食べる時の注意-自我復元後日記[236]

リズムの乱れで、
「ああ、ここがよくないな」
と一番思ったのが、束の間、ほっと安心した時に、
何かを食べる時、この時だった。

食べる時だけでなく、
その、ほっと一息つく、その時。
たとえば、仕事から家に帰ってきた時、
また、職場で休憩時間になって休憩室のソファーにもたれた時、
さらにいえば、落ち着こうと思って、電気を消して、
息を吐いた時。

43年という年月に渡って、
束の間、ほっとしたい、という時にとった「身体状態」の記憶というのは、
それが、「飴の記憶」がゆえに、ガードが甘くなる。

気づいたのは、たとえば、一人落ち着いて電気を消して・・・
と、ふぅ、と息を吐く。
その息はどこから出ていこうとしているか?

「胸」

なのだ。

私は今、胸の穴を閉じようと日々しているためか、
その息の圧を「胸」に感じる。つまり、息が胸に穴を開けて外に出ようとしているのが、
その「圧」で感じとることができた。

吸った息は、外に流れ出してしまう。
これを私は、今は、「浪費」と感じる。
食べたものを、そのまま、外に出してしまうようなものだ。
それは、便として、という意味でなくても、
たとえば、スイーツを食べました、心理的にも元気になりました、となったとして、
それは、実は、「元気」を外に流し出してしまう。
逆にいえば、活力を得たくて、スイーツに手を出し、
自分のその予定通り、活力を「発散」させてしまう。

私は、これは、
エネルギーの損失だと、今は感じるようになった。
そして、実際、食べ物の場合、私の憶測では、
このような「食べて出す」というやり方、
100食べて、すぐに、100としてエネルギーとして外部に放とうとする行為は、
腎臓など、消化器官の大きな負担となるのではないか、と思っている。
私の舌苔のまだら模様は、その負担を教えてくれている。

最近は、食べる量も減った。

というのは、100でなく、それを50にしても、
エネルギー効率がいいため、多くのエネルギーを必要としない。
どちらかというと、少ない摂取量で、食べる回数が多め、といった感じだ。
少し疲れたら、少し食べて、ゆっくり消費し、無くなってきたら、少し食べる。

この食べ方で、私は、今の消化器官の傷を
治していきたいと思っている。

食べる時、そこで安心を得ようとする。
そうすると、かつては、胸が全開で機能してきてしまっていた。
そこ、その「胸で」、深い呼吸をしていた。
それが、私のAC人格にとっては、「安心の定義」だったからだ。

ところが、実際は、
そこに、大きな「リズムの乱れ」が生じる。
波形がいっきに狂う瞬間だ。

むろん、今まではつねに狂っていたので、
狂う波形の別の形、くらいにしか認識したとしてもできなかったはずだが、
今のように、生活と仕事の場で、リズムの保持をしていくと、
どこでその波形がグワンと乱れるか、それに気づくというわけだ。

そこで、私は、
職場でも、家に帰ってからも、
「すぐに食べる」「すぐに食べたい欲求に飛びつく」のをやめる工夫をした。
それは、職場では、まず、食べる前に、10分でいいから、
ソファーの横になる。その時に、職場でのリズムをその状態でも同じように刻む。
それこそ、急に、そのリズムを崩さないことだ。
私は実際、what a wonderful worldの3連符を、リズムが乱れそうな時、
ここは厳しいと思った時は、実際に口ずさんだ。

また、家に帰ってきたら、私は昨日から
「20分」身の回りの整理整頓をすることにした。
10分、15分だと、少し短い。逆に、その時間、その時間の終わりを意識してしまうが、
20分あると、その時間を少し忘れ、何かを腰を据えてやろうと思える時間の長さだった。
この間に、同様、職場でのリズムを保持し、生活の場にスムーズのリズムを移動する。

その準備をしてから、食べる。
これが、私が昨日から始めた食べる時の工夫だ。

さて、仕事の場では、
リズムをとり続けることで、仕事中の動きかたも
話す速度もすべてが変化した。

仕事の性質上、ほぼ安定して
左右に振り子のように、体重移動を一定にとることができる。
それが、仕事中のつねのリズムとなる。
手は、もう少し複雑な動きをするが、
そのリズムに従って動くことが可能であり、
最も私にとって面白く、重要だったのは、
「話す速度」「単語の切れ目」これらも、足の一定のリズムに合わせることで、
仕事中、途切れずに、リズムは安定したことだった。

お客さんがいる仕事だから、
外部のリズムというのは様々だ。

お客さんのリズムや外部の動きに
私が合わせていくと、リズムはバラバラになる。当然だ。

どんな時も、私のリズムで仕事を進めていく。
足の振り子のリズムをたとえ手がイレギュラーな動きや
手がすべったりしたとしても、それでも、リズムのほうを変えないこと。

ここで大発見が2つあった。

1つは、お客さんは、
私がたとえ「ゆっくりの動き」でも、
まったく、苛立たない、ということだった。
なぜなら、お客さんが「えっ?」とか「ん?」となるのは、
私のリズムの乱れを、お客さんが察知するためだったからだ。

新人さんはどんなに早く手を動かそうと、
もたもたしているように見えるが、
ベテランは、なんだかゆっくりしているのに手際がいい、
安心して見ていられる、という経験を誰もがしたことがあると思う。
それは、スピードの問題ではなく、リズムがへんに乱れたり、
突然止まったりしないから、その流れに身を、お客さんが
無意識にまかせていられるためだ。簡単にいえば、お客さんはぼぅーとしていられる。
気がついたら、処理が終わっている、という具合だ。

スピードではなく、
安定したリズムをとること。

といっても、私はお客さんのためにやったのではなく、
私がリズムを保持したいためであり、
結果、お客さんにとっては、という話なのだが、
しかし、もう一つ、これと関連しての発見がある。

どもりやすかったフレーズというのがある。

気づいたのは、

そのフレーズは、単語数が微妙なのだ。

微妙というのは、振り子の片道ではちょっと急がねばならず、
往復では間延びしてしまいような単語数だった。

私は、かつて、仕事上
わりと忙しいので、できる限り、効率よく早くこなさねばならないと
思っていて、それは、今でも、一般にそう思われているだろうし、
そうしないといけないし、それこそが仕事の能力だとすら思われていると思う。

だけれど、私は昨日、思い切って、
左右の足の動きの片道、つまり、1拍でその言葉を言うのではなく、
往復の2拍を使って言うことにした。
他の話言葉のフレーズと比較して、へんに間延びしてしまうのなら、
入りや終わりに「休符」を入れればいいだけだ。
実は、その「休符」で、お客さんは決して苛立たないということに気づいた。

それに気づいたのにも理由がある。

私がその時どもってしまった理由には、
発話上の緊張の身体状態のみならず、
その身体状態をもたらす「状況」があったのだ。

その言葉を無自覚に急いで言おうとしているわけだが、
そこで生じる緊張が、焦りを生み、顎や舌に力が入り、
どもってしまう。言葉としては言えても、
その力みによって、リズムが乱れてしまうのだ。
そこをお客さん、他者は、気づく。

顔色をうかがうAC人格にとっては、そのお客さんが
「えっ?」という顔をするのに、びくっとしてしまうのだ。
この時点で、「胸」が人格の中心として機能してしまうのだ。

しかし、2拍で言うことにしたら、
まず、焦る必要がない。
そして、実際にやってみる。
「休符」を入れても、お客さんはこちらをちらりとも見ないで、
なんだか、落ち着いて待っているのだ。
お客さんは、リズムが安定していれば、「えっ?」と思うこともなく、
たとえ、それが、お客さんのリズムとは違っていても、
安心して待っていてくれる。




◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.3.22
愛美

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by jh-no-no | 2017-03-22 15:57 | 愛美通信☆メトロノート


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