カテゴリ:復元ノート 1( 156 )

契約を変え、未来を変える

「契約を変え、未来を変える」

今日、ここに書きたいことだ。

そして、10月末から11月へ、というこの切り替わりは、
私にとって大きな意味がある。

昨年のこの時、私は、Pの妹からかつてもらった金銭をすべて清算し、
その直後、母は自殺をした。
私は、動いた、と思った。
そして、11月からスタートした本当のACとの格闘。
あのしんどさは、私が生きた証だった。滅茶苦茶だった。

今日、仕事から帰りながら思った。

この一週間、私は、「楽しかった」と思った。
何が?というと、何が楽しかったのでもなく、
ただ、楽しかったなあ、と思えた。
ただそれだけだ。ただ、楽しかった、と。

こうやって、これからも生きていきたいって思った。

今日、仕事をしながら、ああ、生きにくいなあって思った。
しんどいなあ・・・でも、ふと、思うのだ。
だから何だというのだろうか。
生きにくくて、しんどくて、それのどこに問題があるのだろうか?

ここ数日、ある疑問にこだわっていた
それは、「なぜ、私は、過去、恐怖から逃げたのだろうか?」
という疑問だった。なぜだ?なぜだ?って、考えようとしていた。

そして、昨日、はっと気づいた。

そう問うことが、今、私がやることじゃない。
じゃなくて、問うのでなく、
「恐怖から逃げ出さなかった私がいた」という事実を見て、
ただそれを認めること。その事実を、今、見ること。

仕事中、どうしても強烈に反応してしまうAC人格がいて、
わかっているのに、反応しているのを見て、
これはどういうことなのか、考えた。

そして、それがなぜか、わかった。

「見捨てられたくない」という毒父の呪いが、
もうぜんぜん「いらない」にも関わらず、
その呪いが、行動の動機として、
まさにゾンビのように生き延びていたからだった。

「見捨てられないため」の言動パターン。
父にとって、母親に「見捨てられない」とは、
「お兄ちゃんと同じになりたい」だ。
おじろくとして管理されるんじゃなくて、
お兄ちゃんと同じように管理してほしい、
どうして、ボクはお兄ちゃんのように扱ってくれないの?

仕事をしながら、気づいた。
私の中で、ある前提が崩れていなかったのだ。

それは、

「どう管理してもらえるか」

ということが、前提としてあり続けていたのだ。

パートの先輩のRさんに対して、私は、どう対処しても、
AC人格の反応であるとしか、私には思えなかった。
どうしてそうなってしまうのか、というと、
はなから、Rさんからの「管理のされ方」に不満を持っていたからだった。

おじろくなんていやだ、
お兄ちゃんのように認められたい。
これだ。毒父のこれが私の中で暴れていた。

どう管理されるか?

それが問題だ、ということ自体、
そもそもがおかしいのだ。

見捨てられなくない、ということと、
「お兄ちゃんのように扱ってほしい、管理してほしい」
ということは、同じことだったのだ。

見捨てられないために、必死に生き延びようとしたAC人格は、
どう管理されれば、自分は見捨てられていないと思いこめるか、
つまり、「ボクは、見捨てられていないはずだ」を確認しようとする言動パターンだけ、
ただそれだけで、私は動いている、ということだった。

実際に起こることは
こういうことだった。

Rさんに注意される。
すると、ここで私は二つの反応以外、とれない。
一つは、平気そうなフリをしているが苛立っていて、相当、我慢している。
もう一つは、ブチ切れる。

実際にはブチ切れることはないのだけれど、それは見た目、ブチ切れてないだけで、
「妄想の中で」毒父由来の、狂気じみたキレ方を展開している。
「オレがもし本当に怒ったら、アンタの思うようにはいかねーぞ。
でも、オレが本当に怒らないから、済んでいるだけであって・・・調子にのってんじゃねー」
が、妄想の中の、狂った声だ。

たとえ、それを「表に」出したとしても、
実は、Rさんからすれば、たいした迫力もない「わがまま」としか見えない。
それもそうなのだ。だって、その大元の動機は、

「見捨てないでくれよ」

という弱々しい訴えでしかないからだ。

もうこれは、毒父がババ(父の母親)に対する姿そのものだ。
子どもだった私から見ても、まるで子どもが「なんでわかってくんないんだ」と
だだをこねている「大きな子ども」としか、私の目には映らなかった。
ただ、本人は、必死にキレているつもりになっている。
妄想通りにキレることすら、去勢されていることにも気づかずに。

ここで見るべきところは、
私がぐっと我慢しようが(私からすれば我慢してやってやってんだと思おうが)、
少々文句を垂れようが(私からすればブチキレるのを手加減してやってるんだと思おうが)、
Rさんからすれば、

「痛くもかゆくもない」

ということなのだ。

なぜならば、私のこれらの言動は、
「管理されよう」としているその前提から出発しているからだ。
そして、どう管理するかは、当然、Rさんの手のうちにある。

ここで、さらに重要なことは、
これらは、すべて、

「AC人格の妄想」

によって展開されている出来事だ、ということだった。

これは、今日も、そうだ、と思ったことだった。
現実というのは、まわりがどうか、は関係がない。
厳密には関係なくはないのだが、まずは、関係がない。
関係があるのは、ただ一つ、

「私に、何が起こっているか」

という、ただそれだけであり、
それが、私にとっての現実を構築している。

すると、見えてくるのは、そこにあるのは、
「ACの思惑、ACの妄想」それだけだ、ということなのだ。
だからこそ、枯れるべくして枯れさせる必要がある。

これは、職場だけでなく、最近強く思うことだ。

まわりを変える必要はない。

自分が、ここで、自分を生きればいいだけだ。
その結果、まわりに影響を及ぼすかもしれないが、
それは結果論であって、そもそも、私は、まわりを変えるその「必要」がないんだ。
そんな義務も責任もない。そんなのがあると思いこむのは、AC人格だけだ。
大事なことは、なぜ、まわりに影響を及ぼしたがるか、という
居ても立ってもいられなくなる自身の反応の原因こそ、暴かれなければならない。

Rさんに対して、どうして、管理されようとしているのか、
どうして、評価されて認めてほしいと思っているのか?
実は、私は、そう自分が思っていることすら、わかっていなかった。
Rさんに対して、そんなこと、思うわけないからだ(と思いこんでいたからだ)。

しかし、よく見てみれば、思ってもいないはずのその動機が、
私を反応させ、言動を刺激し、我慢させたりさせなかったりしている。
どう動こうが、ACだこれは、としか思えないのに、それしかできない。

それは、なぜか?

なのだ。

それが、ようやく、わかった。

これが、トラウマというものだ、と。

毒父由来のトラウマだ。

「恐怖」

これだ、と。

私には、自覚できていたところというのは、
今まで、AC人格のあまりに同じな行動パターン「まで」だった。
私は、おそらく、物心ついたころには、完全にAC人格であり、
そこにどんな恐怖が下味として「植えつけられていたか」は
まったく思い出せないようになっていた。
ただただ、その反応があり、たどっていけたとしても、
どうやら、見捨てられたくない、という動機のようなものから
私の行動パターンは作られている、そして、これは、毒父からの感染だ・・・

この、どうしても、「他人事止まり」になっている自己分析のまま、
私は、自我復元を続けてきた。
他人事といっても、必死だった。でも、思い出せなかった。

そして、今、

私は、具体的な出来事、トラウマを植えつけた決定的出来事を
思い出せたのではない。

この10日間、ワークをやり、堀り続け、関心の動きを監視し、
自問し、ノートをとり、日記を書き、考え、行動し、またワークをやり、を
ごちゃごちゃになりながらもやり続けた。

そのすべてが必要なことだったろう。

トラウマを植えつけた決定的出来事を思い出す・・・のではない。

私は、

「自我復元」をやり続けた。

それが、どんなに

「恐怖」

であったか。

私は、崩残さんから見捨てられたらどうしよう、
消されてしまう、この恐怖を経験し続けた。

そう。

私は、恐怖というものを、
実は、はじめて「自覚的に」経験してきた、ということだった。
40年の間、私は、恐怖など知らなかった。

しんどいこともなく、
苦しいこともなく、
いじめられることもなく、
差別されることもなく、
暴力をうけることもなく、
日常生活で不快なことは何もなく、
不満もなく、問題も何一つなく、
理想的な家庭で、理想的な人生を
私は歩んできた、と思っていた。

「恐怖」など、私には、
「無い」と思っていた。

この完全に麻痺した感情状態のまま、
私は、自我復元に入りこんだ。

自我復元で、私は何を経験したか?ときかれたら、
今なら、こう答える。

「恐怖」

だ、と。

私が、ずっと、思い出せないで「埋め込まれたチップ」、
毒父が埋め込んだチップ、そのチップの名前、それが、

「恐怖心」

というものだった。

年始、私は、毒父のトラウマを今年掘っていくことを誓った。
今、10ヶ月が経過し、私は、自我復元をはじめてから初めてこの言葉を使う。

「トラウマ」

思い出せなかったもの。

ワークをやっていることも影響しているかもしれない。
私は、この過去の「点」から、一秒も経過していないことを知った。
40年経った、というのは、本質ではない。
40年を感じているのは、AC人格であって、「私」ではない。
この「私」は、それが0歳か1歳かわからないが、その年齢のまま、
ずっと、止まっているのだ。

その「点」において、何を「思い出そう」とするのだろう。
その「点」において、そこにあるのは、
今、私が、何を経験しているのか、それだけであり、
自我復元で、私は、何を経験してきたのか、
その逃げられない経験とはなんだったのか、
私が、「逃げなかった」経験とは、何だったのか。

だから、なぜ、(思い出せない)あの時に逃げたのか?という問いでなく、
問うのでなく、今までも、今も、逃げないでいるこれは何なのか、

そうなのだ、

だから、私には、もうAC人格は不要なのだ。
そうはっきり言えるのは、今、私が経験し、その今、今、今、という連続の中で、
それはつまり、自我復元の中で、否、実は、これまで私が「私」という生を選び生きた中で、
私、この「私だけは」、あの、だか、いつの何だかわからないが、
恐怖というものから、逃げないでいてくれたこと、その事実、
恐怖から私は逃げなかった、逃げない私が今ここにいることを
強烈に示し続けてくれたのが、この、

「自我復元」

というものだったのだ。

「今、どこにいるのか」

それが自我復元だったとも言える。

ここでもない、そこでもない、
そうやって、AC人格の妄想の巣窟を暴いて暴いて暴き続ける。
これは、40年というすべての時間を、すべて否定することだった。

当然にして、今、たどり着きつつあるのは、
40年前という巻き戻しの、その最初だ。
最初とは、私が、「違った方向に歩き出してしまった」その最初のことだ。
恐怖を経験し、恐怖心から目をそらし、恐怖を忘れ、麻痺し、
そうやって歩き出してしまった「未来」。その本来の私でない私が歩いた未来が、
AC人格40年のAC人生だった。

未来とは、その最初の「点」から、
変えることが出来る。

それは、言い換えると、

「今」から、変えることが出来る。

それは魔法でもなんでもない。
私は、その時から、一秒も経っていないのだから。
40年経ったのは、AC人格だけである。

洗脳という、毒親が毒親であることの証拠隠滅の残忍さは、
「私」という主体を、完全に、鍵の開かない部屋に幽閉したことだ。
「私」は、「いないこと」にされた。トラウマに完全に鍵をかけたのだ。

先日、私は、またそれも仕事の帰り道、
真夜中、自転車を押しながら、こんなことを思った。

「長生きしたい」

と。

未来を変えたいと思った瞬間だった。

私は、もうそろそろ死ぬだろうと思ってきた。
なぜかわからないけれど、43歳から45歳あたりに死んでしまうだろう、と。
生前記憶を掘ったから、というわけでもない。
ただ、そう確信めいたものがあった。
きっとそういう契約だったに違いない、と特別な根拠があるわけでないが、
かなり、そう思っているところがあった。

そして、今思うのだが、
やはり、私は、「このまま」では、たしかに、
もうそろそろ死ぬことになっていたように思うのだ。
おそらく、なんらかの内科関連の病気ではないかと思う。

というのは、Pを守る、という業務の土台のようなものは、
自我復元に出会う前後、ほぼ完了していたこともあり、
後は、「残りも見守ること」という感じだけがあり、
その「残りを見守る役割」を放棄した時点で、AC人格のその私は、
生きていることは意味がなく、死ぬべき私となっていたように思う。

これは憶測でしかないので、あっていないかもしれないが、

ただ、言えると思ったのは、

私は、ここで、まだこの地球で、

全力で、全身全霊で、喜怒哀楽というのを経験し尽くしたい、

だから、まだ

「死なない」

ということ、別な「未来」の方向へ
私は進むんだ、ということだった。

43歳とか45歳とかで死んでいいのは、
AC人格なのであって、

私は、生きたい。

長生きとは、何も、80歳とか90歳とか、そういうことではなく、
あと10年でも、15年でも、精一杯生きた、というところまで、
AC人格でない私として生きたい、ということだ。

考えてみれば、

私は、今までも生きてきて、
未来など、描こうと思ったことなど一度もなかった。
自分が描ける、というそもそもの感覚がなかった。

「どうすればいいだろう」とか
「何をすればいいんだろう」とか

ふと思ったのだ。

そんなこと、時間が動いていない「点」に閉ざされたままなのだから、
本当には、自分の頭で考えられるわけがなかったのだ、と。
そんなふうに自問したつもりになったところで、毒親が「こうしなさい」とする解答を
血眼になって探す以外、AC人格の私に許されたことはなかったのだ。
どうしようが、どうしまいが、どれもダメなのだ。

理由は、

その未来は、「私」の意志による未来ではないからだ。

これが、今私が、今までの習慣で、
「どうしたらいいんだろう」と袋小路に入り込むことになるトリックだ。
そして、本当に、自分の気持ちに向き合えば、
「どうしたらいいんだろう」という自問すら、空々しく、
まったく徒労で、エネルギーだけが吸い取られ、ゾンビになっていくのがわかる。
自我復元、とくにAC人格との格闘のなかで、何度も何度も体験したのが、
この生体反応を奪われるという体験であり、何もこれは、格闘という大上段でなく、
日々の毎日の生活と仕事の中で、日々この瞬間に体験していることだ。

そうやっていくうちに、
「私はダメだ」となっていく。

「なぜ、どこで、私は恐怖から逃げたのだろう」
という自問は、一見、まともに見える。見えた。
ただ、私には、どこか空々しく、何かおかしいと思わせた。

それはなぜそう思わせたか、というと、
はっと自分を思い出したとき(たぶんそういう瞬間に)、
自分はダメだ、という方向にもっていこうとする力、
AC人格の罠の匂いを感じたからだった。

そこが、ひとつ、ターニングポイントだった。

私は、逃げてなんていなかったじゃないか、と。

逃げないで、やってきたから、
だから、今も自我復元、やってるじゃないか、と。

誰が、逃げているなんて言っているんだよ、って。
そう思った。

苦しくていい。

これが、こういうわけによるものなのだ。

苦しくていいんだ。
しんどくていいんだ。

だって、AC人格がもがいているんだから。
そして、私はそのAC人格と同化し続けてきたのだから。
苦しくて当たり前。むしろ、そう感じられてやっと麻痺していないことに気づく。

そこで、「私」が発すべき言葉は、

「だから何?」

なのだ。苦しい、しんどい、だから何?

今日も、仕事中思うことは、これだけだった。
だから何?苦しいなあ、しんどいなあ・・・ああ、そうですか、だ。
否、ああ、そうなんだ、そう感じているんだ、という、
それ以上でもそれ以下でもない。

そして、つくづく思った。

これが

「生きている」

という状態なのだ、と。

この、超なんでもない、すごくもダメでもない、仕事中の私。

このなんでもない私。

いったい、誰だ?

そんな私は無意味だ、とか、無価値だ、とか、
早く何かしろ、とか、まともなことやれ、とか、
そういう邪魔をした奴は!

「未来は、自分で、描くもの」

描けない・・・なんて言っていてはいけない。
そんなのは、AC人格にとって当たり前、描けるわけがない。
逆立ちしようが、何をしようが、自分の未来など描けない。
だからといって、描かなくていい理由にはならない。

描こうとしない、そういうように力を奪ったのは誰だったのか?
描いてもしかたがないんだ、どうせ、ろくなことも描けない、
間違うだけだ、間違っているかどうかすらわからないんだから・・・
そういう屁理屈を大展開させて、AC人格が歪みに歪むことで、
いったい、誰が得をしたか?

掘ってきたことを見るといい。

誰が得をしたか?

毒親だったろ、Pだったろ。

未来を描けないようにしたのは、誰だったか。
それを掘ってきたのが、自我復元だったではないか。
逆にいえば、何のための自我復元か。

私が、私の未来を、自分で描くという、
本来の力をとり戻すためだ。

そのために、トラウマというその過去の「一点」に戻るという
死にもの狂いの作業があったわけであり、
そして今、その一点に立ち、去勢された力、未来を描く力を
「つけて」いくこと。

生きにくいからなんだ、苦しいからなんだ、
しんどいからなんだ、だから、何なんだ。

そう、書きたかったこと、一番書きたかったことは、
私は、もう時間がないんだ、死を覚悟でやっているんだ、
という掛け声があって、とくにここ一年は、掘ってきたし、
自分でモチベーションを保ち続けてこられた。

でも、もう、そういう「刺激」はいらないし、
私は、死なないことにした。
時間はあるし、生きるんだ。
こう思うことは、私にとって、避けたいことだった。
あと一年必死で生きて満足して死ねればいい、というのは、
はっきりいって、怠惰であり、それは、今までのPに尽くすACの根性と同じだ。

今までの契約なら、それでいいだろう。それでよかったろう。
だって、十分Pに尽くすに尽くしてそれで本望だ、というのなら、
「やりきって死ねば」それで満足だろう。AC人格は。

やりきる、というのは、毒親の課題でしかない。

でも、私は、やりきるもなにも、まだ、
何をやるかも描かれていないわけであり、描いていかねばならないのであり、
それは、たとえ、死んだとしても、「次はどうしますか」が待っているのであり、
この今生きているこの地球で、まともに頭を使えないのなら、死んでよりよくなることは
絶対にない。

Pに尽くす人生だった。

その契約を変える。

それは、今から、絶えず、未来を作り続けていく作業だ。

それは、今、私は生きているか、を自問し続ける作業でもあり、
ここが恐怖のさなかでもいい、それでもいいから、今どこにいるのか、
本当にそこは、私がいる場所かどうなのか、徹底的に問い、
そうやって生きていくということだと思う。

そのなかにあって、

旧契約の出番など、どこにも、ない。

私が今やることは、宣言することでなく、
本当にやるかどうか、自分の生を貫いていくかどうかだ。
行動で示さねばならない。それも当たり前のことだ。
私が変えたいのは、行動、そう、毎日、読んでいる自分の宣言文にあるように、

「私自身が欲したものを、欲するように経験し、
喜怒哀楽と、人間に固有のさまざまな感覚を経験すること」

利他性と称して、他人に尽くす生き方でなく、
強烈に、私自身が、生きる生き方。

年始、「苛烈な一年にする」とブログにも書いた。
でも、これは、この一年のことでなく、この一年で終わることでもない。
この一年から、苛烈な生をスタートさせていくのだ。

最初に書いたけれど、今日、ワークをしながら、
仕事の帰り道、「楽しいなあ」と思った。
ただ、そう思った。きっと、未来を向いているからだと思う。

あの交差点は不思議な地点だ。

先日は、ちょうどそのところで、
「契約を変える」と口にした。
その思いが、今日、この10月という大きな節目とする記事を書いている。

そして、今日は、この中心の圧力が強まりながら、
この「圧力のようなもの」は、私には、今まで以上に、
「重力」という重さに感じられた。

これはまるで、私のこの頭のなかに、
「胎児」が丸まって息づいているかのように、
その子どもの「重さ」「体重」を私は感じていた。

そうかもしれない。

今度は、私自身が、この子の産みの親となり、
育てていく番になったのかもしれない。


2015.10.30
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-30 08:06 | 復元ノート 1

④球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り

『③球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』の続きです。

・・・

最後に、今日、わかったこと、毒母によるトラウマについての報告になります。

今まで、毒父による洗脳を中心にAC人格を分析し、解体し、解除しようとして
きたことが多かったです。今回は、かなり、母親に焦点をあてる結果となりました。
意図せず生前記憶を探ることになったのですが、今日も、私が幼少の頃、それも
乳幼児頃の時期をたどることになりました。

今日も、まずきっかけは、そもそも、日々よく遭遇する不快からでした。
今日もそうです。同じパターンで本当に嫌になります。めんどくさい、
しかたがないからやるんだ、やらなきゃならないことばかりだ、時間がない、
本当は何もしたくないんだ、怒られるからやっているんだ・・・
もう、いい加減にしろよ、と思うけれど、これが強烈に習慣化している。
先日も思ったけれど、何かしたいと一瞬感じても、その直後、もう妄想は
暴走している。めんどうだ、から始まり、やめる理由を考えていると思えば、
それはよくないことだ、と言って無理してもやろうとする理由を考え、
これでいいんだ、と思いこめる正当化に完全暴走する。それは、あっという間だ。
本当にすごく短い時間で起こることであり、しかし、そこに、AC人格の
最低最悪な習性のすべてがある、というふうに思えるほど、その醜さを
まざまざと見せつけられるのです。

こういった「強烈に習慣化」したものは、おそらく、相当に習慣化した中で
培われたものであり、日々の私の行動を監視し、具体的に声をかけ続け、
習慣的行動を調教した、という意味では、圧倒的に父よりも母の方が長い時間、
接してきたと思います。毒母の毒です。

関心地図をやったり、あるいは、朝起きて、まず私が何を考えるか、
その傾向が強いのが、「今日、これから何をするか」という予定に関することです。
それはこれから何をしようか、というワクワクするものではまったくなく、
「何をこなさないとならないか」という、いやいややる、という設定に
なぜか、なってしまうところから、「やるべきことリスト」が自動作成される、
そんな感じです。

今日思ったことがあります。もしも遊園地に行って、10のアトラクションに
乗りたかったとして、今、1時間待ちのアトラクションに並んでいたとして、
私は、早くこれ乗って、早く済まさなきゃ、でないと、あと9乗れない、と
そういう気持ちで並んだりするだろうか?と思うと、そんなのはありえない
わけです。これから乗るその「1つ」のアトラクションを楽しみに並ぶでしょう。

どうして、私は、こういうように、日々のことも考えられないのか?

私の日々は、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ、やっと一つやった、
まだあれもある、明日に持ち越しだ、明日になればなったで、今日には
やらなきゃ、ああ、またやることが増えた・・・

おかしいんじゃないか、と思った。

誰のために、やっているのか、と。

どう考えても、今の時点では、というか、成人してからは少なくとも、
親が出てきてあれやれこれやれと言ってきているわけでもないわけで、
一見「やらねばならないこと」に見えても、大人になれば、誰も強制などして
おらず、死ぬことすら、勝手にすればいいのだ。
本来、子どもであってもそうなのだが・・・

つまり、そういうことなのだ。

子どもの頃に、その「誰も強制などしていない」という「正しい見え方」に
歪みが入ったのだ。つまり、親が強制した、ということであり、それに
私が屈してしまった、ということだ。

「食べるのもめんどくさい」のなら、食べなきゃいいわけで、誰も頼んじゃいない。
「しかたがないから」とばかり言い続けていた父。
しかたなく生きてきた父。今まで掘ってきたように、ただ、死ねなかっただけだ。
親に殺されるのが、親に見捨てられるのが怖くて、屈することに甘んじた。
しかたなく、というと、どうも誰かのせいのようにきこえるが、
しかたがない、というこの告白こそ、そういう屈する選択をしたことの表明でしかない。

こういうAC人格が、どうしても直視したくないと抵抗するものがある。

「しかたがなくなんてないよ。いやならやめたら?べつに誰も頼んじゃいない」

こう言われたら、とり乱すのは必至だ。父に私が意図せずそう言ったことが
過去あった時、まるで父親という尊厳が奪われたかのごとく、とり乱したことがあった。
今思うと、それがなぜだか、わかる。

「べつに、死にたいのなら、死ねよ」

と言われているのと同じだからだ。

で、私自身のことに戻るが(私自身もその父のACと同じなのだが)、
その「やるべきこと」「しかたなくやらなきゃならないこと」というのを、
もしもやらないとすると、どうなるというのか?

実は、どうにも、とくにならないのだ。

今日、「じゃあ、何もしなけれりゃいいじゃん」という地点に、では、
とどまることができるのか?ということを自分に課してみた。

これは、そうしてみる、と考えるだけで拒否したくなることだった。
だけれど、5分でも、やろうとやってみた。

まず何が起こったか。

最初に思ったのが、「でも結局やるべきことをやることに戻るんだ」と
考え出した。

次に、こう考えることで、だから今やっているそんな直視なんて意味ないよ、
と言ってくるAC。次に身体的攻撃として、「眠くなる」だ。

そこを越えたとき、「母の毒」に遭遇した。

毒母の声が、きこえた。

「ずっとそうしてなさい」

そういえば、と思った。怪談として紹介された動画で私が関心をもったあの動画の
どこが一番、ぞっとしながらも、印象に強く残ったかといえば、

「ずっとそこに」

というあの言葉、あの音声だった。

「ずっとそうしてなさい」が意味するのは、
(母の)言うことをきかないのなら、
あなたを放り出し、ワタシは行っちゃうから、すきにしなさい、
そういって「見捨てる」感じだ。そうやって言うことをきかないのなら、
ずっとそうしているといい。ずっとそうはしていられないようにしてやる・・・

これが、「見捨てる」という脅迫の仕方だ。
無視とも言えるが、ここには「このままだと、あなた、死ぬよ」という脅迫を
こめた死活問題につながる無視のことであり、見捨てる、という脅迫の仕方だ。

私の母の場合の「言うこときかないのなら」とはどういうことだったかというと、
感覚の記憶として思い出すに、「やることをやりなさい。今やりなさい」という
母の命令に対して、そのやるべきことを今やらないのなら、という、そういう
意味だったと思う。後でやる、が選択肢として無かったと思う。

「何をすべきか」
「やるべきことは(早く)やりなさい」

この声の呪縛が私にはある。「早くやらねば、やることをとっとと片づけねば」
というのが、ずっと私を支配している。
これは、あまりに日常レベルの些細な事柄に端を発することがほとんどゆえに、
いつも、これによってACが暴発することへの監視を見逃してしまいやすい。
構えていないがゆえに、恐ろしい罠なのだ。

この報告の中でも書いたことですが、母に対しては「(もう)やった」という
返答をよくしていたように思う。できた、というのも、ちゃんとやった、
という意味に近い。これまで、私は、「うん、やったよ」という返答など
ここに毒性があるとなど考えたことがなかった。それに、私は、そう母に
答える会話(とは到底いえないが)を、「嫌だった」という記憶がなかった。
うるさいな、と思った記憶もない。でも、AC人格分析とは、強迫観念を
掘ることでもあることであるから、今回も、ここに恐怖は植えつけられて
いなかったのか?という疑問から、母への疑いを強めていった。

「ずっとそうしてなさい」

ああ、そうしてるよ、となぜ言えなかったのか?
今日のそのわずかな時間であっても直面した問いはそこだった。
なぜ、ずっとそうしていられなかったのか?

ここに脅迫観念が根付いていたからです。

そもそも、この「ずっとそうしてなさい」とは誰の言葉だったか?
これは実は、母の母親の言葉だったと思われます。

過去のブログにも、こう書いたところがあります。
抜粋します。

・・・

今年の夏に母からきいた「母の母親」に関する話で
気になっているエピソードがあった。


それは、


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」


と、自分の母親から言われたことに対して、
すごく母が怒っていることだった。
この話になると、母の恨みの感情が全面に出てくるので、
わたしはどこかひっかかっていた。


母は末の娘で、年の離れた兄ばかりがいた。
父親は暴力を振るう人で、標的は兄や妻だったという。
一方、娘(わたしの母)にだけは甘く、物もなんでも買い与え、
孫のような育て方だったようだ。

母の母親は、母の兄たちを守るべく、また自分も逃げるために、
いつ娘を置いて家を出てもおかしくない状況だったようで、
娘だった母は、母親の姿が見えなくなると、毎日のように
泣いていた、ということだった。

(中略)

「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」

という言葉を、母はどんな場面で言われたのだろうか?
それが気になったので、確かめたくて話をきいた。


暴力のあった家庭。
いつ、兄や母親に暴力を振るうかわからない父親。
母の母親は、兄たちを守るために、いつでも家を
飛び出していけるような態勢。
落ち着くことのできない家。
仕事も忙しくて相談もできない母親。


でも本当は父でなく、わたしの母は「母親」に甘えたかった。
母親に目を向けてほしかった。
相談もできない状況だったから、反抗期もなかったという。
それどころじゃなかった、と。
不穏な家、いつ母親が出ていってしまうかわからない状態。

そうやって家を出て行きそうになり、いつ自分が置いていかれるか、
いつ娘のわたしが見捨てられるかわからない。
急にいないことに気づく。


・・・今日は家に戻ってきた。

・・・今日はまだ帰ってこない。


どこかに行くときは、紙に書いてわたしに渡してほしい、と
頼んだことがあったみたいで、ある日、手紙が置いてあり、
「〇〇へ行きます」と書いてあったのを母は見つけ、
すぐに家を飛び出して、でももう姿は見えず、泣きわめいた。
無事帰ってきたものの、このときの不安な気持ちを母親に訴えても、
「そんなこと言われても、わたしにはわからないよ」と
話にものってもらえなかった、ということだった。

「わたしは仕事で忙しいんだから。これしかないんだから」
の一言で片づけられたことに、母は今でも強く恨んでいる。

(中略)

仕事にかこつけて、娘を見捨て、兄だけをかばった母親を
わたしの母は恨んでいた。そしてなにより、母にとって
決定的だったのは、いくら泣きじゃくっても、


「わたしは人の心とか感情とかわからないんだよ」


と、感情そのものを否定されるようにして、
有無を言わさず宣告されたことだった。

(中略)

泣き喚いても戻ってきてくれなかった母。
高校生の頃、結局は、母親は兄たちを連れて、夫からの
暴力から逃げるように、出て行った。
娘と夫を置いて、娘を見捨てた。

母は泣いても泣いても、
「わたしにはね、人の心とか感情なんてわからないんだよ」
と言われて、話もきいてくれず、兄たちからは
「泣いてばかりで自立できない、ダメなやつ」と侮蔑された。

母の母親は、その兄の味方をしたのだ。

母はきっと、感情を自制できず、これを自立できていないことと
思いこみ、「感情を押し殺せない自分はダメだ」と自己否定に
至ったのではないだろうか。だからわたしは母に捨てられたのだ、
とさえ思っている可能性がある。

・・・

以上、過去のブログからの抜粋です。

「ずっと泣いてなさい」

母が子どもの頃、自分の母親から受けた仕打ちだ。

ずっと泣いているのなら、あなたのことは放っておきます、という仕打ち。

母は泣くのをやめたに違いない。

そして、当然に、「私が」泣くことを許さなかった。

夜泣きのエピソード。

開口一番、私が子どもの頃、何が大変だったかという話は、
その「夜泣き」だった。

そして、不思議にも(実は不思議ではまったくないことで)、
母いわく、私は泣かない子どもだったという。
私も泣いた記憶がほとんどない。

覚えていないけれど、母は泣いている乳幼児の私を
暴力的な手段で「泣き止ますこと」はしなかったかもしれない。

でも、もっと残酷なやり方をとったのではないか?

泣かせ続ける。

でも、私が泣く限り、無視する。
これは、子どもにとって、とくに乳幼児にとって、即、死を意味する。
私の子ども時代の聞き取りの際、母がこんなことも言っていた。
「おなかがすいても、我慢させることも教えたわよ」と。
いつでも望めば、ご飯が出てくるわけじゃない、
こっちは女中じゃないんだよ、ということを教えるためだったという。

そういう母が、乳幼児の頃の、その一番悩ましかったと話すその頃に、
母のトラウマがからみながら、私に何をしたか、は、想像がつく。
覚えてはいないけれど、おそらく、私は、

「泣いていたら、このまま泣いていたら、私は死ぬ」

という恐怖を体験したに違いない。

実際、一つ前の生前記憶が正しければ、私は実際に殺されたのだから。
ただ、今回は生き延びた。でも、それは、死に延びただけだ。

「早くやらねば罰せられる」という処罰者をずっと置いたままだ。

この処罰者は誰か。それが、私の母だったのだ。

そして、今、なぜ、その母は目の前にいないのに、
その処罰者をずっと立て続けているのか?
言い換えると、なぜ、「処罰者をわざわざ立てたりして」そうまでして、
なぜ、「ずっと、そうしてなさい」という地点から目をそらすのか?

なぜ、ずっとそこに、いられないのか。

ずっとそうしてなさい、と言われて、
なぜ、私は、ああ、そうしますよ、と最大限の抵抗をしなかったのか?
今やっているワークの、この「中心」で闘うことをせず、
なぜ、枠の外に出てしまい、中心を二度と思い出さない人間になったのか?

中心に戻ること。

それは、自分を裏切らないことだと思います。

自分を裏切ることなく、それでも、「すべてを観る」というのが、
本来の自我ではないか。

先日の日曜の朝、稽古着をとろうとしたその瞬間、
ふと、この球体って、「自我」のことだ、と思った。
まったく、そういうことは考えたこともなかったから、
あっ、と思ったのを覚えています。

先ほども書いたことですが、この球体のイメージで、
球体内が闇のようになり、外側の雑音や妄想を「遮断する」イメージもあれば、
逆に、三次元スポットライトのように、球体内が、知覚をきりとっているかのように
その球体の外側がまるで闇のように思う時もあります。

少し、これがどういうことで、イメージが切り替わっているか、ということが
わかってきたように思います。
おそらく、外に足を踏み出してしまいそうな時、つまり、中心を失いそうな時は、
外の雑音や妄想から「ガード」するようにして、内側を闇で満たす。
すると、落ち着いてきます。
そして、球体を「広く」して、関心とは遠くにあるものであることを思い出します。
中心に戻る、中心に休む、ということです。

一方、中心にいると、不思議に、球体内に雑音や妄想が存在しても、
それはあくまで知覚対象として流れ去る妄想の類でしかなく、前回の報告でも
書かせていただいたことですが、無影響な校内放送のように思えてきます。
ここではじめて、「ぜんぶ見る」というのが、できるようになります。
今取り組んでいる「不安」についても、対処するのでなく、不安だろうが
なんだろうが、ぜんぶ、見る、というものです。
そもそも、「掘る」というのは、いかに、このぜんぶ見る、という位置に
戻れるか、ということだと思います。直視ということの本意だと思います。

そして、先ほど、球体を「ガード」と書きましたが、今回の報告でも
書かせていただいたように、実は、「私が」「中心から飛び外れない」あるいは
「戻ってこられるための境界線」というものではないか、と感じています。

このワークは、やればやるほど、崩残さんがおっしゃっていましたが、
様々な様相を見せてくれて、その都度、掘り残しをガンガン掘り進めています。

今さら、ここまで報告文を書いていてこう言うのも自分でおかしいのですが、
分析があっているかどうかは、第一にはなっていないみたいなんです。
私は今、こうやって、掘っていくことが、やっぱり楽しいです。
結果として、ACを抹殺すればいいのであって、立派な理屈をこねることでも、
見栄えのよいブログにするのが目的でもなんでもない。
もちろん、分析内容は大事かもしれないけれど、前世記憶のことなども
こんなふうに、今日などは思いました。

それが間違いでも、ならば、そういう前世だったことに
書き換えてしまえばいい、と。
私は、今、そうまでしてでも、残る課題を殺しきりたい。
それは行き過ぎかもしれませんし、問題があるかもしれませんが、
ならば、その問題にも、私は、逃げず、ぜんぶ、見たい、聞きたい、と思います。

ACのどんな挙動も、どんな言い分も、きいていい。

だけれど、自分を救出してからにしろ、と。
それをせず、AC人格だからこうなんだとか、つらいとか、
私はもう聞き飽きました。泣き言はもういいです。
そういう時間こそ、無駄、です。
そんな時間など、一秒も残されていないんだって。

昨日の日記にも書きました。

阻害されたものがある。

それゆえに、やり直そうとしたのだろう。
同じ毒親とPとの、その関係の中で。

やり直すのなら、

「新地」

で、やり直せばいい。

苛烈な一年にすると年始に宣言しました。

残り二ヶ月と少しです。

精一杯、生きようと思います。

長い報告文となりました。

いつも読んでくださり、ありがとうございます。

また報告をさせていただきます。

Aby


・・・


2015.10.21
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-21 11:58 | 復元ノート 1

③球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り

『②球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』の続きです。

・・・

職場のACとの格闘についても、少し書いておきたいと思います。
これは、かなり、観察できるようになってきています。
ただ、反応はしてしまいます。心臓がバクバクするほど反応している、
ああ、反応しているな、と感じることもあります。
女性のR先輩を介しての妄想が、ACを刺激することが多いのですが、
ただ、今、ようやくこう感じるに至っています。

刺激されているのは「ACだけだ」と。

最初は、どう対処しようかと考えることが多く、今も、ふとそう考えがち
ですが、どうもへったくれもなく、ACなのだから、先ほどと同様、
「枯渇」させればよい、と思っています。
餌など与えてやらねばいいだけです。「事実」が枯渇させていくだけです。
AC人格は、餌がなくては反応すらできない人格ですから。
これは、自他共に、どんなACであろうと、ACは「枯れ尽きるのみ」です。

もう一つ、これは、今、仕事中に私に起こることなのですが、
接客時には決まり文句があります。たとえば「ありがとうございます。
またお越しくださいませ」など。日によって、どの言い回しが、というのは
変わるのですが、一度、つっかかると、どんどんと言えなくなり、
どもるようになり、昨日に至っては、「ありがとうございます」の「あ」を
発音するまで、1秒以上かかる。これは、すごく長い1秒で違和感があります。
この原因は、おそらく、まわりの目なのです。間違ったら恥ずかしい、へんな言葉
になったのをきかれたら恥ずかしい、という意識がずっと働いているようなのです。

ただ、私は、この「どもる」というはじめて自覚した自分の出来事に対して、
今、チャレンジしています。どもるがために、まったく自動的でなく、
意識的に行わねばなりません。もちろん、それがどもりを促進しているのかも
しれないのですが、しばらく、「意識的に」言葉を出してみようと思います。
今は私は、この自動的でない出来事が、ちょっと自分でもへんだと思いますが、
楽しいと感じてもいます。この件は、どうなるかわかりませんが、あまり
へこむことなく、向き合っています。へこみそうにはなりますが。

話をもう一度、戻します。

16日の日、私はまた、あの交差点にさしかかった時、
渡りきる直前、こう声に出した。

「P。■■■■■(←Pの姓名)、さようなら」

と。断ち切った。Pとの決別の準備はできた、と思った。

11月*日が、母が死んだ日ですが、こうやって声に出したとき、
私は、その日までに、けじめをつけよう、と思った。はっきり言おう、と。

ただ、今は、はたして今何かを言うかどうかはわからないと思っています。
ここを墓場とし、Pとの関係を「枯れ尽くすまで、見届ける」ことは確かです。
わかりませんが、ただ、もうすでに、私の姿勢は、そこに向かっています。
それにそった言動を、毎日、取り続けるでしょう。
それは、ただ、実行していくのみです。何の価値観でも理念でもなく、
目的ですらなく、決まっていること、決めたことであり、
ただやっていくのみです。

この日は、日記に、年内に2度目の自我判定依頼をしたい、ということも
書いています。この思いは、今もあります。そもそも、もう残された時間は
ありません。そして、その焦りから依頼をしたいのではなく、
残された時間がないという事実のなかで、はっきりと、自分自身を私自身が
ちゃんと把握したいためです。その時期にあると思うからです。
何が今の時点で、残された課題なのか、それを絶対克服していくために、
確かな道を自分で作らねば、と思います。

自我復元に関して、私は努力賞などないと思っています。
失敗したらその事実だけが残ります。
私は、どうしても、この生で、自我をとり戻したいのです。
たとえその直後死滅しようが、です。
それが、自分を裏切らないことだと思うからです。
自分を裏切らないために、私は生きていますし、
自分を裏切らないために私は生きた、とそうはっきり言える生を送ります。

16日は、私にとって、記念すべき一日だった。

二つのことがあった。

一つは、ある銀行の口座、そしてそれに付随するクレジットを解約したこと。

この口座は、私が18の頃、私の父が(私が未成年だったために)代理で作った
私名義の銀行口座だった。奨学金の振込みと年金の支払いという必要性から、
保護者として作ったのだと思う。少し前まで、暗証番号も父がつけた番号だった。

もちろん、大学生の終わり頃からは自己管理をしてきたし、当然、銀行印など
手続き関係も自分でやってきたわけで、なんらここに父が関与したことも、
お金を受け取ったこともない。が、しかし、気持ち悪いものだった。
これを今回、完全に断った、解約したことで、父との関係に、しっかり
けじめをつけた。

思わず、「長かった」と書いてしまった。18の頃からとなると、24年間だ。
受付の窓口の方が、「長い間、ありがとうございました」と言われた時、
感慨深いものがあった。なんだか、長い間、刑務所にいて、出所するとき、
「おつかれさまでした」と、看守に見送られるような、そんな気分だった。
大袈裟でなく、そうして外の空気に出たように思ったほどだった。

もう一つは、その手続きの後、固定回線の工事があり、ようやく、光回線が
開通した。これで、新しいPCにネットが接続できるようになる。
デバイスという言葉も、プロバイダという意味も、何もわからないところから
なんとかやってきた。ウイルス対策もはじめて自分で行った。
ほんと、ドキドキだった。無事、PCは動いた。

固定回線にするということ。これについて、私は一つの覚悟があった。
私にとって、固定回線にする、ということは、ここでPと決着をつける、
という意志でもあった。不思議だ。固定回線の工事が済んだ時、私が思ったのは、
いつでもここを出られると思ったことだ。敗北感を抱かずに、だ。
いつでも逃げられるノートパソコンや無線回線にしなくてよかった。
そうしたことも関連して、ここをACの墓場にしてみせる、という決意も生まれた。
私自身のACを殺すことも当然だが、それだけでなく、Pとの関係性、
その関係性に組み込まれたAC同士による契約の破棄、これもやる。

そして、ふと、そうだ、11月も間近だ、と気づいた。
母の自殺した時期だ。今、また一つ、大きく状況は変わろうとしている。
マイナンバーの件も、10月下旬から、私にとって修羅場になるだろう。
11月、昨年の11月は、今の仕事と出会った月でもある。
しかし、場合によっては、解雇されるかもしれない。でも、思う。
私は、徹底的に自分を貫くだろう。しかしそれは、会社を敵にまわすことじゃない。
むしろ、私はこの会社を「自分で選んだから」、だから、闘えるのだ。
私はこの会社に助けられた。この会社に面接で採用となった後も、ピンチはあった。
でも、それでも、結果、ここに残れた。自分でも誇りに思うのは、どの局面でも
媚びたことはなかった。だから、今の、ここでの自分がある。
だから、その自分を今回も貫くだけだ。この会社は僕は好きだ。
でもそのことと、媚びることは、まったく関係がない。むしろ、媚びないで
それでもやってこれたところだからこそ、私は、おおいに闘うことを誓う。

Pともトラブルが起こるだろう。だけれど、Pに言えることは、もう私は
(まだ解除しきれてはいないけれど)、「不安OKを生きる」ことに決めたのだ。
そういう私が嫌なら(嫌に決まっているだろうが)、あなたが去ればいいことだ。
物理的なことだけを言っているのでなく、いられなくなるのはあなただ、という
こと、それは、つねに、いられなくなるのはAC人格のほうだ、ということ。

この日の終わり、日記に書いたことがあります。

それは、今まで、Pと私は、あたかも共依存というお互いさまの関係に
あったかのようなストーリーであった、と思っていました。
Pが私を利用してきたように、私もPを利用してきたのだ、と。
それはそうなのですが、そこにとらわれるたびに、Pだけが悪いわけじゃない、
というところから動けなくなっていました。

この日、私は思い切って、自分で認めたことがあります。
私はPといて、あなたといて、それだけで楽しく、あなたが笑ってくれるだけで
私はそれだけでよかった、幸せだと思った、Pといて私はずっといつも楽しかった、と。

でも、それが「大間違いだった」ということ。
先ほど書いた通り、私の思いこみ、その強烈な投影だったこと。

その大間違い、では、P、あなたは、「私といて、楽しかったか?」ということに
あなたはどう答えられるか?「楽しかったよ」と嘘をつくことはできるだろう。
でも、私はこの時、理解しました。というか、思い出しました。
私は、Pが私といて楽しかったのなど、見たことがないことを。

ここに非対称な関係を発見しました。

「私だけが」Pといて楽しかったのです。
ではPはなぜ私といたのか?それは、掘ってきた通り、「便利だったから」です。
かつて、Pは私に言ったことがあります。なぜ、ワタシといるのかわからない、と。
ワタシはわかるよ、でも、▲▲(かつてのニックネーム)がワタシとなぜいたいのか、
わからない。もしも、▲▲がワタシといたくない、嫌いになったら、その時はおしまい
だと思う・・・というようなことを、Pは話したことがありました。
これは、本音だと思います。

Pにとって、私は、全自動身体洗い機のように、「楽」をさせてくれて、
そして、彼女の価値観を守る護衛のような存在でした。
Pから見れば、なぜ、そんなことをしたいのか、意味不明なわけです。
ただ、私には、わかっていました。
私は、「そうすることで」、彼女が笑ってくれる、明るい顔をしてくれるから、
それが嬉しくて、それが私の生きがいだったから、やっていたのです。

でも、今や、その「明るくあってほしい」というのが、まったくの
トラウマ由来の願望で、つまり、「嘘」であるのなら、私はもう、
Pを守りたくもなければ、Pが楽をするための道具になりたくもない。

Pが笑っていた、と私が記憶しているのは、それは私といて楽しかったのではなく、
便利だったから、楽だったから、責めないでいてくれるから、だから日々、
普通に笑っているその笑顔を見て、私は、彼女の「幸せ」を感じていました。
そう、思いたかった、ということです。ここに強烈な思いこみがあります。
でもよく見ると、一方で、Pが私といて楽しかったとは、まったく思えないのです。

何が言いたいか、というと、まったく「すれ違っている」ということです。
Pは私にいつかこう言ってくるかもしれません。
「あなただって、楽しかったでしょ。あなただって、私を利用したじゃないか」と。
でも、今、私はこれに対して、違う、と言えます。

「利用した」のは、あなたであり、
「楽しいと勘違いした」のが、私だった、と。

共依存関係の解体作業です。

この解体は、当然ですが、私が徹底してAC人格を解除していく覚悟からしか
できません。Pにはできません。する気もないでしょう。
利用したかもしれないけれど利用されもした、という主張で終わるでしょう。
それはしかたないことで、そこが、AC人格がやれる精一杯の正当化だからです。
逆にいえば、私にとっては、それが最大の罠、保身になります。
が、もう、不要です。

「新地」

という言葉を、昨日、日記に書きました。

もう、私には、共依存関係という「旧地」には用はありません。
新しい地で、新地で、ことを進めていけばよいだけです。

10月16日。この10月の中間地点は、大きなターニングポイントになったと
自分で思いますし、自分でそうしていかねばなりません。

18日。この日も仕事の休憩時間、夜ですが、職場の前の空き地、そこは
本当に今までいろいろあった場所です。毒父と最後に電話で言い合った場でもあり、
Pの母親と電話で言い合った場でもあり、それもすべて、仕事の休憩時間、
そこで闘ったことでした。

その空き地で、その日も球体のワークをやっていました。

今までと違うことがありました。

球の大きさなのですが、今までは、崩残さんからアドバイスをいただいたように、
あまり無理をしないで、頭蓋骨くらいの大きさで慣れようと、やっていました。
ですが、この日、その「大きさ」をぐっと広くすることができたのです。
可変になったのです。

その理由はすぐにわかりました。

関心というのが、「遠くにある」という理解が深まったからでした。

遠く、というのは、具体的な数値がある距離基準ではありません。
それはむしろ、性質的なものでした。

遠くとは、「球の外」を意味していました。

ですから、小さい球であろうと、大きな球であろうと、その外が「遠く」
なのでした。逆にいえば、どんなに球を大きくしようとよくて、その外が
遠いのです。最初は、この「遠い」という感覚から、球の大きさは自然と
大きくできた、というふうに思います。

重要だと思ったのは、どの大きさがよいかどうかとかではなく、
大きさは自由に変えられるということ。この感覚は、次第に、
「この球の設計は自由にできるんだ」という感覚につながっていきます。

それまでは、崩残さんから自由にデザインする、という話をきいても、
この球に何を作ればいいのか、とか、今思うと、そうやってまるで
内装を考えることがデザインすることだといった先入観があったことに
気づきます。それは、どこか、へんですね。今思うと。
ここでも、何か、それは「他人事」です。どうすればいいでしょうか?みたいな。
自分で決める、自分で作るんだ、という基礎に、まず、この球体それ自体の扱い
がある気がします。「大きさの可変さの理解」は、その初歩にあるように思います。

球体を大きくしたときに、私がしたことは、その内側を広大な闇にすることでした。
なぜなら、すごく落ち着くからです。広々とした闇。そのずっと遠くに「関心」がある。
そのずっと遠くに関心をあらしめるこの広大な闇の中心に居座る、というのは、
とても落ち着くように思えました。

そして、同時に思ったことは、そんな遠くの球体の「境目」などに
私は行かないよ、と思ったことでした。球体の向こうに行かないこと、イコール、
自分を裏切らないことだ、と理解しました。
そして、この球体をつくり、その中心に座る、ということは、
自分を裏切らない決心そのものだということです。

この日の日記にも、先ほど書いたPとの関係について、
はっきり書き切ったことがあります。

重複しますが、今読み直してみた時、肝心な点は、
AC人格として生きた(死んでいて)人生が、あなた(P)と違って、
「私はぜんぜん楽しくなかった」と、看破したことです。

以下、抜粋します。

・・・

あなたは私といて、楽しかっただろうか?私はあなたが楽しくしているのを
見たことがない。しかし、私は、あなたといて楽しかった。あなたがいるだけで、
あなたが笑ってくれる、笑っているだけで、私は楽しかった。
しかし、それが嘘、まちがいだったと気づいた。そう思いこみたかっただけだったと。
そのまちがった、思いこみの楽しさのために、私はあなたに尽くすことは
全く苦ではなく、むしろ、喜びだった。あなたは私といて、こう思ったはずだ。
大きく2つある。1つは、「楽だ」と思ったこと。自分の思い通りに、私が動くことは
まるで、私は、あなたの手足のようだったろう、いいや、そんなことはなかった、
思った通りにやってくれなかったこともある、といいたいか?ならば、それこそが、
「Abyは私の思い通りに動くべきだ」と思っている証拠なのだ。それがまさに、今、
この1年、あなたが私に向けた不満だったじゃないか。「Abyのせいだ」と思って
いるんだよ。あなたは。

全員そうだった。Pだけじゃない。Pの母も妹も、私の家族も、また、私のまわりに
集まった人も、全員、私に「敵視の目」を向けた。あなたたちの思い通りに動かない、
それだけの理由で、私を責めた。Abyのせいだ、と。あなたたちは、一度でも、
「Abyは、私の思い通りに動くべきだ」と、そう考えている自分がおかしいと、
たった一度でも、疑ったことがあったろうか?
あなたの手足にならなかっただけ、ならなくなっただけで態度を変えた。
あなたの「楽」のための道具から、おりたとたん、あなたたちがしめした態度は、
一律、私を責めることのみだった。

もうひとつ。あなたは私といて、「心地よかった」はずだ。なぜなら、あなたの
価値観を否定しなかったから。これについても「いいや」と反論するかもしれないが、
同じことだ。あなたは自分の価値観こそ大事であり、それに従わない人間を排除して
いる。いずれにせよ、あなたが手にしたのは、「くるしゅうない」といって、あなたの
生き方に「あぐらをかける」ような身のまわりの世話をしてくれる「Aby」を
手にしたはずだ。つまり、1つは楽で、1つは心地よい。これはまったく自立的でなく、
怠惰で、また、排他的であり、歪んだ快楽のひたり方であり、私はあなたがそうで
あれるように尽くしてしまった人間だ。ただあなたに笑ってほしかったがために。
あなたは明るく、本当はもっと幸せになっていいんだって、
ただそう「思いこみたくて」。

でも、それが「大まちがい」、ただの大きな思いこみであったのなら、
私とあなたの関係とは、人と人の関係では全くない。私はただの道具、機械であり、
あなたは全く自立など実は口ばかり、で本当は求めてなどいない「あぐらをかいて
いるだけの、おひめさま気どり」を演じているにすぎない。

その実態を知った時、そして今、私はようやく「生きる」こと、私に
血が流れはじめることを経験し、あなたとの日々、そして20才までの日々の中で、
私は一秒すらも生きてすらいなかったことを知った。何ひとつ、楽しくなかった。

・・・

以上が該当箇所の抜粋です。

「楽しかった」という幻想から、「楽しくなかった」という地点に
頭での分析だけでなく、感情のレベルで移行した時でした。
つまり、楽しかった、というのは強引な思いこみによるもので、
本当は、何ひとつ、楽しくなどなかったという、正しい記憶になってきました。

おそらく、これは、自己分析やトラウマ分析ということだけからでなく、
ここ最近、本当に少しずつ、「生きる」ということを経験することで、
あれは生きているとはいえない、という理解が大きな修正力になっているように
感じます。自我復元にいろいろな要素が、連動して、掘っている結果だと思います。

ですから、中心のワークで中心が最初揺れ動いたように、
まだ揺れ動いてしまうような感覚もあるのですが、これもまた、
中心のワークを通じて、なんだかわからないのですが、「崩れてしまう」という
仮想の妄想で不安になるのではなく、不確かでも安定していける、という方を
私は、今、向いています。


・・・


『④球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』に続きます。


2015.10.21
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-21 11:57 | 復元ノート 1

②球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り

『①球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』の続きです。

・・・

また話はあちこちにいきますが、今週は意識的に中心にいようとしました。
どの時間も、です。ただ、出来たかといえば出来ませんでしたが、やろうとしました。
これは日常に応用しようとするのでなく、応用でもなんでもなく、こうあろうと
することが、ごく正常なことに思えたからです。やれるかどうかより、中心にいようと
することは、しごく当然のように思えました。

そのせいかどうかはわかりませんが、中心に意識を向けるだけで、ほぼタイムリーに
そこに戻ることができるようになってきています。

15日の日、また仕事帰り、自転車を押しながら、真夜中、球体のイメージを
作っていました。この時だったと思いますが、この球体というのは、外部からの
侵入を防ぐのではなく、実は、私が中心から外に「出て行くのを防ぐ」自分のための
バリアみたいなもの、そのための「殻」なのだ、と感じたことでした。

私が、もしも、そこから動かないとすると、ACの妄想から離れて
そこにいるわけですが、この閉じた中で何が起こるか、というと、
本当の自問がはじまる、と次に感じました。

そこで私は何をするか?
何を思い、どうしようとするのか?

そう思い始めました。だって、それ以外、無いのですから。

しばらくして、また、あの交差点にさしかかりました。
今までは歩道橋の高さまでが目に入っていましたが、この日は、
もうそれには用がなくなったかのように、ふと、夜空に目が向きました。

その瞬間、思い出したことがありました。

生前記憶を掘っていたとき、イメージの断片として想起されたもので、
ブログにも書いたことですが、幼い私が、「空」を見上げ、
ここ地球に期待をした、期待の目をもった、その時の光景を
思い出したのです。

それ自体は、そこまでです。
ただ、続いて、この生のずっと過去にさかのぼっていく感じに
今度はなっていきました。

その日の手書きのノートにはこう書いてあります。

>「明るくはしゃぐ」私、手足を大きく動かして
>はしゃぐ私のイメージ、笑っていて、楽しそう、
>はめをはずしている、ころびそう

そして、これは2歳代頃のように思え、それは、
今や記憶に何もないCちゃん(私が3歳の頃に死んだ長女)との
時間をなぜか想起させた。

ただ、それ、Cちゃんとの時間は「まやかし」のようなものであり、
この手足を大きく動かしてはしゃぐイメージは、もっとこの生の元に
あるものに思えた。

>この生への期待ともいえる

と書いている。

ここからは、手書きノートに書いたことを、そのまま、
抜粋、転記したいと思います。家に戻り、走り書きですが、
思いつくままに書いた記録ですので、そのままにします。

・・・

それから思ったのは、
この「明るさ」は、私は母と父に見ていた(期待していた)。
この二人の元に生まれたら、「本当は明るくて楽しい」だろうって。

そこで、ふと、ひとつ前の生、これ、もしかして、私はすぐに(2才ごろに)
死んだんじゃないかって。

この生の母の、私へのなんか妙な罪悪感が思いおこされて、
ふと、もしかして、母は前の生で私をころしたんじゃないかって。
ふと、思った。

母は前も、私をみちづれに(たぶん私一人だ)、
電車にとびこみ自殺(心中)をしたのではないか?

母はいっていた。「子どもは嫌いだった」って。

今思うのだが、「夜なき」、前の生も、その夜なきで
育児不安(ノイローゼ)になってのことだったのではないか?

父が「Abyのせいだ」というのをおもいだす。
そう、父は前の生でも、「私が殺した」と思っている。
なんて、無責任なバカ父親だろうか!
これと、今回の生において、「Abyのせいだろ」というのとかぶる。

私は、この生では、もう一度、「夜なき」から同じ設定で
やりなおしたのだろう。

そして、この生では私は殺さなかった。
でも、Cちゃんは死んだ。
そのやりなおしをA(補足:Aは次女にあたる妹のこと)でやった。
B(補足:Bは弟のこと)はおもうに、母の都合の子じゃない。
母の都合の子は、私とAのみだったはずだ(Cも含め)。
Bは父都合の子に見える。
よくわからないが、Bがたどってきた道をみると、まるで、「父のような
人間のコピー」にみえる。

話はもどり、

私は前の生で、「あれ?おかしい。明るいはずなのに・・・」と思いながら、
実は「暗かった」「二人」にそうぐうした。
そしてこの「暗さ」が何だかわからないまま、幼少期に死んだ。

そして、この生、「明るくて、やさしい二人」という「写真」をみて、そして、
全く同じその二人を「この人たちだよ」といってみつけ、また、やりなおした。

そして、私は40年、「明るくて、やさしい理想的な親」という思いこみを
私自身が強く思いこみながら、生きた。
もちろん、そういう洗脳でもあったわけだが、私自身が、それを疑わない設定から
スタートした生だった、ということじゃないか?

そして、自我復元をやり、今の今になって、その「暗さ」、
この生でもそうだが、前生の「幼児の私ではまったくわかりようもなかった、
その暗さの原因」、つまり、トラウマ中身(親にみすてられないための保身として、
親を不安にさせない、不安にさせたらみすてられる)というところからくる、
「不安など無いかのように生きねばならないルール」、このルールの中で、
実は「不安の膿でぐちゅぐちゅになった二人の顔」、
これが、前生の幼児期の私にはとらえられなかった「暗さ」が指す
「実相」だったのだ。

本当は、明るくて、ほがらかで、やさしそうな人たちなのに・・・という思いのまま、
そして、「あれ?おかしい・・・」と思いながら私は殺された。

そして、けっきょく、その「幼児性」のまま、私は40年、つまり、前生の2才の
ままで、ずっととまり、その目で親をみて、ずっと「明るい家庭だ」と
かんちがいし、思いこみつづけたのだ。

●●(←私の名前)の「明」。

これは、かんちがいした、私の「明」でもあるが、
ずっと焦点があてられてこなかった(実際、そうだった)「明(あき)」の
「あ」「a」だった。だって、明るくなんて、この家庭には「無かったのだから」。

Aby、アビ、あび、ぁ「び」、明日(あび)、明日、これは「あした」だ。
明日(あした)とは、サンライズ、日の出だ。
(補足;地平線からaの文字が出ていて、それを日の出のように
半球で包むようなイラストが余白に描いてある。)

光、明るい光。

「不安は隠さなくて、いい」

禁じたのは、母と父の親たち、「毒祖母」だ。
不安は、太陽のごとく、明るく昇るのだ。
不安こそ「明るい」のだ。
それを隠すから「日」をかくすから「暗い」のだ。

わかる、できる、気づいている、わかっている・・・

こういったことは、「不安を隠すため」にやるのだ。
「不安じゃない」「平気だ」と〝言うために〟こうやっているのだ。
このACの行動を。
(補足:こう、とは、わかる、できる、気づいている、わかっている、と
主張しようとするACの挙動のこと)

「暗い」でおもいだした。そう、これだ。

Pは「暗かった」、そして私はずっと思っていた
Pは「本当は、明るい人だ」と。
これを見い出すのは(その役目は)「私だ」と。

Pと父と母、いや、私のまわりにいた人たちに共通するのは
今ならわかるが、「他人に認めてもらえずに歪んだ人たち」だった。

これが「暗く」私にはみえた。
「認めてくれない」といった「まわりのせい」にしている人たちだ。
Pも父も母もみんなそうだった。
「認めないまわりが変だ」というのが、いかにも正しいかのような「常識」に
とらわれた人たち。

「あなたたちは、本当は明るいんだよ」

Pもそうだ。Pの母はてんけい的だが、
「不安」は「あってはならない」という考え方だ。
食べものも「まずい」と言ってはならない人たちだった。
他人へのひはんはするから、一見、それが「不安」を表明するかのように見えるが、
実際には他人へのあてつけであり、
本当に自分自身が感じてくる不安、嫌だったことは、ぜったいに「かくす」
「いわない」人たちだった。
これが、PやPの母、あの家のルールだった。

でも考えたら、(家の雰囲気が全くちがうので気づかなかったが)
この点(不安をかくす点)でいえば、うちも全く同じだ。

その中で私だけだ。

ここは明るい、あなたは明るい、と「思いつづけ」「言ってきたのは」。
私は、そう、前生の、2才の私のまま、その思いこみのまま、今まで40年、
本当は「不安がないかのようにふるまう歪みきった暗~い家族」を
〝本当は明るくて、理想的で、すごいんだ〟って思ってきたのは。
そして、実際、私の毒父は「そう」洗脳してきた。私は全くいわかんがなかったのだ。
本当にそういう家だと思いこんできて、40年、疑ったことが一度もなかった。

今日、球の中に自分だけがいる時に、これをやっていた時、
「最初に」ブレた地点を思い出した、ということだ。
まず私が手足を動かし、はしゃぐ「明るい」姿。
これを、私は「明るい(明るそうに見えた)二人の親」に頼ってしまったのだ。

この親元なら、そうなれるって。
この親元なら、つまり、前生、「本当は」私は明るく楽しい人生だったのにって。
ようは、前生において、「こんなはずじゃなかった」というやつだ。
つまり、前生では、あの二人のプロファイル(写真)の「明るくてやさしそうな二人」
というところくらいしか、まだ、2才のわたしには、二人のイメージがなかった。
でも、なんかちがう、おかしい、とは思ったかもしれないが
(それは今は思い出せない)
いずれにせよ、
「二人は、本当は、やさしくて、明るい親なのだ」と
信じながらの2才のまま、死んだのだ。殺されたのだ。
その強い思いこみのまま、この生に生まれ、
毒父にとっては「理想の家庭」としておしつけるのにはもってこいの状態のまま、
あらゆる調教、洗脳をうけた、ということだ。
ねむりこけるには、好都合だったのだ。

そして、この生での、自我復元での収穫は、
これは明るいのではなく、暗いのであり、
暗い、その「暗さ」と表したものの実相とは、トラウマ由来の
「不安はないかのようにふるまわなければならないルールの中で、
不安をはきだせずにためこみ、顔の中でぐちゅぐちゅの膿になってしまったこと」
による「いんうつさ」なのだ。

Pの父だが、Pの父は、父親とのあつれきで、「社会にみとめられよう」
とするのが強い人だった。「世の中にみとめさせる=父親をたおすこと」だった。
「ほらみろ。おやじの言ったとおりになんかなんねーよ。
オレは、ほら、認められているじゃねーか」と、
「自分を認めてくれなかった父親」に対するリベンジなのだ。
あんたはまちがっていた、といいたいのだ。
「オレを認めるべきだった」と。

Pの母は母親に認められようとし、母親の価値観のまま生き、自立をうばわれた。
Pをみてくると、父のごとく、まわり(社会)にみとめられたがれ、
母のごとく、母の価値観「一通り」に毒され、自立できない
まさに、毒両親どおりに育ったわけだ。

・・・

ここまで、その日のノートの抜粋です。

これは今、転記して思ったのですが、2才で死んだ、というのは、
違うかもしれない、と思いました。
Cちゃんとの覚えていない記憶の感覚が2才という漠然とした年齢を
思わせるのかもしれず、このあまりの「幼児性」を考えると、
生まれてわりとまもなくか、少なくとも、幼児というよりも、
乳幼児に近い頃に、すぐ、死んで(殺されて)しまったのかもしれません。

以前、桜の間で、前世があまりに幼少期の頃に死んだケースについて
書かれていたのを、この日も思い出したわけですが、私は自分のこととは
思ったことはなかったのですが、今回、相当、憶測によるものと思う一方、
かなりリアリティーがありました。というのも、なぜ、私が、ふと、
父や母を思い浮かべるとき、笑顔を思い浮かべてしまい、また、Pについても
どうして彼女が笑っているのを思い浮かべると、そこから(今はほとんど
その力は失ってはいるのですが)彼女といたことが楽しかった、と思って
しまうのか、ということについて、この「虚偽」を見たとき、ボロボロと、
その虚像が虚像と知り、明るいなど完全に私が投影した思いこみでしかなく、
そこにあったのは、暗さ、ただそれのみ、つまりそれは、今まで掘ってきた
ACの挙動の全貌のみであり、私との関係でいえば、AC人格同士の
「共依存関係」、つまり、それは「お互いさま」の関係だけが、「虚像として」
残ったからでした。言い換えると、この人たちの「笑顔」だけは、無垢に感じ、
恨むに恨みきれなかったのです。「実像」だと思っていたからです。
でも、これが、ただの私の「思いこみ」によるものだとしたら、もはや、
「実像」など無いのです。

AC人格だけがあり、AC人格同士の共依存関係だけが、
ぶざまに残ったのです。

そこで、Pとの関係に、決定的に決意が生まれました。

「枯れるのを見届けるのみ」

ということです。

ここで、ここでとは、この今の住まい、固定回線をひいたこの家で
枯れさせよう。ここは居る場でも逃げる場でもなく、「墓場」にしてやろうと。
Pが徹底的にもうここに居たくなくなるまで、私は、ただ、この「事実にそって」
起こる事象を見届けること。

私が徹底的に「私」を生きるのなら、
ここは、私であれ、誰であれ、ACが居られない場所になる。

ここには、AC人格しかいなかったし、いないのだ。
悪臭。しかし、今や、私が私を生きる覚悟を本当に貫くのなら、
AC人格にとって、これほどここが「悪臭」に満ちた場所はないだろう。
それは、そう、自我復元で、私が逃げたくて逃げたくてつらかった場所、
それが、今度、ここがそこになる。Pにとって、ここはいられなくなる。

契約は、枯れるがままに枯れるのだ。

ようやく、私から見たとき、Pという人間に
「血」が流れていない、と見えるようになってきました。
血は、生きている人間にしか流れていないから。
具体的には、今、彼女に投影した「笑顔」が消えつつあります。
私が知っている、楽しかった、と思い込ませ続けた記憶の中のPの笑顔が
無くなりつつあります。そのまま、消えてゆくのが筋です。

そう、一つ、こんなことをはじめて思いました。

私はPとの闘いに、勝とう、と思いました。
AC人格は、自身の中だろうが、外に見るACだろうが、
敵は敵です。認められるはずがないのです。

少しだけ、余談をさせてください。

今、日記を読み返していて(日記を読み返すことも今までなかったのですが)、
そう、先日、折りたたみ傘を買いました。

折りたたみって、まあ、500円くらいだろう、と思っていましたし、
高くても1000円くらいかな、と。そういう折りたたみしか買ったことがなかった。

今まで使っていた折りたたみ傘は、たしか、700、800円で買ったと思います。
随分使いました。Pとの時代でも使いました。そして、格闘の最中も使いました。
折りたたみ傘だけじゃない。PとのAC時代から使って、しかし、この格闘を越え、
今なお使っている、使ってきたものがあります。
ACとの格闘が始まってからは、全部、新しくしなければ、と思っていました。
妄想に妄想を重ねながらも、新しくしたものもあり、そうしなかったものもあり、
とにかく、それでも、この2年以上の修羅場を、ともに越えてきたものがあります。

今まで使っていた傘は、もう、骨が3本は折れて、さしても、半分しか使えず、
まるで絵本の中で出てくるカエルが葉っぱの傘をさしているような、
あんな感じです。でも、この傘は、職探しの時も、本当に一緒に闘いました。
真冬、手がガチガチになりながら、この傘と、闘いに行きました。

この傘は、私は今度、きれいに洗ってしまっておこうと思っています。
傘だけじゃない。どんどんと、まわりのものは、そう、今まで使っていたPC
(まだ今使っていますが)も、私の物に変わっていきました。
はじめて、自分の物だ、という愛着を知る経験をしています。
もう本当に捨てられない。以前、崩残さんがおっしゃっていましたが、
自分のものじゃないから簡単に捨てられるんだ、という話を桜の間でされていたと
思います。まったくそうなんですね。私は、40年、なーんにもいらない、と
斜に構えていました。毒父とそっくり同じにです。でも、それは、自分のものなど
ないほどに、自分というものがないことを表明しているだけです。

いまや、なかなか、梱包材も捨てられません。
それは強迫観念とか価値観とかじゃなく、大切に思うからです。
いとおしく感じるといったほうがいいかもしれません。

それで新しい傘はまだ雨になっていないので、開いただけですが、
**で3564円もするものを買いました。はじめて知りましたが、
それほど、これ、高いわけじゃないってことを知りました。
目的は今回はっきりしていました。
大きくて、軽いもの。丈夫ならなおよし。というものでした。
放射能のことも頭にありましたが、小さいと結局濡れます。
それと、私は、いつも折りたたみはリュックに入れて持ち歩いているので、
(天気予報は見ないのでいつもは入っています)、軽いほうがいいのです。
丈夫かどうかは、正直、使ってみないとわからないので、あまり、
そういうことの評価は、見ても、見る程度にし、だいたいが、
壊れたら直すぞ、くらいの気持ちでした。傘を直すなんて面白そうだしって。
おそらくこれは、地雷だらけのPC選び、もちろん、今も、それ以外の場面で
格闘中ですが、そういう格闘の中から、出来てきた姿勢です。

安心かどうか、より、どうしたいのか、です。
どうしても、私は、不安解消に妄想しやすいため、安心かどうか、に
気づくとなっていることが今も多いです。
でも、どうしたいのか、と戻ることが今大事だと思っています。
これは後述するかもしれませんが、そう考えたからといって、
ぜんぜん、上手くなんていかないんです。
それは、ずっと、どうしたいのか、など考える姿勢をとったことがないためです。
どうしたいのか、と口先で自問するのは簡単です。
だけれど、本当にそこを考える覚悟は、やはり、不安をなんとかしよう、
というトラウマ由来の思考回路ではできないようになっています。
当たり前です。親がそれを許すはずがない、なかったからです。

開いたときの大きさが、直径114cm。
長傘よりも大きくて、重さも195g。
今使っているのよりはやや思いけれど、これは軽いです。
新しい私の傘として、これから使ってみます。楽しみです。
こういう思いで、買ったものを見たことは今までありませんでした。
必要だから買った、それだけでした。
買う理由も全部、「他人まかせ」です。それもそのはずです。
「私」などどこにもなかったのですから。

今までの傘に向けて、私ははじめて、言ったことのない言葉、
「ありがとう」「おつかれさま」を言いました。
社交辞令でなく、上っ面だけでなく、そう言いたくて言いました。
きれいに洗って、大事にしたいと思います。

余談はここまでにします。


・・・


『③球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』に続きます。


2015.10.21
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-21 11:56 | 復元ノート 1

①球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り

自我復元報告文を掲載します。
①~④に分けて記録します。

・・・

Abyです。

自我復元報告をさせていただきます。
(追記:長い報告となってしまいました。サインまでが本文です。
よろしくお願いいたします。)

ワークの経過報告でもありますが、今回は、むしろ、
「球体」のワークを通じて、掘り進めていったトラウマのご報告となります。
今まで、私は、「トラウマ」という言葉をほとんど使ったことがありません。

しかし、今回は、掘り進めていく力(スコップ)が、カン、と、
過去の、それも、かなり過去のものに「ぶつかった」という感覚があります。

最近、久々に、「ノート」をとっています。
手書きのノートに記すこともあれば、日記に記すこともあります。
関心地図以外、メモをとる、ということは、最近はありませんでしたが、
久々に、とっています。そして、久々に、「見返す」ということをしています。
それだけ、重要だ、と自分で認識しています。

くまなく、書き記したいと思っていますので、何度も、同じ箇所をいったり
きたりするかもしれないのですが、よろしくお願いいたします。

「引用」の件で、あの時、いろいろ考えたことは、妄想も暴れだしただけでなく、
収穫がありました。その時から、私の中で、「不安」という言葉がキーワードに
なっています。報告文の中で、

>不安や心配、苦しみ、軋轢、困難、そういったことは
>まるで「無いかのように生きねばならない」ルール。
>それが、その理想家族の実態です。

と書かせていただきました。今回の報告は、このあたりから、紆余曲折しながらも
掘り進めていったトラウマ掘りとなります。

まず、これは、私のよくない癖であり、すぐさま、解除しなければならないと
何度も回り道しながらも思うことですが、当たり前なのですが、
AC人格とは、親から埋め込まれた恐怖に「対処しよう」として作られたもの、
また、自分で作り、そして強化したものです。

今回、まず思ったことは、そこに「不安」があります。すると、私は、
なんとか「対処しよう」としてしまう。

そうやって、今までもやってきて、今もふとやってしまっている。
不安は、ただ、見ればいいのに、なんとかしようとしてしまう。
「不安を楽しもう」「不安は楽しむべきだ」とまで、進行してしまう。
これは、いずれも、AC人格です。私が自我復元を通して知ったことは、
苦しみも、軋轢も、不安も困難も、それらは「事実として楽しい」という
ただそれだけであり、「楽しまなきゃ」という強迫観念は嘘なのです。
ただただ、私が避けてきた、避けるように埋め込まれたものを、避けず、
ただただ、それを見ればよく、そこにとどまればよいだけなのにです。

そこにとどまることで、今日、ひとつ、掘れたことがあります。
それについても後述します。

「不安」という存在は、許されなかった、あってはならない家庭だった。
その過去の事実から、出発しなければなりません。そして、それは、
今まで堀っていった通り、毒父、毒母、ともに、おもにその母親から盛られた
毒の感染によるものであり、世代間連鎖の「元凶」でもあります。
「親を不安にさせてはならない」という強迫観念の中で、その「不安」という
ものが、存在してはならないものとして、定義されています。

今まで、報告の中にも、ブログの中にも、書かなかったエピソードがあります。
というのも、これがどういう記憶なのか、自分でわからなかったからです。
でも、きっとこれは何かある、と思い続けた記憶でした。おそらく、私が
今までの時点で思い出せた記憶として、残る2つの記憶となります。
それは、とても、似たような記憶のエピソードです。

小学生の低学年の頃、私は、ある一人の同じクラスの女の子を
「つねっていた」ことがあります。なぜかわかりません。
そして、その事実もシーンとしては覚えていません。
ただ、あの女の子のことをつねっていたことは、私は「知っている」のです。

しばらくして、上の学年にその子のお兄さんがいて、ある日、私の教室に
休み時間にきて、「妹をいじめるな」といったようなことを言われた記憶があります。
おそらくですが、それを機に、つねるのをやめたような気がします。

その子に対する私の記憶は、とても無表情で我慢強い、痛くても顔にも声にも
出さない人でした。

なぜ、私は、そんなことをしたのか、わかりません。

もう一つの記憶は、これは、高学年になってくらいのことだと思います。

低学年の頃から、ずっと仲のいい友達がいました。よく一緒に遊びました。
この男の子のことは、かつて、ブログでも書いた記憶があります。
閉じた友達関係の中の一人でした。

その男の子と、別の同じクラスの男の子で、ある時から、
その子たちが万引きをし始めたことを知りました。
覚えているのは、シャーペンの芯、キットカットのお菓子、などです。
私は万引きはしませんでしたが、数度、それを
もらってしまいました。家に届けにきたのです。
その時、彼らの合図がありました。親にはわかられないためにです。
指を曲げてウインクをするような合図だったと思います。
それが、万引きによって手にした物だ、ということを告げる合図でした。
その合図を私は知っていました。嫌でしたが、受け取ったように思います。

これも、この時から、私は、相手から提供されるものを断る、ということが
できませんでした。

この二つのエピソードについて、肝心なのは、その後のことでした。
まず万引きの件ですが、私は、早く、彼らが万引きをしていることが
発覚して、やめさせたい、と思っていたように記憶しています。
ある日、また別の男の子の、おそらくそのお母さんを通じて発覚したのです。
その男の子の名前も覚えているくらいですから、きっとそうです。
そして、たしか、私の母から、こう、きかれたように思います。

「●●(←私の名前)は知らなかったんでしょ」

と。シャーペンの芯などをもらったことは告げたと思いますが、それに対して、
私の母は、万引きをした物だっていうことは、●●は知らなかったんでしょ、
というように、きかれたように思うのです。

私は、おそらく、即答で、

「うん、知らなかった」

と答えたように思います。100%そうだったかわかりませんが、ただ、今、
その場面をシミュレーションしようとすると、明らかに、私がとる行動は、
「即答で」「知らなかった」と事実を否定するだろう、ということでした。

あの時、どういうシチュエーションだったかは覚えていないのですが、
その仲のよかった男の子が、「えっ、知ってたでしょ。だって合図したじゃん」
ということを、言ったように思います。私は、友達を裏切ったのを覚えています。
そして、彼は、裏切られた、という目をしていた、そういう記憶があります。
どれも、明確な記憶ではないのですが、感覚として、実感がある記憶です。

もう一つのほうのエピソードについてですが、これは、思いがけない
タイミングでその事実が、母に発覚しました。卒業式の日かその間近です。
その女の子の母親が、私の母にこんなことを言ったらしいのです。
「低学年の頃は、つねられたりしたこともあったけれど、もうそれは
昔のことですね」といった、おそらく、そんな内容だと思います。
もちろん、母は初耳だったはずです。母は私にこう言ってきました。

「〇〇ちゃんのお母さんが、そんなことを言っていたけれど、本当なの?
そんなことしてないでしょ」

と。そんなことしてないでしょ、とまでは口で言ったかはわかりません。
でも、言外に、そういう意味があったのは確かです。
この時も、私は、「即答」した記憶があります。

「やってない」

と。

この二つの、私の返答の、「迷いなき即答」、これを思い出したとき、
強い違和感を抱きました。

もちろん、当時も、私の中で、葛藤はありました。やったのにやってない、
知っているのに知らない、と嘘をついているのですから。
ただ、あれ以外に母に返答のしようがあったろうか、と考えると、
なかったとしか感じられなかったのです。

知ってた、というと怒られる、とか、やったといったら怒られる、
という恐怖から言えなかった、というのなら、まだそこに、自分がついた嘘を
自分のものとして抱え、正常に、親に対して、また友だちに対しても、
歪みつつも不満や反発、理不尽さを感じることがあっただろうに、
私にはそれがなかった・・・という不気味さがあるのです。

それを思ったとき、わかったことは、
私のその迷いなき「即答」は、完全に、母を心配させてはいけない、
母を不安にさせてはいけない、というものだった、ということ。
事実などどうでもいい(もちろんその時はそんな冷静なことは考えていない)。
そして、事実などどうでもいい、というこのあまりに目茶苦茶なことを、
私が、というより、母が、思っていたのだ。

「やっていない」
「知らない」

という答えだけを、母は望んでいた。
私はそれを知っていた、ということなのだ。
そして、母は、私がそう答えるのを知っていた、ということでもある。
だから、それ以上、母は、私に何もきいてこなかった。
本当なのかどうかなど、追求してこなかった。
なぜなら、母は本当のことなど知りたくなかったからだ。

これは、父にも同じ性質がある。これは掘ってきたことでもある。
「見ざる、言わざる、聞かざる」が、父の考え方だ。
事実がどうか、でなく、「親に心配をかけるな」、これに違反することは
パパは絶対許さない、という脅迫があったことは、見てきた通りだ。

2つ、と書いたけれど、もう一つ、書いていないエピソードがあります。
今、ここで書くべきかわからないのですが、書いてみます。
というのも、やはり、これも、これらと無関係には思えないからです。

中学年から高学年にかけてだったか、転校してきた男の子がいました。
その男の子は、のそ~っとしていて、みんなから「**」と呼ばれていました。
私は名前(愛称)で呼んでいた記憶があるのですが、その子はでくのぼうみたい
だから、「**」と呼ばれていて、今思い出したのですが、信じられないことに、
そのことを教師も知っていたように思います。教師はそうは呼びませんでしたが、
そう呼ばれてもしょうがない、といった雰囲気を教師も表に出していました。

冬になると、教室のコーナーのほうにストーブがありました。
寒いので、休み時間にそのそばに生徒たちがいたように思います。
そこにその男の子もまじっていました。Aくんとしておきます。

温風が出るファンヒーターで、当然、その吹き出し口に近づきすぎると
熱いと思います。その日、こういう光景を覚えています。あるクラスの男の子、
それはその仲のよかった子だったかもしれません、その子がAくんをストーブの
近くに寄せていきます。すると、Aくんは笑いながらも「熱い」と言います。
私はおそらくですが、それを見ていたように思います。
これを思い出すと、私は怖くなります。熱かったんじゃないか、と。
温風だからそれほど・・・と思いたくなる自分がいます。でも、私は、
本当は怖いのです。アイロンの熱、火の熱、虐待のいろいろな話があります。
私は、今も、アイロンをかけるとき、ふと、怖くなります。

話がそれますが、小学生の頃、すごく怖かったものがあります。
それは、私の学習机のスポットライトでした。それは、もちろんスポットライト
ですから、すごく熱くなります。一瞬触ってみては、ぞっとしました。
これをあとちょっと触り続けたら、どれほど恐怖だろうか、と。
私は、水の恐怖のことも、かつてブログに書きましたが、ずっとこういう恐怖を
感じながら、日々すごしました。

あと、もうちょっとこれをやったら、どんなに恐ろしいだろうか、と。
ある時、こんなこともやったことがあります。大きな石を思いっきり上に投げます。
私はすぐ逃げます。自分に当たらないためです。
もしもあたったら、どうなるだろうか、と恐怖しつつも、やってしまうのです。
なんでこんなことばかりやったのかわかりません。

ただ、今書いていて思ったのは、この「延長線を想像しての仮想の恐怖」を
自分で作り出しては何度も何度も恐怖体験してみるというわけのわからない
癖が、幼い頃からかなりずっとありました。中学の頃には、そういうことは
しなくなったように思いますが、ただ、今思うに、こういう恐怖の仕方こそ、
ずっと今の今まで残り続けた妄想の仕方であったことは確かです。
実際の恐怖ではなく、延長線上にある恐怖です。
これがこのくらい痛い怖いのだから、こうなったら想像を絶するだろう、と。
拷問という行為がいかに恐ろしいか、と考えていたのも、ここに由来します。

話を戻しますが、こういう恐怖に触れたくないから思い出したくない、
というものでもあったとは思いますが、それだけでなく、このAくんの記憶と
同時に想起されるものがありました。

Aくんは、よく、私の店の前を通り、その度に、声をかけてくれました。
私も声をかけました。私はAくんが嫌いでも何でもなかったからです。
母は、Aくんのことを、たしか、たまにですが、話題にあげました。
覚えていないのですが、Aくんはいい子だよね、●●(←私の名前)と
仲良くしているんだね、といった、そんなことだったと思います。

でも、どこか苦しかったのを思い出すように思うのです。
それが、そのストーブのシーンとかぶります。私はいじめているのを
隠しているような、そんな気になるのです。たしかに、見ていたのですから、
とめなかったのですから、同罪です。そう思って当然です。

でも、この時も、私は、母にそのことは、「当然のように」言いませんでした。
何事もないかのように、仲のいい友達同士、ただそれだけの事実を残します。
ここにも、先ほどと似たような、苦しさを感じるのです。

正直なところ、今、書いていて、苦しいです。
何が苦しいかというと、Aくんのことを書いたことです。

でも、もう少し書いていきます。

母は、Aくんがいじめられているのは、
もしかしたら、知っていたかもしれない。
いや、おそらく、知っていました。
でも、私にこう言ったと、今、思い出しました。

「Aくんと仲良くするのよ」

と。これはAくんだけじゃない。母はよく「~~ちゃんと仲良くするのよ」と
私に言ったように思います。

私の中で、今、行ったり来たりしていますが、
Aくんを私はいじめてしまった、と私は思っています。
それを、母には言わなかった。このまま、言ってはいけない出来事だと
思っているのだろうか・・・

先に進みます。わかりませんが、ここは進めなければなりません。
母がやったことを、逃してはいけないからです。
それ以外のことは、後は、自分で責任をとればいいだけなのだから。
だけれど、ここで母がやったことを、逃してよいわけではないから。

目的は、母からのトラウマを暴くことです。

書いていても気づいてきたことですが、
私は、相当、無意識に、母に心配をかけまい、としていたようです。

この「不安にさせてはならない」という親からの強制のために、
私が身につけたやり方(ACの挙動)があります。
それは、「わかっている」「できる」と主張するAC人格です。
これは、自我復元中も、かなりの幅をきかせていていると自覚しながら、
なんとかしたいとし続けたAC人格であることは言うまでもありません。
今もなお、解除しきれていない、でも、もう絶対に不要なものです。
なぜなら、「生きること」と、なんにも、関係ないからです。
生きることに、承認はいらないからです。

しかし、なぜ、これが生まれたか、というと、
ひとつ、明確なことがあります。

それは、とくに母に対しては、「できたよ」「やったよ」という返答、
父に対しては、「わかっているよ」「できたよ」という返答、「できた」という
反応は双方に共通するのですが、いずれにせよ、思ったのですが、
あの二人に私が「話した」のは、この3種類くらいしかなかったんじゃないかって。

そして、なぜ、そう言わねばならなかったか、というと、言い換えると、
なぜそれだけを言うように調教されたか、というと、これが、
「親を不安にさせないため」以外、何ものでもないからです。
これしか、あの毒親は、子どもの私に求めなかったということです。
その反応以外、ききたくなかったのだと思います。
だいたいが、あの親たちは、私の意見など、一度も求めたことがなかった。
それもそうで、子どもに意見などがある、とは思ってもおらず、否、
自分たちが許されなかったものを、自分の子どもに許すはずがないのだ。
そして、意見を求めた「ような」体裁の時というのは、責任を押し付けるか、
あるいは、いかにも同意したかのように誘導する時、これ以外になかったことは
今まで掘ってきたことからも明らかです。

とにかく、くだらないのは(なのに強烈に習慣づいてしまっているのは)、
こういうことの長い間の繰り返しによって、「できたよ」「わかるよ」「やったよ」
ということが、不安解消の手段だ、と思い込んだことです。
そして、まずここに問題があるのは、不安など解消させてやる必要はなかったことです。
不安は解消するのでなく、まず、直面することです。
それが生きている中で、事実として、自分に起こる経験なのですから、
なぜ、それを避ける必要があろうか?
ないわけです。

もしも「解消させねば」と強迫観念として思うのなら、それは、元はといえば、
親の不安を解消させねばならない、というものだったはずです。
ところが、いざ、親は目の前にいない、となると、気がつけば、
不安は避けるもの、不安はあってはならないもの、不安は解消すべきもの、
という価値観だけが、強迫観念として残り続けたということです。
そして、私の「間違っていない」とは何だったのか、というと、
「不安を解消できたと思いこめた考えにしがみつけた」=間違っていない、
なのでした。

思い込めたかどうか、それだけです。

またこのあたりに戻ってくると思いますが、掘り進めていったことの報告を
進めたいと思います。

日記を振り返ると、10月の13日頃から、「中心」を意識するだけで、中心の
圧を感じるようになってきたようです。それからは、目を開けていようが、
閉じていようが、中心に戻ろうとすると、すぐに頭皮がピリピリし、中心が
安定します。買い物をしていようが、座っていようが、です。

このあたりから、なぜか、父や母のことを考えることが増えてきました。
なぜかはわかりませんが、そこを掘る必要があるからだと思います。
そして、あらためて、彼らについて、「思い違い」をしていることを
このあたりからだんだん感じるようになってきました。
これは、Pも含めて、です。

私は、彼らをずっと「明るい人たちだ」と思ってきました。
でも、なぜそういうイメージを持っているか、それが不思議に感じ始めました。
だって、父も母も、そして、Pも、

「暗いじゃん」

と思ったからです。その暗さの原因こそが、わかったことは、
「不安そうな人たち」だからです。

今までなぜか思わなかったのですが、この3人に共通しているのは、
「誰かに認めてもらいたい」なのです。それに対して、なぜか、私がまるで
「ムキになって」「あなたは本当は明るい人なんだよ」と、諭そうとしている。
この不安そうな人たちを、私がなんとか、明るくしてあげようとしている。

実際、Pと出会った時、ブログにも書いたことですが、何にひかれたかというと、
彼女が「暗かった」ことです。社交的ではありました。ある人から見れば、
まわりの誰よりも明るいように見えたかもしれません。
ただ、私には、明るく振舞っているようにしか見えず、この暗い人を、元の
本当に明るい人にしてあげられるのは私しかいない、と思っていました。

つまり、私は、完全に盲目的な地点から彼らと関係を持ってきたのです。

彼らが本当はどういう人間なのか、よりも、「本当はあなたたちはこうなんだ
よね、明るい人たちなんだよね」という妄信とすら自覚のない妄信一直線で
彼らとつきあってきました。もう、これは、あたかも、「役割」です。

そして、「本当はどうだったのか」を40年以上経って、やっと暴いてきたのが、
この自我復元の自己分析だったわけです。
事実はなんだったか、です。そこで、問題なのは、事実はそうだったのは
わかったが、なぜ、その事実ではなく、誤った印象を彼らに持ったのか、という
ことです。

これは私にとって、重要な切り込み口でした。
なぜなら、彼らに対して、どうしても切り断つことができなくなっていた
「明るいイメージ」こそ、呪いのように、刻まれた印象だったからです。
そのことを書いていきたいと思います。
「明るいイメージ」と言葉でいうとただそれだけか、という感じですし、
私もそれがネックになっているとなど、思いもよらなかったことでした。

それが

「嘘だった」

と気づくまでの過程を書いてみたいと思います。


・・・


『②球体のイメージと毒母由来のトラウマ掘り』に続きます。


2015.10.21
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-21 11:56 | 復元ノート 1

(後半)心臓から血がほとばしるかのごとく

『(前半)心臓から血がほとばしるかのごとく』の続きです。


・・・ ・・・ ・・・

崩残様

続いてワークの経過報告をさせていただきます。

>>ある場所ではたまたま目は開けていたのですが、圧力が強まりました。

という前回の報告に対して、

>その場所が必ずある場所のあたりにあるのでしたら、
>今度、その場所にどういうものがあるのか
>ちょっと眺めてみてください。

>何かAbyさんにとって重要なものがあるの「かも」しれません。

と、ご指摘してくださったことに関してですが、
わかったことがありました。

まずメールでここを読んだ瞬間、すぐに思い当たったことがありました。
その確認作業を二日間やってみたのですが、こんなことがわかりました。

まずこの場所というのは、私の今のこの家から、おそらく200mくらいの地点で
歩道橋がある十字路の交差点です。つまり、そこから、家そのものは奥まって
いて見えないのですが、その十字路をまっすぐ歩いていけば、ほぼ突き当たりに
今の私の家がある、という位置です。

この歩道橋は、実は、Pとの関係で、強く、私の記憶の中にある場所でした。

18歳、大学生の頃、私はPと出会い、その最初は、まるで初恋の相手のように
私はPのことが好きでした。ある日、私は、Pがどこに住んでいるのか、
そのそばまで行ってみたくなって、自宅の●●から、▲▲を経由して
■■まで歩いてみたことがありました。

Pの家のそばまでいけば、偶然、Pに会えたりするかも、
という期待を持ちながら、歩いたのを覚えています。

あまりこれはこの20年思い出さなかったことなのですが、
おそらく、その時に、この歩道橋を目印かどうかはわかりませんが、
強く意識したのだと思います。この歩道橋を曲がるといよいよPの家だ、
と思ったのかもしれません。いずれにせよ、この歩道橋とその時の、
まさに、Pとの「最初の」思い出の「記憶」が、リンクしています。

視覚的な、強い、記憶です。光景の記憶です。

そのことを、メールを読んだ瞬間、思い出しました。
あ、あの場所って、あの時から私の記憶にある強い記憶だと。

翌日に、仕事帰り、そこを通りました。
目をなるべくつむって、中心を意識しよう、という意識が強すぎて、
後でわかりましたが、初日は、それが邪魔なノイズとなっていました。
初日は、何かを強く感じることはありませんでした。

次の日、そこを通ったとき、気楽に目を開けていました。
路地を右折すると、15mくらい先にその十字路の交差点、歩道橋が見えます。
そこに差しかかるとき、中心の圧力を感じ出しました。

そこで、同時に、「胸にも」圧迫があることに気づきました。
つまり、胸と喉の間の圧迫のほうです。

拮抗しているのです。

そこで、ああ、そういうことか、と思ったのは、
ここで目を開けていたために、Pとの思い出の源でもある記憶がよみがえる、
それはAC人格が今なお守ろうとしている「聖地」のようなもの、
しかし、私は、それに対して、意志として「拒否」している。

断固、拒否しています。

そういうことなのだ、と私は理解しました。

私が「私」を選んでいる。

拮抗しようとしているが、
「中心」に軸足がある。ACが「こっちだ」といえばいうほどに、
「中心」の圧力は強まっていく。
短い時間であったが、その相乗的に強められていく圧力の変化を感じた。

今までは、その胸と喉の間が「これが自分にもっとも近い」となってしまうと、
そっちにどっぷり足がのめりこんでしまっていた。

ところが、中心のワークを進めていくうちに、少しずつだが、
圧力を感じるようになり、今回、「ACの中心」が作動しても、同時に、
「私の中心」が作動するようになった、ということではないか、と思います。

ここで思うことは、自動的にそうなっている、というんじゃない、と感じたことです。
私の中心の圧力は、これは、「意志」だと思いました。
ワークをやっているから、自動的に、という他人まかせな態度の結果ではなく、
自然に起こっていることかもしれないが、自動的とはぜんぜん違うもの、
「自分の意志」として、意志が私を選んでいる、と感じられたことです。

かつて、桜の間で「自分を裏切らないことの真意」というタイトルで
投稿してくださった回がありましたが、この「自分を裏切らない」とは、
今回の、この、私を選択した意志、私を選択した私を裏切らない、ということ
ではないか、もう、ここで、AC人格を「断つ」と言わないのなら、それは、
自分への裏切りでしかない、と、そう、純粋に思えたことでした。

赤信号で止まっているとき、青信号より、この圧力が強まった気がした。
もしかしたら、その過去の日も、ここで止まったのかもしれない。
赤信号の時、Pに対してだけでなく、ACに対して「断つ」と言葉にした。
青信号になる前に渡ろう、そう思って、その交差点を渡った。
途中で青になったように思うが、そのまま、歩いていった。

< 中 略 >

その意味で、24年前のPとの出会いから、2年前のその日までの「20年以上」の
ACの記憶の核のようなものが、なんだか、この歩道橋にあるようにも
思えました。それは、妄想でもありますが、しかし、それほどに、この歩道橋は、
つまり、「私が捨てるものの心臓にあたる場所」に思えたのです。

このあたりから、少しずつ、脳の中心に圧力を感じる「回数」が増えてきました。
目をつむって意識すると圧力を感じるようにもなりやすくなり、また、
普段生活している最中にも、ふと、圧力が強まっていることに気づくことも
あります。今もそうですが、ずっと、脳の中心の電源が入っている感じで、
じりじりしています。

嬉しいのは、「ああ、こういうことが起こっているなあ」という他人事、
受動的なことだと感じているのでなく、先ほども書きましたが、これは、
自動的に自然にじりじりしているのだとしても、決して、受動的な意味での
自動的ではなく、自ずと意志が、なんていえばよいのかわかりませんが、
そう、その歩道橋の日の日記には、「中心の怒なり」と書きましたが、
どなっているのです。能動的に、です。上手く言えませんが、それは
私自身だと思うのです。だからこそ、裏切れない。

次にご報告したいことは、「球体」についてです。

これはまだ、これからもっと、いろいろと変化しそうだし、
見ていきたいと思うことですが、いくつか、感じたりしたことを
書きたいと思います。

これは、いろいろなことが、関連しています。
まず、私の「視覚化しようとする癖」ですが、
これが、どうも、強く邪魔をしてきたように思います。

それについて、まず、書いてみます。

私は、かつてはよく、頭痛が起こりました。
どういう頭痛かというと、眉間がすごく痛くなるのです。

それは、今になってわかるのですが、完全に、自分の中心が
(というか、それは中心ではないわけですが)、額の、それはもう、
表皮ギリギリまでつんのめりになって出てきている、といった感じです。
これが極端かつ長時間続くような場合、頭痛として現れました。

しかし、これが、極端すぎない程度の状態は、
実は、私の「常態」に近かったということがわかります。

関心地図をやって一つ気づくことは、私の妄想は、きわめて視覚的な光景から
妄想が妄想を呼んでいるバターンが通常に思います。
この「視覚化」でものを思い出したりする、イメージしようとする時に、
自己観察してわかったのは、その際に、意識が眉間のほうに「つんのめり」に
なっていることです。ここは、妄想が起動しやすい場所です。
ここで起動しやすい妄想とは、おそらく、「言葉」によるイメージ化妄想です。
簡単にいえば、私が妄想であれこれ考えている状態は、この状態です。

ですから、どうも、鼻からの呼吸、というのが、ワークとして上手くいかないと
私が感じるのは、これに関して、かなり「視覚的に」捉えている、ということ
でした。呼吸の経路を、かなり、ビジュアルとして認識しようとしていました。
これは、脳の中心をとらえようとする以上に、その意識が強いものでした。

そうすると、すごく、意識が前につんのめるのです。

そして同様に、「球体」のイメージも、これと同じ傾向がありました。
つまり、球体を描こうと思えば思うほど、その時は、そもそも中心から
離れていて、なんだか、しっくりこないのは、当然でした。

崩残さんより、

>単に、頭蓋骨ぐらいの球体でいいと思います。

というアドバイスを受け、これがやりやすくなってきたのです。

というのは、これは、まず本当はおかしいやり方だとは思うのですが、
この頭蓋骨自体をその球体として「感じればいい」と思ったのです。
もちろん、それは、頭蓋骨そのものですから、中心を保護する球体とは
何か別なものには思ったのですが、ですがしかし、私にとってやりやすかったのは、
「すでにある感覚」を頼りに出来ることでした。

球体を「描こう」とすると、どうしても、白紙に線を描くように、
これから視覚的に描こうとしてしまう感じになってしまうのですが、
「すでにある感覚」「すでにある球体」と捉えると、わざわざ、
描こうとする必要がなくなります。もちろん、それは視覚的な意味で、です。
これは、私にとって、「言語的な意味」でもあります。

いったん、頭蓋骨でもいいから、その骨の存在感覚を頼りに、
「球体」を意識してみると、そこではじめて、こんなことがわかりました。
仕事帰り、家の玄関のそばで、はっと感じ、起きたことでしたが、
「なにも、視覚に頼らずとも、イメージは出来ている・・・ぞ」という発見でした。

それに気づいたとき、もしかしたら、イメージというのは、
視覚化するだけではなくて、もっとほかにあるのではないか、と感じたこと、
それは、つまり、「中心の圧力」を保持したまま、球体もイメージできるのでは、
ということでした。

今も(目を開けながらになってはいますが)やってみると、なんか、できます。
これは、映像としてもとらえている部分があるので視覚化されたものか?と
思ったりもしますが、どうも、違うのです。

感覚がそれを作っている、描いた、という、そんな感じなのです。

不思議なのですが、最初にこれを発見したときもそうでしたが、
頭蓋骨というこのまさにリアルな位置からとらえた球体だったのに、
むしろ、そこから、「自立して、イメージされている球体」といったように、
頭蓋骨から離れています。しいていえば、その上のほう、やや、前方に
イメージされる感じでしょうか。

ただ、その位置はおそらく重要ではなくて(固定的であるものではなくて)、
中心と球体だけが、自立して、「視覚的なイメージでなく」感覚イメージとして
作られ、存在している、この感覚が重要に思います。

そして、おそらく、この発見につながったことの前段階として、
これも崩残さんからアドバイスをいただいたことですが、

「中心で聴く」という捉え方の変更です。

これは、メールを読んだ瞬間に、ああ、とわかりやすく感じたほどです。
というのも、聴く、とまでは自分では思ったことはなかったのですが、
なんというか、「意識が元の場所にひき戻る時」というのは、決して、
視覚的なものではなく、ただ、そこに戻る、という意志なのですが、
この時の、視覚にとらわれていない感覚というのは、私は好きで、
これは、なんというか、「感覚そのもの」が、視覚に支配されることなく、
自由度を持っているような感じなのです。

その自由度をもった感覚の一つが、「聴覚」ではないか、と。
しかも聴覚は、おそらくそれは、人間の場合、特定の方向や部位を
意識させないため(ある意味では鈍感なのかもしれないのですが)、
トータルな方向に向いていて、つまり、それは、
「中心で聴きやすくなっている」のかもしれません。
いずれにしても、やってみると、中心で聴くことは無理がありません。

しかも、それに馴染むと、そもそもが中心で「感じている」ように
思えるようになります。それは、さっき書いた、「意識が元に引き戻る」のと
とても似たような、心地よさがあります。

これはふと思ったことなのですが、
「休もう」としようとしなくても、ここに戻ってくることが、
そのことが「休んでいる」ということじゃないかな、と思ったことがあり、
実際、妄想の時は、視覚化の癖の時と同様、意識が前のめりになり、
ずっとあれこれ考え、妄想を続けている。すなわち、休んでいない。

休むというのは、このずっと続いてしまっている妄想に気づいて、
関心地図もそうですが、意識が、元に「あ、そうだった」と戻ること、
それ自体のように感じます。

となると、不思議ですが、休む、ということの状態に思うのは、
「いつでも戦える」という状態のようにも、私は感じています。
ある特定の何かに対処しなければ、解決しなければ、とある特定の向きに
向いているのではなく、かなり、トータルな方向に対して、「やれる」状態、
そういう感覚があります。

ここ2日くらい、球体に関して、別なことを感じるようになりました。

もちろん、今まで感じていたことも、今も感じますが、
それとは違うものです。

今までは、球体は、「まわりと遮断する球体」としてのイメージであり、
ザワザワといろいろある「外部」と隔てるようにイメージしてきたのですが、
この中心で聴くことで中心をとらえることをやりはじめてから、
もちろん中心はとらえやすいのですが、ふと気づくと、その中心よりも、
「球体の中の空間」がイメージされていることが多いです。

空っぽな空間、といえば、そうだと思います。

ただ、その空っぽな空間に、たとえば、「音」が入ってくるのですが、
音とは、まわりから、なんというか「空気」に導かれて流れてきます。
そうすると、私は、この頭の中の空間は、まるで、「外」のようになります。
外の空気感、たとえばそこが公園のようなところだとすると、
「公園の感じ」が球体の中にあります。

そこで思うこと、感じることがあります。

この知覚は、一部を切り取っている、ということです。
スポットライトのようなものだと思いました。
スポットライトは、外部の一部を照らし、まるく二次元に映し出します。
この脳の球体は、いってみれば、三次元に映し出す球体です。

たとえば、公園の空間がそこにあったとしても、それは
私が今知覚しているものに限定されます。
まるで逆なのですが、今度は、球体の外部のほうが「遮断」されているような
ものです。限定知覚の公園の一部「以外」は、除かれているのですから。

ふと、中心がないように思うのですが、
そう思ってしまうだけで、中心はどうやらあるみたいなのです。

それがわかるのは、この球体での事象、音でもよいですし、
悩みの種になっている妄想、それに連動するシーン、なんでもよいですが、
これも不思議な発見ですが、こういう時は、なぜか、
これらに「引っ張られない」のです。

以前、桜の間にも書かれていたと思いますが、
ただの音、景色として、漂っている、流れさるだけです。
そう、校内放送と書かれていたと思いますが、そういう感じです。

それを「見ている」自分がいる。

中心です。

この時は、いわゆる、妄想につながるはずの光景や視覚イメージを
その球体に「想起」しても、妄想とはならず、ただのイメージ、印象です。

ここまでが、現時点までの、
中心と球体のワークの経過報告となります。

Aby


・・・ ・・・ ・・・


2015.10.11
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-11 09:41 | 復元ノート 1

(前半)心臓から血がほとばしるかのごとく

眠りこけてはいけない。

たったの1秒も、眠りこく時間など私は予定していなかった。
だから、だから、今までの生は、違和感だらけだったのだ。

心臓から、今、血が吹き出し、かつ、枯れえないその心臓の血の、
ほとばしる様と、不思議にも、そこには、深遠な休息がある。

AC人格を焼き尽くす。

「目的」はそれだ。

私は、たとえ全てを失っても、それと引き換えに、
AC人格を奈落の底に落とし続ける。

私は、AC人格だけは、
許すことは、決して、ない。

あってはならないものを、消すのみだ。

自我復元とは、奇跡のようなものだと思う。

人間でなかったものが、人間に戻る。

私はこれほどまでに人間になりたかったのだと思うと
繰り返すが、やることは一つ。ACを根絶やす、ただそれのみ。
「そこまでACを敵視するなんて狂ってる」と言うのなら、
そう、私は狂いまくって手のつけられない狂人になる。

その狂人こそ、「人間」だと思うからだ。

桜の間、そしてそこに書かれた基幹房さんの報告を読み、
私の心臓は、あちこちから、血が吹き出すのが止まらない。

どこまでも、私は、戦士でなければならない。
戦士とは、丸裸の「人間」のことだ。

私は今日、生まれてはじめて
「呼吸」をした。

匂いがしてくる、のではなく、
嗅ぐ、嗅ぎ分ける、という発見があった。
そして、呼吸とは、そして重力とは、その二つは、
まさにリアリティのあるものであった。

リアリティ、それは、「それしかない」というものだ。
今やっている「中心」と「球体」のワークは、
まさに、そのことを体現するためにあると感じた。

AC人格を根絶やすことが目的だ。
ではその目的は何か?
それが、「人間に戻る」ということなのだ。

「人間になりたかった」

ずっと無視してきた自分の声を、必死に、拾うこと。

自我復元とは、「生き方」である。

今、私が死んだ時のビジョンを設定するのなら、
その時点が、最大に生きているクライマックス、というものだ。

それを実現するにはどうすればよいか。

眠りこけないことだ。

1秒も眠りこけないことだ。

「1秒も」だ。

私は、今、人間とはどういうものだったのか、
思い出しつつある。

1秒すら、眠りこけるなど、
未来のビジョンに予定していなかったのが、
「人間」だ。

私は今やっているこのワークを徹底的にやるつもりだ。

「人間に、絶対に、なるために」


◆◆◆


以下、中心と球体のワークの、現時点までの
実践記録として、報告文の中から、抜粋してみたい。


◆◆◆


私が「私だ」と思っているそれは何だったか?ということですが、
一言でいえば、「受信機」のようだ、と思いました。
快も不快も受けとる「ただの受信アンテナ」です。
サンドバックとも言えます。あるいは、誰かに都合のよい抱き枕かもしれません。

それが、私にとって、自分だと認識していた私自身でした。

・・・

私がこれは自分だ、というもの、これが最も自分に近いものだ、という
その自分は、この技法をやりはじめてから10日近くは、ずっと胸と喉の
真ん中あたりに窮屈に圧迫されつつも、そこを「安心」と錯覚する私がいて、
しかし一方、「脳の中心」ということが桜の間に書かれていましたが、
私には、どうしても、中心はその胸と喉の間にありました。

ただ、おかしいのは、にもかかわらず、
それは自分とはまったく距離がある、という認識が同時にあり続けました。
じゃあ、この胸と喉の間の「私」とは、何か?という問題です。

・・・

能動的であることは、受動的でないことだと思いました。
見る、ということは、受動的でサンドバックのようになっている私との
自己同化があってはできません。それは「見て」いません。「感じている」だけです。
ただ、私は、その「感じている私」が、「私」だと思ってきました。

・・・

この「私」という誤認の位置は、受信機として40年以上、機能してきたものです。
そして思いました。これこそが、私が自我復元をやってきて、最初から
ずっと大きな「違和感」と感じ続けてきたものです。つまり、私本人との距離です。

距離とは、それは私ではない、という認識となっているものです。

・・・

先日、呼吸をともなう技法が書かれた時、それをやってみて感じたことは、
書かれていた通り、ふらふらしていたボールが安定した、という感じです。
海に浮かぶブイに、アンカーがついた、そんな感じです。
その日の夜、はじめて思ったことがあります。
それは、「私は生まれてはじめて休んだかもしれない」ということでした。

このあたりのことや、自動性について、また、与えられること、
こういったことは、今もなお、模索中です。リアリティーは明滅しています。

・・・

ただ、今までの経緯として言えることは、
どうも私は、この胸と喉との間の受信機のようなものと同化しやすい、
ということです。そこを安心と思ってしまう私がいるのは確かです。
それは私のAC人格そのものの性質のように感じます。
それが今のところ思うのが、「あんたの言いなりになっているんだから、
私を安心させてくれよ」という、従うから飴をくれAC人格であり、
まさに毒父が植えつけた恐怖由来の飴のもらい方だ、ということです。

しかし、それと「私自身」とは距離があるのは確かでした。
明らかに「異物」に思うからです。それが最も私に近いと思ったとしても
異物は異物です。「脳の中心」ということが書かれていましたが、
そう書かれていたからそうなんだ、ということはしたくなかったので、
その異物に留まることに、一日、10分から30分、時間をかけました。

技法として留まる、ということ以上に、その異物感のある「私」を
意識しながら生活をしてきた、という思いです。

そのようにしていくなかで、では、自分の中心はどこか、となると、
私はあまりどこか?と意識するよりは、その異物が異物であることを
認識し続けると、「異物と感じている今の自分」に意識が移っていくようです。
すると、いつも感じるのは、どうも上の方に「それを見ている主体」が
あるようだ、という感覚でした。引っ張られる感覚も生じ、
それは頭の方に近づいていきます。頭部の存在が、強く意識され、
言い換えると、頭部以外は、おまけのように感じ始めます。

では、頭のどの辺りか、となると、これが、消去法のような感じで
「ここだと距離がある、ここでも距離がある」そうやっていくと、
確かに、脳の中心、鼻の付け根である目の奥の方、しかし奥すぎず、
前すぎず、という「点」になります。

ただそれは海に浮かぶボールのようになんだか、ふらふらした感じが
ありました。それでも、やや安定した感じを自分で感じていた頃に、
「呼吸で安定させる」ということが桜の間に書かれていましたので
やってみると、確かに、安定した、という感覚があった、ということです。

・・・ ・・・ ・・・

(ここまでが、1回目の報告9/21からの抜粋です。
 次は、2回目の報告10/2からの抜粋です。)

・・・ ・・・ ・・・

AC人格の中心と、自分の中心の二つに中心が分裂していて、
AC人格とわかりながらも、どうしてもそちらの中心がメインに意識
されてきたのでしたが、そっち(AC人格側の中心=胸と喉の間の受信器)
への関心が薄れていっているようで、その後も、
そこへの自己同化を見ているのですが、その自己同化が起こらず、
無理に自己同化させようと試みても、胸と喉のそこ=自分、というふうには
感じなくなっています。「頭のほうの中心」「一つ」というように感じます。

・・・

頭のほうに中心があると感じている、ということではなく、
少なくとも、「これが最も自分に近い」と思ってきたその胸と喉の間の
受信アンテナと、「同化したくない」という意識が続いている、ということです。

いらない、と拒否している感じです。

・・・

その頭の中心に、
圧力のような存在を感じるようになってきました。
それまではまったく無かったので、はじめてです。

ただ、これは、いつもコンスタントに、ということでなく、
今のところは、あまり、自分のコントロールにあるとは言えません。
ふと、そうなる、というほうが、傾向としては強いです。

・・・

最初に感じたことは、
頭皮が「ピリピリ」と弱くしびれたことです。

・・・

「磁場」のようなものは、やはり、「頭の中側、内側」にあるようです。
「内側から、頭の縁が刺激されているためになっている現象」に感じます。

・・・

今回の中心で休む技法は、自分の課題、それは、
現実的な意味で、自分にとってリアリティのあるものに感じます。
しかし、あまりそれを意識しすぎると(しすぎてしまっていますが)、
いつも思うのは「休む」ことを忘れてしまいます。
それにはっと気づきます。

この「休む」ということに関しては、
いまだ、休めているとは思えません。
中心を探ることに注力していることに気づきます。
ただ、ここ数日、それだけに注力する傾向は薄れつつあります。
おそらく、中心がはっきりしない場合であっても、
「中心というのがある」という感覚に疑いを持たなくなりつつあるためだと
思います。

先日から中心に圧力のようなものを感じる時のことをもう少し
詳しく書かせていただくと、感覚として、圧力なのでしょうが、
「重力」と表現するのが、なんとなくしっくりして好きです。
「重さ」を感じるからでしょうか、感覚というか存在の圧感です。
(圧感という言葉などないと思いますが)

・・・

作業をおもに目を閉じてやっているのですが、
不思議なのですが、「あ、中心に重力感がある」とふと思う時は、
どうも、目を開けている時が今のところ多かったように思います。
もちろん、それはたまたま、ではなく、目を閉じての作業の一連の中で
しばらく経った後、目を開けていた時、といった感じです。
不思議ですが、仕事帰り、それはいつも夜中の2時頃になるのですが、
ある通りのある場所で、立て続けに、中心の圧力の存在に気づきました。
帰宅の夜道は静かなので、そこでも、歩きながら、(ぶつからないように
時々目を開けながら)、中心で休む技法を15~20分ほどやります。
そのある場所ではたまたま目は開けていたのですが、圧力が強まりました。

・・・

今までのところ、私が最も自分でつかみやすい感覚は、
「意識が引き戻る感じ」です。

順序が逆かもしれないのですが、
意識が引き戻ることで、中心が「ぼんやりとであっても」「思い出され」
我にかえる、そんな感じをいつも感じます。

中心を意識しすぎるのか、「中心、中心」という意識が潜在的にも
強い時は、そもそも、この「意識が引き戻る感じ」でなく、
どっかに出かけてしまっているのです。
それでふと「あ、そうだ。ここだ」と戻ると、そこにこそ、
中心のような感覚が待っているのです。

昨日今日のことなので、まだあやふやですが、
だんだんと、今もですが、
「意識が引き戻る感じ」に私が意識するだけで、
頭皮が薄くピリッと感じると、その瞬間、同時に、
頭の中の真ん中らへんに、「重力の存在の圧感」に気づくことが
出来るようになってきているようです。
これは、今後も経過を見ていく必要がありますので、
あくまでも、昨日今日の話です。

ふと思うのですが、今までは、胸と喉の間だけでなく、
「自分」という時、それは、首から下の身体全体の部分を含め、
すべてそれらは自分、という感覚が当然だったと思うのですが、
中心で休む技法をやりはじめてから、首から下に、あまり意識や関心が
向きません。もちろん、それは一日中そう「頭だけ人間」のように感じている
わけではなく、仕事中など、全身を使っているわけですが、
自分一人になったときに、という意味では、頭だけ人間のように、
それは極端かもしれませんが、そう思う時があります。

・・・

目を閉じていることと開けていることについて思ったことは、
目を閉じていたほうが、おそらく圧力の存在を「はっきり」感じやすい
のだと自分でも感じるのですが、その中心が見当たらない時、
どうも目を閉じていると、おそらく「目を閉じている分」私の場合、
妄想が幅をきかせやすい傾向があるようです。

以前、崩残さんが言われていたと思うのですが、
目を閉じることで、妄想が起こりやすくなります。
といって、では、目を開けているのがいいのか、というとそうではなく、
「中心に圧力を感じている時」は、目を閉じても、ちゃんとあります。
むしろ、目を開いていると、「気化するように、均一に薄まっていく」ような
密度の分散があり、目を開けているのがデメリットに感じることもあります。

・・・

球体状の部屋のイメージについてですが、
最初は、なにか、この球体をイメージする「一人部屋」を思うだけで
「安心する」ような気がしました。
中心がわからなくても、なにか、安心したのです。

ただ、これは、気分主義のようなものでもあり、
イメージから与えられる安心で、あまり、それに固執したく
ありませんでした。

それでも、イメージは続けています。

・・・

それでも、今までイメージはしてきたのですが、
一番ゆらゆらするのが、「大きさ」です。

・・・

呼吸のイメージで、ということですが、
これも昨日反省したことは、
今までは「なんとなく息を吸っていた」ことに気づきました。
意識的にやっていたつもりでしたが、中心がわかりはじめたとき、
これはもっと、ゆっくり、正確にそこまで持っていく必要がある、と
感じました。そうでないと、ほとんど、意味がないように思いました。

今までどうも勘違いしていたのは、
その中心の高さの位置を「少し下」に捉えていたようです。
ですので、呼吸をすると、途中でその道筋が枝毛のように分かれてしまい、
到達点がわからなくなる、ということがいつも起こりました。
「もっと下なのにな」という思い込みがあったのですが、
それはどうも思い込みで、目の高さより「やや」上め、というのが
おそらく今のところ捉えている位置です。
最初思いこんでいたところは、今思うと、鼻の穴の高さぐらいで、
ちょっとそれは低すぎたようです。

前回報告させていただいた時は、呼吸がアンカーのような感じで
安定してきた、と書かせていただいたのですが、
それからは、結構、呼吸のイメージは、不安定な毎日でした。
吸っているのに、呼吸が外に出ていってしまっているようにも感じたりして
とにかく、よくわからないことが多かったです。
今もこの呼吸のイメージが強い助けとなっているわけではないのですが、
目と閉じて中心に正確に導くようにすると、呼吸の軌道が
しっかり定まる、といった感覚はします。

・・・

「意識に引き戻る」というのが、自分にとってわかりやすいと感じる要因の
大きな一つと思えるのは、この状態は、関心地図をやっているとき、
「自分に意識が戻る時」、つまり、関心の対象に意識が飛んでいってしまって
いる時でなく、その関心の動き自体を監視する位置に戻る時の、あの状態に
酷似しているからだと思います。

関心地図についてですが、最初、すごくわからなかったのは、
かつて記事の中で、「その関心が消えるところまで見届ける」というものが
あったと思いますが、関心を見届けようとすればするほど、
その関心から頭が離れない、これが記憶から消えるまで、というのは
いったい、どういうことだろう?と、かなり、悩みました。

これも、ここ一ヶ月ほどでしょうか、だんだん、わかりかけてきたのは、
関心が消えていく、というよりも、
「私が、その関心から引いていく、引き戻ってくる」ということが、
つまり、関心先に出かけていってしまうのでなく、
「関心という遠くの事象」から元の位置に戻る、ということが、
実は、「見届ける」ということだとわかってきました。

今までは逆だったのです。

関心が一番近くにある。

それを遠くに押しやろうとする、そして消えろ、とやる。
それを確認することが「見届けることだ」と。
そう思ってきて、やってみても、かえって、それに捕らわれる。
その繰り返しでした。

誤解していたのは、
「関心」のほうが、「遠くに」あるという事実に
気づいていなかったことです。あたかも、関心が原点にあるかのように
そこからその関心を追いやろう、としていたことになります。


・・・ ・・・ ・・・


『(後半)心臓から血がほとばしるかのごとく』に続きます。

後半では、3つ目の報告10/9を、一部を編集し、ほぼ全文を掲載します。



2015.10.11
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-10-11 09:21 | 復元ノート 1

9月をふりかえる

文末の探している該当記事ですが、すぐに見つかりませんでした。
少し時間がかかるかもしれませんが、わかり次第、リンクしたいと思います。

10/3 追記 Aby



生きにくいと感じたり、不安を感じたりすることに対して、
対処の仕方を、最近、意識的に変えようとしている。

しばらく前に読んだ「気分主義」に関する桜の間の投稿を
今朝も思い出した。

40年以上、少なくとも、私が覚えている生活習慣は
「気分」に支配されていた。
では、その気分とは何だったのか?

誰がその気分というものを「作り出そう」としているのか?
何が、今の私の気分を盛り立てたり、ゾンビのようにさせたりしているのか?

私がいつも思うのは、それは
「自分ではない」ということだけは確かだった。
それは、つまり、「自動的だ」ということ。

当然、それに、私は従いたくない。

すると、何が起こるか。

決まって、それは、生きにくいと感じる。
そんな冷静にそう感じたりするようなものでなく、
これはつねに、その「自動的に引っ張ろうとしてくる奴」の存在に
今も、また今も、と、気づき続ける作業のことだ。

私は、その状態を、
「好きだ」
と断言する。

この何も出来ない自分(と定義され続けた自分)を、
私は生き直そうとしている。
この一ヶ月は、よく思った。選択は無数にある、と。

これも相当前になると思うが、桜の間に書かれていたことだが、
AC人格は、複雑に考えることができない。
AC人格は、無数の選択など求めていないからだ。
ずっと繰り返している、ほんのわずかなパターンしかない。

AC人格の耳障りのいい選択肢だけを選ぶことが
許されてきた人生なのだ。それは、親が決めてきたレールだ。

しかし、本来、現実には、
選択先は、必ずしも、耳障りのいいものばかりではない。

このことにも私ははじめて気づいた。
気づいた、というより、それをやっと
「歓迎できる」ようになった。

私がずっと不安と思っていたことは、
決して、私が逃げたりする理由など、
たった一つもない、ということ。
むしろ、その不安の扉の先の、その無数の選択こそ、
本当は、今までも、自分の目で見ていかねばならないことだった。
なぜなら、「それが自分に現実に起こっていることだから」だ。

そして、不安の扉の一歩手前は、
最大に思える生きにくさが門番となっている。

毒親が埋め込んだ「自動的選択」をもし私がとらねば
苦しくなる、という罠が必ずあるからだ。

しかしここでも、この苦しさに甘んじてはならない。
そう意識することで、ここは、必ず、抜けられる。
苦しいことを直視している、と考えることすら甘えになることが多い。
苦しいと認識することがいいのではなく、
ここは闘いの場であり、引くか引かないか、という状態にある。

今朝もまさにその闘いであったけれど、
徹底的に、私の生は、手動的でなければならない、と。
それは、徹底的でなければならない。
どこも自動的であってはならない。
つまり、それが気分主義は私は絶対にとらない、という態度なのだ。
私が過去、「気分」と定義したものに、
これからの私は、用はない。私はそれに頼らない。
動力は、私の意思、それだけでいいからだ。

苦しいことは楽しいことなんだ。

不安もまた楽しいことなんだ。

生きにくいこと、結構じゃないか。
生きにくいと正常に感じられるようになったのだから、
「生きにくい」と感じて悶絶するほど喜んで然るべきだ。
これは大袈裟ではなく、本当に、そう思う。

今日の投稿の最後に、嬉しかったことを二つ書いておきたい。

一昨日、ついに、自分のパソコンを買った。
そしてモニターも。

ところが・・・

昨日、A社からお知らせの手紙が届いていた。
A社とは、今回、自分のネット回線を契約するために工事を依頼した所だ。

他社の電柱の使用許可が必要なことが判明し、
さらに一ヶ月以上、工事まで時間がかかる可能性もあり、
最悪、A社では工事ができないことがあります、
といった内容だった。

今までなら、私はただショックを受け、
それは相手への不満だけで終始しただろう。

でも、今回は違った。

お手紙に、「鋭意努めているところでございますが」と書かれているのを見て、
「頑張って!」と思った。

私は、A社が電柱の使用許可が得られるのを、じっと待とうと思った。

それは、自分がこの一ヶ月やってきたことに対して、
私自身に対してとるべき姿勢だから。

そしてもしも許可が得られなかったら、その時は、また私が動けばいい。
今から不安がる必要など、ちっともない。
きっとA社は勝ち取ってくれるさ、と思うし、
ダメでも、私は、よりピシッと立ち、
さあ、やるか!となることは、自分でわかっているのだから。

経験することは、楽しいことだ。
たとえそれが困難であっても、上手くいくことであっても。
ただし、最初から最後まで、

「AC人格」

に頼ってはいけない。

パソコンとモニタだけ先に届くことになるけれど、
今から、私は、このパソコンの「名前」を決めている。
ネットにつながなくても、ローカル設定というのは出来るみたいなので、
名前をつけるところまではできそうだ、と思っているところ。

もう一つ嬉しかったこと、というか、
一人で久々に笑ってしまったことがあった。

今度買ったPCに内蔵のHDDのことをネットで調べていたとき、
一連の書き込みを見ていて、ある人の書き込みに対して、

「馬鹿が本気にするからやめろ」

と書いてあるのを見て、思わず笑ってしまった。
まったくだ、と思ったからだ。

今までは、匿名だからって言いたい放題だな、
とくらいしか思わなかっただろうが、
今回は、このコメントこそ、リアリティがあった。

それから考えた。

馬鹿とは何だろうって。

それは、「自分の頭で考えないで済まそうとする怠惰な人間」
のことだ、と。
むろん、AC人格は、そもそも自分の経験ですらないから、
自分の頭で考えることなど、ありえない。
ただ、AC人格から抜けようとするのなら、少なくとも、
「自分の頭で考えようとしようとする努力」は、
どんな人間でもできるはずであり、やらねばならないことであり、
それもしない怠惰な人間が、「馬鹿」なのだ。

それに、AC人格は完全な間違いをしている。

それは、AC人格は、「自分は正しい」と思っていることなのだ。
AC人格であるかどうかに関わらず、つねに自問とは、
「自分の頭で自分は考えているか」を、生きても死んでも、
問い続ける姿勢のことであって、安易な答えなどどこにもないという
れっきとした事実すら、AC人格は見ようとしない。

私は、ずっと、自分は馬鹿じゃないと思ってきた。
むしろ、まわりの人よりずっとまともだ、と、
40年以上、それを疑うことが一度もなかった。

しかし、この頃、他人に接したり、他人が話す姿を動画で見たりすると、
どれほど私が、親のレールの上に用意した本当にわずかな反応だけで生き、
世の中の複雑さから、結局、「逃げまくっていた」人生だったか、と
感じるようになった。

鵜呑み、曲解、傲慢さ、怠惰さ、

この「馬鹿のオンパレード、馬鹿の定義そのもの」が
私に強いられてきた人生だった。

馬鹿が本気にしてきた生、
それが今までの私の生だった。
あまりに味のない、無味乾燥な生。
・・・どころか、有害。

私は、馬鹿にはなりたくない。

時間がかかってしまったが、先日ようやく
桜の間で紹介されていた動画「ツァイトガイスト」を見終えた。
私は、ここで話されている方のように、
「自分が生きている自分の生」を生きていく正常な機能を
とり戻していこうと思う。

10月の目標。

自分の日記は、「自分の今日の一日」をしっかり書くこと。
今までの日記は、それができていない。
苦しいとかいって、逃げ回っているだけじゃないか、って。
死んだとき、残るのは、「嘘のない日記」だけだ。
自分の1%しか書かないのなら、それだけの生でしかなく、
その後の生もそれだけの生を選ぶに決まっているのであって、
それが嫌なら、必死に日記が書けるようになれ。


◆参考記事◆

桜の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?S494

もう一つ、本文の
>これも相当前になると思うが、桜の間に書かれていたことだが、
>AC人格は、複雑に考えることができない。

と書かせていただいた部分ですが、今探してみて、
該当の記事が見つからないので、わかり次第、
こちらにリンクをさせていただきます。


2015.09.30
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-09-30 16:16 | 復元ノート 1

③鎖と怪物

「②鎖と怪物」の続きです。


・・・


Pの母親、P、これを血祭りにあげてきた。

そして、これから血祭りにあげていくのは、
残る一人、毒父、真に許すべからず者を、だ。

これを書くために、この「鎖と怪物」を書いてきたといってもいい。

この8月は、仕事での復讐心、今もなお、毎日仕事していて
「ああ、反応しているな」と思いながら、それでも直視し、解除しようと必死なこの復讐心が
いったい、どこから発生しているトラウマなのか、それは日々の現実のどうにかすべき問題だった。

昨日、それでも思ったことがある。

この仕事、いつまでやるかわからない。
だけれど、私は、

「絶対に、仕事を好きになってこの生を終えたい」

と思った。仕事が本当は大嫌いだった父。あなたが私に埋め込んだ歪みは
あまりに大きい。だけれど、きっと私は、仕事を好きになれるだろう。
いや、本当は、「嫌いだ」というこの毒父の声を解除していく、ということだろうが、
その中で、きっと、私はこの生を、自分の生として、旅し、謳歌し、
全身全霊で生きていけるものと、私は信じている。
最初にも書いたけれど、そういう思いを阻害するものを、
私は許さないだろう。

今も、私は、このけだるさが私を奪っていくものと闘っている。
ACとの闘いは、思い返すといろいろなタイプがある。
刺すように殺してくるような決死の闘いもあれば、
真綿でじっくり絞め殺すような闘いもあった。
それはいずれも苦しく、しかし、そこにあったのは、
闘っている自分だったのであり、こういう経験が、「今生きている」という
私がこの生で経験したことがなかった、ああ、本当にこれだけは経験できてよかった、
とそう思う自我復元であった。

昨日、今日、私に襲い掛かるACの手口はそれとは違う、
非常に嫌な、本当に嫌な、タイプだ。
たとえると、手術台に寝かされて、麻酔無しで刃物で刺されるのが
先ほど書いた前者で、酸素がだんだんなくなって苦しくなっていくのが後者だとすれば、
今度は、麻酔を打たれ、無力化され、立つ力がだんだん奪われていく、
そういうものとの闘いだった。

しかし、「それでも」とあがき、寝こけてなるものか、と
目を見開き、希望のほうでなく、許されざる事実のほうだけを見ていく。
それが、今の私だ。

「どうでもいいんだ、別に」

ボクはそう思っているんだ、じゃない。
そうではなく、誰が、私をそういう無力で、使い物にならない人間に
薬漬けにさせて、殺したのか、それが問題なのだ。

話がそれてしまったが、Sさんとの衝突から始まり、Rさんがらみの妄想、
この数ヶ月はそればかりだった。その事実直視と分析に多くの時間と労力を費やした。
結果、その復讐心は、すべて、毒父の「おじちゃんへの恨み」、ひいては、
「ババへの恨み」の感染、感染といっても、それは実際の、子どもの頃から日常生活のなかで、
両親のそういう歪んだ顔と会話が、私の仕事観を形成してきたことを見てきた。
これはとても影響力の強いもので、今なお毎日が格闘中だが、
先ほど書いたように、私は、仕事を嫌いでは終わらせない。

そして、投稿①と②で書いてきたのが、
「依存心」をテーマにしてきたものだ。
この人生、私のものではない、恐怖心と依存心と復讐心、「毒父の」それらを
私は生きるように強制されているというのが「事実」であって、
ありとあらゆる「飴」は、ただの「飴」だ。

元にあるものが、これらへの強迫観念なのだから。
思い描く理想や希望など、その強迫観念の一反応でしかない。

そして、③でいよいよとりあげるのが「恐怖心」だ。

結果、私は、この毒父を

「怪物」

と認識した。

自分の上にいる私を罰することのできる得体の知れない存在。

これが、怪物、である。

そして、私はこの怪物に「失せろ」と本当に言える力をとり戻すこと。
これが、自分を取り戻すことだと考えている。

「どうでもいいことだ、別に」

で済ませられる問題と済ませられない問題がある。
それは「AC人格でも」という意味でだ。

どうでもいいことだ、と無気力になって、
刹那の快楽で誤魔化せるのには、限界がある、ということだ。
これは、死後、それが露骨に見せつけられることになるだろう。

一つ言えることは、
死後は、いや、死後でなくてもそうなんだけれど、
絶対誤魔化せないことがある。
それは、自分が思っていることは、嘘はつけない、ということだ。

こういうことを実感した出来事を今から書きたい。

かつて、罪悪感というのを掘ったことがある。
その時、どうしても上手く書ききれなかったことがあった。
なぜなら、今はそれがわかるが、それは恐怖心からだった。
ただ、それは、あまりに怖いことだったので、
恐怖心を見たくない、とすら考えもしないでスルーした、というのが正しい。

先日、私は、この恐怖心はどうしても掘らなければならない、と思っていた。
それは何だかわからないが、とんでもない恐怖。
妄想だけで、完全にとり乱す恐怖だ。

拷問が怖い、という話は何度も書いてきたけれど、
私が恐怖している話がある。
これは、どこできいたのか定かではないが、
ある女帝にまつわる話だったと思う。

愛人をとられたことに怒り狂ったその女帝は、
その女の手足を切断し、目をつぶし、耳も聞こえないようにさせ、
しゃべれなくさせ、井戸のようなところに幽閉し、汚物のようなものを食べさせられ、
気が狂って死んでいった、という話だ。

私がこれを思い出す時、
実は、本当に恐怖なのはこれ自身ではなく、こんな妄想を私が展開させた時なのだ。
それは、

「ざまあみろ」

と、「頭の中で思ってみる」という妄想だ。これだけでも、私はとり乱しの極にいる。
ここを私は今回、何が恐怖なのか、思考停止せず、掘ってみようと思った。
この恐怖はおそらく私を絶対に最後は奈落の底に落とすことのできる強迫観念だと
思ったからだ。

そして、何が怖いのか、そこで、「自分もこういう目にあっていい」と心の中で言った時、
足、身体、全身から血の気がひいた。さらに、「あと3秒以内にそれは嘘です、と言えば
許される」というのをやってみる。3秒たっても言わない、ということをやってみる。
この時点で、相当な恐怖だったと思う。しかし、とどめの恐怖は、私がこういうことを
心の中で言ったときだった。

「そういう目にあう生を契約する」

もう、契約す・・・と思った瞬間、私は、今のこの人生の天と地が反転するほど、
「なんてことをしてしまったんだ」という、「取り返しをつかないことをしてしまった」という
強烈な恐怖で完全に一色になり、私は、部屋の中で恐怖でどうにもならなくなった。

早くキャンセルしなきゃ、と思いつつ、しかし、
私はキャンセルしなきゃではなく、この恐怖が何なのかを知りたかった。
正直、調べよう、などという心境ではまったくなかったが、それでも、
私は、この自虐的な展開で遭遇する恐怖は、私にとって絶対に無視できないものなのは、
私自身が一番よく知っていたから、どうしても、「嘘です、許してください。聞き逃してください」
とは言いたくなかった。それで楽になることは知っていた。

崩残さんからも、もしもこんな話をしたら、
なんでそんなことをしたんだ、心で唱えただけでも契約は契約になってしまいます、
と言われるだろう、とか、また、そもそもが、崩残さんに話して、
大丈夫と言ってもらいたい、とか、そうやって怖いから話そうとするんだ、とか
あれこれと、それは、ある意味、「予想通り」の妄想が展開した。
だからこそ、予想通りだからこそ、これは解決しなければならない問題だった。

ここからは上手く書けるかわからない。

ただ、のたうちまわった末、わかったことは、
そもそも、このずっと続いた妄想のすべては、
「私が作り出しているものだ」ということだった。

これは、職場でのAC人格を見る時もよく思うことだった。
Rさんから私はいじめられている、外されている、と思うけれど、
それはどう考えても「妄想の中で」起こっていることで、
現実に起きていることではない、という認識。

そして、まず私が思っていたのは、この
「どうしてこんなことをしてしまったのか」という恐怖心と、
「取り返しがつかないことをしてしまった」という恐怖心が何なのか、
という問題だった。

自我復元を始めてから、一度、事件を起こしたとき、
私は崩残さんから消される、抹殺される、と思った。
いや、これはいつも思うけれど、そういう恐怖は、消されるとか抹殺されるとか、
冷静に言葉でなんて考えていないし、今も、言葉で考えた実感はなく、
ただただ、本当に何も食べられなくなったという経験が、これが人生初だった。

この時も、同じことを思ったのだ。

「どうしてこんなことをしてしまったんだ」と。
それは、自分が思ったともいえるし、崩残さんからそう言われている、とも思った。
どっちがどう、なんていうんじゃなく、「なんてことをしたんだ」というその目の前が
真っ暗になる体験に、生体反応をすべて失った、という経験だった。
「取り返しがつかないことをしてしまった」と考える頃は、少し、そう言葉に
出来るだけでも、思考が少し動き始めた時かもしれない。そこで恐怖は固定される。

タイムカード不正事件の時も、今思えば、
これと同じことが起こっていたのだ。
随分前のことになるけれど、崩残さんに、この事件のことと、
もう一つ、ブログには書かなかったけれど、自分の妹にしてしまった過ちについて
まるで懺悔のように、とり乱し書いたメールがあった。
思いがけず、それがきっかけで、毒父の毒のメスが入り、今に至っているのだが、
この時、自分ではわかっていたけれども、とくに言わなかったと思うのは、
これは何を想定して怖がり、崩残さんに自白したのか、という点だ。

それは、私は死後のことを恐れていた。

こんなことでしこりを残し、死後、後悔や恐怖が煽られ、
「あなたそういうことをしたんですよね」と言われたら・・・と思うだけで
自分はコントロールを失うことは自分でわかっていたから、
もしも今、崩残さんに自白しなければ、
「なんであの時言わなかったんだ」という、これもまた、
「なんでそういうことをしたんだ!」という恐怖に、私はその時、耐えられなかった。

これは程度を薄めながら、
やはりどう考えても、私の中の恐怖と同質のものになっている。
だから、今回はどうしても掘らなければならなかった。

こういう内容的なことを、のたうちまわりながら考えながら、
しかし、これが少なくとも、「私が作り出しているビジョンだ」と気づいてから、
ある時、もう一つの、決定的な事実に気づいた。

そもそものこの妄想の前提に、
私は、ある存在、後に「怪物」と認識することになる者、
「私を裁き、罰することのできる、得体の知れない存在」を想定していることに気づいた。

そういう存在が、いる、ということ。

その存在を想定しなければ、
そもそもこの妄想は妄想として成立しない、と思った。

「ナンデソンアコトヲシタンダ」
「トリカエシノツカナイコトヲシタ」

という言葉だけでは、そこに恐怖があるわけがない。

その裁きを与える存在が、死後もいて、今も聞いている、という
大前提がある。

ここまで思うまでには相当時間がかかったが、
それでもそうだ、と思ったことは、
この存在が、私に「許す許さない」のジャッジメントを与えていた。
「私」は、その存在と対話していた。

その「私」は、他ならぬ、その存在を作り出している「私」だった。

それが、実の私ではない、と至る。

死後、もしも、

「Abyさん、あの時、心で思ったよね。
それでも成立するんだよ」と言われても、私はこう言うだろう。

「失せろ」

と。なぜなら、目の前のそいつは、私が作り出した「虚像」だからだ。
拷問だろうが何だろうが、私が「選んだ生」なら受け入れるだろう。
なぜなら、自分で受け入れると決めた生を、自分の生というからだ。

しかし、お前は誰だ?

私は私の意志で選択する。

それ以外は、私は一切従わない。

自我復元を始めてから2年半、ようやく、この宣言に近づいた。

最後に血祭りにあげるのは、毒父、お前だ。

この巨大な「怪物」は、誰だったか。

そこがようやくピタとつながった。

「なんてことをしてしまったんだ・・・」と血の気を引かせて、
「取り返しのつかないことをしてしまった」と思わせ、
「だから、〝あなた〟に自分はどうされてもしょうがない」と思わせ、とどめを刺す。

その〝あなた〟は誰だったのか。

私はそれが毒父とつながったとき、
この私に裁きを与える者を「怪物」と認識した。

私を罰することのできる人、それが毒父だった。

物的証拠はほとんど残していない。
もはや完全犯罪とも言えるほどに、父はありとあらゆる洗脳を
格言などを乱用し、「美談」にすりかえることに成功した。

しかし、あなたの目は、親の目じゃない。

「親に従わないやつは、殺す」という目だ。

あなたは、本当に、そう思って私と接したはずだ。
とくに言葉が通用しない幼少期、そうしたに違いない。
そして私に植えつけられたものは、

「逆らったら、殺される」

という恐怖だ。私はあなたに逆らうことだけは考えもしなかった。
あなたは、一言もそう言わなかったし、手もあげなかった。
しかし、この「なんでそんなことをしてしまったんだ」という恐怖、
「取り返しのつかないことをしてしまった」という恐怖は、

「あなたから」

与えられている恐怖だ。

それは一言でいえば、

「許さない」

というメッセージだ。

それがどれほどに巨大なものか、
あなたにわかるだろうか。

「許さない」などと
他人に言ってよい存在がいてはならないのだ。

それは、他人に、子どもに、
自ら自分自身が、自分の主であることを、
その当然の権利を奪うことなんだ。

親は絶対だ、というあなたがそう思いたいから、
絶対の親になる。そのために、あなたがやったことはなんだ。
あなたの目は、殺意に満ちている。

「逆らったら、殺すぞ」

それ以外の目で、子どもだった私を見たことがあるか?

私は、ない、と断言してあげよう。
あなたに自覚など求めていない。
それはPに泥棒との自覚など求めていないのと同じだ。

ただ、事実は、

Pは泥棒であり、

あなたは人殺しだ、

そういうことだ。

桜の間で、死後、真っ暗な空間に閉じ込められたら、
誰かを求めてしまう、それをしでかしてしまう、と書かれていたのを思い出した。

誰か、と。

これも、かつて別の設定で桜の間に書かれていたと記憶しているけれど、
真っ暗闇に投げ込まれたとき、「誰かいますか?」というのが、
ようやく、人間として、決して当たり前の反応でないことを
今回初めて知った。

そう、

「ここはどこだ?」

これが、少なくとも自問する最初だろう、と。

それはどういうことか、というと、
そこに「私」がいる、ということなのだ。

誰かではなく。

人生の、人生でなくても、これからの航路を決めるのは、
「私」という一人の主人しかいない。

どうしたらいいんだろう、ではなく、
どうして、どれもできる、あれもこれも、ああなんていろいろなんだ、
楽しいし、苦しいし、わあ、めっちゃ、どうしていいのかわからないよ!

という意味で「どうしていいのかわからないよ!」と
ワクワクする心持ちで、なぜ未来を見られなくなったのか。

それは、それを感じる私がいないからだ。

ずっとその「怪物」の顔色をうかがってきたのが
今までの私の生ならば、私はこの先が何も見えない真っ暗闇でもいいから、
それでも、「私一人」が、この舟の漕ぎ手でなければならない。

それは、まさに、

「ここはどこだ」

から始まるのだ。



2015.08.31
Aby

●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-08-31 23:54 | 復元ノート 1

②鎖と怪物

「①鎖と怪物」からの続きです。

とどめを刺しきっていこう。


・・・


Pと過ごしてきて、一番、強烈な偏りを感じたことは、
自分の価値観への執拗なまでの執着だった。
Pの言う「常識」とは、自分の価値観のことであり、
Pは、本当に、「自分の価値観と違う人間は、存在すべきでない」と
本気で考えている。

これは誰の考え方かといえば、
まるっきり、毒P母の考え方であることがわかる。
毒P母と接してきて感じてきたのは、彼女の「横暴さ」である。
自分の考え方こそ、唯一、存在していい価値観だ、というものだけれど、
彼女にしても、Pにしても、それは斜に構えて済ませていられているものじゃない。
自分の価値観とは違うものへの「拒絶」ともいえる思考停止状態は、
AC人格の強迫観念そのものだからだ。

Pの過去は、常に、毒P母から何もかもを「与えられてきた」ことだ。
よく話していたのは、みんなと同じジャンパーや筆箱、テレビ、そういうものを
買ってくれたり、許してくれたことはなく、「これはいいものだから」という強制で
与えてきたこと。Pは、それは不満に感じていたらしい。みんなと同じがよかったのに、と。

ただ、この話をきいていつも感じるのは、
それでも、「ママは正しい、正しかった」という思いに、Pは完全に取り込まれていることだった。
不満だったけど、今思えば、ママは正しかった、あながち、悪くなかった、
と、こういった思いを抱いているように私からは見える。

Pからは、「何でもしてくれたママ」ということになっている。

しかし、実体はそうではない。

「何でも尽くしてくれる最良の母親を演じることで、
自分の価値観を、すべて、強制、コピーしようとした」

というのが、実体ではないか。そして、与えたのは、それもおそらく恐怖だ。
自分の価値観とは違う者への「人間とすら認めない眼差し」だ。
これは、私も毒P母と接してきて、言葉ではないところで感じてきたことだった。
私のことも、人間として見ていないことは、そういえば、私自身、知っていたところがある。
しかし、だんだんと、Pに尽くすことへの評価(というか、尽くしてくれているに決まっているよね、
そうよね、そういう素晴らしいパートナーなのよね、Abyさんは本当にいい男性だ、と
繰り返し繰り返し、私に、あるいはPを通して刷り込んできたというのが本当のところだ)に
私はまんまと騙され、あっしー君ちゃんとやっているかしら?という程度に
この20年、「監視をし続けられた」というのが、本当に起きていたことだ。

「これがいいものなのよ」と言葉がわからない幼少の頃は
恐怖を与え、ときに笑顔を与え(そう、これがきっと私の場合も幼少期の洗脳の仕方であり、
言葉でおぎなうように洗脳を強化していくのは、おそらく小学生に入るくらいからだったろう)、
大人になるにつれて、「これがいいものなのは、大人になればわかるのよ」と。
実際、Pは完全に洗脳されていた。

「大人になって、ママがいかにいいものを与えてくれたかがわかった」

そうよく言っていた。そう言う人間に、毒P母が育てただけであり、
まったくその通りのことを言う、そういう人間に本当になっただけである。

しかし、見ていくとわかってくるのは、毒P母の本当の目的は、
「いい母親と思われたい」とかではまったくないことがわかってくる。
つまり、これは、当然、トラウマの世代間連鎖であり、
自分が母親からされたことの復讐なのである。
それはどういうことだったか、を書いてみたい。

毒P母がPに対してやったことは、
「価値観の強制」だ。

「P、あなたの価値観なんて持たせるわけないじゃない。
あなたの考えなんて持たせるわけないじゃない。
自立?ふざけんじゃないよ。させるわけないじゃない。
ワタシができなかったのに、娘のあなたにさせるわけないじゃない。
あなたに自分の生き方なんてさせない。」

これが、価値観を強制したことの目的だったはずだ。
そして、まんまと、湯水のように「これがいいものよ」とド過保護に与えに与えられ、
骨抜きにされ、本当に、自分では「何もできないような人間にさせられた」のが
Pなのだ。

ここ一年弱、ひとつ屋根の下で、Pと険悪に過ごしながら、
Pへの介入をことごとく切っていくなかで、この一年弱、Pを見ていて
度々、あることに気づいたことがあった。
「何一つ、私との間で作り上げたもの以外のものを、Pは作り出せない」
ということだった。

簡単にいえば、食習慣というものは、私はPと一緒に食事をとらなくなってから
以前とは違うものを食べるようになった。
しかし、Pは相変わらず同じものを食べている。
多少アレンジしようと、基本、同じなのだ。
これは食に限らない。生活全般、仕事全般にわたって、
何も彼女の「オリジナリティー」と思えるものを作り出したり、探し始めているとは
まったく感じられないほど、つまり、与えられたものだけを「使いまわしている」だけなのだ。

つまり、私から見ていて、
何も自力でやれなそうに見えるのだ。
実際、何もやれていないのだが。

あるのは、自分の価値観への執着という強迫観念と、
当たり前のように誰かが何かをしてくれることを、当然のように待っているだけ、
という状態、そして見ていてわかるのは、そういう人が現れない今のワタシは不幸なのよ、
と、意識的だろうが無意識的だろうが、私にあてつけている。
こういう「すべての思考展開」が、毒P母からすべて完全に「与えられたもの」であること、
仕組まれたものであることに、本人は気づくこともなく。

まず、血祭りにあげなければならないのが、毒P母だ。

あいにく、私はP一族の話を詳しく聞いたことがない。
しかし、それでも、毒P母がどうしてそのようなAC人格になったかは
数少ない場面から、想像することができた。

毒P母は、3姉妹のうち、長女であり、
長男が一人いるが、その人(以下、おじさま)は、毒P母の弟だったはずだ。
女(毒P母)→男(おじさま)→女(妹)→女(妹)という年齢順の兄弟姉妹構成だ。

今、おじさまが住んでいるところは、
この兄弟姉妹の母親、つまり、毒P母の母親(以下、おばあちゃま)が昔から住んでいた
古い家であり、もう亡くなって10年近くになると思うが、存命中は、おじさまとおばあちゃまが
一緒に住んでいた。ずっとそうだったわけじゃないみたいだが、おばあちゃまの夫が無くなり、
介護の必要が出てからは、長男であるおじさまが面倒をみていた。

そして、毒P母は、Pが小学生の頃、今のこの地に引っ越してきた。
つまり、結婚して少しは離れていたけれど、10年もしないうちに、
「お母さん」の住んでいるその家の「そば」に戻ってきた、ということだ。
それが、今、私とPが住んでいるこの家である。

そして、おばあちゃまが亡くなり、この家を私たちに渡し、
新築を建て、その直後、夫(Pの父)は亡くなった。
その新築の家はどこにあるか、といえば、
まさに、その「自分のお母さんが住んでいたその古い家」の隣の敷地に建てたのだ。

どこかで見たことのあるストーリーではないか?

これは、私の父が、兄(おじちゃん)から母親を奪回するために
そばへそばへと引っ越すように近づいてきたのと、すごく似ている。
つまり、何が似ているかといえば、「母親からの支配構造が似ている」のだ。

長女として生まれた毒P母は、
やがてその下に「男」が生まれた。

これは、完全に脅威な存在だったに違いない。
男尊女卑が根付いている中、そして何より、跡取りとして資格のある「男」が
生まれた、ということだったと思われる。

思うに、この時点で、毒P母は、「おばさ」としての運命を
強制されたのだ、と私は感じた。
それを最も感じたのは、毒P母本人だったろうし、
そう感じさせるように仕組んだのは、毒P母の母親、おばあちゃまだったろう。

親戚付き合いはあまりしてこなかったが、
それでも冠婚葬祭その他の行事の時に立ち振る舞う毒P母の動き方は、
いかにも「しっかりしたお姉さん」というものだった。

今、これを思うに、ああ、これを強制したのは、
おばあちゃまだったんだな、って。
長女として「しっかり働く存在」だけが、彼女の存在理由として許されたものだったんだな、って。

この「しっかり」という基準は、
ではどこから得られるのか。

これは言うまでもなく、それを認めるのは、
おばあちゃまなのだ。
だからこそ、おばあちゃまの前で必死に働く姿を見せる。
もちろん、亡くなった後もだ。

Pと毒P母が似ていると思うのは、
自立、自立、と口で言いながら、
何も自分だけのもの、作ってもやってもいないじゃないか、ということで、
たとえば、今、毒P母は短歌などの歌の世界で「自立してここで生きています」と
まるで人生を謳歌しているかのように振舞っていたのを覚えているが、
この短歌という歌の世界、誰の世界かといえば、ずっとおばあちゃまがやってきたことなのだ。

何ひとつ、自分のものなどない。

そういうことか、と思ったのは、
しっかり者として利用し、働かせるために、価値観を強制し、
しかし、何でもお嬢様のように湯水のように与えてきたに違いない、と。

そして、それに甘んじたのは、P同様、毒P母自身なのだ。
ママの価値観のまま従っていれば、ワタシはママに「人間扱い」される。
弟(おじさま)からワタシに注目を移せる。
ワタシは良識のあるしっかりした長女。ママはワタシに何でもしてくれた。

こういうことを、つまり、まったく同じにPにやったわけだ。

重要なことは、ここに植えつけた「恨み」だ。
「ワタシはそうやって生き延びてきたんだ。
あなたに自分の生き方なんてさせるわけないじゃない。
ワタシの価値観に従ってればいいのよ。」という恨みだ。

それを誤魔化し、はぐらかし、飴にして与えたのが、
「全自動身体洗い機」としての親像であり、その飴の親像が、
ずっと彼女たちの人生をコントロールする。

そして、Pに「私」を与えたことで、
高らかに笑ったのは、毒P母だったろう。
ざまあみろ、これで、ずっと骨抜き人生を送れよ娘。
お前の人生なんて、尽くしてくれる人がいなければ不幸なんだよ。

これが、私に言った、
「今、ワタシがわかるのは、娘のPが今不幸だ、ということです」
ということであり、とっととAbyは娘のところに戻って「ずっと不幸のままにしとけよ」
それがAby、あんたあっしー君の役目なんだから、と、そう言いたいのだ。

要は、尽くしてくれる人がいようがいまいが、
不幸のままずっとそこから出すまい、というのが、毒母の本音だ。

そのように見てみると、
Pの父が存命中のあの家族の振る舞い、
とくに毒P母の様子は、ただただぬる~い毎日に
怠惰な生活を「これが優雅な生活よ」と他人を馬鹿にし、
常識だの良識だのというただの自分だけの価値観、すなわち、それ、おばあちゃまの
考え方を振りかざし、その城の中だけで妙にしっくり納まっている。

そして、数年前、Pの父(毒P母の夫)が亡くなり、
いかにもワタシ、今、自立しています、という素振りをしている。
考えてみれば、私の母もそうだった。父と別居しては、自立をしているかのように振舞っていた。
結局何もできず、借金だけして、父の元に戻り、死ぬ最後まで、
そのぬる~い生活に甘んじるだけ甘んじた。

そして、今、こうやって同じ家にいながらも
分断しているような生活を送るPの姿も、本人は自立っぽく生活し仕事をしているつもりでも、
これら、毒P母や私の毒母の姿と、なんら変わるものではない。

「ワタシのことは、誰かがやってくれるのが当たり前」

という考え方。そうやって皆、「骨抜き」にされたのだ。自分の母親によって。
自分の考え方だ、やれ良識だ常識だ、などと血眼になったところで、
それ誰の考えなんだよ、っていえば、「おばあちゃま」でしょ、と。
そしてじゃあ、それでリアリティーのあるものは何が残ったんだよっていえば、
毒親によって植え付けられた「飴」の部分、「あっしー君がワタシを幸せにしてくれる」
だったでしょ、と。

P、あなたの母親があなたに「全部」をあげたのは、
決して愛情ではなく、そしてあなたその「与えてくれた」と勘違いしている愛のような
錯覚は、「強制された価値観」だ。自立をさせてなるものか、だって、ワタシ、
おばあちゃまに「しっかりした子」と思われるために頑張ったんだから・・・ドラえもん?
絶対見せないわよ。あんなのは、暴力的な漫画だから。筆箱は皮のしっかりしたものよ。
だってそれがいいものだから(とおばあちゃまも言っていたから)。みんなと同じ?
あなたはみんなと違うのよ。あなたはみんなと同じ馬鹿になっちゃいけないんだよ。

これがいいものだ、これだあれだ、と
文句を挟む余地なく、過剰に与えに与え続けたのだ。
今さら、「みんなと同じがよかったなあ」などと反発のような言動をしたところで、
もうそこにリアリティーはゼロだ。完全に「ママ」に毒されている。
Pを見ていて思う。自立なんて、さらさらする気がないのだ、ということを。
今、やれることといえば、やせ細り、「今のワタシ、不幸」と私にPRすることだけだ。

私は、あなたの全自動身体洗い機でもなければ、
何でもやってくれる道具でもない。

主任の、私のACを喜ばせた一言で気づいた。

「Abyさん、いつも居てほしい」

あなたのためにいるんじゃないんだよ。
何を勘違いしているんだよ。

あなたたちがやっているのは、
己というそれぞれの領域を土足で踏みにじりあう
「搾取し搾取される」という境界線もへったくれもない行為なのだ。

そして、一番、言わねばならないのは、
搾取された側がいるだけ、というのはありえない。
搾取している側がいる。

あなたが、幸せ、と勘違いし、飴と錯覚し、
あなたたちが私にやっていることは、

「搾取」

というものなのだ、ということ。

搾取したい、と言って、やっていることなのだ。

たとえそれが親から仕組まれた洗脳による飴であろうと、
それは他人にしていいことではない。

私は、あなたを守りたい、あなたのために、と
そうやってきたことは利他的な精神だと思っていた。
しかし、それは滅私奉公であり、元をたどれば、そうすることであなたが私という存在を
「全部、受けとめてくれる、認めてくれる」という「ババ由来」の毒父のトラウマだ。

主任に自動的に反応した感情がこれだ。

妙に心地よい一体感。
それは、実体は、「境界線の破壊」を意味していたのだ。

「さあ、入ってきていいよ」

そう抱きしめたくなる誘発は、相手が泥棒とは知らず、
さあ、どうぞ、と家の鍵を開けるその瞬間だ。

相手は、決して、私を愛してなどいない。

ただ、搾取しようとしているだけなのだ。

これが、

「搾取し」

「搾取される」

という構造の全貌だ。


「あなたがしてきたことは、搾取だ」


これが鎖を断つ斧となる。


・・・


「③鎖と怪物」に続く。




2015.08.31
Aby


●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○
[PR]
by jh-no-no | 2015-08-31 23:53 | 復元ノート 1