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(4) 父の調教

「(3) 父の調教」の続きです。

※ 崩残さんからのメールの引用は、ピンク文字で記します。


・・・

(前半、略)

ここは私も気になる点です。
推測ですが、
これは、そちらの両親が共に、兄しか大切にしない家庭で
育ったとしたらば、
その「兄」の立場である自分の子供を「ダメ」に仕上げることで、
本人の中の「報復」「代理復讐」が成立するのではないでしょうか。

自分たちが受けた不快感の「反動」で、
「自分たちにとって」理想的な良い子供に育てていると口では言いながら、

兄という立場にいるあなたを使って、
彼らの兄への復讐をしている面があるということです。

あなたをダメにして、支配したり、逆らわないように調教すれば、
それが彼らの兄への代理復讐をしている気分になっているわけです。

(以下、略)



この部分について、この数日考えていました。
いったい、父や母は、わたしをどのようにして代理復讐をはかったのか、が、
わかるようで、どこかよくわからないままだったのです。

たしかにわたしがこれまで書いてきたような状態に陥れば
ざまーみろ、ということかもしれない・・・でもどこか、
それだけでは、どこか、しっくりこない。。。

これを考えるにあたっては、Pさんとの出会い、そのタイミングについても
考えることになりました。

崩残さんから、Pさんについて、こういうメールもいただいていました。


私がもうひとつ、Abyさんに尋ねたかったのは、
父親や母親のそうした意向、無自覚な悪意は、
Pさんとの生活をすることを決定したことに、
影響していなかったかどうかです。

もしや、Pさんも、そちらの毒親の思うツボの相手だったのか、
それとも、その部分は、Abyさんの父親への反感から選んだ相手だったのか、
といった、いくつか想定される可能性についてです。



ブログにも書いてきたことですが、
Pさんは、わたしが依存の対象として選んだ人でした。
そのときは、そうは思わず、Pさんの夢を支えよう、
Pさんにはわたしが必要なんだ、この出会いは運命的なものなんだ、と、
運命などまったく信じていなかったわたしが、そう思ったほどの
インパクトとタイミングでした。

このタイミングは絶妙だったと思います。
とくに同居に至るタイミングは、ぴったりでした。

何がぴったりだったか、というと、わたしと学校との関係、
わたしと家族との関係、そういったものが、バラバラになり、
過去も未来も、なんだかどうでもよくなってしまった、と
わたしが考えてしまった「そのタイミング」に、Pさんとの同居が
本格的にスタートしました。

その時のわたしは、自分探しのようなことにも希望が見えず、
「今の自分でいい、と言ってくれる誰かや何か」が見つからないままでした。
何かに自己同化をしては、それもまた、不安定になり、不安になる。
おもにそれは、書籍からの理論や思想、考え方にすがったときでした。
精神世界のコーナーを知ったのもそのときでした。

そのような中で、わたしは精神的にも物理的にも居場所がなくなり、
そのときに、それこそが道であるかのように、目の前にいた人がPさんでした。
恐怖に甘んじていたわたしにとって、Pさんとの人生のはじまりは、
そのときのわたしにとって、「進むべき唯一の道に見えた」のです。
Pさんのやりたいことに、わたしがのっかることで、依存することで、
また、Pさんからも必要とされることで、「今のわたしでいい」と自分に
言い聞かせようとしたのだと思います。


・・・


Pさんと日々会話をしていて、思うことがありました。
Pさんとだけとは限らないのですが、最近になって、Pさんとの関係を
できるだけ冷静に観察するなかで、気がついたことがありました。

それは、まったく、といってよいほど、
感情が動かないことが多い、ということです。
たぶん端から見ると、この二人何が楽しくて一緒にいるのだろう、
と思うと思います。そんなことすら、わたしは考えたこともありませんでした。

たとえてみると、テープレコーダーを自動再生しているように、
何も考えなくても、ペラペラ話しているだけ。それにふと気づくと、
「わたしは何をやっているのだろう・・・」と、その不毛な会話に、
この頃、徒労感を抱くことが多くなってきたのです。

こういうパターンは、Pさん以外との会話でも同じことが
よく起こります。とりあえず、発言をした後に、妙に
居心地がわるいのです。なぜかわからないのですが、
価値がないとわかっていたのに、やってしまったときの後のような
そういう居心地のわるさです。

今まではどちらかというと、それがラクでした。
頭を使わなくてもペラペラ言葉が出てきて、それとなく
会話が進んでいく。そんなことをしながら、お茶を飲んだりする。
馬鹿馬鹿しいことですが、わたしはそれが「幸せだ」とさえ
錯覚していたのです。

Pさんとの依存関係を掘り下げていく段階で、それは
わたしにとってしんどい作業でしたが、その依存を見ないフリをしない
ことで、わたしはこの歪んだ幸せ、これは、歪んだ安全に似ていますが、
そういうものをまるで「ご褒美」のようにして生きていたことに気づきました。
これもへんなたとえですが、わたしとPさんとの関係は、
虐待家庭のなかの親子関係みたいなもので、わたしがPさんの気を
そこねないならば、飴をくれる。Pさんの気をそこねたら、
拒絶されて脅される。もちろん、それはわたしが「依存」をPさんに
求めていたからこそ成立するものだったわけですが、その「依存」と、
Pさんからの「拒絶」の繰り返しが、依存の歪みを一層酷いものにしたように思います。
そこでのほんのそういうささいな「飴」「快」こそが、わたしにとって、
快や安心、場合によっては、幸せの定義にもなってしまっていました。

そこを考えているときにふと思ったのです。

Abyがそういうふうになって、父はどう、「ざまーみろ」となるのだろうか?
また、母もどう、「ざまーみろ」となるのだろうか?

そう考えたとき、わたしは、ふとあの「おじろく」を思い出しました。
「あの硬い表情は、父親そっくりだ」などと言っていましたが、
いや、あれは、わたしにもそっくりだったのです。

わたしは「おじろく」になったのか・・・

http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html

このサイトの記事を何度も読み返しました。
そこには、こう書かれています。

 >無感動のロボットのような人格となり、言いつけられたこと以外の
 >行動はできなくなってしまう。

 >将来の夢どころか趣味すら持たず、ただただ家の仕事をして
 >一生を終えるのである。


また、おじろく・おばさは、こう質問に答えたとある。


 >「他家に行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。
 >面白いこと、楽しい思い出もなかった」

 >「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいて
 >ばからしいとは思わないし不平もない」


最初にこの記事を読んだときは、父こそこれだ、と思っていたのだけれど、
父の調教を掘り進めていく過程で、再度これを目にしたとき、

「これこそ、わたしが歩いてきた道だったのではないか」

と、まさに、わたしがおじろくだったことに気づいた。

さらにこう書かれている。

 >なにごとにも無関心で感情が鈍く、自発性がなくなった様子がうかがえる。

と。

わたしは、ずっと、こうはなるまい、と思って生きてきたつもりだった。
でも、わたしは、いつのまに、この「おじろく」そっくりになってしまった。

父のニヤリ顔を思い出した。
そして父はこうあざ笑っているように思えてならなかった。

「自発性とか、主体性など、本当はお前はないんだよ、Aby。
自分で決めてきた、と思っているかもしれないけど、本当は違うんだ。
お父さんが決めてきたんだよ。ほーら、結局、Pさんの世話役だ。
お父さんと同じだ。それでいいんだ。奉仕すればいいんだ。
お父さんがやってきたのと同じようにな。お前は「兄」というたいそうな
立場かもしれないけど、ざまーみろ、だ。おじろくにしてやったぞ!」

Pさんとの出会いや、同居のタイミングは、
おもに父と母の関係や父の仕事のゴタゴタと絶妙なタイミングだったのも、
無意識に、わたしをそうおとしめるためだったのではないか?
とさえ、思うようになってきた。

かつて、こう父が言っていたのを思い出した。

「二人はいいパートナーだ。Pさんが表舞台に立っているように
見えるけど、お父さんは知っているぞ。陰で支えているのは、Abyだ、
っていうことを。見なくてもわかる」と。

先にも書いたけれど、わたしはずっと父は子どものことを
よく言ってくれている、と思い込んでいたので、わたしの努力を見てくれている、
見なくてもわかってくれているんだ、と、ただそう思ってきいていた。


ただ、今これをきくと、ぞっとする。


ざまーみろ、一生そこから抜けられない「おじろく」の
出来上がりだ。


わたしは猛毒父が、自分の存在証明のための作品として
父に貢献するという罠にはまったのだ。


わたしは「何でも自分で決めてきた」ときかされてきたから
頭ではそう思ってきた。ところが、わたしは、つねに不安で、
「わたしは何もわからない」という感覚があり、「今のわたしでいい、
と言ってもらいたい」という思いを持ち続けた。
主体性を言葉でたくさん「聞かされて」おきながら、実際は、
主体性も自発性も、まったく身につけてこなかった。
わたし一人、「自分は個性的で、主体的で、自発的で、独創的だ」
と思い込んできたのです。


実際とは違うすりこみ。

それこそ、調教。

そこには、実体がない。自発性とは言葉ばかり。

だから矛盾する。

ない自発性やない主体性を、わたし一人「ある」と
思いこんでいるから、当然、勘違いが起こる。

実体のないものに影響されまくっている。

実体のないものを子どもに植えつけることで、
それに従って子どもは影響を受け、反応し、行動する。

実体のない恐怖を植えつけることで、
自分の手は一切よごさず、子どもに暴力の証拠を残さず、
卑怯な方法で、調教する。


わたしは調教されたんだ、と知ったとき、残酷だけれど
認めなければいけないと思ったのは、
「わたしは自分を生きたことがない」ということだと思った。
妄想のなかでしか、幼い頃の妄想のなかでしか、
わたし一人の尊厳を守ってこれなかったのではないか。
死守すべきだったのに、わたしは自分を裏切って、
調教の脅しに負けたということだと思う。


違和感にもいろいろとあると思うが、まずわたしが抱いた
違和感のひとつは、この「主体性などないのに、あると
思い続けてきたことによって生じる無理」も、
違和感のひとつだったように思う。

Pさんと話をしていても、また、他者と話をしていても
今までは感じなかった違和感が刺激される。
そこに自分の意思とか、感情の動機がなく、
自分の言葉がまったくない、という感覚です。

考えてみれば、自分の意思と思っているものなど、
親の調教や洗脳の影響や、へたすれば、父の格言集の
寄せ集めでしかないのだから、どこにも自分がいないかのように、
電池で決まったことを言い、決まった動きをしているように
感じるのも、もっともかもしれない。

これでは、おもちゃだ、と思った。

不要なソフトどころか、不要でないソフトが一つも見つからない。
あるように思えない。

こういった場合、まったくゼロから、今のこの今から、
子どもが不快を感じたら泣く、という、そういうところからやり直して、
最初のソフトから、入れなおさないといけないのではないか?

そんなことを、ふと、考えていました。


もう一度、父の手口を整理してみることにしました。


格言だか口癖だかで、徹底的に、自己不全感を植えつける。
わたし一人じゃ何もできない、何もわからない、という根拠なく、
そう思ってしまうような人間をつくる。

これが下ごしらえ。

ここに実体のない恐怖を植えつけることで、
子どもを何かにすがる、依存するという方向に誘導する。
具体的には父に依存させ、そのうえで、父の「当たり前」承認をもって、
歪んだ安心(不安をベースとした偽りの安心)を与える。

それをもって、父親は、
「わたしは必要な人間なんだ」とキャバクラで豪語する。


「自分で決めたんだから」という、あの洗脳も酷い。
その徹底によって、それこそ、不全感がちゃんとした「自己不全感」になる。
その不全感は「あって当然」という意識状態にされてしまう。

「わからなくて当たり前」
「できなくて当たり前」
「ダメな人間で当たり前」

というふうに、自己否定からすべてがスタートしてしまって、
それを埋めてくれるのは、「わたしでない誰か、何か」というふうになり、
待ってました!とばかりに、父親が「Aby、すごいね」とOKを出すのだ。

気がついたら、主体性や自発性など、「実際は」どこにもなく、
その調教の繰り返しの末に、「今の自分でいい、と言ってもらいたい」という
たったそれだけの思いだけで生きていくような人間になるように、
仕向けられた、ということではないだろうか。

そしてそうやって作られた偽人格は、
この自己不全感があってこそ、不満があってこそ、
我こそはと生きのびてきたに違いない。きっとそうだ。

格言のことからいろいろ考えてきたけれど、
今回のこの父による「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」は、
自己不全感と恐怖の洗脳には、効率的な方法だったのではないか。
父の気をそこねないために、わたしは自分を抑圧する。我慢し、頑張る。
こうやって、自分で自分を裏切ってしまった。
父親似の狂った人にも、同じ恐怖を感じて、自分を裏切った。


・・・


「こわい」というものは、わたしにとって、なんとか
「こわくない」にしていかねばならないものだったように思う。
こわいものがこわいままだとすると、それは「父に殺される」と似た感覚が、
もしかしたら想起された可能性もあるのではないか。
こじつけのようにも感じたけれど、わたしにとって「こわい」というのは
あってはならないもの、拒絶するもの、そういうものだったような気がしている。

水や火に対する直接的な恐怖だって、水泳のときの恐怖だって、
「こわい」と親に言えなかったのは、わたしのどこかで、
「親に守られているのだとしたら、こわくないはずだ」というのが
あったのかもしれない。「こわい」と感じていることを認め、それを
親に告げてしまうということは、それは、「親に守られていない」ことを
意味したのではないだろうか?父の調教を考えてみると、たとえば、
「親に守られない」とは、父が血祭りにあげていた「他者」の側に
わたしが置かれることになる、といった恐怖でもあったかもしれない。

わたしの「いとこ」については、あまり書かなかったけれど、
つまり、私の父の兄の子どもたちと、よく母は、自分の子を比較した。
自分の子はダメだ、というのではなく、まったく逆で、
「わたしの子は、あんな父の兄のような子に劣る子になんてさせない」
という執念のようなもの、もはや、恨みに似たようなものがあった。
もちろん子どもから見ると、その子たちが、どう悪いのか、まったくわからない。
ただ、よく母がわたしたち子どもに言ったのは、一緒に遊んで
「目つき、態度、言葉づかい悪くなったら、しょうちしないからね!」
ということだった。

それは、あんに、「うちの子じゃないからね」ということと
同じ意味を持っていたと思う。

だから、「親に守られない」とは、母の場合には、
「うちの子じゃない」「捨てられる」ということにもつながったことと思う。

このあたりは、理詰めというよりこじつけに近いかな、とは思うが、
親を疑ったことがなかったわたしとしては、これでも疑いの程度が
甘いかもしれない。

実際そう考えてみると、
「こわくない」を証明すること、つまり、「感情を押し殺す」こと、
これこそ、わたしにとって、「親に捨てられない、親に殺されない」ための
解決方法だ、と思いこんだ可能性も十分、ありうると考えて
掘り進めていくこともできる。

「こわい」という感覚を、あれほどに拒絶することを考えてみれば、
それはまったく見当外れとも思えない。その通りでないかもしれないけど、
調教による影響は、十分にあったように思う。

前にも書いたことだけれど、父と母にとっては、
「不快に感じるような子は、いない」はずだったのかもしれない。
そうやって、わたしは感情を殺して生きる「おじろく」になったのだろう。


・・・


そういう準備がいろいろ整った段階で、わたしは
Pさんと出会い、同居へと進んだ。

わたしはずっと自分は主体的に、自分が決めた人生を
生きてきた、と思いこんできたから、わたしは傲慢さも兼ね備えていて、
わたしを理解してくれないのは、まわりがおかしい、とも考えはじめた。
とくに成人して、働きはじめてからは歯車が狂い始めた。
結局、父親似のへんなヤツにつかまるのがオチで、多くの人とは衝突した。

考えてみたらわかったことだけれど、
わたしは黙っている分には、そういうへんなヤツにとって、また
ある一定の範囲内で、わりと多くの人にとっても都合のよい存在になる。
でも、わたしが何かしゃべりはじめ、相手に要求しはじめたら最悪だった。
それは、反抗期に母親に対して理詰めで攻め寄ったわたしそのもので、
社会に出ても、また、Pさんに対しても、そうやって苛立っては
相手に拒絶された。そもそもわたしは、自分の希望や意見をもたずに
相手に攻め寄るのだから、相当、たちが悪かったに違いない。

それでも、わたしは一人、自分は主体性をもち、「自分の」意見を持った
自立した人間だと思いこんでいたのだから、挙句の果てに、
こんなふうに思いこむようになりました。

「もう主体的に生きるのは十分やった。でもまわりも理解してくれなさそう
だし、もういいや。社会なんてそんなもんなんだろう。だから自分はもういい。
残りの人生は、この人、Pさんのために生きよう。この人が自分を必要とする
のなら、それこそ、今のわたしでいいという証拠だ。もうそれでいいんだ。
主体的に、自立して生きるなんて幻想なんだ・・・」と。

わたしは一度も主体的になど生きたこともなかったのに、
「主体的に生きているはずだ、いたはずだ」という思いこみから、
とんでもない結論に行き着いてしまい、これ以上ない自分への
裏切り、自分の投げ売りをしてしまったのです。


・・・


母から見たら、わたしのこのPさんとの関係はどう見えただろうか?

Pさんとの関係については、わたしがおじろくになったというより、
別な視点での代理復讐だったのではないか、と考えてみました。

これは、母からすれば、夫(わたしの父)への代理復讐が
成立しているようにも見えたかもしれない。

というのも、母はよくわたしに、
「Pさんを大事にしなきゃだめよ。こわい思いをさせちゃだめのよ」
と会うたびに言っていたような気がする。

実際わたしは、たとえばPさんと口論になったとき、
「うるさい」「こわい」「もうやめて」「話したくない」「よくわからない」
と言われたら、そう拒絶されただけで、自分の意見を撤回してしまった。
以前にも書いたけれど、Pさんにとって、わたしの快・不快など、
まったく関心がない。それでもわたしはPさんへの依存から、
拒絶されたらそれならしかたがない、Pさんの言う通りにしよう、と
ここでもわたしは、自分を裏切り続けた。
たとえ不快とわたしが感じても、しかたがない、と。

気がつけば、Pさんの気をそこねない配慮で満たされた生活と仕事環境の中で、
毎日Pさんの気まぐれにつきあい、Pさんが笑えばわたしも笑い、
それが幸せであるかのようにして、しょぼいご褒美にしがみついたのだ。

母はその様子を見ても、
「もっとやさしくしなきゃだめよ。下手に出て下手に出て、それでも
やりすぎじゃないくらいなんだからね。怒っちゃだめよ、こわくしちゃだめよ」
と繰り返し、わたしに言った。まったく信じていない、といった具合に。

母にとっては、子どもの頃のAbyは、甘えさせず我慢を強いたことで
兄に対する代理復讐をはたしたのかもしれない。
そしてわたしが成人してからは、Pさんとの関係性を横目で見ながら、
どこか、夫への代理復讐をしている気分にもなっていたのではないだろうか?


・・・


(1)から(4)までと、随分、長いノートになってしまいましたが、
やはり書き終えてみて思ったことは、(1)でも書いたことですが、
いくら自我が希釈されていたとしても、自分を裏切ってはいけなかったんだ、
ということです。無自覚に裏切っていたことを、意識化すること、そして
「自分を裏切らないこと」を今からしよう、していこうと思う。

また意識的に行動していたことは、意識的だったからといって、
わたしの意思であるとは限らない、むしろ、それはわたしの場合多くは
調教の結果として洗脳された言動パターンであり、片っ端から
不要なソフトだ、ということ。そこも自覚していこう。

そしてわたしは、おじろくから抜け出したい。
今までわたしは何から抜け出したいのか、わからなかった。
ただただ、何かがおかしい、違和感がある、そればかりだったけど、
やっとここを掘りさげてみて、「おじろく」という無感情ロボットから、
感情のある人間に戻りたい。

不快を不快だ、と言える、そういう裏切らない自分であるために、
自我復元作業とAC人格の掘り出しと調教・依存の理解、
なにより、不快を不快とちゃんと言えているかどうか、
作業と平行して確認していこうと思います。


◇ ◇ ◇

桜の間の記事 「間接的な脅迫や調教」
http://www.mumyouan.com/k/?S275

◇ ◇ ◇



2013.10.28
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-28 00:36 | 復元ノート 1

(3) 父の調教

「(2) 父の調教」の続きです。

※ 崩残さんからのメールの引用は、ピンク文字で記します。


・・・


わたしの記憶では、たとえば、わたしには暴力を振るわないけれども、
妹(Aちゃん)や弟(Bちゃん)には暴力を振るうとか、そういうこともなかったので、
そういう意味では、兄弟間を利用して見せしめの暴力を父が振るった、
という記憶はありませんでした。また、母に対しても、子どもが見える形では
暴力を振るいませんでした。

ところが、崩残さんより

>ほかの兄弟に対して、両親の接し方に、Abyさんへの接し方との
>違いはありませんでしたか?


と訊ねられたとき、どこかひっかかるものがありました。
それは前の投稿でも書きましたが、平等、平等と言って育てたわりには、
わたし自身、お兄ちゃんという意識を強く持っていることでした。

暗がりでおばけごっこをして、弟がケガをしたときもそうです。
わたしが加害したわけでもなんでもないのに、突然母にひっぱたかれても、
「とんでもないことをしてしまった、わたしのせいだ、
わたしがたたかれるのは当然だ、わたしのミスだ、
お母さんを怒らせてしまった、お母さんに悪いことをしてしまった」と、
たたかれる前に、即座に、そう思ったような気がしています。

それは、わたしは「兄」であり、その場の安全を守る責任がある、
「こういう事態を招いてしまった、わたしの管理ミス」こそが落度であり、
結果としてこうなってしまったら、わたしが責められるのは当然だ、
という感覚があったのだと思います。

いい訳など、したこともありませんし、しようとも思いませんでした。
反射的に「ごめんなさい」と言っていたと思います。
本当に自分が悪いと思っていました。

ここはわからないところなのですが、
もしかしたら、帰りの車のなかなどで、母から
「もう二度と来られなくなっちゃったじゃないの」とか、あるいはその後、
「お父さんからもう絶対行くなと言われちゃった」とか、そういう話というか、
愚痴を母からきかされて、わたしがさらに自責の念を深めた可能性もあります。

そういうこともあるかもしれませんが、いずれにせよ、どこかで
「お母さんがお父さんに怒られてしまう、お母さんに悪いことをした、
完全にわたしのせいだ」と思い込んでいるところはあるみたいなのです。

そういう日常を思い出しても、リアルな感覚として、
それがストレスだったとか、抑圧だったという記憶が沸いてこないのですが、
少なくともわたしは、「お兄ちゃんなんだから」といって神経をつかい、
その場の安全を確保し、問題なくそこをおさめる、というのは、日常、
あまりに当然のことだ、と思っていたのだとは思います。
それに関しては、違和感なく、そう思えます。


この「お兄ちゃん意識」は、
わたしだけではありません。

妹も弟も、「お兄ちゃん」という別格意識は強いものがありました。

今でも時々会って話をすると、冗談言いながら馬鹿にしながらも、
わたしを見る態度は、どこかつねに、「お兄ちゃんは立派だ、
お兄ちゃんは間違わない」という、そういう「前提から」、
わたしを見ていることがわかります。

母や父は「そんなことはない。平等だった」と言いますが、
先述した「お兄ちゃんはやっぱり立派でないといけないと思った」という
母の発言からも矛盾します。以前、こんなことも言いました。

「Abyはお兄ちゃんという立場でなく、一人の人間として、0歳から
そう育てた。自立を促した」と。わたしも甘えた記憶がありませんが、
母もわたしを甘やかさなかった、と言います。そしてたくさん我慢しなさい、と。

母の言う立派とは、つまり、
「他人の気持ちを察し、配慮し、できる我慢はしなさい。
だけれど、自分の意思を持ち、主張し、自立しなさい」という理想像、
結局それは、母が自分の母親に甘えられなかった、自分が寂しい気持ち
だったことをわかってもらえなかった、兄からも「お前は自立できないなあ」
と馬鹿にされ、かまってもくれなかったことの反動であり、
Abyを理想の母親像に育てあげることが目的であったろう。

そう考えている母が、はたして、兄という存在を意識することなく、
わたしを「お兄ちゃん」というフィルターを通して見ないことなどできるだろうか?
そう考えてみたことと、兄弟間で扱いがどう違っていたかを見ることで、
「やはり、平等とは言えない」という理解に至りました。


・・・


かかわり方という意味では、客観的に見えれば、
わたしには厳しく、末の弟には甘かったのです。
それは母も認めていて、同様、父も末の弟には甘かった。
甘かった、というより父の場合は、「馬鹿にしてさえいた」。

では父はわたしにどう接していたかといえば、どこか
「距離がある」「遠慮している」感じがあって、
「お兄ちゃん」という別物、腫れ物にさわるような感じです。
と考えてみると、この別格感は、妹と弟にも伝播しています。
ですから、尊敬というのとは違って、畏怖している感じなのです。
実際、わたしは妹と弟とも兄弟喧嘩をしたことがありません。
でも、妹と弟はよればさわれば喧嘩をしていた、といいます。

平等で育ったとは思えない、よそよそしさです。

父はよく妹(Aちゃん)にこういう話をしていました。

「Aちゃんは、誰よりもがんばり屋。悔しがり屋で、なんでもチャレンジした。
努力といえば、Aちゃんはいつもすごかったなあ。でもねー、
Aちゃんは、どうしてか、一番になれない。二番なんだよね。
ほんと、悔しかったと思う。」

次男に生まれた父「おじろく」が、どんなに頑張っても
長男になれない、一番になれない、そういう自分と重ね合わせているとしか
思えません。

さらに女の子だから、ということで、それこそ目茶苦茶なことを
Aちゃんに言っていたことを、かなり後になってから、父本人からきいた。

「Aちゃんは、世界一きれいなんだよ。鏡をみてごらん。
世界一の女の子なんだから、つらいことがあっても、
顔に出しちゃいけないんだよ。我慢しなさいよ。」

さも当たり前のことを言っているかのように、
父はわたしに話したことがある。

弟に関しては、とりあえず、馬鹿にした態度が常にある。
見た目としてはじゃれているように見えるが、よく見ると、
そうでなく、一番下に生まれた人間をさげすむ態度がある。
それもまた、次男に生まれて、親に認めてもらえなかった恨みの
反動としか、今になって思えば、見えない。

ところがわたしの悪い癖は、まさに、父の言ったことを疑いもせず
鵜呑みにしてしまったことで、わたしは父は、子どもをつねに味方して
くれているもの、応援してくれているもの、と思い込んでいました。
ですから、妹に父が言ったことに対しても、妹が美人だと言っているんだね、とか、
「ああ、お父さんは、努力を評価しているんだよね。順位はいいんだよね」
とか、弟の話をきいても、ただ、甘やかしている、フレンドリーな感じ、と
解釈してしまっていたのです。

まさか、わたしたちをおとしめようとしている、とは
考えもしなかったのです。

それは父のあの見せしめのような暴力もそうです。
そのときは、わたしは、誰かがボコボコにやられていて、罵声を
あびせられていても、わたしたちを見て「ニヤリ」とする父の顔をみて、
「わたしたちは大丈夫なんだ、父はわたしたちの味方なんだ」と思って、
それこそ歪んだ安心を得たのだと思います。
でもこれが歪んでいたのだ、と気づいたのは、反抗期でも
わたしは父に一言も何もいえなかったのを思い出したからでした。
もちろん幼少期から、そういう恐怖を植え付けられていたわけですが。


ちょっと例はへんですが、こんな感じかな、と思いました。


父はつねに人を殺せるナイフを持っている。
そしてそのナイフで人を殺すシーンを見ている。
あるいは見ていなくても、きかされて、威嚇されている。

しかし父はそのナイフをちらつかせながら、
こちらを見て笑い、「お前は守ってやるよ。ほら、このナイフを見ろ」と言う。
でもわたしは、そのナイフでいつわたしも殺されるかわからない、
という不安をつねに抱えている。
守ってくれているのもそのナイフだけれど、
わたしの命を奪えるのも、そのナイフ。
父の気をそこなわない限りは、守ってくれるナイフ。
父の気をそこなえば、いつ殺されるかわからない。
もちろん、父はそんなことはおくびにも出さない。
「子どもたちのことが世界で一番好きだよ」と言うだけ。

あの「ニヤリ」は、「お前たちの味方だよ」という合図とともに、
恐怖を植えつけることに成功していた。
結果、母も含め、直接暴力を受けなくても、いつもビクビクしていたわけだし、
わたしだけじゃない、妹も弟も、父には一切、反抗できなかった。
思い出してきたけれど、なんだかみんながみんな、機嫌をとっている。
父を不快にさせないよう、させないよう、振舞っている。

父と母が別居した直後は、父の精神状態も最悪で、
家具なども叩き割ったりしていていました。
母と暮らしていたAちゃん(当時大学1年)に対して、父は、
「どうしてAちゃんは、わたしのところにこないんだ!」と
怒りをわたしにぶつけていたことがあって、
もう今日会いにこないなら、縁を切る、とまで言い出したことがありました。

Aちゃんは怖がりました。
会って何をされるかわからないからです。
そのとき、まったく父親を冷笑する、という余裕などなく、
ただただ怯えて、泣いてわたしに相談をしました。

わたしは仲介に入って、怯えるAちゃんを
守ろうとしました。なんとか守らなければ、と思ったのです。

弟のBちゃんについても、わたしは
必死に守ろうとした大きな出来事がありました。

詳細は割愛しますが、今思うと、そのどれも、
わたしは判断ミス、行動ミスをしたのだと思います。
あのアルバイトの件と同様で、もしもそのときわたしがやるべきことが
あるとしたら、父親の脅し、その外圧に対して、一歩も引くことなく、
全面戦争することだったのに、妹にも弟にも、わたし自身にも、
「その外圧に従ったうえで、いかに危険性を回避できるか」という思考を
押し付けてきてしまったのです。

その外圧の存在を認めてしまうところからスタートし、
そこから逃げることをいつも考えている。
この構造は、「こわい」と思ったにも関わらず、それを許し、
「こわくない」と思い込もうとするわたしの思考パターンと似ている、
と思いました。

わたしは「わたしを裏切ること」から、
どうしよう、どうしようと、麻痺を続けてきたのだと思います。
そこからスタートしているわけですから、
わたしを裏切らないようになることになど、なるはずもないのです。
いつもその場、すぐそこで、「自分で裏切ることをしない」ように
すべきだったのだと思います。


・・・


記憶をたどってみると、わたしは「お兄ちゃんだから」
ということで、たとえば、両親の別居や、兄弟が学校をやめるかどうかとか、
そういったことも「お兄ちゃんなんだから」と言われて、
「決めさせられた」ことが多かったのを思い出しました。

以前ブログにも書きましたが、あれはまだ小学校4年生くらいだった
にもかかわらず、父と母のどちらを選ぶか、という選択を迫られました。
ブログでは「みんなが母を選んだらフェアじゃないし、父が可哀想だから
わたしだけは父を選んだ」と書きましたが、はたしてそうだろうか?
それ以上にわたしは、「ここでわたしが母を選んだら、おしまいだ」と、
家族間管理をわたしは強く意識したと思います。
この家族の安否は、わたしの判断次第だ、という妙な責任意識は、
小学生の頃には確立していたと思います。

二十歳をすぎて、母と父は本格的に別居することになるのですが、
二人はわたしにこう言いました。

「お父さんとお母さんは別居することになるけれど、
3人はどうするか、お兄ちゃんと話し合って決めなさい。」と。

そして、相談した結果、「お兄ちゃんがそう決めたのならそうしよう」
となったと思います。わたしもそれが負担だった記憶がなく、
わたしがそうするべき当然の役割にいる、と思っていました。
ですから、その後の家族の混乱については、どこかでずっと、
「わたしが決めたことだから、悪いことがあったらわたしのせいだ」
と思ってきたところがあります。

なぜ、わたしのせいだ、と思う必要があったのだろう?

これについては、あの父の「自分で決めたのだから」という
洗脳が、ずっと影響したのだと思います。
責任放棄した本人が、上手く誘導し、わたしに押し付けたのに、
すべては「わたしが決めたことになっていて」、
悪くなればAbyのせい、そうでなくても「お兄ちゃんが勝手にしたこと」
というくくりで、わたしはいつも謝っていた。
この感じは、Pさんとの関係でも顕著にあらわれた。
わたしに非があろうがなかろうが、最後に「悪かった」と謝るのは
わたしだった。そうやって、その場を済ましてきた。
わたしが「ごめんなさい」といえば、それで済むいう解決の仕方を
身につけてきてしまった。

自分を裏切るがゆえに、とってしまった解決策だったと思う。

それ以外にも、判断ミス、行動ミスはたくさんあった。

別のアルバイト先でも、わたしはクレーム処理の役割を
与えられることが多く、ことなきことにすることから、
会社からは重宝がられた。わたし自身も特技だと思っていた。

クレーマーも、会社も、問題はなかっただろう。

だけれど、なにより大問題だったのは、
わたし自身だったのだ。

いつもわたしはその時、まるでロボットのように感情は消して、
作り笑顔で、できるかぎり話を上手くきき、ガス抜きをしてもらって、
「もうお前にいろいろ話したからいいや」と思ってもらえるまで、
わたしが人形のように愛想良くふるまったことです。
結果、どんなに暴れそうな怖い人でも、わたしは、怒らせることなく、
ほぼ100%、機嫌よく帰ってもらうことに成功しました。

自分を裏切りまくっての、しかも、ちんけでつまらない成功体験なのに、
まわりもわたしも、この「問題をなかったことにする処理の仕方」を
高く評価していました。まさに、テーブルにひろげるどころか、
ちょっと危険因子が出てきたら、それが暴れだす前に「抑える」、
という力こそが、わたしの特技だと思い込んでいたのです。
家族の間でも、ずっと自分を殺しながら、培ってきた技でした。

結局、それで都合がよかったのは、わたし以外のまわりだけで、
一番都合がよかったのは、父やクレームを言ってきた人たちでした。
そのことにはまったく無自覚だったと思います。
その根本には、やはり、「こわいこと」をなんとかなかったことにしよう、
という恐れがあったと思います。


・・・


ここまでのことを思い起こし、考えてみたところで、ようやく、
父親「のような」人物像の掘り出しに着手することができました。


話の全体を聞いて、感じたことは、
Abyさんにとって、最も怖いのは、やはり、
父親「のような」人物像です。

つまり「怒ると何をするか分からない」というタイプです。

そして、これに非常にダブるのが、
そちらの話に出てきたアルバイト先の、変な社員です。

報復とか、変なことを言う、何をするか分からない
というところが、父親に重なり、
それが恐れをそこまで増大した可能性も疑われます。

Abyさんにとって怖いとは、
水に溺れそうになった時のような具体的な現実の怖さの記憶
だけではなく、
父親がダブるようなものに怖さは感じませんか?



はじめわたしは、そのメールを拝見したとき、
「そういう人っていたかなあ・・・」と思っていたくらいでしたが、
とんでもありませんでした。何人もいたのです。


詳細については、ここでは割愛しますが、
そういった人物像には共通点がありました。


1.父のあの「ニヤリ」と同じ、不気味な笑い方をする。
  お前の味方だよ、ということをアピールするときにする。
  「次はお前の番ということもあるよ・・・」という脅迫をこめて。

2.怒ったら何をするかわからない、と本人が言っているか、
  誰かがそういううわさを流しているかしている人。

3.「Abyさんは、人間ができている」というようなことを言いながら
  どちらかというと、相手からわたしに関わろうとしてくる。
  たいていそういう人は、「見てすぐわかる」と根拠なく言う。
  (わたしはそう言われたいと一度も思ったことはないのに、です)

4.直接わたしに暴力を振るうことはないが、わたしにわかるように
  見せしめのような暴力を他者にふるったり、そういった経験を自慢する。

5.とりあえず一見愛想がよく、あたりがいい。しかし、気にくわないことがあると、
  何が気にくわないのかわたしにはまったくわからないで、突然、キレる。

6.食事など、執拗に誘ってきて、こちらの意見などまったくきかない。
  当然OKだよね、というスタンスで接してくる。


この特徴は、まったく父そっくりなのです。
そしてこのような人と接することで、結果、わたしはどうなったか、というと、
こういうことでした。


・ 学校をやめることになった。
・ バイトをやめることになった。
・ 仕事の依頼を断ることになった。
・ やりたかったこともあきらめるようになった。
・ その人といる間は、嫌でも我慢した。
・ その人と離れるときは、嘘を取り繕って逃げた。


言うまでもなく、これらはわたしが妄想をふくらませ、
自分で恐怖を煽ったことで、自分でそうしてしまった「結果」です。
いくら調教由来であっても、ここで自分を裏切らず、
そうしない道を見つけることもできたはずなのに、わたしはしなかった。
そうやって、自分の道をどんどん狭めていきました。

それに気づいてはじめて考えたのが、これで得をしたのは
誰かといえば、つねに、父親似のそいつらだった、ということでした。
わたしはなぜ、彼らがわたしのことを知りもしないのに、
「Abyさんは、みんなと違うよ。すごいよ。人間が出来ている」などと
言うかが、不思議でした。

でもそれは、人間が出来ている、ということではなく、
その人たちが言いたかったことは、「Abyさんは、何でもしてくれる」
ということにすぎませんでした。

その人たちは、わたしが自分のことは犠牲にするだろうこと、
そして、その人をわたしは責めないことを知っていたのだと思います。
わたしはただ、利用されただけだったのです。
さらに、架空の恐怖を与えておけば、いとも簡単に不安におとしめて、
コントロールできることが、わかったのだと思います。
当然の結末ですが、わたしに利することなど、何ひとつありませんでした。
わたしはその都度、「へんな人に出会っちゃったなあ。運が悪かった」
という認識しか、毎回、持たなかったのです。
むしろ、相手のことを騙しちゃった気がするなあ、とか、
わたしが優柔不断だったために傷つけちゃったかなあ、とか、
最後は、「わたしが悪かった」と相手に謝ったことばかりでした。

どのパターンも同じです。

わたしがとった行動は、どれも怒ると何をするか予測できない相手、
またその人から直接何をされたわけもないのに、他人からきいたうわさを
鵜呑みにして妄想し、ふくらませ、怖がり、逃げまくっていた、
逃げながら、自分の生活を怖がることに甘んじていたのです。

どれもこれも、金太郎飴みたいに同じでした。


1/実体ははっきりしないのに、
  怖いと他人から言われたもの(人でも理論でも)を、
  そのまま怖がる癖です。

2/怒ると何をするか予測できない相手を怖がる癖。


もしもそうだとしたら、それは、
父親からの、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」で
調教された可能性が大です。



整理してみると、まさにわたしの悪癖であり、
ここまできて、わたしはやっと、
「わたしは調教されたのだ」という事実を
確認することができました。


・・・


「(4) 父の調教」に続きます。



2013.10.28
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-10-28 00:35 | 復元ノート 1

(2) 父の調教

「(1) 父の調教」の続きです


・・・

http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html

このサイトを見て、わたしははじめて
「おじろく、おばさ」という存在を知りました。

写真を見て、すぐにこの硬い表情は「父に似ている」
と思ったのです。

この「おじろく」という存在については、ここ数日間、
わたしにとってすごく気になるものだったので、
ずっと考えていました。

この写真を見たとき、わたしは、これは父そっくりだ、
と考えましたが、今は、「実はこれ、わたしじゃないか・・・」と
思うようになりました。

そのあたりは、後述できればと思っています。

いずれにしても、この「おじろく、おばさ」という制度は
今はないわけですけれども、わたしの父は、まさに
精神的にはこの状態におかれていたのは、たしかだと思います。
母は、そのような父の姿をみるにつけ、

「わたしたちの家庭よりも、お母さん、お母さんって、
どうして自分が育った家族のことばかり見ているのか」

と、そのふがいなさを感じては、いつキレるかわからない父を
恐れていたことになります。この父、というより、「夫」という
立場に対する恨みも、母にはあるように思います。
それはまったくわたしと無関係なことでなく、
わたしが「兄」という立場であり、「夫」という立場であることからも
代理復讐として成立する何かがあるように思います。


わたしは、長男として育ちましたが、
わたしの両親は、口では、「兄弟平等」を唱えました。
物理的も、また、表面的には平等に見えたと思います。
わたし自身も、そう思っていました。
たとえば、わたしの妹(以下、Aちゃん)と弟(以下、Bちゃん)は、
わたしのおふるを着る、ということはありませんでした。
一人一人、別の人間だ、というふうに考えようとしたのだと思います。
必ず、一つ一つ、買い与えました。
また、わたしは兄だから優遇されたことは一度もありません。
つまり、兄だから得をする、ということは、一切、ありませんでした。


ところが不思議なことに、わたしはどこかでずっと、
「お兄ちゃんだから」という意識が強いのです。
あれだけ平等であったなら、そういう意識は生まれるのだろうか?
ということが大きな疑問でした。

母もお兄ちゃんばかりの兄弟の末っ子して生まれ、
以前にブログでも書きましたが、自分の母親の関心はつねに
兄たちに向けられ、甘えられなかった。
母を兄に奪われた、という不満を成人してからも抱えてきた人です。
父も同じです。「おじろく」のごとく生きてきて、ずっと理想のお母さんを
求め続けて叶わないまま、その母を独占した兄を恨んでいるのです。
その不満が「兄弟平等」を唱えるきっかけだったかもしれませんが、
兄をいう存在に恨み続けている母と父が、本当の意味で、
兄弟平等を実践したのか、と考えると、疑わしいと思ったのです。

このことを、母に確認したことがありますが、
これに関しては、父も母も、おそらく本人がそう思いこんでいるのだと
思いますが、「もちろん平等だった」と言います。
それをわたしは鵜呑みにしていたのですが、
もう少しくいついて話を続けたときに、あれっ?と思う発言がありました。


母はこうも言いました。


「みんな平等だったけど、やっぱりお兄ちゃんは立派でなければ
いけない、というふうには思っていたよ、それはそうよ」と。


母本人は気がついていないようですが、
明らかに矛盾していました。
実際、客観的に見てみれば、Aby、Aちゃん(妹)、Bちゃん(弟)、
それぞれに、どう考えても、接し方が違うのです。
そして接し方が違っていることも、母も父もどうやらわかっているのです。
ただ、「平等だった」と思い込んでいる。

わたしも同じです。

平等だったと思っている。
でも、一方で、「兄として、しっかりするのは当然だ」
という思いが、矛盾した感じで、同居している。


崩残さんより、

> ほかの兄弟に対して、両親の接し方に、Abyさんへの接しかたとの
> 違いはありませんでしたか?


と、そう訊ねられるまで、このわたしが抱えてきた矛盾に
気づかなかったのですが、考えてみると、おかしな矛盾だったのです。

この矛盾について崩残さんにメールをしたとき、
こういう返信をいただきました。


(前半、略)

ここは私も気になる点です。
推測ですが、
これは、そちらの両親が共に、兄しか大切にしない家庭で
育ったとしたらば、
その「兄」の立場である自分の子供を「ダメ」に仕上げることで、
本人の中の「報復」「代理復讐」が成立するのではないでしょうか。

自分たちが受けた不快感の「反動」で、
「自分たちにとって」理想的な良い子供に育てていると口では言いながら、

兄という立場にいるあなたを使って、
彼らの兄への復讐をしている面があるということです。

あなたをダメにして、支配したり、逆らわないように調教すれば、
それが彼らの兄への代理復讐をしている気分になっているわけです。

(以下、略)



このあたりから、わたしは、自分が「兄」という立場であること、
そのために、わたしの兄弟のことを思い起こしていく作業を
進めていきました。

ところが、わたしは、どうしても今まで他人に言ったことがないこと、
誰にも言えなかったことがあり、それがつかかっていて、
掘ろうとしても、そのことが気になって気になってしかたがなくなってしまいました。

ただ、これをハッキリしないと、もうだめだ、という思いが強まり、
今まで誰にも言えなかったこと、これは一人で抱えて墓場まで
持っていくことになるだろうと思っていた二つのことを、
崩残さんにメールでお話することにしました。

一つは、わたしの妹に関することです。
兄弟のことを考えるときに、ずっと頭が離れなかったのが
この件でしたが、この件については、直接は「父の調教」とは別の問題と
思われるので、ここではノートしないことにします。

ただここで書きとめておきたいと思ったのは、
どうしてこのことを崩残さんにお話しようと思ったかというと、
崩残さんから「今まで兄弟姉妹の話はあまり出てきませんでしたが・・・」と
今回メールで言われたときに、ビクッとしたわたしがいたからでした。

このところブログでも書いてきたところですが、
最近ずっと意識していたのは、「こわい」と思ったときに、それをなかったことにしよう、
こわいと思わないようにしようというわたしの出鼻を観察し続けていました。
まさに、この「ビクッ」は、その反射的な拒否反応であり、
こわいと思っている証拠でした。今まではこれを見なかったことにしようと、
隠してきたのですが、今回は、どうしてもそれができず、それが
どういうことなのか、わたしもわからないまま、整理がつかないままに、
しかし、ここで言葉にしなかったら、一生、それを引きずってしまう・・・と思い、
内心、とりみ出したまま、崩残さんにメールを送信しました。


もう一件も、同じように、「ビクッ」とし続けたことでした。
最近はなんとかそれも麻痺していたのですが、10年近くにわたり、
わたしは怯えてきたことでした。そして、今になって思うと、
そういう恐怖は、麻痺しているだけであって、根っこのところでは、
わたしをずっと支配していたのです。

拷問、という言葉をきくだけで、わたしは怖かった、と
以前にも書きましたが、その恐怖を増大させてきた事件が、
その一件でした。


その件は、今回の件と、どう関係があるのか、そのときは
わからなかったのですが、父の調教と大きな関連があり、
いや、それこそがネックになっているところでもありました。


・・・


その事件のアウトラインです。


・ アルバイトの一人がタイムカード偽造の不正を行った。
・ わたしも含め、何人かの者がそれに気づいていて、ある一人のアルバイトの者が
  その不正を店長に報告、不正をした者はやめることになった。
・ 変な社員が一人いて、借りがあるのか知りませんが、執拗に、チクッた犯人探しをはじめ、
  「見つけたら、制裁を加えてやる」といって、まわりを脅迫した。
・ わたしは「自分がもしかしたら狙われているのでは・・・」と怖くなり、妄想し、
  殺されるのではないかと妄想をふくらませ、「拷問」というイメージも増大させた。
・ それが苦しくなり、誰にも相談できず、バイトをやめた。5年以上の間、
  自転車置き場でもいつも背後を気にするように、怯えて生活をした。
・ 「こんなことさえなければ自分の人生は違っていた」とわたしは思ったほどだった。


この件についての報告に対して、崩残さんからのいただいいた
以下、返信メールです。



Aby様


(前半、略)


これに関しては、Abyさん自身の責任が、
その妄想や恐怖の原因として大きいです。

なぜならば、不正を見て上に報告するのは当たり前であり、
その変な奴に対しても、
「そいつの恩人であることと不正をしたことは別問題」ですし、

あるいは尋ねられても、
「不正は、みんな知っていたから、全員から抗議したんじゃないか」
と「上手く」答えることもできたはずです。

やめた人間の親が怖いかどうか、確かめもせずに、
人のいうことで妄想を膨らませる悪い癖があります。

そのあたりの「鵜呑み」にする点に、
どうも父親の言うことを疑いもせずに鵜呑みにしたことと
共通点を感じます。

危険性というものは、先を妄想することではなくて、
冷静に状況が自分に危険かどうかよく観察し、考えるか、
直感的に察するべきもので、

いちいち、いわれたことを元にして、
どうしようか、不安になるのは違います。


当時、Abyさんには認識はなかったとは思いますが、
不正を言ったこと(続に言うチクリ)は、
法廷闘争になったら、相手が負けるに決まっています。

逆恨みしたら、警察に被害届をだせばいいことです。

さらには、そんなに正義感にいきまいている父親ならば、
「不正を通告したら、そいつの知人から脅された」と言えば、
父親は、「オレが話をつけてやる」とでも言ったでしょうかね?

あるいは、そういうことになると、
「自分のことだから、自分で解決しろ。お前をそう育てたつもりだ」
などと言い出しかねない毒親ですから。


いずれにしても、状況判断の中に、
父親には頼らないとか、誰かに相談しないでやるべきとか、
そういうこと自体に、親の調教が紛れ込んでいます。

その結果、今までのことで、Pさんのことはわかりませんが、
その他のことや、お仕事のアイディアでは、
調教由来のことでなければ、上手く判断できたこともあると思いますが、
調教由来の影響のありそうな局面では、
「迷惑かけたらいけない」「相談したらいけない」
「逆らったらいけない」「不正でも戦ったらいけない」「こわい」など
いろいろなものが、判断を誤らせた可能性があります。


この二例目のタイムカードのケースは、
もしもそれが事実であり、その事実によって解雇されたのでしたらば、
たとえ、その相手が仕返しにきても、
一歩も引くことなく、全面戦争しても戦うべきものでした。

自分でということではなく、
そういう問題を扱うところに相談するなり、
(無駄でも)親や知人に相談するなり、

そもそも「制裁を加えてやる」と口にした時点で、
それは「明確に脅迫」になりますので、
警察に行くなりです。

というか、そもそも、やめさせられたそいつの友達の社員に、
「誰がチクったかしらないが、
 不正やったら首になるの、当たり前だろ。
 自分の恩人だとか、お前、何かグタグタ吼えてんだ」でおしまいです。

これを別にこういう口調ではなくて、
やさしく、丁寧語で言っても同じです。


しかしそれを抱え込んでしまい、
しかも、やめた本人からの脅迫ではなく、
その知人からの、信頼もできない言葉によって、
いらぬ妄想までして、私生活で怖がることに甘んじた、
そのことが、まさに、御自分を裏切っていたと思います。



崩残



・・・


続いていただいたメールです。


Aby様


(前半、略)


どんなことであれ、「物事を解決する」ということは、

嘘を言っているやつも、
不合理なことを言っているやつも、
正当なことを言っているやつも、
あるいは、無視しているやつも、
全員、明るみに、当事者全員の前に、「引きずり出すこと」です。

まず、引きずり出してから、喧々諤々と、言い合えばいいのです。

陰でこそこそ、聞き回る奴ほど、
表舞台に出ることをしり込みして、逃げるものです。


私は、勤め先でも、そうやって、こそこそやる奴を全員、
問題の当事者の前に引きずり出してから、
そのあとで、議論するなり、言い合いをしました。

ある意味では、
「チクリ」など許しませんでした。
すべての争いは、公然と、関連する事実を全て、
まず、人々の前に広げてから行うというのが私のやり方です。

きちんとしたケンカ(口喧嘩のことです)を
あなたの父親は全くできない人だったので、
それが、Abyさんにも感染したのだと思います。

それは、Pさんとの生活の中で、
どれぐらい、自己主張できたかは分かりませんが、
父親の馬鹿を見ていたら、
自分は、論理的に論議をやりたい、と思ったかもしれません。


が、このアルバイト先の件だけに関して言えば、
あなたの判断ミスと、行動のミスです。


崩残



・・・


この2通のメールをいただいた時、
はじめてわたしは、自分が無自覚に裏切り続けてきた、
そのことに気づきました。

「無自覚に」裏切り続けてきた、そのことが
やっと見えてきて、これは自分でも不思議な感覚でしたが、
ずっと不透明だったもの、違和感でしかなかったものがクリアになって、
掘るべき方向が、ようやく見えてきた、という気がしたのです。

上手くいえませんが、わたしは裏切るという自分の行為は、
わたし自身が意図的に裏切ろうとして、意識的にやっていること、
だから意識的にやっている自己麻痺の手口などを掘っていけば、
自分が何を裏切っているのか見えてくるに違いない・・・
そう勝手に思い込んで、やみくもに自己分析ばかりをしていました。

もちろんそれが糸口になって、不快を掘り始め、調教を掘り始める、
という、やっと「掘る」という作業にとりかかれたわけですが、
この習慣的、反射的、無自覚的に行い続けてきた自分への裏切り行為は、
気がつくことができず、今回、不快というよりも、それ自体を見ないようにしよう
という拒絶や恐怖を掘り進めることで、裏切っていたことを、言葉だけでなく、
実感として「裏切っていたんだ」と認めることができたように思います。


そのあたりのことが、まだ言葉にならないまま、
崩残さんにメールをしたのが、以下のメールです。
(Abyからの送信メール文面は、紫文字で記します)


・・・


崩残様


 >たとえ、その相手が仕返しにきても、
 >一歩も引くことなく、全面戦争しても戦うべきものでした。

 >いらぬ妄想までして、私生活で怖がることに甘んじた、
 >そのことが、まさに、御自分を裏切っていたと思います。

 >が、このアルバイト先の件だけに関して言えば、
 >あなたの判断ミスと、行動のミスです。


まず、ここを今から、実践していこうと思います。
日常の随所のことだと思いました。


「一歩も引くことなく、全面戦争しても戦うものでした」
まさにそうでした。そうすることが以外に、あるはずが
なかったはずだったのに、わたしは甘んじた。

一歩引く、甘んじる、というわたし自身のミスを
ミスと自覚せず、しかたない、として許容した。
自分を売り渡すことからスタートした。

裏切らない、というのは、本当に裏切らない、ということであって、
わたしはまだ、今も徹底していなかったのは、
「裏切っていないようになりたい」という愚かさがありました。

裏切ることを前提にしたところから、裏切らない自分でありたいなど、
そんな都合がよい話はないのに、
それをなんとかしよう、しようと、もがいていたようです。
泣き言を言っていました。

裏切らないとは、それは、
「自分がやるべきこと」でした。

今ここで、すぐに、とるべき姿勢でした。

もう何度かじっくりいただいたメールを読みたいと思います。

メールをありがとうございました。
一度ここで送信させていただきます。

Aby



・・・

わたしはどこか、これから「裏切らないようになっていく」と
考えていたところがありました。
どうやったら、裏切らないようになるのだろうと。

でも、これは調教の影響とは、また別なこと、
たとえいかに希釈されていようが、なんだろうが、
それでも、死守しなければならないことだったのだ、
それをわたしは、死守せず、簡単に自分を切り売りしてしまったのだ、
切り売りどころか、全部、自分を投げ売ってしまっていました。

実は、この一件だけではありませんでした。

調教由来の局面では、わたしはこの自分を裏切るという
最もやってはいけないことを、懲りず毎回やってきたことが
掘り進めていくうちに、どんどん出てきました。


ここまで来て、やっと、とくに父親の調教の手口のようなものが
少しずつ、輪郭をあらわすようになりました。


この段階で、崩残さんから、
次のメールをいただくことになります。


Aby様


(前半、略)


●思ったのですが、
そもそも、腕っぷしを自慢するということ自体が、
相当に、愚かな人でないとしません。

それ、妹さんは、黙って聞いていたのでしょうか?
ふつうの年頃の女性でした「お父さん、馬鹿じゃないの?」
とか「また、言ってらー」で、冷笑されるものです。

そして、人間がそうした、
無意味な力自慢をするときのほとんどの動機は、
「実体以上に、自分を大きく見せるため」です。

動物が、体を膨らませたりするのと同じです。
威嚇しないとならないほど、自分が弱いかまたは追い詰められないと
しない行為です。
子供に馬鹿にされないようにと、
あらかじめ作った布石とも見られます。

これって、存在もしない「仮想敵国」のことを吹き込まれて、
その見たこともない敵国を恐れているのとそっくりです。


●話の全体を聞いて、感じたことは、
Abyさんにとって、最も怖いのは、やはり、
父親「のような」人物像です。

つまり「怒ると何をするか分からない」というタイプです。

そして、これに非常にダブるのが、
そちらの話に出てきたアルバイト先の、変な社員です。

報復とか、変なことを言う、何をするか分からない
というところが、父親に重なり、
それが恐れをそこまで増大した可能性も疑われます。

Abyさんにとって怖いとは、
水に溺れそうになった時のような具体的な現実の怖さの記憶
だけではなく、
父親がダブるようなものに怖さは感じませんか?

つまり、
1/実体ははっきりしないのに、
  怖いと他人から言われたもの(人でも理論でも)を、
  そのまま怖がる癖です。

2/怒ると何をするか予測できない相手を怖がる癖。


もしもそうだとしたら、それは、
父親からの、「実態のない仮想の敵を吹き込んだ威嚇」で
調教された可能性が大です。



崩残



・・・


「(3) 父の調教」に続きます。



2013.10.28
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-10-28 00:34 | 復元ノート 1

(1) 父の調教

父親からの調教を掘っていく過程で、気がついたことや調べ直したことなどを
ノートしておきたいと思います。

ここしばらくの間、父からすりこまれた格言や口癖からの影響を調べてきました。
こわい、という感覚を「こわくないよ、平気だよ」と、なんとかしようとしてきた、
そういう自分の癖はどこから来るのか、「こわい」という感情を押し殺し、麻痺させる
というループを、どうして、ぐるぐると繰り返しているのか?

水や火に対する直接的な恐怖に対して、
わたしがどう対処していったか、ここに父親の口癖がどう影響していたか、
そのあたりをブログでも掘っていきましたが、
無自覚ACとしての自覚もなかったわたしは、それ以前に、
「父からの調教」それ自体を、考えてきませんでした。

日々わたしが「意識的」に、まるで自分の意思であるかのように振舞っている言動は、
実は、父の調教のすりこみの結果としての言動だったり、一方、
日々わたしが「無意識的、無自覚的」に振舞っている言動は、
たとえ希釈自我であったとしても自分を裏切ってはいけなかったのに、
自分を裏切り続けている言動だったり・・・
「父からの調教」を掘っていく過程で、そのあたりが少しずつ、
見えてきたところがあります。

メモのようになってしまうかもしれませんが、
わたし自身の記録としてノートしたいと思います。
(以下、崩残さんからいただいたメールの引用はピンクの文字で表示します。)


◇ ◇ ◇


まず、ここを取り組むにあたり、わたしが掘っていく姿勢を
あらためる必要がありました。

ひとつは、

父からの影響、と考えるだけでなく、
「洗脳されたのだ」と疑って突き詰めていくこと。

もうひとつは、

知っているはずだ、と思い込んでいる
父の成育環境や父の素行を客観的に調べ直すこと。


崩残さんから、父の調教掘りに関するメールを
3通いただいたとき、まだ、その時点では、
その必要性、その重要性がわかっていませんでした。


>たとえば、テレビとか、近所の他人とか、
>他所の人が怖がるのを、非常に馬鹿にして、
>間接的に、あなたにプレッシャーをかけていなかったかです。


という箇所や、

>ほかの兄弟に対して、両親の接し方に、Abyさんへの接し方との
>違いはありませんでしたか?

という箇所や、

>そして、そういう毒父親を見てきた母親は、
>怖がっていたはずであり、その母親の父親への恐れは、
>表面的にどう繕っても、子どもに伝わると推測されます。


という箇所。さらに、

>父親は晩酌毎日してたのかとか、
>外で飲み歩いていたのかとか、
>結婚前後の父親の素行、当時の職業、
>そして、そもそも本当にヤクザとケンカしたならば、
>そういう世界に足を突っ込んでいたのか、それともハッタリか、など、
>疑問は数多くあるはずです。


とくに、この最後の「疑問は数多くあるはずです」と指摘されてはじめて、
えっ?と思ったほど、わたしは父に関しては、わりともうわかっている、
と思い込んでいたのだと思います。

実際、フタをあけてみると、これらの事柄こそ、掘り進めていかなけば
AC人格がいかに作られたかという掘り下げと理解がストップしてしまう
ことばかりだったであったことに気づきました。


・・・


まず、父の生育環境や素行を思い起こし、一部、調べてみることから
はじめました。箇条書きでまとめます。


・ 父の一連の口癖、格言は、酒を飲んでいようがいまいが、
  執拗に口にしていた。どちらかといえば、 しらふもしらふで、
  真顔で語っていたといった印象。

・ 父の父親と母親、父の兄弟(長男、妹)、長男の家族、など、
  「家族」を働き手の中心とした自営業の職場で父は働いていた。
  わたしの母は当然無償労働、父は給料はもらっているとはいえ、
  ただの労働力、むしろ、「次男」であった父は邪魔もの扱いされ、
  でも働くだけ働かせる、という「長男が全て」の価値観で育った。

・ 自分の存在を認めてもらえない家庭で育った父は、
  「お母さん(自分の母親)に自分の存在を認めてほしい」という
  それだけを求めて生きてきた。叶うことはなかった。

・ ヤクザとのつきあいはなかったが、たまたまケンカした相手が
  ヤクザだっただけであり、それをいかにも何度もあったかのように
  自慢していただけということが、調べてみると、わかった。
  その話をしているときも、あの不気味な「ニヤリ」を子どもに向けた。


生育環境と事実、また、しらふでもあの調子だったことを
確認したことで、このとき、わたしははじめて、

「かなり計画的な洗脳だったのではないか?」

と、疑いの目で見ることができました。
それまでは、どこかで、「父はそのつもりではなかったのだろう」と
無意識に擁護していたところがありました。

でも思い起こしてみると、酔った勢いで、というのはケンカでも
そういうことはなく、今までニコニコしていたのに、突然人が
変わったかのようにしてキレる、というのは、どこか異常でしたし、
相手を血祭りにあげて、チラっと子どもを見てニヤリとするしぐさは、
どう考えても、確信犯としかいえない、と思うようになりました。

母はこれをどう見ていたのか?

何度か母と直接、電話で話す機会があり、そのなかで、
当然母も父のその突然キレたりする様を、「こわかった」と
言っており、ひとつ、わたしは母にたずねてみました。

「お母さんがビクビクしている、というそのこと自体を、
子どもに話したりとか、そういうこと、あった?」ときいたら、

「直接そうは言わなかったと思うけど、子どもたちには、
〝お父さんには、気をつかいなさいよ〟と話していたよ」と
母は答えました。

そうきいて、わたしはそう言われたことも覚えていなかったし、
「えっ?」と意味がわからなかったのですが、つまりそれは、
こういうことでした。

「お父さんは怒ると大変だから、お父さんには神経をつかいなさい。
もしもお父さんが怒り出したら、わたし(←母)がなだめないといけない。
だから、お父さんを怒らせてはいけないよ」という意味で、
母は子どもたちに注意をうながしていたらしいのでした。


わたしは子どもの頃から、どこかで、
「父を怒らすと、母が困ることになる」と思っているところがありました。
それがどうしてかわからなかったのですが、先ほどのように母から
話をきくことで、そのあたりがつながってきました。

わたしが小さい頃、母が友人とデパートに出かけていたとき、
タイミング悪く、仕事中の父に泣いて電話したことがあり、
それに苛立った父は、デパートの館内放送まで使って、
「すぐに家に戻れ」と母にあたったことがあり、わたしはその件に
ついてはずっと、

「どうしよう、お母さんがお父さんに怒られちゃう。
わたしはなんてことをしてしまったんだ・・・」

と思った、という記憶がありました。


それと似たような記憶が、もう一つありました。


母の友人宅の一室で、電気を消しておばけごっこなどで
遊んでいたのだと思います。
突然弟が泣いたので、慌てて電気をつけると、
怪我をして血が流れていました。

わたしはどこかにぶつけたのだろう・・・と思いはしましたが、
走ってきた母に、「なんてことしてくれたの!」と一言も口をはさむ余地なく
ひっぱたかれました。


それについても、わたしは「わたしじゃない」と言おうとも思わなかったし、
突然ひっぱたかれて文句を言おうとも思いませんでした。
考えていたことは、「お母さんに悪いことをした」、「どうしよう、お母さんが
お父さんに怒られちゃう。とんでもないことをしてしまった」ということだけ
だったと思います。


「わたしがミスをすれば、母が父に怒られる、怖いことになる」という
プレッシャーがあったのではないだろうか?


もちろん、子どもの見えるところでは暴力はふるっていない。
おそらく、両親の今までの話からは、いわゆる、殴る蹴る、といった
わかりやすい暴力はなかったと思います。
(ですが、性的な暴力はあったと、わたしは思っています。)
そのわかりやすい暴力、ということに関していえば、
「お母さんと子ども以外の他者」に向けて、
「見せしめ」のようにふるわれていたのだと思います。

また、それを見ていて、父がいつキレるのか、
どういうときに逆上するのかがわかりませんでした。
とりあえず、「お父さんの気にくわないことがあると」キレることは
確かだったので、ずっと気を張っている、という感じだったのだと思います。
だからだと思いますが、母もまた、
「お父さんには神経をつかいなさい、気をつかいなさい、怒らせないように」
としか、言いようもなかったのかもしれません。
実際、「〇〇はしちゃいけません」という具体的なものは、
まったく見あたらないのです。そもそも父は、それどころか表面的には、
「なんでもしていいよ。お父さんはダメって言ったことは一度もない」
と言っていたわけですから。なのに、ほんのささいなことで、
他人に罵声をあびせたり、殴ったり、血祭りにしている。
相手がヤクザであろうが、ホームレスであろうが、仕事関係者、
隣人、身内、誰かれかまわずに。

この神経のつかいようは、あまりに日常だったので、
タイヘンだ、とか思ったこともありませんでした。
これはわたしが「長男」という立場、「兄」という立場としての
当然の責任、母を守ること、兄弟姉妹を守ること、広くは、
父をも含めて「家族を守ること」を、当然のこととして、
わたしが認識していたことにも原因があると思います。

そのあたりは、また後述したいと思います。


いずれにしても、わたしは母の様子やとり乱しようを見て、
自動的に状況を察知し、「母を困らせてしまった」イコール、
「母が父に怒られる」と考え、母を守れなかったわたしを
無意識に責めていた、ということはあると思います。


・・・


反抗期についてですが、わたしは母に反抗しました。
というのも、思い出したのですが、事実として
わたしは「父がこわかった」のです。

あるとき、実際に母から言われました。

「なんでお父さんには、同じことを言えないの!」と。

何をするかわからないお父さんには
言えるわけがない、と思ったのを思い出しました。
お父さんの前では、何事もなかったかのように
愛想よくいる、というのが、常態だったからです。

この恐怖心は今もあるか・・・と自問してみますと、
やはり今もあります。反抗期のときもそうでしたが、
口でかなわない、というよりも、そもそも話になりそうにないし、
父がキレたらやられる、と思っていました。
それはあのキレた様子、キレたら何をするかわからないケンカを
何度も見聞きしてきたからだと思います。

口論もできなかったのは、怒ったらもしかしたら・・・
という恐怖心が確実にあったからだと思います。


・・・


このあたりをまとめた段階で、崩残さんに報告メールをし、
以下の返信(一部)をいただきました。


Aby様

まずこのメールについてですが、
ようやく、父親の生育環境と、それが作り出したAC人格と、
それがAbyさんに、直接の影響、
または母親を守らないとという形での影響に繋がってきていると思います。



> 母が言うには、しらふでも同じことを言っていた、ということです。
> 飲むとじょうぜつになるだけで・・・ということでした。

わかりました。酒がスイッチではないわけですね。

> 父の育った家族は、「長男が全て」の価値観だったらしく、

実は、これに類する現象があります。
現代では法律的にはあり得ないのですが、
「精神構造」そのものからすれば、それは、
今も、そこかしこの家の中で続いていると私は思っています。
 ↓
http://n-knuckles.com/discover/folklore/news000589.html


つまり、これと同じです。


> とりあえず働かせるだけ働かせておいて、存在は認めない、
> 長男がいればいい、という空気のなかで働いていた、ということに
> なっています。


>父はつねに「お母さんに自分の存在を認めてほしい」と
> そればかりだったと、わたしの母も話していますし、わたしが成人してからは、
> わたしの目から見ても、この父親はそれだけを考えて生きてきたんだなあ、
> ということがわかったほどでした。

ここもほぼ確定だと思います。


> たぶん父にとって、それがあまりに自慢話だったので
> 何十回とわたしにも話したのだと思います。

そのようですね。
私の認識によれば、そもそもヤクザの世界のことを知っていたり、
実際の関わりがあれば、そのとき、自分が家族持ちだったら、
自分の家族への(別の組員からの)報復を懸念して、
絶対にそういう行動は取りません。
ただの、ちっこい自慢話だったのですね。



> 「親が人を殺せ、と言えば殺すのが子どもだ」、と
> 躊躇なく言う父ですから、ヤクザの世界には憧れは持っていたかも
> しれません。

これが意味する事は、別に仁義の世界に憧れていた
ということでもなくて、
「親という立場を悪用して、家族に対する絶対者ぶる」
そのことを強調した言葉だと思います。

しかしまー、じゃー実際に、子供が人を殺して
警察で「親がそう言ったからやりました」と言ったら、
どういう育て方をしたのか疑問に思った警察が、
その親を呼び出す、ということすら、父親は、わからないのですね。

子供がそのときに、
「じゃー、僕が人殺しをしたら、お父さんにやれと言われたと、
警察でいっていいよね?」とでも言ったら、
その父親は、とたんに、
「いや、たとえだよ、たとえだ。」と誤魔化したと思います。

しかし本音では、それぐらい「オレの命令には逆らうな」と叫んでおり、
そうでもしないと、自分の自尊心や人生を挽回できないと
思い込んだものと思われます。



> おそらく子どもの勘で、「父を怒らすと、母が困ることになる」
> くらいは、察したはずです。


そういうことも大きく影響しています。


(中略)


> この二つの事件のときに、わたしが咄嗟に感じた感覚の記憶の
> 根拠を考えてみれば、明らかに、「わたしがミスをすれば、母が父に
> 怒られる、怖いことになる」というプレッシャーがあったのではないか?
> ・・・このあたりが、なんとなくですが、つながってきました。

ここは大きく、Abyさんの人格形成に影響していると思います。


> 実際、「〇〇はしちゃいけません」という具体的なものは、
> まったく見あたらないのです。そもそも父は、それどころか、
> 「なんでもしていいよ。お父さんはダメって言ったことは一度もない」
> と言っていたわけですから。


まるで、

「この国は、自由の国、アメリカだ。
 ここでは、なんでも好きなことをして、夢をかなえなさい。
 ただし、権力者のご機嫌を損ねたら、
 投獄したり、生活できないほど、コテンパンにしてやるからな」

といっているアメリカという国のようですね。



> 口論もできなかったのは、怒ったらもしかしたら・・・という
> 恐怖心が確実にあったからだと思います。


そのようです。


(以下後半、中略)


崩残



・・・


「(2) 父の調教」に続きます。



2013.10.28
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-10-28 00:34 | 復元ノート 1

こわくないと思い込もうとする癖

「今の自分でいい、と言ってもらいたいわたし」の出鼻に
自覚的でいようとすればするほど、
日常のほんの些細な言動の随所に、コイツが自動的に
顔を出してくる。

どうしてこんなにも反射的に出てきてしまうのか?
「今の自分でいい、と言ってもらいたい」のは、どうしてか?
ここは掘り下げが甘いと思ったので、
日々の反射的な言動の「動機」を観察してみることにした。
「不快を見たくない不快」があることに気づいた。

それは、どちらかというと、拒絶反応に近いみたいで、
パッと「反応」してしまっている。不快だな、と客観視できるような
距離感でなく、熱いものに手を触れたら、サッとひくような速度で。

そう思ったとき、これではもっと根っこにある不快そのものを
掘ることを、その入り口でとめてしまっているようなものだ、
これはヤバイ、と思って、その手を引っ込めるような反応の起こりを
できる限り注意深く観察することにした。

わたしにとっての不快、不快としてリアリティのある感覚とは
今も昔もなんだろう?と考えてみたら、それは恐怖、
こわいという感覚だ、と思った。


「こわいのを、こわいと言えない」
「こわかったのに、こわかったと言えなかった」


どうやらこの思考が、つねにあるようだ。
こわい、と感じると、パッと目をそらす。
こわくない、こわくない、と思い込もうとする。
こわかったのに、気にしていない、何でもなかったと、
何とかしようとする。

「こわくないよね、大丈夫だよね、平気だよね」
と思い込もう、思い込もうとする。

だけれど、こわいのはこわいままだから、
そこで自己矛盾が起こる。

こわくないと思い込もうとするわたしが
なんとか「こわい」と感じたわたしを制圧しようとする。
でも、制圧はできず、黙らせる、見てみないフリができるのみ。

やっぱり、矛盾を抱えることになる。
だからずっと不安のまま。
こわくないよね、これでいいんだよね、そうだよね、と。

誰かにそう言ってもらいたい・・・


このプロセスは一瞬だけど、そこを経過して、
「今の自分でいい、と言ってもらいたいわたし」の出番がでてくる。

そもそも、こわいのをなぜこわいと言えないのか?
なんでこわいのを「こわくないよ、平気だよ、大丈夫だよ」と
自分に納得をさせなければならないのか?

考えれば考えるほど、よくわからない。
こわいままだとどうなるというのだろう?
こわいと思っているのに、こわくないと思い込もうとすることは、
どう考えても矛盾しか生まない。

そしてその矛盾を自分で抱え切れなくて、
自分以外の「何か、誰か」にすがることになる。
成人してからはこのパターンを、すがる(依存する)対象を変えながら、
延々と繰り返している。
「こわくないよね、平気なんだよね、今の自分でいいんだよね」と。


どうして、こわいをこわい、と言えないのだろう?


考えてみたら、子どもの頃からずっとそうだった。
不快にはいろいろな感情があるだろうけれど、わたしにとって
不快とは、恐怖感が身近だったことを、少しずつだけれど、
思い出してきた。


・・・


5歳頃の記憶だと思う。

これはわたしが今のところ思いだせる不快の記憶のなかで、
最も古いかもしれない。


わたしは水泳を習わされた。


感覚としては薄れてしまっているが、あるとき、わたしは
溺れそうになったことがある。
腕に浮き輪をつけていたような気がする。
ところが、それがあったせいで(あるいはおかしなつけかたをしていたのか)
姿勢を崩したとき、元の姿勢にすぐに戻れず、すごくこわかった、
ということを思い出した。


水がこわくなったのは、その時からだ。


溺れた、と自分は思っているが、まわりからは
そうは見えなかったのかもしれない。
誰も助けてくれなかった。

このことは、わたしは母にも言えなかった。
ただ、どうやら水泳は行きたくないような雰囲気を出していたらしく
身体を動かすものなら他でもいい、ということで、
水泳はやめて、身体を動かす他の習い事をはじめたのを覚えている。


小学生に入っても、水に対する恐怖感は続いた。


お風呂に入っても、もぐるだけで怖かった。
学校のプールも、着替えるだけで怖くなった。
水の恐怖については、誰にも話せなかった。

この恐怖感をわたしはどのように克服しようとしたか、と
いうことだが、これについても、誰にも話したことがなかった。


わたしは恐怖体験を、再度、自分で体験し、
それでこわくないと思えるようになったら、
克服したことになると思っていた。


「こわいと思うからこわいんだ」、と思っていたのだと思う。
わたしは小学生のプールでは、毎回、水の中で宙返りをした。
鼻に水が入り、恐怖感がピークに達する。
毎回これをやることが儀式のようになっていて、
生きた心地がしなかった。

こわいのはずっとこわいままだった。
だけど、なんとかしようといつも必死だった。

ところが水に対する恐怖感は減るどころか、どんどん増した。
普段、息をとめる、ということも儀式の一つにしていた時期もある。
おそらくこれは水のなかでは息ができない、ということの恐怖を
なんとか克服するために、自分で自分に課していたことだと思う。
苦しく、そして、やればやるほど、恐怖は増した。


水だけじゃない。こんなこともした。


タンスの上から、宙返りして落ちる。もちろん布団を敷いてだが、
楽しくてやっていたのではない。こわいから、やっていた。
こわいって思っちゃいけない、いけない、となぜか思っていた。
「こわくない」と自分に言い聞かせた。


この記憶を辿っていくうちに、あの、数を数える儀式のことを
ふと思い出した。なにか関係がある、と思って考えてみると、
おそらくこういうことじゃなかっただろうか、とつながりが見えてきた。


つまり、それはこういうことだったと思う。


こわいことを繰り返すことで克服しようとする試みは、
当然、エスカレートした。
もっと何回も、もっと長く、もっと高いところから・・・というふうに。
当然、どこかで出来なくなる。怖すぎて。

そしてこんなことをしている、なんて親には言えなかった。
気づかれないように、そっとやっていた。
一度、床に落ちた音が大きかったので「どうしたの?」と
きかれたが、「なんでもない」と答えたのを覚えている。

親に言えない。

でも、こわい経験は、これ以上はこわくて出来ない、という
ラインに必ずくる。そのとき、わたしは、たとえば、
「このタンスのこの部分を何回タッチすれば、許される」という
ルールを自分で作った。

当然だが、このルールも、誰にも話したことがなかった。
こわい、というわたしの感覚、その経験は、誰にも言ってはならず、
隠し通さなければいけない、と、強く信じていた。


そこまで思い出して、そうだった、わたしはずっと、
「こわい」を「こわい」と口にしてはいけない、と
思っていたことに気づいた。


・・・


なぜだろう、と考えているときに、思いがけず、
父親がよくわたしに言っていた話、口癖を思い出した。
格言を網羅したような、こんな話だ。


「こわいとか、つらいとか、それは当たり前。
誰だってそう。世の中そういうことばかり。
こわくない、つらくない、なんていう人は一人もいない。
お父さんもヤクザと喧嘩するときは、こわくてしかたがない。
でもね、Aby。心頭滅却すれば火もまた凉し、といってね、
火も熱いと思うから熱い。そう思うからそう感じる。
こわいと思うからこわい。こわくないと思えばこわくない。
できないと思ったら、できることもできなくなる。それが人間。
昔からね、なせばなるなさねばならぬ何事も、という諺がある。
Abyはいつも、自分の限界に挑戦している。これでいい、
と思わないで、これでもかこれでもか、と自分に厳しく、
自分の意思で闘ってきたから、今のAbyがあるんだよ。」


こわいと思うから、こわいんだ。


もしも、父や母が、
「こわいはずなんてないでしょ!」と頭ごなしにでも
言ってくれたら、まだ、「いや、こわかった」と言えたかもしれない。
でも、こわいと思うから、こわいんだと父に言われ、何でもかんでも
我慢しなさいと母に言われ、きっとわたしは、かなり幼い頃から、


こわいと思うわたしが悪いんだ

こわいなんて本当は違うんだ。

こわくなんてないんだ。

そう思えないわたしがおかしいんだ。


そうやって、わたしは何度も何度もこわいと思った経験を
その後も繰り返し繰り返し、いつこわくないと思える日がくるか、
試し続けた。


心頭滅却すれば・・・という格言を知ってからは、
わたしは火も怖くなった。テレビでも、火傷をして包帯をしている人が
ドラマで出てくるだけで、もうそのドラマは見られなくなったし、
何かの修行かわからないけど、熱いものを触る映画のシーンなど
脳裏に鮮明に焼きついた。こわくてしかたがなかった。


水や火の恐怖は、わたしが不快と感じた
今のところかなり古い記憶だと思う。


この不快に対して、わたしは、完全に押し殺した。
こわいわけがない、と。
こわいのにこわくない、こわくない、と言い聞かせたわたしが、
今時点も生きのび、「こわいのを、こわいと言ってはいけない」という
拒絶につながっているのではないか。


・・・


この記憶と平行して、もう一つ、拒絶に関する記憶を
思い出した。

それはおそらくもう小学生になっていたと思う。
ある夜、ベッドでわたしはこわくてしかたがなくなった。

「お母さんとお父さんがもしも死んでしまったら・・・」

と考えたとき、わたしは、猛烈にこわくなった。
完全な拒絶、頭は真っ白で、わたしはなんてことを
想像してしまったのだろう、そんなことがあるなんて
ありえない、死ぬなんてあるわけがない、考えられない・・・
と、尋常でない恐怖を感じたのを思い出した。

わたしは一人、身近な家族を記憶がないほど幼い頃に
亡くしている。部屋にはいつも写真がおかれていた。

毎日見ていた。

わたしは覚えていないのだけれど、生まれてから数年は
ともに過ごした人だった(仮名:Cちゃん)

寝る前には、必ずこう唱えるように、母と父から言われていた。

「Cちゃんお休みなさい。お母さんお休みなさい。
お父さんお休みなさい」

これは必ず毎日唱えてから眠った。
わたしは両親が死んでしまったら・・・とふと考えたとき、
Cちゃんの死を即座に連想したのも、それも一因だと思う。
Cちゃんは死んじゃった。
死は起こるものであり、両親だって・・・と考えると、
頭の中は真っ白だった。両親がいない世界に自分がいることなど
考えることはできなかったし、考えてはならないことだと思った。

だからその時、自分は悪いことを考えたんだ、悲しすぎることを
考えたんだ、だから泣いていないとおかしいんだ、どうして泣いて
いないんだ、泣け、泣け、涙を出せと自分を責めた。

わたしにとって、それだけ両親の存在は絶対的なもので、
両親の不在など、こわくてしかたなかった。でも、この時も、
こわいとは言えなかった。このことは誰にも言えなかった。
死ぬなんてことはないんだ、そんなことを考えるのがいけないんだ、と、
わたしは、こわいと感じた感情を押し殺した。
死などありえない、と事実を押し曲げてまで。


水や火、親の死、それらへの恐怖。不快。


なんでそこまでして、こわいと言ってはならなかったのか?
こわいと言ったら、どうしてダメだったのか?
それにしても、どうして、何もかも、自分一人で抱えこんだのか?


・・・


こんなことがあったことも思い出した。


小学生の頃か、それより前かは思い出せないが、
ある日、わたしは、外で蜜柑の皮をむいていた。
後ろを振り返ると、片手のない男の人が立っていて、
笑っていた。


これは本当にこわかった。

咄嗟に逃げた。


このことを、親にわたしは報告したのだが、
思い出してみると、「こわかった」とは一言も言えず、
わたしはこう切り出したように記憶している。

「このへんで、片手のない男の人、たまにいるよね」と。

親はたしか、こう答えた。

「いるね」

と。

「どうかした?」とその後きかれたかどうかは覚えていない。
たとえきかれていたとしても、「別に。今日その人いたよ」
くらいしか言えなかったと思う。
ただわたしはその時、本当は、こわかった、と言いたかった。
すごくこわかった、と。


でも言えなかったんだ。


・・・


父の口癖で、もう一つ、あまりに日常的な言い分だったので
口癖とも思わなかったものを、もう一つ、見つけた。

「困ったことがあったら、何でも言いなさい。
必要なことは、何でもしてあげる。何でも買ってあげる」

という言葉。そして、わたしは、本当に父はそうだった、と
成人するまで思い込んでいた。わたしが困ったことがあったら、
何でもしてくれる、そんな父親なんて世界中にわたしの父親だけじゃないかと
本気で思っていた。


完全に調教に成功した、
ということだ。


考えてみると、何をしてくれたんだろう?

衣食住はたしかに面倒を見てくれた。
学校にも不自由なく通わせてくれた。
友達が持っているようなものは、わたしにも買ってくれた。

でも、「何でもしてあげる」というほど、何かしてもらった記憶はない。
具体的なものがないのだ。
「何でもしてくれたんだ」という洗脳しかない。


よく父が話していたのは、

「計算用紙は100枚でも使っていい。1枚で本当はすむかもしれない。
でも、100枚使いたかったら使いなさい。それは無駄じゃない。
足りなければ、お父さんに言いなさい。何でも用意するから」という話だが、
だいたい、100枚なんて使うはずがない。

そうだ、父は、わたしが使うはずもなく、要求するはずもないことを
わざと出してきて、「〇〇が欲しいなら言いなさい」と言っていたんだ、
思い出してきた。わたしは、それに対して「いらないよ」と笑って答えた。

いるわけないものばかりだった。

世界中のケーキが食べたいなら言いなさい。
この店で一番(値段が)高いものを食べたいなら言いなさい。

・・・そんなの、誰もほしいなんて思ってもいない!
わたしが「いらない」と言うのがわかっていたはずだ、父は。


そしてうまーく父は、自分が出来ないことは、
「それはAbyの努力だよ」と誘導した。
だから、わたしは困ったことを相談したことなんて
一度もなかった。

困ったら、それはイコール「ダメ」なことであり、
自分でなんとかしなければならないことだった。


こわいのもそう。


こわかったら、こわくないように、
なんとかしなければならなかった。


・・・


ここまで「こわい」というわたしにとって大きな不快だった感情を
押し殺すことになったのは、どうしてか、まだよくわからない。
でも、言えるのは、絶対に押し殺さなければならないものだ、
親に言ってはならないものだ、と思っていたことは事実だと思う。


これを言ったら、おしまいだ、というくらいの
当然さがそこにあった。


それはもしかしたら、母と父を否定することにつながっていたようにも思う。
全面的に両親を信じていたわたしは、それは自己否定でもあったのではないか。

というのも、今までブログにも何度か書いたことだけれど、
母はわたしに「理想の母親像」を求めた。母が幼い頃、自分の母親に
甘えられなかった、目をかけてくれなかったという思いがある。
父は子ども時代、自分の存在すら母親に認めてくれなかった思いから、
子どもに自分の存在を認めさせようと、わたしの母同様、
わたしに「理想の母親像」を求めた。


わたしの両親の子育て観は、一言でいってしまえば、
Abyを「(母と父にとって)こういう母親だったらよかったのに」という
人間に調教することが目的だったと思う。

だから両親はよくこうも言っていた。

「とりあえずAbyには、わたしたちのような苦労はしてほしくない」

と。やさしい両親だとばかり、わたしは思ってきた。

実際、母も父も、子育ての頃の話をきくと、
そこに迷いがなさそうだった。「子育てはタイヘンだった」とは言うけれど、
そこに、迷いというか、葛藤とかは、話をきいてもまったく出てこない。

絶対的な信念(つまり、自分の親への恨みの反動)があって、
わたしを育ててきたのがわかる。
母は、目つき、態度、言葉づかいを見れば、Abyが今日一日、
どう考え、どう思い、どう行動していたのかわかった、と言う。
それは母親として、当然の責任だ、とも言っていた。
(そういう親が少なすぎる、と他の親を批判するくらいだった)

父は当然のごとく、「自分は正しい人」だった。
父があやまったり、反省したのを見たことは一度もない。
世界で一番正しい人間だ、とすら思っていると思う。冗談でなく。


問題だったのは、
両親に対して、「わたしも」
そう信じてしまっていた、ということ。


わたしにとって、二人は世界中の誰よりも
誇るべき親であり、理想の象徴だった。


少なくとも高校生くらいまでは。


・・・


そういう二人に対して、こわいとか、そういった
不快だった体験を言えたか、ということだが、
言えなかったのは事実だった。

もしかしたら、両親は、
「こわいなんて言うな、いやだなんて言うな、
つらいなんて言うな、できないなんて言うな・・・」という
無言の圧力をわたしにかけ続けたのかもしれない。

なぜなら、わたしが「こわいと思ったり、いやだと感じたり」していることは、
二人の基準では、「よくないこと、ふさわしくないこと」であり、
まさかAbyがそう思うわけがない、だってちゃんと子育てしているんだから、
文句なんてないに決まってる、だってわたしは自分のあの親とは違う、
だからよく見ている、何でも与えてあげている、間違っているはずがない、
あとはAby本人の努力だ、Aby次第だ・・・そう思っていただろうから。

それこそ、わたしは察して、
「こわいなんて言っちゃいけないんだ、いやだなんて
言っちゃいけないんだ・・・」と、二人の声を
読み取ったのだと思う。

わたしが困ったり、怖かったり、そういう感情は、
親からしてみれば「感じるはずがない」とさえ思っていたかもしれない。
その「感じるはずがないこと」を感じたわたしはおかしい、と
わたしは咄嗟に感じていたのではないか。

どこか、「こわいと言えなかった」時の記憶の隅っこに、
両親をかばう気持ちが、薄くだが記憶に残っている。
これを言ったら、両親が傷つく、あるいは驚く、ひいてしまう、と
咄嗟に感じていた気がする。


親はつねに間違っていない存在だった。


間違っているとしたら、わたしのほうだ、と
それは当たり前のように思っていたと思う。


わたしが不快を告白することは、
両親の絶対性を揺るがすものだったといっても
過言ではなかったように思う。


不快を感じるような子は、いない、はずだったのだ。


それだけ完全な子育てをしていると「両親が思っている」と
幼いながらもそれをわたしは知っていたのではないだろうか。
親の否定は、自分の存在否定でもあったのではないか。
あれほどの拒絶を考えると、それも誇張ではないように思えてきた。


・・・


不快を押し殺すというのは、そもそも、
感情を押し殺すということだと思った。

わたしがどうして喜怒哀楽を
「心から感じたことがない」と思っているのは、
それらを押し殺してきたからじゃないだろうか?


「こわいと思うからこわいんだよ」


というこの一言は、思えば、両親の子育て指針の核だったし、
同時に、今のわたしの行動原理そのものだ。
言動の全パターンは、感情を押し殺すことを「前提」にしている。
そうやって培ってきた、身に付けてきたものに、
価値などあるのだろうか。価値があったとしたら、それは、
母と父にとって価値のある言動パターンでしかない。


こうあってほしかったよ、お母さん・・・という、
母と父にとって、都合のいい道具。いや、道具ですらなく、
見せ物。母と父の復讐達成の証。それがAby。


 > わたしは恐怖体験を、再度、自分で体験し、
 > それでこわくないと思えるようになったら、
 > 克服したことになると思っていた。


と、今回の投稿の最初のほうに書いたけれど、
結局、わたしのこの自虐的な解決方法、
今も日々続けているすべてのやり方だ、と、今、
はっと思った。わたしがやっていることは、全部、これなんだ。

わたしが思う「解決」とは、つまり、
感情を押し殺せたらOK、というくらい、
馬鹿馬鹿しい解決なのではないだろうか?


・・・


こわいという不快に対して、「こわくないよ、平気だよ、
大丈夫だよ」と、自動的・反射的に反応してしまう思考から
どうやったら抜け出せるのか。

今わたしが感じる「安心」や「快」というものは、
たかだかこの「こわくないと思えた」という確認でしかない、と
先日、ふと思った。だからよく見ると、その安心や快の一歩手前には、
必ずといっていいくらい、不快を見たくない不快がある。
拒絶であり、いやな感じがある。


不快を感じとってから自動的に
まわりはじめてしまうループ。


掘り出しの途中だけれど、一度ここまでをノートして、
不快の掘り出しを続けてみようと思う。


2013.10.20
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
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by jh-no-no | 2013-10-21 07:50 | 復元ノート 1

猛毒父

「当たり前のことができたら一人前」

父が一番多く唱えた口癖だ。

当たり前のことができたら、神様だ、とも言ったし、
当たり前のことができたら、天才だ、とも言っていた。

当たり前のこと、ということもあったし、
ふつうのこと、ということもあった。

この言葉がやたらと気になったので、これがわたしに
どんな影響を与えてきたのか、掘り下げることにしました。


父は、わたしが100点の答案を持って帰ると、
「おー、100てーん。習ったことをテストでやるんだから、当たり前っちゃあ
当たり前だけど、でも、この当たり前のことは、誰でもできるわけじゃない」
と、よく言った。

また、学校や習い事も休まなかったため皆勤賞のことも多く、それを報告すると、
「おー、かいきんしょー。毎日行くのは当たり前っちゃあ当たり前だけど、
でも、この当たり前のことは、誰にでもできるわけじゃない」

と、こんな具合に、何を報告しても、だいたいこのパターンだった。


では、この「当たり前」とはいったい何だったんだろう、と思い出してみた。
たとえば、

100点とって当たり前、学校は休まなくて当たり前、親孝行するのは当たり前、
さらには、親が人を殺せと言ったら文句言わず殺すのが当たり前、と
当然のように言っていた。

「やるからには一番を目指しなさい。自分でここまで、と線をひいたら、
人間それでおしまい。一番がエライわけじゃない。でもそれを目指す姿勢、
努力することは、人間にとって一番大事なこと・・・だから、そうして当たり前」


書き出してみると、何が当たり前なんだ、というものばかりで、
父が子どもに対して「こうあってほしい」という、勝手な要求が
「当たり前」というものの内容だった。

そこで、問題は、子どもだったわたしが、そもそも「当たり前」という言葉を
どう認識していたか、ということだが、それを思い出してみると、
「人間として当然のこと。そうするもの」という、選択の余地のないものだった。

なぜ、そう思ったか、であるが、父は「当たり前」を定義する際に、
こんなエピソードを子どもにきかせたからだと思う。
それは、

「生きているだけで幸せだ。世の中には食べるものも着るものも、
住む場もない人もいるなかで、Abyはこうやって生きている。
当たり前のように息を吸っている。この当たり前のことができることが
いかに幸せなことか。」

という話を耳にたこができるほどきかされた。

わたしのなかで、「当たり前」とは、
そうするもの、そうして当然のこと、人として最低すべきこと、
というふうに解釈していた。

だから、「父からOKが出ること」は、人間として当然のことをやり遂げた
という印であり、そのときの自分が「いい」と思える、
すべての根拠だった。今の自分が今の自分でいい、間違っていない、
と思えるための「全根拠」でした。


父の手口を思い出してみました。


私立に行くか、公立に行くか、という選択を迫るときも、まず父は、
「私立にいくのが当たり前」という話を延々とする。

そこで父はわたしにきく。

「どうする?」と。

どうするもこうするも、ずっとこういう訊かれ方をしてきたわたしは、
そうするのが当たり前のことなのだから、疑いの余地なく、
「そうする」と答えた。

父はさらにたたみかける。

「私立に行きたいか?」と。

「うん」と答える。

最後にわたしにこう言ってまとめる。

「Abyが自分で行きたいって、自分決めたんだから、
最後まで貫きなさい」と。母も一緒になって。

そういえば、この前も母は
「Abyは、考えてみたらイヤだとか言ったこともなかったなあ。
いい子だったよね」と他人事のように言っていたが、
人として当然だ、という話をきかされてから、「いやです」なんて
言えたはずがないだろうし、いやだという選択肢があるとさえ、
想像もつかなかったと思う。その道しか、提示されていないんだから。

そもそも、それでは選択ですらない。
両親はいつも子どもには同意をとった、と言うが、
こんなの同意じゃない。そう言えって言われているのと同じだ。

こうしてわたしの記憶のなかでは、ほぼすべてのことは
「自分で決めてきた」と思い込む(すりこまれる)ことになった。

・・・なのに、

なぜわたしは、とくに親元から離れて成人した頃から、
いつも不安で不安で、「今の自分はいい、と言ってほしい」という枯渇から、
人だろうが本だろうが、手当たり次第、いいと言ってくれるものを
あさりはじめるようになったのか?


何かがおかしい、と思った。


だって、自分で決めてきた、何でも自分で決めてきたのなら、
今の自分をどうして誰かに「いい」と認めてもらおう、などと思うのか。
この年になっても、昨日も今日も、どうしてこの声がやまらないのだろう。


・・・


実はこのことは、今朝起きたときから、ずっと頭にひっかかっていた。

この頃は寝起きに注意を払っているのだけれど、今日は夢でなく、
起きて1秒後ぐらいに、わたしは自動的にこんなことを考えはじめていた。

「今のままじゃダメなんじゃないだろうか・・・」
「今の自分はダメなんじゃないだろうか・・・」

このブログでも何度か、「今のままじゃダメだ」と思っている、
と書いてきたが、今までここを雑なままにしてきてしまった。

今のままじゃダメだ、というよりも、
今のままじゃダメなんじゃないだろうか、という不安、
もっと正確には、今の自分はダメなんじゃないだろうか、
という不安が、まず、ある。

こういう表現が適切かわからないけれど、
わたしはこれは「自己不全感」と感じている。

そして、この不安と同時に、AC・被調教人格の「コイツ」が
出てくることに気づいた。少しずつその輪郭が見えつつあり、
今日、それをもっと明確なものにしてみようと試みていた。

そうしていたら、この、父の口癖、
「当たり前のことができたら神様だ」という言葉が
すごく気になりはじめたのです。


「今の自分はいい、と言ってほしい」


掘り進めていくうちに、見つけたのが、この
今の自分でいいと誰かに言ってほしい、というわたしの声でした。
いや、この声自体は、今までもあったのですが、
ずっとこれは、そのままにしてしまっていました。


前々回の投稿記事「父の毒っけ」でも、わたしの人生は
自分が決めたものではなかった、と書きましたが、
少なくとも1%の逃げ道は残してしまっていました。

それはつまり

「今の自分がやっていることは、いい(間違っていない)と
思い込みたい」という意思と、「自分の不全感を他で埋めたい」
という意思は、純粋に


「わたしの」意思


だと思っていたのです。でも違っていました。


これは父の口癖からの影響でした。


そう思ったとき、その意思の表現の仕方はそうでなく、
「今の自分はいい、と言ってほしい」ということを、
つねに思わせておこうとする、父の手口であったことに
気づいた。

自分で何もかも決めてきたのだとしたら、
なぜ、誰かに自分の是非を問うようなことをするのか、
反射的、無自覚的に、なぜそうしてしまうのか?
まったくわからなかった。なんで自分で自分をOKとできないのか。

それは、実はわたしは自分で何も決めてこなかったからでした。
両親からわたしは、「そう思い込まされてきた」だけで、
それは「思い込まされているだけ」で、思ってなんていなかった。

どう思っていたかというと、それこそわたしは
父を「神」だと思っていたのです。それも18年間。
父のOKが、つねに、今の自分でいいこと、間違っていないことの根拠でした。


掘り返しているうちに、思い出せなかった記憶が
だんだんと思い出せてきました。


わたしは親が「それでいい」と言ってくれるから、言ってくれたから、
だからやってきたんだ。それに向かって頑張ったんだ。
わたしは父から「ダメ」と言われたことは、記憶では一度もない。
(父もよくわたしに、「ダメって言ったことは一度もないだろ」と
自慢していました。たとえば習い事でも「いつやめてもいいよ。お父さんは
ダメって言ったことはないよね。でも、自分で選んだら貫きなよ」と、
いつもの手口でわたしに言ったのを思い出しました。)

わたしは父が提示した要求、それが学業であってもスポーツであっても、
わたしは、ことごとく達成した。やり遂げた。

そのたびに父は、
「Abyはすごい。当たり前のことだけれど、それができる人は滅多にいない」と。
と言い続けた。

であるなら、「親にほめられたい」と思ったりもするものだろうが、
わたしは親に「ほめられたい」とは思った記憶がない。


なんでだろう?と考えてみた。


結局父は、「すごい」とは言葉ばかりで、子どもに届いていた実際の
メッセージ(というか強迫)は、父が設定した理想「当たり前」とやらをこなせ、
ということでしかなく、「当たり前のことを当たり前にやって、ヨシ!」という、
「はい、合格」みたいなものだった。

100点が当然であるように、合格が当然だった。
ここに、うれしい、とかはどこにもない。だからほめられても、
ほめられた感じなど一度も感じたことがない。
いつも「やり遂げた」という気持ちしか残らなかった。

こなす日々、と書いたことがあるが、
まさに、こなす毎日だったのだと思う。


掘り進めていくうちに、どんどん、父の言葉が思い出された。
成人になってからは、何百回と言っていいくらい、こんな話をきかされた。


「Abyは、他の人以上に苦しいこともあったと思うけど、
そう感じたこと、ないだろ?我慢したとか、自分はすごいことをしたとか、
そう思ったこと、一度もないだろ?なあ、そうだろー。
当たり前のことを当たり前のようにやっただけ、と思っているはずだよ。
ふつうのことだと思っていたろ。すごいって感じたことなかっただろうけど、
でもね、これって、すっげーことなんだよ。本当はね、他の人にはできないこと、
当たり前じゃなかったんだよ。Abyはいかに自分がすごかったかっていうことに
気づかなかっただろうし、お父さんがこう言っても、そうかな?くらいしか今も
思わないでしょ。それだけ当たり前に、すごいことをやってきたんだよ、Abyは!」


こんな話を何度も何度もきかされて、「うん、うん。別にすごいとか
感じたことなかったなあ」と答えていた。さらに父は、
「そういうAbyを育てたのは誰でしょー。お父さんでーす」と
楽しそうに話していた。わたしは、愚かにも「そうだね」とさえ、
ずっと思ってきたのです。


今回、ここを掘りおこしてみて、自分の馬鹿さ加減にも呆れるほどでしたが、
ここを正確に思い出すまでは、父の言い分が、いかに猛毒だったか、
気づきもしませんでしたから、つい先日までも「毒っけ」くらいに
考えていたのです。


猛毒だった。というか、犯罪者レベルだ。


父はキャバクラに言っては、子どもの自慢話をしたらしい。
「お姉ちゃんたちが、子どもたちの話をすると、
〝へえ、そんな子いるんだー。会ったことないよ、すっごーい〟
とみんな言うんだ。それだけお前たちはすごいんだよ」と
この話も何百回もきいたが、わたしは、まったくこの話に嫌悪を
抱かなかった。というより、なんとも思わなかった。


なんとも思わないような人間にされてしまったんだ・・・


自分の私利私欲のために子どもを利用し、自分が威張りたいために
自分がなってほしい理想像を子どもに「人間として当たり前」として強要し、
最悪にも、「やらせの同意」をさせ、「Abyが自分で選んだこと」と思わせた。
こんな酷い手口に、今日の今日まで気づかなかった。


このまま、成人してしまった。
「今の自分でいい、と言ってほしい」と求め、それに答えてくれる人(父=神)
がいることで、かろうじて「今のままでいい」とやりすごせることができる、
そういうわたしのまま、今日に至ってしまった。

親元から離れ、大学に入ってからは、「これからは好きなことをやれる」という
思いとともに、それ以上に支配的だったのは、どうしてよいかわからず、
自分探しの日々が続いたことだった。

その頃には、父と母には失望させられることが多くなり、まったく
両親に頼ることがなくなった。だから自立しているんだ、
両親の影響なんてゼロだと思い込んでいた。

だけど、わたしは毎日不安だった。図書館や本屋を徘徊しては、
哲学書などを読み、そういうなかで、はじめて精神世界のコーナーを知った。
「今の自分でいい」と思える根拠を、わたしは完全に失ったのだ。
Pさんと出会う時期を前後して、10年近くは、自分探しのようなことをした。

もちろん、この当時は、その根拠をまさか父に求めていたとは、
想像もできなかっただろう。わたしは、何でも自分で決めてきた、と
思い込んできたし、母も自立をつねに主張していたから。
挙句のはてに、Abyは自分勝手だ、と会うたびに言われたほどだから。

今の自分でいい、と思える根拠探しは、いっこうに終わらなかった。
これだ、というものを見つけ、それに一瞬自己同化しつつも、
すぐに不安になり、また、「今の自分でいい」と言ってもらえそうな何かを探す。


今日になって気づいた。


終わるわけがない。だって、「今の自分でいい、と言ってもらいたい」という、
この思いだけで生きてきたのだから。


そうだったんだ・・・わたしは、この思いだけで生きてきたのか?


今朝起きて、1秒後にはこの思いに支配されているのも、
だからか、と思った。わたしは、ずっと、それだけだったんだ、と。

「今の自分がいい、と言ってもらいたいわたし」が生きのびるためには、
つねに自分は不完全でなければならない。
自己不全感があるからこそ、「今のわたしでいい、と言ってもらいたいわたし」
=コイツの出番があったのではないだろうか。


いずれにしても、今までわたしは、
「わたしは自分で自分のことを決めて生きてきた。でも世の中には、
親の言いなりに、親の評価を気にしながら生きている人もいるんだ」と
本当に他人事のように、考えていました。


まったく違っていた。正反対。


わたしこそ、
「親の言いなりに、親の評価を気にしながら生きてきた」
のでした。気がつかなかったのも、親の巧みなすりかえによるものでした。
だからまったく気がつかなかった。
これを、もしかしたら、無自覚ACというのではないか。


・・・


コイツがわたしに自己不全感を誘発するとしても、
それにしても、わたしの自己不全感は強すぎる、と思って、
これについても、父の口癖の影響を掘りさげることにしました。

これに関しては、5つほど、かなり影響を受けたと思われる
父の口癖を思い出した。


「完璧な人間なんて一人もいない。
自分が完璧って思っても、他人から見たらどうかわからない」

「人間ここまで、と思ったら、もうそれまで」

「結果自然に至る」

「結果も大事だろうけど、それに向けて努力することは、もっと大事」

「人生これが正しい、これがエライ、というのは、ひとつもない」


という、この5つ。

これを思い出し、書き出して、あらためてこれを読んでみた。


小さい頃からこう言われ続けて、自己不全感を持たないほうがおかしいし、
自分で何か決められるはずがない、と思った。
これでは、「お前は子どもだからわからないだろうから、何も決められないぞ」
と、言われているのと同じだ。

この頃のことをわずかだが思い出しつつあるが、わたしはいつも
どうするのがいいのか「わからなかった」。
それを母は「Abyはこうしたいとか、これがいやだとも言わない子だったねえ」
というわけだけれど、それこそ当たり前だ。これじゃ言えるわけがない。

わたしに意思や希望がなかったわけじゃない。
主張する余地がどこにもなかったのだと思う。
ただこなすだけで、わたしは精一杯だった。

自己不全感を植えつけておいて、一つしかない選択を
「当たり前。人としてふつう」と称して、同意に誘導し、自分の満足のために
「自慢の子」というおいしいところだけを搾取した。
その上、「Abyが自分で決めたことだ」とすりかえ、洗脳し、
「今の自分はダメなんじゃないか、今のままではダメなんじゃないか」という
不安をつねに生じさせて、「今の自分でいい、と言ってもらいたい」というふうに
つねに他に依存し続ける〝父にとって都合のよかった〟人格、完全無自覚ACを
作り上げたのではないだろうか?

だとしたら、

「今のわたしでいい、と言ってもらいたい」というわたしは、
父がつくった、父の都合のいいわたしでしかない。

今のわたしは、猛毒父の作品じゃないだろうか。


2013.10.16
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-16 05:20 | 復元ノート 1

「しつこく残留している」と感じたもの

今朝、起きたとき、また
笑っていました。

目がハッキリ覚めてしまうと、すぐにトラウマ掘りのことを
考えてはじめてしまうので、すこしこらえて、

「また笑ってるな」

と感じ取っていました。といっても、2秒程度だと思います。

でも、この2秒は、夢の内容を滅多に覚えていないわたしにとっては
貴重な2秒で、ここですぐに夢を「思い出そう」と思わないと、
まったく思い出せなくなる。

・・・失敗した。笑っていることに、気を取られた。
なんだか「落語」的な(←上手く言えません)ニヤリだったくらいしか
思い出せない!

なんでこんなことで朝から格闘しているかというと、
最近わたしは夢のなかの出来事も、
可能な限り、掘りおこしの現場にしたいからなのですが、
そう毎日は上手くいかないみたいです。

その前の日の夢は、といえば、これもまた
ひどく主観的な夢だけれど、寝起きが笑いではなく、
またおかしなものだった。


・・・


昨日は、図書館に用事があって
出かけました。

麗らかな日和だったせいか、いつものように
掘りおこしメモを片手に、外で一人で考えたくて歩いていると、
あれ?と感じたことがありました。

このブログにも何度か書いたことですが、
わたしはある時から、「拷問」というのが、こわくなりました。
誰でもこわいとは思いますが、わたしの場合、
その恐怖の妄想が自分のコントロール下になく、
どんどん膨れ上がり、「ごうもん」という単語、その音をきくだけで、
心臓をとめてしまいそうになるほど、反応してしまうものでした。

「誰だってこわいはずだ。わたしだけじゃない、こわいのわたしだけじゃない。」
と思い込むようにして、避けて避けて避けてきた、わたしにとって、
拷問という概念は、そういうものだったのです。


ところが、ブラブラ歩いていて、ふっと、
この拷問につきまとうあの「恐怖感」が無くなったように感じ、
そんなことはない、と、何度も何度も、「ごうもん、ゴウモン、拷問・・・」と
頭のなかで連呼してみましたが、その言葉は素通りするものの、
「あの、こわい」は沸かない。

今日になっても・・・継続観察中だが、
今のところは沸いて出てこない。


最近はとにかく、トラウマ・AC・被調教人格の「出鼻」を
なんとか捉えてみようと試みている。


まだそれは鮮明さに欠けるものの、
曖昧でもたしかに「コイツ」と感じるものがあって、
なんとか生け捕りにして、観察するよう注意している。

急に、この拷問の恐怖が薄れたとき、このときだからこそ、
なぜ薄れたか、消えているのか、とまさに夢と同じだけれど、
昨日は最大限の注意をはらって、観察してみた。


ひとつ、これはまったくわたしの癖でしかありませんが、
気づいたことがありました。


わたしが「こわい」と怯えているのは、拷問そのものでない、
ということでした(もちろん、拷問そのものは怖いし、嫌ですが)。

歪んだ人格の「コイツ」が暴れ出すと、こんな手を使って
私を脅かしているのです。
拷問というオモリと、コイツというオモリを秤にかけて、


〝拷問に耐えるのと、わたしを手放すのとどちらが耐えられる?」〟

と。


わたしにとっては、拷問は「耐えがたいもの」の象徴です。
恐怖の象徴。
コイツは、なんと、このわたしの怖がっている「象徴」を持ち出してきて
(しかもその恐怖は、数十年かけて増大させてきた)、
「我慢比べ」をさせていました。

わたしは我慢そのものに対しては、「するものだ」と
思っていましたから、いざ選択となると、
「どちらが我慢できるか」という判断を、自分で迫ってしまうのです。

この仕組みに気づいたとき、
コノヤロー、だった。
お前かよ、と。

最近、不快の掘りおこしをやっているため、言葉遣いが悪い、
というか、遠慮なく言わせていただいてしまっていますが、

「どっちにする?じゃねーよ。どっちもしねーよ。
どっちもいらない。だいたい、なんで我慢しなきゃいけないの!
しっしっ。一人にさせてくれっつーの」


青空の下、思わず、声に出してしまった。


自分に焦点をあてよう、事実を究明しよう。
この当たり前のことを、そのとき、確認しました。


ずっとやってこなかったことだ。
でも今からやってみよう、と。


試しに、わざと自分に言ってみた。

「恐怖が消えたなんて、思いこみじゃないの?
調子にのっていると、痛い目にあうぞー」と。

いや、自分に言ってみた、のでなく、
実際、コイツが試しにかかるのだ。いつものように。


わたしは言ってやった。


「もし、あのこわいが出てきたら?
やることはひとつ。事実を究明する」


・・・だって、「邪魔だから」。


そう、一昨日の夢の話の続きだけれど、
あれはこんな夢だった。

性別不明だったが、泣きじゃくっている人がいる。
わたしに抱きついてきた。
性的なアプローチをかけてくる。

わたしがとった言動にびっくりした。

「どけよ」と、断りました。
(邪魔しないでくれ、だったかな?)

続けて、こう伝えた。

「全自我になるまで、そんなことしません」と
夢にも関わらず、あまりにハッキリ答えたので、
わたしは自分が起きているのかと思ったほどだった。

・・・と思ったりしていたら、本当に起きちゃった!


夢の話はここまでにして、とりあえず、
この頃は、「邪魔だ」「ほっとけ」「かまうな」「どけよ」の連発だ。
慣れないので心のなかで、が、ほとんどだけれど、
時間差になっても、音声でも言うようにしている。
やっぱり声に出すと、すっきりした。


図書館に行く道々、
なんだか言葉に出すと、さらにすっきりして、

「Pさんのためにとか誰かのためになんて、もう、
する必要なんてない。両親の希望なんて、クソくらえだ!」

そう、これは昨日気づいたことだけれど、
わたしがずっと抱いている強迫観念のひとつ、
「真実を追い続ける姿勢こそ価値がある」というものがあった。
これはあまりに自分と同化していて、価値観とも思っていなかった。
わたしだけじゃなく、誰しもがそう思うものだと
そうも考えたことがないほど、疑いもしなかった。


だからだろう。

ここに疑いをかけること自体、拒絶していた。
あまりに怖くて。

だいたい、「真実」って、何?

わたしは、自分でその「真実」を
つねに捏造していた。必要だったから。

自分で捏造しておいて、自分で畏れた。
拷問秤という思考テストも、自分で考えてしまっていたのです。


父親の毒っけ、ということで、前回投稿しましたが、
何もかも、わたしのものじゃないんだ、という事実が明らかになり、
全部、例外なく、徹底して疑いまくって、まさかと思うような
「はりついた思考」だった。


そのことに気づいても、親に対して
むかつくことに、怒りの感情がスッと出てこない。
(思えば、二十代の頃は、その怒りの吐け口を、バイト先や
職場の上司に向けてしまった。これでは、毒親のかわりに、
上司と喧嘩しただけだ。ああ、そういえば、親戚とも
大喧嘩した・・・あんな口論、父が一人ですればよかったのだ。
わたしに自分の希望や主張なんて、何もなかったのだから。)

などと過去を思い出し、それ自体に苛立ちは覚えたものの、
そのときのわたしは、それよりも、
空を見上げて、


「なーんにもない。軽ーーーい」


と深呼吸して、両腕を広げてみた。
・・・全部、捨ててよかったんだ。
「何もなくても、わたしはいるよー」と。

どれだけ抑圧してきたのか。こんなことで解放感を感じるなんて。
一銭もなくったっていいじゃんよ(あっ、それは困るか、、、)。
そして、思いました。

許そうとか、恨もうとか、
そういう気持ちは沸きませんでしたが、しかし、

たとえ10年かかっても、言えなかった不快を、掘りおこしてやる、
残りゼロになるまで掘りおこしてやる、と思った。
その頃に全自我に戻れていようがいまいが、20年かかろうが、
30年かかろうが、生きているうちに、清算してやる、と思った。

思いながら涙ぐみそうになりましたが、
感情を抑えて生きてきたからか、涙もひっこみました。
でも、そのとき独り言ででもいいと思って、
こう言ってやった。



「ぜんぜん幸せになんか、なんなかったじゃんよー!」



社会に出たら好きなことやりなさい(だから今は我慢しなさい)、
とあれやれこれやれと、我慢を強いてきた「両親」に、これ、
言ってやりたかったな。


ついでに、ここで言ってしまいたい。


「なんできゅーくつなのが見ていてわかんねーんだよ。
どこ見てんだ!ほんと、バカじゃないの。ほっとけ!!」


今さらだけど、もうひとつ、

「結果がまったくともなってないじゃんよ。なんじゃこりゃ。
おかしいだろーよ!どーしてくれるっ!!あなたたちの望む
優等生、いい子が通用するのは、高校生まで、でした。」


大学行って、社会に出る頃のは、
「Aby、ちょっとおかしくなっちゃったよね」
じゃないよ、まったく。成人後の選択をいかにもわたしが
誤ったかのごとく、会うたび、よく言ってくれましたよ。


ふうー。


・・・


馬鹿馬鹿しい話だけれど、なんだか急に、
異性の好みも変わってしまった気がする。
誘ってくるような、翳りを見せるような人、嫌だな、って思った。
わたしはここにいますよ。蜂さん、蜂さん、気づいて!
蜜を吸ってほしいの・・・って感じがモロ出てて、キライ。

凛として、一人、シャンと立っている人のがスキ。

道行く異性を、まじまじ見てしまった。

「こういうの、いいって、なんだか騙された感じ」と思いながら。

同性に対しても生理的な嫌悪を持っていたけれど、
それも薄まった気がする。


・・・


ここまでは、感じたことノートみたいになってしまいましたが、
昨日そのような外出のなかで、見えてきた大きな問題点が
二つあることに気づきました。


図書館を歩いていたときですが、しばらくはリラックスして歩いていました。
それこそ馬鹿馬鹿しいのですが、
「どこ歩いてもいいんだ。戻っても戻らなくても。
行ったりきたりしても。わたしが決めている。歩いている」
という、すごく普通なことを、いつも感じたことがなかったので、
無駄に徘徊していた。


観察した。ここで何が起こるか。恐怖?それとも他の何?


予想外にも、恐怖ではなく、
予想外のことが起こった。


どっちでもいいけど、右いくといいのかな、左いくといいのかな?


と考えはじめているわたし。
「不自由だ」と、当然だが、思った。

それは、子どもの頃のあの半ば強迫性の行為そのものだった。

神経質、という親からの一言で済ませてはいけない、
と、この時は咄嗟に警告ブザーがなった。

一言で言おうとすると、この感じは、不全感だ。
つねに満たされてはいない、という根拠なく思う、あの不十分感。
どこか間違っている、どこかおかしい、という漠然とした不安感。
これも当然毒親の刷り込みの影響だ、と思った理由は、
ここに実体がないからだ。わたしのことなのに、
わたしが説明ができない。どこかってどこが?と自問しても
答えが出てこない。


Pさんと出会い、Pさんに依存の種を植えてしまったのも、
わたし自身が、「不十分な個人」をずっと意識していたためだ。
わたしの不十分さをPさんが埋めてくれる、
Pさんの不十分さはわたしが埋めよう、と。
凸凹があわさって、一人前になる(と思い込んだ)。
(もちろん抑圧されてきたわたしも、ここぞと暴れてみたけど、
ブログでも書いてきた通り、15年近くをかけて撃沈した・・・)

わたしにとって、共同とは、そういうものだったから、
はじめから、わたし個人の不満は「あって当然」という認識、
つまり、自己の抑圧それ自体をOKとしてしまったことが大間違いで、
今までもブログに書いた通り、「Pさん次第」で右にも左にも
動かされる結果となり、それに甘んじた結果が歪みを酷くしたわけだが、
あらためて、強迫性の行動が表に出て思ったのは、


「これはPさんと出会ってから、はじめて出た癖じゃないな」

ということでした。


自己不全感を埋めるには、他者が必要だ、という暗黙の了解。
他者とは、ときに「神」でもいい。まわりに誰もいなきゃ、
自ずと神だのみになる。子どものわたしはそうだった。
いわゆる「宗教」という形としての強制は無かったが、
「自分は完璧ではありえない。しかし、完璧であるべきだ。
完璧を目指すべきだ」という、さっきと同じような強迫観念があったが、
やや異なるのは、それだけでなく、
「この完璧、真実たるものを手にいれるには、自分だけでは無理だ」
というものが前提となっている。

自己不全感は、自分では埋められない、という思いこみ。

他者や環境、それでも不足なら「見えざる力」でも「運命」でもいい。
そういうものがパズルのピースとして必要であり、
言ってしまえば、「それ次第」で、真実だったり完璧だったりが決まる。
真実も完璧も何をもってそうなのかわからないわけだから、
頭では「馬鹿じゃないの」と思うけれど、馬鹿にできない。

自己不全感はあって当然だ、からはじまって、
それを埋めるには自分以外の「他者」が必要、正確には
「他者からの認め」が必要で、「それに向けて努力すること」こそが
真実を手にすることができる、という、なんとも陳腐なストーリーが、
わたしのなかに、根付いているのだ。


この思考の癖が、トラウマ・AC・被調教人格を
「おびきよせる餌」となっているようだ、と思った。


Pさんから距離をとると、どうなるか?と毎日実験してみたが、
こういう他者依存癖、というか、病理は、対象を選ばない。
なんでもいいらしい。

たとえば、Pさんでなく、他者でもいいみたいだ。
しかも、「気がついたら反射思考でベラベラ話してしまっている」
「相手のために話している」という状態を中継して、
「まわりのことはいいから、自分を大事にしなよ」なんて誰かに
言い始めたとしたら、完全に、自分の不満を代理ではらそうとする
依存人格が、誰かまわず、のさばる。

数日前のことだけれど、仕事関係のメールで
その勢いで反射的に返信しよう、としてしまったが、
「何やってんだろ、わたしは」と急に覚めてしまい、
ほったらかしにした。そういうのに限って、ほったらかしにしても
いいものばかりだ、ということにも、ついでに気づかされた。

そういうのは、徒労感しかなく、達成感ゼロ、
「つまらない、やってらんない、しったこっちゃねー」。


話があちこち行ってしまいましたが・・・


で、思ったのは、なんとなく歪んだ人格の像が見えてきたとしても、
元のこの病気をなんとかしないかぎり、これが引き金となって、
「ひょっこ」と出てくる、ということでした。

出てきても、もうあの「こわい」という架空の恐怖はないのですが、
いつ出てくるかわからない、という意味では、広い意味で、
恐怖といえば恐怖なのだと思います。
そのため、どこか、気が休まらない。


そのことを考えていたら、もう一つ、
そういう引き金となる思考癖を発見しました。


「今自分やっていることは、いいことだ」

という、書いてみると、ふざけたような思考です。
「今自分がやっていることは、いいことだ、と思い込みたい」
というものが、全面を覆っています。

これを突かれたら、わたしは、一時的にでも
取り乱す可能性は、とても大きいことに気づきました。

「今のままではダメです」と、自分が信じている人や対象から
そう言われたら、パニックになる可能性が大、ということですが、
考えてみれば、それはまったくおかしく、
「ダメならば、それで自分が困るなら、なんとかすればいい。
原因を明らかにして、解決に向けて、今すぐ動けばいい」のですが、
そこが見えなくなる危険性がある、というふうに思いました。

もちろん、「真実を追う姿勢こそに価値がある」として生きてきた
その歪んだ人格は、そこに気づけば、出番なしなのですが、
うっかりその引き金となる考え方や思考の余地を許してしまって
そこに自分が気づかないと、その餌につられて、
トラウマ・AC・被調教人格が、ここぞとばかり、戻り込もうとする。
今やっていることはダメだ、となると、「真実を追う姿勢にこそ価値がある」
をよしとする人格は、必死に暴れ出すようです。

しかもコイツは、「いい」と言われても不安になります。
判断を他者に依存しているからです。で、へんなうろたえ方をする。


思考癖に無自覚なまま放っておくと、
ひょいっと、コイツが知らん顔して席についている、
といった感じでした。


それなので、少し強気に言ってやりました。


「なにびびってんだよ。自分で考え、自分で対処して、
その責任を自分でおえばいい。だってそれ以外、できないでしょ!」って。

誰かに「いいですね」と言われたら、
わたしはそれで本当に納得できるのですか?
それで一度たりとも、安心したことはありましたか?


と問い詰めると、コイツもさすがに怯むようだ。


・・・もうほんと、「コイツ、邪魔すんな!」と思うのですが、
そう唱えるだけじゃなく、記憶と事実と不快をあらいざらいにして、
「無自覚」を徹底的に暴いていこうと思います。


2013.10.13
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-14 11:01 | 復元ノート 1

父の毒っけ

 ◇ ◇ ◇
 10月10日(木)
 ◇ ◇ ◇

朝起きて、こうやってブログを書き始めるのは、はじめてだ。

書こう。

今朝、7時ちょうどに起きた。ぴったり。
だからなんだ、ということはないのだけれど、
とりあえず、寝起きがよかった。

驚いたことに、起床後3秒程度だが、わたしは笑っていた。

寝起きというのは、わたしの場合、基本的に
「また今日も一日はじまるのか・・・」と、億劫な思いではじまるのが常だった。

気がつくと、いつものように、今日の場合は
「わたしの父の調教ぶり、というより、あの身勝手さ」に
床のなかにいながらも、ああだこうだ、考えていたわけだけれど、
ふと、笑って起きたのを思い出し、また珍しく、夢をわずか覚えていた。

まったく主観的な映像だと思うけれど、
書いてみたいと思う。

・・・


船が何かを運んできた。

わたしは、下をのぞきこんだ。

ゾウだ。

一匹のゾウが、移動されてきたのか、
可哀想なほど狭いところに、ぴったり収納されるように
運ばれてきた。

目と目があった。

その瞬間、水を「プファ~」と勢いよく鼻から出し、
わたしはビショビショだ。
重く、でもそれは気持ちのいい水で、
わたしは笑った。

次の瞬間、大きなプールを挟んで、
ゾウは、向こう岸にいて、空高く、鼻を向け、
一気に水を放つ。

大きな半円を描き、わたしのいるこちらの岸に
水が届く。


・・・


で、おそらく、目が覚めて、わたしは笑っていたようだ。

たった数秒のことで、次の瞬間には、父親のことを考えていたから
忘れそうだったけれど、今までにわたしはこんな絵本のように
きれいな映像の夢を見たことがなかったから、思い出せてよかった。

最近は思い出せると、ホッとする。
つらいこともうれしいことも、忘れてしまってはわからなくなるから。

ゾウは船でとても窮屈そうだった。

窮屈な思いが、ゾウの姿として映ったのかもしれない。

解き放ちたいという思いが、あの重くても、ずっしり存在感のある水の放出。

と、思い出していると、

それだけじゃなかったな、と。嫌なシーンもあった。

ブログで書いたせいかもしれないが、
「電車に乗り遅れる」夢だ。
乗り遅れ方にはいろいろなパターンがあって、そうそう、
今日のパターンはよくあるやつだった。

「間に合った!」と思ってプラットホームに着くと、
行き先が逆であることに気づき、反対のホームに戻る頃には
たいてい間に合わない、というもの。

・・・というシーンもあったし、

見ず知らずの人に因縁つけられて、
殴られて意識を失った夢も見た。
そういえば、昔ある時期は、よくピストルでうたれる夢ばかり見た。

こんなシーンもあった。

これはわたしの性的なものへの不満の表れかもしれないが、
どこか知っているような、知らないような女性だったが、
その人からちょっとエロティックなDVDを借りて、それを見ている夢。
といっても、アダルトビデオのようではなく、わたしが
異性に抱いている感覚的な妄想の寄せ集めのような内容だったような。
交換日記のようなノリで、交換DVDをしている。

・・・いや、これは今はいいかな。
かなり主観的な夢のメモになってしまったが、
夢を思い出せるのは、そこでの出来事も不快を掘る場所になるわけだから、
思い出すのに必死になる。

起きてすぐに回収作業をしないと、と思っているのですが、
最近は夢だけでなく、起きた瞬間、わたしが何を思っているかなど考えてしまい、
しばらく時間があいてしまうことがある。

回収作業をしてすぐ今日は、ブログを書きはじめてみた。

前置きが長くなってしまったが、今日は、昨晩に考えていたこと、
父親の毒っけについてノートしたい。


・・・


「あるにこしたことはない」


父のたくさんあるうちの一つの口癖。


「過ぎたるは及ばざるがごとし」と言ってやりたいが、
言ってもムダだ。どんな格言も、反対の意味もあるわけで、
父は自分の保身のためなら、簡単に意見をひっくりかえして
都合のよい格言やことわざを持ってきた。

他人のことは言えない。

わたしもずっとそうやって保身をしてきた。
父の影響だ、とは思っていなかったけれど、
この「あるにこしたことはない」を思い出して、
十分な影響を受けたのだと思った。

成人後は、あるにこしたことはない、など父が言うと、
「そんなことはないよ。あるから邪魔になることもたくさんある」
といって反論した。だから、わたしは父の意見には従わないし、
屈していない、自立している、とずっと錯覚していたが、
たとえ成人後にそう言えていたとしても、そのことと、
影響を受けていないこととは、まったく別なことに気づいた。

今のわたしの仕事や内職の内容は、わたしが学校で
勉強したことでもなければ、卒業後、何か資格という資格をとって
はじめた仕事ではない。ほぼ独学で現場で学んだ。

そのことを父は会うたびに、

「資格はあったにこしたことはない」と言う。
「だから、そんな時代じゃないんだって」と言っても、きいちゃいない。

ここには、今の時点でわたしが切り返せるかどうかでなく、
幼い頃にこそ、大きな影響を受けていると思った。

わたしは、文科系、理科系といえば、理科系の分野に属する学部で
大学時代は勉強をした。
わたしはその頃から、自分の意思がなげやりになっていたこともあるが、
高校になって文科系、理科系を選択するときに、
わたしは理科系を選んだ。

なぜ、どっちでもいいや、と思っていたのに、
理科系にしたんだろう・・・?

思い出してみた。

そう。父はよく言っていた。

「どちらも大事な勉強。Abyの好きにしなさい。
ただね、理系は文系に移れるけど、文系は理系にはなれない。」

と、何を根拠に言っていたのか、今となってはわけわからないけど、
わたしは、いろいろ主張するわりにはボケッとしているところがあって、
「そうなんだ」と思った。

父にとって、理系は「大」で文系は「小」。大は小を兼ねる、らしい。

なら、理系にしておこう、という程度に、
わたしは考えなしだったのではないか、と思った。
思い返すと、たしかにこれくらいしか、判断基準がないほど、
その頃にはわたしは、何か、自分の意思というか、やりたいこととかが
わらなくなり、自分で決められなくなっていたのかもしれない。
(Pさんに出会った時には、もうすでに何かを自分で決める、という
意思が相当に希薄になっていた。だから依存の種を植えてしまったに違いない。)

大は小をかねる、だの、あるにこしたことはない、だの、
「何を美しいことを言ってるのか・・・」と成人後は、父の愚痴に
つきあっていた「程度」の認識しか持っていなかったが、
今になって、

「わたしの父親は、実は、本人が無自覚だろうが自覚的だろうが、
相当に毒っけがあったのではないか?」

と思い始めた。愚痴につきあっている場合じゃないのでは・・・と。

母のほうがどちらかというと、気づきにくい調教で、
手ごわいと思っていて、父親のことを軽く見ていた。

父の巧みなコントロールがそこにあった。

父は、必ずこういう言い方をしたのを思い出した。


「Abyの好きにしなさい。自分の人生は自分の決めるんだから。
ただ、~ということはあるから(気をつけて)ね」


という言い方だった。思えば、今もそうだ。


必ず最初に「自由」を強調する。


次に、「補足説明」だ。


この順序は、とても大事だったのではないだろうか。

「~ということも(事実として←父の場合それ自体アヤシイが)あるかもしれないけど、
それは一情報として、Abyは自分の好きにしなさい」

という順序でわたしに届いていたら、随分、結果も違っていたのではないか。

もちろん、わたし自身、「ゆずる」「我慢をする」「相手の意向に従う」という
希釈自我ならではの振る舞いをしたわけだから、わたしがそれを許すという、
してはいけないことをしてしまったわけだけれど。

でも、このやり方は姑息だ。

「好きにしなさい。でも、お父さんはこうしてほしい」と言っているのと同じで、
父は、わたしに、「自分の意思と、父の希望」を、秤に「かけさせた」。
二者択一だ。わたしは手放してはいけないほうを手放した。

父の希望を、無自覚に叶えていた。

それは「父の希望」とすら、思っていなかったかもしれない。
「そうするものだ」という感覚で、わたしは自分の歩く道が決まっていた。

しかもそれは、「わたしが選択したかのように」思わせながら。
Abyが自分でいつも選択した、とよく言うけど、本当か。

わたしは中学から私立の学校に通った。
別に勉強ができるほうでもなく、受験勉強も高学年からはじめたから
その当時は偏差値がそれほど高くない私立中学に入ることができた。

これについては「わたしは私立に行きたい」と言った、と
両親は言う。

そうだと今まで思いこんでいた。


本当だろうか?


わたしは小学生の頃、「私立に行きたい?」と似た質問をされて
わたしは私立というのがなんだかわからず、「手術」だと思って
すごく怖かったのを覚えている。

そういう子であり、いつも好き勝手にダンボールなどで
工作しては一人で遊んでいるような子が、

「私立に行きたい」など、自分から言うか???


父はよく言っていた。
「選択肢は多いほうがいい。可能性はないよりあったほうがいい。
私立に行ったからといって、エライ人になる必要はないが、
何かやりたい、なりたいといったとき、選択肢は多いほうがいい」と。


Aby、私立にしなさい。と言っているのと、変わらない。


ここでも、わたしは、「やれる」と思ってしまったのだ。
そうやって、自分の意思がわからなくなるほど、自分の意思は秤にかけられ、
父の望むような道を歩いた。だから言うのだ、


「わたしの子は世界一だ」と。


父は恥ずかしげもなく、「その子どもたちを育てたのは、誰でしょーう」と
酔っては話していたが、こんな馬鹿げた発言に、なぜわたしは怒り一つ覚えず、
つきあい笑いをしてあげていたのか・・・


それにわたしは父が、実は、こわかった。


・・・


父はわたしに暴力をふるうことはなかった。
罵声を浴びせることもなかった。

でもどこかこわかったのは、
よくこんな話を自慢げにしていたからだ。

「若い頃(←といっても父が大人になってからのこと)は
よく喧嘩した。ヤクザだろうが、なんだろうが、負けたことがない。
あるときは、車道の真ん中でシャツがビリビリになっても喧嘩、
ヤクザ相手だったけど、負けたことがない」

らしい。ニコニコ話す。

お父さんは見かけは優しいけどね、怒ると手がつけられない
くらい強いんだよ・・・と言いたそうに。

何度か、たしかにわたしも父が外で喧嘩をしているシーンを見た。
言葉づかいもすごくて、手も足もでる。同じ人とは思えない。
ふと子どもの方をみると、笑ってる。今思えば、異常だ。

だからわたしは成人になってもどこかこわかったし、
父には反抗できなかった。いやなことを直接されたことはないが、
「父には最後は逆らえない」という思いだけは、たしかにあった。
それは今でもないというと、嘘になる。
何するかわからない人だから。


子どもには直接、言葉も手も出さず、
恐怖を植えつける。


これが毒親でなく、何が毒親だろう。


そして、つねに「Abyの意思」と「父の意思」を、
「わたしに」秤にかけさせて、自由にどうぞ、といいながら、
父のなかで、希望は決まっていた。
わたしはそれを「察して」、それに従った。
「他人の気持ちを察しなさい」と教え続けたのは、
母だったが、父はそれをさらに利用した。


父の手口は、母以上だったのではないか。


・・・


子どもの頃、わたしは、なんだかわからないけど、
毎日が「こなさなければならないこと」でいっぱいになっていき、
どんどんこなさなきゃ、こなさなきゃ、と
はい次、はい次、って感じで毎日を過ごした。


わたしの子ども時代を一言でいえば、
「こなす日々」だ。


そして、束の間、
妄想にふけった。


この妄想だけれど、最近、自分がどういう妄想を
その時しばしばしていたが、思い出した。


妄想のなかでは、わたしはつねに一人。


まわりに誰かいるかもしれないけど、それはオブザーバーで、
わたしが一人主人公で、一人舞台で、わたし一人の権限で、
わたし一人が当然のように、わたし一人やりたいことをやっている。
誰にも束縛されず、自由に考えていい時間。
床についてから寝入るまで、しばしば妄想した。


習い事もそうだったけど、わたしはチームプレイが苦手で好きじゃなかった。
誰かと何かをする、というのが、好きじゃなかった。
また誰かが決めた何かをなぞるのも好きじゃなかった。

わたしは自分の決めたルールで、自分の判断で、
白紙から何かを作るのが大好きだった。
だからプラモデルとかはとても苦手だった。
出来上がりが決まっていたから。
その当時のわたしにとっては不毛に感じた。
わかっているものをやることほど、わたしにとって
つまらないと感じたことはなかった。

また誰かと何かをやるのも、気を遣うだけで、
まったくそんな気を起こすこともなかった。
友達と遊ぶのも、基本、好きじゃなかった。面倒くさかった。
つねに「つきあっている」といった感じで、その時間が
「早く終わらないかなー」といつも終わっていた。


つねに、こうやって「こなして」いるだけ。


思うに現実社会で、わたしは、
まったく思い通りじゃなかったのだと思う。
妄想のなかだけが、わたしのイメージの世界。
誰も入ってこられない世界。


このイメージの世界を、わたしは20歳くらいまで
細々と持っていたような気がする。
ただこの妄想は、わたしのなかで「叶ったことがない」もので、
「これから叶えなければならない、大きな課題だ」という
感覚が、いつも、あった。

だから、目の前の現実は、いつも違う、何か違う、
ここではない、別などこかだ、新しい何かを作らなければ、
という焦りばかりだった。


わたしはこの自分の状態を今まで
「おかしい」と捉えたことがなかった。
これだけ恵まれた家庭に育って、学校にも行けて、
衣食住も足りて、なのに何か「やりたいことができていない」となれば、
わたしの努力が足りない、わたしがダメなんだ、と。
なんとかしよう、なんとかしよう、そればかりだった。


おかしい、と思わずに、
「解決すべき、なんとかすべき課題だ」と、
自分にはっぱをかけていた。
ここに不快を感じとろうとする余地はなかった。
不快は感じてはいけないものであり、不快を感じるような状態にいるとしたら、
不快だなどと恥ずかしげもなく言ってはならず、
それは、わたしのいたらなさだと、当然のように思っていた。


昨日、わたしは久々に音楽をきいてみた。


ある歌い手さんの動画だったが、見ていて
目頭が熱くなった。


どうしてわたしは小さな不愉快を、不愉快だといわなかったのだろう。
どうしてそのままにする、ということができたのだろう。
不快をそのままにしないことこそ、妄想であったとしても
わたしのイメージの世界だったのに。
こうやってこの人は歌っている。一人で歌っている。


わたし一人の世界。


「もっと自分の世界を生きたかった」と何度か書いたけれど、
その自分の世界と、わたし一人の世界とは、どこか違う。
わたし一人の世界には、そもそも、わたししかいない。


でもそんな世界、一度も見たことがない。
わたしが見ている目の前の世界は、
「とっととすませなければならない事態」としか思えない。
だから、焦る、こんなことしてる場合じゃない、早く早く。


だんだん、わからなくなってきた。


でもどうして父や母は、「すごいねー」とかほめるだけで、
「もう我慢しなくていいよ」と言ってくれなかったんだろう。
そう、Pさんも同じ。「すごいね」とはいうけれど、
すごいね、なんて言われたいわけじゃない。


「他の人、他のこと、しなくていいよ。」と
どうして言ってくれなかったんだろう。
わたしがどう感じているかなんて、まるで関心がない。


やりたいことをやってもいいよ。でもね・・・と
どうしていつも「でもね・・・」がくっつくのか。



卑怯だ。



 ◇ ◇ ◇
 10月11日(金)
 ◇ ◇ ◇


昨日のうちに書ききれず、今日付けで書きます。

昨日仕事が終わって、自分の過去のことがすごく気になり、
夜になって外を歩きながら、母に事実確認を
電話ですることにした。

わたしはずっと、自分の人生は、自分で決めてきた、と
思ってきた。


はたして本当なんだろうか?


私立に行きたいと自分が決めた、というのは
本当だろうか。なんでこんなにも、自分が決めたことなのに
忘れてしまうものなのだろうか?

事実確認のために、母に電話をした。
事実を聞き逃さないように十分な配慮をして。


母は、正直に話をしてくれた。


「Abyに関しては、完全に親が敷いたレールに乗せてしまったわ。
私立だって、Abyが自ら行きたいと言ったわけじゃない。
もちろん、いやだも言わなかったけれど。お父さんもお母さんも私立に行ったし、
その当時は公立の学校も荒れていたから、できるかぎりのことをしようと、
当然のように、私立に行かせた」


耳を疑った。初耳も初耳だ。


あれほど、Abyは自分の意思で何でも決めたんだよ、と
お父さんもお母さんもわたしに伝えていたのに・・・
習い事もたくさんやっていたけれど、わたしは当然それも
自分がやりたいと言って、それでやった、と理解している。


「じゃあさ、たくさん習い事をやってたけれど、親の希望で
やらせたものってあるの?」

ときいたら、

「親の希望で決めたことばかりだったんだよ。
あの頃は子育てがまったくわからずに、やみくもに
できるかぎりのことをやらせなきゃと必死だった」

と母は、居心地悪そうではあったが、わたしが責め口調で
なかったためだろう、正しい情報を求めたわたしに、
可能なかぎり、正確に話そうとしていた。

でもどうして、わたしは自分で自分のことをすべて
決めたって思っているのかな?
と、たずねてみた。


つまり、こういうからくりだった。


「やるからには、自分でそう決めたんだから、
どんなにつらくても投げ出さず、我慢して最後までやりなさい。
どうする、やるのやらないの?自分で決めなさい」

というふうに、わたしの両親は、幼少期からこの手でずっと
わたしに判断できるわけもない「同意」を求めてきた、
ということだった。


親の意思を、わたしの意思にすりかえた、ということだ。


それも一度はじめたら、その後もずっと、成人してからも
「自分で決めた道なんだからね」と、母と父は言い続けた。
洗脳し続けたのだ。


こうなったら、もう一つきいておこうと思った。
さすがにそこは、嘘をつくだろうなと思ったが、
正直に母は答えた。


「我慢しろって、言ったことある?」

ときいたら、

「もうそれはたくさん、たくさん、言った」

と。

「嫌だって、わたしが言ったことはあるかな?」

ときくと、

「Abyは本当にいい子で、嫌だと言ったことは一度もない」

と。


だんだんきいていて、両親に対してではなく、
わたし自身がここまで「生気を失ったような人間」だったとは思いもよらず、
今まで理解していた「自分像」とのギャップに、頭がついていかなかった。

わたしはずっと、すべてのことを自分の意思で決めてきた、
と思っていた。だからこの違和感も、何もかも、自分で選択したことの結果であり、
やりたいことをしまくった挙句に、この年になっても、未だ何ひとつできず、
不満タラタラな人生を送っているのは、自分のせいだと、自虐的とも思わず、
まったくその通りだと思っていたのだ。

それなのに、天地がひっくりかえるようなことを
さらりと言われて、何も言えなかった。
怒りも恨みの感情もどうやら麻痺している。
「なんで自分は馬鹿だったんだろう」としか
電話をきってからも、それしか、思えなかった。


これだと母の巧みな調教に見えるが、実はここにはつねに、
父の操作があったことが、母の話をきいていてわかった。


「お父さんは、自慢が好きだったから、自分がやらせたいと
思ったことを、Abyにやらせようとしていた。わたしも、お父さんが
そういうなら、ということで、選択肢や可能性は多いほうがいいと思って
賛成した。何度も何度もきかされて、わたしもそうだと思いこんでいた」


さらに母の話をきいていてわかったのは、あの

「あるにこしたことはない」

ということを、執拗に言いまくっていた父こそ、
この洗脳の主犯だ、とわかった。
もちろん母も共犯だが、父の毒っけは相当だった。

実際、「Abyは自分で決めたんだから」という声が残っているのは、
わたしのなかで、90%以上、父の声なのだ。
父は、いかにもわたしが自分の意思で決めたかのように錯覚させ、
「自慢の子」を作りたかっただけだった。

母も同じことを言った。

「お父さんはね。自慢の子を欲しかっただけよ。それだけ。
だいたい、逆らうと怖かったでしょ。いつキレるかわからないし。
子どもには暴力振るわなかったけど、あのキレ方を見ていたら、
誰だって危ないと思って、逆らえなくなる。わたしだっていつも怖かったよ」

そう母が話をしているうちに、なんだか、わたしが聞き役に
なってしまいそうだったので、とりあえず事実確認ということで
その電話はおしまいにした。


99%、自分で決めていたと思いこんでいた人生。


違っていた。

99%、いや、ほぼ100%近く、両親の意向に従った人生。


まったく違うじゃないか!


この思い違いを、何十年とすごしてきて、
違和感を感じないわけはない。
「こうしなさい。親の言うことをききなさい」と強制されたら、
抵抗もしたかもしれない。わたしはまんまと、騙された。
騙されたほうが悪い、自分を守れなかったわたしが悪い、と
咄嗟に考えてしまい、両親に怒りすら感じない。


「我慢しなさい」


と、相当、繰り返し、強く言ったということだった。
「それでもAbyは、不快そうな態度を一度もとったことがなかった」と
母はそのときのわたしのことを思い出して言った。

不快を感じない人間なんているんだろうか?
でも覚えていない。たしかに、不快そうな態度をとった記憶もない。

なんとかしようと、きっとわたしは必死だったのだろう。
そしてなんとかしてしまったんだ。なんとかしたと思いこんだんだ。

母いわく、「Abyは最後まで文句一つ言わず、何でもやり遂げた」と。


なんということだ。


まだ整理できないでいる。
きいたことで、なぜ自分が混乱しているのか、違和感を抱いているのか、
そこが明らかになったのはいいが、これでは事実誤認が酷すぎる。

わたしが見てきたもの、今わたしの身の回りにあるもの、
人も仕事も生活も環境も、いったい何だったんだろう。


2013.10.11
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-11 13:36 | 復元ノート 1

イライラ

イライラ

突然、今日、わたしはイライラした。

随分長く、押さえ込んだ感情だった。


「どんどんやんなきゃ」


時間がない、時間がない。


勉強していても、仕事をしていても、
生活をしていても、何をそんなに思いつめるのか、
「時間がない、時間がない」


わたしは昔から、「時間」というものに対して、
すごく神経質だった。

そういえば、ある時期、一番よく見る夢の内容は、
電車に乗り遅れる夢だったり、遅刻しそうな夢だったりした。


中学校の2年生くらいからだったろうか。
反抗期がピークとなり、中間テストや期末テストのときは、
わたしの母は、「あのときは、Abyには本当に困った」と
よく言う。

わたしが何をいつも要求したか、というと、
「30分したら、起こしてほしい」と、起きられるはずもない
睡眠時間なのに、たびたび、要求した。
というのも、わたしは、中間・期末テストは異常なほどに
「完璧を求めて」いて、試験一週間前にもなると、
徹夜をしたり、ほんの2時間しか寝なかったりと、
目覚まし時計などで起きられるはずがないほど、
疲れきっていた。


母に頼んだところで、起きられるはずがない。


起きることができず、目が覚めて朝になっていようものなら、
わたしは(今思えば、完全に異常だが)、母を責めた。


「なんで起こしてくれなかったのか」と。

母はそれに対して、

「起こしたけど、起きなかった」と言う。

わたしは、「結果的に起きていないのだから、
起こしたとは言わない!」と、屁理屈並べて言葉で責めた。


このことは、今でも会うたびに言われる。
「Abyの反抗期は、タイヘンだった」と。


数ヶ月前のことだが、母に、

「お母さんは、よくわたしの反抗期が酷かったというけれど、
その〝起こしてほしい〟という無謀な要求以外には、
どんだけ酷かったの?」

ときいたら、


「ん?・・・あとは、べつにないよ」

と。


わたしはあっけにとられた。


Abyは酷かった、酷かった、と(兄弟姉妹もグルになって)
言っていたから、わたしはどれだけ酷かったんだろう、
それをわたしは忘れてしまうなんて、わたしの記憶はどうかしてる、
罪悪感を抱いていたほどだった。

ところが、「べつに・・・そうだなあ、それ以外はとくに。
それより、Abyの兄弟姉妹のほうが、酷かったよー」と。
(「そうなんだってよ」と、兄弟姉妹に言ってやりたいと思ったほどだ)


初耳。


その後だ。何度かこのブログでも書いた、
「Abyは実はいい子だったんだよね」発言があったのは。


このことを、ふと思い出して、このイライラと何かがリンクした。


まず、わたしはよく「イライラ」していた、ということだ。


とくにそれは、時間におわれるようなイライラの仕方だ。
時間への執着は尋常じゃなかった。
他のことでは滅多に「やつあたり」をしたことがないが、
時間だけは例外だった。

Pさんに対しても、やつあたりをした。

自分が原因だろうと、誰が原因だろうと、理由が何であろうと、
「時間に追われてうまくいかない、間に合わない」ということは、
わたしはなぜか許すことができず、イライラはピークに達し、爆発し、
自分を責めるだけでなく、まわりにいる人にもやつあたりした。


わたしは、だいたい、そういう感じだった。


少なくとも、中学生くらいからはずっと、この
「イライラ」があって、Pさんと出会う頃には、このイライラの度合いは
いろいろな意味で、ピークだったと思う。

かなり時間をかけてだが、このイライラは、
5年ほど前からは激減していった。


今わたしのまわりにいる人は、わりとここ5年くらいに知り合った人が多いので、
みんなはわたしを「やさしい感じ」の印象、と言う。
わたしの母もPさんも、一昔前のわたしを知っているので、

「昔のAbyを、みんなに見せてやりたい」

と、何度も言われたが、問題なのは、


わたし本人が、それを、

「忘れてしまっていたこと」

だった。


みんなそういうけど、昔から、こんな感じだったんじゃないかなあ、と
本気で思うようになっていた。まわりが誤解していたんじゃない?と。


今日、少なくともここ数年、姿を隠していた感情、


「イライラ」


が、爆発した。なんだか一人でイライラしていた。


たった数十分のことだったけれど、仕事場を一部補修しているとき、
Pさんに対して口には出さなかったけれど、
「なにトロトロしてんだよ。とっととやろうよ、時間ないんだからさ。
どうしてそこでぼんやりしているの!もっと気を遣ってくれ」と、
心のなかで、怒鳴っていた。

わたしはいつも、そんな感じだった。イライラ、イライラ。

20年前なら、「なにトロトロしての・・・」と、怒鳴らずとも口に出すことも多く、
険悪な雰囲気になり、よく口論になったが、おそらく、最後は
「ごめん。いいすぎた」となった。

というのも、なぜだがわからないけど、いつも言い過ぎてしまうのだ。

言い過ぎてしまうのは、わたしがイライラしていようがなんだろうが、
Pさんはいつも、「関係ない、わたしには」という態度ばかり繰り返すからだ。


Pさんに対する愚痴になってしまったが、
(思えば、こんな愚痴を誰かに言ったことも、書いたこともなかった・・・)
愚痴を言いたかったというよりも、わたしはどうしてこんなにイライラしていたこと、
このイライラしていたという一次不快を、思い出せもしなかったのだろうと、
そのこと自体に驚いてしまった。どれほどボケてしまっていたのか・・・と。


いつから自分は

「まるい人」
「怒らない人」

といったイメージを、わたし自身が持ってしまったのだろう。
表面的には暴れたりはしなかったけれど、あれほどいつも
「イライラしていた人」だったのに。


・・・


今ふと、ブログを打ち込みながら気づいたのだが、軽くだが、
貧乏ゆすりをしている自分に気づいた。

おそらく、滅多にはしないはずだ。

幼い頃、「貧乏ゆすりはしない!」と親に言われたので
することはなかった。

今咄嗟に、あらわれた貧乏ゆすりは、気持ちの焦りのようなものらしく、
「急ごう、急ごう」としている、何かがある。
夢のなかで、遅刻しそうで焦っている、走っているときの感じ。


イライラは、一種の焦燥感かもしれない。


「なにトロトロしてんだよ。とっととやろうよ、時間ないんだからさ・・・」
と、久々にこの感覚を思い出したが、考えてみると、
この「時間がない」というのは、架空の焦りで、
別に5分後に何かすべきことが待っているわけじゃない。
仕事場の補修を急いだところで、焦っても、いいこともない。怪我するだけだろう。


わたしはずっとこんな感じなのだ。
こんな感じだったのだ。


「どんどんやんなきゃ、どんどんやんなきゃ」
こういう焦りが、どこからともなく、沸いてくる。


この背景には、今のままじゃダメだ、このままじゃダメだ、という
漠然とした不安感がしばしばあるのだけれど、
何がこのままじゃダメなのか、具体的に考えようとすると、
どうやらわたしは、よくわかっていないみたいだ。

ただ、なんとなく、このままじゃダメだからと思って、
どんどんやんなきゃ、どんどんやんなきゃ、と焦って
イライラする。

そして、このイライラすら、麻痺してしまっていたらしく、
今朝イライラしてはじめて、「あれ、わたし、イライラしてる」と
久々にこの感覚を思い出したのだ。

この数年は、イライラが押さえられたまま、ただ
「このままじゃダメだ」とだけ思っていて、
何か違和感がある、何か間違っている気がする・・・
と、検証もせず、口にしていた。


これについては、まだ自分でも観察も検証も不十分なのだが、
たぶん、「自分を殺すまいとする時間」と「自分を殺してもしかたがない時間」
という、育った環境のなかで身についたへんな区別によって、
「なんとか自分の領域を守りたい」という思い、逆にいえば、
「自分の領域、自分の時間、自分のための時間が脅かされること」への恐れが、
過剰なまでに「自分を殺すまい」という思いにつながっていることと、
どこか関係があるような気がしている。


「このままでは自分の何かが奪われる、失う」
といった感じだ。


そして、どうやら、わたしにとって「自分の時間」というものの執着、
自分の人生=自分の時間、という、不自然な自己同化がつねにある。

Pさんとの関係性において、わたし=Pさんと依存関係が成立した段階で、
Pさんの時間=わたしの人生、という自己同化をさらに引き起こした。

元をたどると、そもそもが、自分が生きているこの時間、目の前の出来事を、
「わたしの時間」なのか「わたしの時間じゃない」のかといった区別を、
わたしがしていること自体、どこかおかしいのではないか?


「我慢しなくていい時間」と、「我慢すべき時間」。


このあたりは、やはり、両親からの影響も大きいと感じた。
事実関係として思い起こせることが、まだ少ないけれど、
イライラという焦燥感が見えてきたので、ここはもっと掘り下げたい。


・・・


このことをふと考えたのも、昨日の二つの投稿のなかで、


> 「もっと自分の人生を生きたかった」


と、書いたときは、はじめてそこを意識したこともあって、
それ自体にあまり違和感が感じにくかったのだけれど、
今日になってみて、思った。

これは不快?じゃないよね・・・不満、だ。
不満だから、死後、不満「だった」と過去形で言うことになるんだ。


> 「Abyのことは別に知らない」という、
> まったく気遣いが感じられない言動には
> ひどく苛立ちを感じ、不快だった。


と書いたけれど、


> 「なんでそういう言動ができるのか、信じられない」


という思いは、すでにこれは「不満」ではないだろうか。


ならば、一次不快は、きっと、その前にあるのでは?


ひどく苛立ちを感じ・・・ということだろうが、それは何だったのだろう?


朝一、そんなことを考えていた。
結局、「もっと自分の人生を生きたかった」とのたまう人格は、
Pさんに負けたところで、亡霊のようにとりついているAC・調教人格だろう。
むしろ、Pさんにかなわなかったからこそ、「死んだ」のでなく、
「すごーく抑圧されて」、だから、「もっと自分の人生を生きたかったー!」と
叫ぶだけではなかろうか。

昨日のブログでは、それを「本心」と言ってしまったが、どうだろう。
それは、この20年間抑圧された「ひとつ前の」歪んだわたし、
自分と他者のバランスをとり、なんとか、自分を殺しつつ、それでも耐えてきた、
耐えられてきた、頑張り褒められてきた「AC・調教人格の本心」に
すぎないのではなかろうか。


だとしたら、コイツは、
「よーし、これからおいらの出番だ。今までよく抑圧してくれたな。
これからは、自分の時間を多いに楽しむぞ!!!」などと言い出しそうだ。


これではただの恨み、リベンジだ。


自分の時間を過ごせていない!という不満が暴れているだけだ。


コイツがよみがえっても、結局コイツは、いつも、自分の時間を失うことを恐れ、
他人をも搾取し、「今度は負けまい」と暴走しまくるのが、目に見えている。


「わたしが」する

「自分が」する


という行動に出そうなのが、自分でもわかる。

というか、たぶん、こうする以外に、時間の使い方がわからない。

「もっと自分の人生を生きたい」などという不満は、
たとえそれが叶ったところで、どこか、へんではないか。

そもそもどうして、ずっとずっと、自分の時間だの、
自分の時間でないだのと、そんなことにこだわっているんだろう?

嫌なのに、我慢して、しかたがないとかいいながら
イヤイヤ過ごしているような生き方を、そういう時間、
麻痺してやりすごしてしまう余地を、
わたしはきっと許してしまったんだ・・・



そんなことを考えているときに、わたしは、
午前中ずっと「イライラ」していることに気づいた。
このイライラ、久しぶりだ。イライラという焦燥感。


まだ、ひとつだけれど、やっと不快感の実体と
思われるものが、顔を出してきたように思う。



・・・


急にどうしてイライラしはじめたんだろう、
ということも考えてみました。


昨日、こんなことがありました。


昨日は一日一人で過ごせる時間が多く、
ブログも途切れるなく一気に書くことができたし、
夕食も一人でゆっくりとることができた。

食事を終え、一人だったのをいいことに
大の字に寝そべって、歯を磨いた。


解放感があった。


手を伸ばしたり、寝返りをうったり。
子どものように動いたりした。


思わず、楽だなーと、思った。


最近、Pさんのことで、Pさんといるとふと「楽に感じている自分がいる」
ということを、つねに観察・注視していたので、この「楽」という言葉が
頭をよぎると、ハッと、思うようになっていた。

ところが、このゴロゴロして、だーれもいないところで
いつ歯を磨き終わってもいい、終わんなくてもいい、
という、こういう「楽」は、Pさんといるときの「ラク」とは、
ぜんぜん、違う。

Pさんといるときに感じてしまう「ラク」というのは、
何も考えなくていい、自分のことを考えなくてもいいという
思考停止状態でしかない。

こうやってコロコロしているときの楽は、
決して思考停止などしておらず、自分の身体の状態もふくめ、
いろいろ考えたり、感じたりしている。それでも普通に楽だ。


この差はなんだろう。


Pさんと、たとえば、お茶を飲んでいるときの光景を
思い浮かべてみると、

「ただ、その場と時間をつきあっている自分」、がいる。
「早く済まそう、切り上げようとしている自分」、がいる。
なんというか、そろそろ持ち場に戻りましょう、と言いたげな自分。

その光景を思い浮かべたとき、なんだかあれじゃ、
わたしは人形のようだ、そして人形がハッと気づいたときは、
その場を離れて、我を取り戻すみたいな感じだ。


「麻痺」しているだけだ。

そう思った。


麻痺しながら動けなくなって
窮屈な状態と感じているわたしも、そこにいる。


「窮屈」


そう、なんだか窮屈なんだ。
「ラク」だとしても、それは「楽」じゃなく「窮屈」。


窮屈感。これは一次不快だろうか。なんだろう?


麻痺しなければならないほどの窮屈?


このことを考えているときに、昔の、小学生の頃のVTRの
自分の姿を思い出した。


わたしひとり、海でちゃぷちゃぷ・・・

・・・しているかと思えば、次の瞬間、場面転換のごとく
兄弟姉妹の世話などをしている。
まるで、自分がいなくなった「もぬけ」の様相。


この感じに似ている。


自分を殺している時間の、この「もぬけ」の様子に。


Pさんと依存でできたこの依存人格にとって
ラクと感じる居場所だとしても、
思考停止し、自分を殺しているのだから、
束縛こそ感じるのが、普通じゃないだろうか。
「窮屈」と感じて当然じゃないか・・・

この窮屈、というのと、イライラは、
わたしのなかで、どこかでつながっているような気がした。
だから今日、急に、イライラを思い出したのかな?
なんて思ったりもしましたが、まだよくわかりません。

それはそれとして、このイライラ、と、
そう、窮屈だ、という感覚は、ずっと忘れてきてしまっていた感情。
たぶんそういう感情を押し殺すところから
我慢がはじまっただろうから、事実関係としても
もっと何を我慢したのか、掘り下げてみようと思う。


・・・


わたしは、今まで生きてきて、不快を口にしていい、
とは思っていなかったようです。
不快はつねに「何とかするもの」だと思っていました。
でもこうやって、不快を口にしないでいるうちに、
何が不快だったのか、そんなに昔のことでなくても
わからなくなってしまうことに、はじめて気づきました。

反射的に「なんとかしよう」という癖は、根深いなと思いました。
でもこの癖が、不快に対する反応なら掘れないなんてことはない、
日々随所にあるはずだ、という目で、観察を続けたいと思います。


2013.10.09
Aby



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by jh-no-no | 2013-10-09 21:07 | 復元ノート 1

(後半)AC人格、被調教人格の掘り出し作業

前の投稿記事、
「(前半)AC人格、被調教人格の掘り出し作業」の続きです。


・・・


二十歳にもなった頃は、わたしは両親と口論することも皆無になった。
それは、お互い寄り添ったとかでもなんでもなく、
わたしが両親に「まったく期待しなくなった」からだった。

子どもに理想を語っていただけで、
自分ができるわけではなかったんだよね、と。

それならそれでいいんだ。でもわたしは、その理想に向けてやってこれたし、
おかげで、いろいろな問題にも随分、対処できるようになったよ。
一時期は他者とぶつかり合うこともあったけど、なんとか、乗り越えられたし、
今はもっと丸くなって、みんなからも「Abyさんは、怒ったりしないの?なんでも
笑って受け入れてくれるけど、大丈夫?」なんて気遣ってくれたりもするよ。

そんなふうに感じ、考えていたから、
わたしは、初回の自我判定依頼では、


「育った家族に問題はなかったと思います」


と、報告していた。


そんなことはなかったのだ。


今思えば、母と父はわたしに爆弾を残した。


母もたしかに、わたしが子どもの頃、たとえば学校の先生だろうと、
目上の人だろうと、正面から抗議するような人だった。
無理があったとは思うけれど。


もろに、わたしは、それに倣った。


父は、子どもから見ても、まわりから見ても、子煩悩な父で、
自分は我慢してでも、何でも子どもに与えようとした。家族に尽くした。
無理があったとは思うけれど。


もろに、わたしは、それに倣った。


だから、わたしの子ども時代は、わたしが「少し神経質だったこそを除けば」、
およそ「優等生」の部類に入った。まわりからも、「ちゃんと主張もするし、
Abyちゃんは優しいし、エラい!」とよくほめられた。


・・・ 少し神経質だったよね、Abyは。
   笑って両親はいつも言うが、それこそ「問題」だったのに。きいてみると、
   「子どもなのに、随分、難しいことを要求しちゃったな」とは思っているみたいだが、
   そもそもそれは、難しいのではなく、「無謀」というやつだ。


わたしは母のようであり、父のように育った。


というより、その姿は、母と父のそれぞれの幼少期の不満の反動から
作られた無理ある人格であり、今現在はというと、
母は自立を手放し、父に依存しているし、父はといえば、
相変わらず、理想もどきを口にしては、不満ばかりを言っている。

そもそも無理があったのだから、当然で、二人の姿は、
「わたしのなれのはてだ」と、思った。
いや、もうすでにその状態と大差ない。


・・・


わたしはPさんと出会った当初、Pさんはあまりにまわりに気をとられすぎていて、
「自分をまったく発揮できていない」ように見え、その姿に、わたしは強いもどかしさを覚え、
Pさんには、わたしが必要だ、と、なぜか、直感した。

このままではPさんは、他人にひっぱられて生きることになる、と、
何を血迷ったか、その時、この人に尽くそう、とわずかでも、
その時、ハッキリ、思った。

本当は他人のことなんてかまっている場合じゃまったくなかったのに、
わたし自身が「自分を生きていない」という自らのもがきを、Pさんに投影し、
わたしをPさんと重ねてしまった。

この時点で、すでに間違っていた。

「代理に、自分の不満をはらしてもらう」という、そういう気持ちが
どこかに根付いていたのだ。そんなこと意識して考えたこともなかったのに、
そういう考えが急に浮上し、そのあり方が、ごく自然に思えたのです。


昨日になって気がつきました。


それこそ、わたしの両親が、「子どもを使って、自分の不満をはらそう」
という、両親のトラウマの影響が、わたしのなかに、そのままそっくり
コピーされていたのだということに。

無自覚にも、毒親と同じことを、わたしは
Pさんにもやっていた。


・・・


そうであった、としても。

今わたしが取り組まないといけないと思うのは、
Pさんに申し訳ないと思うことではないだろう。
反省なんて意味がないどころか、わたしの今の歪み切った人格は
ここぞとばかり、「そうだろ、お前が悪いんだ。Pさんのためにやったと思ったことも
裏目にばかり出たんだ。Pさん、可哀想だよな。Pさんへの奉仕の気持ちが
足りなかったんじゃないの?」と、言いたげなのだ。

なぜそう思うかといえば、一瞬、そうかな、と納得してしまいそうな、
ぞっとすることに、それを復元のモチベーションにさらっていかれそうな、
悪魔の手口が見え隠れするからだ。


これには、かなりぞっとした。


最近、復元の作業で、回収のときは、
「しっかりすべて回収するように」、なにより、回収した後の整形と、
「脳に半分おくる」というのを、強く意識している。

いまだにわたしは、呼びかけや回収で、リアルな感覚を持つことはないのですが、
なんとか、そういう「悪魔の手口」「魔がさす」ということを、見抜けるように、
頭をシャッキとしなきゃ、と思って作業をしている。

不思議と、脳におくった後は、観察力だけじゃなく、埋もれていた言葉が
湧き出てくることが多く、最近は、すぐにメモがとれるように、紙をそばに置いている。
これは錯覚かもしれないが、不安がどんなに大きくても、
「現実から目をそらさない」という揺るぎない気持ちが、ふと、わいてくる。

その気持ちが続かず、孤独感のような、寂しさのような、すがるような気持ちが
架空の恐怖がおしよせてくることがあるけれど、以前のような
ただ「こわい」ではなく、これが「架空だ」と思えるようになった。


・・・


わたしはあまり夢を覚えていられることがないのですが、
久々に、わずかですが、今朝はクリアに覚えている夢の部分がありました。

きっと、AC・被調教人格の掘り出しのことを
考えていたからかもしれません。


こんな夢でした。


人々が、ポーカー(?)のようなゲームなどで享楽に浸っていると、
当然、空に火炎瓶が爆発したようなことが起こり、
空爆がはじまったかのようで、場面はいっきに、不穏な戦争状態のよう。

わたしは一人の兵士であるらしく、
顔は見えませんでしたがもう一人の別な兵士と
わたしは手をつないでいます。

その兵士は、わたしの手をとったまま、はなさず、
螺旋階段を井戸の深く深くに入るように、走り降ります。

わたしを引きずりこむように、下へ下へ。

わたしが上を見上げると、
誰かがこちらを狙っている。殺される。

逃げなきゃ、と思うけど、繋がった手が邪魔で
このままではまずい、と思った。

そのとき、わたしは叫んだ。

手をはなしてくれ。このままでは!!!


・・・


こんな感じの夢でした。


夢が何を意味するかはわからなかったけれど、
ただ、なんとか、今この状態につながれた「鎖」が、
このままではまずい、ということかと、
そんなふうに思いました。

今までだったら、何の疑いもなく、
「まずいのなら、なんとかしなきゃ」と思っていました。

でも、トラウマを堀り、AC・被調教人格を明らかにしないと、
このなんとかしなきゃ、というあがきこそ、無自覚にその人格がなすことだろうし、
とくにわたしの場合、「頑張れた」「なんとかしてきた」という記憶が、
ここにわたしを居つかせてしまう危険がある気がしました。

実際に、もがくこと、その末に出した「解決案らしき」ものが、
幾度と、わたしに一瞬、やりがいだったり、これは、きっと
本当にわたしがやりたいことだよね、という錯覚を抱かせました。

Pさんのことだけでなく、先週、わたしは何度も、そういう
錯覚もしそうになりました。いや、してしまいました。
不満の種は、相変わらずそこにあるままで、
それなのに、楽を感じたり、達成感を感じたり、何かを期待したり。

今もその悪魔の手口のなかにいるかも・・・と思うと、
以前なら「そんなことはないだろう」と思いこもうとしたと思いますが、
今はそういう安心に逃げようとするわたしを許したくない。
それならそれで、そこを見据えよう、そこにこそ、掘るべき何かがある、
明日死んだらどうする?
今日一日でも、自分が生きたと思える時間を生きようとするなら、
何を考える?

そう自問すると、やはり、
「そんなことはないだろう、これでいいんじゃないかな」
なんてことは言わないはずだ。

「このままでいいんじゃない」という声の嘘だけは、
絶対に認めない気持ちを、回収作業後に、毎回毎回、確認したい。



2013.10.08
Aby


・・・ ・・・・ ・・・



梅の間の記事

◆「毒親レベル」と「トラウマ人格」
http://www.mumyouan.com/k/?S267
◆全自我になるまで恋愛もセックスもするな
http://www.mumyouan.com/k/?S266


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by jh-no-no | 2013-10-08 21:59 | 復元ノート 1