<   2013年 07月 ( 12 )   > この月の画像一覧

無明庵に再び辿り着くまで ⑤

④に続いて、「内職のもうひとつの動機」を
書いてみたいと思いますが、昨日、このことを考えていたら
繰り返し、育った家庭からの影響のことを考えておりました。

なぜかといいますと、そのもうひとつの動機、
その内容については後述しますが、そもそもその内職の動機、
「わたしが~をしたい」という、表面的には一人遊びに見えるものが
あまりに不十分、不満、未練を残したままであった、
という結末に至るのは、いったいどういうことなんだろう?
ということを考え始めると、どうしても育った家庭について
再び考えざるをえなくなるからでした。


今までわたしは、他人に対しては、
「したいことを我慢することないよ。やってごらん」、
「したくないないならやる必要なんてないよ。いつやめてもいいんだから」、
と何度も何度も、他人には躊躇なく言ってきました。
ここに躊躇があったり、作りがあったりすれば、
それはわたしの父そっくりなので
「屈折した気持ちの裏返し」という理解もできますが、
わたしがこのように発言することに、わたし自身、
なにも躊躇するものはありませんでした。

わたしの母がわたしに躊躇なく
そう言い続けたのと同じです。
(父も言動のうえでは同じように言っていました)

ですので、躊躇、というよりも、そこにあるわたしの違和感は、
「わたし自身に対してだけは、その例外だった」、
という点です。

つまり、こういうことだったと思います。

わたしはしたいことを我慢することも苦と感じていなかったし
したくないことをすることも苦と感じていませんでした。
むしろそれはその時期その時期、その場面場面で
必要とされていることに思えたので、
その必要性にこたえることに
自動的に反応してきたように思います。

耐性のようなものが
もしかしたらあったのかもしれません。

嫌だと「心底」思っていたら、NOと言えたはずです。
わたしはNOと言える環境にずっといたからです。
ところがわたしは、拒絶しませんでした。
NOというほどのものではない、と甘くみたともいえますが
わたし自身はなめていたつもりはなく、むしろ
誠実にとりくんでいるとさえ思っていました。


自我復元を始めてからは、このわたしのスタンスこそ、
自分を切り売りしている、自分を裏切っているという
表現につながってはおりますが、
何度もこのブログにも書かせていただいた通り、
その表現を選択する自分にも戸惑いがないかといえば
いつも不安になります。


なかなか今回の内容に入れていませんが、
この「戸惑い」に関連したことを
先に書かせてください。


・・・ ・・・


梅の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?U1846

にリンクされていた「世界は日本をどう見ているか」
という動画を、昨日、拝見しました。


最近、このブログを書き進めていくうちに
わたしのなかにある恐怖、怖いという感覚に天秤が
傾きかけていた感じがありましたが、
この動画を見て、ぐっと天秤が戻されました。


裏切ってはいけなかったのに・・・
という当初の思いが、歪められていない事実に押されて
見ている間、ずっと涙が止まりませんでした。


この時代のことはもちろんわたしは知らないのですが
わたしが教わり伝えられてきた事実より、
この事実は、わたしには迫ってくるもの、
揺り動かすものがありました。

このときの涙は、
「ぐっと過去にふり戻されたときに溢れ出てくる涙」
のように思われました。

これに似た涙を一度、経験したことも思い出しました。
身近な人をわたしは過去に亡くしましたが、わたしはそれから
数十年という長い時間を経た、ある時に、自分でも理由がわからない、
わけのわからない泣き方をしたことがあります。

悲しいとか、そういう感情が沸いてきて・・・というのではまったくなく、
まず涙がただ溢れてきて、声はむせぶ程度で出てきません。
過去の、ただその過去の存在がありありと迫ってきて、
その迫りくるものが止まないかぎり、涙が止まらないのです。


なぜ泣いているのかわからないまま
泣いてしまいました。


昨日もそうでした。
この動画を見て、生まれていない時代のことなので
記憶はあるわけないのですが、これは
わたしにとっては、明確、なものでした。


ここでも毎度のように自己矛盾が発生するのですが、
わたしが育った環境、そして今のわたしの仕事も、むしろ、
このような動画を毛嫌いする、見もしないで馬鹿にしたり、
否定したり、拒絶したりする人がまわりにたくさんいる人のなかで、
わたしは育ち、仕事し、現在もしています。

それは決して他人事ではありません。わたしもそうです。
なんでも社会のせいにすることが、それが都合がよかったから
という理由だけで、わたしもそう生きてきたのです。
幼い頃はそうでなかったと思っているのですが
いつの間にかそういう生き方を選んでしまっていました。


ここに自分の意思があろうはずもないのです。

ただの「反動」でしかありません。

他者、時代、社会、そういったものの反動としての
中身のないリアクションです。


他人次第ですから、ここに怯えがないはずがありません。
どこかわたしの恐怖、この怖いという感覚は、
自分の意思がない、他人まかせで自分で自分の責任がとれない、
ということにも由来しているように思いますが、
ここはまだ考察していかなければならないところですので
断定はできません。しかし、確かに思えるのは、
わたしの天秤は、わたしでない誰かに
そのバランスを握られています。

たとえば、今回の動画を見ては、束の間
怖いという感覚が錯覚であること、
怖がらなくてもいいことを思い出させてくれます。


いったん、天秤は平衡を保ちます。


次の瞬間、他者が(自分自身もその他者にのっかれるわけですが)
幽閉や拷問の恐怖を持ち出してくれば、一発で、
そのリアリティこそが事実になり、天秤は一瞬で傾きます。
逆にいえば、その恐怖が麻痺している限りにおいては
なんとか正常を保ったような気になれることになります。
こうやってわたしは、わたしでない誰かにつねにふりまわされ、
よくよく見つめてみれば、わたしの気持ちは怯え続けています。

わたしが笑ったことがない、と思うのは、
おそらくその道化の最中も
「その後の展開が他者次第だ」という不安定さに
怯えているせいかもしれません。

このわたしの他者からのアクションに対する
「ただの反応」という条件反射のような性質は、
前回のノートにも書いた通り、それは母親そっくりだ、
ということですが、その意味では父親も
「別な意味で」同じ類であり、両親とも


〝自分の言葉を持たない〟


という意味では、一致していました。


父親の場合は、その言葉は「すべてがただの受け売り」で
母親の場合は、その言葉は「すべてがただの反射、反動、反応」でした。

受け売りの言葉と反射の言葉をきき、その中で
わたしは育ってきた、ということになります。

そして見事にわたしは、その「受け売りの言葉」を
対外的な言葉として用い、まわりの環境と出会い、整え、作り、
また、その「反射の言葉」を、その言葉イコールわたし自身の意思、
と錯覚させ続けて、今までの人生をすごしてきました。

まさに団塊世代の両親の特徴を
一人の人間に圧縮したようなジュニアが
「わたし」だと思いますが、結果としては、
母親側の性質をわたしが持ったようです。


ここまでのことを昨日考えていたとき、ふと、
父親側の性質は、今、どのような影響をもたらしているのだろうと
考えたとき、今まで考えもしなかったことですが、
ある一人の人(以後、Pさん)のことが思い出されました。
わたしと共同生活、共同作業をしてきた人です。


なんと、Pさんは、わたしの父、そっくりでした。


自立できないで、受け売りの言葉だけ。


わたしはわたしの父そっくりの人を見つけて
わたしはわたしの母と同じように、
「Pさんの自立をうながす世話役」を
長いことやってきました。


このわたしとPさんの構造は、
わたしの母と父の構造のそのものだったのです。


そう考えた瞬間、あの二人の今現在の姿こそ、
わたしとPさんの未来像だと、しっくりもきました。
文句と不満を言い合いながら、結局は依存しあい、
世話ごっこという囚われの監獄で一生を終える姿が
想像されました。


受け売りでいい格好ばかりしている父やPさんは
それゆえ、一人では何もできない。自立できない。


このことは、実は、母やわたしにとって
都合がいいという面があったのです。

というのは、母やわたしは、自分がからっぽだ、ということは
他者がいないと何もできないのと同義だからです。
相手が自立できないから「自立しなさい」と「言う」という
リアクションができるだけで、それは意思でなく反応です。
自立できない父とPさんに自立を促しつづけるという
「叶うことのない試み」を死ぬまで続ける。

叶わないと知りつつ、「自立しろ、自立しろ」と言ってくれる人が
自分のそばに居続けてくれることは、父やPさんにとって
都合がよいことでもあるのです。だって、一生叶わないのですから
ずっと居てくれることになります。
一人では何もできない父やPさんには好都合です。


これが「世話」というものの実態ではないだろうか・・・


そう思うと同時に、わたしは両親を「世話という営みのモデル」
にし続けてきたように思います。
世話の典型的なモデルをマスターするために、この両親の
子どもに生まれたのではないか・・・とさえ思いました。

現実に、わたしは母のようになり、わたしは
父のようなPさんと出会いました。
世話という監獄は監獄でありながら、その囚われは
つねに私たちにとって


「しかたがないもの」


だったのです。


しかたがない、という状況に居つくことは
これほどに酷いものはないと今は思っています。
(思い出しましたが、この「しかたがない」は
父の口癖の一つでした)

この「しかたがない」という状況に居つくというのは、
まさにそれは「したいけどできない、したくないけどする」
という状態であり、なにより、それを自分が選んでいる、
それでいいと認めている、というところが
最悪です。

さらに最悪なのは、わたしの悪癖として
わたしの思考パターンや分析や解説というのは、
その「しかたがなかったことに整合性を持たせる」だけの
役割と機能しか持っていないことです。

この最悪なまま生きていったら、わたしは今まで通り
ああだこうだ、といいながら、しかたがなかった状況説明を
「相手のアクション」を悪用しながら、応答を連ねていく。
簡単にいってしまえば屁理屈です。
そういう人生になることは、目に見えていますし、
実際にわたしは今までそればかりを
してきています。


何が言いたいのかわからない、
不愉快で、鬱陶しい人の典型的な言動です。
(わたしの父もまさにそうでした)


そういう言動の中で登場する個性や自由という言葉、
そのわたしが描きうる個性や自由などは
父親のごとき「受け売りの個性像」と
母親のごとき「反動としての自由像」でしかなく、
他者依存以外の何ものでもありません。
「他者」には、人だけでなく、時代や社会、まわりの環境も含みますし、
都合によってはその他者に「自分自身も入れこんで」、
自問や内省と錯覚しながら、やれ個性だ、やれ自由だ、と
のたまうだけです。わたしが、もろ、それでしたし、
そこから今も抜け出せません。


そこでわたしがいつも思うのは
「本当に抜け出したいのか?」ということです。


他人からきかれたら「抜け出したいです」とこたえます。
では、自分の意思でちゃんと言いなさい、と言われたら
もしもわたしが嘘をつかなければ、黙ってしまうはずです。
なぜ?ということでなく、本心がわからないからです。
「たぶん抜け出したい」と言えるのがせいぜいなのです。

このもどかしさは当然ですが、あります。
わたしも両親もあるはずです。
あるはずですが、囚われ続けている。
この状態のよしあしといった意見だったら何でも言えますが、
自分の意思として意思表明はできません。


個性、自由、責任。この言葉、わたしは昔、
耳にたこができるほど聞かされてきました。
耳にたこになってしまったので、忘れていたほどです。
今朝、梅の間の砂手さんの記事を拝見し、
そっくり思い出しました。
(まさに歪んだ家庭に育ってステレオタイプの
団塊世代の両親でした)


梅の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?U1846


付和雷同・・・

まさに、受け売りだけの〝付和〟と、
雷がなれば同調する、なれなければ同調もできない
反射だけの〝雷同〟。

世代批判ということについてもその通りでした。
たとえばわたしがそれぞれ個人を批判しても、
まったく効き目がありませんでしたが
父という役目や、母の責任ということにふれると
完全にとり乱してしまうのです。

まわりからみれば、それはその人本人ではなく、
まとった衣服のようなものをつついているだけですが、
その衣服を脱がされてしまうと、ダメ出しひとつで
大混乱、命取りになりました。

これもまったく他人事ではなく、わたしもそうで、
このわたしの脆弱性については
両親のそれ以上かもしれません。


また、団塊世代の「自分へのこだわり」ということも
書かれていましたが、この自分へのこだわり、
実は、今回書きたいと思っていたことは、このことにも
深く関係しているようなことでした。


「内職のもう一つの動機」


についてです。


随分とまわり道をしてしまいましたが
そのことについて、以下書いてみます。


◇ ◇ ◇


このブログにも書いてきたと思いますが、わたしは
どうも男性が苦手です。男性的な考え方も苦手なんですが
そもそも生理的に苦手なのだと思います。
どの男性もダメ、ということはないのですが
苦手なタイプが多いです。

電車でもしも座るとすれば、両隣が女性の空席を探します。
あれだけ近いと、生理的に反応してしまいます。
美容院でも「女性の方をお願いします」と言うようにして
いつも女性の方が担当でした。
女性なら誰でもいいわけではありませんが
たとえ男性的な感覚の方でも(そういうケースは多々あります)
それでも、女性とともにいることを望みます。

わたしが内職を始めたのは、
「世話という監獄での役目を維持し続けるため」
という目的がありましたが、なんとかわたしは、そこでは
男性とあまり出会わないですむような環境を求めました。
できたら女性とだけ接するような、そういう仕事を
したかったのです。

今思い出しましたが、以前、そのために広い意味での
エステのようなものを学びたいと思っていました。
少しですが、本も読んで勉強しました。
女性限定のエステのようなものをやりたかったのですが
現実的ではなかったので、やめました。
当時の状況としては、言葉と言葉の交流、
コミュニケーションを通じて、女性と接することが最も
現実的でしたので、そのような内職を
手探りではじめることになりました。


話は前後してしまいますが、内職をはじめる直前にも
もう一つ、わたしには興味のある分野がありました。
思えばそれも母譲りの分野で、幼い頃から好きでしたし
得意な分野でした。今も好きです。

結局この分野の仕事をすることは、今に至るまで一度も
叶わなかったのですが、ほんのわずかな時間でも
この分野に関わることができた、そういう時期がありました。
出稼ぎのような生活に疲れ、経済的にも苦しくなったので
それから離れざるをえなくなってしまったのですが
それでも、ほんのわずかな時間でも、わたしは
「自分がやりたいことがやれた」と思いました。


内職のときもそうです。


「わたしはやりたいことをやった」


そう思ったのです。


その当時は、まさか自分が「世話という監獄」の中に
いるとは思っていなかったので、むしろわたしは
好き勝手なことをやっている、やりたいことはやってきた、
と思っていました。

実際、自我判定をはじめて依頼するに至った背景は、
無明庵から離れて、「自分がやりたいことは、やった」という
感覚があったように思えたからこそ、ふみきれたことでした。
(同時に、それでも十分に思えなかったから、
自我判定を依頼したというのも、一方で事実です)


では、そのわたしのやりたいことをやった、
その結果、わたしに何をもたらしたかというと、
その不十分さ、不満、未練でした。


この不満や未練を満たそうと、わたしは妄想をしました。
妄想のなかで、なんとかしようとします。
そうすることこそが「楽しさ」なのだと思おうとしながら。
そして未だわたしはこの「楽しさのようなもの」
以外の楽しさを知りません。

しかもその「楽しさのようなもの」を繰り返すべく
自ら不満や未練を作り出します。
中毒のように。


このような妄想のなかで、わたしは
「自分だけで楽しめる、一人で楽しむ」こと、
純粋に一人遊びといえる遊びを楽しめたことはなく、
(といっても、一人遊びを知らないので、こうも言えませんが)
不満や未練の反動、反射、反応に依存して
「楽しんでいるだろう自分」、その自己確認に終始します。
(きっとこれも、他者からの反射でしか言動が出てこない、
自分の意思がない、というものの相似形の現象に思えます)


ああ、わたしは楽しんでいる・・・

これが楽しんでいるということなんだ・・・

わたしは楽しい・・・


という自己確認を、レイヤーがズレているような
気持ち悪さを感じつつも、そうだ、そうだと思おうとする。
思えなくても、まず思おうとする衝動がある。


こんな毎日を繰り返していることの
どこが楽しいのだろうか?


この自己矛盾は、とんでもなく
居心地が悪い。虚飾がどこもかしこも
巣食っている・・・


「やりたいことは、やった」といいながら
不満と未練たらたらなわけで、
十分やり尽くした、という感覚を残すことは
今まで一度もなかったのです。
やりたいことはやったはずだ、という証明と言い訳、
確認作業があっただけで、それは、結局、
しかたがなかったことの分析と解説でしかありません。


どう言葉でおぎなったところで、
不満と未練たらたらは、たらたらなまま。


なのに、「やりたいことはやった」と
「どの口が言うか」とそう言い返すわたしもどこかにいます。
自我復元をはじめたいと思ったのも、そうでした。


やりたいことをやったとは思えない。
どこも楽しくない。ビクビクしている。
これがまともな状態といえるか?
この状態は、昔から何一つ変わっていないじゃないか。
これからも変わらない。本当にそれでいいのか?
今日死んでしまったら、それで本当の本当にいいの?
いいはずがない。


たまたまわたしは、幼い頃の写真を
見ていました。もう随分昔の写真です。


〝裏切ってはいけない〟


〝この子は笑っていない〟


いろいろな気持ちがぐちゃぐちゃなまま、
まとまらない思いを、自我判定の依頼文に書きました。
このままではだめだ、どこかおかしい、
どうみても今の状態がまっとうとは思えない、
その違和感だけを頼りに依頼文を
書き進めました。


2013年頭に分割自我復元法を開始し、
それから4ヶ月、はじめて自我判定を
お願いすることになります。


2013.07.28
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-28 18:48 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ④

無明庵に辿り着くまで、という一連のタイトルで
③まで書いてみました。

ここまでのすべての記事を振り返ったときに、
ブログに書かなかったいくつかのこと、
少なくともあと二つのことを、追記という形で
書き足したいと思います。


ひとつは、
育った家庭での「母親」からの影響についてです。


「努力と恩返しという囚われ」というタイトルでも
育った家庭がわたしにとってどんな環境だったのか、
前半・後半の記事にわけて書いてみましたが、
そこに書いたのは両親といっても、おもに
「父親からの影響」でした。


ですので、今回は母親からの影響について、
掘りおこして書いてみます。


もうひとつについては、
出稼ぎのようなものから戻って始めたこの数年間の内職、
その「内職を始めたもう一つの動機」、つまり、
「わたしの役目を維持し続けるため」という動機以外の
動機について書きたいと思っています。


 ちょっとだけ、前書きをしてから。


・・・ ・・・


③まで書いてきて、

「(今までブログで書き連ねたような)問題が、
すっかり解決されたら、それでわたしは、本当にそれでいいのか?」

という問いかけ、わたしが現状をどう認識、分析しようが、
最後にはこの問いが自分にはねかえってきます。


前回の③でいえば、
「幽閉されたりせず、拷問にもあわない世界ならいいんですね?」
と言われたら、その人に有り難くついていってしまうんですか、
そんなんで本当の本当にいいんですか??
というふうに訊かれたら、それに「はい」と答えることに、
躊躇するわたし、それには従いたくないわたしがいます。

つまり、ブログでここまで書いておきながらですが、
「じゃあ、それらが解決したら、それでいいんだね」といわれると、
そこに違和感を一切残さないかといえば、
それは嘘になるような気がしてくるのです。
そのような嘘に自己同化したら、その瞬間、
「わたしはわたしを裏切ったことになる」
そういう感じがずっとどこかに、あります。


自分を裏切らない、そうならない為のこのブログですが
わたしはおそらく矛盾するふたつのことを、今まで
言ってきてしまっていると思います。


前回の投稿のように、「怖いから自我復元を始めた」のか、
最初の投稿のように、「恐れていないわたしがいるから自我復元を始めた」のか、
そのどちらなのか、それともその両方なのか何なのか、
ここを考えはじめると、わたしは毎回、頭が真っ白、
どう考えていいのかわからなくなってしまいます。

今もそれは依然として混乱したままで、上記二つのことを追記して
考えてみたところで、何かがクリアになるとも思えませんが
せめてその混乱を見えるようにしておかないと、
なんだかその亡霊のようなものに、毎回毎回コントロールされて、
すごろくでいえば、どんなに「6」が続けて出ようが、ふと気がついたら
「ふりだしにもどる」にコマを進めているだけで、何ひとつ、
この不毛感と取り繕い感は、弱まることはありません。
どんな角度で切ろうが、金太郎飴は金太郎だ、というもので
ずっと同じことを繰り返しているだけです。


・・・前置きが長くなってしまいましたが、
  「母親からの影響」から順に書いてみます。


◇ ◇ ◇


わたしにとって父親からの影響は、まだ掘り出し中とはいえ
母親のそれと比較すると着手しやすいものでした。
わたしの父親は「いい格好」をしたい人でしたから、
本心は別なところにあっても、言葉で取り繕うことは日常茶飯事で
わたしへの影響もその言葉を通してのものだったと思います。


努力、恩返し、、、


そういった言葉がわたしの思考パターンに影響を及ぼしもしましたし、
結果、大人になってからのわたしのまわりの環境というものは、
その影響をうけながら、自然と誘われるようにできあがった感じです。

その様子については、このブログにも書いてきました。

なぜ、父親がそのような大人になったか、ということについては
とくに書きませんでしたが、おそらくそれは、父親自身、
本心を相当抑圧されて育ってきたからだと思っています。
生育暦を見てみれば、誰から見ても察しがつくほどの過去です。
精神的な暴力とACの重複が強く見られました。

そのような父にとって、取り繕う言葉だけの、表面的な衣服こそが
父のアイデンティティでしたから、子どもから見ても
それはわかりやすいアイデンティティでした。


「お父さんは、いつもいい格好ばかりしている」


本心が「あまりに」抑圧されすぎているので、
それが滅多に顔を出してこないため、とりわけ
わたしの幼少期は、父の言動が矛盾することは
滅多にありませんでした。
少なくとも子どもの前ではそうでした。

かなり背伸びをして
立派な父親でいようとしていたと思います。
教訓のような、名言のような、本人の言葉でない言葉を
わたしはよく耳にしました。
(わたしが名言集などをよく手にしたのも、その影響も
強いかもしれません)

本心を隠し通せたまでの時期(わたしが成人するくらいまで)は、
対外的には「子煩悩で、やさしいお父さん」と
たいていの方からは見えたと思います。
わたしも、そして家族のみんなもそう思っていましたし、
ある範囲に限れば、たしかにその通りだったのです。
実際、身体的にも精神的にも、暴力をふるったことは
なかったと記憶しています。
(正しい記憶かどうかはまだわかりません)

その意味では、暴力的な影響ではなく、
むしろ暴力的でなかったために、
標語のような人生訓としての父の言葉を

「そっくりそのまま、それを信じた」

という影響を、わたしに強く残しました。

父親本人にわたしを調教しようとするつもりはなく、
自分がいい格好をするための行動でしたので
これを調教といってよいかわからないのですが
影響があったことは、たしかです。


一方、母親について、この数日徹底して
掘ってみようとしましたが、疑うに疑ってなんとか
しっぽをつかんだものの、大変にわかりにくいものでした。


まず、わたしの母親は、子どもを蔑んだことは
おそらく一度もありませんでした。


子どもとやりあうとしたら、母親は同じ視線に降りてきて
子どもがわかる言葉で、つまり、大人という武器を捨てて
戦ってくれました。つねに一対一で、誰かや何かを味方に
つけたりすることも、絶対にしませんでした。

思春期に入っても、反抗期に嫌な記憶はなく、
わたしにとっては「会えば喧嘩する、してくれる人」でした。
母親にとっても面倒な子だったとは思いますが・・・。

また、母親としての責任を子どもの責任に
すりかえるようなことは、わたしの記憶では
一度もなかったと思います。

いったん喧嘩の土俵を降りたら、敵味方なく
嫌味なく手当てをしてくれる、そういう人でした。
「Abyが小さい頃は、ひっぱたいたこともあった」と
母は言うのですが、あまり覚えていません。
少なくとも、理不尽で抵抗できないような状態でわたしが
我慢した、という記憶がどうも見つかりません。

わたしの記憶では、とくに母親はそのような印象でしたから
トラウマとなるような記憶がなかなか掘り出せずにいます。
父親以上に掘りおこしが難航しています。
父親同様、継続的に過去を思い出していかなければと
思っていますが、最近、母親からの影響で、
とても大きなものが見つかりました。


それは、わたしの行動パターンが、
わたしの母親とそっくりだ、ということでした。


「まわりに自立を促し支えることばかりにエネルギーを費やして、
では自分は何をしたいのか?と訊かれると、
まったくといってよいほど、自分の意思がない」

という行動パターンです。


母親のそういう行動パターン自体に気がついたのも
ごく最近のことです。相当母を疑って見て、
はじめて見つかった母親の癖、行動パターンです。


母は子どもたちにだけでなく、夫(父親)を含め、
まわりの環境にいる人たちに自立を促そうとしていましたから、
無責任な発言をしたりすると、誰に対しても
「あなたは自分の意思はないのか」と言っていた気がします。
鮮明な記憶はないのですが、母親自身もそう言っているので
おそらくその通りだと思います。

ですから、まさか、「母親自身に」自分の意思がないとは思えず、
父も母に対して、「自分がよければいい人、世界一我がままな人」
と言っていたので、わたしもてっきり、そう思っていました。


なぜそれを思い出したのかわからないのですが、
よくよく考えてみたら、母親は自分の意思など一つも言ったことがない、
むしろ、まわりのために常に頑張っていた人だったことを
あらためて、ふと思いなおしました。


まるで自分の意思がないような、
お人形さんのような人です。
整っていますが、ひんやりとしているという印象は
見た目としても、お人形さんそのものです。


まわりに自立を求め、まわりの人が自分の意思を持てるよう、
その環境を作ろう、支えよう、促そう、とすることと、
それを促す人が自分の意思を持っていること、
そのふたつのことは、似ているようで
まったく違うことでした。


考えてみれば、母親は夫に仕事の上でも家庭の上でも
「自立」を促し続けましたが、成功したことは一度もありません。
成功どころか依存が強まり、今後も夫(父親)が自立する
ことはないだろうと、誰が見てもわかるような状況です。
しかも、母親本人もそう思っているにも関わらず、
それに囚われている・・・

ここにもしも、母親自身に意思があれば、まだそこから逃げて
自分の人生を生き直すといった選択肢もありますが、
母親自身、自分の意思がないのですから、
たとえ自由な身になっても、そこで思考停止してしまうのです。
実際、お互いに離れて生活した時期もあったのですが
その時期を母親はまったく活かすことができませんでした。


「こういう状態が嫌だから」と思って行動することと、
「こうしたい」という自分の意思を持つこと、
そのふたつのことも、似ているようで
まったく違うことでした。


せっかく自由な身になって、自分の仕事を持っても、
結局は、夫の世話役に戻ってしまうのです。
それで不満を言ってばかりいる。
かつてのような自立を謳うその勢いさえ失い、
「どうしていつもこうなってしまうんだろう」
というため息の毎日。その繰り返し。


母親について、ここまでのことを観察し直してみて
やっと、わたしはここではじめて


「これはわたしそのものだ」


と思ったのです。


わたしは、まさかそのような母親と似ている、
同じだ、とは思ったことがありませんでした。
それどころか、母親がわたしに言い育ててきたとおり、
わたしは自立した人間として「自分の意思をしっかり持った」
そういう人間だと、そう思ってきたので、
なぜ母親がその囚われから離れられないのか、
なぜ自己主張しないのか、わたしには疑問だったほどです。

そんな母親をわたしは支えたいとも思いました。
実際、ここ20年近くは、そう思いながら母と接してきました。


とんでもないことでした。


お前がそんなことしている場合か。自分はどうなんだ?


わたしこそ、母とそっくりの行動パターンであったし、
母親をサポートしている場合ではまったくない、他人のことを
言っている場合ではまったくない状況に置かれていたのは、
わたし自身でした。

「自分のことは別にいいから」と、いつもまわりを優先する
わたしの行動は、母そっくりです。
そうやってわたしも母同様に、自分の意思が希薄なまま、
幼い頃から過ごしてきました。

なのに、それにまた気がつかなかったのには、
母親の言動にも原因があったと思います。
「Abyは自分のことばかりで、本当にマイペースだった」と
過去をふりかえっては、よく言っていました。
(よく考えてみると、このセリフは、父が母に向かって
言っている言葉となんら変わりません)

わたしもそう聞かされてきたので、
ああ、わたしはマイペースで自分のことばかりやっているような、
そういう子どもだったんだ、と思いこんでいたところもありました。

ところが、よくよく考えてみると、わたし自身は
そんなにマイペースでわがままに振舞った記憶がありません。
「わたしのことは別にいいからさ」とよく言っていたほどで
たいていにおいて、親兄弟姉妹を優先したはずです。
(両親はまったくそう思っていない、というのを
成人してから知って、えっ?と思ったことがありました)


こういう妙なすりこみの意識も、なにからなにまで、
コピーかと思うほど、母と似すぎているのです。


そしていざ蓋をあけてみると、
わたしも母もあまりに自分の意思というものがない。


意見はあっても、意思がない。


誰かがたたかなければ、何も音がでることがない太鼓、
空洞の太鼓のよう。


母もわたしもそうですが、この意思の希薄さ、曖昧さ、
ある意味、意思すら無いように思える言動は、
抑圧されているのとは、どこかが違う感じです。
誰も抑圧していないのですが、なのに意思を「言わない」のです。
空洞の太鼓ですから、鳴らない、言えない、
というほうが正確かもしれませんが、
とりあえず、いざ、あなたはどうしたいの?と言われると、
「とくにないです」となってしまいます。


ただし、嫌だという主張はあります。
これは母もわたしも頻繁にありました。

ノーと言える、というときこえはいいかもしれません。
わたしも母も、ノーはどの局面でも言ってきました。

相手が親であろうと、上司であろうと、誰であろうと
納得がいかないときは、必ず「NO」と言ってきました。

ところが、思い返すと、「わたし自身がこうしたいからこう」
ではなくて、「まわりがこうだから、こうは嫌だ」という展開のみで
そこに自分の意思がないのです。
「嫌の種」を蒔く人がいてはじめて、それは嫌だ、
という意思表明ができるだけで、それは意思でなく反射です。
③の記事のように、「~が嫌だから、こうする」というのは
他力本願の、ただの反動のようなものです。


自動的に他者の言動に反応しているだけで
自身のビジョンがどこにもありません。


このブログのなかでも、わたしは、
「~だけは嫌だ」「~したくない」という表現だらけで
「~したい」という意思は(言葉でそう表現していたとしても)
一つも見あたりません。
そもそもわたしは「~したい」というふうに発言する自分に
強い違和感があります。

「~したくない」ということを言う自分にも違和感がありますが、
「~したい」と言う自分は、違和感というより、嘘に感じます。
~したいとちゃんと言えるほうがいい、みたいな、
取り繕いでしかありません。

こういう取り繕いを、作り笑顔で、笑い話のように話し、
相手と接し、誤魔化してきたのが、
わたしのたてまえの人生だったと思いますし、
今もそのたてまえのような、道化のような振る舞いをしては、
結局は何ひとつ状況は変わることなく、
不毛な分析、不毛な解説、不毛な繰り返し。
自分自身にも道化を施して、自分をも欺く始末。


「~したくない」という自分に違和感を抱くのは、仮に、
「では、それが解決したら、それで満足ですか?」と訊かれた時
本心から「はい、満足です」と言えない自分がいるのを
どこかで知っているのからだろうか?


じゃあ何したいのよ、と言われたら、わからない。
だから、「~したくない」という気持ちの反動、反転としての
「~したい」と表現して言葉にするんだけど、それも嘘だと
思ってしまいます。


そしていつも最後には、


「わたしは間違ったことしかできない」


というふりだしに、必ず、戻ってしまいます。


このブログも、なぜ自我復元を始めたか、
その理由から書きはじめました。

でも、わたしは、いろいろ書いてみても、どの理由が
本当に始めた理由なのか、今でもわからないのです。
どうせ間違っている、わたしがそうだと思った理由なんて
間違っているに決まってる、という自虐癖が顔を出します。

そう思っていたので、自我判定依頼の文章を書くときも
正直に誠実に書こうと思えば思うほど、
嘘や脚色、そういったものを一つ一つ積みかさねて
書いている、というの気持ちが生じ続けました。
罪悪感が残りました。

このブログを書いているときも、
慢性的にこれと同じ罪悪感があって、
これは一度も消えることはありません。
ブログに限らず、わたしが何か言葉を発すれば、
罪悪感は必ずわたしの中に残ります。


・・・ ・・・

随分と話があちこちにいってしまったのですが、
母親からの影響について書いておかないと、
わたしの虚飾の構造が、どんどん隠れて見えてこないので
せめてそこだけは見えるようにしておきたいと思って
この記事を書いてみました。

「内職を始めたもう一つの動機」についても
続けて書きたいと思ったのですが、
文字数が多くなってしまったので、
ここでいったん分けて、⑤として続けて
書こうと思います。


2013.07.26
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-26 18:33 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ③

無明庵に再び辿り着いてから、はじめて自我判定を依頼するまで、
その時期のことを書いてみようと思います。

①、②のなかで、わたしは「奮闘の様子を・・・」と書いたうえで
書き始めたわけですが、いざ書いてみますと、奮闘の様子でなく、
どんなことが起こっていたか、という回想記録のようでした。

書いてみて、わたしがまず思ったこと、そして書き留めて
おかないといけないと思ったことは、
あのような状況にあっても、わたしは、
奮闘どころか、戦うこともせず、むしろ、
「充実した時間だった」と認識した、ということでした。

わたしが傷つくこと、血を流すことは
それこそ役目を果たした勲章とばかり
わたしは喜びさえしました。
・・・これでやり残しは、最低限は終えた、と。

「すべてを失っていいほどの運命と出会い、
無我夢中に生き、波乱万丈だったけれども
輝きをまわりに見出そうとし、外の世界にも視野を広げ、
やりたいことはすべてやった、もうこれでいい」

わたしはその10数年間の体験を
そう解釈してきました。

「職を失い、私を失った上に、道具としての私の価値も失って、
使い物にならず外に放り出されて身体を売うようにして生きのびた。
戻る頃には声も出なくなっていた」という出来事は、
わたしのなかで、完全に自動的に、喜びの記憶として
自動更新をしていきました。

結果、最終保存した記憶は、先述のような
「すべてを失ってもいいほどの・・・もうこれでいい」
となりました。

もうこれでいい、というのは、もうおしまいでいい、
という意味だったと思います。
わたしのなかで「おしまいの妄想」は、つねに
生きのびてきました。

わたしが自身の体験をどう認識したとしても、
結果として、わたしはあのような体験で声を失った「わたし」を
「さらにわたし自身の手で」使い捨てにしようとし、
絞め殺し、遺棄しようと目論んでいたのは
まぎれもない事実でした。

人間として、それ以前に生き物として
自尊心のかけらもない振る舞いで、誰からも
同情の余地なく、じゃあ早く死ねよ、と言われても
何も文句がいえない状態です。

なぜそのようなわたしが、生き直すことの入り口の
自我復元に巡り合ったかは、とても奇妙なことですが、
好奇心からではありません。

もうどうでもいい、おしまいにしたい、という
わたしでしたが、どうしても不安だったこと、
つまり、その不安という現実から逃れたいという願望
だけは残っていました。いつからかというと、
無明庵の書籍から離れたあの頃からです。

その、わたしにとっての現実、わたしがずっと
怖がっていた、もしかしたら他の人から見たら
単なる妄想としか思われないような、でも、
わたしにとっては、決して無視できなかった恐怖のことを
③として書いてみるつもりです。

無明庵に再び辿り着いてから、はじめて自我判定を
依頼するまでの約1年弱の期間は、そこに覚悟をきめて
足を踏み入れるまでにかかった時間でした。


◇ ◇ ◇


なぜ、無明庵の書籍から離れたか、というところに
少し戻ってしまいますが、わたしが離れた理由は、
それがあまりにリアルで客観視できなかったため怖くて逃げた、
というふうに言うほうが正確かもしれません。

怖くなければ逃げることはなかったのですから、
「人生のやり残しをやるために」というのは、
後付けとして見つけた理由だと思います。
(ある意味で、やり残し、でしたので
後付けであることにも無自覚でした)

わたしにとって何が怖かったか、というと、
この人生というドラマは、「死後も」終わらない、
という事実でした。

わたし自身は、オカルトとかまったく知らずに
無明庵と出会ったので、こういう話ははじめてで、
わたしはずっと死んだらすべておしまいになると、
小さい頃から思っていました。
あの世があるとか、そういう話はきいていましたが
まさか、と思っていましたから、死後は
何にもなくなるんだ、だから今、悔いのない生き方をしよう、
というふうに考えるのが常でした。

そういう考えの延長線上で「おしまいの妄想」は
ふくらんできたわけであって、死後の世界や輪廻の話を
きいてそう考えてきたわけではありません。

ところが、無明庵の書籍と出会い、ここにはまったく
「うそがない」という感触から、この死後も人生は終わらない、
永久にこの宇宙のなかで生きるために生きるのだ、
という現実を知りました。おしまいにはなれないのだ、
という現実です。

それだけでしたら、わたしはおそらく
自我復元に踏み出すことはなかったと思います。
せめて行法を行い、なんだかやったような気になり、
やや正常な気になった気がして、ある時期がくれば、
「おしまいにならないのなら、それもしかたがない。
時期がくるまでは、生きていくしかない。だって
それが現実ならしかたがないよ。開き直って
生きていくしかないさ。これからは何をしよう・・・」と
それこそ永遠に同じことを繰り返しては、刹那の快不快で
気をまぎらわしては、ああだこうだと言ってばかりの
人生であったと予想されます。
自己嫌悪も抱けない鈍感さとどこか偽善的であり続ける
ことに文句をいいながらも、その正当性をなんらかは、
見つけたと思います。

ところが、わたしにとって何が一番の恐怖だったかというと、
ずっと生き続ける、それが終わらない、という事実、
その事実ではありませんでした。

そうではなく、生きることも死ぬこともできずに、もがき
発狂し続けながら存在し続ける、幽閉され続けるということ、
そのことが「終わらない」という事実が
わたしにとって一番の恐怖でした。

「終わらないかもしれない」と言いつつも、
心のなかでは、わたしはいつもどこかで
「おしまい」を夢見ている。

この状態でもしも今死んだ場合、死後、中間領域
(その当時はその言葉は知りませんでしたが)で、
「わたしは、もうおしまいにしたい。消えたい」
などと口走ったら、どうなるだろうか?
きっと、無明庵の本にあった幽閉された種族のように
「生きることも死ぬこともできない領域」に
永遠に幽閉されることになるのではないだろうか、
発狂しようがどんなに苦痛を訴えようが、いつ終わるかも
わからない暗闇に閉じ込められて苦しみ続けることに
なるんじゃないだろうか、終わらない最大級の拷問が
頭をよぎるたびに、この「拷問」の二文字が頭をよぎると
頭を左右に激しく振って、忘れようとしました。

地球上に存在する拷問を強く意識して
恐怖するようになったのも、無明庵と最初に出会ってからでした。
身体的、精神的な苦痛を強く意識しはじめたのも
その頃でしたし、なにより、「生きることも死ぬこともできない」
その生き地獄ということが、わたしの頭のなかで繰り返し
イメージされました。「終わらない」ということの恐怖。

この恐怖に耐えかねて、わたしは逃げました。
それが無明庵から離れた10数年前のことです。
かわりに「やり残し」というものに、すがりました。
逃げてもなお、ここで生きる意味はそれしかありませんでしたし、
そのやり残しは他の人からどんなに無意味で酷いものに見えようと
わたしにとっては、それがすべてでしたし、
「努力の話」と同様、皮肉にも、わたしはそれが
苦でありませんでした。

2012年に入ったあたりから、わたしの内職としての
仕事も一段落し、環境にも変化がありました。
奴隷として働いてきた結果、なんとなくの形もできました。
わたしの役目は、いったんはここまでだろうと思い、
冬眠中だった違和感がわずかでしたが疼きはじめ、
久々に無明庵の書籍を手にとりました。

行法をやっていないことを思い出し、そういえば
無明庵のサイトもあったような・・・という記憶から
サイトにアクセスすると、その後に出された書籍の
情報も見つかりました。

行法をキーワードにいくつかの関連のものを
購入し、さっそく基本行からはじめていきました。

4ヶ月ほどの期間に、無明庵のサイトや新刊の
書籍を読むようになりました。

そして幽暗行に入った頃、2013年のはじめ、
分割自我復元法を開始しました。

それから4ヶ月後にはじめての自我判定を
依頼することになるのですが、
わたしにとって、これは、今回は棺おけに
入るような覚悟がいりました。
迷いはなかったのですが、覚悟がいりました。

これに足を踏み入れたら、もう戻れない。

でも、ここで踏み込まなければ、わたしは
「おしまいにしたい」という中途半端な望みすら
捨てられず(叶えられもせず)、誤魔化しながら、
この生においてもずっと同じことを繰り返しながらただ生きて、
死後もおそらくさらに分割された自我でボケっと
地球にまた生まれて、拷問のない世界を望みながら
怯えてまた一生を暮らし、また次の生もさらに
酷い地域を選んではそこで暮らし、酷い経験をしながらも
そこから抜け出したとたんにその酷さも忘れてしまっては、
また生まれ・・・そうなりたくないとどう強く望んだところで、
いや、強く望んだとしたら、宇宙規模の幽閉空間に
宙吊りにされて発狂するに違いない。

馬鹿げた妄想だと、自分自身にも言いきかせはしたが、
わたしにとって、これは冗談にならないほどリアルな事実で、
この事実を容赦なく提供されていたのが、無明庵でした。
(この解釈が間違っていないかどうかわかりませんが、
その時わたしは、無明庵のコンテンツをそのように読んでいました)
後に、無明庵のサイトも閲覧するようになるわけですが、
その濃縮された記事の一つ一つは、この事実、
おしまいにならないというだけでなく、おしまいを望む者が
いつかはたどることになるであろう恐ろしい未来を
赤裸々に提示しているように思われました。

ここに入ったら、もうこれは本当の本当に
現実になってしまう。
その現実に取り組む覚悟は、わたしにあるのか。
興味の対象としてやってみるのとは次元が違うんだぞ。
本当に本当の話になっちゃうんだぞ。
やり残しとかで気をまぎらわすことも、もうできないんだよ。
怖い気持ちと向き合うなんて、お前にできるのか?
怖いことに自ら向き合おうなんて言える人間はいるのか?
そう思い込んでいるとしたら、お前は嘘つきかもね。
怖いとわかっているところに、自分から立てる人なんて
いるわけないんだ。偽善だよ、そんなのは。
結局、自我復元も何かの足しにしたいんじゃないの?
「そうじゃない、何かになりたいとかはないんだ」と
言ったところで、そういう自分でいい、と思いたいだけでしょ。
今だったら、引き返せるから辞めときな・・・。

自分の内側から、そういう声もきこえてきました。
わたしの内側から、誰だかわかりませんが
そういうことを言ってくる誰かがいます。

振り返ってみれば、わたしは、自分を切り捨ててきただけじゃなく、
まるごと捨ててしまうような、まるで自分を無価値なモノのように
ゴミ焼却所に目をつぶって投げ捨ててしまう人生を送ってきました。
その様子を、このブログに書いてきました。

もう自分を裏切りたくない、という気持ちから
このブログの名前もそれを反映していますし、意識的なところでは、
それが自我復元をはじめた理由といえますが、
その裏切りたくない、と「言っている者」が誰なのか、
今、わたしは少しずつ、わからなくなってきました。

裏切りたくない、という気持ちのもっと最初のほうに
あったものは何だったのか、そこを考えてみたいと思って、
今回③として、判定依頼直前までの時期を書くことにしました。

裏切りたくない、という気持ちはもちろんあります。

でも、もっと違和感のない表現をしようとすると、
わたしは今、怖いという、そういう感じです。
今じゃなくて、ずっと怖かったし、この怖さが
これから薄れていくことも想像がつかない。

生き地獄、その幽閉の場に生きていい、とだけは
わたしは思えない。
そこでだけは、どんなにやついているヤツでも
にやつけないはずだと思っている。
わたしのように、自分の尊厳を切り刻んで、自分をまるごと
焼却炉に投げ捨てても作り笑顔ができるような、これほどに
無慈悲で、人の心が麻痺したロボットのようなわたしでも、
その生き地獄だけは、絶対に避けたい。
冗談でもそれを体験したいとは思わないし、
そこに放り込まれることも絶対に避けたい。

オカルトとはまったく無縁に生きたわたしが
こういうことを言うことになるとは想像さえしたことも
ありませんでしたし、自分でも耳を疑いますが、
「裏切りたくない」という人間的な感情の言葉よりも、もしかしたら、
ただの拒絶、恐怖からの拒絶、怖い、という感覚のほうこそ
実態には近いのではないかと、ここまでノートを
書いてみて思うところがあります。

捨てたのもわたしですが、
拾おうとしているのもわたしです。

誰が何を捨てたのか、誰が何を拾おうとしているのか、
これはまだわからなくて、これからこれを
掘り起こしていかなければいけないと思っています。
ただ、捨てようとしたことと拾おうとしていることという
矛盾から、わたしのなかの故障を見つめていく必要がある、
最大級の故障でも、これだけはなんとかしないと
死ぬに死ねない、というのが今の気持ちです。

その意味では、今一番怖いのは、
自我復元が完了せず、死んでしまうということ。
だから絶対に、100%の自我になって人間になるまで、
いくら故障が最大級でも、それまでは死ねません。


2013.07.24
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-24 12:50 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ②

無明庵の書籍と出会い、約1年間かけて読み、
無明庵から離れました。

再び無明庵と出会うまでのことを
いくつかの時期に分けて書いてみようと思っていたのですが
予定を変更しまして、できたら一息で、
書いてみたいと思っています。


◇ ◇ ◇


この十数年の時期は、最近の過去とはいえ
わたしにとって思い出すのが難しいものでした。
というのも、わたしにとって記憶の感覚の元となる
「違和感」が急激に麻痺していった時期だからです。

楽しい、悲しい、つらい、うれしい

こういった感情をともなう記憶が相当薄いということは、
すべての経験の出来事は、ただの作業、
人間の感情を持たないロボットとしての仕事。

わたしは昔からロボットのようでしたが、
この時期からは「いざ、出番です」といったタイミングで
わたしは一人の人(以後、Pさん)を守るボディーガード
のような役目を果たす、まさに道具でした。

作業、作業、作業、作業、作業、、、ずっと作業・・・

わたしは道具でしたが、部分として生きることを承諾してしまった以上、
文句は言えませんでしたし、自ら切磋琢磨して、
利用価値の高い道具であろうと努めました。

しかし残念なことに、この道具が評価されることは
以後、一度もありませんでした。

わたしは何もほめられたいわけではありません。
ただ、道具なら道具として役立ちたいと思っていました。

ところが、徹底的なダメ出しが続きました。
Pさん本人から、繰り返し繰り返し、ダメ出しが続きました。

わたしはボディーガードとして、また道具として
完全に自信を失いました。
道具として「つかえない」と烙印を押されました。

解雇のようなものでした。

ただ、実質、解雇はされず、出稼ぎに行くように
仕向けられました。その時わたしが感じたのは、
「とうとう身体を売らないといけなくなってしまったのか・・・」
という思い、かなりそれに似た挫折感を抱いたのを
覚えています。

出稼ぎに行くわたしを喜んで見送る姿をみて
わたしはショックを受けました。

セックス相手にもならないから外で稼いでこいよ、
とPさんに言われて、稼いだお金を渡しては、
誰かに貢いでいるのを知っている、それに似た惨めさです。
それでもわたしは、それが務めだと思っていましたから
身体が不調を訴えても、可能な限り続けました。
その上、「わたしがあの人のそばにいること自体が
きっとよくないことなんだ」と思っていたので、
言われなくても、自ら出稼ぎに向かいました。

ですが、わたしはどこかで
「もう出稼ぎに行かなくていいよ」と言われるのを
待っていたところがありました。

今日までかな、今日までかな、と思いながら
働いていました。
・・・ところが、そう告げられることはなかったのです。

むしろPさんは働かなくなり、わたしが働くしかない、
そういう状況がそれから続きました。

わたしはだんだんと、自分が何をやっているのかが
わからなくなりました。

わたしは出稼ぎをやめました。
(精神的にかなり限界だったと記憶しています)

いざ家に戻ってみれば、Pさんは
酔いつぶれているような状態です。

「こんなことになったのも、お前のせいだ」
「お前が勝手に決めてこうなったんだ」

とても残念なことでしたが
元に戻すことはもうできない状態でした。

わたしは、新しく内職をはじめました。

もう一度、わたしは自分の人生を取り戻したいと
思ったからです。

数年が経ち、その内職もわたしとしては
十分にやったと思えるようになった頃、
忘れていたあの

「違和感」

を思い出しました。

無明庵の書籍を久々に手にしました。

はじめて無明庵のサイトを開きました。

分割自我復元法というものを見つけました。

十数年ぶりに
無明庵に再び辿り着きました。


2013.07.21
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-21 17:48 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ①

無明庵の書籍と出会い、そして離れ、再び
無明庵に辿り着くまでに、十数年のブランクがあります。

その十数年の間、わたしがいかにして生きていこうとしたか、
そのことについて書いてみます。

無明庵の書籍と出会う数年前から
書き始めていこうと思います。
調べてみると、4年くらいの周期で環境や状況の変化が見つかり、
それを考慮すると、5つくらいの時期に分かれそうですので、
タイトルに通し番号をつけて時系列で
記事を書き連ねていく予定です。
(「無明庵に再び辿り着くまで」というカテゴリでまとめてみます)


◇ ◇ ◇


無明庵の書籍と出会う前4、5年前から、
このブランクにつながる流れがあったように思います。

この流れ、周期に気づいたのは、
昨日のことでした。

①として記事に書いてみたいのは、
無明庵の書籍と出会うまでの数年間のことになります。

なぜ、この時期から書こうと思ったかというと、
無明庵に最初に出会う前に、
わたしは一人の人(以後、Pさん)と出会いました。

Pさんとの出会いは、以後、わたしに大きな影響をもたらします。
無明庵に再び辿り着くまでのブランクを綴るにあたっては
どうしてもここから書き始める必要があると思いました。
なぜなら、この時点からすでに、

「孤立していく」

という環境が、着実に進んでいたからです。

よくDVでもきく話ですが、まず孤立させられる、というのが
事の始まりであることは多く、わたしの場合も、
例外なく、この孤立化からはじまっていました。

・親、兄弟姉妹からも異分子扱いされていく
・学校の教員からも排除されていく
・友人も減らされていく
・異性との接触も許されなくなっていく

気がつけば、わたしは一人になっていました。

いや、そうではなく、Pさんと二人、次第にPさんとの
密室化したそのカプセルが、わたしの見える世界、
<わたしのすべて>に切りかわっていく、その入り口でした。


Pさんはわたしを軽蔑していました。


わたしはそれでも、Pさんから離れる、という選択肢は
ありませんでした。むしろわたしは、Pさんを守ろう、
わたしがPさんを守らなきゃ、という使命感でいっぱいでした。
Pさんには、わたしが放っておけないような
「翳り」があったからです。

Pさんはわたしを蔑みましたが、
わたしはそれを受け入れました。
我慢して、ではなく、むしろ率先して受け入れました。
わたしにとってそれは、Pさんの「翳り」を
理解しようとする上で必要なことだと判断しました。


軽蔑されつつも、守る。


この時期のことで、今でも忘れられない記憶があります。

わたしはある日、Pさんに、たいした金額でもないのに
生活が苦しかったこともあり、それを買うのを我慢しようと
言ったことがありました。100円前後のものです。

「あのときは辛かった」と、その後、何度も言われました。

そう言われて毎回毎回襲った気持ちは、
「Pさんを守れなかった」という自責感でした。

この自責感は、今後もずっとわたしを支配する基本的な
感情になりました。あまりに慢性的になっていて
気がつかないほど、日常的なものになっていきます。
籠という監獄ゆえでしょうか。

Pさんを守るために、わたしはすべてを捨ててもいい
とさえ思っていました。
職を失うことなど、まったく怖くなかったほどです。
ここに犠牲心でもあれば、救いがあったかもしれません。
ここにわたしは一切、「我慢している」という感覚が
ありませんでした。だって、蔑まれることも必要不可欠な
経験と思っていたわけですから。


Pさんは、わたしが軽蔑されていても平気なことに
苛立ちも感じていました。その苛立ちがもとで当時はよく
口論になりましたが、どのようなプロセスを辿ろうと
最後はわたしが折れることになるのは常でした。

異性との接触も許されず、結局わたしは、
恋愛というものを体験することが叶いませんでした。
Pさんの拒絶は、理由抜きに絶対でしたから、
そこに理屈は通りません。
子どものいやいや期に、完全に翻弄される母親のごとく
ただただ、ふりまわされてきました。

あげくの果てに、Pさんは自身で決めたことにも
関わらず、「わたしに決めさせられた」と訴えるのが
常套手段で、そう言われるたびに、
「わたしのほうこそ、DV加害者なのではないか・・・」と
悩み続けることになりました。
(この悩みも、今後ずっと続くことになります)

そういう毎日のなかで、それでもどこか違和感を
抱いていたのでしょう。
それがなければ、自我復元にたどり着くことなく、
一生を終えていたと思われます。
その違和感を頼りにわたしは、時間さえあれば
本屋さんを徘徊していました。

その徘徊と孤立の時期が、
無明庵と出会う直前の時期ということになります。

本屋さん巡回の毎日の最後の最後に
「廃墟のブッダたち」という
一冊の本に出会います。

1年ほどでしょうか、集中して10冊の本を読み、
わたしは無明庵からいったん、離れました。
「自分を捨ててもPさんを守り保護すること」こそが
わたしの人生のやり残しだと判断しました。


判断・・・否、「誤認」から
わたしの長いブランクは始まります。


ここから再び無明庵にたどり着くまでの10数年、
その長いブランクでの奮闘の様子を
次ページ以降、書き連ねていこうと思います。


2013.07.20
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-20 08:24 | 無明庵に再び辿り着くまで

【後半】 努力と恩返しという囚われ

前ページの【後半】部分です。

・・・ ・・・

で、ダラダラと長くなってしまいましたが
結局、努力、努力っていうけれど、それって、
それほどに評価されるようなものだったのか、
そんなに価値あるように言われるほどのもんだったのか、
そういうふうに思いながら生きてきたわたしの人生は
それほどまっとうだったといえるのか、
ということを、昨日、やっと考えてみることができた。


ここ10数年の歳月が、いかに縛られ動けないような
籠のなかの生活だった、という話を書いてきたけれど、
それ以前も、随分と「努力ケース」という強固な籠ではなかったか?
家族の間では何も問題がなかった、あったとしたら
わたし自身の考え方やその思考の癖だけです、と
思いこんでいたそのわたしの認識こそ
間違っていたのではないだろうか。


わたしは結局、努力、努力と言いながらも、
一度たりとも、今のままでいいと思えたこともなく、
しかもその努力すら、誰かさんのおかげなら、
わたしはその努力の主人公ですらなく、
ただ経験を製造してきただけだ。
内容はどうでもよくて、経験というのは
わたしにとってつねにそれは過去のもので、
褪せて、死んでしまったもの。

そんな時間差のあるものと、今の感覚とを
重ね合わせたところでズレまくるのも当然だ。
とんぼのめがね状態で、気持ち悪くなるわけです。

わたしがそこに不在なら、大暴れどころか、
動けもしない。ただ、経験の傍観者だ。
傍観しているだけならまだいいが、ふと気づけば、
経験マップを見ながら、それに思いを馳せて
夢、いや、妄想をする。ハッとして我にかえると、
ただ、ぼぅーとしている。それが清々しい、なんて
快適なものではなく、退屈感さえも鈍るような
どうしようもないボケようだ。
(これは明らかにボケている。希釈されている!
・・・という感覚も強くあって、復元をはじめたのも
一つの理由だったと思います)

ただただ地図をながめているだけで、一度も
旅にでることもなく、机に座っているのと同じ。
本当は外に出たいのに、公園の見取り図を
ながめ続けて違和感を抱かないはずがない。
大暴れしたい気持ちは、おそらくこの子ども時代から
慢性化していて、その気持ち自体、気づきにくくなっている。

努力という形式を保ちつつも、わたしは、ある頃から、
それはおそらく高校生頃からだろうか、その「努力」
というものに相当疑問を持った。

そもそも、何に向かっているのか、それ自体が
まったくわからなかったからだ。
今さら、という感じだったが、実際、その頃になって
今さらその努力の無目的さに唖然とした。

100歩譲って(と実際に思っていたが)、義務教育なら
その義務を遂行するため、の努力なのだろう。
だけれど、高校、大学ともなれば、そんないい加減な
目的で努力を続けるのは、無意味だと感じた。

当然の流れで、
「何のために生きるのか?」
それだけが問題となった。

それがわからなければ、やっていること、それ自体、
無駄でしかない、毎日毎日、そう思っていた。

またその自然な流れで、
「この努力や、~になる、という営みは
いつになったら終わるのか」という疑問で覆われるようになり、
その次には、「もしも今日死ぬとしたら、その~になる、は
達成できないので、後悔することにならないだろうか?」
と考えるようになり、
次には「そもそも~になる、に終わりはあるのか?
あるとしても、今日死んだらどうしようもないし、ないとしたら、
そもそもわたしがやってきた努力なんていうのも、まったく無駄だ」
と、考えるようになりました。

以前のノートの「おしまい妄想」もそんなところから
沸々とわきおこった妄想だと思います。

しかもこういった妄想や考えは、死活問題や自問から
出たものではなく、ただの癖、あるいは分析といった程度で、
それ自体が、どこか空虚なものでした。


自問すらできなかった

死活問題に直結する自己嫌悪すらできなかった。

それにも関わらず、今日も普通に生きている。

たぶん、明日もそうやって生きているんだろうな。

なんて空虚な毎日なんだろう。


そういう空虚な毎日の妄想をこのように思い出しても、
妄想でしかなく、これ自体の記憶に何か意味があるようには
思えなかったのですが、昨日、たった一つですが、
一つだけ、気づいたことがありました。


それは、おそらくこういうことでした。


そのようなわたしの子ども時代は、
わたしがどう努力というのを解釈し、その癖が今に
残っていようがいまいが、その当時、わたしは
まるで地図の傍観者のごとく、わたしは一度も旅に、
「冒険者」として飛び出すことができず、大暴れできなかった、
という大問題な環境、抑圧された環境に
いたのではないだろうか

と、いうことでした。

だから、昨日の投稿のように、あいかわらず、
「大暴れしたい気持ち」が疼いている。
一度も解消されず、その思いだけが宙吊りになっている。

努力期、わたしは「今のままではダメ」状態の
経験傍観者として、わたしは暴れることは叶わなかったのです。

つまりわたしは、この子どもの時期「も」、
大暴れできなかった、ということでした。

暴れどころか、わたしはただ座らされていたのだと思います。
誰によってか、というと、それは自分自身かもしれませんが、
それで終わってしまったら、今までのわたしの結論と同じなので、
家族の問題にさかのぼってみました。


さらに最悪なことに、努力期以降、努力に愛想をつかしたものの、
その裏返しとして(水面下で準備されていた)「恩返しをしなさい」
というメッセージは、別の意味で暴れさせない仕組みを整えた。
「努力ケース」という籠から「世話ケース」という籠に
引っ越しをしただけ、ということになります。

そこで、この微妙なタイミングで
ある一人の人(以後、Pさん)と出会うことになります。
自動的な、といってよいほどのタイミングでした。

おもにわたしの役回りは、広くいえば、
Pさんを守る、保護するような役割でした。

しかもまた「運悪く」、そこに我慢とか、犠牲とか、
そういう感覚がまったくなく、そうすることがごくごく自然で、
あまりに自動的にそう思えた。
(今から考えれば、あまりに用意されているようで不自然だ)


無明庵の書籍に出会ったのは、
この努力ケースから世話ケースに移動するまでの時期、
ほんの1年という短い時期に、わたしは「運良く」、
本当に運良く、無明庵を見つけた。


もしもこの出会いがなければ、努力というつまらない人生の
下準備を経て、その反転の恩返しという名のもとの世話人生を、
わたしはずっと動くことなく、せめてもがき、経験の妄想者、
傍観者、解説者、説明者として人生を終えたことだろう。
死に際、旅の地図を枕元に「それなりに楽しかったよ」なんて、
涙つきの馬鹿げた芝居に自己陶酔したりして。

実際、今のままではこの通りになってしまうから
わたしは自我復元を続けています。

わたしはここ10数年も否定しなければならないけど、
それ以前の時間も否定しなければならない。
だってそこは籠だったんだから。

わたしはずっと家族には問題がない、と
思っていました。

それではトラウマのしっぽすら見つかるわけが
ありませんでした。

トラウマは、されたことの見え方より、至った状態の
この不自由さを指すのではないだろうか、
考えてみればそれはそうな気がしました。

わたしは不覚にもそれを見落としていて、
利他的な行為の衝動から、他人のことばかり面倒をみて、
わたし自身は「大丈夫」とふんでいたのです。
問題ありありだったことが、少しずつですが、
考えられるようになってきました。

思い返すと、わたしは実に子どもらしくなく、
子どもらしく笑ったことも、きっと、なくて、
賢そうに見えたのは、それは子どもらしくないからであって、
さらに、親やまわりの大人から、悪意が見えないことからも
とんでもなく厄介なACを抱えているのではないか、と
昨日、そのことをはじめて意識しました。


ふと思いました。


努力が評価されてまっすぐに育つ、なんていう
そんな単純なものではなかろう。

だいたい、人は人に評価される必要なんかないじゃないか。

なぜ他人に自分の存在理由を証明しなきゃいけないの?


〝不器用だけど努力だけがとりえでした。それもまわりの人の
おかげだから、今は他の人に恩返しをしたいと思っています。
わたしはそういう人間です〟

と、わたしが答えた瞬間、わたしはわたしの加害者になるのだと
思いました。最後に加害者にまわったら、それはそれで
自分への裏切り行為だろう。


わたしはこういう人です、

ではなくて、


わたしは暴れたい、

と、本当は言いたい。


いや、そう言う言わないじゃなくて、
暴れられる「外」に早く出たい。絶対に出たい。

もしも外に出られなかったら、きっと死に際、
「暴れられましたか?」と訊かれて、
「それなりに楽しみましたが、暴れるのは叶いませんでした」とか答えて、
「次はその籠からは出られますよ(ただし、そこも籠ですが←とは言わず)」
とか言われて、また騙されるのがオチだ。

わたしが死んだとき、もしそう訊かれたら、
「暴れられたから、もう十分です」とちゃんと言える
わたしになって死にたい。


・------------------・

今書いていて思ったのは、
私のこの人生、

「本当に自分を裏切らないか?」

とテストされているような気がした。


どこにそんな余裕があったのか、
「他の人のこともやりながら、自分のこともできるさ」
と調子にのったのだろう、わたしは。


見事、出来なかった


というのが、今のわたしの現状認識。


・・・ ・・・


連休とはいえ、一つの記事とは思えないほど、
長くなってしまいました。

でもここで一区切り、無明庵と出会うまでのこと、
出会ってから離れるまでのわずかな時期、
離れてからの歳月と、再び無明庵に出会うまで、
少しずつですが、ノートすることができました。
(復元開始から今日までのことが、まだ書けてませんが
おそらくいろいろ桜の間やメールを引用させていただいて
ノートしていくことになるかと思っています。)

わたしは過去のことを書くことを
どこかで嫌がっています。
それは、わたしはいつも過去ばかりを
生きてきたからです。
それはあまりに空虚で、つまらない、
色のない世界です。

ろくなことはありません。

ぜんぜん面白くなかった。

だから、わたしは過去に目を向けるのも
どこか嫌がっていました。
今の感覚を頼りに・・・と美しいことを言ったところで
わたしは過去の褪せた経験のなかでしか生きてこなかった
わたし自身を直視することからしかはじまらないのではないか、
ノートを書き始めて少しずつ、そう思えるようになりました。


このノートを書き続けていきたいと思います。


2013.07.15
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-15 18:56 | 自我復元を始めた理由

【前半】 努力と恩返しという囚われ - 7月15日

久しぶりの連休でした。

このノートはもう少し短く、思いのままに
書いてみたいと思っているのですが、
連休だったせいか、あれもこれもと
頭のなかから沸いてきてしまいました。


今日のノートも、ちょっと長くなりそう。。。


今朝は少し涼しいので、いっきに
書いてしまいたいと思います。


「記憶」についてです。


・------------------・

このことはかなり疑問に思い続けてきたが、
わたしはなぜか、記憶の量があまりに少ない。

とぼけてるの?と何度も他人に言われるほど、
たった数年前のことも、覚えていないことが多い。
誰もがそうだと思っていたのだけれど、
どうやら、わたしのほうがおかしいようだ、と
気づいたのは、わりと最近になってからです。

ここではどの程度覚えていないかの詳細は
書きませんが、おそらく他の人がきいたら
「えっ?ほんとーにホント??」というレベルだと思う。

明らかにこれはある種の病気だろう、と思いましたが
今までそれで困ったことはなかったし、
それはそれで・・・なんて思っていたけれど、
自我復元をはじめて、再び、わたしは自分の
「記憶」というものに関心を持ちはじめた。

関心というより、危機感。

記憶が急激に薄まっていく、ということは、
わたしにとって、時間の前後が薄れていく、
ということで、それは「今を生きる」などという
暢気なものじゃない。

それは自動で動く遊歩道のようで、
それはそれは、のっているだけで動くので
ラクですが、わたしの足で歩いていない。
勝手に「連れていかれる」という危うさ。

最近になってわたしは、
「なんだか、記憶が自動的に消されてはいないか?」
と想定してみたけれど、こう考えて済まそうとする
その安易さ、その自動性こそ、恐ろしい。
だって、「そうなんだ」で済む問題とは思えないから。

なんとか記憶の断片でもいいから、自力で
こじあけねば!と、この連休中、やっと動きだせた。
といっても、まだまだ思い出せる具体的な記憶は
あまりに少ないが、わずかな断片からでも、
何か、しっぽのようなものはつかめるかもしれない。
しっぽからでも、たどっていかなきゃ。

そう思えたのも、少し前の投稿のノートで
「わたしは名言集を手にするが多かった」という
これだけはかなり確実な記憶として残っているのを
見つけたからです。

それと同時に、昨日の投稿で
「わたしは暴れたかった」という、ずっと抱えていた思い。
その思いと、名言集のことが対になって、
わたしははじめて、育った家庭における問題を
漠然とだが見えかけた。


やや時間が前後してしまいますが、
わたしが子どもだった頃(二十歳くらいまで)に
さかのぼって、ノートしてみたいと思います。


・------------------・

わたしの両親は、わたしのことを
大事にしようとしていました。

今思えば、それはどこか畏れていた感じもあり、
両親ともに育ちの過程で持ってしまった
一種のコンプレックスのようなものでした。

「自分たちは、たいした人間じゃなく、人並みには
やってきたけど、器用な人間じゃないから、
あなたには、もっと立派な人間になってほしい」

というようなことを、両親はわたしに言っていたような
気がします。明確には思い出せないけれど、
一つだけ確かなのは、

「だから、あなたが不器用なのは、それは
わたしたちの子だから、それは、しかたない」

といったことを、とくに父親は、
わたしに言い聞かせた、ということです。

わたしにつけられたはじめてのレッテルは、
「不器用な子」というレッテルでした。

ところがそれが厄介なことに、

「人間は神さまじゃないんだから、
不器用で当然、それだから人間なんだよ」

と(それって自分を正当化したかっただけでは?)、
わたしの親は開き直っていたあげくに、

「だから、努力するんだ」

だから努力するんだ、という、この「努力」の二文字が
わたしを、結果的には、縛りつけることになりました。
当時は、縛りつけられたとは、鈍感なわたしは気づかず、
それがライフワーク、日課となりました。


努力の日々


鈍感ゆえか、これまた「運悪く」、
わたしはこの努力が好きだった。

努力自体が苦でないので、向ける対象は
何でもよかった、というのが特徴で、
たとえば、学校の勉強も数学年上の参考書を
自分で選んでは、問題を解くのが好きな子だった。
といって、テスト対策をするような子でもなかったので、
学校の成績は、それほどよくなかった。

これではまずい、と思ったか、
両親はわたしに勉強の機会を与えた。
学校の勉強についていけるように、が基本だったようだ。
当然わたしは努力が嫌いじゃないので、
それもちゃんとやった。

「勉強ができないと、つらいからね」

と母が言っていたのを覚えている。

おかげで、わたしの成績は人並みになったし、
気がつけば、むしろ良い成績になった。
今思えば「運悪く」、努力の量に比例して
結果がともなってしまった。

もちろんこの結果とは、社会的評価にすぎないが、
通常は「努力なんて、そんなことは通用しない壁」に
ぶつかるのが、生きていれば当然だと思うが、
その当時、わたしは努力でクリアできない問題に
ぶつかる経験が完全に不足していた。

ほとんどなかった、といってよいくらいだった。

レッテルのせいも十分にあっただろうが、
たしかにわたしは「できる子」ではなかった。
よーいドン!と抜きうちでされたら、必ず負けるような、
そんな子だったから、わたしは十分に
「準備」をするようになった。

ある頃から、他人から見ればきっと過剰なほどに
「準備」にエネルギーを注ぐようになった。
とりくむ内容に関わらず、わたしはその準備というものに
努力というエネルギーを注ぎ込みました。

この努力は、挫折という経験を知らず、いや、
挫折しそうになっても、別なところで意味を見出し
生き残っていくこざかしさが、この努力という性質には
つねにありました。

努力はつねに問題をクリア、それができなければ
問題を回避できましたし、それこそが努力の力、
成果とばかり、わたし自身、それを疑いもなく、
受け入れていました。

よくある名言集は、努力を否定するものは
滅多にありませんでしたから、
努力そのものについて、疑うこともしませんでした。
「その上で」さらに磨いていくのが、また努力でした。


こう考えてみると、わたしは、努力そのものに
何の疑問も持たないように(持てないように)
生きる準備が〝万全に整っていた〟という気がしてきます。


ある時、わたしの親はこういう趣旨の話をしました。


「努力できる環境が与えられたことに
感謝しないといけないよ」と。

まあ、このような類のことは、名言集にもあるだろうし、
他の人も、みんなどこかでは聞くだろうセリフだが、
わたしは、これを「まるごと」信じた。

そこが、他の人と大きく違ったところだろう、と
今になっては思う。


「それは感謝じゃないだろ、恵んでくれた人に、
あなた様のおかげで今のわたしはいます、という
奴隷でいいですよ宣言だろうし、そもそも、それって、
あなたがエライってことを言いたいだけじゃないの?」

と、その時のわたしは、なぜ言わなかったのだろう?


いつの間にか、わたしは、

「今度はわたしが恩返しをする番だ」

と思うようになった。


しかも、親を責めにくかったのは、親はいい格好を
したかったのか、自分たちに感謝しろ、とは言わない。
「感謝の気持ちは、まわりの人みんなに対して持てばいい」
ようなことを言うのだ。

そういう子どもに育てたことを誇りに思っている、
という親のエゴでしょ、と今は思っているけれど、
当時は、それはまっとうなことだと思った。
人として当然そうしなければならないことのように思えた。

利他的な行動の衝動は、20歳くらいまでには
着々と準備が進んでいたのです。

わたしがわたしを見失う用意は、実は、
幼い頃から音をたてずに進んでいました。
まったく気がつきませんでした。


努力しなさい、とは、別な言い方をすれば、
「今のままではダメだ」ということの裏返しだ。
わたしが子どもの頃によく抱いてきた感情、
「ここはわたしがずっといていい場所じゃない」
という気持ちは、今のままじゃダメだ、
から来ていたと思う。


あなたは不器用だ、というレッテルから、
わたしは努力家となり、ついに
「今の自分じゃダメだ人間」になった。
努力は挫折をも正当化するために、
努力は挫折することなく、随分と長い間、
価値を維持し続けていた。


さらに「運悪く」、親は努力の結果を評価することを
恥ずかしいと思ったか、それよりも、
「努力をしているわたし」を評価した。
こういうと響きがよくきこえるが、結局、わたしは
努力の成果、つまり経験の結果と「わたし自身」が
重なってしまった。

それは努力の量に比例して結果がともなっていたから
という理由だけじゃなくて、努力できる自分が他人のおかげなら、
努力の結果つくられた経験は、自力で達成されたものなんかじゃなく、
ただ、わたしのところにぽつりと残された経験、
というだけのものになったからだ。

「わたしはこういう経験をした」という
シンプルなものでなく、
「わたしの経験はこういうものだった」という
説明者、解説者としてのわたしが残った。

それはまったく経験の主体とはいえない。
経験の傍観者という役回り。
もしも誰かから「あなたは誰ですか?」と
きかれた、たぶん、よくわからないので、
きっとわたしは、自身の経験を述べることになります。

わたしはこういう経験をした、こういう経験はよかった、
あれはそうでもなかった、あれはまあまあだった・・・
とか。

努力については、のちにそれ自体に疑いを持つようになりますが、
この思考の癖、つまり、わたしの経験を述べる違和感は
ずっと残り続けることになりました。

今だってそうです。

結局これは、わたしの経験を述べていて、
その枠をこえない。

じゃあ書かない、となると、わたしはただ、
今のわたしを甘んじて受け入れるしかできず、
それを許可したことになってしまうから、
それだけは嫌だから、このノートを書くことにしました。

あいかわらず、ここに個性はありません。

それは発揮できないのではなく、
わたしが培ってこなかったのだと思います。
それも個性だ、という嘘だけは嫌だから、
無個性であろうと、わたしの過去を暴きたい。
もしもこれがわたしの痛手なら、傷口がヒリヒリして
何かが抵抗するだろうから。

話がずれてしまいましたが、そういえば、
自分の兄弟姉妹のことで、忘れられないエピソードが
あります。これはよく覚えています。


具体的な記述は避けますが、
今ここで兄弟姉妹をAとBとします。


あるとき、Aが努力した結果至った成果を、
親が「この程度のことは」と蔑んだことがありました。
これにはわたしは大変にショックを受けた。
たしかに、それに比例する成果とはいえないかもしれないが、
努力する本人、努力すること自体に価値があったんじゃ
なかったのか?あなたたちはそう言ってきたよね?
親には直接言わなかったが、わたしはAをなだめた。
「よくやったね」と。

わたしがはじめて親役をつとめていると
実感したときだ。


もう一つは、Bの話。


Bは、わたしやAよりも、まあ、器用だったし、
一般に「できる子」と言われてもいい感じだった。
それほど努力しなくても、そこそこには
いつもいける子だった。
だから「あなたは努力には向かないね」くらいなことを
本人に言っていたと思う。

あるとき、Bが人生のなかでも窮地にたったことがあった。
そこから抜け出すためには、何を思ったか父は、
(普段は手をあげることは絶対にないが)目を覚まさせようと、
Bに手をあげて叱ることを宣言し、Bをつかまえようとした。
わたしは必死になってBを逃がした。

詳細は割愛するが、結局、わたしはBを保護することに
成功したが、その時感じた親への不信感は、
いまさらになってBに対して努力不足だの、
我慢が足りないだのと、ウンチク垂れてんじゃねーよ、
と思った。

あなたたちの理論でいえば、努力できない環境を与え、
それであなたはいいのよ、みたいに育てたのはあなたたちだろ、
だったら、あなたたちに感謝する筋合いもないんだよ。
Bは今、つらいんだ。どうして話をきいてやらないんだ?
Bがそう言っているんだったら、そうなんだ。
なぜそれを信じないの?疑うの?


それは、わたしが親役をつとめたと実感した、
もう一つの出来事でした。


これもまた「運悪く」、両親はわたしには
逆らえない部分があった。それ自体、よく考えればおかしい。
親の責務を、わたしは肩代わりしはじめた。

そんな両親を、わたしは守ろうとしたことも多かった。

あるときは離婚という判断を「彼らのために」支えようとしたし、
離婚しないという判断を「彼らのために」支えようとした。
そこに自分はいなかった。
わたしは一人でいいと思っていたし、せめて考えるとしたら、
兄弟姉妹のことだった。
いずれにしても、わたしは「自分のことはいいからさ」と
言うことが、半ば、口癖になっていたように思う。

「あなたはどうしたいのか?」を
訊ねる係りになっていた。

これも今思えば、未成年の子どもが演じる役目とは思えない。
ところが両親は、わたしに判断という判断、いや、親としての判断を
わたしに託した。
(もしかしたら親からすれば、わたしがかってでた、と
思っているかもしれないが・・・)

こういう状態に、わたしは当時、疑問を抱かなかった。
こういう時も努力癖がでてしまう。
「今がよくないのは当然だ。だから考えて、何とかしよう」
という、まるでロボットのような思考パターンだ。

こういう思考パターンを繰り返していたのは、
おそらくかなり昔からだと思うけれど、たとえば
親役をせっせとやっている具体的記憶となると、
18歳近くになってしまい、幼少期の記憶とはいえない。

幼少期の記憶としては、こういう思考パターンは
その頃から少しずつ培われていただろう、という
推測まじりの記憶になってしまう。


名言集のような類が好きだったのは、小学生の頃には
そうだったから、やや幼い頃の具体的な記憶だと思う。


そのような思考パターンが生きながらえたのは、
こういう思考パターンが、家族の問題を(真の意味ではどうだか
ですが)、往々にして解決させてきたからでした。
そのこと自体は、わたしにとってよかったこと、ほっとしたこと
だったから、なお、この思考パターンは力を増していきました。


繰り返しになってしまうけれど、わたしの場合、
努力の結果が、社会的成功と呼ばれるものにつながったため、
努力をするわたしの価値は崩れなかった。
これは確率的には、低いことではなかろうか?と思うわけだが、
それゆえに、わたしは努力を疑うことができなかったし、
そういうわたしに対してどこかコンプレックスと畏れを
抱いていた両親は、見える形でわたしを傷つける、たとえば
罵声をあびさせたり、脅したり、手をあげたりすることも
できなかったのだろう。

それはそれでいい。

運悪くでも運良くでもどちらでもいいけれど、
わたしには、それは大きな影響をもたらした。

結局、親が言っていた努力とは、
「あなたをダメにさせたくない。自分たちの子で不器用でも
これだけ立派に育ったのよ」と言いたかっただけではないか?
まあ、そういった動機は今さら別にいいが、皮肉にも親からすれば
あまり成功したとはいえないAとBは、両親にとって
「かわいい」存在となった。自分と同じようにわかりやすい、
「私たちの子だから、しかたないわね。あなたらしいわ」
と言われる子ども、そして大人になった。

一方、わたしは「へんな子ね、変わり者だよ」に言われる対象に
いつの間にか、そう、いつの間にかなっていた。

それにわたしはショックを受けているわけでもなく、
受けたこともない。そうですか、わからなくて結構です、
努力は自分のためにするもの、あなたたちにわかって
もらうためにやっているわけでも、やってきたわけでも
ありません。わたしはむしろ、「そういうふうに」言ってきた
あなたたちを誇りにさえ、思ってきたのですから。

と、そう言い放てる自分が
いつもいた。


< 続 く >


・・・長くなってしまったため、一つの記事で書けなくなってしまいました。
  (後半)に続きます。



2013.07.15
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-15 14:25 | 自我復元を始めた理由

大暴れしたい気持ち - 7月14日

このノートを書きはじめて、といっても
まだ一週間と経っていないが、
わたしのなかで時間が巻き戻されつつある。

記憶がよみがえる感じではなく、
ただ時間だけが、あの頃、1990年代の終わり頃に
巻き戻されていくような感じ。

大暴れしたい

せきとめるものが何も無い、そのなかを
踊りまくる、歌いまくる。
それがわたしの生きた道だと
誰にも説明する必要も、誰からも説明を求められる余地も
まったくない濃密さ、秒針とのズレのなさは、
わたしのなかで、大暴れ、という言葉になって出てくる。

何もかもがもどかしく、
もっとストレートに踊いたい、歌いたい。
走るために走れ、走れ、走れ。
そこに孤独という発想など入りこむ隙間もない。
わたししかいないし、そんなことあたりまえだ。

大暴れしたいわたしは、
つねに先頭にいて、後ろを知らない。
目の前に広がる風景を見る。
~すべき、という順序で何かをしたり、しなかったり、
そんなことはしない。
大暴れしたいわたし、踊っている軸足だけが
中心だから。

今のこのもどかしさ、のろさ、ズレ、その違和感、
不快感、たとえばそれは、動画サイトを見ていて、
音声と画像がズレているのを見る不快感に似ている。
わたしの今の毎日は、いくつのレイヤーがあるのか
知らないけど、ズレまくっていて、これでは
とんぼのめがね。具合が悪くなって仕方がない。


ここで立ち止まってみたい。
今朝、わたしはそう思った。


なぜ具合が悪くなるのか?それはどういうことなのか?
ではどうしたらいいのか?そこから何がわかるか?

・・・ということを考えはじめる自分がいるのけれど、
コイツは誰だ?いったい誰???という疑問がある。


大暴れしたいわたしからすれば、
具合が悪くなったら、その動画を見なければいい。
どうしても見たければ、音声と画像がずれていないサイトを
探せばいい。なければ諦めればいいし、諦めたくなければ、
自分で歌って、自分撮りして、アップして、
自分で見て、ああだこうだと思ったり言ったりすればいい。
勝手に自分でやればいいだけの話だ。


大暴れしたいこの気持ちは、わたしは
幼い頃から、比較的日常的に、持っていたと思う。
その意味では、抑圧され続けたわたしでもなんでもない。
見覚えのあるわたしだし、その部分は今も残っているから、
今朝のように、なにかもどかしいと感じる日は、
わたしを縛り付けている縄のせいで暴れられない
その鬱陶しさが不満なのだと思う。


ただ今日、今まではスルーしていた一つのことに
気づいた。


たしかに大暴れしたい気持ちはずっと
わたしのなかにあったけど、では実際に
「大暴れしたか、大暴れできたのか?」というと、
おそらくそれは、Noなのだ。

誰かに暴れるな、と抑圧されたかというと、
そういう記憶は今は思い出せない。
親であろうと、教師であろうと、上司であろうと、
納得いかないことは、不器用なせいもあって、
一切、受けつけなかったから、そういう意味での
不自由感はなかった。

思い出せるのは、中学生、高校生の頃は、
「どういう形で大暴れするか?」を
考えていたと思う。
ときにそれは進路を決める、ということにも
関係してきたが、その頃からわたしは、
「もしかしたらこの世の中には、
わたしが暴れられるような舞台が、実は
ないのではないか?」と考えはじめた。

なら、なんでもいいや、と進路は決めた。
実際、学生生活そのものは、わたしには
何の価値も見出せなかった。
その時も毎日毎日、考え続けていたのは
「これからどうするか?」だった。
今いる自分の場所でいい、と思ったことは、
一度だってなかった。


1990年代の終わり頃になると、
大暴れしたい気持ちはピークに達していた。
その頃、わたしはある一人の人(以後、Pさん)
と出会い、その大暴れしたい気持ちを語っては、
これからどうするか、さあ、やっと白紙だ、
なんでもできる!という自信に満ちていた。


先回りして書いてしまいますが、
この根拠のない自信は、この時がピークで、以後、
自信は大きく揺らぎ、2000年の終わり頃には、
完全に失うまでになります。


大暴れしたい気持ちは、ただの気持ちのままに
放置され、大暴れどころか、暴れることも叶わず、
走ることもできなくなり、最後には、手足も伸ばせなくなる。

生まれてから数十年間、絶えず暴れたい
と思っていたこのわたしが、手足さえ伸ばせない環境の中で
あっという間に、その気持ちを失いました。
3年くらいは必死に抵抗しましたが、それは負け戦でした。


というのも、結局のところ、
「その籠のなかで、どう暴れるか?」
という条件付きの大暴れだったからです。

籠のなかでは、大暴れできません。
今思えば、あたりまえです。

大暴れに「条件付き」などありません。
これも今思えば、あたりまえすぎます。

いくら大暴れしようとしても、あるいはしていたとしても
それは大暴れではありません。よく見積もっても、
もがきです。


わたしは2000年の終わり頃、
最後のもがきすらやめました。
動かなければ、そのはけ口は
妄想のなかだけです。
わたしはその妄想のなかで、ささやかな
楽しみを見つけて、なんとか今日を、
明日を生きるようにしました。


わたしは男性と接するのが苦手なので、
男性と接することが少ない仕事をしています。
広くいえば、これはボランティアという職種になろうかと思います。
「誰かのため」になにかをする、というやつです。


先日、サイン会のようなことをやっているそばを
たまたま通りすぎました。いつもなら、サッと通りすぎるのですが、
思わず、二度見、三度見をしてしまいました。

なぜなら、その女性がファンの男性に対してする
スキンシップの仕方が、わたしの目には
あまりに異様に見えたからです。

手の甲や腕を撫で回すように触り、
男性の肩や胸にまで手をあてて摩ります。
襟まで整えてあげちゃっているではありませんか!
近くで見ている女性や小さい子も、その光景を避けることなく、
むしろ興味ありげに見ていたので、わたしは
「今では、こういうのが普通なのか」と
妙に冷静に眺めてしまいました。

以前なら、これがもしもですよ、性別が反対なら
(という仮定が適切ではないですが)、これ、セクハラでしょ、
いやいや、完全に犯罪だよーって、思ったりしながら通り過ぎ、
1分後には夕御飯は何にしようかな、などと
考えていたと思います。

ところが先日は、たんに、そうは思えなかった。
セクハラだとか、犯罪だ、とかではなく、
他人事には思えなかったのです。

たしかにわたしは、相手が男性でなく女性相手で、
しかも直接触ったりはしませんが、その人の内面的な部分を
言葉や表情、しぐさで触ります。
ときにそれは、身体的な感触と連動するような、
かなり相手と近い距離で、見えない手で触ります。

個人的にわたしは女性との、広くそういったスキンシップは
好きですので、妄想という類であっても、そこには
そういう楽しみがありました。

同時に(女性に)触られるのも好きなので、
美容院にはわりとよく行くようにして、
シャンプーをしてもらうときは、一言も話さずに
その方の指の感触と呼吸を感じるようにしています。
話すのも好きで、気ままにガールズトーク。
鍋に何いれるだの、家が片付かないだの、
もうどうでもいいような、だよねーみたいな話です。

会話のなかで、言葉と言葉が触れ合う瞬間、
そこで見せる弱さやゆるみに、ゾクゾクってします。
お互い媚びるような話をしないですむのは、
ほんとーーーーに、ラクちん!


・・・気がつけば、

手足が縛れた籠のなかで、わたしはそんなことで、
そう、そんなことで「いい」と思ってしまうような
人間になっていた。


こういう言い方は好きじゃないけど、これじゃ、

・・・まぐろだ。


「大暴れしたいわたし」と「まぐろ」とでは
天地の差だ。

たったの10数年で、いとも簡単に
天地はひっくりかえった。

10数年前までは、少なくともわたしは好きなことだけを
考えていたし、好きなことだけをやろうとしていた。
できなくても、やろうとする気持ちだけは忘れなかった。
今思い返すと、もう少し気をつかうべきだったが、
私は話すとき、思っていることをストレートに話した。
伝えた。もちろん、相手にされないこともあったが、
わかってもらう必要もなかったから、それでよかった。

無明庵の書籍から離れたとき、
わたしが「やり残し」と認識して入ったその籠は、
10年という時間をかけて、わたしという人間を
まぐろへと調教する、最終調理の場だった。


「まぐろはラクですよ。しかも、ここではまぐろは高価。
今までと違って他人のためにもなります。
なにより、ここ大事ですよ、〝Pさんのため〟なのですから。
ぜひ縛られて寝てください。あなたはそこにいるだけで、
それだけで十分、十分価値があります。
女性のそばで仕事もできる特典付き!さあ、どうぞ。」


・・・少し作りこみすぎだが、およそまあ、こんな誘い文句に
簡単にベルトコンベアーにのせられて、この狭い籠の中で、
甘い夢と経済的な鞭を交互に、無駄な10数年を過ごした。


当時、それが無駄とはまったく感じていなかった。


むしろわたしの生きがいであり、わたしのすべてだった。


Pさんを世話をしながら、わたしは調教されていく。



それでいい。それでしかたがない。




それならそう生きて、適当に死ねばいい。





そういうことになるんだろうな。



・・・などと、
わたしは思うようになってしまっていた。


たったの10数年で、大暴れしたいわたしは
死んだ。

今朝、久々にこの大暴れしたい気持ちが沸いたのは、
ノートを書こうと思って、まったく手が動かないもどかしさだった。
指を開いたり、閉じたりして、いっこうに手が動かない。
そうだ、他の方の復元ブログを見てみよう、なんて
やってみたところで、暴れたくなるだけ。

もどかしさも わ・た・し・ら・し・さ だよね!

なんて冗談じゃない!!

無明庵から離れて、10数年の後、また無明庵と、
そしてこの分割自我復元法と出会うまでの間、
わたしは多くの人に

「もどかしさも、あなたらしさだよ」

と、作り笑顔で心の手で相手の心を触ってきた。

キモイだけじゃない。

触ることの代償は、とんでもなく大きなものだった。


その「もどかしさ」は、本来、
抵抗すべきものだった。

ずっとずっと、抵抗し続ければよかった。

これは恥ずかしい話だが、わたしは
後悔というものをしたことがなかった。

抵抗し続けなかったこと、今になって
このことを悔やんでいる。
本当に恥ずかしいことだが、
人生ではじめて、わたしは後悔した。

もどかしいままでいい「わたし」など
いるはずがない。
大暴れしたいのがわたしなら、
それでいいなんて、ありえない。

世話をするという名目で、触るに触り、過保護にし、
自立できるようにこの籠でその種を育て合おうね!
と本末転倒な約束をし、結局は依存しあってきたのが
わたしとPさんの関係だったと思う。

どうひいき目にみても、Pさんの自立に
役立つことはなかった。
ならば、少なくともわたしにとってよかったことは
何一つなかった、という結論になる。
事実を忘れるための刹那の快不快を
繰り返すだけの毎日は、どう考えても無駄だ。

わたしはもう一つ自分が嫌いなことを思い出した。
それは、無駄なことをすること。

自我復元のための制限時間は限られている、というだけでなく、
わたしは、小さい頃から、無駄な時間をすごすのが
大嫌いだった。そこまではいつも意識していなかったが、
今日死んで悔いが残るような、そういう生き方は
ぜったいに嫌だったから、たとえ10分ですむ用事を
他人から頼まれても、自分のなかで意味が見出せなければ
ほとんどの場合、断った。


話がそれてしまったので、元に戻して・・・


世話をするという名目で、触るに触り、過保護にし、
自立できるようにこの籠でその種を育て合おうね!
と本末転倒な約束をし、結局は依存しあってきたのが
わたしとPさんの関係だったと思う。


自立は、籠の外でやらなければならない。

大暴れも、籠の外でやらなければならない。


籠のなかの居心地のよさや悪さ、籠についての
どうのこうのは、所詮、籠教室の教科書に
最初から用意された答えに違いない。
わたしという存在の記憶は、
ここ10年にぎゅっと集められていて、
どうやらそれより昔のことが、
恐ろしいほど薄く、ぼんやりしていて思い出せない。

とぼけてるの?とよく言われるが、
そうじゃない。本当に思い出せない。
たった10年、20年前のことなのに。

だからかもしれないが、まるでこの10年が、
わたしの生きたすべてのような気さえしてくる。
時計のない世界だったら、わたしは完全にそう
思いこむに違いない。

その意味では、この10数年間の記憶と経験は、
わたしのアイデンティティそのものになってしまった。
籠の存在、籠のなかでの生活、籠で出会った人々、
そしてPさん。それはわたしそのもの、になってしまった。

しかし、わたしはこれを否定しなければならない。

どんなに苦しくても、否定しなけばならない。

この籠から抜け出すためには、どうしても否定して、
大暴れしたい気持ちを思い出し続けなければ、
その気持ち、記憶すら、失ってしまう。

記憶を失えば、明日も失う。
それは、自己を嫌悪する感覚すら麻痺するということだ。
そのかわりに、わたしはつねに今の自分が
間違っていないかどうか、執拗に確認する毎日に
おびえる。あるいは慢心する。

それが今のわたしだろう。

この籠のなかでは、わたしはつねに二の次、三の次で、
わたしが大切にされたことなど、ただの一度だって
なかったのだ。

これだけは言い切れる。

わたしはこの10数年、大事にされたことは
たったの一度もなかった。
結果、わたしはわたし自身を大事にするという
その感覚すら、それにならい、
忘れてしまった。


もう少しこの10数年間のことは、別の角度からも
ノートすることがあるかもしれないが、
今日はこのあたりにしたいと思う。


今朝、わたしは久々に、1990年代終わり頃に
巻き戻された気がした。
それはどういう感覚かというと、抽象的で
曖昧な言い方だけど、まだ何もかきこみもされていない、
白紙のメモ帳のようなもの。
ここに何をかくかは、まったくの自由。
そんな状態。

踊ってもいいんだ、

歌ってもいいんだ、

暴れてもいいんだ、

そう思って、書き始めた今日のページ。

だけど、わたしは不安だ。

わたしは今度は本当に大暴れできるんだろうか、
またその気持ちだけで、終わってしまうんじゃないだろうか。

でもそれじゃ、今回はダメ、絶対ダメ。

今回は「しかたなかった」では済まされない。

そのときは、後悔してもおそい。

だから、たとえ孤独でもやるんだ。

だって、わたしはそもそも孤独だったんだから
今さら何を恐れるの?


籠の外がある。


籠の外、という世界がある。


本当のやり残しは、その世界の側にあるのではないか。


2013.07.14
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-14 13:54 | 自我復元を始めた理由

おしまいにしたい、という妄想 - 7月13日

「おしまいにしたい」

という感覚。

無明庵に出会う前から、おそらく、わたしが幼い頃から
漠然と、ときに明確に抱いている、妙な感覚。

わたしはこれは、自分の意思、だと思っていた。
今思えば、これは巨大な妄想、監獄。

わたしは幼い頃から、名言集のようなものを
よく読んでいた。そしていつもその実践を心がけた。
別にエラい人になりたいとか、立派になりたいとか、
そう思っていたわけではなく、ただ

「間違いたくない」

と思っていた。

それもまた別に100点をとりたいとか、他の人と比べて
優越感に浸りたいなどと思ったことは一度もない。
ただ、大人になっていく、あるいは、まともな子どもとして
生きるとは、間違っていない、という状態を指すものと
考えていたし、そういうものであるべきだと思っていた。

10代の後半になると、わたしは習慣的に
「間違っている、というのはどういうことだろうか?」
ということを考えたりしていました。
その当時は、わたしにとって「間違っている」とは、
つねにそれが「限定的、部分的である」ということでした。
枠があるという状態を、わたしはどこかで
間違っている、と感じていました。
何の根拠もないのですが、自動的に
そう考えるようになっていました。

わたしが最も恥じていたのは、
間違っていること、それ自体では
ありませんでした。

そうではなく、たかだか知れた枠のなか、
限定的・部分的である状態にも関わらず、
わかったかのような顔をしたりする自分自身を
わたしは大変恥ずかしいと思っていましたから、
つねに、自分の経験がいかに不十分であるか、
自分を戒め、その確認ばかりをしていました。


<いつになったら、この確認は終わるのだろう・・・>


とくに、何かが「わかった」と思い込んだ瞬間ほど
不快なものはない。なぜなら、
わかったとは「枠」の存在を認めた瞬間でもあるのに、
なぜか、それで安心したり、調子にのっているわたしが
顔を出すからです。

上から目線になる、他人事になる、ゆるむ
その瞬間です。

「にたつくな」という自身からの声がきこえてくると、
ハッとして、その自分の愚かさの毎度の繰り返しに
嫌気がさしました。

いつまで、枠の存在証明を繰り返すのだろう?
結局はすべてに枠があるんじゃないだろうか?
間違っていることから自由になる日なんて、
これからもずっと来ないのではないだろうか?

いつの頃からか、わたしは
「間違いたくない」と思うよりも、
「わたしは間違っている」という感覚を維持することが
日課のようになっていました。

それでも、わたしは自由になりたいと思っていて、
ジャンルを問わず、いろいろな本を手にしました。
読む、というよりも、「枠」という言葉をキーワードに
検索をかけているような本の探し方でした。

その当時、わたしが不満でしかたがなかったのは、
結局はどの本も、最後には「いいこと」が書いてあることでした。
どの物語もハッピーエンドに仕上がっている。
「タイヘンなこともあるけど、きっといいことはある」
という、ありきたりなストーリーが平積みになっていて、
もううんざりでした。

精神世界という分野の棚もときどき見ていましたが
うんざりするのがオチで、じっくり読むのが馬鹿馬鹿しく、
まるで金属探知機のように、気づけば本屋さんを
巡回運転しているような毎日でした。


いいことが一つも書いていない本が一冊、
わたしはやっとその一冊を見つけた。
それが『廃墟のブッダたち』でした。


「いいことが書いていない。嘘がない。」


無明庵の本に、わたしは食いつきました。
わたしにとって、これほどに「おしまい」を身近に
感じさせてくれたものに出会ったのは
はじめての経験だったからです。

おしまいにしたいという感覚、
わたしはこの感覚は、完全に
〝自分の意思〟だと思っていました。
・・・無明庵の本を何冊か読み終えるまでは。


「これでわたしは間違っている自分、
これからも間違い続けるわたしが証明された」


 ・・・ 証明された?


間違いたくない、そう思って生きていた頃の
わたしはどこへ行った?

本当にそれでいいのか?

間違ったままでいいのか?

なぜ間違ったままの自分に嫌悪を抱かない?

抱けない?苦しくないの?なぜ。

なぜ? ??

「わたしは間違っている」というのも一つの枠ならば、
なぜその枠は甘んじて受け入れているの?
・・・それ、おしまいじゃないよねぇ。

それでいいいの?へえ、それでいいんだ?
おしまいにしたいって、それ本当なの?


≪本当はおしまいになるのが、こわいんでしょ≫

 ― そうかもしれない


≪アンタは間違っているよ≫

 ― そうかもしれない


≪ぶっちゃけ自分のことなんてどうでもいいんでしょ≫

 ― そうかもしれない


≪君の明日は今日となんら変わらないよ≫

 ― そうかもしれない


≪一度も心から笑ったこと、ないでしょ≫

 ― そうかもしれない


これは昨日ふと考えたことだが、
こういう声に対して「そうかもしれない」と無気力に、
反射的に認めてしまうのだとしたら、
もうおしまいにしたいと無気力に、
自動的に思うのも当然だと思った。
だって、おしまいにしないでいる、
おしまいにしたくない理由が
どこにも見あたらないのだから。

こんなつまらない人生を、ずっと続けたいと
思える感覚のほうが、わたしにはわからなかった。


わたしはずっとこの
「おしまいにしたい」という感覚は
自分の意思だと思っていた。


でもこれは意思ではなく、
ただの妄想であり、監獄だ、ということに
わたしは気づかなかった。


わたしはずっと「おしまい妄想」の監獄、
籠のなかにいました。


枠の証明など、知的な行為でもなんでもなく、
監獄のなかで課せられた「宿題」であり
「日課」でしかない、そう感じはじめたのは
今年に入って自我復元をはじめてからでした。

無明庵の書籍に食いついたのは
このわたしのおしまい妄想ゆえだったと思いますが、
いったん無明庵の書籍から離れたのも、
「お前は本当におしまいにしたいのか?」
という、わたしにとって最も怖い問いかけでした。

さっきのように、無気力に「そうかもしれない」と
答えてしまうようなわたしがまともなはずもなく、
まともでもないわたしが描く「おしまい」など、
おしまいごっこでしかない、と思った。


無明庵の書籍からいったん離れてみて、
わたしは自分の人生のなかでやり残しはないか、
考えてみた。


そう考えてみると、うっすらと
籠のようなものが見えた。

籠の扉に手をかけて開けて出てみると、
そこは手足を伸ばせる世界だった。
手足さえ伸ばせなかったことに比べたら
よほど素晴らしい世界に思えた。
たとえ間違っていても、それでも、
なんとかやっていける場所だった。
そこは、生まれてはじめて、
「わたしが必要とされる場所」だった。

わたしは生まれてはじめて、仕事で、生活で、
趣味の世界で、誰かに必要とされる存在を経験した。

ある一人の人(以後、Pさん)との共同生活、
共同作業もはじまった。


違和感の冬眠時期、およそ10数年を過ごしました。


この時期のことは、またノートしたいと思う。


10数年が経って、2012年のおわり、
自我復元に出会って、わたしのなかの違和感が
疼きはじめた。


飛ぼうとすると、ドンとぶつかる。


なに、これ?


よく見ると、それは籠でした。
籠の外は、また籠だったのです。

入子状態の籠の連続、監獄。

手足を伸ばせるようになっただけで、
少し飛ぼうとしたらぶつかるような、
ほんの少し大きいだけ、の籠だった。

なんと10数年間、この籠のなかが
「世界」だと思っていた。
歩けるだけで満足し、飛べない鳥は
10年の月日で、飛ぶことも忘れました。

飛んでいきたい場所のイメージも
思い出せなくなりました。

そのかわりに、
籠という枠も感じずに済みました。
そこがわたしの世界、生きているすべて、
わたし自身になりました。

生まれてはじめて、有意義な時間を
生きていると感じました。
自分を犠牲にして得られる何かに
意味を見出していきました。
自分のことは別にいいんだ、と
心のどこかでずっと思っていました。

飛べなくてもいい、飛べないからこそ
出来ることもあるかもしれない。
飛ばないでいるからこそ、できることがある。
飛べない自分でも居ていい場所があったんだ。
ここがわたしの居場所だったんだ。


いつの間にか、わたしは
「間違いたくない」という初心を
どこかに置いてきてしまいました。


それを思い出すのに、
随分時間がかかってしまいました。


わたしにとって間違いたくない、とは、
限定的だとか枠だとかそういうことではなく、
そのそもそもの初心を思い出してみれば、
「まっとうに生きたい」という気持ちでした。

まっとうに生きていきたい。
まっとうに生きたと思って死にたい。

そう思ってきたはずです。

誰が?

当然、わたしにきまってる。

わたしを捨てて、生きる意味など
いったい、どこにあるだろうか?
どこにあっただろうか??
あるはずがない。あったはずがない。

間違いたくないと思ったのも、
今日、わたしがここで死んでしまったら、
「わたしの人生ははたしてこれでよかったのか」
と思うに違いないと、幼い頃から
ずっと思ってきたからだ。

その最期のときに

「これでよし」

と思えるかどうかだけが、もともと、
わたしの関心事だったはず。

まっとうに生きる、ということを
正面から扱っていたのが
10数年の後に出会った無明庵でした。

わたしにとってまっとうに生きなおす
最後にチャンス、一本の藁。
分割自我復元法にたどりつきました。


2013.07.13
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-13 11:58 | 自我復元を始めた理由

「無明庵との出会い」から - 7月10日

わたしが無明庵と出会ったのは、10数年前のことでした。

『廃墟のブッダたち~銀河の果ての原始経典』という本を、
たまたま、本屋さんで手にとりました。

サイトではなく、書籍という形で
わたしは出会いました。

わたしはこのような本を、ずっと探していました。
このような本とはどのような本かというと、

「自分はおかしい」
「自分は間違っている」

ということを、わたし自身に徹底的に言い放ってくれる、
そのような本でした。

なぜなら、わたしはずっと今の自分、今までの自分の人生に、
ただ、違和感しかなかったからです。
どこかがおかしい、何かが間違っている・・・

その頃出版されていた10冊を
いっきに読みました。

「ここには嘘がない」

そう感じたのを今でも覚えています。

それと同時にわたしは怖くなりました。
なぜなら、あまりにその内容は、わたしにとって
逃げ場がない、と感じたからです。

わたしは間違っている、おかしい、ということを
自分のなかで整理出来たまではいいのですが、
わたしに大きな不安を残しました。

そういう自分なのに・・・
自己嫌悪がなぜか、生じない。

この〝妙な違和感〟だけは、
ずっと残り続けたのです。

正確には、その当時、「自己嫌悪が生じない」
というふうには、自覚してはいませんでした。
その妙な違和感を抱いている自分が嫌で、
それを自己嫌悪ととらえていた、あるいは、
とらえようとしていたのかもしれません。

無明庵の書籍には、行法が掲載されており、
それをやるかやらないか、と迷っていたのですが、
そこで一度立ち止まり、
それ以前に、人生でやり残したことはないか?
十分に生き抜くことをしてきたのか?と考えました。

そのときのわたしの答えは、Noでした。

いったん行法の実践は保留にして、
社会の場で十分に生き抜こう、
やりたいことはすべてやろう、
それもしないで簡単に結論づけてはいけない。
そう考えて、わたしは無明庵の書籍から離れました。

ふりかえってみて今思うのは、
無明庵から離れたとき、少しほっとしたように思います。
というのも、無明庵の書籍に書かれていた内容のリアリティは
わたしは無視できなかったし、遠めから眺めて「なるほどね」と
思えるような、そんな甘いものではなかったからです。

わたしは怖かったのだと思います。

人生のやり残しをやり尽くそう、という言ってみれば
きこえはいいですが、実際は、わたしは怖くて逃げたのです。

ただ、皮肉にも、わたしが戻ったその世界は、

「ある意味で、やり残し」

でした。

やるべきこと、と表現したほうがしっくりきます。
少なくとも、それは真の意味で、
「わたしがやりたかったこと」とイコールではありませんでした。
ただその当時は、それこそが、
わたしがやりたいことだと思って生きてきました。
何の疑いもなく。

無明庵に再会するまで、つまり、分割自我復元法に出会うまでに
それから10数年の歳月を必要としました。
その歳月についても、おそらく、これからブログに
綴っていくことになろうかと思います。

その長い歳月は、
違和感が「眠っていた」時期でした。
それは、言いかえれば、
≪わたし自身をどこかに置いてきてしまった≫、
ということでもあります。

同時に、その長い期間の経験や出来事は、
≪わたしのすべて≫でした。

この矛盾に気づくまでに
10年以上もの時間がかかった、
ということでもあります。

≪わたしのすべて≫でありながら、
違和感は眠っていただけ、でした。

夢のなかとはいえ、その夢のなかでは、
わたしはひと通りのことをやったつもりでした。
やるべきことはやったと思ったのです・・・が、


 どこかに、違和感が残っている


・・・そうだ、まだやっていないこと、あの
行法をやっていなかったではないか。

昨年、無明庵のサイトがあることを思い出しました。
サイトの存在はどこかで知っていましたが、
読んだのは、このときがはじめてでした。
行法に関連する記事を読み、実践することにしました。

たまたまサイトで新刊の紹介がありました。
目次を読み、関心を持ちました。
そこに書かれていたのが
「分割自我復元法」でした。


昨日のこと。


わたしは一人、散歩をした。

この感覚、この違和感、見えている風景って何?
今歩いている自分って誰?
2時間歩いてもそればかりだ。

学生の頃も、ただただ歩いていて、
ずっとその違和感。
何かが間違っている、どこかがおかしい。

愕然とするのは、10年経っても、20年経っても、
何十年経っても、何一つ変わっていないことだ。

ここに何一つ新しいことがない。
考えていることもやっていることも、
結局は、同じことばかり。
慢性的な違和感は、ずっと同じまま。

では、この10数年という≪わたしのすべて≫とは
いったい、なんだったんだろう?
それ以前だって同じだ。
毎日毎日が同じことの繰り返しで、
こういう日々の何がおもしろいんだろう?

わたしは歩いているとき、笑えない。

いや、そもそもわたしは笑ったことが
一度もないのではないか?

2時間歩いていて、きこえてくるのは
たった一つの声だけ。

「にたつくな」

にたつく自分が嫌いだ。

にたつく、そういう作り笑いは、無駄な嘘だから。

Abyとは誰?わたし?わたしって誰?どこ?

わからないけど、たぶん、Abyは怒っていた。
刃物を持っているようなイメージが沸き起こる。

にたつくな、と喉元に刃先をあてている感じだ。


2013.07.10
Aby



●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2013-07-10 18:40 | 自我復元を始めた理由