カテゴリ:無明庵に再び辿り着くまで( 5 )

無明庵に再び辿り着くまで ⑤

④に続いて、「内職のもうひとつの動機」を
書いてみたいと思いますが、昨日、このことを考えていたら
繰り返し、育った家庭からの影響のことを考えておりました。

なぜかといいますと、そのもうひとつの動機、
その内容については後述しますが、そもそもその内職の動機、
「わたしが~をしたい」という、表面的には一人遊びに見えるものが
あまりに不十分、不満、未練を残したままであった、
という結末に至るのは、いったいどういうことなんだろう?
ということを考え始めると、どうしても育った家庭について
再び考えざるをえなくなるからでした。


今までわたしは、他人に対しては、
「したいことを我慢することないよ。やってごらん」、
「したくないないならやる必要なんてないよ。いつやめてもいいんだから」、
と何度も何度も、他人には躊躇なく言ってきました。
ここに躊躇があったり、作りがあったりすれば、
それはわたしの父そっくりなので
「屈折した気持ちの裏返し」という理解もできますが、
わたしがこのように発言することに、わたし自身、
なにも躊躇するものはありませんでした。

わたしの母がわたしに躊躇なく
そう言い続けたのと同じです。
(父も言動のうえでは同じように言っていました)

ですので、躊躇、というよりも、そこにあるわたしの違和感は、
「わたし自身に対してだけは、その例外だった」、
という点です。

つまり、こういうことだったと思います。

わたしはしたいことを我慢することも苦と感じていなかったし
したくないことをすることも苦と感じていませんでした。
むしろそれはその時期その時期、その場面場面で
必要とされていることに思えたので、
その必要性にこたえることに
自動的に反応してきたように思います。

耐性のようなものが
もしかしたらあったのかもしれません。

嫌だと「心底」思っていたら、NOと言えたはずです。
わたしはNOと言える環境にずっといたからです。
ところがわたしは、拒絶しませんでした。
NOというほどのものではない、と甘くみたともいえますが
わたし自身はなめていたつもりはなく、むしろ
誠実にとりくんでいるとさえ思っていました。


自我復元を始めてからは、このわたしのスタンスこそ、
自分を切り売りしている、自分を裏切っているという
表現につながってはおりますが、
何度もこのブログにも書かせていただいた通り、
その表現を選択する自分にも戸惑いがないかといえば
いつも不安になります。


なかなか今回の内容に入れていませんが、
この「戸惑い」に関連したことを
先に書かせてください。


・・・ ・・・


梅の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?U1846

にリンクされていた「世界は日本をどう見ているか」
という動画を、昨日、拝見しました。


最近、このブログを書き進めていくうちに
わたしのなかにある恐怖、怖いという感覚に天秤が
傾きかけていた感じがありましたが、
この動画を見て、ぐっと天秤が戻されました。


裏切ってはいけなかったのに・・・
という当初の思いが、歪められていない事実に押されて
見ている間、ずっと涙が止まりませんでした。


この時代のことはもちろんわたしは知らないのですが
わたしが教わり伝えられてきた事実より、
この事実は、わたしには迫ってくるもの、
揺り動かすものがありました。

このときの涙は、
「ぐっと過去にふり戻されたときに溢れ出てくる涙」
のように思われました。

これに似た涙を一度、経験したことも思い出しました。
身近な人をわたしは過去に亡くしましたが、わたしはそれから
数十年という長い時間を経た、ある時に、自分でも理由がわからない、
わけのわからない泣き方をしたことがあります。

悲しいとか、そういう感情が沸いてきて・・・というのではまったくなく、
まず涙がただ溢れてきて、声はむせぶ程度で出てきません。
過去の、ただその過去の存在がありありと迫ってきて、
その迫りくるものが止まないかぎり、涙が止まらないのです。


なぜ泣いているのかわからないまま
泣いてしまいました。


昨日もそうでした。
この動画を見て、生まれていない時代のことなので
記憶はあるわけないのですが、これは
わたしにとっては、明確、なものでした。


ここでも毎度のように自己矛盾が発生するのですが、
わたしが育った環境、そして今のわたしの仕事も、むしろ、
このような動画を毛嫌いする、見もしないで馬鹿にしたり、
否定したり、拒絶したりする人がまわりにたくさんいる人のなかで、
わたしは育ち、仕事し、現在もしています。

それは決して他人事ではありません。わたしもそうです。
なんでも社会のせいにすることが、それが都合がよかったから
という理由だけで、わたしもそう生きてきたのです。
幼い頃はそうでなかったと思っているのですが
いつの間にかそういう生き方を選んでしまっていました。


ここに自分の意思があろうはずもないのです。

ただの「反動」でしかありません。

他者、時代、社会、そういったものの反動としての
中身のないリアクションです。


他人次第ですから、ここに怯えがないはずがありません。
どこかわたしの恐怖、この怖いという感覚は、
自分の意思がない、他人まかせで自分で自分の責任がとれない、
ということにも由来しているように思いますが、
ここはまだ考察していかなければならないところですので
断定はできません。しかし、確かに思えるのは、
わたしの天秤は、わたしでない誰かに
そのバランスを握られています。

たとえば、今回の動画を見ては、束の間
怖いという感覚が錯覚であること、
怖がらなくてもいいことを思い出させてくれます。


いったん、天秤は平衡を保ちます。


次の瞬間、他者が(自分自身もその他者にのっかれるわけですが)
幽閉や拷問の恐怖を持ち出してくれば、一発で、
そのリアリティこそが事実になり、天秤は一瞬で傾きます。
逆にいえば、その恐怖が麻痺している限りにおいては
なんとか正常を保ったような気になれることになります。
こうやってわたしは、わたしでない誰かにつねにふりまわされ、
よくよく見つめてみれば、わたしの気持ちは怯え続けています。

わたしが笑ったことがない、と思うのは、
おそらくその道化の最中も
「その後の展開が他者次第だ」という不安定さに
怯えているせいかもしれません。

このわたしの他者からのアクションに対する
「ただの反応」という条件反射のような性質は、
前回のノートにも書いた通り、それは母親そっくりだ、
ということですが、その意味では父親も
「別な意味で」同じ類であり、両親とも


〝自分の言葉を持たない〟


という意味では、一致していました。


父親の場合は、その言葉は「すべてがただの受け売り」で
母親の場合は、その言葉は「すべてがただの反射、反動、反応」でした。

受け売りの言葉と反射の言葉をきき、その中で
わたしは育ってきた、ということになります。

そして見事にわたしは、その「受け売りの言葉」を
対外的な言葉として用い、まわりの環境と出会い、整え、作り、
また、その「反射の言葉」を、その言葉イコールわたし自身の意思、
と錯覚させ続けて、今までの人生をすごしてきました。

まさに団塊世代の両親の特徴を
一人の人間に圧縮したようなジュニアが
「わたし」だと思いますが、結果としては、
母親側の性質をわたしが持ったようです。


ここまでのことを昨日考えていたとき、ふと、
父親側の性質は、今、どのような影響をもたらしているのだろうと
考えたとき、今まで考えもしなかったことですが、
ある一人の人(以後、Pさん)のことが思い出されました。
わたしと共同生活、共同作業をしてきた人です。


なんと、Pさんは、わたしの父、そっくりでした。


自立できないで、受け売りの言葉だけ。


わたしはわたしの父そっくりの人を見つけて
わたしはわたしの母と同じように、
「Pさんの自立をうながす世話役」を
長いことやってきました。


このわたしとPさんの構造は、
わたしの母と父の構造のそのものだったのです。


そう考えた瞬間、あの二人の今現在の姿こそ、
わたしとPさんの未来像だと、しっくりもきました。
文句と不満を言い合いながら、結局は依存しあい、
世話ごっこという囚われの監獄で一生を終える姿が
想像されました。


受け売りでいい格好ばかりしている父やPさんは
それゆえ、一人では何もできない。自立できない。


このことは、実は、母やわたしにとって
都合がいいという面があったのです。

というのは、母やわたしは、自分がからっぽだ、ということは
他者がいないと何もできないのと同義だからです。
相手が自立できないから「自立しなさい」と「言う」という
リアクションができるだけで、それは意思でなく反応です。
自立できない父とPさんに自立を促しつづけるという
「叶うことのない試み」を死ぬまで続ける。

叶わないと知りつつ、「自立しろ、自立しろ」と言ってくれる人が
自分のそばに居続けてくれることは、父やPさんにとって
都合がよいことでもあるのです。だって、一生叶わないのですから
ずっと居てくれることになります。
一人では何もできない父やPさんには好都合です。


これが「世話」というものの実態ではないだろうか・・・


そう思うと同時に、わたしは両親を「世話という営みのモデル」
にし続けてきたように思います。
世話の典型的なモデルをマスターするために、この両親の
子どもに生まれたのではないか・・・とさえ思いました。

現実に、わたしは母のようになり、わたしは
父のようなPさんと出会いました。
世話という監獄は監獄でありながら、その囚われは
つねに私たちにとって


「しかたがないもの」


だったのです。


しかたがない、という状況に居つくことは
これほどに酷いものはないと今は思っています。
(思い出しましたが、この「しかたがない」は
父の口癖の一つでした)

この「しかたがない」という状況に居つくというのは、
まさにそれは「したいけどできない、したくないけどする」
という状態であり、なにより、それを自分が選んでいる、
それでいいと認めている、というところが
最悪です。

さらに最悪なのは、わたしの悪癖として
わたしの思考パターンや分析や解説というのは、
その「しかたがなかったことに整合性を持たせる」だけの
役割と機能しか持っていないことです。

この最悪なまま生きていったら、わたしは今まで通り
ああだこうだ、といいながら、しかたがなかった状況説明を
「相手のアクション」を悪用しながら、応答を連ねていく。
簡単にいってしまえば屁理屈です。
そういう人生になることは、目に見えていますし、
実際にわたしは今までそればかりを
してきています。


何が言いたいのかわからない、
不愉快で、鬱陶しい人の典型的な言動です。
(わたしの父もまさにそうでした)


そういう言動の中で登場する個性や自由という言葉、
そのわたしが描きうる個性や自由などは
父親のごとき「受け売りの個性像」と
母親のごとき「反動としての自由像」でしかなく、
他者依存以外の何ものでもありません。
「他者」には、人だけでなく、時代や社会、まわりの環境も含みますし、
都合によってはその他者に「自分自身も入れこんで」、
自問や内省と錯覚しながら、やれ個性だ、やれ自由だ、と
のたまうだけです。わたしが、もろ、それでしたし、
そこから今も抜け出せません。


そこでわたしがいつも思うのは
「本当に抜け出したいのか?」ということです。


他人からきかれたら「抜け出したいです」とこたえます。
では、自分の意思でちゃんと言いなさい、と言われたら
もしもわたしが嘘をつかなければ、黙ってしまうはずです。
なぜ?ということでなく、本心がわからないからです。
「たぶん抜け出したい」と言えるのがせいぜいなのです。

このもどかしさは当然ですが、あります。
わたしも両親もあるはずです。
あるはずですが、囚われ続けている。
この状態のよしあしといった意見だったら何でも言えますが、
自分の意思として意思表明はできません。


個性、自由、責任。この言葉、わたしは昔、
耳にたこができるほど聞かされてきました。
耳にたこになってしまったので、忘れていたほどです。
今朝、梅の間の砂手さんの記事を拝見し、
そっくり思い出しました。
(まさに歪んだ家庭に育ってステレオタイプの
団塊世代の両親でした)


梅の間の記事
http://www.mumyouan.com/k/?U1846


付和雷同・・・

まさに、受け売りだけの〝付和〟と、
雷がなれば同調する、なれなければ同調もできない
反射だけの〝雷同〟。

世代批判ということについてもその通りでした。
たとえばわたしがそれぞれ個人を批判しても、
まったく効き目がありませんでしたが
父という役目や、母の責任ということにふれると
完全にとり乱してしまうのです。

まわりからみれば、それはその人本人ではなく、
まとった衣服のようなものをつついているだけですが、
その衣服を脱がされてしまうと、ダメ出しひとつで
大混乱、命取りになりました。

これもまったく他人事ではなく、わたしもそうで、
このわたしの脆弱性については
両親のそれ以上かもしれません。


また、団塊世代の「自分へのこだわり」ということも
書かれていましたが、この自分へのこだわり、
実は、今回書きたいと思っていたことは、このことにも
深く関係しているようなことでした。


「内職のもう一つの動機」


についてです。


随分とまわり道をしてしまいましたが
そのことについて、以下書いてみます。


◇ ◇ ◇


このブログにも書いてきたと思いますが、わたしは
どうも男性が苦手です。男性的な考え方も苦手なんですが
そもそも生理的に苦手なのだと思います。
どの男性もダメ、ということはないのですが
苦手なタイプが多いです。

電車でもしも座るとすれば、両隣が女性の空席を探します。
あれだけ近いと、生理的に反応してしまいます。
美容院でも「女性の方をお願いします」と言うようにして
いつも女性の方が担当でした。
女性なら誰でもいいわけではありませんが
たとえ男性的な感覚の方でも(そういうケースは多々あります)
それでも、女性とともにいることを望みます。

わたしが内職を始めたのは、
「世話という監獄での役目を維持し続けるため」
という目的がありましたが、なんとかわたしは、そこでは
男性とあまり出会わないですむような環境を求めました。
できたら女性とだけ接するような、そういう仕事を
したかったのです。

今思い出しましたが、以前、そのために広い意味での
エステのようなものを学びたいと思っていました。
少しですが、本も読んで勉強しました。
女性限定のエステのようなものをやりたかったのですが
現実的ではなかったので、やめました。
当時の状況としては、言葉と言葉の交流、
コミュニケーションを通じて、女性と接することが最も
現実的でしたので、そのような内職を
手探りではじめることになりました。


話は前後してしまいますが、内職をはじめる直前にも
もう一つ、わたしには興味のある分野がありました。
思えばそれも母譲りの分野で、幼い頃から好きでしたし
得意な分野でした。今も好きです。

結局この分野の仕事をすることは、今に至るまで一度も
叶わなかったのですが、ほんのわずかな時間でも
この分野に関わることができた、そういう時期がありました。
出稼ぎのような生活に疲れ、経済的にも苦しくなったので
それから離れざるをえなくなってしまったのですが
それでも、ほんのわずかな時間でも、わたしは
「自分がやりたいことがやれた」と思いました。


内職のときもそうです。


「わたしはやりたいことをやった」


そう思ったのです。


その当時は、まさか自分が「世話という監獄」の中に
いるとは思っていなかったので、むしろわたしは
好き勝手なことをやっている、やりたいことはやってきた、
と思っていました。

実際、自我判定をはじめて依頼するに至った背景は、
無明庵から離れて、「自分がやりたいことは、やった」という
感覚があったように思えたからこそ、ふみきれたことでした。
(同時に、それでも十分に思えなかったから、
自我判定を依頼したというのも、一方で事実です)


では、そのわたしのやりたいことをやった、
その結果、わたしに何をもたらしたかというと、
その不十分さ、不満、未練でした。


この不満や未練を満たそうと、わたしは妄想をしました。
妄想のなかで、なんとかしようとします。
そうすることこそが「楽しさ」なのだと思おうとしながら。
そして未だわたしはこの「楽しさのようなもの」
以外の楽しさを知りません。

しかもその「楽しさのようなもの」を繰り返すべく
自ら不満や未練を作り出します。
中毒のように。


このような妄想のなかで、わたしは
「自分だけで楽しめる、一人で楽しむ」こと、
純粋に一人遊びといえる遊びを楽しめたことはなく、
(といっても、一人遊びを知らないので、こうも言えませんが)
不満や未練の反動、反射、反応に依存して
「楽しんでいるだろう自分」、その自己確認に終始します。
(きっとこれも、他者からの反射でしか言動が出てこない、
自分の意思がない、というものの相似形の現象に思えます)


ああ、わたしは楽しんでいる・・・

これが楽しんでいるということなんだ・・・

わたしは楽しい・・・


という自己確認を、レイヤーがズレているような
気持ち悪さを感じつつも、そうだ、そうだと思おうとする。
思えなくても、まず思おうとする衝動がある。


こんな毎日を繰り返していることの
どこが楽しいのだろうか?


この自己矛盾は、とんでもなく
居心地が悪い。虚飾がどこもかしこも
巣食っている・・・


「やりたいことは、やった」といいながら
不満と未練たらたらなわけで、
十分やり尽くした、という感覚を残すことは
今まで一度もなかったのです。
やりたいことはやったはずだ、という証明と言い訳、
確認作業があっただけで、それは、結局、
しかたがなかったことの分析と解説でしかありません。


どう言葉でおぎなったところで、
不満と未練たらたらは、たらたらなまま。


なのに、「やりたいことはやった」と
「どの口が言うか」とそう言い返すわたしもどこかにいます。
自我復元をはじめたいと思ったのも、そうでした。


やりたいことをやったとは思えない。
どこも楽しくない。ビクビクしている。
これがまともな状態といえるか?
この状態は、昔から何一つ変わっていないじゃないか。
これからも変わらない。本当にそれでいいのか?
今日死んでしまったら、それで本当の本当にいいの?
いいはずがない。


たまたまわたしは、幼い頃の写真を
見ていました。もう随分昔の写真です。


〝裏切ってはいけない〟


〝この子は笑っていない〟


いろいろな気持ちがぐちゃぐちゃなまま、
まとまらない思いを、自我判定の依頼文に書きました。
このままではだめだ、どこかおかしい、
どうみても今の状態がまっとうとは思えない、
その違和感だけを頼りに依頼文を
書き進めました。


2013年頭に分割自我復元法を開始し、
それから4ヶ月、はじめて自我判定を
お願いすることになります。


2013.07.28
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-28 18:48 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ④

無明庵に辿り着くまで、という一連のタイトルで
③まで書いてみました。

ここまでのすべての記事を振り返ったときに、
ブログに書かなかったいくつかのこと、
少なくともあと二つのことを、追記という形で
書き足したいと思います。


ひとつは、
育った家庭での「母親」からの影響についてです。


「努力と恩返しという囚われ」というタイトルでも
育った家庭がわたしにとってどんな環境だったのか、
前半・後半の記事にわけて書いてみましたが、
そこに書いたのは両親といっても、おもに
「父親からの影響」でした。


ですので、今回は母親からの影響について、
掘りおこして書いてみます。


もうひとつについては、
出稼ぎのようなものから戻って始めたこの数年間の内職、
その「内職を始めたもう一つの動機」、つまり、
「わたしの役目を維持し続けるため」という動機以外の
動機について書きたいと思っています。


 ちょっとだけ、前書きをしてから。


・・・ ・・・


③まで書いてきて、

「(今までブログで書き連ねたような)問題が、
すっかり解決されたら、それでわたしは、本当にそれでいいのか?」

という問いかけ、わたしが現状をどう認識、分析しようが、
最後にはこの問いが自分にはねかえってきます。


前回の③でいえば、
「幽閉されたりせず、拷問にもあわない世界ならいいんですね?」
と言われたら、その人に有り難くついていってしまうんですか、
そんなんで本当の本当にいいんですか??
というふうに訊かれたら、それに「はい」と答えることに、
躊躇するわたし、それには従いたくないわたしがいます。

つまり、ブログでここまで書いておきながらですが、
「じゃあ、それらが解決したら、それでいいんだね」といわれると、
そこに違和感を一切残さないかといえば、
それは嘘になるような気がしてくるのです。
そのような嘘に自己同化したら、その瞬間、
「わたしはわたしを裏切ったことになる」
そういう感じがずっとどこかに、あります。


自分を裏切らない、そうならない為のこのブログですが
わたしはおそらく矛盾するふたつのことを、今まで
言ってきてしまっていると思います。


前回の投稿のように、「怖いから自我復元を始めた」のか、
最初の投稿のように、「恐れていないわたしがいるから自我復元を始めた」のか、
そのどちらなのか、それともその両方なのか何なのか、
ここを考えはじめると、わたしは毎回、頭が真っ白、
どう考えていいのかわからなくなってしまいます。

今もそれは依然として混乱したままで、上記二つのことを追記して
考えてみたところで、何かがクリアになるとも思えませんが
せめてその混乱を見えるようにしておかないと、
なんだかその亡霊のようなものに、毎回毎回コントロールされて、
すごろくでいえば、どんなに「6」が続けて出ようが、ふと気がついたら
「ふりだしにもどる」にコマを進めているだけで、何ひとつ、
この不毛感と取り繕い感は、弱まることはありません。
どんな角度で切ろうが、金太郎飴は金太郎だ、というもので
ずっと同じことを繰り返しているだけです。


・・・前置きが長くなってしまいましたが、
  「母親からの影響」から順に書いてみます。


◇ ◇ ◇


わたしにとって父親からの影響は、まだ掘り出し中とはいえ
母親のそれと比較すると着手しやすいものでした。
わたしの父親は「いい格好」をしたい人でしたから、
本心は別なところにあっても、言葉で取り繕うことは日常茶飯事で
わたしへの影響もその言葉を通してのものだったと思います。


努力、恩返し、、、


そういった言葉がわたしの思考パターンに影響を及ぼしもしましたし、
結果、大人になってからのわたしのまわりの環境というものは、
その影響をうけながら、自然と誘われるようにできあがった感じです。

その様子については、このブログにも書いてきました。

なぜ、父親がそのような大人になったか、ということについては
とくに書きませんでしたが、おそらくそれは、父親自身、
本心を相当抑圧されて育ってきたからだと思っています。
生育暦を見てみれば、誰から見ても察しがつくほどの過去です。
精神的な暴力とACの重複が強く見られました。

そのような父にとって、取り繕う言葉だけの、表面的な衣服こそが
父のアイデンティティでしたから、子どもから見ても
それはわかりやすいアイデンティティでした。


「お父さんは、いつもいい格好ばかりしている」


本心が「あまりに」抑圧されすぎているので、
それが滅多に顔を出してこないため、とりわけ
わたしの幼少期は、父の言動が矛盾することは
滅多にありませんでした。
少なくとも子どもの前ではそうでした。

かなり背伸びをして
立派な父親でいようとしていたと思います。
教訓のような、名言のような、本人の言葉でない言葉を
わたしはよく耳にしました。
(わたしが名言集などをよく手にしたのも、その影響も
強いかもしれません)

本心を隠し通せたまでの時期(わたしが成人するくらいまで)は、
対外的には「子煩悩で、やさしいお父さん」と
たいていの方からは見えたと思います。
わたしも、そして家族のみんなもそう思っていましたし、
ある範囲に限れば、たしかにその通りだったのです。
実際、身体的にも精神的にも、暴力をふるったことは
なかったと記憶しています。
(正しい記憶かどうかはまだわかりません)

その意味では、暴力的な影響ではなく、
むしろ暴力的でなかったために、
標語のような人生訓としての父の言葉を

「そっくりそのまま、それを信じた」

という影響を、わたしに強く残しました。

父親本人にわたしを調教しようとするつもりはなく、
自分がいい格好をするための行動でしたので
これを調教といってよいかわからないのですが
影響があったことは、たしかです。


一方、母親について、この数日徹底して
掘ってみようとしましたが、疑うに疑ってなんとか
しっぽをつかんだものの、大変にわかりにくいものでした。


まず、わたしの母親は、子どもを蔑んだことは
おそらく一度もありませんでした。


子どもとやりあうとしたら、母親は同じ視線に降りてきて
子どもがわかる言葉で、つまり、大人という武器を捨てて
戦ってくれました。つねに一対一で、誰かや何かを味方に
つけたりすることも、絶対にしませんでした。

思春期に入っても、反抗期に嫌な記憶はなく、
わたしにとっては「会えば喧嘩する、してくれる人」でした。
母親にとっても面倒な子だったとは思いますが・・・。

また、母親としての責任を子どもの責任に
すりかえるようなことは、わたしの記憶では
一度もなかったと思います。

いったん喧嘩の土俵を降りたら、敵味方なく
嫌味なく手当てをしてくれる、そういう人でした。
「Abyが小さい頃は、ひっぱたいたこともあった」と
母は言うのですが、あまり覚えていません。
少なくとも、理不尽で抵抗できないような状態でわたしが
我慢した、という記憶がどうも見つかりません。

わたしの記憶では、とくに母親はそのような印象でしたから
トラウマとなるような記憶がなかなか掘り出せずにいます。
父親以上に掘りおこしが難航しています。
父親同様、継続的に過去を思い出していかなければと
思っていますが、最近、母親からの影響で、
とても大きなものが見つかりました。


それは、わたしの行動パターンが、
わたしの母親とそっくりだ、ということでした。


「まわりに自立を促し支えることばかりにエネルギーを費やして、
では自分は何をしたいのか?と訊かれると、
まったくといってよいほど、自分の意思がない」

という行動パターンです。


母親のそういう行動パターン自体に気がついたのも
ごく最近のことです。相当母を疑って見て、
はじめて見つかった母親の癖、行動パターンです。


母は子どもたちにだけでなく、夫(父親)を含め、
まわりの環境にいる人たちに自立を促そうとしていましたから、
無責任な発言をしたりすると、誰に対しても
「あなたは自分の意思はないのか」と言っていた気がします。
鮮明な記憶はないのですが、母親自身もそう言っているので
おそらくその通りだと思います。

ですから、まさか、「母親自身に」自分の意思がないとは思えず、
父も母に対して、「自分がよければいい人、世界一我がままな人」
と言っていたので、わたしもてっきり、そう思っていました。


なぜそれを思い出したのかわからないのですが、
よくよく考えてみたら、母親は自分の意思など一つも言ったことがない、
むしろ、まわりのために常に頑張っていた人だったことを
あらためて、ふと思いなおしました。


まるで自分の意思がないような、
お人形さんのような人です。
整っていますが、ひんやりとしているという印象は
見た目としても、お人形さんそのものです。


まわりに自立を求め、まわりの人が自分の意思を持てるよう、
その環境を作ろう、支えよう、促そう、とすることと、
それを促す人が自分の意思を持っていること、
そのふたつのことは、似ているようで
まったく違うことでした。


考えてみれば、母親は夫に仕事の上でも家庭の上でも
「自立」を促し続けましたが、成功したことは一度もありません。
成功どころか依存が強まり、今後も夫(父親)が自立する
ことはないだろうと、誰が見てもわかるような状況です。
しかも、母親本人もそう思っているにも関わらず、
それに囚われている・・・

ここにもしも、母親自身に意思があれば、まだそこから逃げて
自分の人生を生き直すといった選択肢もありますが、
母親自身、自分の意思がないのですから、
たとえ自由な身になっても、そこで思考停止してしまうのです。
実際、お互いに離れて生活した時期もあったのですが
その時期を母親はまったく活かすことができませんでした。


「こういう状態が嫌だから」と思って行動することと、
「こうしたい」という自分の意思を持つこと、
そのふたつのことも、似ているようで
まったく違うことでした。


せっかく自由な身になって、自分の仕事を持っても、
結局は、夫の世話役に戻ってしまうのです。
それで不満を言ってばかりいる。
かつてのような自立を謳うその勢いさえ失い、
「どうしていつもこうなってしまうんだろう」
というため息の毎日。その繰り返し。


母親について、ここまでのことを観察し直してみて
やっと、わたしはここではじめて


「これはわたしそのものだ」


と思ったのです。


わたしは、まさかそのような母親と似ている、
同じだ、とは思ったことがありませんでした。
それどころか、母親がわたしに言い育ててきたとおり、
わたしは自立した人間として「自分の意思をしっかり持った」
そういう人間だと、そう思ってきたので、
なぜ母親がその囚われから離れられないのか、
なぜ自己主張しないのか、わたしには疑問だったほどです。

そんな母親をわたしは支えたいとも思いました。
実際、ここ20年近くは、そう思いながら母と接してきました。


とんでもないことでした。


お前がそんなことしている場合か。自分はどうなんだ?


わたしこそ、母とそっくりの行動パターンであったし、
母親をサポートしている場合ではまったくない、他人のことを
言っている場合ではまったくない状況に置かれていたのは、
わたし自身でした。

「自分のことは別にいいから」と、いつもまわりを優先する
わたしの行動は、母そっくりです。
そうやってわたしも母同様に、自分の意思が希薄なまま、
幼い頃から過ごしてきました。

なのに、それにまた気がつかなかったのには、
母親の言動にも原因があったと思います。
「Abyは自分のことばかりで、本当にマイペースだった」と
過去をふりかえっては、よく言っていました。
(よく考えてみると、このセリフは、父が母に向かって
言っている言葉となんら変わりません)

わたしもそう聞かされてきたので、
ああ、わたしはマイペースで自分のことばかりやっているような、
そういう子どもだったんだ、と思いこんでいたところもありました。

ところが、よくよく考えてみると、わたし自身は
そんなにマイペースでわがままに振舞った記憶がありません。
「わたしのことは別にいいからさ」とよく言っていたほどで
たいていにおいて、親兄弟姉妹を優先したはずです。
(両親はまったくそう思っていない、というのを
成人してから知って、えっ?と思ったことがありました)


こういう妙なすりこみの意識も、なにからなにまで、
コピーかと思うほど、母と似すぎているのです。


そしていざ蓋をあけてみると、
わたしも母もあまりに自分の意思というものがない。


意見はあっても、意思がない。


誰かがたたかなければ、何も音がでることがない太鼓、
空洞の太鼓のよう。


母もわたしもそうですが、この意思の希薄さ、曖昧さ、
ある意味、意思すら無いように思える言動は、
抑圧されているのとは、どこかが違う感じです。
誰も抑圧していないのですが、なのに意思を「言わない」のです。
空洞の太鼓ですから、鳴らない、言えない、
というほうが正確かもしれませんが、
とりあえず、いざ、あなたはどうしたいの?と言われると、
「とくにないです」となってしまいます。


ただし、嫌だという主張はあります。
これは母もわたしも頻繁にありました。

ノーと言える、というときこえはいいかもしれません。
わたしも母も、ノーはどの局面でも言ってきました。

相手が親であろうと、上司であろうと、誰であろうと
納得がいかないときは、必ず「NO」と言ってきました。

ところが、思い返すと、「わたし自身がこうしたいからこう」
ではなくて、「まわりがこうだから、こうは嫌だ」という展開のみで
そこに自分の意思がないのです。
「嫌の種」を蒔く人がいてはじめて、それは嫌だ、
という意思表明ができるだけで、それは意思でなく反射です。
③の記事のように、「~が嫌だから、こうする」というのは
他力本願の、ただの反動のようなものです。


自動的に他者の言動に反応しているだけで
自身のビジョンがどこにもありません。


このブログのなかでも、わたしは、
「~だけは嫌だ」「~したくない」という表現だらけで
「~したい」という意思は(言葉でそう表現していたとしても)
一つも見あたりません。
そもそもわたしは「~したい」というふうに発言する自分に
強い違和感があります。

「~したくない」ということを言う自分にも違和感がありますが、
「~したい」と言う自分は、違和感というより、嘘に感じます。
~したいとちゃんと言えるほうがいい、みたいな、
取り繕いでしかありません。

こういう取り繕いを、作り笑顔で、笑い話のように話し、
相手と接し、誤魔化してきたのが、
わたしのたてまえの人生だったと思いますし、
今もそのたてまえのような、道化のような振る舞いをしては、
結局は何ひとつ状況は変わることなく、
不毛な分析、不毛な解説、不毛な繰り返し。
自分自身にも道化を施して、自分をも欺く始末。


「~したくない」という自分に違和感を抱くのは、仮に、
「では、それが解決したら、それで満足ですか?」と訊かれた時
本心から「はい、満足です」と言えない自分がいるのを
どこかで知っているのからだろうか?


じゃあ何したいのよ、と言われたら、わからない。
だから、「~したくない」という気持ちの反動、反転としての
「~したい」と表現して言葉にするんだけど、それも嘘だと
思ってしまいます。


そしていつも最後には、


「わたしは間違ったことしかできない」


というふりだしに、必ず、戻ってしまいます。


このブログも、なぜ自我復元を始めたか、
その理由から書きはじめました。

でも、わたしは、いろいろ書いてみても、どの理由が
本当に始めた理由なのか、今でもわからないのです。
どうせ間違っている、わたしがそうだと思った理由なんて
間違っているに決まってる、という自虐癖が顔を出します。

そう思っていたので、自我判定依頼の文章を書くときも
正直に誠実に書こうと思えば思うほど、
嘘や脚色、そういったものを一つ一つ積みかさねて
書いている、というの気持ちが生じ続けました。
罪悪感が残りました。

このブログを書いているときも、
慢性的にこれと同じ罪悪感があって、
これは一度も消えることはありません。
ブログに限らず、わたしが何か言葉を発すれば、
罪悪感は必ずわたしの中に残ります。


・・・ ・・・

随分と話があちこちにいってしまったのですが、
母親からの影響について書いておかないと、
わたしの虚飾の構造が、どんどん隠れて見えてこないので
せめてそこだけは見えるようにしておきたいと思って
この記事を書いてみました。

「内職を始めたもう一つの動機」についても
続けて書きたいと思ったのですが、
文字数が多くなってしまったので、
ここでいったん分けて、⑤として続けて
書こうと思います。


2013.07.26
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-26 18:33 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ③

無明庵に再び辿り着いてから、はじめて自我判定を依頼するまで、
その時期のことを書いてみようと思います。

①、②のなかで、わたしは「奮闘の様子を・・・」と書いたうえで
書き始めたわけですが、いざ書いてみますと、奮闘の様子でなく、
どんなことが起こっていたか、という回想記録のようでした。

書いてみて、わたしがまず思ったこと、そして書き留めて
おかないといけないと思ったことは、
あのような状況にあっても、わたしは、
奮闘どころか、戦うこともせず、むしろ、
「充実した時間だった」と認識した、ということでした。

わたしが傷つくこと、血を流すことは
それこそ役目を果たした勲章とばかり
わたしは喜びさえしました。
・・・これでやり残しは、最低限は終えた、と。

「すべてを失っていいほどの運命と出会い、
無我夢中に生き、波乱万丈だったけれども
輝きをまわりに見出そうとし、外の世界にも視野を広げ、
やりたいことはすべてやった、もうこれでいい」

わたしはその10数年間の体験を
そう解釈してきました。

「職を失い、私を失った上に、道具としての私の価値も失って、
使い物にならず外に放り出されて身体を売うようにして生きのびた。
戻る頃には声も出なくなっていた」という出来事は、
わたしのなかで、完全に自動的に、喜びの記憶として
自動更新をしていきました。

結果、最終保存した記憶は、先述のような
「すべてを失ってもいいほどの・・・もうこれでいい」
となりました。

もうこれでいい、というのは、もうおしまいでいい、
という意味だったと思います。
わたしのなかで「おしまいの妄想」は、つねに
生きのびてきました。

わたしが自身の体験をどう認識したとしても、
結果として、わたしはあのような体験で声を失った「わたし」を
「さらにわたし自身の手で」使い捨てにしようとし、
絞め殺し、遺棄しようと目論んでいたのは
まぎれもない事実でした。

人間として、それ以前に生き物として
自尊心のかけらもない振る舞いで、誰からも
同情の余地なく、じゃあ早く死ねよ、と言われても
何も文句がいえない状態です。

なぜそのようなわたしが、生き直すことの入り口の
自我復元に巡り合ったかは、とても奇妙なことですが、
好奇心からではありません。

もうどうでもいい、おしまいにしたい、という
わたしでしたが、どうしても不安だったこと、
つまり、その不安という現実から逃れたいという願望
だけは残っていました。いつからかというと、
無明庵の書籍から離れたあの頃からです。

その、わたしにとっての現実、わたしがずっと
怖がっていた、もしかしたら他の人から見たら
単なる妄想としか思われないような、でも、
わたしにとっては、決して無視できなかった恐怖のことを
③として書いてみるつもりです。

無明庵に再び辿り着いてから、はじめて自我判定を
依頼するまでの約1年弱の期間は、そこに覚悟をきめて
足を踏み入れるまでにかかった時間でした。


◇ ◇ ◇


なぜ、無明庵の書籍から離れたか、というところに
少し戻ってしまいますが、わたしが離れた理由は、
それがあまりにリアルで客観視できなかったため怖くて逃げた、
というふうに言うほうが正確かもしれません。

怖くなければ逃げることはなかったのですから、
「人生のやり残しをやるために」というのは、
後付けとして見つけた理由だと思います。
(ある意味で、やり残し、でしたので
後付けであることにも無自覚でした)

わたしにとって何が怖かったか、というと、
この人生というドラマは、「死後も」終わらない、
という事実でした。

わたし自身は、オカルトとかまったく知らずに
無明庵と出会ったので、こういう話ははじめてで、
わたしはずっと死んだらすべておしまいになると、
小さい頃から思っていました。
あの世があるとか、そういう話はきいていましたが
まさか、と思っていましたから、死後は
何にもなくなるんだ、だから今、悔いのない生き方をしよう、
というふうに考えるのが常でした。

そういう考えの延長線上で「おしまいの妄想」は
ふくらんできたわけであって、死後の世界や輪廻の話を
きいてそう考えてきたわけではありません。

ところが、無明庵の書籍と出会い、ここにはまったく
「うそがない」という感触から、この死後も人生は終わらない、
永久にこの宇宙のなかで生きるために生きるのだ、
という現実を知りました。おしまいにはなれないのだ、
という現実です。

それだけでしたら、わたしはおそらく
自我復元に踏み出すことはなかったと思います。
せめて行法を行い、なんだかやったような気になり、
やや正常な気になった気がして、ある時期がくれば、
「おしまいにならないのなら、それもしかたがない。
時期がくるまでは、生きていくしかない。だって
それが現実ならしかたがないよ。開き直って
生きていくしかないさ。これからは何をしよう・・・」と
それこそ永遠に同じことを繰り返しては、刹那の快不快で
気をまぎらわしては、ああだこうだと言ってばかりの
人生であったと予想されます。
自己嫌悪も抱けない鈍感さとどこか偽善的であり続ける
ことに文句をいいながらも、その正当性をなんらかは、
見つけたと思います。

ところが、わたしにとって何が一番の恐怖だったかというと、
ずっと生き続ける、それが終わらない、という事実、
その事実ではありませんでした。

そうではなく、生きることも死ぬこともできずに、もがき
発狂し続けながら存在し続ける、幽閉され続けるということ、
そのことが「終わらない」という事実が
わたしにとって一番の恐怖でした。

「終わらないかもしれない」と言いつつも、
心のなかでは、わたしはいつもどこかで
「おしまい」を夢見ている。

この状態でもしも今死んだ場合、死後、中間領域
(その当時はその言葉は知りませんでしたが)で、
「わたしは、もうおしまいにしたい。消えたい」
などと口走ったら、どうなるだろうか?
きっと、無明庵の本にあった幽閉された種族のように
「生きることも死ぬこともできない領域」に
永遠に幽閉されることになるのではないだろうか、
発狂しようがどんなに苦痛を訴えようが、いつ終わるかも
わからない暗闇に閉じ込められて苦しみ続けることに
なるんじゃないだろうか、終わらない最大級の拷問が
頭をよぎるたびに、この「拷問」の二文字が頭をよぎると
頭を左右に激しく振って、忘れようとしました。

地球上に存在する拷問を強く意識して
恐怖するようになったのも、無明庵と最初に出会ってからでした。
身体的、精神的な苦痛を強く意識しはじめたのも
その頃でしたし、なにより、「生きることも死ぬこともできない」
その生き地獄ということが、わたしの頭のなかで繰り返し
イメージされました。「終わらない」ということの恐怖。

この恐怖に耐えかねて、わたしは逃げました。
それが無明庵から離れた10数年前のことです。
かわりに「やり残し」というものに、すがりました。
逃げてもなお、ここで生きる意味はそれしかありませんでしたし、
そのやり残しは他の人からどんなに無意味で酷いものに見えようと
わたしにとっては、それがすべてでしたし、
「努力の話」と同様、皮肉にも、わたしはそれが
苦でありませんでした。

2012年に入ったあたりから、わたしの内職としての
仕事も一段落し、環境にも変化がありました。
奴隷として働いてきた結果、なんとなくの形もできました。
わたしの役目は、いったんはここまでだろうと思い、
冬眠中だった違和感がわずかでしたが疼きはじめ、
久々に無明庵の書籍を手にとりました。

行法をやっていないことを思い出し、そういえば
無明庵のサイトもあったような・・・という記憶から
サイトにアクセスすると、その後に出された書籍の
情報も見つかりました。

行法をキーワードにいくつかの関連のものを
購入し、さっそく基本行からはじめていきました。

4ヶ月ほどの期間に、無明庵のサイトや新刊の
書籍を読むようになりました。

そして幽暗行に入った頃、2013年のはじめ、
分割自我復元法を開始しました。

それから4ヶ月後にはじめての自我判定を
依頼することになるのですが、
わたしにとって、これは、今回は棺おけに
入るような覚悟がいりました。
迷いはなかったのですが、覚悟がいりました。

これに足を踏み入れたら、もう戻れない。

でも、ここで踏み込まなければ、わたしは
「おしまいにしたい」という中途半端な望みすら
捨てられず(叶えられもせず)、誤魔化しながら、
この生においてもずっと同じことを繰り返しながらただ生きて、
死後もおそらくさらに分割された自我でボケっと
地球にまた生まれて、拷問のない世界を望みながら
怯えてまた一生を暮らし、また次の生もさらに
酷い地域を選んではそこで暮らし、酷い経験をしながらも
そこから抜け出したとたんにその酷さも忘れてしまっては、
また生まれ・・・そうなりたくないとどう強く望んだところで、
いや、強く望んだとしたら、宇宙規模の幽閉空間に
宙吊りにされて発狂するに違いない。

馬鹿げた妄想だと、自分自身にも言いきかせはしたが、
わたしにとって、これは冗談にならないほどリアルな事実で、
この事実を容赦なく提供されていたのが、無明庵でした。
(この解釈が間違っていないかどうかわかりませんが、
その時わたしは、無明庵のコンテンツをそのように読んでいました)
後に、無明庵のサイトも閲覧するようになるわけですが、
その濃縮された記事の一つ一つは、この事実、
おしまいにならないというだけでなく、おしまいを望む者が
いつかはたどることになるであろう恐ろしい未来を
赤裸々に提示しているように思われました。

ここに入ったら、もうこれは本当の本当に
現実になってしまう。
その現実に取り組む覚悟は、わたしにあるのか。
興味の対象としてやってみるのとは次元が違うんだぞ。
本当に本当の話になっちゃうんだぞ。
やり残しとかで気をまぎらわすことも、もうできないんだよ。
怖い気持ちと向き合うなんて、お前にできるのか?
怖いことに自ら向き合おうなんて言える人間はいるのか?
そう思い込んでいるとしたら、お前は嘘つきかもね。
怖いとわかっているところに、自分から立てる人なんて
いるわけないんだ。偽善だよ、そんなのは。
結局、自我復元も何かの足しにしたいんじゃないの?
「そうじゃない、何かになりたいとかはないんだ」と
言ったところで、そういう自分でいい、と思いたいだけでしょ。
今だったら、引き返せるから辞めときな・・・。

自分の内側から、そういう声もきこえてきました。
わたしの内側から、誰だかわかりませんが
そういうことを言ってくる誰かがいます。

振り返ってみれば、わたしは、自分を切り捨ててきただけじゃなく、
まるごと捨ててしまうような、まるで自分を無価値なモノのように
ゴミ焼却所に目をつぶって投げ捨ててしまう人生を送ってきました。
その様子を、このブログに書いてきました。

もう自分を裏切りたくない、という気持ちから
このブログの名前もそれを反映していますし、意識的なところでは、
それが自我復元をはじめた理由といえますが、
その裏切りたくない、と「言っている者」が誰なのか、
今、わたしは少しずつ、わからなくなってきました。

裏切りたくない、という気持ちのもっと最初のほうに
あったものは何だったのか、そこを考えてみたいと思って、
今回③として、判定依頼直前までの時期を書くことにしました。

裏切りたくない、という気持ちはもちろんあります。

でも、もっと違和感のない表現をしようとすると、
わたしは今、怖いという、そういう感じです。
今じゃなくて、ずっと怖かったし、この怖さが
これから薄れていくことも想像がつかない。

生き地獄、その幽閉の場に生きていい、とだけは
わたしは思えない。
そこでだけは、どんなにやついているヤツでも
にやつけないはずだと思っている。
わたしのように、自分の尊厳を切り刻んで、自分をまるごと
焼却炉に投げ捨てても作り笑顔ができるような、これほどに
無慈悲で、人の心が麻痺したロボットのようなわたしでも、
その生き地獄だけは、絶対に避けたい。
冗談でもそれを体験したいとは思わないし、
そこに放り込まれることも絶対に避けたい。

オカルトとはまったく無縁に生きたわたしが
こういうことを言うことになるとは想像さえしたことも
ありませんでしたし、自分でも耳を疑いますが、
「裏切りたくない」という人間的な感情の言葉よりも、もしかしたら、
ただの拒絶、恐怖からの拒絶、怖い、という感覚のほうこそ
実態には近いのではないかと、ここまでノートを
書いてみて思うところがあります。

捨てたのもわたしですが、
拾おうとしているのもわたしです。

誰が何を捨てたのか、誰が何を拾おうとしているのか、
これはまだわからなくて、これからこれを
掘り起こしていかなければいけないと思っています。
ただ、捨てようとしたことと拾おうとしていることという
矛盾から、わたしのなかの故障を見つめていく必要がある、
最大級の故障でも、これだけはなんとかしないと
死ぬに死ねない、というのが今の気持ちです。

その意味では、今一番怖いのは、
自我復元が完了せず、死んでしまうということ。
だから絶対に、100%の自我になって人間になるまで、
いくら故障が最大級でも、それまでは死ねません。


2013.07.24
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-24 12:50 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ②

無明庵の書籍と出会い、約1年間かけて読み、
無明庵から離れました。

再び無明庵と出会うまでのことを
いくつかの時期に分けて書いてみようと思っていたのですが
予定を変更しまして、できたら一息で、
書いてみたいと思っています。


◇ ◇ ◇


この十数年の時期は、最近の過去とはいえ
わたしにとって思い出すのが難しいものでした。
というのも、わたしにとって記憶の感覚の元となる
「違和感」が急激に麻痺していった時期だからです。

楽しい、悲しい、つらい、うれしい

こういった感情をともなう記憶が相当薄いということは、
すべての経験の出来事は、ただの作業、
人間の感情を持たないロボットとしての仕事。

わたしは昔からロボットのようでしたが、
この時期からは「いざ、出番です」といったタイミングで
わたしは一人の人(以後、Pさん)を守るボディーガード
のような役目を果たす、まさに道具でした。

作業、作業、作業、作業、作業、、、ずっと作業・・・

わたしは道具でしたが、部分として生きることを承諾してしまった以上、
文句は言えませんでしたし、自ら切磋琢磨して、
利用価値の高い道具であろうと努めました。

しかし残念なことに、この道具が評価されることは
以後、一度もありませんでした。

わたしは何もほめられたいわけではありません。
ただ、道具なら道具として役立ちたいと思っていました。

ところが、徹底的なダメ出しが続きました。
Pさん本人から、繰り返し繰り返し、ダメ出しが続きました。

わたしはボディーガードとして、また道具として
完全に自信を失いました。
道具として「つかえない」と烙印を押されました。

解雇のようなものでした。

ただ、実質、解雇はされず、出稼ぎに行くように
仕向けられました。その時わたしが感じたのは、
「とうとう身体を売らないといけなくなってしまったのか・・・」
という思い、かなりそれに似た挫折感を抱いたのを
覚えています。

出稼ぎに行くわたしを喜んで見送る姿をみて
わたしはショックを受けました。

セックス相手にもならないから外で稼いでこいよ、
とPさんに言われて、稼いだお金を渡しては、
誰かに貢いでいるのを知っている、それに似た惨めさです。
それでもわたしは、それが務めだと思っていましたから
身体が不調を訴えても、可能な限り続けました。
その上、「わたしがあの人のそばにいること自体が
きっとよくないことなんだ」と思っていたので、
言われなくても、自ら出稼ぎに向かいました。

ですが、わたしはどこかで
「もう出稼ぎに行かなくていいよ」と言われるのを
待っていたところがありました。

今日までかな、今日までかな、と思いながら
働いていました。
・・・ところが、そう告げられることはなかったのです。

むしろPさんは働かなくなり、わたしが働くしかない、
そういう状況がそれから続きました。

わたしはだんだんと、自分が何をやっているのかが
わからなくなりました。

わたしは出稼ぎをやめました。
(精神的にかなり限界だったと記憶しています)

いざ家に戻ってみれば、Pさんは
酔いつぶれているような状態です。

「こんなことになったのも、お前のせいだ」
「お前が勝手に決めてこうなったんだ」

とても残念なことでしたが
元に戻すことはもうできない状態でした。

わたしは、新しく内職をはじめました。

もう一度、わたしは自分の人生を取り戻したいと
思ったからです。

数年が経ち、その内職もわたしとしては
十分にやったと思えるようになった頃、
忘れていたあの

「違和感」

を思い出しました。

無明庵の書籍を久々に手にしました。

はじめて無明庵のサイトを開きました。

分割自我復元法というものを見つけました。

十数年ぶりに
無明庵に再び辿り着きました。


2013.07.21
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-21 17:48 | 無明庵に再び辿り着くまで

無明庵に再び辿り着くまで ①

無明庵の書籍と出会い、そして離れ、再び
無明庵に辿り着くまでに、十数年のブランクがあります。

その十数年の間、わたしがいかにして生きていこうとしたか、
そのことについて書いてみます。

無明庵の書籍と出会う数年前から
書き始めていこうと思います。
調べてみると、4年くらいの周期で環境や状況の変化が見つかり、
それを考慮すると、5つくらいの時期に分かれそうですので、
タイトルに通し番号をつけて時系列で
記事を書き連ねていく予定です。
(「無明庵に再び辿り着くまで」というカテゴリでまとめてみます)


◇ ◇ ◇


無明庵の書籍と出会う前4、5年前から、
このブランクにつながる流れがあったように思います。

この流れ、周期に気づいたのは、
昨日のことでした。

①として記事に書いてみたいのは、
無明庵の書籍と出会うまでの数年間のことになります。

なぜ、この時期から書こうと思ったかというと、
無明庵に最初に出会う前に、
わたしは一人の人(以後、Pさん)と出会いました。

Pさんとの出会いは、以後、わたしに大きな影響をもたらします。
無明庵に再び辿り着くまでのブランクを綴るにあたっては
どうしてもここから書き始める必要があると思いました。
なぜなら、この時点からすでに、

「孤立していく」

という環境が、着実に進んでいたからです。

よくDVでもきく話ですが、まず孤立させられる、というのが
事の始まりであることは多く、わたしの場合も、
例外なく、この孤立化からはじまっていました。

・親、兄弟姉妹からも異分子扱いされていく
・学校の教員からも排除されていく
・友人も減らされていく
・異性との接触も許されなくなっていく

気がつけば、わたしは一人になっていました。

いや、そうではなく、Pさんと二人、次第にPさんとの
密室化したそのカプセルが、わたしの見える世界、
<わたしのすべて>に切りかわっていく、その入り口でした。


Pさんはわたしを軽蔑していました。


わたしはそれでも、Pさんから離れる、という選択肢は
ありませんでした。むしろわたしは、Pさんを守ろう、
わたしがPさんを守らなきゃ、という使命感でいっぱいでした。
Pさんには、わたしが放っておけないような
「翳り」があったからです。

Pさんはわたしを蔑みましたが、
わたしはそれを受け入れました。
我慢して、ではなく、むしろ率先して受け入れました。
わたしにとってそれは、Pさんの「翳り」を
理解しようとする上で必要なことだと判断しました。


軽蔑されつつも、守る。


この時期のことで、今でも忘れられない記憶があります。

わたしはある日、Pさんに、たいした金額でもないのに
生活が苦しかったこともあり、それを買うのを我慢しようと
言ったことがありました。100円前後のものです。

「あのときは辛かった」と、その後、何度も言われました。

そう言われて毎回毎回襲った気持ちは、
「Pさんを守れなかった」という自責感でした。

この自責感は、今後もずっとわたしを支配する基本的な
感情になりました。あまりに慢性的になっていて
気がつかないほど、日常的なものになっていきます。
籠という監獄ゆえでしょうか。

Pさんを守るために、わたしはすべてを捨ててもいい
とさえ思っていました。
職を失うことなど、まったく怖くなかったほどです。
ここに犠牲心でもあれば、救いがあったかもしれません。
ここにわたしは一切、「我慢している」という感覚が
ありませんでした。だって、蔑まれることも必要不可欠な
経験と思っていたわけですから。


Pさんは、わたしが軽蔑されていても平気なことに
苛立ちも感じていました。その苛立ちがもとで当時はよく
口論になりましたが、どのようなプロセスを辿ろうと
最後はわたしが折れることになるのは常でした。

異性との接触も許されず、結局わたしは、
恋愛というものを体験することが叶いませんでした。
Pさんの拒絶は、理由抜きに絶対でしたから、
そこに理屈は通りません。
子どものいやいや期に、完全に翻弄される母親のごとく
ただただ、ふりまわされてきました。

あげくの果てに、Pさんは自身で決めたことにも
関わらず、「わたしに決めさせられた」と訴えるのが
常套手段で、そう言われるたびに、
「わたしのほうこそ、DV加害者なのではないか・・・」と
悩み続けることになりました。
(この悩みも、今後ずっと続くことになります)

そういう毎日のなかで、それでもどこか違和感を
抱いていたのでしょう。
それがなければ、自我復元にたどり着くことなく、
一生を終えていたと思われます。
その違和感を頼りにわたしは、時間さえあれば
本屋さんを徘徊していました。

その徘徊と孤立の時期が、
無明庵と出会う直前の時期ということになります。

本屋さん巡回の毎日の最後の最後に
「廃墟のブッダたち」という
一冊の本に出会います。

1年ほどでしょうか、集中して10冊の本を読み、
わたしは無明庵からいったん、離れました。
「自分を捨ててもPさんを守り保護すること」こそが
わたしの人生のやり残しだと判断しました。


判断・・・否、「誤認」から
わたしの長いブランクは始まります。


ここから再び無明庵にたどり着くまでの10数年、
その長いブランクでの奮闘の様子を
次ページ以降、書き連ねていこうと思います。


2013.07.20
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-20 08:24 | 無明庵に再び辿り着くまで