AC人格について-自我復元後日記[348]

今日は、AC人格について、
書いてみたいと思います。

AC人格って何?と思われた方は、
わからなくても大丈夫なので、
読んでみてくださいね。

それにしても、みなさん、
夏!ですね。ここ埼玉県は、随分暑いですが、
みなさん、バテていませんか?大丈夫ですか?

何度かブログにも書きましたが、
私、夏が好きで、得意なんです。
昨日も、お客さんがバテていても、
私一人、超元気なんです。

お話の前に、昨日、お客さんが買われたものをスキャニングしていた時、
ふわり、と、とってもいい匂いがして、わぁって思いました。

何だと思いますか?

とっても甘い香りの「桃」でした。

まだ出始めなのかな、それにしても美味しそうで、
私も買って、早速、休憩室で食べました。
その時の写真です。匂いが撮れればなあ~って思いました。

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右のは、桃じゃなくて、プラムです。トマトじゃありませんよ(笑)

プラムはもうちょっと甘いのが好きなので、
私が好きな品種が売り出されたら、また買って食べてみよっと。

桃は、まだ出始めなので、甘さまでは期待していなかったのですが、
香りだけでなく、とっても甘くてびっくりしました。

昨年の冬に体調を崩して、食べられるものを、と
これほど果物を食べた1年はなかったわけですが、
こうやって、1年ぐるりとまわると、ああ、またこの季節なんだなあって思います。
今は、果物も年中あるので、あまり季節感を感じないかもしれませんが、
流通は素直なもので、旬の季節は見ているとよくわかります。

一つ、そう、面白いのは、
ここは関東なのだけれど、
当たり前なんですが、ここより早く南のほうは暖かくなるし、
反対に冬は、ここより早く北のほうは寒くなりますよね。

そうすると、たとえばスイカの出始め、となると、
たとえば西日本や九州地方のスイカが、まず食べることができるんです。
それから、産地が北上していくんですね。
その出始め、というのは、わりと早くに過ぎ去ってしまうので、
梨とかそうでしたが、南のほうの産地の梨が食べられるのは(スーパーで見られるのは)、
数週間だったりするんです。

そうやって、日本を縦断していくんです。
そうしたら、今度は次の季節の果物が顔を出してきて、また縦断していく。
そうやって1年が立つと、「ああ、またこの季節かあ」って思うんですよ。

今日はまだお昼なので、
のんびり、書いてみたいなあ、なんて思っています。

AC人格について、あまり先入観がない方は
かえってわかりやすい内容かもしれません。

私は、笑顔って、やっぱりすごいなあって
思いました。昨日。

AC人格に対する強いイメージの一つに、
その内容や定義云々よりも、

「手ごわい」

というのが、とくに自我復元をどっぷりやってきた方は
大きいと思います。

とにかく、それを解除するのは困難だ、
私には無理なんじゃないか、と。

それに対して、私は、そう思っていません。

これは、今までも書いたことがありますが、
試しに、笑ってみてください。

笑うとは何か、とか、心から笑えない、とか、
目は笑っていない、とか、そういうのはどうでもいいので、
「笑顔を作ってみて」ください。

口角を上げます。表情筋を頑張って使います。
ずっとそうしていると顔が疲れるような顔をします。

その状態にいる時は、
AC人格ではないんです。

えっ?って思われる方も多いと思いますが、
逆に、何をもって、では、その状態がAC人格と言えるのか?
と訊かれたら、それも答えにつまると思います。


でも、次に、こう思うと思います。


ずっとこの顔でいられない、と。

疲れてしまうし、ずっとは無理、と。

笑えない時もあるし、と。

そして作った笑顔を解くと、
ああ、やっぱりAC人格の私だ、元気も出ないし、
妄想ばかりで、生きた心地もしないし、まるでゾンビのようだ、と思う。
やっぱり、ほら、ダメな私だ。これが一番わかりやすい感覚かもしれません。


そこで起こることがあります。


「笑顔だった自分」を恨み始めます。

同時に、

「笑顔でいる他者」を妬み始めます。

これが、極端にきこえるかもしれませんが、
本質的には、「殺意」なんです。

夢で他者をミンチにして殺す夢とか、
見たことがあると思います。
存在がなくなるほどに消してしまいたい殺意。
もっと日常的には、「ざまあみろ」と他者に対して思う気持ちです。

同時に、

自分も消えてしまいたい、
それが無への憧れとして美化されますが、
それも、笑ったりする自分への恨み、本質的には、これも殺意です。

私は、これも、
何一つ、問題がない、と思っています。

あまりに当たり前の事柄にすぎません。
誰もが体験し、見て、知る経験の一つです。

「そんな醜さは私にはありません」と思おうが、
私やあなたに関係なく、醜さは醜さとして現存します。
苦痛もそうですが、私のものかどうかなど、
苦痛の前では、そのような議論はどうでもよくなります。
痛みという現実だけが、現存するのと同じです。


こういうことすべてが、
とりわけ問題がない、という地点から始めてみましょう。


「やっぱり、ほら、ダメな私だ」

と感じた時、起こることがあります。


思考停止です。


なぜ思考停止するか?というと、
「もうダメだ」と決めてしまったからです。

何度も言いますが、
「何も問題はありません」。

ゾンビになろうが、笑えなかろうが、
恨もうが妬もうが、殺意を抱こうが、そんなこと、
何一つ、何も問題はありません。
ごくごく日常的な出来事です。

何も問題がない、という理解からしか、
人は考える、ということをしません。
ダメだ、と決めるのは、考えないでいられる最も短絡的な手段です。
むろん、その手段を「教えた」のが、毒親です。

最初に書きましたが、

「AC人格は手ごわいんだ」

というイメージにしがみつくのは、
私はやっぱりダメなんだ、と考えて済ませたい、
そうすれば、この状態がつらくても仕方がないと思える、
これが本音です。

もう一度、笑顔を作ってみてください。

暑くてバテてるし、それどころじゃない、という方でも、
数秒なら出来ると思います。

私の定義では、
AC人格は笑えません。

先ほども言いましたが、それは真の意味で笑うとは、とか、
屈折した笑い、とか、そういうことはどうでもよく、
AC人格は、そもそも、「笑顔を作れません」。

それが、私にとってのAC人格の定義です。

これをしっかり位置づけたのは、昨日です。

少し前に、おなかを風船のように、という話を書きました。
今、記事の最後にリンクしてある記事「明るい声」で
テーマにした内容です。

昨日、鍵盤ハーモニカを使ったり、歌ったりしてよくわかったのは、
「笑顔」というのは、風船の口をきゅっとつまむ役目がある、
ということでした。仕事中も、ずっと、実験していましたが、そのようでした。

実際、こうして歌う「東京音頭」は最高でした。
音の高低に関わらず、力むことなく、それはまるで鍵盤ハーモニカの音のように、
息がそのまま粒ぞろいの音として、自然に声に変換されていきました。
笑顔の表情を作ることが、最小の息量での発声を助けてくれました。

おなかを凹ませない、というイメージを持とうとするよりも、
笑顔を作ってみるほうが、息漏れを防げる感じをつかめるような気がします。
(息で歌っているわけですが、息量がコントロールできず、ドッと流れ出てしまうと、
それは、息で歌っている感覚でなく、息漏れの不快感として感じます。)

おなかの風船のイメージは、自我のイメージととても似ていて、
自我復元の方法としても、
「笑顔を作ること」は、とても有効だと感じました。

無理にでも、笑顔を作れば、
それは、AC人格ではありません。
誰にでもできます。毒親分析も必要ありません。
今、ここで出来ることです。

AC人格の解除とは、ただ、これだけのことです。

これは、私は、自我復元中も、
私自身の経験の中で、経験の言葉としても、
書いてきたことです。

それは、手を握る、というような表現もしてきました。
これは笑顔を作ることではありませんが、
本質的には、同じことを言っています。
「動く」ということが、その本質です。

これが、私が自我復元中に
私が書いてきたことです。

そして自我復元後に書いてきたのは、
もしも、笑えない、動けない、その時はどうすればいいか?
私が体験的にたどり着いたのは、

「休めばいい」

ということでした。

このことを、私は、とりわけ、
自我復元後は書いてきました。

笑っていこう、元気に動いてみよう、
それが出来ない時は、自分が好きなように休めばいい。
どんな休み方でもいいから、休息をとってみよう。

そして、そこで最も大事なことは、

「私が休んでいる間は、誰かは笑っていてくれている、
誰かは元気に動いてくれている」

と、知ることです。

だから、いいんです。

私が笑えなくても、動けなくても、
他の誰かが、たとえばあなたが、笑っていてくれている、
動いていてくれているのなら、のんびり、休んでいればいい。

また笑える、元気に動けるようになったら、
また笑って、元気に動いて、楽しめばいい。

それが無理な時は、誰かが代わりに楽しんでくれている。

私が出来ない時は、
誰かが出来てくれていればいい。

私が笑えない時、どこかで誰かが笑っている。
私が動けないで横たわっている時、どこかで誰かが元気に走り回っている。

私は、自我復元をしてきて、
よかったと断言できることがあります。

それは、

自我復元が総力戦だったことです。

「私が笑えない時は、あなたが笑ってくれていた。」

先日、子どもと遊んだ話を書きましたが、
子どもが「ちょっと待ってて」とは、何をちょっと待っててと言っているか
わかりますか?

「笑って待っててね」

と言っているんです。そのまま笑っててね、って。

子どもは、いつも冒険に出かけます。
その最中は、笑えないほどに真剣な眼差しでいなければならない時が
たくさんあります。

でも、必ず思います。

「笑って戻ってくる」

と。

だから、その間、笑って待っててね、と。
そのまま笑っててね、と。

先日のその子は、私にちょっと待っててね、と言って、
ただ数メートル離れたところに置いてあるラプンツェル柄の水筒を
取りに行っただけです。暑かったら、喉が渇いたんでしょうね。

しかし、その時に、子どもは本気で言うんです。

「ちょっと待っててね」

って。私はそういう子どもの言葉を聴くたびに、
背筋がピンと伸びる思いがします。
どれだけの信頼を、その子が私に命懸けで寄せているかがわかるからです。

水筒を手にして、一口、くっと飲みながら
こちらを振り向く。

「いる」

そう、私を見て思うのだ。

こうやって、子どもは、知っていく。

私が笑えない時も、あなたは笑ってくれているから大丈夫、と。

私は、それを知らない子どもでした。

先日、悲しくて今にも泣きそうな目で、
私は夢から覚めました。

こんな言葉を夢の中で聴いて、
悲しくて起きてしまったんです。

「だって、いないんだもん」

私は、これが殺意を生み出してきたんだと知った時、
「その子」の悲しみを感じ、私は泣きそうになりました。

今、私は、今日書いたように、
私が笑えなくても、その時は、あなたが笑ってくれているんだ、
だから大丈夫なんだ、って、少しずつですが、
そう思える子どもになってきています。

子どもたちって、私にとって、
親なんだなあって思います。

子どもたちは、私にとって、
本当に出会えてよかった私の親だと思います。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html


◆初めてこのブログを読んでくださった方へ◆

私のこのブログの過去の記事のなかに
こんな記事もありますので、よかったらご覧ください。
長めの記事ですが、私が一番読んでほしい記事です。
私の特技は、ぬいぐるみとお話しができること、です。

1.「(前半)明るい声-自我復元後日記[338]」
http://mmjhb11.exblog.jp/24673881/
2.「(後半)明るい声-自我復元後日記[339]」
http://mmjhb11.exblog.jp/24673914/



2017.7.09
愛美

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by jh-no-no | 2017-07-09 15:24 | 愛美通信☆メトロノート


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