に対して
「なんとかしよう」としていて、矛盾どころか、
当然の対応をしている、がんばって対処している、と考えていた。

もちろん誰がそう考えているか、といえば、
わたしのなかのAC・被調教人格、コイツだ。
コイツからすれば、自問などしてもらっては困るわけで、
「なんとかしなきゃ、ほらほらっ!」と煽るだけ。


なんとかしたら最後・・・
不快は「なかったこと」になるにきまっている。
麻痺していくのは、当然だ。

こんなことを今さらになって、はじめて
経験として実感した。

頭ではAC人格は「我慢から生じた人格だ」と知っていても、
わたしは経験としては知らなかった。


・・・


わたしが困っているのに、
「わたしは困っていない」と考えたうえ、
「相手を困らせてしまったのではないか・・・」と不安になり
「わたしは別に大丈夫だから」と答えてしまう。

また、

相手が調整なり、考えるなりする事項にも関わらず、
「これはわたしがなんとかしなきゃ」
「なったこと、されたことは仕方がない。あとは自分次第だ」と考え、
やはり、「大丈夫ですから、わたしは・・・」と答えたうえに、
「あなたが困ると思って」とか言い始める始末。


でも本当はわたしは困っている、困ったのだから、
まったく大丈夫なんかじゃない。
相手が困るかもしれないから・・・と考えるけど、実は、
わたしが困っているだけで、相手は何ひとつ
困ってなどいなかったりする。


そういう場面は今までも、沢山、あった。


その都度、「わたしが」、困っていた。


なのに、何度も何度も困るに困り、
無自覚に我慢を重ねる。


だから、どこかで、きまって(まわりから見れば突然に)
「いい加減にしてほしいっ!!」と逆ギレの感情が沸き起こり、

〝あなたが間違ってる!〟と相手にキレたり、
〝(あなたは間違っている人だから)しかたない〟と相手をさげすんだり、
それが通用しなそうな相手、逆にキレられそうな相手だったり、
何をするかわからないようなヤツだったりすれば、
あらぬ不安を妄想し、逃げる。自分を見捨ててしまう。


 キレる

 さげすむ

 逃げる


わたしのAC・調教人格(コイツ)がとった行動パターンは
この3通りが目につく。あるいはこれらのミックス。
いずれも、コイツのアイデンティティがゆらぐときの恐怖から
保身のためにとる言動だった。


行く果ては、

「Aby、我慢していて、あなた、いい人ね」

と誰かがわたしに言ってくれるところ。

いかに「これでいい」と言ってくれそうな人を集め、
いかに「これでいい」と言ってくれそうな仕事環境を作るか。

不快を可能な限り麻痺させてくれそうな、環境作り。
わたしは20年もの間、それに費やしてしまった。


・・・


① 約束の時間になっても連絡もないとか、
② 連絡はあっても自分勝手な言い訳だけを一方的に言ってくるとか、
③ 挙句の果てに、「これからも遅れちゃうこともあると思うんですが
  いいですか~(いいですよね?)」みたいなことを言う人。


立て続けにこんな出来事があったが、
①と②の出来事のときは、対処した後、どこか違和感を残した。
気持ちは観察していたつもりだけれど、
どう対処しようかと、曖昧な対応をしたからだ。

③のときに、おそらくこの人生ではじめて、他者に、


 「わたしが困っています。わたしが困るんです。」
 「あなたのほうで、それは考えてください。」


と、口頭でハッキリ伝えられた。


そのとき思った。

①と②のとき曖昧な対応になってしまったように、
わたしは、ずっと、自分は困っていませんよ、
自分のほうでなんとかしますよ、と「何も考えず」
ただ反射的に対応してきただけだった、と。
それ以外の対応方法をまったく知らなかった、と。

知らなかった、というより、
自分が困っているという苛立ちや不愉快や、
なんで自分がやらなければいけないのかという理不尽さ、
そういったものに目をつぶり、麻痺させ、
「わたしは困っていない」「わたしがなんとかする」と
正反対に考えて行動しているのだから、


「わたしが困っています。わたしが困るんです。」
「あなたのほうで、それは考えてください。」


などと、思いつくはずも、言うはずもなかった。


AC・調教人格は、いつも、わたしの感情を無視し、
それとは真逆の方向へと突っ走っていた。


・・・


なかでも大きな思いこみは、ひとつは、
「自分は平気、大丈夫」といった思いこみ。
相手に迷惑をかけたり嫌な思いをさせてはいけないと思いこんでいる。
そこには、「自分は困っていない。困っているのは相手だ」という考えがある。

もうひとつ、とても大きいのは、
「相手からされたことは仕方がない。それをどう考えるかは自分次第」
という考え方。

前者はどこから来ているか、といえば、やはり、
飴による調教、「Abyは間違っていない、Abyはそれでいいんだ」
ということが強く影響しているように思う。

後者はどこから来ているかといえば、これはおそらく、
「Abyは全部、自分の意思で決めている」という間違った刷り込みから
来ているのではないか、と思うようになった。
よく小さい子どもは、自分が世界の中心で、自分がまわりを動かしている
と思っている、という話をきいたことがある。
たとえば、親が死んだのは、それは自分が悪い子だったからだ、のように。

わたしは大人になっても、どこかこの感覚を持っている。
だから、なんでも自分次第だ、と思いこむ。
誰にも相談できない、といって一人で抱え込むことがよくある。
だから不快な出来事があっても、その瞬間、相手に反論することなど
ずっと出来なかった。我慢に我慢を重ねた末に、「どうしてわたしばかりが
我慢しなきゃいけないんだ!」と、随分時間がたってから
言い始めてしまい、相手にも自分と同じ我慢を強いる。
まるでそれは、「あなたもおじろく・おばさであれ」と要求するかのごとく。

それで要求が通らなければ、上から目線で相手をさげすむか、
こわがって相手から逃げる、という選択をしてきてしまった。

わたしに不快な出来事があっても相手に反論しないことで
得をしたのは、100%、毒親だった。
むろん、「Abyは困っていない。困っているのは相手だよ」と
洗脳することで得をしたのも毒親だ。

当然、今でも毒親似の人々を寄せつけてしまっている。
「Abyさんは、いいよ」とおだてさえすれば、
わたしが都合よく動き、利用できることを知っている人たち。
わたしが断れない、断らないだろうことを知っている人たち。
そこへわたし自ら出向いていることも多い。
実際、そういう人と環境を、わたしが自分で
作ってしまっている。


これを確かめてみようと思って、昨日、
手書きのノートに、今の仕事環境や生活環境について、
その「マイナス面」「プラス面」と自分が思っている事柄を
書き出してみる、という作業をやってみた。

マイナス面は、ほぼすべてといってよいほど、
AC・被調教人格であるがゆえに、
「引き起こして当然なこと」であることがわかった。
考えてみれば当たり前で、不快を我慢・麻痺させるための人格が
つくった環境なのだから、不快がなくなるわけがなく、さらに、
「これだけ不快を我慢しているのに!」というねじれた不快までも
新たに生み出している。ろくなことはない。
もちろん、この人格が消されそうになれば、コイツは不満、
マイナスと感じる。そういうマイナス面もあった。

一方、プラス面は、というと、
純粋に「これはプラスだね!」と積極的に思えることは一つもなく、
あえていえば・・・というやつで、あえてとは、つまり、
AC・被調教人格が生きのびられそう、という、
コイツの希望でしかない。
プラス面といいながら、面白いことなど、何ひとつなかった。


・・・


父の見せしめのような暴力の目撃や
母のいとことの比較による「こうなったらうちの子じゃない」という脅し。

不快を我慢させることに対して、これらが
「これくらいはたいしたことはない」と思わせる仕込みになっている、
というだけでも、かなり酷いけれど、もっと酷いのは、本当は違うのに、
「自分で何でも決めた」と思いこませたことだ。

そう思いこんでいると、当然だけれど、
「これでいいかどうかわからないで不安」といった感情が
どうして生じたのかすら、見当もつかなくなる。

わたしは何でも自分で決めてきたと思いこまされてきたから、
こう感じるのは、わたしはどこか間違っている、どこかおかしい、
と感じてきた。わたし自身に問題がある、と。
(だから、家族に問題があるなどと考えたことがなかった。)

一方で、飴による調教により(←無自覚だったが)、
わたしは間違っていない、わたしは正しい、
と思いこんできた。

この二つは完全に矛盾するのだけれど、
わたしのなかで共存していた。


違和感でいっぱいだった。


数ヶ月前、母から、
「Abyは本当は自分で決めたことはなかったよ」
と言われ、父の毒親ぶりを掘り進めていく過程で、
その根底が崩れた。

主体性や自主性が最初から奪われ、母が言うように、
他人の気持ちを察しろ、我慢しろ、でも自立しろ、と言われ、
その命令に加担・連動して、父は飴を与える。
「Aby、すごいぞ。いいぞ」と。

こういう調教を受けていたら、普通に考えても
「これでいいかどうかわからないで不安」になるのは、当然だ。
自分の意思がないのだから。
どうしたいのか、今でもわからない。
些細なことひとつも、決められない自分に
この年になってはじめて気づいた。

「自分で決められない」とは、
誰かや何かからの承認「それでいいよ」を事前あるいは事後に
必要としてしまう、ということなわけだけれど、
なぜそんな承認がいるのか?と自問すると、
「なんでだろう・・・」と明確な答えが出てこない。


なぜ、承認などいるんだろうか?

どうして、執着したりするのか?


あるいは、なんで自ら「わからない」という状態に
自分の身を置こうとするのか?

自分の頭で考えることを放棄して、
なぜ、「これでいい」という承認にこだわるのか?
承認次第で、内容問わず、どうして左右されるのか。
内容について自分で考えることを、どうして放棄するのか?

そうすることで何が達成されるのかといえば
わたしを不安なままにずっと放置させておくことで
コイツが「わたし、必要でしょ」という保身が達成される。

「自分で決められないはずだよ、決めたら間違うかもよ」と
必ず言ってくる。
「その事はよーく、考えないとね」とか言ってきて、
何かに執着させる。
観察し調べてみると、どうやら、「何か」が重要なのではなくて、
執着させたりすることで、コイツ自身が生きながらえることが
目的のようだった。


ふと、考えてみた。


「これでいい」と承認を得られることで
どんなメリットがあるというのだろうか。

逆に、自分の頭で考え、決定することで、
どんなデメリットがあるというのだろうか。


具体的なもの、実体なるものが思いつかないのに、
反射的に承認を求めようとし、自分の頭で考え、
行動することをこわがっている。

ここはもっと掘り下げてみようと思う。


・・・


今、たまたま、③の出来事で、
わたしがハッキリと意見を伝えた相手から
電話があった。

内容は、先日の出来事に対する
お詫びの電話でした。

わたしはすごく驚いてしまった。

というのも、わたしは今までこうやって
「ちゃんと謝ってもらったこと」が一度もなかったからです。
お詫びの電話でしたが、後味のいいお詫びってあるんだ、
と思った。

同時に、

わたしは、わたしこそ、まだ一度も、他人に対して、
「ちゃんと謝ったことすらなかった」ことに気づいた。
それだけ自分の意思で生きている自覚も、
自分が話す言葉に対しての責任もなく、
他人のせいにしてきたんだ、と。

作り笑顔でのありがとうとすみませんの
社交辞令だらけの毎日。
すっきりするわけがない。
違和感と後味の悪さばかりだった。

人間の会話とは思えない、
テープレコーダーのような、どうでもいい会話。

所詮そんなもんでしょ、と思っていたわたしは
自分の意思を放棄し、自分を裏切ってきてしまった。


ちゃんと謝れる、「人間」、になりたい。



2013.11.23
Aby


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-11-23 23:43 | 復元ノート 1

敵に見えてしまうこと

敵に見えてしまうのは、

「本当にこれでいいんだろうか?」と戸惑っているわたし、不安なわたし、

そういう「わたし」が敵に見えてしまって、もう、こう頭によぎった時点で
ああダメだ、と思ってしまって、なんとかしよう、これでいいんだよって
思うようにしよう、思えるようにしようって、
無自覚にはじめてしまう。


「本当にこれでいいんだろうか?」


この声ばかり、毎日毎日休みなくあって、
これ自体が不快なのに、なんとか麻痺しようと、
こうなること、こういう疑問が発生することから逃げようとして、
寝て起きた瞬間から、毎日毎日がスタートして、ああすれば「これでいい」、
ああしなければ「これでいい」、いつもこれでいい、これでいい、と
思おう、思おうとしている。

なんとかそう思えないだろうか、とむしろそう考えたり、
そう考えているわたしを応援してくれる他者が味方に思えてしまって、
あれだけ毎日毎日、


「これでいいんだろうか?」
「どうなんだろうか?」
「どうしたらいいんだろう?」


と不安をわたしに訴えかけていたのに、わたしのその声を
〝敵の声〟と思いこみ、そこからなんとかしなきゃ、
これでいいんだよねって自分で納得できる理由を欲しがってばかりで、
まるで、わたしの毒親と同じように、同じことを自分自身にやっていた。


「ああしろ、こうしろ、そうしないとこうなるぞ、
よーしうまくできたな、自分で決めてよくやった。
それでいい、これでいいんだ。Abyは間違っていない」
と言って、わたしを脅し、コントロールし、自己判断を奪い、
見た目「飴」だけで調教した親は、もう目の前にいない。

なのに、どうしてわたしがまた、
自分自身の毒親になりかわって、
調教者になろうとしているのだ?


わたしはいつも、敵・味方の判断を間違ってきた。


敵の声に対して、味方側の言動パターンを「よし」としてきた、と
思い込んできたけれど、実は違っていて、
味方の声(自分自身の声)に対して、敵側(毒親)の言動パターンを
「よし」としてきたから、いつも、「ああ~っ」と思うところと、
「よし」と思うところが反対になる。


朝、目が覚めて、わたしはいつもいつも、
「これでいいんだろうか?、どうなんだろうか?、どうしたらいいんだろう?」
と思う時、「ああ~っ」となって、ヤバイ、間違った、と思ってしまう。それで、
なんとかしよう、これでいいと思おう、そう思えるようになんとかしよう、
そして「このあたりでまあいいか」と思った時、「よし」と。

その「よし」と同時に、自分を裏切ったことになるのが、
自分でも誤魔化しきれないため、どこか居心地が悪く、
違和感もあるのに、なのにしかたないといって、
自分を裏切ってしまう。

どうして毎回毎回、こうなるのだろうと考えてみると、そもそも、

「これでいいんだろうか?」
「どうなんだろうか?」
「どうしたらいいんだろう?」

と目覚めた瞬間の声、これが〝敵だ〟とわたしが決めつけた時点で、
「あ、これ、調教だ」とはじめて、このトリックに気づいた。

敵とかじゃなくて、それは本当は、しつこく、しつこく、ずっと、
わたしに対して言い続けたわたし自身のSOSで、
本当ならこの声に対して、

「どうしたい?」

とわたし自身の希望を訊かれるべきなのに
訊かれることがなかった。

そこまでは調教だとしても、もうこうやって成人したのだから
「調教だったので(・・・しかたがない)」では済まされないわけで、
ここからは本人の責任、わたしの責任だ。
わたしが毒親の真似をして、調教者になるんじゃなくて、また、
誰かそう言ってくれ、じゃなくて、誰かじゃなく、


わたしが

「どうしたい?どうしたかった?」

と訊く


希釈されていようが、調教されていようが、
それはいい訳にならず、
たとえそうやって訊いてみてどうなるか怖くても
今からすぐにやらなければならないことだ。


それで、「自分の意見は?意思は?」と実際に問うてみて、
「ああ~っ」とそれこそ思ってしまったのだけれど、
案の定、わたしの意見が出てこない。

それでここが「罠だ」と思ったのは、
そのときに「ああ~っ」と思っちゃって、反射的に
自己否定し、そういう自分を拒絶してしまった。
そういう自分はダメだ、これじゃダメだとか焦ってしまい、
「なんとかしよう、どう考えればいいんだろう、何をしたらいいんだろう・・・」
と、最後は、「〇〇したら(しなかったら)、いい」という、この末尾の
「いい」の出番を許してしまう。

ここでハッと思う。またコイツだ、と。

コイツのモグラたたきをやりながらも
コイツの出所を手繰っていくと、あの

「ああ~っと思っちゃった、自分はダメだ、これじゃダメだ」と思った時点
「本当にこれでいいかどうか、という不安」がよぎった時点

その時点に戻ったとき、わたしは無自覚に
こう思ったりよぎったりすることを

〝悪〟

〝敵〟

と決めつけていたんだ、ということに気づいた。

気づいたからといって自分の意思が出てくる、
というわけじゃない。
自分の自主性とか主体性というのを
育ててこなかった、というのはこういうことか、
と思った。


頭の中が真っ白。

「指示待ち状態」にとても似ている。


指示待ちの時もこれでいいのかどうか不安、
指示が来てそれをこなしたとしても、本当にこれでいいのか不安なまま。
指示が出なかったり、上手く出来なければ怖くなり・・・
どんな状態にあっても、不安。

「よし、これでいい」なんていう声は、ほんの一瞬の麻酔のようでしかなく、
この声に依存しているから、手放せなくもなる。
麻薬中毒と同じ、悪循環。


ふと、こんなことを想定してみた。


もしも急に無人島にとばされて、誰にも通信もできず、
もちろんこうやってブログも書かず、何も持たず、
ポン、と島の真ん中に一人置かれたら、
わたしはどうするか?何を思うか?


寝起きと同じで、

「どうしよう、何をしたらいいだろう?」

と、承認を与える人もいないのに、
あたりを見回し、やはり、ただうろたえるのだろうか。

この末尾の「・・・いいだろうか?」が
どこでもついてまわってきた。

どうしてここで「何をしたらいいだろう」でなく、
「何をしよう」とならないかといえば、
はなから自分の意思がない、というところから
スタートしているからだ。
大学の進路を決めるときもそうだった。
「いろいろ興味があった」といえばよく聞こえるだけで、
ただ何も決められなかっただけだ。
結局、自分で決めなかった。


そこで、
「じゃあ、しようがない」といって、
「何をしたらいい?何してほしい?これでいい?」と
誰かに訊きはじめる。


延々と繰り返してきた、わたしの行動パターンだ。


「じゃあ、しようがない」・・・と言うけれど、
なにが「しようがない」のだろう。


たとえ自分の意思が剥奪されてきたとしても、
「何をしよう。何をしたい?したくない?」と自分に投げかけた上で、
もしもわからないとなってしまったとしても、
「じゃあダメだ」じゃなくて、わからないならわからないで、
「では、自分の頭で考えよう」とどうしてしないのか?
してこなかったのか?


「これでいいと思ったら、行動に移しましょう」なんて、
わたしとわたしの家族だけにしか通用しない、
調教由来のルールでしかなかったから、
一歩社会に出れば、トラブルがたえず、
AC人格が威張り散らし、さらにその人格も
不快だらけになって、散々な目にあいながらも
一次不快を見るよりは、それこそ「まあいいか」と
依存したり対立したりしながら、麻痺し、
安穏と過ごしてきたのではないだろうか。
そうやって、本当の敵側にあぐらをかいて、
毒親の言い分を許していたのは、わたし自身だ。


・・・


「わからない」とか、「決められない」とか、
わたしのスタンスはそんなことばかりだった。

これについても考えてみると、結局、
「間違いたくない」という思考から出ているようだった。
答えなければ間違わない、と思いこんでいた。
その癖は酷くて、たとえば明確にわかっていることでも
「・・・でも本当はわからないよね」と思ってもいないのに
言ってしまうほど、酷い。
それにもしもわからなければ、そこで考えればいいものを
「わからないですよね」の一言で済まそうとしていたし、
わかるよりいいことのようにさえ思っていた。

たとえ「わからないでいい」と思いこもうとしたとしても、
今の自分の状況が「いいのか、それともそうでないのか」
わからなくなって不安になる。
いいもわるいも、どちらもリリアリティーがない
(自分の言葉じゃない)から
不安にならないわけがない。違和感は必ず残る。

そうやってずっと不安のままだから、
最後に逃げてしまうのは、
「何のために、誰のために」を設定する、
ということをする。

でも、「自分不在で決めた目的」は、実際は目的でなく、
依存対象の選択でしかない。

そうやってわたしは、「これでいい」と思える範囲を制限してきた。
だから「何のために、誰のためにやっているかすらわからない」となると、
すごく焦るし、つらくなる。たとえ順調に何か誰かに奉仕していても、
本当は、不安は不安のままだった。
ただその不安を麻痺させていただけで、
わたしはそれでいい、これがいい、と思いこんだ。

状況をかえず、そのままでなんとかしよう、なんとかできるだろう、
としてきた「あがき」は、調教した毒親の存在を許し、その影響に甘んじ、
「こうすればやりすごせるよ、ラクだよ」と、痛み止めの注射を
自分に打ちまくっているようなもので、いくら悲劇を演じようとも、
それで上手くやろうとしているのなら、どうあがこうが、
わたしこそ、その毒親体制の既得権益に他ならない。
ああ、これが連鎖だ、と思った。
こうやって今度はわたしが調教する側に居座ってしまうのだ、と。

わたしは一度たりとも、「これでいい」となど
思ったことはなかったのに、
「これでいい」としてしまった。

「これでいい」など本心から思ってなんていないわたし、
「本当にこれでいいんだろうか?」と迷いつづけたわたし、
「これで間違っていないだろうか・・・」と恐怖し続けているわたし、

そんな自分を見たくないという態度、
自分への裏切りは
いつもここから始まっていた。


・・・


11月11日の朝、少し前のことだけれど、
目が覚めて、こんな夢を見たのでメモをとった。

夢の内容自体、というより、
起きてから、考えさせられる夢だった。

(以下、夢の内容は、緑文字)


わたしはどうやら学校の教員の仕事をしているようだった。
ある日、わたし宛てにこのような内容の通達を受ける。

「わたしたちはあなたに大きな期待を寄せている。
そのためなら、あなたに外でいろいろ学んでもらい、
5年、7年、11年でもいい、そしてここにまた戻ってきてほしい」

だいたいこういう内容だったと思う。

わたしは期待されているんだ、と思いながら、またここに戻るときの
夢のような未来を想像するが、そのときの場面はなぜか、なんだか
汚い川にぼちゃんと落ちて立ち泳ぎしている。

あっぷあっぷしながらも、その5年、7年、11年なりの時間と
随分遠くに行ってしまうことを想像しながら、こんなことを考えていた。
「勉強とかでわからないことがあったら、誰かに相談できるだろうか。
向こうで誰か教えてくれるだろうか。それに、わたしは勉強は本当は
それほど好きじゃないから、頑張り続けられるだろうか。まあ、でも、
ずっとじゃないから大丈夫か。少しの間だから・・・」

そう思いつつも、「本当に戻ってこられるんだろうか?」とも
そういう不安と寂しさのようなものが、頭をよぎったように思う。

場面は急に見知らぬ車のなかに、切り替わる。

「わたし」と思われる人は助手席にいて、運転手に一枚の紙を
見せられている。その場面をながめている、というシチュエーション。

その紙は、おそらく、こんなことが書かれている、ちゃちい紙だった。

「無期限〇〇 ロボット (以下名前・・・約5名程) 誰誰、誰誰、・・・」

この「無期限〇〇」の「〇〇」は、思いだせなかったが、
おそらく「労働」という言葉に近いものじゃないかな、という感じはあった。
この中にわたしの名前があったかはわからなかったが、たぶんあったのだろう。
助手席のわたしは「おいおい、なんだこれ。こんな馬鹿な契約はしないよ・・・」
という顔をしたところで、ハッと夢から覚めた。



・・・


(以下、翌日の自分のメモより抜粋。グレー文字。)


起きたとき、あれからどうなったのだろう・・・と咄嗟に考えたとき、
一瞬は断るにきまっているだろう、と想像したけれども、いや、まてよ、
と思った。

もしもその運転手が「Abyさん、そうイライラしなさんな。考えてごらんよ。
これは違うんだ。わるい話じゃない。無期限で働いても苦痛を感じないってのは、
まさにロボットだ、っていう話で、つまり、苦痛がない契約なんだよ。
これからお前さん、10年とか、随分遠くに行ってしまうんだろう。それにな、
帰れないかもしれないんだよ。Abyさんだって、そこが不安だろう?
だったら、もしも帰ってこられないこともある、と考えて、そこで働き続けても
寂しいとかつらいとか悔しいとか感じないで暮らせたら、どうかね、いいだろ?」

そうきいてきたら、どうだろう、と思った。

これに本当にわたしは騙されないだろうか?

その危険性をリアルに感じたのはなぜか、というと、
最初の自我判定依頼でわたしが一番大切にしていること、ということで、
「苦痛がないことです」と書いたからだ。

少なくともあの時点では、確実に騙されたろう。

ただ今は大丈夫か、といえば、そこでそれこそ「大丈夫だ、平気だ」と
思い込もうとはしたくない。だって、その苦痛がないこと、というわたしの
回答はそれは冗談ではなく本気だったのだし・・・
それに、この「苦痛がないことがいい」というのが
さらなる洗脳だとしたら・・・この洗脳を断ち切ることをしなければ、
いくら頭で「大丈夫」と言ったところで、土壇場では迷うに違いないし、
それ以外の自分の意思と目的を持っていないのなら、「わからないから、
まあこれでいいです」と答えてしまうことは、十分、ありえることなのだ。

あの紙切れ一枚と運転手の口車一つで、わたしは簡単に
「無期限労働ロボット契約」を、「はい、それでいいです」の一言で
結んでしまったりするんだ・・・というのを、リアルに感じる夢だった。

わたしが反射的にとる、答える言動には、そこに調教由来のものなどが
根深く潜んでいるようだ。でもよく見てみると、わたしはその答えや行動を
「なぜそう思っているのか、どうしてそうしているのか」がわからないまま、
なんとなくそうしていることが多い。

まさにそれこそ、問題だ。

今やっていること、こうしたいというビジョンに、わたしの言葉がない。
ただ反射的にそうしている。そう思いこんでいるのはどうしてか?
誰からきいて、そうするように言われたのか?また自分で思い込んだのか?
それを思い出さなければ、そういった選択の場面で、またもや、
本当はしっくりきておらず、よく考えることなくわからなくなってしまうその瞬間、
「まあこれでいいです」となるのがオチじゃないだろうか。


・・・


「苦しくなければいいんじゃないか」というこの価値観は
いったいどこからくるんだろうか?と考えていて、
ひとつのことに気がついた。

「苦痛がないこと」を大切に思うヤツは、
「これでいいんだ」と言い出す人格、コイツだ・・・と。

「これでいいんだ」と思いこめると何がいいか、というと、
「それでしかたがない、こういうものだ」といって
〝苦痛が麻痺すること〟だ。
それで、では、誰がよかったか、というと、
やらせたい放題、コントロールしたい放題の「親」だったろう。
我慢は当然、と洗脳できるのは、一番ラクだろうから。

「苦痛がないことはいいことだ」という考えを、
わたしはどこかで、これは当然だろう、
と思っていたところがあった。


でもそれは当然じゃなかったんだ。


「これでいいんだ」人格、コイツの考えだった。
つまり、わたしの親の考えであり、とくに成人後は、
自ら率先してわたしがとりいれてしまった考えだった。

そこであの夢を思い返してみると、
もしも夢の先で、「苦痛がないのならそれでいいです」
と答えてしまったとしたら、それはコイツなのだ。

わたしがそこでやるべきことは、
コイツの出番を許すことじゃない。

本当はこの夢の中で、もっと前にあった不当な出来事に対して、
わたしが傷ついた気持ちを、〝その時点で〟守るべきだった。

わたしは汚い川に身を投げ、不安な未来を妄想し、
見知らぬ車の中で、「コイツ」の出番を許してしまいそうな
崖っぷちにいる。そもそもそのシチュエーションを招いたのは、
わたし自身なのだ。死守すべきときにしなかったから、
つけこまれたんだ。

なぜわたしは、左遷のような通達に対して、
異議なり、質問なりしなかったのか?
左遷なのかな、期待されているのかな、と
どうして不安なまま、不安な未来を妄想して、
さらに不安になったりして、まあなんとかなるか、と
思おうとしたのか。

本当に戻ってこられるんだろうか?と少しでも不安や
寂しさがよぎったのなら、どうしてその時点で、
その気持ちを大事にしないで、その不安や寂しさを認めず、
そこから逃げ、麻痺しようとしたのか。

この時点で勝負がついてしまっている。

だから次の場面で、
「はい、そういうことですので、契約書をご確認ください。
これでいいですね?」と、まんまと誘導される。

思えば、父親似の気狂いと出会い、
自分を裏切り、逃げ出し、隅へ隅へと追いやられた過程も
これと同じだった。そうやって麻痺してりゃいいところへ
追いやられていったのだ。夢でなく、これは現実の話だ。


・・・


もう一つ、こんな夢を見た。
11月14日の朝、起きて思い出した夢。


(以下、夢の内容は緑文字。)


面接試験対応セミナーのような会場で
いろいろな人たちが本番を想定しての模擬面接をしている。

そこでわたしがヘンなタイミングで登場し、エラそうに語りはじめる。
具体的に何を面接官に話したかは覚えていないのだが
おそらくあの雰囲気からすると、いかにも「新しい視点」を
持ち出したかのように得意げに、
「わからなくてもいいんだ、そういうもんだ、だからいいんだ!」
といったようなことを論理武装しながら、一見、
おさまりがいいような感じで、わたしは語っていたようだ。

セミナー参加者のなかの数名の気狂いなヤツが
わたしを賞賛し、今にも信者になる勢いで拍手で盛り上げている。

わたしもそこで、いい気になっている。

ただ、そこにいる人たちの中に、
わりと多くの人が冷ややかな目でわたしを見ているのが
気にはなっていた。

帰り際になって、ある一人の人が、
「そういうことじゃさ、やっぱりダメだからさ、
ここはひとつ、こういうことをしたらどうだろう?」
と、内容は覚えていないのだけれど、明確に
「小さな、でも、具体的なアイデア」を
みんなに向けて言うのだ。

すると、まわりも
「そうだよね、そうしよう」という、自然な雰囲気になって、
そこにいるまた別の誰かが、わたしにこう言った。


「エース交代だな」


次の瞬間は信者も何もあったものじゃなく、
完全にわたしは孤立する。


・・・


そこで目が覚めた。

こういうシチュエーションもそれ自体は、
夢でなくても、今までにも実際よくあった。

前回の夢でもそうだけれど、
コイツは何とか自分の存在をアピールしようとする。
生きながらえようとする。今のわたしだ。

現実社会では、こうやってまわりからダメ出しされても
「おかしいのはまわりのやつらだ。自分は間違っていない!
わからなくていいし、決められなくていいし、
苦痛を感じないことのどこが悪いんだ!!」
と威張り散らし、まわりがひいているのにも気がつかない。

振り返ってみると、実際、このようにして
エースは交代されてきたのだ。
気がついたときは、わたしはいつも孤立していた。

このエース交代を阻み、保身をしていたのは
わたし一人、わたしだけだった、ということだ。

今度はわたしが、わたし自身の手で、
このエース(=コイツ)を引き降ろさなければいけない。


夢だろうが、現実だろうが、
わたしはコイツの出番を許したくない。


・・・


「間違いたくない」という漠然とした恐怖が
わたしのなかにある。

それを認めたくない自分、
間違いたくないなんて思っていないよ、と
誤魔化そうとする自分がいる。

そいつこそ、コイツなんだ。

わからないとか、決められないとか、
そういうことこそ「間違いなんだ」と
わかったようなことを言おうとしてしまうわたし。

目的を持とう、自分で考えてみよう、
それが「正しいのだ」と結論づけたい姑息な動機が
そこにある。


わたしが調教者になってしまっている。


20年も前から毒親は目の前にはいないが、
その後を引き継いで、それをよしとしてしまった
責任はわたしにある。

「自分で考えてごらん、ほーらそれでいい、
正しい、それでいい、わたしは間違っていない・・」

これが調教のプロセスだったはずなのに、気がつくと
わたしは同じことを自分にしようとする。


わからないままの自分、
間違っているかもしれない自分、
不安でスッキリしない状態の自分、
見捨てられてしまうかもしれないと怯えている自分・・・


無意識に目をそらしてしまう自分や
見たくない自分が現れたときの
居心地の悪さや違和感。

これでいいんだ、という嘘の安心こそ本当に見え、
見たくない自分、不安なままのわたしのほうが、
嘘に見えてしまう。

この違和感までも麻痺させてしまおう、
麻痺できればいいんじゃないの、と
自分で自分を裏切ることだけは
絶対したくない。


2013.11.17
Aby

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by jh-no-no | 2013-11-17 17:01 | 復元ノート 1

(後半) 自分で自分のことを決められるために

・・・ 「(前半) 自分で自分のことを決められるために」の続きです。


わたしは昔からすぐに記号化したり、簡略化したりする癖があるので
今回も注意したいが、時期の命名の仕方として、やはり「おじろく」という
言葉を使うと、「年表全体の繰り返しパターン」が見えやすかったので、
その視点でも表をながめてみた。


基本パターンはこうでした。

おじろく期→おじろく不調期→おじろく反乱期→おじろく期→ ・・・ 繰り返し。


※ 以下、表とノートに書いた骨子の部分だけ、
   文章にして記録したいと思います。


・・・


全体としてみると、わたしは、3年くらい前から、
3回目のローテーションに入ろうとしていた。
これが【時期C】です。

そしてすこしずつ「おじろく不調期」にさしかかったところで、
無明庵と再び出会い、自我復元に出会った。
このパターンも実に今までもそうだった。

おじろくとしての役目が危機に陥ると、最後は、他者への期待も失せ、
わたしはいつも、何か理論や思想に依存しようとする癖がある。
両親や家族のためにそろそろわたしはもうならないな、となったのが
二十歳頃だ。言ってみれば、おじろく満期、ということで、むしろわたしが
「おいだされた」わけだけれど、わたしは勘違いしたことに、
これが自立ということか思っていた・・・でなく、ただ用済みになっただけだった。

小学生中学年~中学・高校生頃の流れを見てみると、
その頃にのみ特徴的な不快は、家族のためにわたしがなっていない
のではないかという不安と、同時に、両親に対する失意だった。
「おじろく不調期」に発生した、両親に対する失望である。

わたしが親や兄弟の面倒を見ているのに、なんで、親はわたしのように
できないのだ、という、こう書いてみると、とんでもないACならではの
失意だった。


そのことから逆に思ったのは、10歳くらいまでのわたしにとって、
わたしは家族のために尽くすのは当然のことであり、
まさにそういう「いい子」だった。
(ただし、自分はいい子だとも思っておらず、当然なことをしていると思っていた)

さらに、「したいことをしなさい。したくないことはしなくていいんだよ」と
とくに父は口ではそう言いながら(=偽リアリティー)、実際には、したいことも
我慢しなきゃいけないんだよ、したくないことも我慢してやらなければいけない
こともあるんだよ、という「リアルな抑圧」を、母も一緒になって、
わたしに与え続けた。記憶は薄いが、母の話からこれは明らかだった。

一言でいえば、とくに父は、都合よく格言を利用しまくって、
「ああも考えられるし、こうも考えられる」という混乱の種を植え付けた、といえる。
主体性を奪う仕込みのようなもの。わからなくさせる。

結果、「したいと思ってもできない」「したくないと思ってもしちゃう」という混乱のなか、
(これは今でも続いている強烈な洗脳)、「Abyは自分で決めてエライね」といわれ、
まったくもって両親に都合のいい、両親の要求にこたえる「いい子」だったろう。
したいこともわからなくなり、したくないこともわからなくなる。
そして不安になる。

こうなれば、親の思うつぼだ。
「ああすればいい子。ああしなければわるい子」というその一言で、
不快感も麻痺させながらコントロールできるのだから。


・・・なのに、


わたしが10歳頃になったくらいだと思うが、
ハッと気づくと、親は自分が言ってきたこと、わたしに言い聞かせてきたことを
「本人たちがやっていない」ことに気づいた。言動不一致に気づき始めた。
ただ父はどこかでこわいと思っていたので、成人するまでは逆らえなかったが、
その分、母に対する反抗期にそれが爆発した。
くだらない理由が多かったが、とりあえずわたしがよく爆発したのは、
わたしが頼んだことを、それをやらないで済まして平気でいることだった。
これは「おじろく」としてはありえないことだったからだ。

わたしはちゃんと言われたらやるのに、
なぜあなたたちは、わたしが頼んでもいるのに、やろうともしないんだ、
という苛立ちだった。

このときの爆発の仕方が、すでに「父親似」の追い詰め方だった。
もちろん手をあげたことも、物をこわしたこともないけれど、
理詰めで逃がさない責め方は、父を思わせるほどのものだった。
わたしが他者に対して苛立ちをあらわにし、攻撃する基本形はもうすでに
この時期に出来上がっており、社会に出ても、またPさんに対しても同じパターン。
当然ながら、こんな滅私奉公を強制するようなルールは、
閉じた家の外、社会一般では通用しない。だからトラブルになる。


・・・


「いざ自立」と思いこみながら、わたしは大学へ進学したのはいいけれど、
それこそわたしは、何をしていいのかわからなかった。
主体性があり、自分の意思を持っているわたしとして調教されたので、
まさか自分で決められない、自分の主体性がないとは疑うこともせず、
暢気に「まだ自分を必要されるような時期になっていないだけだ。
これから自分は活躍できる、羽ばたけるぞ!」と何の根拠もなく、
ただそう思っているだけの日々だった。


「自分は正しい」の絶頂期、おじろく反乱期だった。


どこかでそう思えないから、哲学書や精神世界のコーナーを
うろついていたわけだけど、その感情とはうらはらに、それでもわたしは
「自分はいいはずだ、正しいはずだ」とそう、思おう、思おう、としてきた。

それ自体が不快だったわけであるが、そこからは目をそらしながら、
わたしは正しい道、正しい選択を見つけられるはずだ。
だって自分は正しくあるはずなのだから・・・という考えが全開となり、
サークル活動でも、まわりも次第に「ひいて」いった。
結果、孤立していったわけだけれど、自分がおかしいとはそれでも
考えない。


この孤立化したときに、
そこで出会ったのが、Pさんだったのだ。


どうしてわたしがPさんと出会ったとき、
それはあまりに運命的なことのように思ったか、
その当時はわからなかったが、今思えば、わたしにとって
わたしを必要とする「新しい依存相手」、おじろくとして力を発揮できる相手、
それが、Pさんだと、即座に判断したのだと思う。

こうやってわたしは、両親や家族から、
Pさんという「新しい依存対象」にのり移り、
2クール目の「おじろく期」に入っていった。

出会った当初は、まだPさんは依存対象というより、他者としての
側面が大きかったので、わたしの反乱ぶりも酷く、口論もたえなかった。
Pさんに対しても、理詰めで、支配を繰り返した。
ここで通常なら「別れる」のが普通の恋愛だろうけれど、
そこでわたしたちは、歪んだ依存関係を
継続してしまった。

「ここで普通は別れるだろう」というタイミングは、
Pさんとの場合、4年に一度くらいのペースで起きていた。
年表を俯瞰していて、そのことに気づいた。

でも、どの局面でも、お互いに別れるという選択はしなかった。
なぜかできなかった。そして、より囚われていくかのように
歪みの強い依存関係を更新し今に至る、という流れも見えてきた。

で、その4年に一度の節目節目で、どう何が変わったかというと、
「おもにわたしが」仕事やスタイルを全面的に変えながら、
なんとかPさんのおじろくとして失格にならないように、
Pさんにあわせていったのだ。
だから気づけば、今、わたしをとりかこむ環境のすべては、
わたしからは、Pさん仕様でうめつくされているように見える。

そのサイクルのなかで、
26歳~30歳の3、4年は、限りなく不快を感じない、
不快が麻痺してしまった「おじろく期」であり、
結婚という形で、その【時期B】の終止符を打つことになりました。


しかしながら、両親の場合と同様、
Pさんにも役立てないという意識が強まる不調期が起こり、
Pさんとの衝突も再発するようになりました。
見た目はやや静かな感じでしたが、「わたしは正しい」という反乱を
わたしはつねにしていました。
仕事も共同作業として二人でいろいろやってきたのですが、
ここでわたしは、ただ経済的に支えるための、Pさんの城を守るためだけの
滅私奉公に転換します。

当然、社会に出れば、またトラブルになります。
そして嫌になってしまい、結局、「家」に戻るのです。
これはまさに、おじろくが何とか家を飛び出しても、結局うまくいかず、
家に戻ってくるのと同じです。

そのときはまた、何か理論や思想のようなものにすがります。
このときは、ある分野のボランティアに関連する考えにすがりました。
女性と子どもを対象とした内職を考えはじめたのもこの頃です。
この年表をつくりはじめて気づいたことですが、
どうして「女性」と「子ども」をそのときわたしが選んだかわかりました。
女性と子どもが、社会的な意味でしばしば「弱者」と言われる側面と分野を
抜き取ったのです。というのも、おそらくわたしは、この依存対象なら、
「たとえPさんに捨てられても、依存の保険がかけられる」と思ったのだと思います。


経済おじろくとしての出稼ぎ型の社会生活も、
その新しいおじろくサイクルのための
準備期間でもあったのです。


そして今から3年ほど前、準備は整い、
3クール目の「おじろく期」、今度は、依存の半分はPさん、残り半分は
出会う女性と子どもに依存しながら、スタートしたのでした。
それが【時期C】ということになります。

この時期も、次第に低迷状態になり、おじろく満期の兆しを感じる頃、
わたしはまたもや不安になり、しばらく離れていた無明庵の書籍を手にします。
そこで「自我復元」をはじめて知ることになります。


・・・


自我復元期に入ってからも、不快が麻痺していることのほうが多く、
今年7月にブログを始めるまでは、むしろ、おじろく期を再生している感じでした。
今でもまだ、不快の麻痺は続いてしまっていて、ふと気づくと、
Pさん相手だろうが、外部での仕事の担当者であろうが、子ども相手であろうが、
「テープレコーダーのように」不快もなく楽しくもなく、ただ知っていること、
分析したことを、ただダラダラ話してしまっていることがあり、それに気づくと、
「わたしはいったい何をやっているんだろう」と思うことが多くなりました。
いや、そもそもわたしは、いつもテープレコーダーのようだったのです。
ただそのことにすら気づくことなく、もっともらしいことを言っていると思い、
「これでいいんだ」と思い込もうとしていた、その繰り返しだった。
「自分なんてどこにもいないんだ」ということに気づきもしないままに。

初回判定を依頼してから約半年が経ちましたが、
その間の崩残さんとのメールの内容や無明庵のサイトの時期、そして
このようにブログを書く作業は、これまでのわたしの人生の
調教とAC人格のオンパレードのようなものだったと、
この時期の不快年表を見て思った。

もしもここで、自我復元と出会っていなければ、
そしてわたしがここでこの連鎖を断ち切ることに失敗したら、
おそらくこの年表どおりこのローテーションを繰り返すとしたら、
どうなっていくだろうか・・・と考えてみると、
少なくともわたしは、女性や子ども相手に、
「自分は正しい教」のカルトとしてとりかえしのつかない毒人間ぶりで、
猛毒を撒き散らしただろう、ということが予測された。

加害者から守るようなことをしているのに、
わたしがすでに加害者になっていた。
この連鎖をつなげていくことを促していた。
典型的で、最悪なゾンビがわたしだった。

とはいえ、ろくに世渡りができないほどのゾンビだから、
所詮数年も経たないうちに、大小のトラブルが起きて、
結局また「家」に戻り、いっそう歪んだ依存関係を
Pさんと続けてしまうのも、目に見えるようだった。

なにより、わたし自身が、この「これでいいんだよね」と
相手に承認を求める「怯え」から、今後も解放されることなく、
同じ思考パターンから、似たようなトラブルが起こり、
似たような父親似の気狂いに出会うに違いない。


そしてあと2、3のローテーションを繰りかえして死ぬ。


やりたいこともわからないまま、
やりたくないこともわからないまま、
誰の人生かわからないままに死んでしまう。


もう一度、表をながめてみた。


何かひとつでも、自分がやりたいことをしただろうか?
できただろうか?何ひとつもないではないか。
親といたときも、Pさんといたときも。
なのにどうして、今までわたしは「したいことはしてきました」などと
口先だけでそう言って、自分を裏切ってきたのか。

本当は、何が自分がしたいことなのか、したくないことなのかも
自分で決められず、今やっていることがいいのかそうでないのか、ということで
つねに不安になっている。これが今のわたしの現状。
「これでよくない」のが現状であり、それをここで認めなければ、
わたしは事実をねじまげてでも、「これでいい」としてしまおうとするだろう。

その恐ろしい手口を、わたしはずっと使ってきたのだから。


・・・


もしも、幼い頃、「Abyはやりたいことを自分の意思でやっているね、エライよ」
と言われたとき、「そんなことはない!」と気づき、反論できていたら、そうやって
自分を死守すべく親の圧力に屈しなければ、その時点で、やっていたことも
随分変わっていたのではないだろうか?

母はわたしに協調性をつけさせたくてやらせた習い事があるが、
わたしは、そんなことはやりたくなかった。この時点で、すでにAC人格の反発
かもしれないけど、まだそのほうが、親の毒に気づけたかもしれない。
と思ったのも、わたしはその小学生の頃、自由工作が好きで、よく作ったものを
親にも見せたわけだけれど、ついこの間その話をしたら、なんて言ったか・・・


「そうだっけ?」


である。


何も見てすらいなかったのだ。
そんなことだったら、バンバン反発して、なにそれと言われようが、
やればよかったと思った。せめてそうすれば、
親もああだこうだといって、もっと早くに「親はダメだ」と気づけたのではないか。
そのほうが、まだ傷は浅かったかもしれない。


そういう両親がいなかったら、どうだったろう・・・


両親がいなければ、「自分は正しい、正しくあるべきだ」と、
正しいの定義も曖昧な偽リアリティー調教をされることもなく、
感情とはうらはらに「そう思い込もう」とする自分の違和感、
自分への不快感も感じることなく、また、「自分は正しい」と根拠なく
自信を持っているように見えたわたしにPさんが目を留めることもなく、
滅私奉公をよしとするような「正しさ基準」からPさんをわたしが選ぶこともなく、
ゆえに出会わず、そうすればPさんと支配し支配される激しい罵り合いによる不快もなく、
また、ダラダラした主体性のない依存関係を無気力に続けることもなかっただろう。

また、調教された「正しさ」らしきを他者に押し付けたり、
滅私や自己犠牲の精神もどきを押し付けたりしてトラブルになることもなく、
それに伴う不快も経験しなくて済んだだろうし、
父親似の気狂いな圧力を相手に与えてしまうこともなかっただろうし、
わたしもまたそういう父親似の「人間が出来ている」といっては近づいてきて、
今度はわたしが利用されるだけされて、脅され、その都度仕事をやめたり、
学校をやめたりして、自分を裏切ることもなかっただろう。

また、トラブルが一見おさまっているが潜んでいるだけの
「滅私奉公」の時期も、たとえ誰かのために何かをしていたとしても、
両親や家族、Pさんや女性や子どもたちのためなら、自分は二の次、
自分はどうでもいいといった、不快を麻痺させながら「葛藤なく自分を裏切る」という
自尊心のかけらもないような行動はとらなかったのではないだろうか。
すくなくとも、おじろくの記事を他の方が見たときと同じように
「おぞましい」「ありえない」「都市伝説だろう」と思うくらいの
正常な嫌悪感は持てたのではないだろうか。間違っても「ラクだ」
「とくに不満はない」といった麻痺には至らなかったのではないだろうか。


・・・


こう考えてみたとき、もしも両親がいなかったら、
わたしの人生は「白紙」だ。

どこも、今の通りになっていないだろうから。


ではどう生きるのか?


自分で自分の人生を決める、その力がないのなら
まず無いと認めたうえで、なぜこうなったのかという
調教の仕組みを直視して、「これでいいんだよね」と
反射的に嘆くのはもうやめて、


自分のことは自分で決める、そのために断ち切るべき毒を、
ちゃんと見て、ちゃんと切り取る。


これが本当に向き合わなければいけない
「自分の問題だ」ということから、わたしはいつまでも
逃げていてはいけない。


◇ ◇ ◇

桜の間の記事
「自分の不快年表を作ってください」
http://www.mumyouan.com/k/?S280

◇ ◇ ◇


2013.11.10
Aby



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by jh-no-no | 2013-11-10 19:44 | 復元ノート 1

(前半) 自分で自分のことを決められるために

60近くの不快な出来事と、それにともなう感情、考えを書き出した段階で、
不快年表全体をながめてみました。

ながめてみて、最初に感じたことは、
不快をあまり感じていない時期が、年表で見た限り、
わたしの人生の約1/3近くはあるようだ、ということだった。

時期でいうと、

【時期 A】 5歳以下の幼少期(もしかしたら8歳くらいまで)
【時期 B】 26歳から30歳くらいの3、4年間
【時期 C】 復元ブログを書きはじまる直前までの約3年間


ではそれぞれどういう時期だったか、と考えてみると、


時期Aは、
「両親や兄弟、家族のために、ただただ従った時期で、
わたし自身、これでいいんだ、と疑いなく思えていた時期」


時期Bは、
「Pさんのために、ただただ従った時期で、
わたし自身、これでいいんだ、と疑いなく思えていた時期」


時期Cは、
「半分Pさんために、半分は仕事で関わる女性や子どもたちのために、
ただただ従った時期で、わたし自身、これでいいんだ、と
疑いなく思えていた時期」


依存対象が変わっただけで、どの時期も同じパターンで、
特徴的だったのは、「その対象ときわめて閉じた関係性」、
クローズドな、密室化した状態にあった、という点でした。


おじろくで喩えてみると、
「兄のため」にただひたすら、忠実に尽くしているときで、
その「家」から出ることなく、楽しみも不満もなく、麻痺しながら、
たんたんと、言われるままに働いてきた時期にあたると思います。
外部との接触も実質上少なく、トラブルも少なかったのです。
(幼少期に関しては保育園にも通っていましたが、友達とも
ケンカ一つしない、子どもらしくないいい子だったようです)

しかも、依存していた相手からは、
「Abyはいいね、すごいね、立派だね」と承認を受けていたので、
たとえ我慢を強いられていても、「これでいいんだ」と思いこんで、
目の前のことを、せっせとこなしていました。


親や家族のためになっているわたし、
Pさんのためになっているわたし、
一人でも多くの女性や子どもたちのためになっているわたし・・・


そういうわたしでいることを、「これでいいんだ」と
強く信じよう、それでいいんだ、と思い込んだ時期でした。
それが不快が極端に麻痺していた時期、A、B、C、です。


60の不快を挙げても、8歳くらいまでの時期は、
3つくらいしか不快が今のところは思いつきません。
それどころか、その不快の記憶くらいしか、
「記憶そのもの」がまだ出てこないのです。
「無明庵と出会うまで」という一連の投稿をブログに書いているときに、
時期Bについては、うすうす「あれ?」とは思っていたのですが、
まったく記憶そのものが飛んでいるのです。
不快があまりないのなら、楽しいことはあったのでは?
ならば覚えているのでは?といくら思い出そうとしても、
なぜか、思い出せない。


不快も麻痺しているのですが、
「そもそも感情全体が、鈍感の底辺にあったのではないか」と
考えてみました。喜怒哀楽をともなわない事実関係は、
めったに記憶に残らないのではないか・・・と推測してみました。

母親からの執拗な我慢の抑圧、「いとこのようになったらうちの子じゃ
ないからね」という脅迫、そして、父親の他者を見せしめにしての
狂気じみた暴力と自己判断力をそぐ格言の羅列・・・
こういったものがあるのに、どうして不快と感じなかったのかが謎だったのですが、
その外側の世界を知らないわたしにとって、親が脅かす
「言うとおりにしなければ、ああなるよ」という架空の恐怖が、
実際わたしが日々感じていた我慢や抑圧を、圧倒したのだと思います。
まったくわたしは楽しくも、幸せでもないのに、
「Abyは幸せね。エライね。」と、言われ続けたこと、
この「閉じた世界」での経験こそが、「正しいこと、いいこと、幸せなこと」と
思い込んだのではないか。思い込ませれたのではないか?

こう考えてみると、かりにこれを「おじろく時期」と命名すると、
時期Bも時期Cも、依存対象を変えたおじろく時期でしかありませんでした。
両親にしても、あるいは、お店の店員にしても、兄弟にしても、また、
Pさんや、仕事で接する女性と子どもにしても、その人たちから


「とても助かっているわ」
「エライのね」
「Abyさんは、すごいね。人間が出来ているね」
「やさしいね」


などと言われると、わたしは、完全に思考停止してしまい、
たとえそこでどんな自己犠牲を払おうと、言われるままに動いてしまう。
そこに違和感も不快感も完全に麻痺してしまう。
それはどうしてだろう、と考え、年表をながめてみた。

気づいたことは、かなり幼少の頃からわたしは、


「わたしは、正しいはずだ」
「わたしは、いいはずだ」
「わたしは、わるくない」
「わたしは、間違っていない」


という〝考え〟が、一貫してあったことでした。

たとえそのとき正しいとかいいとか思えなくても、そんなことはない、
正しくなるはずだ、間違わないはずだ、わたしは正しくなければいけない、
という強迫観念が、今の今でも、ずーーーーとある、ということでした。

年表中の「考え」の欄の、ほとんどにこれがある、といってよいほど、
この考えに毒されていました。つまり、この歪んだ、定義も不明、
根拠も不明な思考ゆえに、その度に、わたしの不快は、
必ず、発生していました。


ところが、この「おじろく時期」に関しては、おそらく、
関わった依存対象相手が、「Abyはいい子だ、Abyさんは立派だね」
と持ち上げることでわたしがうまく動くものですから、そう言うことは
好都合だったのだと思います。簡単にいえば、おだてられて、
のせられて、その時期の依存対象相手に尽くすだけ尽くした、
ということだと思います。わたしは「これでいいんだ」と思い続けられたので、
調教されたとおり、おじろくとしての我慢など完全に麻痺した状態で、
ロボットのように、ただただ、動いたのだと思います。


その時期のあいだあいだにも、もちろん、ふとした拍子に自分と向き合うときには、
「本当にこれでいいんだろうか?」という疑問がつねに発生したので、
不快はまったくなかったか、というと、そのギャップ、違和感はあったはずですが、
そこに向き合わなくても、「Abyさんが必要」という他者からの要求と
おだてが圧倒していた時期だったので、「役に立っているわたし」を演じているだけで、
誤魔化せていたのだと思います。

その意味でも、きわめて不快感が麻痺していた時期が、これらの時期で、
年表で見る限りは、人生の1/3はあったことがわかりました。


・・・


となると、わたしが認識できる不快の種類というのは、
年表を見ると、多くは「他者とのトラブル」による不快でした。

複雑だったのですが、この「他者」には、実は、
両親やPさん、あるいは女性や子どもたちも含む場合があるのですが、
それは、依存しきっていた時期の前後、たとえば、母親ならば
中学の頃の反抗期や、Pさんであれば出会ってからの7、8年、あるいは、
依存関係が崩れそうになる不安定な時期などは、依存相手というより、
むしろ他者として、「他者とのトラブル」として不快が発生していました。

依存相手だったゆえに、その不快感は、
より深く、やりきれないようなときもありました。


それ以外には、学校関係やアルバイト関係、仕事関係など、
外部との接触によるトラブルです。


なにより今回年表をながめていて、一番驚いたことは、
こういった不快の原因が、どこもかしこも、


「わたしは、正しいはずだ」
「わたしは、わるくない」
「わたしは、間違っていない」
「わたしは、いいはずだ」


という、正しさの定義も曖昧なままに、わたし自身、
そう思いこんでいたために起こったトラブルばかりであり、
その結果の「不快」だったのです。

もしも「わたしが正しい」となど思っていなければ、
ほとんどのトラブルは回避できたのではないか、というくらいです。

誰にも相談できない、という思考もしばしばありましたが、
これも結局は、ダメだ、というのを他者に知られてはならない、
なぜなら、わたしはダメじゃないのだから、と必死に隠そう、
逃げよう、バレなきゃいい・・・というのがあったからでした。
元を辿れば、「わたしは正しい」「正しくあれねばならない」という
強迫観念に行き着きます。
強迫性の確認行為も、自分でいいかわるいか判断できないし、
誰にも言えないとなったとき、なんとか自分でいいと思いこもうとする
儀式のようなものだったと思います。


さらに愕然としたのは、
「他者がらみのトラブル」は、大きく分けて、
2種類しかありませんでした。


ひとつは、

● 父親似の恐怖を、相手からわたしに与えられることでのトラブル

もうひとつは、

● 父親似の恐怖を、相手にわたしが与えたことでのトラブル

でした。


わたしが支配されるか、わたしが支配するか、
その2パターンしかなく、そこで不快が発生していました。
その支配し支配される方法が、
「父親似の方法」だったのです。

そもそもわたしが「父親似の気狂い」であったことにも気づいて
いなかったのですが、(もちろんわたしは父親似のような人に特徴的だった
見せしめのような身体的な暴力こそふるったことはありませんでしたが)、
相手に対する「追い詰め方」が、父のやり方と、
そっくりだったのです。


相手に対して逃げられないように(わたしの場合は理詰めで)
追い詰め、「もっと他人に気遣うよう」要求しました。
そのわたしの言う「気遣いや配慮」が、一般社会では
通用しないものだったのです。

というのも、その前提に、「自分を犠牲にして」というのがあったからです。
誰だって拒絶するわけですが、その当時、わたしはなぜそんなに
みんなはわがままなのか、我慢ひとつしないのか、他人を馬鹿に
しているのか・・・ひいては、わたしのことを馬鹿にしているのか?
とまで思い込んでは、つねに衝突を繰り返していました。

思えば、これは、「閉じた家」でしか通用しない、
わたしの滅私奉公の基準を、社会のなかで、とくに
部下の面倒を見る立場にある上司に対して、疑いなく要求していた、
ということでした。

わたしは自分は間違っていない、と思い込んでいるので、
まさかわたしが言っていることがおかしいとは思いもよらず、
まさに上司はおじろくやおばさのようでなきゃダメだ、くらいの勢いで怒鳴り、
トラブルにつぐ、トラブルを繰り返したのでした。
「なんで毎回毎回、この人たちは同じ間違いをするのだろう」と
本気で思っていたのでした。

わたしが恐怖している父親似の気狂いの者たちの言動も、
考えてみれば、このわたしと同じだったのです。


「最初は腰が低く、口を開かず、言われた通りにまじめにコツコツ
仕事をしているのだけれど、少し時間が経ち立場があがると、
急に口を開きはじめ、境界線をこえて相手のほうに土足で侵入し、
滅私の精神や犠牲心、忠誠心のようなものを一方的に相手に要求し始める」


父そっくりであり、父親似の気狂いのやつはみんな同じパターンだったし、
そして、わたしも一歩外に出ると、これと同じことを相手にやっていたのです。
(依存状態が不安定になると、母やPさんにも、より強く要求していました。)


わたしが加害者になるか、被害者になるか、という差があるだけで、
わたしよりも実力(?)が上のヤツなら、わたしは相手を恐れ、
自分を裏切るようにして逃げたし、わたしよりも下だと判断したら、
わたしは相手に自分を裏切ることを要求し、逃げ場がないように追い詰めた、
ということだと思います。

結局、わたしは相手がわたしの思い通りでないと(=わたしのアイデンティティが
崩されるような場合)、わたしが一番こわくて嫌なやり方、支配の仕方で、
相手を追い詰めてきてしまったのです。
わたしの不快以上に、相手は不快だったでしょうが、
わたしは相手に対してそういうおぞましさを与えているとは、
まったく気づかずに、その場を毎回、「わたしが正しいはずだ」で
切り抜けてきてしまったのです。

これは、まったく、わたしの父、そっくりです。
父もおそらく一度も、「自分が間違っている」とは
考えたことはないと思います。
つねに自信に満ちている「ように」見えました。
おそらくですが、わたしの母もそこにひかれた可能性は高いと思っています。
というのも、Pさんがわたしに興味を持ったのも、そこだったからです。


まるでコンプレックスがない「ように」見え、
堂々としている「ように」見える。


それは、ただ、「わたしは正しいはずだ」という病的な自己愛もどきからくる異常であり、
自己嫌悪を克服した結果でもなんでもなく、ただの「麻痺」なのですが、
母やPさんから見ると、自己嫌悪を克服した「歪みのない人間」に、一見、
見えたのではないかと思います。
もちろんそれは、母にとっても、Pさんにとっても、「弱み」でもありました。
母もPさんも、自分が自立できないでいることの不満を、いつも抱えていたので。


・・・


こう考えてみると、
わたしがもしも「わたしは正しいはずだ」などと
そういう考えを持っておらずにいれば、
そもそも、Pさんと出会うこともなかっただろうし、
「Abyさんは人間が出来ている」などという父親似の気狂いと
出会うこともなかっただろうし、当然、わたし自身が相手に、
滅私や自己犠牲的な価値観を押し付けることもなかっただろうと考えると、
他者がらみのトラブルのほとんど、それに伴う不快(失意、不毛感、徒労感、苛立ち、
一方で、こわいといった恐怖)のほとんどは、なかったはずだ、ということになります。


当然ですが、
両親がいなければ、そもそもの

「Abyは正しいはずだ、わたしは間違っていない、わたしはわるくない」

という〝調教〟そのものがなかったはずであり、自分自身に対して
慢性的に抱いている「本当に今のわたしでいいんだろうか?」という不安という
不快は、なかっただろう・・・と考えると、両親がもしもいなければ、
今のわたしの不快のほぼ100%はありえず、そういうことに日々左右され、
怯えずに済んだのではないか・・・


わたしがつねに、「これでいいんだよね」と問う、そして、
誰かや何かにその承認を求めようとするのは、
〝わたしは正しくなければならない〟という、この年表を一貫して記されている
調教由来の思考(洗脳)から、抜け出せていないからではないか。
わたしは「これでいいんだよね」とそう問うとき、わたしはちっともいいと思っておらず、
自分がこれでいいのか、よくないのか、不安で混乱している。

そこでわたしはいつも、「誰かや何かがこれでいい」と言ってくれれば・・・、
と咄嗟に考えてしまうのだが、たとえ「いい」と言われても本心ではそう思えないから、
やはりつねに、「本当にこれでいいんだよね」と自己確認を執拗に繰り返し続ける。
「よくないです」と言われても、ショックは受けるものの、何がよくないのかもわからない
ので、ただただ、自分はダメなんだ、早く正しくあるようにならねば、と何がダメで
何が正しいかもわからないままに、ただ、その思いだけが暴走し、結局また、
「これでいいだよね」と問い始める。何も変わっていない。

問題はそうではなく、「わたしがいいかどうかではなく」、
〝つねに自分がこれでいいのか、よくないのか、不安で混乱している〟
ということそのものが問題で、つまり、今の自分の状態を、自分でまったく
判断できない、ということが問題だったのに、そのモヤモヤや違和感が嫌で、
わたしは、「これでいいんだよね、と私以外の他に問う」ということで、
逃げ回ってきたのだ、ということに気づいた。
「これでいいんだよね」と問うことが、新たに不快を
作り出すことにも無自覚なまま。

わたしは、今まで、
「どうして自我復元をしたいのですか?」ときかれたら、
うろたえてきました。自問することも避けたくなるものでした。
自問しても、いつも、「これでいいという回答」が見つからず、
ここでも同じ罠、「わたしは正しくあらねばならない」という
洗脳から、その自問自体を、拒絶していました。
わたしは自分で自分の状態を判断する基準がわからず、
これに答えられないからです。

その答えが大事だったのではなく、
自分の言葉で答えられないことこそ、
「大問題」だったのではないか?

自分の考えなど、どこにもなかったではないか・・・
Abyは自分でなんでも決められたね、エラいね、から始まった洗脳。

自分で自分のことを決められるようにするために
自我復元をしているのであって、「これでいいんだよね」と
つねに誰かからのかりものの答えに依存し、つねに怯え、
自己確認を繰り返すためにやっているのではない。
それに終止符を打ち、自分のことは自分で決める、という
人間として当たり前の機能を取り戻すために、自我復元をしている。

そう言えるように、曇りなく言えるようになるために、
わたしは今、「洗脳を断ち切る作業」をしているのだと、
ようやく自分の立ち位置が、うっすらだけど見えてきた。


 ・・・ 「(後半) 自分で自分のことを決められるために」に続きます。


◇ ◇ ◇

桜の間の記事
「自分の不快年表を作ってください」
http://www.mumyouan.com/k/?S280

◇ ◇ ◇


2013.11.10
Aby



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by jh-no-no | 2013-11-10 19:43 | 復元ノート 1

(後半) 「自分がおかしい」という感覚

 「(前半) 「自分がおかしい」という感覚」の投稿の続きです。


・・・


前の投稿で

>わたしのPさんへの要求や自己主張など、自己でもなく、
>おじろくならではの主張、おじろく主張でしかありません。

と書いた箇所ですが、このことについても考えてみました。


これは父からも母からも流れこんでいる考えですが、


●「相手のことを考えることが、自分を考えることだ」
●「相手を大事にすることが、自分を大事にすることだ」


というのが、わたしの中に根強くありました。


どうしてこんなものが根強くあるのか、探って考えてみると
いくつか原因があることがわかりました。

まずひとつは、
この考えは、「相手にこの考えを要求しさえしなけば」
問題にならなかった、ということでした。
いや、「自分を捨てて」この格言を実行しているのですから、
最も大問題だったわけですが、そこがスルーしていたわけですから
相手を大事にしたり、相手のことを考えて、それがたとえ
自分を裏切ることになっていても、この格言の通り、
「自分のためになっている」と現実感はなくとも、思い込んでしまう。
つらかったり、こわいと感じたりしたとしても、
それは「許容範囲の我慢」になってしまいます。
そもそも我慢に許容範囲などないのでしょうが、
「したいこともできないことはあって当然、したくないこともするのも
当然」という刷り込みのなかでは、我慢それ自体は、
あってしかるべきものでした。

だから、自分がこれを実行している分には、
問題が見つからない、ということになります。
問題どころか、相手にとってもわたしが「都合のよい」
「なんでもしてくれる」「オールOKな」存在ですから、
喜んでくれたり、ウケがいいことが多く、わたしとしては、
いいことをしているとさえ錯覚します。
子どもの頃お店の手伝いをして、「Abyちゃんはエライね」ということから
得られるものに似ています。いいこと、当然なことをしているという感覚。
「今の自分でいい、といってくれている」感覚でもあります。


ところが、いったん、この格言のようなことを
「相手にも要求したとたん」、社会の場ではトラブルになりました。
わたしはなぜそうなるのか、わかりませんでした。
それこそ傲慢な態度で、相手の理解が足りないと思っていたり、
その傲慢な態度の裏返しで、自分の説明が悪いのか、と考えていたのです。
それは「自分がおかしい」とは、180度、違うものです。
自分がおかしい、とは考えたことがありませんでした。
だからトラブルになっても、トラブルにはなりますが、
「問題」とはわたしは認識できず、相手がおかしいか、運がわるいか、
対処の仕方が間違ったか、といったように、勘違いの判断をします。
ですので、

●「相手のことを考えることが、自分を考えることだ」
●「相手を大事にすることが、自分を大事にすることだ」

というこの根強い考え自体は、揺らぐことがありませんでした。
しかもたちが悪いのは、一見、このような格言はどこかまっとうに感じてしまい、
相手も反論しないので、わたしが「勝った」と思い込んでしまうのです。
アルバイト先ではよく上司とこういうことになりました。
まるで反抗期に母親相手に怒鳴るようなものでした。

さらにたちが悪いことに、クレーム処理などの歪んだ特技から、
会社はたいていわたしを管理的な役職につけたので、
上司はわたしがガヤガヤ言っても、見てみないフリをして、
今思えば、上手くわたしを流していました。働いてさえいれば、
よく気づきもしたので、上手くわたしを働かせる方向に仕向けていました。
わたしも部下を守っているような構図になるので、わたしも
自分がやっていることは、武勇伝とさえ錯覚したのです。


ここで、通常は社会からダメだしされて、おじろくに
ひっこめばまだよかったのですが(よくないですが)、
わたしは他者からダメ出しされる、ボロボロに言われる、
という経験が完全に不足していました。
調教由来のおじろくは完全に調子にのってしまったのです。
ある意味、やりたい放題でした。
これがどういう状態だったか、というのを、今回はじめて見たとき、
「自己愛性人格障害」「境界性人格障害」というものに、
見事にぴったり重なっていました。
その意味では、おじろく・おばさよりも重度と思いました。

おじろく・おばさの場合、もう一度記事を読み直してみると、
少なくとも社会の場になじめず、元のところに戻りますし、
そういう自分に対して、「自分は何もできない」「自分はダメだから」と
少なくともそこに自己嫌悪があります。
でも、わたしの場合、それすらも欠落しています。


・・・


●「相手のことを考えることが、自分を考えることだ」
●「相手を大事にすることが、自分を大事にすることだ」

これを他者に要求するとはどういうことだろう?と考えたとき、
わたしがやってきたことというのは、他者に対して、
「したくないことも相手の要求次第ではしなきゃだめだ、
したいことも相手の要求次第でしちゃだめだ」というのを押し付けることであり、
つまり、毒人間の最たる加害、「自分を裏切ること」を相手に強いることでした。
当然、自分もそれを自分で実行しているのだから、自分に対しても
「自分を裏切るように」強いています。

わたしは初回の自我判定依頼のときに、
「相手から頼まれたら断れない」と書いたのを思い出しましたが、
それは結局、自分を裏切ることであり、そういうおじろくのようなあり方が
自分のアイデンティティである限り、相手にもそれを要求してしまうのです。
その段階で、離れる人は、わたしから離れていきました。
どうして離れていったのか・・・それに気づいたのが、
おじろく・おばさに関するの「感想」を読んだときでした。


・ありえない
・よく発狂せず生きていられるな
・見たくないものを見てしまった。
・順応していくみたいなのです(すごく不思議・・・)
・これは本当の話だろうか。作り話じゃないか。
・都市伝説だと思う


このおぞましさに対する拒絶をまわりの人は感じ、
離れたり、距離をとったのだと思います。

この自己犠牲という間違った奉仕こそ、
わたしの父がずっとやってきたことであり、わたしはその父そっくりになり、
自分への加害と他者への加害を繰り返している。


・・・


わたしは、小さい頃、ダンボールの切れ端やセロハンテープ、
そういった「設計図のないもの」から何かをつくるのが好きでした。
白紙から自由に考えるのが好きでした。
そういう意味では、妄想するのも大好きでした。
だから学校の図工などのように「これをつくりなさい」と言われると
とても窮屈で、わたしは学校から帰ってきて、店にあるそういった
いろいろな歯切れや材料から、たとえば自分でお菓子の自動販売機を
つくってみたり、そういうことが好きでした。

わたしはこれだけは、「自分の意思」だったのではないか、
と思っていたのですが、今回、いろいろ分析をしてみて、
どうだろう、と思いなおしています。

というのも、これこそ、おじろくのような抑圧からの反動だったのではないか、
と思うからです。だって、わたしが好きだったこういうことは、
完全に「おじろく基準」からは失格になるのです。
おじろくは、まず、したいことがあっても、決まっている枠組みがあったら
ダメなんです。したくないことがあっても、決まっているならやるんです。
そういう世界です。「兄のために尽くす」というルールがある。
それと自由創作や一人妄想の世界は、
どこにも接点がないように思う。

だからおそらく、わたしは、その窮屈さから、一人で妄想したり、
一人で作ったりしたのだけれど、それは我慢の反動として自分がつくって
しまったAC人格ではないだろうか?
こういう妄想は、やはりどこかでおかしくなるもので、
成人近くになるにつれて、これは、それこそ自己愛性人格障害の様相を強め、
だから、社会とぶつかるようになったのだと思います。

そして最悪なことに、
このAC人格とはいえその人格が抱いていた「したいこと」というものを、
イコール、「Pさんのお世話」や「おじろく」というものに、
わたしがすりかえてしまった、ということをしてしまった。


これはわたしが一番やってはいけないことだったと思います。


AC人格だからこそ、妄想のなかでは「したいことをし」、
学校や家庭などの日常世界では「したいことを我慢し」、ということをやって
ギリギリの抵抗をしていたのに、妄想の世界を社会に持ち出して
「上手くいかなかったから」という理由で、その妄想すらも消してしまった。
この時点で、おそらく、AC人格は被調教人格へと
転落したように思います。

毒親から調教されたとしても、
人間をやめる一線をこえてしまった、
ゾンビになることに甘んじ、自分を裏切ったのは、
大人になった今のわたしでした。


・・・


この最初に抵抗したであろうAC人格も、元はといえば、
調教によってつくられたおじろくゆえの妄想から来ていると思った。
このおじろくゆえの妄想は、「自分のことに関心を持ってくれるはずだ」
というモチベーションから発生しているから、幼い頃に、ほめられたり、
もちあげらりたりして「おじろくとして合格点をもらった」わたしの中には、
さらにAC人格がつくりあげた「自由人としてのわたしのイメージ」は
「さらにみんなに認められるようなわたしになるに違いない」という動機が
どこかに潜んでいる。しかも親からは、「Abyは社会に出たら、その時は、
自立して自由に好きなことをしなさい」と言われてきたのだから、わたしはずっと、
その日を心待ちにしていたのです。まさか洗脳を受けたなどとは思いもよらず、
「見ていてね、お母さん、お父さん!」というくらい暢気に
わたしは成人してしまいました。


・・・


少し話がそれてしまうのですが、
わたしの口癖で、Pさんにも反射的にそう言ってしまっていたように、
「好きにしたら」とか「どっちでもいいよ」というのがあります。
思えば、これは完全に父の口癖でもあり、完全に感染しています。
この言葉の特徴は、この言葉を発するときに、「何も考えていないこと」です。
反射的に、とりあえず何も考えずに、そう口にする。
では、この反射的な言動の背景にあるのは、
「他者を意識してからの言動」ということがあります。

まず「自分」ではなく、他者が先にあって・・・というか、他者がすべてです。
当然ここでは、自分を最初から捨てていて、だから簡単に、
どっちでもいいよ、となどと「何も考えずに」言えるのです。
自分のことが頭にあれば、何も考えずにどっちでもいい、とは言えず、
せめて考えて本当にどっちでもいいならそう言うだろうけど、
自動的、反射的にそう言うことはないと思われますが、わたしも
父と同じような口癖をしている。「好きにしたら」というのも、
何も考えずそう言われたら、言われた相手だって、
「なんて無責任なんだろう」と思うと思います。
以前母が、そのことを父に指摘したこともありましたが、
まったく何を言っているか、わからなかったと思います。
(わたしもわかっていませんでした。)
それどころか、母が「わたしはこれ」と決めると、父は
「子どもよりも自分なんだからね~、本当にお母さんはわがままなんだ」と
毎回毎回、子どもの前で言っていました。
母もそういう父を選び、調教に加担したのはたしかですが、
こういう局面では、父によって母は子どもへの見せしめに
利用されたのだと思います。


・・・


母について、ですが
母の父親は、母のことを過剰に保護する一方、
母の兄たちに暴力を振るったということでした。
そして、その兄たちをかばったのが、母の母親です。

おそらく母は、兄が暴力をふるわれるのを見て、
それこそわたしの父と同じように「ニヤリ」と味方合図を出されて、
洗脳されたのだと思います。
そして、母を守ってくれたのもその父親だったわけですから、
きっと似たような男性として、今のわたしの父を選んだのだと思います。
そして母は母親の愛情を求めていたけれど、得られなかった。
そしてそれを奪った兄を恨んでいる。
このことに関しては、わたしの父もまったく同じ生育環境にあります。
父は母を選び、母は父を選んだのも、納得しました。

また、母は兄たちから「お前は自立できないな、いつまでも」と
笑われ馬鹿にされてきたようで、おそらくその代理復讐として、
「兄」という立場にあったわたしに、自立を過度に強いたのではないか。
「甘えてならず、我慢をすること」が、母が勝手に解釈した自立だったようにも思う。
同時に、母は「もっと自分のことを見てほしかった」という感覚を
強くもっていたし、それは父も同様、持っていたので、
過剰に子どもを監視した、という側面が確実にありました。
自立を促すこととは真逆な干渉をしていた、ともいえるわけで、
まったくそこが矛盾していました。
「自立」とは言葉ばかりで、母は自立を知らないで育ったし、
父も言うまでもなく、自立と無縁な育ち方だったから、
母と父が口にする「自立」とは、漠然としたもので、今思えば、何か、
「解放される」というくらいなものでしかなかったのではないか、
ということに、今日、ふと思いました。

何も考えないで口にする「自由」と同じくらい意味のない、
ただの不満の反動から「自立ってたぶんこういうものだろう」という程度の
意味あいしか持っておらず、「自立しなさい」「自立がいい」というだけで、
実体は監視、言葉は自立という、まったく子どもからすれば混乱しか
生まないようなものだったに違いない。

その証拠に、そうやって育てられたわたしは、
Pさんの自立を謳い応援し、実際にやっていたことは
Pさんの監視だった。

呆れることに、わたしの父が今でも言っているのは、
「自分の幸せは、自分が決める」である。完全な言行不一致。
母は母で、今でも、「自分が夫(=わたしの父)からどう見られているか」を、
いつも気にしている。自立をなによりも謳ってきた人なのに。


・・・


「したくないことをするのは当然。したいことができないのも当然」

という洗脳に、わたしはどこかで、それが窮屈だった感覚があります。

わたしがそうやってひきこもるほどに、たとえば学校の通知表などに
「協調性がない」と書かれて、親はわたしに習い事をさせたのだと思う。
実際、協調性を伸ばそうとするような目的でやらされた習い事もあった。
本当につまらなかった。

習い事も「わたしがやりたいといってやっていた」と思い込まされていたときは
「そうなんだ。わたしは、週7日間、習い事を自分でやりたいといったなんて、
頑張り屋だったんだな」とそう暢気に思っていたけれど、そうでないと知った今、
しかもつまらないようなものまで強制的にやらさられて、
あれは虐待とも言えるのではないだろうか。

なんで自主的にやってきたことばかりなのに、
こんなに違和感があるんだろう・・・と思ってきたわけだけど、
違和感があって当然だと思う。
どこにも主体性などなかったのだから。


本当にしたいこともわからず、
本当にしたくないこともわからない。


この気持ち悪さから目をそらさないようにしたい。



2013.11.04
Aby



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by jh-no-no | 2013-11-04 06:36 | 復元ノート 1

(前半) 「自分がおかしい」という感覚

「おじろく」のことを、もう一度、考えていました。

あまりレッテルを自分にはって考えるのもどうか、とは
思ったのですが、父に似ている以上にわたしにそっくりだったので
調べてみることにしました。

おじろく・おばさについては、それほど文献がないみたいで、
ネットを検索しても、元の記事は同じものが多く、
それについての「感想」を書いているサイトがほとんどでした。


いくつか見ているうちに、ハッと思ったことがありました。


どうやら、多くの人にとって、この「おじろく・おばさ」の存在は、

・ありえない
・よく発狂せず生きていられるな
・見たくないものを見てしまった。
・順応していくみたいなのです(すごく不思議・・・)
・これは本当の話だろうか。作り話じゃないか。
・都市伝説だと思う

というコメントが多くを占めていて、その存在のおぞましさに
目を覆うか、存在すら認められない、というものばかりで、
「こういうことあるよね」というコメントは、ほとんどありませんでした。


それではじめて、わたしは、「自分がおかしいんだ」と
気づいた。


わたしは、このおじろくやおばさの存在を知り、見て、
それほど、おじろくやおばさとして生きた人々の感覚が
おかしいものだとは感じていなかったのです。

同時に思ったことは、わたしはこういう生き方におぞましさや
それほどの違和感を抱かないような「洗脳」をされたんだ、
そうやってわたしは調教されたんだ、と。
父は実際、実の「兄」のために働くような存在でしたし、
そうあるように、また、そこから逃げ出してはならないように、
実の両親から抑圧を受け続けて育ちました。

ところが、父がそれについて語ると、いつもそれは
自慢話になってしまっていて、そうやって親孝行している、
この仕事を守っている、そうやって家族を守っている、
そうやってAbyを守っているんだ、というふうになるのです。
こういうのがさも当たり前かのように、
きかされてきました。

わたしもよく店を手伝っては、お手伝いしてエライね、
と誰からも言われました。エライと言われても、褒められた、
という感覚は薄く、当然のこと、と思っていました。
ですから、他人をうらやましがる、ということもなく、
今いる自分の世界に疑問を感じることもなかったのです。
特別楽しいこともなく、つらいこともなく、
まわりに都合のいい子、だったのだろうと思います。


まったくそれは、父の生き方の真似のようです。


わたしはそういう父の生き方は、
誇り高い生き方だと刷り込まれてきたので、
それ自体に違和感どころか、むしろ立派とさえ思うように
なっていたので、おじろくやおばさの生き方を見ても、
立派とは思いませんでした(さすがに成人後は父をみて
立派とは思いませんでした)が、おかしい、とも思わなかったのです。
滅私奉公は、ごく普通の世界観として洗脳されたのだと思います。


この、「おかしいとも思わない」ことが
どうやら、わたしの感覚こそ、おかしいのではないか・・・
いや、わたしが相当、おかしいのではないか。

自分がおかしいのではないか・・・
ということを(それこそ異常ですが)、今まで感じたことがなかったのです。
違和感だけはありましたが、「自分のどこがおかしいか」
と自問しても、それがまったく、わからなかったのです。


こんなこともあったためか、わたしはPさんとの会話にも注目してみると、
あらためて、ハッと気づいたことがありました。
Pさんの仕事の話をきいた時ですが、Pさんがどっちの案にしようかな、
というようなことをつぶやいていたときに、わたしは反射的に、
「好きにしたら」と口にしていました。それに対して、Pさんは、
「Abyは、後悔とか、コンプレックスとか感じないから、
好きにしたらいいとか簡単に言えるんだよ」と言いました。

こういうPさんの返答も、まったく珍しいものではなく、
15年以上の間、何十回ときいてきているのですが、
たったの一度も、その返答が気にかかったこともなかったのです。
それのどこがおかしいのか、とさえ、思ったこともなかったのです。
おじろく、おばさの存在に違和感を感じないのと、同じです。


もうひとつ、これも、まったく今までは完全にスルーしていた
のですが、それにひっかかり、ハッと思ったことがありました。
父の口癖について考え始めた頃は、まだわたしは「洗脳された」
という感覚が薄く、「洗脳」ということについても
考えてことがありませんでした。
桜の間の過去ログで、次の記事を見つけ、そこにリンクされていた
人格障害の記事を読みました。


桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S162


おじろくにしてもそうですが、それを鵜呑みにしたり、簡単にレッテルを
貼ってしまうのは注意したいと思いますが、この2種類の人格障害の
記事を読んだとき、「これはまったくわたしだ」と思ったのです。
それぞれのなかにもいろいろなタイプがあるのですが、わたしの場合、
横断的にそのタイプをやりつくしているのではないか、と思うほど、
その通りでした。

この場合もそうですが、わたしは今まで、自己愛性人格障害や
境界性人格障害というものがどういうものか、
知らなかったわけでもないのです。
ただ、わたしは、ずっとこのような特徴を目にしても
自分のことだ、と思ったことが一度もありませんでした。
それどころか、一項目もあてはまらない、とさえ思っていたほどで、
「こういう人もいるのか」というほどに、100%他人事だったのです。


・・・


どうしてこれほどに、他人事で、自分に関係ないと思っていて、
それどころか、自分はおかしくない、わりと普通だ、と思っていたのか。
これほどにズレていたら、まわりもわたしに対して普通でない反応を
してきただろうに、わたしはその反応や反応が意味することを、
気にしたことが、おそらく、今までなかったのだと思います。

上手くいかないと、「どうしてだろう」くらいは思うのですが、
自分がおかしいというふうには思ったことがなく、
「やり方が間違った」とか、「わたしが我慢すればよかった」とか、
「相手がわかってくれなかった」とか、どれもこれも、
検討はずれな原因追及をしていたのだと思います。
そもそも検討はずれですから、同じようなことが起こっても、
いつも同じようなことになって、「また同じパターンか」で、
これまた問題なことに、それで毎回、済ましてしまっていました。
運が悪かった、くらいにしか考えていないのです。
だから、そのような事態になると(さらに、それが父親似の
ものからの恐怖が関係すると)、とりあえず、その場を都合よく
おさめようと反射的に動いてしまい、どうせ相手はわかってくれない
のだからと決めつけて、わたし一人が我慢すればいいんだ、という
自分への裏切りを躊躇なくしてしまったのです。


どれも共通するのは、

「自分がおかしいとは考えたことがなかった」

ということでした。


・・・


一週間近く前の夢ですが、とりあえず夢のなかで、
起こることに対して「なんとかしよう、対処しよう」の繰り返しでした。
こういう夢そのものは、わたしはよくある内容で、夢でなくても、
日常生活でも、クレーム処理もそうですが、だいたい同じなのです。

ただ今回は目が覚めたときに、さすがに疑問に思いました。
なんでわたしがなんとかしようとしているのか?
夢のなかでも起きていることは、いつもただの「対処、反応、作業」で、
どこを探しても「自分の動機」が見つからない。
これはしばしば日常生活のなかで、わたしがテープレコーダーのように
反応で話してしまっているのに似ていて、まるで機械。
わたしは反射的に「わたし以外の何かや誰かのために」
何かをしようとしている。夢の中でも、日常生活でも。

こういう夢はあまりに日常的なので、今まで何も疑問に思わなかったけれど、
なぜか起きたときにすごく疲れた気がして、いったいどうなっているんだ、
と考えたとき、こんなことを感じたのです。
このときは「自分がおかしい」とははっきりとは認識できなかったのですが、
今振り返ってみると、なんでもない夢にあれほど、自分は何やってるんだろう、
と思ったのは、当然思うべきことを思っただけだったのだと思いました。


・・・


Pさんとのことで、思い出したことがあります。

「後悔とかコンプレックスとか感じないから・・・」と言われたとき、
Pさんが昔よく、「Abyが恨みだとか後悔だとかそういうのがない人のようだから、
どうやったらそうなれるのか興味を持っていた」ということを話していたのを
思い出しました。なぜこれも、何度もきいた台詞なのに、わたしはまったく
スルーしてしまっていたか考えてみると、「後悔しないようにするのは当然じゃないか、
恨みもわざわざ抱かなくてもいいんじゃないか」とわたしは本気で思っていたので、
それが何も特別なことだとは思わなかったから、Pさんがどこに興味や好奇を
抱いたのかわからなかったし、意識にも留めなかったのです。
まさかわたしが後悔とか恨みといった感覚そのものが麻痺しているなどとは、
思いもよらなかったからです。

考えてみると、悔しいという感覚も麻痺しています。
学生の頃、部活動で「力があるのに選手に選ばれないのを悔しいと思わないのか!」
と部員の前で監督から怒鳴られても、なんとも思わなかったのです。
力があるのに選手になれないのは、わたしのせいなの?とさえ考えていて、
まさか、力点が「悔しいと感じないのか!どうしてなんだ!!」ということにあるとは
思いもよらなかったのです。わたしは別に選手になれなくても、勝てなくても、
ただ練習することに精神的な苦を感じなかったから、目的がなくてもただただ
練習をした・・・これを思い出したとき、これはまるで、おじろくがただただ働くことに
疑問を持たず、特別不満にも感じなかった、という感覚と同じだと思いました。

Pさんにとっては、わたしという存在は最初は興味と好奇の対象だったのだろう、
ということをあらためて認識しなおしてみた。そう考えてみると、その後の展開が
わかりやすくなってきた。Pさんから見て「一見クールで、スマートに見えていた
わたし」の姿は、ある時からはPさんの目からもどこかおかしい、
と見えたのではないかと思う。おそらく、
「ただ鈍感なだけなのではないか・・・」という見方に変わったように思う。
(これは思い返すと、Pさんだけでなく、他の人もそう感じてそうな人がいました)


一方で、わたしも次第に、「妙な主張」をしなくなりました。
妙な、というのは、以前ブログにも書いたけれど、わたしは大学を卒業し、
Pさんとの共同作業に夢を抱いたとき(結局それは依存でしかなかったが)、
わたしは慣れもしない主張をしはじめた。普通、主張というのは「自分のこと」を
主張するだろうに、わたしは母に対する反抗期もそうだったけど、不条理や苛立ちを
感じるのはつねに「相手のこと」でした。なぜ、自分を大切にしないのか、とか、
どうして矛盾することを平気でやっているのか、とか、どうして言っていることとやっている
ことが違うのか、とか、目的と手段がどうしてあべこべなのか、さらに、それあべこべに
気づいているのなら、なぜそれをなんとかしようとしないのか、などなど、
他者、相手との衝突は、つねに「相手のこと」だったのです。


あるとき、外部の人との仕事のときに、直接、担当者から
こう言われたこともありました。


「〝Abyさん自身は〟どう考えているのですか?」と。


そのときわたしは、この人は何を言っているんだろう。というか、
何をきいていたのだろう、これだけ延々と話していたのに、と苛立ちました。
わたしの意見とかじゃなくて、客観的にどうしたらいいのかを話しているのに、
どうして「わたしの意見」とか言い出すのか、まったくわからなかったのです。
つまりわたしは、ごく普通の「自己主張」というのを、ずっと経験しないまま、
ずっと育ってきてしまったのです。


今思い返せば、Pさんと出会って、とくに口論が激しかった前半の時期は、
Pさんからすれば、恨みもせずコンプレックスもなさそうなわたしという存在に
興味を持って勘違いした期待をし、一方のわたしも、今まで発揮できなかったと
思い込んでいた勘違いした自主性を、「いざこれから発揮するぞ!」と
「間違った自己主張」でPさんに要求ばかりを繰り返していた、そういう時期でした。
そもそもがお互いに勘違いしまくった関係だったのです。

衝突も多かったのに、なぜか、そこで関係を続けてしまったことで、
結局は、わたしは、Pさんという「兄」に奉仕する「おじろく」といった関係に
落ち着いてしまった、という展開だったのではないか。
関係を続けるため、依存を続けるためには、これが唯一可能な関係性だったろうし、
考えようによっては、むしろ、この依存関係、世話し世話されるという関係性が、
最初からすでに用意されていたのではないだろうか。実際、
わたしのPさんへの要求や自己主張など、自己でもなく、
おじろくならではの主張、おじろく主張でしかありません。
(このことはまた後でノートしたいと思います)

Pさんにとっては、わたしはある種、怒りや恨みの吸収剤になったのではないだろうか。
思えば今まで随分、Pさんの怒りや恨みをクールダウンさせる役割を担って
きたように思います・・・いや、そうでないかもしれない。むしろ、怒りや恨みを
出せなかったPさんの子どもの頃の人生に対して、
「わたしがそのクッション材になるから、どうぞ怒りも恨みも、わたしにぶつけていいよ」
とわたしがしてしまった、そしてそれはPさんにとっても都合がよかった、
ということがあったように思います。

一方、わたしは、父(母も加担)からの調教からはじまり、お店の手伝い、母を守ること、
兄弟を守ること、家族を守ること、成人してからの自分探しの時期にはそれにかわって
「今の自分でいい、といってくれる何か」探しで、いろいろな考えや理論や思想に依存し、
社会に出たら出たで、結局、主体性などどこにもないわたしが勘違いしまくって他者に
撒き散らした毒人間ぶりによるトラブル続きから、それに嫌気がさして、
自分を丸投げ捨てして、Pさんというものに今度は依存。
Pさんのおじろくになったのです。


今から8年前くらいからの5年間くらいですが、このおじろくですらなくなった時期、
おじろく解雇になったような時期がありました。
Pさんのためになっているとも思えないような出稼ぎの時期です。
ある意味、この時期はつらかったです・・・考えてみると、
わたしがつらいという不満感覚をもっているのは、この
「おじろくにもなれない時」でした。

たしかおじろく・おばさの記事のなかでも、彼らは村を出たとしても、上手くいくことなどなく、
必ず元のおじろく・おばさに戻ったといいます。わたしもまさにこの通りの道をたどりました。
2010年頃からは、亡霊のようにPさんのおじろくでありながら、
もはやPさんのおじろくとしても役立たずになってしまったため、
内職を始め、(仕事のためと言いながら実は)別の他者に「依存対象の幅」を広げました。
どのような対象にしたかというと、男性以外です。
思えばこれも、父親似の恐怖から、男性の存在を遠ざけたかったのではないかと思います。
これ自体が、父の調教由来の選択だったと思います。


このような流れで見てみると、小さい頃から今までわたしがやってきたことは、
おじろくとして奉仕する「兄」の対象を変えながら生きてきた、ということが見えてきました。
Pさんとの出会いも、Pさんがわたしを「クールな人」と勘違いしたとはいえ、
そもそもその勘違いはどこに由来するかといえば、わたしをおじろくのような無感動な
人間に仕立てあげた両親の調教が発端であり、その影響がPさんの関心をひき、
わたしたちの「はなから間違った依存関係」を築き、継続させてきたのだと、
やっとこのあたりが見えてきた。

わたしは当初、もちろん自分がおじろくのようだ、となど考えていなかったので、
Pさんという存在は、どこか翳りがあるように見えて、わたしを必要としている、と思っていました。
おそらくそれは、今思うには、その翳りとは、恨みとか怒りとか、他者の目とか、そういったことに
Pさんが足をひっぱられていて、Pさんの本領が発揮できていないとわたしが感じ、それを
もどかしく思ったのだと思います。わたしは自らPさんにとっての、怒りや恨みの吸収剤になろう、
と思ったのかもしれない。それももちろん、調教由来の反射的欲求だったように思う。


・・・ 投稿が長くなってしまったので、
   「(後半) 「自分がおかしい」という感覚」に
   続いて書きたいと思います。




2013.11.04
Aby



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by jh-no-no | 2013-11-04 06:35 | 復元ノート 1