今日は朝から家計簿です-自我復元後日記[313]

アルパのレッスン前に、今朝から、
先月、5月分の家計簿をつけました。

6月に入っちゃって、気がかりだったのよね~。

のんびり、今日は、
家計簿をつけておりました。

今日、思ったことがあります。

合気道でも、アルパでも、
「ゆっくりでいいから、止まらないこと」
と指導を受け、私は、実際に、
止めないこと、止まらないことの重要性を知りました。

だけれど、

今は、これは、これからは、
こう言ったほうがいい、と思いました。

「止まっていい、止めていいから、ゆっくりやればいい」

それは、まったく違うことを言っているように
思われると思います。

丁寧に見ていきましょう。

毒親は、こう、言ってきました。

「止まるな、止めるな。頑張れ。努力だ」

と。

問題は、そう言われて、どうなったか?という、
「結果」なんです。

「止まってしまった、止めてしまった、頑張れなかった、努力なんて・・・もう疲れた」

私だけではないと思います。

きっと、多くの方、
AC人格として調教されてきた方は、
同じような経験をしてきたと思います。

そういう経験の延長の中で、

「ゆっくりでいいから、止まるな」

「手段は選ばなくていいから、止めるな」

「毒親が言っていたのは、一つ。止めてしまえ、だからだ。止めてはいけない。」

と、言われたところで、

心を縛るのは、

「辞めちゃダメだ、止まっちゃダメだ」

だけ、なんです。私がそうでした。

自分でもそう縛りつけていたことは
後悔はしていませんが、
「ここまでに」すべきだ、と思いました。

こういう方法は、私だけでなく、誰にとっても、
とても危険だと思いました。

身体が壊れます。

私は、仕事は続けますが、
次の春まで、アルパも、歌も、ダンスも、合気道も止めることにしました。
そして、最近、次ではなく、もしかしたら、いや、
おそらく、幾度かの春を必要とする、と感じています。

他の方法を模索する必要があります。

まず、私が気がついたことは、

「止まらないこと、止めないこと」

など、力説しなくていい、ということでした。
それは、なにより、自分自身に、です。

そんなことは、

毒親から、嫌というほど、いいえ、それどころか、
調教されたAC人格としての私にとっては、
「プロの領域」になっていることなんです。
私だけではなく、休むことが許されなかった多くのAC人格にとって、
言ってみれば、それだけが取り柄、というほどに、
休まないこと、止まらないこと、止めないことほど、
得意なことはありません。

好きなことじゃないかもしれませんが、
スペシャリストの域に達しています。
毒親都合なので、不本意で、不名誉に感じますが、事実です。

私は、習い事がない日など一日もなく、
何かを止めたこともなく、休むこともなく、
そういう生活が、ずっと、続きました。

私はそのことを持ち上げられ続けて育てられたので、
その期待に応え続けてくることを
苦だとは感じたことは、一度もありませんでした。
それは自慢でしたし、両親にとっても自慢の子でした。

でも、です。

長い目で見た時、

それらは、

すべて、

「止めてしまった結果」

になりました。

どれも、大人になる今日まで、
「ずっと好きだったことでした」と言えるものが、
何一つなくなってしまったんです。

ふと、思います。

私がこうやって、すべて止めてしまっても、
私の両親は、無表情でした。

以前は、そういうこと自体、
そんなにおかしいとも思ったこともなく、
こういう流れそれ自体が、あまりに普通で、普通と感じたこともありませんでした。

今は、思います。

「なぜ、応援してくれなかったんだろう」

と。

これは、とてもへんな疑問意識なんですよ。

まっとうな親に育てられたら、
そんなこと、思うはずもなく、
また、毒親に育てられても、応援してくれないのは当たり前なので、
なぜ、とすら思わないものです。

頑張れ、努力しなさい、は、
応援とは言いません。

応援とは、頑張れない、もう頑張れない、という時、
励ますことです。

頑張ることなど、自分でわかっています。
努力だって、命令されることではなく、
自分がしたくてするものです。
それは、応援とは言わず・・・では、何なのか?

私が出した結論は、

「疲れてしまえ。それで止めちゃえよ。お前もオレと同じようにな。」

です。これは、以前も書いたことがありますね。

だから、私は、

「止めちゃダメだ」

と、どんな醜くても、止めちゃダメだ、と
自分で言ってきました。

でも、その方法では、
「疲れてしまう」んです。

私は、以前、それは、
AC人格の怠け癖だ、と断定していました。

それは、そうでもありました。

止めてしまうことで、
私たちは、なんとか、やっと休んできたからです。
そうやって、生き延びてきました。

それは、怠け癖、ということに、
「AC解除」の視点から言えば、なるかもしれません。

だけれど、

では、怠けず、走り続ければ、
私たちは、走り続けられるのか?

私は、私の経験に限りますが、
私は、無理でした。

正直、ここが限界でした。

ギリギリだったと思います。

タイムリミット、ギリギリだったと思います。

休む中心の位置をずらしても、
何をしても、もう、頑張れない。

そして、はっと、思う時がある。

私の今の現実、リアルな現実とは、
もう、これ以上、身体を酷使してはダメだ、
それ一点だ、と、度々、思うようになったことでした。

今日、書きたいのは、
私の悩んできたことではなく、
結論です。

「止めよう」

毒親が仕向けた、そう思ってきた結末を、
自身で、選びとることです。

「止めちゃダメだ」

という、止めることに対する罪悪感が
私にはありました。

少し前にも書きましたが、
休むことへの罪悪感です。

しかし、それは、毒親が植えつけたものです。

休んではダメだ、と言われ、
私は走り続けてきました。
親の計画通りにです。

毒親の本当の目的は、
私の身体を殺すことです。

まさに、文字通り、
「殺すこと」です。

この道筋を変えるには、
「止める」しかない。

それは、毒親の企てに屈することのように思え、
かつ、罪悪感さえも抱き、なによりも、
止めた先に見えるのは、怠慢な私の姿、朽ちていくだけの姿だけに思えること、
これが、本当に、辛いと感じます。

そういう思いの中で、
私は、気づいたことでした。

止めないことなど、
私には、もはや、力を注ぐことではない。
たとえ、それが、偽人格の能力だとしても、
止めないこと、走り続けることは、一級の能力がある。

「ゆっくりでいいから、止まらないこと」

ということの真意、真意とは、殺す目的でなく、
応援や励ましとしての助言としての意味であり、

「止まらないでいい速度に落として、やってごらん」

だ、ということ。

私が春まで休みたい、と告げた時、
みんな、こう、言ってくれました。

「いつでも、今日は行けそうだな、と思ったら、
たまにでも、顔を出してね。」

止める、とか、止めない、とか、
私は、ずっと、大きな問題にし過ぎてしまった。

止めても、たまに行けばいい。

たまにも行けないなら、休んでいればいい。

行けるようになったら、行けばいい。

みんな、そう言ってくれた。

合気道の師範は口癖のように、
いつも、言っていたことでした。

「先は長いですから」

と、いつもやさしい目で笑いました。

「10年でものになる、となんて思わないでくださいね。
30年、40年、わかるまでには時間がかかります」と。

先日、賞状が届いているだろうから、
最後に稽古に行ったときには、受け取ろう、
ずっと預かってもらうのはご迷惑だから・・・
そう思っていました。

春まで休むことを伝え、賞状のことを訊いたら、
「ああ、まだそういえば、届いていないね。
どうする?連絡しようか?」

「いえ・・・あの、もしもよかったら、
次の時まで、お預かりしていただけますか?」

師範は、笑って、こう、おっしゃりました。

「そうしましょう。これで繋がっておきましょう」

って。

毒親にあるのは、
自分の親によって、自分がやりたかったことを
「止めさせられたことへの恨み」だ。

だから、

なんとか、止めさせたい、と
子どもにも思い、復讐をはかる。

その方法は、恐ろしいことに、

「止めちゃダメだ」

と、逆に、

「身体能力をこえた速度で」

走らせ続けることだったのだ。

結果、

それは大げさではなく、

死ぬこと、殺すこと、
身体を破壊することで、
目的を達成させる、というものだった。

これは、

私だけの話では、決して、ないだろう。

私は、むしろ、

ほとんどは、そのやり方をとっているだろう、と
思っている。

それでも、なんとか死なないように、
罪悪感を抱えながら、その苦しみを誰にも言えないで抱えこみながら、
私たちは生き延びてきた。

その休息の方法が、
「AC人格を生きる」
ことだった。

身体が死なないで生きるための方法だった。

さらに残酷なのは、
その休息のための偽人格をも、
毒親にあてがわれた計画だったことだった。

休むことまでも、計画されていた。

むろん、休ませたい、からでは断じてない。

「休んだことの罪悪感」

を徹底的に植えつけるためだ。

そうして、私たちは、
走り続けてきたんだ。

人の目を盗んで休みながら。


だから、


もう、


そんなことはしなくていい。


人の目など盗まなくてもいい。

堂々と、休みたいように休めばいい。

何度も言うが、

AC人格の習慣でも何でもいい。

その方法でいい、汚れている、と思う方法でいい。

「堂々と、休めば」いい。

休み方に正解など、あるわけがない。
そんなのがあったら、休めるわけがない。
いつまでたっても、これでいいんだろうか?は、
考えてもわかるように、止むことはなく、
休めない、とは、まさに、このことだ。
私たちが、いつも、苦しんでいる悩みそのものじゃないか。


止める、止めない、が大きな問題になり過ぎた。


止めればいい。十分、と思うまで、休めばよかった。


それでも、私たちは、
実は・・・いや、もう、それは汚れている、と思わなくてもいいだろう、
私はそう思っています・・・実は、止めないことに関して、
止まらない、走り続けることに関しては、

本当に

「スペシャリスト」

なんだ。


止めたところで、鈍る腕前ではないのだ。
止めたところで、錆びる刃ではない。

だから、

怖がらなくていい。

「止めてはならない」

と言われている、と思うのではなく、

「ゆっくりでいいから」

の部分こそ、重要だと私は思います。


ゆっくり、なら、

私たちは、

止まらないで済んだのだから。


ゆっくり、とは、

以前にも書いたけれど、

ここが重要だと私は思うが、

2割程度、ゆっくり、というレベルではない。

5割、そう、1/2の速度帯まで落とすことだ。


それは、

のんびり、というレベルではなく、
生きている、見える世界の速度が性質的に変わるほどの
速度の落とし方だ。

一年ほど前に、「1/2の速度帯」というタイトルで
ブログを書いたが、速度を落とす部分はそのままでもいいけれど、
休まない、堕ちない、という後半の話は、もしも読み返したり、
これから読まれる方は、今はもう、無視してください。
その後、一年かけて、休息のポイントをやれるだけのこと、
みんなやって、それでも、というお話を今書いていますから。


今度、アルパの発表会では、
テンポ125の演奏速度、最近は、それを130近くまで上げているけれど、
やはり、昨日、練習していても、
私が、本当に、今、楽しめるのは、

「テンポ65」

だった。

まさに、ちょうど、半分だ。


今朝、家計簿を「のんびり」やっていたけれど、
それは、まだ、落とし方がゆるい。
半分、というのは、のんびり、とは感じないほどのものだから。
これは、ぜひ、やってみてください。
身体でよくわかると思います。1/2の速度とは、そういうものですから。
なんとなくのんびり、で落とせるのは、2割程度だと思います。


まず、休むこと、止まること、止めること。


身体を生かすためです。


そこからだと思います。


しかも、それは、
私たちが、AC人格として、やってきたことでもあります。


唯一、今、違うことを言っているのは、


「こそこそ」


ではなく、


「堂々と」


やってみよう、ということです。


こそこそやっていたら、
それでは休めません。

だって、こそこそ、というのは、
本当はこれじゃダメなんだ、
走らななきゃダメだって、
自分で鞭を打っているのだから。

それは、よくない。

自分で鞭を打っている、のではないから。
結局、それは、目の前にいようがいまいが、
毒親が、あなたを叩いてきた鞭でしょ。


止める目的は、


「時間を作ること」


です。


時間を作って、のんびり、ではなく、
1/2の速度、自分の速度で、「楽しむ時間」を作るためです。

その速度で為していることが、

「止めないでやれる」

速度なんです。

その結果、

「ゆっくりでいいから、止まらないこと」

が、結果、そうなるだけで、

「止めまい」

として、いくら、ゆっくり、ゆっくり、と
心がけても、それは、隠れた委縮を見える症状にするだけです。

それが、

たとえば、「どもる」という身体症状です。

いくら、焦らなくていいんだ、と思っても、
止まっちゃダメだ、という心理で委縮したまま、
それが治ることはありません。

まず、話さなくていい、から始めればいい。

そうすれば、どもる、ことはない。
話さないんだから。

それでも、もちろん、
委縮が隠れているだけではある。

力みがある。

力みをとる、ことが、
話すためや、止まらないため、だとなれば、
力みがとれることはない。
休もうとして、それが本当は、
止まっちゃダメだ、本当は走らなきゃいけない、が目的なら、
休めるわけがないのと同じだ。


「ゆっくり歩く方法」


を、私たちは知らない。


そこを学んでいかなければいけない。

AC人格が、最も、不得意だったことだ。
とても苦手だったことだ。

それは、本当は楽しんでやれることだった。
決して、汚れている、怠けている、と
自責の念に苦しむことなんてなかった方法。


1/2の速度まで落としてみる。


無理だ、と感じると思う。


それは、なにより、

「・・・わかるけど、ずっとは無理。だって、時間がないから」

というのが、本音だろう。

そう、

私たちには、そもそも、倍速でこなす用に、
タイムスケジュールが(毒親教育によって)組まされている。
このくらいなら出来る、と、組むスケジュールは、
速度「1」、という調教速度でのみ、こなせるスケジュールなのだ、
と、まず、理解することから始める。

それをやり続けると、
いつか、身体を壊す。
いや、徐々に壊れていっているんだ。

私は、さらに加速したことで、
危うく、自分の手で、殺してしまいかねなかった。

次の春まで、というスケジュール設定も、
私は、それでは「のんびり」レベルだと気づいた。
2割程度の落とし方だ、と。

それでも、相当に休める、と感じるものだ。

だけれど、それでは、身体は回復しないだろう。


今日は、なんだか、力が入ってしまったし、
これからレッスン、ということもあって、
だんだんと急いで書いたりして、
なんだか、自分が書いていることと、
やっていることの矛盾を感じる。


でも、いいんだ。


そんな等身大の私が、
読んでくれている方に届いてくれたら、

私の時計は、

半分の時間で動き出すのだから。


私は、自分で好きな自分があるんです。

こういう、魔法のようなことを言うところ。


でも、本気なんですよ。


魔法は、かけるものなんです。


「半分になーれ」


という思いが、そう、していくんです。


◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.6.06
愛美

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by jh-no-no | 2017-06-06 10:53 | 愛美通信☆メトロノート


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