カテゴリ:自我復元を始めた理由( 6 )

【後半】 努力と恩返しという囚われ

前ページの【後半】部分です。

・・・ ・・・

で、ダラダラと長くなってしまいましたが
結局、努力、努力っていうけれど、それって、
それほどに評価されるようなものだったのか、
そんなに価値あるように言われるほどのもんだったのか、
そういうふうに思いながら生きてきたわたしの人生は
それほどまっとうだったといえるのか、
ということを、昨日、やっと考えてみることができた。


ここ10数年の歳月が、いかに縛られ動けないような
籠のなかの生活だった、という話を書いてきたけれど、
それ以前も、随分と「努力ケース」という強固な籠ではなかったか?
家族の間では何も問題がなかった、あったとしたら
わたし自身の考え方やその思考の癖だけです、と
思いこんでいたそのわたしの認識こそ
間違っていたのではないだろうか。


わたしは結局、努力、努力と言いながらも、
一度たりとも、今のままでいいと思えたこともなく、
しかもその努力すら、誰かさんのおかげなら、
わたしはその努力の主人公ですらなく、
ただ経験を製造してきただけだ。
内容はどうでもよくて、経験というのは
わたしにとってつねにそれは過去のもので、
褪せて、死んでしまったもの。

そんな時間差のあるものと、今の感覚とを
重ね合わせたところでズレまくるのも当然だ。
とんぼのめがね状態で、気持ち悪くなるわけです。

わたしがそこに不在なら、大暴れどころか、
動けもしない。ただ、経験の傍観者だ。
傍観しているだけならまだいいが、ふと気づけば、
経験マップを見ながら、それに思いを馳せて
夢、いや、妄想をする。ハッとして我にかえると、
ただ、ぼぅーとしている。それが清々しい、なんて
快適なものではなく、退屈感さえも鈍るような
どうしようもないボケようだ。
(これは明らかにボケている。希釈されている!
・・・という感覚も強くあって、復元をはじめたのも
一つの理由だったと思います)

ただただ地図をながめているだけで、一度も
旅にでることもなく、机に座っているのと同じ。
本当は外に出たいのに、公園の見取り図を
ながめ続けて違和感を抱かないはずがない。
大暴れしたい気持ちは、おそらくこの子ども時代から
慢性化していて、その気持ち自体、気づきにくくなっている。

努力という形式を保ちつつも、わたしは、ある頃から、
それはおそらく高校生頃からだろうか、その「努力」
というものに相当疑問を持った。

そもそも、何に向かっているのか、それ自体が
まったくわからなかったからだ。
今さら、という感じだったが、実際、その頃になって
今さらその努力の無目的さに唖然とした。

100歩譲って(と実際に思っていたが)、義務教育なら
その義務を遂行するため、の努力なのだろう。
だけれど、高校、大学ともなれば、そんないい加減な
目的で努力を続けるのは、無意味だと感じた。

当然の流れで、
「何のために生きるのか?」
それだけが問題となった。

それがわからなければ、やっていること、それ自体、
無駄でしかない、毎日毎日、そう思っていた。

またその自然な流れで、
「この努力や、~になる、という営みは
いつになったら終わるのか」という疑問で覆われるようになり、
その次には、「もしも今日死ぬとしたら、その~になる、は
達成できないので、後悔することにならないだろうか?」
と考えるようになり、
次には「そもそも~になる、に終わりはあるのか?
あるとしても、今日死んだらどうしようもないし、ないとしたら、
そもそもわたしがやってきた努力なんていうのも、まったく無駄だ」
と、考えるようになりました。

以前のノートの「おしまい妄想」もそんなところから
沸々とわきおこった妄想だと思います。

しかもこういった妄想や考えは、死活問題や自問から
出たものではなく、ただの癖、あるいは分析といった程度で、
それ自体が、どこか空虚なものでした。


自問すらできなかった

死活問題に直結する自己嫌悪すらできなかった。

それにも関わらず、今日も普通に生きている。

たぶん、明日もそうやって生きているんだろうな。

なんて空虚な毎日なんだろう。


そういう空虚な毎日の妄想をこのように思い出しても、
妄想でしかなく、これ自体の記憶に何か意味があるようには
思えなかったのですが、昨日、たった一つですが、
一つだけ、気づいたことがありました。


それは、おそらくこういうことでした。


そのようなわたしの子ども時代は、
わたしがどう努力というのを解釈し、その癖が今に
残っていようがいまいが、その当時、わたしは
まるで地図の傍観者のごとく、わたしは一度も旅に、
「冒険者」として飛び出すことができず、大暴れできなかった、
という大問題な環境、抑圧された環境に
いたのではないだろうか

と、いうことでした。

だから、昨日の投稿のように、あいかわらず、
「大暴れしたい気持ち」が疼いている。
一度も解消されず、その思いだけが宙吊りになっている。

努力期、わたしは「今のままではダメ」状態の
経験傍観者として、わたしは暴れることは叶わなかったのです。

つまりわたしは、この子どもの時期「も」、
大暴れできなかった、ということでした。

暴れどころか、わたしはただ座らされていたのだと思います。
誰によってか、というと、それは自分自身かもしれませんが、
それで終わってしまったら、今までのわたしの結論と同じなので、
家族の問題にさかのぼってみました。


さらに最悪なことに、努力期以降、努力に愛想をつかしたものの、
その裏返しとして(水面下で準備されていた)「恩返しをしなさい」
というメッセージは、別の意味で暴れさせない仕組みを整えた。
「努力ケース」という籠から「世話ケース」という籠に
引っ越しをしただけ、ということになります。

そこで、この微妙なタイミングで
ある一人の人(以後、Pさん)と出会うことになります。
自動的な、といってよいほどのタイミングでした。

おもにわたしの役回りは、広くいえば、
Pさんを守る、保護するような役割でした。

しかもまた「運悪く」、そこに我慢とか、犠牲とか、
そういう感覚がまったくなく、そうすることがごくごく自然で、
あまりに自動的にそう思えた。
(今から考えれば、あまりに用意されているようで不自然だ)


無明庵の書籍に出会ったのは、
この努力ケースから世話ケースに移動するまでの時期、
ほんの1年という短い時期に、わたしは「運良く」、
本当に運良く、無明庵を見つけた。


もしもこの出会いがなければ、努力というつまらない人生の
下準備を経て、その反転の恩返しという名のもとの世話人生を、
わたしはずっと動くことなく、せめてもがき、経験の妄想者、
傍観者、解説者、説明者として人生を終えたことだろう。
死に際、旅の地図を枕元に「それなりに楽しかったよ」なんて、
涙つきの馬鹿げた芝居に自己陶酔したりして。

実際、今のままではこの通りになってしまうから
わたしは自我復元を続けています。

わたしはここ10数年も否定しなければならないけど、
それ以前の時間も否定しなければならない。
だってそこは籠だったんだから。

わたしはずっと家族には問題がない、と
思っていました。

それではトラウマのしっぽすら見つかるわけが
ありませんでした。

トラウマは、されたことの見え方より、至った状態の
この不自由さを指すのではないだろうか、
考えてみればそれはそうな気がしました。

わたしは不覚にもそれを見落としていて、
利他的な行為の衝動から、他人のことばかり面倒をみて、
わたし自身は「大丈夫」とふんでいたのです。
問題ありありだったことが、少しずつですが、
考えられるようになってきました。

思い返すと、わたしは実に子どもらしくなく、
子どもらしく笑ったことも、きっと、なくて、
賢そうに見えたのは、それは子どもらしくないからであって、
さらに、親やまわりの大人から、悪意が見えないことからも
とんでもなく厄介なACを抱えているのではないか、と
昨日、そのことをはじめて意識しました。


ふと思いました。


努力が評価されてまっすぐに育つ、なんていう
そんな単純なものではなかろう。

だいたい、人は人に評価される必要なんかないじゃないか。

なぜ他人に自分の存在理由を証明しなきゃいけないの?


〝不器用だけど努力だけがとりえでした。それもまわりの人の
おかげだから、今は他の人に恩返しをしたいと思っています。
わたしはそういう人間です〟

と、わたしが答えた瞬間、わたしはわたしの加害者になるのだと
思いました。最後に加害者にまわったら、それはそれで
自分への裏切り行為だろう。


わたしはこういう人です、

ではなくて、


わたしは暴れたい、

と、本当は言いたい。


いや、そう言う言わないじゃなくて、
暴れられる「外」に早く出たい。絶対に出たい。

もしも外に出られなかったら、きっと死に際、
「暴れられましたか?」と訊かれて、
「それなりに楽しみましたが、暴れるのは叶いませんでした」とか答えて、
「次はその籠からは出られますよ(ただし、そこも籠ですが←とは言わず)」
とか言われて、また騙されるのがオチだ。

わたしが死んだとき、もしそう訊かれたら、
「暴れられたから、もう十分です」とちゃんと言える
わたしになって死にたい。


・------------------・

今書いていて思ったのは、
私のこの人生、

「本当に自分を裏切らないか?」

とテストされているような気がした。


どこにそんな余裕があったのか、
「他の人のこともやりながら、自分のこともできるさ」
と調子にのったのだろう、わたしは。


見事、出来なかった


というのが、今のわたしの現状認識。


・・・ ・・・


連休とはいえ、一つの記事とは思えないほど、
長くなってしまいました。

でもここで一区切り、無明庵と出会うまでのこと、
出会ってから離れるまでのわずかな時期、
離れてからの歳月と、再び無明庵に出会うまで、
少しずつですが、ノートすることができました。
(復元開始から今日までのことが、まだ書けてませんが
おそらくいろいろ桜の間やメールを引用させていただいて
ノートしていくことになるかと思っています。)

わたしは過去のことを書くことを
どこかで嫌がっています。
それは、わたしはいつも過去ばかりを
生きてきたからです。
それはあまりに空虚で、つまらない、
色のない世界です。

ろくなことはありません。

ぜんぜん面白くなかった。

だから、わたしは過去に目を向けるのも
どこか嫌がっていました。
今の感覚を頼りに・・・と美しいことを言ったところで
わたしは過去の褪せた経験のなかでしか生きてこなかった
わたし自身を直視することからしかはじまらないのではないか、
ノートを書き始めて少しずつ、そう思えるようになりました。


このノートを書き続けていきたいと思います。


2013.07.15
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-15 18:56 | 自我復元を始めた理由

【前半】 努力と恩返しという囚われ - 7月15日

久しぶりの連休でした。

このノートはもう少し短く、思いのままに
書いてみたいと思っているのですが、
連休だったせいか、あれもこれもと
頭のなかから沸いてきてしまいました。


今日のノートも、ちょっと長くなりそう。。。


今朝は少し涼しいので、いっきに
書いてしまいたいと思います。


「記憶」についてです。


・------------------・

このことはかなり疑問に思い続けてきたが、
わたしはなぜか、記憶の量があまりに少ない。

とぼけてるの?と何度も他人に言われるほど、
たった数年前のことも、覚えていないことが多い。
誰もがそうだと思っていたのだけれど、
どうやら、わたしのほうがおかしいようだ、と
気づいたのは、わりと最近になってからです。

ここではどの程度覚えていないかの詳細は
書きませんが、おそらく他の人がきいたら
「えっ?ほんとーにホント??」というレベルだと思う。

明らかにこれはある種の病気だろう、と思いましたが
今までそれで困ったことはなかったし、
それはそれで・・・なんて思っていたけれど、
自我復元をはじめて、再び、わたしは自分の
「記憶」というものに関心を持ちはじめた。

関心というより、危機感。

記憶が急激に薄まっていく、ということは、
わたしにとって、時間の前後が薄れていく、
ということで、それは「今を生きる」などという
暢気なものじゃない。

それは自動で動く遊歩道のようで、
それはそれは、のっているだけで動くので
ラクですが、わたしの足で歩いていない。
勝手に「連れていかれる」という危うさ。

最近になってわたしは、
「なんだか、記憶が自動的に消されてはいないか?」
と想定してみたけれど、こう考えて済まそうとする
その安易さ、その自動性こそ、恐ろしい。
だって、「そうなんだ」で済む問題とは思えないから。

なんとか記憶の断片でもいいから、自力で
こじあけねば!と、この連休中、やっと動きだせた。
といっても、まだまだ思い出せる具体的な記憶は
あまりに少ないが、わずかな断片からでも、
何か、しっぽのようなものはつかめるかもしれない。
しっぽからでも、たどっていかなきゃ。

そう思えたのも、少し前の投稿のノートで
「わたしは名言集を手にするが多かった」という
これだけはかなり確実な記憶として残っているのを
見つけたからです。

それと同時に、昨日の投稿で
「わたしは暴れたかった」という、ずっと抱えていた思い。
その思いと、名言集のことが対になって、
わたしははじめて、育った家庭における問題を
漠然とだが見えかけた。


やや時間が前後してしまいますが、
わたしが子どもだった頃(二十歳くらいまで)に
さかのぼって、ノートしてみたいと思います。


・------------------・

わたしの両親は、わたしのことを
大事にしようとしていました。

今思えば、それはどこか畏れていた感じもあり、
両親ともに育ちの過程で持ってしまった
一種のコンプレックスのようなものでした。

「自分たちは、たいした人間じゃなく、人並みには
やってきたけど、器用な人間じゃないから、
あなたには、もっと立派な人間になってほしい」

というようなことを、両親はわたしに言っていたような
気がします。明確には思い出せないけれど、
一つだけ確かなのは、

「だから、あなたが不器用なのは、それは
わたしたちの子だから、それは、しかたない」

といったことを、とくに父親は、
わたしに言い聞かせた、ということです。

わたしにつけられたはじめてのレッテルは、
「不器用な子」というレッテルでした。

ところがそれが厄介なことに、

「人間は神さまじゃないんだから、
不器用で当然、それだから人間なんだよ」

と(それって自分を正当化したかっただけでは?)、
わたしの親は開き直っていたあげくに、

「だから、努力するんだ」

だから努力するんだ、という、この「努力」の二文字が
わたしを、結果的には、縛りつけることになりました。
当時は、縛りつけられたとは、鈍感なわたしは気づかず、
それがライフワーク、日課となりました。


努力の日々


鈍感ゆえか、これまた「運悪く」、
わたしはこの努力が好きだった。

努力自体が苦でないので、向ける対象は
何でもよかった、というのが特徴で、
たとえば、学校の勉強も数学年上の参考書を
自分で選んでは、問題を解くのが好きな子だった。
といって、テスト対策をするような子でもなかったので、
学校の成績は、それほどよくなかった。

これではまずい、と思ったか、
両親はわたしに勉強の機会を与えた。
学校の勉強についていけるように、が基本だったようだ。
当然わたしは努力が嫌いじゃないので、
それもちゃんとやった。

「勉強ができないと、つらいからね」

と母が言っていたのを覚えている。

おかげで、わたしの成績は人並みになったし、
気がつけば、むしろ良い成績になった。
今思えば「運悪く」、努力の量に比例して
結果がともなってしまった。

もちろんこの結果とは、社会的評価にすぎないが、
通常は「努力なんて、そんなことは通用しない壁」に
ぶつかるのが、生きていれば当然だと思うが、
その当時、わたしは努力でクリアできない問題に
ぶつかる経験が完全に不足していた。

ほとんどなかった、といってよいくらいだった。

レッテルのせいも十分にあっただろうが、
たしかにわたしは「できる子」ではなかった。
よーいドン!と抜きうちでされたら、必ず負けるような、
そんな子だったから、わたしは十分に
「準備」をするようになった。

ある頃から、他人から見ればきっと過剰なほどに
「準備」にエネルギーを注ぐようになった。
とりくむ内容に関わらず、わたしはその準備というものに
努力というエネルギーを注ぎ込みました。

この努力は、挫折という経験を知らず、いや、
挫折しそうになっても、別なところで意味を見出し
生き残っていくこざかしさが、この努力という性質には
つねにありました。

努力はつねに問題をクリア、それができなければ
問題を回避できましたし、それこそが努力の力、
成果とばかり、わたし自身、それを疑いもなく、
受け入れていました。

よくある名言集は、努力を否定するものは
滅多にありませんでしたから、
努力そのものについて、疑うこともしませんでした。
「その上で」さらに磨いていくのが、また努力でした。


こう考えてみると、わたしは、努力そのものに
何の疑問も持たないように(持てないように)
生きる準備が〝万全に整っていた〟という気がしてきます。


ある時、わたしの親はこういう趣旨の話をしました。


「努力できる環境が与えられたことに
感謝しないといけないよ」と。

まあ、このような類のことは、名言集にもあるだろうし、
他の人も、みんなどこかでは聞くだろうセリフだが、
わたしは、これを「まるごと」信じた。

そこが、他の人と大きく違ったところだろう、と
今になっては思う。


「それは感謝じゃないだろ、恵んでくれた人に、
あなた様のおかげで今のわたしはいます、という
奴隷でいいですよ宣言だろうし、そもそも、それって、
あなたがエライってことを言いたいだけじゃないの?」

と、その時のわたしは、なぜ言わなかったのだろう?


いつの間にか、わたしは、

「今度はわたしが恩返しをする番だ」

と思うようになった。


しかも、親を責めにくかったのは、親はいい格好を
したかったのか、自分たちに感謝しろ、とは言わない。
「感謝の気持ちは、まわりの人みんなに対して持てばいい」
ようなことを言うのだ。

そういう子どもに育てたことを誇りに思っている、
という親のエゴでしょ、と今は思っているけれど、
当時は、それはまっとうなことだと思った。
人として当然そうしなければならないことのように思えた。

利他的な行動の衝動は、20歳くらいまでには
着々と準備が進んでいたのです。

わたしがわたしを見失う用意は、実は、
幼い頃から音をたてずに進んでいました。
まったく気がつきませんでした。


努力しなさい、とは、別な言い方をすれば、
「今のままではダメだ」ということの裏返しだ。
わたしが子どもの頃によく抱いてきた感情、
「ここはわたしがずっといていい場所じゃない」
という気持ちは、今のままじゃダメだ、
から来ていたと思う。


あなたは不器用だ、というレッテルから、
わたしは努力家となり、ついに
「今の自分じゃダメだ人間」になった。
努力は挫折をも正当化するために、
努力は挫折することなく、随分と長い間、
価値を維持し続けていた。


さらに「運悪く」、親は努力の結果を評価することを
恥ずかしいと思ったか、それよりも、
「努力をしているわたし」を評価した。
こういうと響きがよくきこえるが、結局、わたしは
努力の成果、つまり経験の結果と「わたし自身」が
重なってしまった。

それは努力の量に比例して結果がともなっていたから
という理由だけじゃなくて、努力できる自分が他人のおかげなら、
努力の結果つくられた経験は、自力で達成されたものなんかじゃなく、
ただ、わたしのところにぽつりと残された経験、
というだけのものになったからだ。

「わたしはこういう経験をした」という
シンプルなものでなく、
「わたしの経験はこういうものだった」という
説明者、解説者としてのわたしが残った。

それはまったく経験の主体とはいえない。
経験の傍観者という役回り。
もしも誰かから「あなたは誰ですか?」と
きかれた、たぶん、よくわからないので、
きっとわたしは、自身の経験を述べることになります。

わたしはこういう経験をした、こういう経験はよかった、
あれはそうでもなかった、あれはまあまあだった・・・
とか。

努力については、のちにそれ自体に疑いを持つようになりますが、
この思考の癖、つまり、わたしの経験を述べる違和感は
ずっと残り続けることになりました。

今だってそうです。

結局これは、わたしの経験を述べていて、
その枠をこえない。

じゃあ書かない、となると、わたしはただ、
今のわたしを甘んじて受け入れるしかできず、
それを許可したことになってしまうから、
それだけは嫌だから、このノートを書くことにしました。

あいかわらず、ここに個性はありません。

それは発揮できないのではなく、
わたしが培ってこなかったのだと思います。
それも個性だ、という嘘だけは嫌だから、
無個性であろうと、わたしの過去を暴きたい。
もしもこれがわたしの痛手なら、傷口がヒリヒリして
何かが抵抗するだろうから。

話がずれてしまいましたが、そういえば、
自分の兄弟姉妹のことで、忘れられないエピソードが
あります。これはよく覚えています。


具体的な記述は避けますが、
今ここで兄弟姉妹をAとBとします。


あるとき、Aが努力した結果至った成果を、
親が「この程度のことは」と蔑んだことがありました。
これにはわたしは大変にショックを受けた。
たしかに、それに比例する成果とはいえないかもしれないが、
努力する本人、努力すること自体に価値があったんじゃ
なかったのか?あなたたちはそう言ってきたよね?
親には直接言わなかったが、わたしはAをなだめた。
「よくやったね」と。

わたしがはじめて親役をつとめていると
実感したときだ。


もう一つは、Bの話。


Bは、わたしやAよりも、まあ、器用だったし、
一般に「できる子」と言われてもいい感じだった。
それほど努力しなくても、そこそこには
いつもいける子だった。
だから「あなたは努力には向かないね」くらいなことを
本人に言っていたと思う。

あるとき、Bが人生のなかでも窮地にたったことがあった。
そこから抜け出すためには、何を思ったか父は、
(普段は手をあげることは絶対にないが)目を覚まさせようと、
Bに手をあげて叱ることを宣言し、Bをつかまえようとした。
わたしは必死になってBを逃がした。

詳細は割愛するが、結局、わたしはBを保護することに
成功したが、その時感じた親への不信感は、
いまさらになってBに対して努力不足だの、
我慢が足りないだのと、ウンチク垂れてんじゃねーよ、
と思った。

あなたたちの理論でいえば、努力できない環境を与え、
それであなたはいいのよ、みたいに育てたのはあなたたちだろ、
だったら、あなたたちに感謝する筋合いもないんだよ。
Bは今、つらいんだ。どうして話をきいてやらないんだ?
Bがそう言っているんだったら、そうなんだ。
なぜそれを信じないの?疑うの?


それは、わたしが親役をつとめたと実感した、
もう一つの出来事でした。


これもまた「運悪く」、両親はわたしには
逆らえない部分があった。それ自体、よく考えればおかしい。
親の責務を、わたしは肩代わりしはじめた。

そんな両親を、わたしは守ろうとしたことも多かった。

あるときは離婚という判断を「彼らのために」支えようとしたし、
離婚しないという判断を「彼らのために」支えようとした。
そこに自分はいなかった。
わたしは一人でいいと思っていたし、せめて考えるとしたら、
兄弟姉妹のことだった。
いずれにしても、わたしは「自分のことはいいからさ」と
言うことが、半ば、口癖になっていたように思う。

「あなたはどうしたいのか?」を
訊ねる係りになっていた。

これも今思えば、未成年の子どもが演じる役目とは思えない。
ところが両親は、わたしに判断という判断、いや、親としての判断を
わたしに託した。
(もしかしたら親からすれば、わたしがかってでた、と
思っているかもしれないが・・・)

こういう状態に、わたしは当時、疑問を抱かなかった。
こういう時も努力癖がでてしまう。
「今がよくないのは当然だ。だから考えて、何とかしよう」
という、まるでロボットのような思考パターンだ。

こういう思考パターンを繰り返していたのは、
おそらくかなり昔からだと思うけれど、たとえば
親役をせっせとやっている具体的記憶となると、
18歳近くになってしまい、幼少期の記憶とはいえない。

幼少期の記憶としては、こういう思考パターンは
その頃から少しずつ培われていただろう、という
推測まじりの記憶になってしまう。


名言集のような類が好きだったのは、小学生の頃には
そうだったから、やや幼い頃の具体的な記憶だと思う。


そのような思考パターンが生きながらえたのは、
こういう思考パターンが、家族の問題を(真の意味ではどうだか
ですが)、往々にして解決させてきたからでした。
そのこと自体は、わたしにとってよかったこと、ほっとしたこと
だったから、なお、この思考パターンは力を増していきました。


繰り返しになってしまうけれど、わたしの場合、
努力の結果が、社会的成功と呼ばれるものにつながったため、
努力をするわたしの価値は崩れなかった。
これは確率的には、低いことではなかろうか?と思うわけだが、
それゆえに、わたしは努力を疑うことができなかったし、
そういうわたしに対してどこかコンプレックスと畏れを
抱いていた両親は、見える形でわたしを傷つける、たとえば
罵声をあびさせたり、脅したり、手をあげたりすることも
できなかったのだろう。

それはそれでいい。

運悪くでも運良くでもどちらでもいいけれど、
わたしには、それは大きな影響をもたらした。

結局、親が言っていた努力とは、
「あなたをダメにさせたくない。自分たちの子で不器用でも
これだけ立派に育ったのよ」と言いたかっただけではないか?
まあ、そういった動機は今さら別にいいが、皮肉にも親からすれば
あまり成功したとはいえないAとBは、両親にとって
「かわいい」存在となった。自分と同じようにわかりやすい、
「私たちの子だから、しかたないわね。あなたらしいわ」
と言われる子ども、そして大人になった。

一方、わたしは「へんな子ね、変わり者だよ」に言われる対象に
いつの間にか、そう、いつの間にかなっていた。

それにわたしはショックを受けているわけでもなく、
受けたこともない。そうですか、わからなくて結構です、
努力は自分のためにするもの、あなたたちにわかって
もらうためにやっているわけでも、やってきたわけでも
ありません。わたしはむしろ、「そういうふうに」言ってきた
あなたたちを誇りにさえ、思ってきたのですから。

と、そう言い放てる自分が
いつもいた。


< 続 く >


・・・長くなってしまったため、一つの記事で書けなくなってしまいました。
  (後半)に続きます。



2013.07.15
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-15 14:25 | 自我復元を始めた理由

大暴れしたい気持ち - 7月14日

このノートを書きはじめて、といっても
まだ一週間と経っていないが、
わたしのなかで時間が巻き戻されつつある。

記憶がよみがえる感じではなく、
ただ時間だけが、あの頃、1990年代の終わり頃に
巻き戻されていくような感じ。

大暴れしたい

せきとめるものが何も無い、そのなかを
踊りまくる、歌いまくる。
それがわたしの生きた道だと
誰にも説明する必要も、誰からも説明を求められる余地も
まったくない濃密さ、秒針とのズレのなさは、
わたしのなかで、大暴れ、という言葉になって出てくる。

何もかもがもどかしく、
もっとストレートに踊いたい、歌いたい。
走るために走れ、走れ、走れ。
そこに孤独という発想など入りこむ隙間もない。
わたししかいないし、そんなことあたりまえだ。

大暴れしたいわたしは、
つねに先頭にいて、後ろを知らない。
目の前に広がる風景を見る。
~すべき、という順序で何かをしたり、しなかったり、
そんなことはしない。
大暴れしたいわたし、踊っている軸足だけが
中心だから。

今のこのもどかしさ、のろさ、ズレ、その違和感、
不快感、たとえばそれは、動画サイトを見ていて、
音声と画像がズレているのを見る不快感に似ている。
わたしの今の毎日は、いくつのレイヤーがあるのか
知らないけど、ズレまくっていて、これでは
とんぼのめがね。具合が悪くなって仕方がない。


ここで立ち止まってみたい。
今朝、わたしはそう思った。


なぜ具合が悪くなるのか?それはどういうことなのか?
ではどうしたらいいのか?そこから何がわかるか?

・・・ということを考えはじめる自分がいるのけれど、
コイツは誰だ?いったい誰???という疑問がある。


大暴れしたいわたしからすれば、
具合が悪くなったら、その動画を見なければいい。
どうしても見たければ、音声と画像がずれていないサイトを
探せばいい。なければ諦めればいいし、諦めたくなければ、
自分で歌って、自分撮りして、アップして、
自分で見て、ああだこうだと思ったり言ったりすればいい。
勝手に自分でやればいいだけの話だ。


大暴れしたいこの気持ちは、わたしは
幼い頃から、比較的日常的に、持っていたと思う。
その意味では、抑圧され続けたわたしでもなんでもない。
見覚えのあるわたしだし、その部分は今も残っているから、
今朝のように、なにかもどかしいと感じる日は、
わたしを縛り付けている縄のせいで暴れられない
その鬱陶しさが不満なのだと思う。


ただ今日、今まではスルーしていた一つのことに
気づいた。


たしかに大暴れしたい気持ちはずっと
わたしのなかにあったけど、では実際に
「大暴れしたか、大暴れできたのか?」というと、
おそらくそれは、Noなのだ。

誰かに暴れるな、と抑圧されたかというと、
そういう記憶は今は思い出せない。
親であろうと、教師であろうと、上司であろうと、
納得いかないことは、不器用なせいもあって、
一切、受けつけなかったから、そういう意味での
不自由感はなかった。

思い出せるのは、中学生、高校生の頃は、
「どういう形で大暴れするか?」を
考えていたと思う。
ときにそれは進路を決める、ということにも
関係してきたが、その頃からわたしは、
「もしかしたらこの世の中には、
わたしが暴れられるような舞台が、実は
ないのではないか?」と考えはじめた。

なら、なんでもいいや、と進路は決めた。
実際、学生生活そのものは、わたしには
何の価値も見出せなかった。
その時も毎日毎日、考え続けていたのは
「これからどうするか?」だった。
今いる自分の場所でいい、と思ったことは、
一度だってなかった。


1990年代の終わり頃になると、
大暴れしたい気持ちはピークに達していた。
その頃、わたしはある一人の人(以後、Pさん)
と出会い、その大暴れしたい気持ちを語っては、
これからどうするか、さあ、やっと白紙だ、
なんでもできる!という自信に満ちていた。


先回りして書いてしまいますが、
この根拠のない自信は、この時がピークで、以後、
自信は大きく揺らぎ、2000年の終わり頃には、
完全に失うまでになります。


大暴れしたい気持ちは、ただの気持ちのままに
放置され、大暴れどころか、暴れることも叶わず、
走ることもできなくなり、最後には、手足も伸ばせなくなる。

生まれてから数十年間、絶えず暴れたい
と思っていたこのわたしが、手足さえ伸ばせない環境の中で
あっという間に、その気持ちを失いました。
3年くらいは必死に抵抗しましたが、それは負け戦でした。


というのも、結局のところ、
「その籠のなかで、どう暴れるか?」
という条件付きの大暴れだったからです。

籠のなかでは、大暴れできません。
今思えば、あたりまえです。

大暴れに「条件付き」などありません。
これも今思えば、あたりまえすぎます。

いくら大暴れしようとしても、あるいはしていたとしても
それは大暴れではありません。よく見積もっても、
もがきです。


わたしは2000年の終わり頃、
最後のもがきすらやめました。
動かなければ、そのはけ口は
妄想のなかだけです。
わたしはその妄想のなかで、ささやかな
楽しみを見つけて、なんとか今日を、
明日を生きるようにしました。


わたしは男性と接するのが苦手なので、
男性と接することが少ない仕事をしています。
広くいえば、これはボランティアという職種になろうかと思います。
「誰かのため」になにかをする、というやつです。


先日、サイン会のようなことをやっているそばを
たまたま通りすぎました。いつもなら、サッと通りすぎるのですが、
思わず、二度見、三度見をしてしまいました。

なぜなら、その女性がファンの男性に対してする
スキンシップの仕方が、わたしの目には
あまりに異様に見えたからです。

手の甲や腕を撫で回すように触り、
男性の肩や胸にまで手をあてて摩ります。
襟まで整えてあげちゃっているではありませんか!
近くで見ている女性や小さい子も、その光景を避けることなく、
むしろ興味ありげに見ていたので、わたしは
「今では、こういうのが普通なのか」と
妙に冷静に眺めてしまいました。

以前なら、これがもしもですよ、性別が反対なら
(という仮定が適切ではないですが)、これ、セクハラでしょ、
いやいや、完全に犯罪だよーって、思ったりしながら通り過ぎ、
1分後には夕御飯は何にしようかな、などと
考えていたと思います。

ところが先日は、たんに、そうは思えなかった。
セクハラだとか、犯罪だ、とかではなく、
他人事には思えなかったのです。

たしかにわたしは、相手が男性でなく女性相手で、
しかも直接触ったりはしませんが、その人の内面的な部分を
言葉や表情、しぐさで触ります。
ときにそれは、身体的な感触と連動するような、
かなり相手と近い距離で、見えない手で触ります。

個人的にわたしは女性との、広くそういったスキンシップは
好きですので、妄想という類であっても、そこには
そういう楽しみがありました。

同時に(女性に)触られるのも好きなので、
美容院にはわりとよく行くようにして、
シャンプーをしてもらうときは、一言も話さずに
その方の指の感触と呼吸を感じるようにしています。
話すのも好きで、気ままにガールズトーク。
鍋に何いれるだの、家が片付かないだの、
もうどうでもいいような、だよねーみたいな話です。

会話のなかで、言葉と言葉が触れ合う瞬間、
そこで見せる弱さやゆるみに、ゾクゾクってします。
お互い媚びるような話をしないですむのは、
ほんとーーーーに、ラクちん!


・・・気がつけば、

手足が縛れた籠のなかで、わたしはそんなことで、
そう、そんなことで「いい」と思ってしまうような
人間になっていた。


こういう言い方は好きじゃないけど、これじゃ、

・・・まぐろだ。


「大暴れしたいわたし」と「まぐろ」とでは
天地の差だ。

たったの10数年で、いとも簡単に
天地はひっくりかえった。

10数年前までは、少なくともわたしは好きなことだけを
考えていたし、好きなことだけをやろうとしていた。
できなくても、やろうとする気持ちだけは忘れなかった。
今思い返すと、もう少し気をつかうべきだったが、
私は話すとき、思っていることをストレートに話した。
伝えた。もちろん、相手にされないこともあったが、
わかってもらう必要もなかったから、それでよかった。

無明庵の書籍から離れたとき、
わたしが「やり残し」と認識して入ったその籠は、
10年という時間をかけて、わたしという人間を
まぐろへと調教する、最終調理の場だった。


「まぐろはラクですよ。しかも、ここではまぐろは高価。
今までと違って他人のためにもなります。
なにより、ここ大事ですよ、〝Pさんのため〟なのですから。
ぜひ縛られて寝てください。あなたはそこにいるだけで、
それだけで十分、十分価値があります。
女性のそばで仕事もできる特典付き!さあ、どうぞ。」


・・・少し作りこみすぎだが、およそまあ、こんな誘い文句に
簡単にベルトコンベアーにのせられて、この狭い籠の中で、
甘い夢と経済的な鞭を交互に、無駄な10数年を過ごした。


当時、それが無駄とはまったく感じていなかった。


むしろわたしの生きがいであり、わたしのすべてだった。


Pさんを世話をしながら、わたしは調教されていく。



それでいい。それでしかたがない。




それならそう生きて、適当に死ねばいい。





そういうことになるんだろうな。



・・・などと、
わたしは思うようになってしまっていた。


たったの10数年で、大暴れしたいわたしは
死んだ。

今朝、久々にこの大暴れしたい気持ちが沸いたのは、
ノートを書こうと思って、まったく手が動かないもどかしさだった。
指を開いたり、閉じたりして、いっこうに手が動かない。
そうだ、他の方の復元ブログを見てみよう、なんて
やってみたところで、暴れたくなるだけ。

もどかしさも わ・た・し・ら・し・さ だよね!

なんて冗談じゃない!!

無明庵から離れて、10数年の後、また無明庵と、
そしてこの分割自我復元法と出会うまでの間、
わたしは多くの人に

「もどかしさも、あなたらしさだよ」

と、作り笑顔で心の手で相手の心を触ってきた。

キモイだけじゃない。

触ることの代償は、とんでもなく大きなものだった。


その「もどかしさ」は、本来、
抵抗すべきものだった。

ずっとずっと、抵抗し続ければよかった。

これは恥ずかしい話だが、わたしは
後悔というものをしたことがなかった。

抵抗し続けなかったこと、今になって
このことを悔やんでいる。
本当に恥ずかしいことだが、
人生ではじめて、わたしは後悔した。

もどかしいままでいい「わたし」など
いるはずがない。
大暴れしたいのがわたしなら、
それでいいなんて、ありえない。

世話をするという名目で、触るに触り、過保護にし、
自立できるようにこの籠でその種を育て合おうね!
と本末転倒な約束をし、結局は依存しあってきたのが
わたしとPさんの関係だったと思う。

どうひいき目にみても、Pさんの自立に
役立つことはなかった。
ならば、少なくともわたしにとってよかったことは
何一つなかった、という結論になる。
事実を忘れるための刹那の快不快を
繰り返すだけの毎日は、どう考えても無駄だ。

わたしはもう一つ自分が嫌いなことを思い出した。
それは、無駄なことをすること。

自我復元のための制限時間は限られている、というだけでなく、
わたしは、小さい頃から、無駄な時間をすごすのが
大嫌いだった。そこまではいつも意識していなかったが、
今日死んで悔いが残るような、そういう生き方は
ぜったいに嫌だったから、たとえ10分ですむ用事を
他人から頼まれても、自分のなかで意味が見出せなければ
ほとんどの場合、断った。


話がそれてしまったので、元に戻して・・・


世話をするという名目で、触るに触り、過保護にし、
自立できるようにこの籠でその種を育て合おうね!
と本末転倒な約束をし、結局は依存しあってきたのが
わたしとPさんの関係だったと思う。


自立は、籠の外でやらなければならない。

大暴れも、籠の外でやらなければならない。


籠のなかの居心地のよさや悪さ、籠についての
どうのこうのは、所詮、籠教室の教科書に
最初から用意された答えに違いない。
わたしという存在の記憶は、
ここ10年にぎゅっと集められていて、
どうやらそれより昔のことが、
恐ろしいほど薄く、ぼんやりしていて思い出せない。

とぼけてるの?とよく言われるが、
そうじゃない。本当に思い出せない。
たった10年、20年前のことなのに。

だからかもしれないが、まるでこの10年が、
わたしの生きたすべてのような気さえしてくる。
時計のない世界だったら、わたしは完全にそう
思いこむに違いない。

その意味では、この10数年間の記憶と経験は、
わたしのアイデンティティそのものになってしまった。
籠の存在、籠のなかでの生活、籠で出会った人々、
そしてPさん。それはわたしそのもの、になってしまった。

しかし、わたしはこれを否定しなければならない。

どんなに苦しくても、否定しなけばならない。

この籠から抜け出すためには、どうしても否定して、
大暴れしたい気持ちを思い出し続けなければ、
その気持ち、記憶すら、失ってしまう。

記憶を失えば、明日も失う。
それは、自己を嫌悪する感覚すら麻痺するということだ。
そのかわりに、わたしはつねに今の自分が
間違っていないかどうか、執拗に確認する毎日に
おびえる。あるいは慢心する。

それが今のわたしだろう。

この籠のなかでは、わたしはつねに二の次、三の次で、
わたしが大切にされたことなど、ただの一度だって
なかったのだ。

これだけは言い切れる。

わたしはこの10数年、大事にされたことは
たったの一度もなかった。
結果、わたしはわたし自身を大事にするという
その感覚すら、それにならい、
忘れてしまった。


もう少しこの10数年間のことは、別の角度からも
ノートすることがあるかもしれないが、
今日はこのあたりにしたいと思う。


今朝、わたしは久々に、1990年代終わり頃に
巻き戻された気がした。
それはどういう感覚かというと、抽象的で
曖昧な言い方だけど、まだ何もかきこみもされていない、
白紙のメモ帳のようなもの。
ここに何をかくかは、まったくの自由。
そんな状態。

踊ってもいいんだ、

歌ってもいいんだ、

暴れてもいいんだ、

そう思って、書き始めた今日のページ。

だけど、わたしは不安だ。

わたしは今度は本当に大暴れできるんだろうか、
またその気持ちだけで、終わってしまうんじゃないだろうか。

でもそれじゃ、今回はダメ、絶対ダメ。

今回は「しかたなかった」では済まされない。

そのときは、後悔してもおそい。

だから、たとえ孤独でもやるんだ。

だって、わたしはそもそも孤独だったんだから
今さら何を恐れるの?


籠の外がある。


籠の外、という世界がある。


本当のやり残しは、その世界の側にあるのではないか。


2013.07.14
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-14 13:54 | 自我復元を始めた理由

おしまいにしたい、という妄想 - 7月13日

「おしまいにしたい」

という感覚。

無明庵に出会う前から、おそらく、わたしが幼い頃から
漠然と、ときに明確に抱いている、妙な感覚。

わたしはこれは、自分の意思、だと思っていた。
今思えば、これは巨大な妄想、監獄。

わたしは幼い頃から、名言集のようなものを
よく読んでいた。そしていつもその実践を心がけた。
別にエラい人になりたいとか、立派になりたいとか、
そう思っていたわけではなく、ただ

「間違いたくない」

と思っていた。

それもまた別に100点をとりたいとか、他の人と比べて
優越感に浸りたいなどと思ったことは一度もない。
ただ、大人になっていく、あるいは、まともな子どもとして
生きるとは、間違っていない、という状態を指すものと
考えていたし、そういうものであるべきだと思っていた。

10代の後半になると、わたしは習慣的に
「間違っている、というのはどういうことだろうか?」
ということを考えたりしていました。
その当時は、わたしにとって「間違っている」とは、
つねにそれが「限定的、部分的である」ということでした。
枠があるという状態を、わたしはどこかで
間違っている、と感じていました。
何の根拠もないのですが、自動的に
そう考えるようになっていました。

わたしが最も恥じていたのは、
間違っていること、それ自体では
ありませんでした。

そうではなく、たかだか知れた枠のなか、
限定的・部分的である状態にも関わらず、
わかったかのような顔をしたりする自分自身を
わたしは大変恥ずかしいと思っていましたから、
つねに、自分の経験がいかに不十分であるか、
自分を戒め、その確認ばかりをしていました。


<いつになったら、この確認は終わるのだろう・・・>


とくに、何かが「わかった」と思い込んだ瞬間ほど
不快なものはない。なぜなら、
わかったとは「枠」の存在を認めた瞬間でもあるのに、
なぜか、それで安心したり、調子にのっているわたしが
顔を出すからです。

上から目線になる、他人事になる、ゆるむ
その瞬間です。

「にたつくな」という自身からの声がきこえてくると、
ハッとして、その自分の愚かさの毎度の繰り返しに
嫌気がさしました。

いつまで、枠の存在証明を繰り返すのだろう?
結局はすべてに枠があるんじゃないだろうか?
間違っていることから自由になる日なんて、
これからもずっと来ないのではないだろうか?

いつの頃からか、わたしは
「間違いたくない」と思うよりも、
「わたしは間違っている」という感覚を維持することが
日課のようになっていました。

それでも、わたしは自由になりたいと思っていて、
ジャンルを問わず、いろいろな本を手にしました。
読む、というよりも、「枠」という言葉をキーワードに
検索をかけているような本の探し方でした。

その当時、わたしが不満でしかたがなかったのは、
結局はどの本も、最後には「いいこと」が書いてあることでした。
どの物語もハッピーエンドに仕上がっている。
「タイヘンなこともあるけど、きっといいことはある」
という、ありきたりなストーリーが平積みになっていて、
もううんざりでした。

精神世界という分野の棚もときどき見ていましたが
うんざりするのがオチで、じっくり読むのが馬鹿馬鹿しく、
まるで金属探知機のように、気づけば本屋さんを
巡回運転しているような毎日でした。


いいことが一つも書いていない本が一冊、
わたしはやっとその一冊を見つけた。
それが『廃墟のブッダたち』でした。


「いいことが書いていない。嘘がない。」


無明庵の本に、わたしは食いつきました。
わたしにとって、これほどに「おしまい」を身近に
感じさせてくれたものに出会ったのは
はじめての経験だったからです。

おしまいにしたいという感覚、
わたしはこの感覚は、完全に
〝自分の意思〟だと思っていました。
・・・無明庵の本を何冊か読み終えるまでは。


「これでわたしは間違っている自分、
これからも間違い続けるわたしが証明された」


 ・・・ 証明された?


間違いたくない、そう思って生きていた頃の
わたしはどこへ行った?

本当にそれでいいのか?

間違ったままでいいのか?

なぜ間違ったままの自分に嫌悪を抱かない?

抱けない?苦しくないの?なぜ。

なぜ? ??

「わたしは間違っている」というのも一つの枠ならば、
なぜその枠は甘んじて受け入れているの?
・・・それ、おしまいじゃないよねぇ。

それでいいいの?へえ、それでいいんだ?
おしまいにしたいって、それ本当なの?


≪本当はおしまいになるのが、こわいんでしょ≫

 ― そうかもしれない


≪アンタは間違っているよ≫

 ― そうかもしれない


≪ぶっちゃけ自分のことなんてどうでもいいんでしょ≫

 ― そうかもしれない


≪君の明日は今日となんら変わらないよ≫

 ― そうかもしれない


≪一度も心から笑ったこと、ないでしょ≫

 ― そうかもしれない


これは昨日ふと考えたことだが、
こういう声に対して「そうかもしれない」と無気力に、
反射的に認めてしまうのだとしたら、
もうおしまいにしたいと無気力に、
自動的に思うのも当然だと思った。
だって、おしまいにしないでいる、
おしまいにしたくない理由が
どこにも見あたらないのだから。

こんなつまらない人生を、ずっと続けたいと
思える感覚のほうが、わたしにはわからなかった。


わたしはずっとこの
「おしまいにしたい」という感覚は
自分の意思だと思っていた。


でもこれは意思ではなく、
ただの妄想であり、監獄だ、ということに
わたしは気づかなかった。


わたしはずっと「おしまい妄想」の監獄、
籠のなかにいました。


枠の証明など、知的な行為でもなんでもなく、
監獄のなかで課せられた「宿題」であり
「日課」でしかない、そう感じはじめたのは
今年に入って自我復元をはじめてからでした。

無明庵の書籍に食いついたのは
このわたしのおしまい妄想ゆえだったと思いますが、
いったん無明庵の書籍から離れたのも、
「お前は本当におしまいにしたいのか?」
という、わたしにとって最も怖い問いかけでした。

さっきのように、無気力に「そうかもしれない」と
答えてしまうようなわたしがまともなはずもなく、
まともでもないわたしが描く「おしまい」など、
おしまいごっこでしかない、と思った。


無明庵の書籍からいったん離れてみて、
わたしは自分の人生のなかでやり残しはないか、
考えてみた。


そう考えてみると、うっすらと
籠のようなものが見えた。

籠の扉に手をかけて開けて出てみると、
そこは手足を伸ばせる世界だった。
手足さえ伸ばせなかったことに比べたら
よほど素晴らしい世界に思えた。
たとえ間違っていても、それでも、
なんとかやっていける場所だった。
そこは、生まれてはじめて、
「わたしが必要とされる場所」だった。

わたしは生まれてはじめて、仕事で、生活で、
趣味の世界で、誰かに必要とされる存在を経験した。

ある一人の人(以後、Pさん)との共同生活、
共同作業もはじまった。


違和感の冬眠時期、およそ10数年を過ごしました。


この時期のことは、またノートしたいと思う。


10数年が経って、2012年のおわり、
自我復元に出会って、わたしのなかの違和感が
疼きはじめた。


飛ぼうとすると、ドンとぶつかる。


なに、これ?


よく見ると、それは籠でした。
籠の外は、また籠だったのです。

入子状態の籠の連続、監獄。

手足を伸ばせるようになっただけで、
少し飛ぼうとしたらぶつかるような、
ほんの少し大きいだけ、の籠だった。

なんと10数年間、この籠のなかが
「世界」だと思っていた。
歩けるだけで満足し、飛べない鳥は
10年の月日で、飛ぶことも忘れました。

飛んでいきたい場所のイメージも
思い出せなくなりました。

そのかわりに、
籠という枠も感じずに済みました。
そこがわたしの世界、生きているすべて、
わたし自身になりました。

生まれてはじめて、有意義な時間を
生きていると感じました。
自分を犠牲にして得られる何かに
意味を見出していきました。
自分のことは別にいいんだ、と
心のどこかでずっと思っていました。

飛べなくてもいい、飛べないからこそ
出来ることもあるかもしれない。
飛ばないでいるからこそ、できることがある。
飛べない自分でも居ていい場所があったんだ。
ここがわたしの居場所だったんだ。


いつの間にか、わたしは
「間違いたくない」という初心を
どこかに置いてきてしまいました。


それを思い出すのに、
随分時間がかかってしまいました。


わたしにとって間違いたくない、とは、
限定的だとか枠だとかそういうことではなく、
そのそもそもの初心を思い出してみれば、
「まっとうに生きたい」という気持ちでした。

まっとうに生きていきたい。
まっとうに生きたと思って死にたい。

そう思ってきたはずです。

誰が?

当然、わたしにきまってる。

わたしを捨てて、生きる意味など
いったい、どこにあるだろうか?
どこにあっただろうか??
あるはずがない。あったはずがない。

間違いたくないと思ったのも、
今日、わたしがここで死んでしまったら、
「わたしの人生ははたしてこれでよかったのか」
と思うに違いないと、幼い頃から
ずっと思ってきたからだ。

その最期のときに

「これでよし」

と思えるかどうかだけが、もともと、
わたしの関心事だったはず。

まっとうに生きる、ということを
正面から扱っていたのが
10数年の後に出会った無明庵でした。

わたしにとってまっとうに生きなおす
最後にチャンス、一本の藁。
分割自我復元法にたどりつきました。


2013.07.13
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-13 11:58 | 自我復元を始めた理由

「無明庵との出会い」から - 7月10日

わたしが無明庵と出会ったのは、10数年前のことでした。

『廃墟のブッダたち~銀河の果ての原始経典』という本を、
たまたま、本屋さんで手にとりました。

サイトではなく、書籍という形で
わたしは出会いました。

わたしはこのような本を、ずっと探していました。
このような本とはどのような本かというと、

「自分はおかしい」
「自分は間違っている」

ということを、わたし自身に徹底的に言い放ってくれる、
そのような本でした。

なぜなら、わたしはずっと今の自分、今までの自分の人生に、
ただ、違和感しかなかったからです。
どこかがおかしい、何かが間違っている・・・

その頃出版されていた10冊を
いっきに読みました。

「ここには嘘がない」

そう感じたのを今でも覚えています。

それと同時にわたしは怖くなりました。
なぜなら、あまりにその内容は、わたしにとって
逃げ場がない、と感じたからです。

わたしは間違っている、おかしい、ということを
自分のなかで整理出来たまではいいのですが、
わたしに大きな不安を残しました。

そういう自分なのに・・・
自己嫌悪がなぜか、生じない。

この〝妙な違和感〟だけは、
ずっと残り続けたのです。

正確には、その当時、「自己嫌悪が生じない」
というふうには、自覚してはいませんでした。
その妙な違和感を抱いている自分が嫌で、
それを自己嫌悪ととらえていた、あるいは、
とらえようとしていたのかもしれません。

無明庵の書籍には、行法が掲載されており、
それをやるかやらないか、と迷っていたのですが、
そこで一度立ち止まり、
それ以前に、人生でやり残したことはないか?
十分に生き抜くことをしてきたのか?と考えました。

そのときのわたしの答えは、Noでした。

いったん行法の実践は保留にして、
社会の場で十分に生き抜こう、
やりたいことはすべてやろう、
それもしないで簡単に結論づけてはいけない。
そう考えて、わたしは無明庵の書籍から離れました。

ふりかえってみて今思うのは、
無明庵から離れたとき、少しほっとしたように思います。
というのも、無明庵の書籍に書かれていた内容のリアリティは
わたしは無視できなかったし、遠めから眺めて「なるほどね」と
思えるような、そんな甘いものではなかったからです。

わたしは怖かったのだと思います。

人生のやり残しをやり尽くそう、という言ってみれば
きこえはいいですが、実際は、わたしは怖くて逃げたのです。

ただ、皮肉にも、わたしが戻ったその世界は、

「ある意味で、やり残し」

でした。

やるべきこと、と表現したほうがしっくりきます。
少なくとも、それは真の意味で、
「わたしがやりたかったこと」とイコールではありませんでした。
ただその当時は、それこそが、
わたしがやりたいことだと思って生きてきました。
何の疑いもなく。

無明庵に再会するまで、つまり、分割自我復元法に出会うまでに
それから10数年の歳月を必要としました。
その歳月についても、おそらく、これからブログに
綴っていくことになろうかと思います。

その長い歳月は、
違和感が「眠っていた」時期でした。
それは、言いかえれば、
≪わたし自身をどこかに置いてきてしまった≫、
ということでもあります。

同時に、その長い期間の経験や出来事は、
≪わたしのすべて≫でした。

この矛盾に気づくまでに
10年以上もの時間がかかった、
ということでもあります。

≪わたしのすべて≫でありながら、
違和感は眠っていただけ、でした。

夢のなかとはいえ、その夢のなかでは、
わたしはひと通りのことをやったつもりでした。
やるべきことはやったと思ったのです・・・が、


 どこかに、違和感が残っている


・・・そうだ、まだやっていないこと、あの
行法をやっていなかったではないか。

昨年、無明庵のサイトがあることを思い出しました。
サイトの存在はどこかで知っていましたが、
読んだのは、このときがはじめてでした。
行法に関連する記事を読み、実践することにしました。

たまたまサイトで新刊の紹介がありました。
目次を読み、関心を持ちました。
そこに書かれていたのが
「分割自我復元法」でした。


昨日のこと。


わたしは一人、散歩をした。

この感覚、この違和感、見えている風景って何?
今歩いている自分って誰?
2時間歩いてもそればかりだ。

学生の頃も、ただただ歩いていて、
ずっとその違和感。
何かが間違っている、どこかがおかしい。

愕然とするのは、10年経っても、20年経っても、
何十年経っても、何一つ変わっていないことだ。

ここに何一つ新しいことがない。
考えていることもやっていることも、
結局は、同じことばかり。
慢性的な違和感は、ずっと同じまま。

では、この10数年という≪わたしのすべて≫とは
いったい、なんだったんだろう?
それ以前だって同じだ。
毎日毎日が同じことの繰り返しで、
こういう日々の何がおもしろいんだろう?

わたしは歩いているとき、笑えない。

いや、そもそもわたしは笑ったことが
一度もないのではないか?

2時間歩いていて、きこえてくるのは
たった一つの声だけ。

「にたつくな」

にたつく自分が嫌いだ。

にたつく、そういう作り笑いは、無駄な嘘だから。

Abyとは誰?わたし?わたしって誰?どこ?

わからないけど、たぶん、Abyは怒っていた。
刃物を持っているようなイメージが沸き起こる。

にたつくな、と喉元に刃先をあてている感じだ。


2013.07.10
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-10 18:40 | 自我復元を始めた理由

自我復元を始めた理由 - 2013年7月6日

わたしの名前は、Abyです。
Abyと書いてアビと読みます。

わたしが自我復元をはじめた理由について、
まずはじめに、このノートに
綴っておきたいと思います。

ノート、そう、このブログは
わたしのノートです。
ですから、わたしのために書き続けていくつもりです。
希釈された自我が、元の全自我に戻るまで、
わたしは書き続けるつもりです。

たとえ一人でも、これがどんなに孤独な作業でも、
わたしは書き続けるつもりです。
なぜなら、希釈された自我で生きることは、
苦痛だからです。

こうやってノートをとっている今だって、
食欲もでませんし、呼吸もハアハアいいます。
笑うこともできません。

わたしの幼い頃の写真をみると、ある人は
「かしこそう」といいます。またある人は
「かわいい」といいます。どこがでしょう?
ぐっと唇の内側を噛むように、怖がった表情のこの子の
どこが幸せなのでしょう?

わたしはこの子、それはわたし自身ですが、
この子を裏切りたくない、その一心で自我復元を
始めました。ただそれだけです。

深くて暗い海の底に
その子はいます。

ずっとずっと、そこにいました。一人で。

孤独でも、やる。絶対、助ける。
孤独にいるわたしが、どうして孤独を恐れようか。
恐れていないわたしがいるけど、でも怖い。

怖いという感覚、そのどうしようもない違和感。
その違和感を頼りに、無明庵にたどり着き、
その最後の藁が、分割自我復元法でした。

ノートの1ページ目は、もう少し客観的なこと、
無明庵と出会った経緯や、復元法をはじめた
きっかけについて、書こうと思っていました。

でも、手が動かなかった。

二ヶ月前なら、たぶん書けました。
でも今は、なぜか書けない。
書くべきと思っても、今は手が動かない。

小さなわたしは、ずっと手を握りしめています。
黙ったまま、その子は手をかたく握りしめている。

その子のそばにいようとすると、
わたしも声が出てこない。

わたしがわたしの言葉を話せるようになったら、
このページを開いて、こんなときもあったと
笑って話せる日がくるでしょうか。
そういう日が来なければなりません。

そういう日は来なければなりません。

そういう日のために、その日のために、
わたしは自我復元を始めたのですから。

十数年前に無明庵の書籍と出会い、
今年に入って自我復元を始めました。
この長いブランクとその理由についても、
書くときが来ると思います。


2013.07.06
Aby



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by jh-no-no | 2013-07-08 21:12 | 自我復元を始めた理由