仕事中の発声で取り組んだこと-自我復元後日記[333]

まとまりのないメモになってしまうと思いますが、
昨日、仕事中に取組み、感じたことを書き留めておきたいと思います。

まず、話は鍵盤ハーモニカになりますが、
製造工程の動画を興味があって見てみたんですね。

目で見ると、よく理解できました。

息が送られ、リード弁が振動して音が出るわけですが、
製造プロセスを目で見ると、それが「映像」として
イメージすることが出来るようになる、という点。

その映像、そのイメージで、
声を出すことから、今日はスタートしました。

つまり、「私の仕事」は(レジという意味ではないですよ)、
「息を送ること」であって、
接客用語の一音一音は、「私の身体の所定の部位」が振動しているに過ぎない、
というイメージを、はっきり、持てたのです。

鍵盤ハーモニカの場合、ある箇所の鍵盤を押せば、
内部ではその箇所で空気の通り道が出来て、
その箇所のリード弁が振動することで、その音が出るわけですが、
私が思ったのは、今も書きましたが、
接客時、私の仕事は、「息を送るだけでいい」と思ったんです。

つまり、

鍵盤を押す作業、すなわち、音や言葉を作る作業は、
「身体に任せておけばいい」と感じたんです。
むしろ、それを「私がやろう、私の仕事だ」と力んでしまうのが、
まさに、力みになってしまうと感じました。

実際、鍵盤ハーモニカにおいても、
その音を作るために私がやっているのは、
「息を送ること」であって、その音を作り出しているのは、
私ではなくて、その音に該当するリード弁なんです。

私の息 → リード弁 → 音が出る

と、役割をバトンタッチしていくわけです。

ところが、力み、というのは、
リード弁をなんとか振動させようと「直接、リード弁をいじろう」とする無茶によって
起こるのだと思います。

私が出来るのは、リード弁(人間でいえば声帯)を直接いじるのではなく、
リード弁(声帯)に息を送ることだけなんです。

当たり前のことかもしれませんが、
たとえば、歌で高音になると、上半身や喉に力が入ってしまうのは、
私の感覚では、「直接声帯にアクセスして、なんとかその音を出させよう」
とする「無茶」が、そのまま、無茶=力み、として現れているんだと思います。

いくら喉の力を入れたり、腹筋に力を入れたところで、直接声帯に触れるわけでもなく、
直接いじって操作できるわけでもないのですが、なんとかしようと力むのが、
まさに、硬直という症状として現れるのだと思います。

ではなぜ、そのようなことが起こるのか?

これが、だんだん、わかってきました。

「私が」声を出そうとする必要なんてなかったんです。
「私が」することは、息を送ること、それだけでよかったんです。
「身体が」声を作ってくれますので、その箇所まで息を送ればいいんだ、と思いました。

ところが、

もしも、「息が送れなかったら、送る息が無かったら・・・」

そうなんです。

声はどんなに頑張っても出ません。

「どもる」

という現象は、ああ、これだ、と思いました。

風船に例えるのが、とてもわかりやすく、
これもまた、映像イメージとして、私の助けになりました。

膨らんだ風船があるとします。

風船の口を指でつまんでいたとしましょう。

少しだけ、指を緩めれば、
少しだけ、空気は漏れていき、少しだけ風船はしぼみます。

しかし、もしも、
指を一気に緩めたら、空気は一気に漏れてしまい、
風船は完全にしぼみ、ぺちゃんこ、内部に空気は無くなります。

その状態から声を出そう、とすると、
「声が出ない」ということが起こります。

以前、私もブログで書きましたが、
まさにこの状態だったのだと思います。

「ありがとうございます」

の、「あ」が出てこない。

これが何時間も続いたのは、
脂汗でした。会釈が精一杯だった日がありました。
あれは、辛かったです。

ぺちゃんこ状態から、それでも、
なんとか言葉を出そう、言おう、とすることで起こります。
息が無いので、それでもなんとか言おうとするから、
身体、とくに上半身や喉にぎゅっと力が入り、
力技でなんとか、言葉を押し出そうとします。

歌で高音をなんとか出そうとして
「張り上げてしまう」というのは、これと変わりません。
息に頼るのではなく、力んで押し出そうとしてしまいます。

その原因は、送る息が、すでに無いためです。

なぜ無いか、というと、
すでに風船から息(空気)が漏れてしまっているからです。
指で閉じていない状態なので、風船の口から、
ドバッと、最初の時点で、息(空気)が漏れ切ってしまっています。
最初から穴の開いた風船、とも言えます。

鍵盤ハーモニカには、
演奏中に楽器内に入ってしまった唾液を抜くための
「唾液抜きの穴」があります。
そこを開けて、強く息を吹くことで、
水分を外に出して、劣化を防ぎます。

買った日にやってみたのですが、
その穴を開けたまま吹くと、当然、息は全部、外に出てしまうので、
鍵盤を押しても、ほとんど音は出ません。
ほとんどの空気が外に漏れてしまうからです。

ですから、その唾液抜きの穴の栓は、
先ほどの風船の例でいえば「つまんだ指」にあたります。
その栓を開けたまま、それでもかすかに聞こえる音を
なんとかもっと出そうとすると・・・やってしまうのは、
息が流れ切ってしまいそうになっても、なお、腹筋に力を入れ、首に力を入れ、
なんとか空気を送ろうと「力む」ことなんです。

しかし、所詮、息は尽きます。
そこに残るのは、息を送る人間の筋肉のこわばりだけなんです。
書けば当たり前なのですが、こわばっても、出ないものは出ません。
それでも言葉にしようとすれば、言葉がぎこちなくなるのは当然で、
どもるのは、そのためだと思います。

これは以前にも書きましたが、
この種の緊張は、その人につねにあるものですから、
こわばっていること、力んでいることにも自覚しにくいんです。
手の小指が力んでいること、そこを脱力していく話も書いたことがあります。
とても自覚困難なほどに、習慣化した身体状態なんです。

話がややこしくなってきてしまいましたが、
昨日、私自身、息を送るのは疲れる、元気を必要とするのでは、
というようなことを書きましたが、それは、違うと思いました。
まさに、それが、違うんです。

私はずっと、唾液抜きの穴の栓が開いたまま、
息をして生きていました。
だから、息を送る、使う、というのは
とても疲れると感じていました。

これは、以前、
「胸に開いた穴」と書いたこともありましたね。
私の身体が感じた穴は、胸にありました。
その話は、置いておきましょう。

仕事中、はっと思ったんです。

今まで、風船の口がドバッと開いていたのではないか、と。
唾液抜きの穴が開けっぱなしの状態だったのではないか、と。

どんどん、息は浪費されてきたのではないか・・・

歌のレッスンで、
「息を吐いても(声を出しても)、自らおなかを凹ませないように。
息を吸って膨らんだ状態を、吐いてもなお保つように意識する」
と指導を受けてきましたが、私は、どこか、それが疲れることに感じていました。

たしかに、おなかという風船があったとして、
空気がどんどん一方から漏れていれば、
膨らんだ状態を保て、というほうが無理です。
それをやろうとすれば、腹筋などに頼ろうとして当然です。
ですが、その力みは、結局、上半身、喉、声帯へと伝わり、
全身を硬直させてしまいます。

長々と風船の話を書きましたが、
私が気づいたのは、
イメージの変換でした。

おなかという風船を「膨らませておかねばならない」、
そのために「頑張る」、疲れても頑張る、のではなく、

そうではなく、

結局、それは何をしているのか?といえば、
「空気を少しずつ使っていること」だと思ったんです。
ドバッと使うのではなく、指を少しだけゆるめて少しだけ空気を抜く。

イコール、

それは何をしていることが、それのことなのか、というと、
それが、「おなかを張った状態に維持しようとすること」でした。

風船でいえば、
風船をなるべくしぼませないようにする、ということは、
「風船から出る空気を少しだけにする」ということです。

疲れてしまう、元気を必要とする、
そう思いこんでいたのは、
息はたくさん必要なんだ、それに、おなかも張っておかねばいけないんだ、
と思っていたことによるのですが、
わかったのは、おなかを張った状態を維持することは、
息を少しだけしか使わなくていい術なのだ、ということでした。

つまり、むしろ、疲れないための術だったんです。

このイメージを持つことで、
「穴」が閉じます。

おなかを張った状態に維持するイメージ
(もちろん、実際には、息を吐いているのですから凹んでいくのですが、
できるだけ凹ませないようにする、という意識は、風船でいえば、
できるだけすぐにしぼませないようにしようとすることです)
そのイメージを持つことが、穴の閉鎖イメージそのものだ、ということです。

鍵盤ハーモニカもそうですが、
大量の息を必要としません。
その音のその鍵盤一つ分の「穴」に必要な息量だけです。

鍵盤ハーモニカを吹いて面白いと感じたのは、
弱い息なのに、音が立ち上がると、しっかり響くことでした。
音が立ち上がるまでに、タイムラグがあります。
そこが、また鍵盤ハーモニカの魅力です。
まさに、その体感によって、
「息が送られていき、次にリード弁が震え、それで音が出る」という流れが、
まるで製造工程を見るように、吹きながらイメージ出来るんです。

少しの息だけを使う、そのイメージが、
私のおなかの張った状態へのイメージを180度変えました。
疲れないのだ、と、まったく意識が変わったんです。
つまり、疲れる、元気が必要だ、というのは、
先入観だったんです。

私がやる仕事は、

「息を送ること」

しかも、

「少しの息でいいこと」

でした。

もう一つ、わかったことがありました。

少しの息でいいんですが、
今までの習慣のために、そうは思っても
このようなことが起きてしまいます。

少しの息だと、当然、「声の出し始め、出したその瞬間」は
小さな音量なのですが、どもってしまうことを感じてきた身体というのは、
それではいけない、と思いこんでしまっているところがあって、
「出だしの瞬間から、はっきり大きな声で言えなければダメだ」と
自分に言い聞かせてきてしまったところがあるんです。

そのため、
少しの息なので最初は弱いのは当たり前なのに、
その弱さを感じた時点で、ひるんでしまうんです。

やってみてわかったのは、
まさに鍵盤ハーモニカのように、時間差で弁の振動を安定させ、
弱いと思っていたその音も、求めていた音量に少し待てばなるんです。
ひるんでしまうと、その少しを待てず、息を送るのをやめてしまうんです。

やめてしまう、というより、
口をドバッと緩めてしまうんです。
実際、そこでは、おなかが緩んでしまっています。

先日の歌のレッスンでもそこが、最後、
私が質問し、なるほど、とわかった点でした。

息を送り続ける、息を抜いてしまわない、というのは、
確かにその時、私は意識的に自然とそうしていましたが、
「少しの息を送るのを、継続する」ということでした。
すなわち、油断して一気に張っていたおなかを緩めてしまわない、
ということでした。

息の送る量は少しでいいんです。

でも、大事なことは、
それを、「途切れない」ようにすることでした。
途切れる、というのは、途中でおなかがゆるみ、
息が声のために使われず、外の漏れてしまう、ということです。
鍵盤ハーモニカで言えば、唾液抜きから抜けた空気は、リード弁を振動させるための
空気ではなく、漏れてしまった空気だ、というのと同じです。

こうやって外に息が漏れ、途切れてしまえば、
結果、途切れないように息を送り続けること以上に、
実際には、息は浪費してしまいます。

とくに、トップの音から下りにさしかかると
油断してしまい、息が漏れ、送り続けていた息の量などがブレることで、
きっと「粒」が変わるのかもしれません。
だから、下がるところでこそ、息をもっと送るように、と、
おそらく、伝えてくれていたんだと、私は思っています。

とにかく、どもってしまう、という恐怖心が育ててしまったのは、
「弱い発声、小さい音量=悪い」となってしまっていることで、
「だんだん定量の音量に近づいていけばいい」という発想が
持てなくなってしまっていたこと。

クレッシェンドしていけばいいだけでした。
鍵盤ハーモニカのように。
そもそもが、楽器(人間の声帯もそう)とは、そういうものでした。
鍵盤ハーモニカも、いきなり強く息を吹き込んでも、
上手く振動しないようです。実際、低音など、特にそうで、鳴らなかったりもします。
口笛もそうですよね。弱い息であてていき、少しずつ、音が鳴りだし、
安定していく。強く息をあてても、息が漏れるだけですよね。

だから、悪循環なんです。

音が弱い、声がしっかり出ていないんじゃないか、と感じると、
強く息を送ろうとする。

ところが、実は、そこですでにひるんでしまっていて、
張ったおなかもしぼみ始めているから、
残る空気さえも、強く息をと思えば思うほど、漏らさせてしまい、浪費してしまう。
結果、音や声を作るための息には使われず、音を作る元である空気もないものだから、
とにかく、頑張って声を出さねば、と、腹筋が力み、
上半身、肩、首、喉、声帯、すべてをこわばらせてしまう。

当然、声もこわばり、上手く出せず、最後には、出なくなってしまう。
私がどもってしまった経験そのものです。


まとめてみると、


私がする仕事は、

「息を送ること」

これが一つ目。感覚としては、ハスキーに話す感じです。
息で話している人、みたいなイメージで、
息まじりの声を出すように意識してみます。

Uruさんの歌声は、私にはそのように聴こえていました。
息で歌う、息を大切にされている、とても素敵な方だと感じてきました。

それから、臨時で2度ほど、私に歌の指導してくださった
A先生の無理を絶対しないようにという発声の指導にも出会えました。

なにより、そのイメージをすごく助けてくれたのが、
鍵盤ハーモニカの構造です。


二つ目は、

「少しの息だけでいい」

こと。元気でなくてよく、頑張れなくてもよく、
一番疲れないような、そんな少しの息だけを使うようにする。

この二つ目のことに関連して私が感じたのは、
「息で歌っている、息で声を出している」というイメージをしっかり持つと、
自ずと、それこそ、自らおなかを凹ませてしまうことをしなくなります。
なぜなら、息を送り続けるには、それが必要な身体状態なことは、
自分でわかっているからなんです。

実際、ロングトーン、小さい声でいいので、
できるだけ長く出し続けるようにと言われてやれば、
おなかをできるだけ凹ませないようにするものです。
風船の大きさを保つように、みんなすると思います。

なのに、それが歌の指導になる、というのは、
逆にいえば、「息で歌っている、声が出ている」という感覚を
私たちは忘れてしまうからだと思います。

喉に力を入れて、張り上げれば
高音が出せる、と、どこかで思ってしまっている。
声帯というリード弁を、じかに、操作しようとした結果、
それが、身体の力みとして見える形で現れてくる。

あくまでも、私の仕事は、
「息を送る、送り続ける」ところまで、です。
それ以降は、息が所定の場所に行き、所定の弁を震わせる仕事を
私の身体がしてくれます。


そして三つ目。

少しの息で、十分、音、声は出る、という理解です。
それを体験することです。

ただし、いきなり、思う音量が電子音のように出るのではなく、
鍵盤ハーモニカのように、クレッシェンドがかかって出る、ということ。
鍵盤ハーモニカまで顕著でなくても、タイムラグがあっていいということ。

小さな音量だからと、なんとか息を強く送ろうと焦らず、
数秒待つつもりで、むしろ出だしの「小さな音を味わう」つもりで
ちょうどいいかもしれません。

「出だしは、小さな音でいい」

というか、当然です。鍵盤ハーモニカもそうですから。

これが三つ目です。


・・・


ということで、

私、今日、7時間、ずっとレジで
自分が鍵盤ハーモニカになったつもりで声を出していました。


楽しそうでしょ。


すっごく、楽しかったんですよ。


実際、今日ほど、疲れなかった日は今までありませんでした。

出勤した時より、仕事が終わった時のほうが元気なほど、
どんどん、元気になっていく7時間だったんです。

吸う空気が、本当に栄養になったのかもしれません。
そして、なんといっても、息を送り声を出すたびに、
「ブー」という鍵盤ハーモニカの音と私の中で重なって、
もうね、私は楽器でした。


予定なんですけどね、


8月と9月に、一日ずつ、
鍵盤ハーモニカの講習会に参加しようと思っていて、
早速、今日、予約にエントリーしました。

面白そう、って思ったのは、
その講習会、いわゆる「上手く演奏するため」講習ではなくて、
鍵盤ハーモニカの構造など、鍵盤ハーモニカという楽器について、
深く知るための講習であることでした。

製造工程にも興味があり、
どのようにして音が出るかに関心が向いていた私にはぴったりです。


・・・次の生にでも、と思っていた鍵盤ハーモニカ。

次に生まれた星のお店で、その星製のものを買ったりして、と思っていたら、
渋谷で買うことになったりして。予習といっても、随分、早いこと。
まあ、でも、地球での講習会も、地球製鍵盤ハーモニカの知見として、
ユニークな予習になりそうです、


なんてね。


などなど、いろいろ思ったりもしますが、
鍵盤ハーモニカの講習会に行きたいなあって思った一番はね、


長いお休みが始まって、私、
すごく羽を伸ばしちゃっているんですね。

それで、出かけたいみたいなんですよ。


こんな講習を見つけて、

「あ、なんか行ってみたい」

って。

それも、8月、9月に、一度ずつなので、
無理もなく、それまでは、身の回りの整理をしようとか、
料理をしようとか、編み物もしたいだとか、
本を読もうとか・・・私、なんだか、元気みたいです(^^)


休んでよかった。


どんどん、元気になっていくみたいです。


こんなにブログも書いたりするのも
久々ですね。


なんだか、いろいろ楽しくなっちゃって!


でも、今日仕事に行ったら、月曜日はお休み。


羽もちょっと休めましょう ♪ ♪




◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.6.25
愛美

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by jh-no-no | 2017-06-25 10:36 | 愛美通信☆メトロノート


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