(前半)心地よい風-自我復元後日記[301]

今日は、私の心の中に、
心地よい風が吹いています。

そんな心地よさを感じながら、
そして、そんな感覚を大事にしながら、
楽しみながら、今日はゆったりと、
1時間くらいかけて書くつもりで、
301回目の今日を始めたいと思います。

話は自我復元についてです。

私だけじゃないと思いますが、
読者の方、今の時点では多くは自我復元をしてきた方が
このブログを読まれているのかな、と思っています。

「自我復元」と聞くだけで、少し緊張しませんか?
私もそういう反応をします。恐怖心だと思います。
ただ、私は、今、書いておきたいのは、
こういう感覚も、あまり重く受け止めず、
実際、「恐」というのは感情の一つ、ごく普通の感覚ですから、
読者の方も、今日、「わっ、自我復元だ」とあまり身構えてしまわずに、
読んで欲しいです。私もそのつもりで書きますからね。

といっても、何を、どんなことから書こうとか、
よくわからないんですよ、今。
ただ、テーマは、AC人格、休むということ、
そういうことになりますが、それは、あくまでもブログの
「コンテンツ」、内容でして、私は、書いている時、
また、皆さんが読んでくださった時、あるいは書いた後、読まれた後に、
今日のタイトルのような、心地よい風が、私たちの心に吹いていたらいいな、
そういう、ほっこりした期待があって、書いていますので、
今、私自身もそうですが、身体をぎゅっとさせてしまっては、
私が望んでいることではないので、心の窓、風が通る窓を
両手でパッと開いていきましょう。私も、あなたも。

前にも書いたことがあるのですが、
あ、さっそく、今日の本題に入りますね。
私は、絶対に、私と同じ体験を、
誰にもして欲しくないんですね。
理由は明確で、しなくていい体験だからです。
私の自我復元の話です。

ですから、このブログでもそうですし、
助言をさせていただいている方にもそうですが、
今、自我復元をされている方に対して、
私は、私のようにやってみてください、とは、
1mmも思わないんです。

私は戦争を経験していませんが、
「悲劇が二度と繰り返すことがありませんように」という言葉がありますが、
前にも書いた通り、私が自我復元で体験したことは、
悲惨すぎた、と思っています。
悲惨すぎる、悲劇、というのは、決して、それも経験だ、とは言えないもので、
「無くてよかったものだった」と痛感する体験のことです。

同時に、私は、いつも自我復元は楽しかった、と書いてきました。
それも、本当です。どっちなんだ、じゃなくて、
どちらも本当です。昨日、仕事に行く時、玄関先で思ったことですが、
「気がつけば・・・喜、怒、哀、楽、好、恐、感情丸出しの人間になったなぁ」と
そんなことを思い、おだやかな春の陽気を感じておりました。
苦しいことも、また、楽しかったことです。

ただ、AC人格を殺す、というのは、
苦しいのは楽しい、というだけ、それだけは
片づけられないものがあります。
このことを、私は、自我復元後は感じてきましたし、
その思いは、強くなっていきました。

これも何度も、私は書いてきたことですが、
「やめてはいけない」と書いてきたのは、なぜか?というと、
繰り返し書いてきた通り、「やめてしまえ」が毒親の企てだからです。
そうやって、社会にも出られないようにし、集団の中でも斜に構えたり、
無理に笑ったり、とにかく、上手く生きていけないようになれば、
「ざまあみろ」で、毒親の企て通りに必ずなります。

では、なぜ、「やめてしまう」のか?です。
これが、最近、私が体験し、わかってきたことです。

「休みたいから」

です。疲れてしまって、もう、休みたい、そうやって
一人の世界にひきこもります。
物理的にひきこもることもあると思いますが、
私の場合は、物理的には多くの人と関わっていたように見えますが、
一人の世界にひきこもっていた、と言えます。

むろん、毒親が狙った通り、です。
そうやって、ひきこもっているのが、AC人格そのものですし、
その反動で、妬み、劣等感、それも麻痺してしまって、自分は特別な人間だ、
という優越感に浸る人間にすらなっていきます。
私がそうでした。

話を戻しますが、
「休みたいから」が最初にあったのなら、
休めばいいわけです。ひきこもろうが、AC人格になろうが。

AC人格になってでも生き延びようとした理由が、
「休みたかった」のだとしたら、休めばいいのですが、
はたして、休めたか?なんです。

休めた時はあった、とは思います。
刹那な休息であっても、休めた、と思います。

ただ、休めても、もしも、
「休むこと」に、「罪悪感」が残ったとしたら、
それは、「休んだ記憶」として、残したい記憶になるだろうか?
というと、そうはならないと思いました。

私は、AC人格をこう思うようになりました。
ここ最近です。昨日、今日の話ですよ。

それは、

「休むことに罪悪感を感じてしまう仕組み」

です。

休もうとして、AC人格をやっているのに、
いざ、休むと、罪悪感を感じて、結局、休めない、
休んだのに休んだとは思えない、結局、疲れたまま、曇り顔をしたまま。

それでも、何とか、休み、
生き延びてきたのだと思います。
それが、現実逃避そのものだったとしても、です。
だから、生きてこられたのだと思います。

・・・みなさん、話が深刻なので、力んでいませんか?
大丈夫ですか?私自身にも、そう言っているんですが。
力まなくていいです。そういう話をこれからしたいんですから。
AC人格=悪、わあ、自分は悪い!と考えてしまうと思いますが、
リラックスしましょう。

これは、言っておきたいんですが、
自我復元後だからといって、
「AC人格の反応、習慣」がぴたりと無くなる、ということは、
私は無いと思っています。私はそう思っていますし、私が実際、そうです。
AC人格はもういない、と私は自分で書いてきましたが、
イコール、AC人格の反応や習慣が残っていない、などということは
「まったく」無く、むしろ、なんですが、
これはちゃんと書いてきませんでしたが、
AC人格の反応、習慣、性格のほとんどが「残留している」と思いますし、
私の行動パターンは、多く、過去のそのAC人格が形成したものによっています。

こんな書き方はしてきました。

私、愛美は今、1歳ちょっとです。
だから、ほとんど、出来ません、と。

だけれど、社会では、私は43歳、もうすぐ44歳という
大人も大人、もはや、盛りも越えて立派な社会人として
社会からは見られますし、私もそういう行動をしなければなりません。
嫌ならしなくてもいいのですが、そういう問題ではなく、
生きていくのを継続していく時には、43年間身についたたくさんの術が
機能します。

つまり、こうも言えます。

自我復元後は、AC人格を自覚しながら、
生きなければならない、その苦しみを生きていく、
と言ってもいいと私は思います。

ただし、

この苦しみは終わります。

AC人格の反応、習慣、性質が止むことによって、
「ではなく」です。

それは、止みません。

私の場合、ということに常になりますが、
この体験は、通る人がいると思いますし、
この道は、歩いていい道だと私は思います。

AC人格の反応、習慣、性質、これらを
「AC人格の性格」と呼ぶとして、
これは、止みません。
正確に言えば、「止ませる必要」はありません。

改めて、

AC人格の挙動の何が悪かったというのでしょうか?

AC人格は悪いから、やっていることは悪いんだ、と
格言のように鵜呑みにしてしまうことはやめて、
本当に、いったい、何が悪かったと思いますか?

私は思いました。

私が必死に生きようと、
なんとか休もう、それでつないでいこう、
そうしてしたことすべてが、AC人格の挙動だったとして、
そういう動機の何が悪いと思いますか?

私には、何も悪いとは思えません。
私だけじゃないと思います。
「悪い」と断罪するのは誰ですか?
そんなの、本心に、本当にありますか?

そうやって、なんとか、休めた気持ちになれずとも
少しの休息で息を吸い、生きてきたんです。
なんとか、生きたい、と思って。
もちろん、それは、たくさんの腐敗した感情がごちゃまぜになっていました。
そんな素直に生きたい、と毎日感じていたわけじゃありませんし、
むしろ、ほとんど感じることすらできなかった。
もはや、ロボットのように、ただ、曇った視界を生きてきました。

・・・ちょっと、身体に力が入ってくる内容になってきましたが、
深呼吸しましょう。今、休んでいてください。
私は、私自身にもそうですが、今、読んでくださっている方が、
今、「休んで」いてほしいんです。ただ、息をゆっくり吸って、
誰も責めていないこの現実を、普通に、見ていてくれたらと思っていますので、
そんな私との疎通の中で、続きを書いていきますから、力を抜いて、
読んでほしいです。

私もね、こうやって、皆さんが読んでくれて、
「ああ、ちょっとしんどくなってきた。これ、自分が休めなくなってきているかも」
とか感じながら、それでも、目には見えませんが、愛美通信です、会話することで、
休むことを思い出しながら、書いておりますので、
そんな感じで、たまには、ちょっと笑ったりしてみてくださいね。今とか。

もう一度書きますが、
AC人格は、なんとか休みたくて、とった手段です。
たとえ、それが毒親があてがった偽人格だとしてもです。
ところが、休むのに、罪悪感を感じ、結果、休めない。

ここがポイントですが、
「それもまた、毒親の計画通り」
なんです。

AC人格、というのは、今までその「挙動」で、こういうAC、と考えてきました。
その「挙動」というのは、実は、「反動」のことで、
「何の反動か」という点が大事です。

私は、それは、

「休めなった反動」

だと思いました。

休んだかもしれないけれど、罪悪感を感じて、結果、
休んだ言い訳、正当化、休みたかったのに休めなかったことの苛立ち、恨み、
そんな「下心」が、つまり、AC人格の「動機」、そこからの行動が「挙動」
ということになります。

今したいのは、その「反動」や反動の心情の種別ではなく、
反動の根本的な動機です。

それが、

「休むことの罪悪感」

です。

私はそう思いました。

だから、やめちゃうんです。
素直に休めないから、「疲れて」、やめてしまう。
毒親の「やめちまえ・・・オレと、ワタシと同じようにね」と
毒親の代理復讐が着実になされるんです。

全部、毒親のシナリオ通りなんです。

なんとか休もうとし、ひきこもるようにしたことも、
なのに、罪悪感を感じてしまい、休んでは言い訳をし、
休めないでは八つ当たりし、妬み、恨みをまき散らし、
社会に出られず、通用しない人間になり、挙句の果てに、
その劣等感すら麻痺し、完全無自覚AC人格となり、
こうやって、毒親の完全犯罪は遂行されます。

だから、私は、
「やめちゃダメだ」と言ってきました。
どんなに醜くても、やめないことを書いてきました。

こう書いたことがあります。

どんな休み方でもいいんだ、と。
AC人格だろうがなんだろうが、休んでいいんだ、と。
とにかく、休んでほしいと。

その言葉の通りに、一番最後にしたのが、
私自身だったと思います。

読者の方が一番よくわかっていると思いますが、
私は、自我復元後、とくに、ここ最近は、
AC人格そのままを再体験し、生きています。

私の身体が、そうせざるを得ない状態が、
度々、続いたからです。
AC人格を、それこそ、生でやりながら、
生きることをやっています。

もちろん、そうでない部分もあります。
「休む中心」には、私の体験では、
脳の中心、胸、おなか、など、身体の様々な部位に渡りますので、
これは、体験した方でないとわからない話だと思いますが、
AC人格でない私の中心、というのがあります。
そこで休み、また、元気に活動していることも、あります。

ただ、それは今日の話のテーマではありません。

私は、合気道、アルパ、ダンス、歌、
これを好きにやっていく道を歩き出しました。
それが、私の新しいシナリオでもありました。
「愛美」のシナリオです。

まだ1歳ちょっとの愛美が、
全力で挑戦したことでした。

だけれど、1歳ちょっとでは、
無理がありました。
私の身体も、そこでは、まだ1歳ちょっと程度なのです。
なのに、スケジュールも含め、大人の私が頑張らないと出来ないほどの
ハードな日々でした。

もちろん、そのハードな日々に後悔はありませんし、
とても楽しかったし、だから、春の日までとはいえ、
やめることは、相当悩み、苦しみました。
読んでくださった通りです。

以前にも、腹に中心を落とした話を書いたことがありますが、
その時もそうでしたが、もう、限界でした。身体が。
それから、胸にも中心を持って行ったりし、
ここ最近は、私は、過去のAC人格そのものを生きたと思います。

そこまでしても、私は、
この身体を守りたかったのだと思います。
私には、私自身、どこかでずっと感じていましたが、
どうしても守り抜く覚悟が、静かに、強くありました。

結果、わかったことです。

そうやって、生きていたんだ、と。

40年以上の歳月を、そうやってまでして、
生きてきたんだ、と。



・・・「(後半)心地よい風」に続きます。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.5.26
愛美

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by jh-no-no | 2017-05-26 23:52 | 愛美通信☆メトロノート


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