「力む」というのはとても苦しい-自我復元後日記[234]

昨日は仕事に行ってから、その後も、
とても苦しかった。

身体の力みが抜けてくれない。
家に帰ってからも、横たわり、
それでも、手足は「力んで」いた。
脱力しようも、力はまったく抜けなかった。

じっとしていられないのだ。
寝ながらも、落ち着かずに手足を動かす。
そのままにしていようとしても、
力み続け、動かすことで、
一時、力みはとれるのだが、またすぐに、
力み始め、絶えず、動きたい衝動にかられる。

それでも動かすまい、とすると、
狭い箱に幽閉されて身動きができない拷問のごとく
とんでもない苦しみが襲ってくる。
生きた心地がしない、生き地獄だ。

耐えきれず、身体を動かして、
なんとか、苦しみから解放できる。

ただ、仕事中もそうだったが、
私はそれでも、「休憩状態」を維持していた。
休憩状態は、必ずしも、「楽」か、というと、
そうではない、ということだ。

極めて「力み」に敏感な状態、とも
言えるかもしれない。
苦痛に敏感な状態なのだ。

今日、気づいたが、
どもる、というのは、
「声が出ない」という、動きたいのに動けないことで
自らの身体の力みを直視させられる経験のことなのだ。
生きた心地がしないのは、そのためなのだ。

人は耐えず動いているため、
自分の力みの状態に、日々、気づかない。
しかし、こう経験してみると、
「動かないと、力みを直視させられるから、苦しい」
というのが、よくわかる。
じっとしていられない、というのは、
じっとしていると、力んでいることに自分が気づいてしまうから、
それを恐れて、何かしようと、つまり、
「外部」とアクセスしてしまって、絶対一人の休憩状態を壊してしまう。

胸は、その外部とのアクセスの通路になっている、と
私は感じていて、それこそ「焦って」、
「誰か、何か」が、この「力みの直視の恐怖」を
緩和してくれるはずだ、と、飛びつき、すがろうとする。

この飛びつき、が、焦る、ということであり、
それは、「硬直状態」そのものであり、
かろじて、自身が自分に力みがあるという事実と
その力みを嫌悪しているという事実に気づけるチャンスでもある。
そうやって焦りが表面化するまでは、誤魔化せていたわけだが、
誤魔化しがきかない、「思いっきり、自分が力んでいるのを見てしまった」
という自覚が、焦りという現象として「力みが見える形で」証明される。

私が昨日、仕事中もその後も感じていたのは、
何か外部に関心があるわけでもないのだが、
それでも、私の関心は外部にあったことであり、
それゆえ、胸の穴が開いている、その自覚がつねにあった。
それでも、休憩状態は「かろうじて引き分けて」いた感じであり、
穴の開いた風船を膨らませ続けていた、という感じでもあり、
大変、疲れた。実際、家で食事をとった直後、床に横たわり、
数時間、眠った。

床につき、眠りに入るまでの間も、
手足の力みを抜いていこうと意識することで、
その胸の穴をなんとかふさごうとし、もがいていたのだが、
結果、穴はふさぐこともなく、力みもただただ維持され続けた。
ひどく、苦しかった一日だった。

動くことで、
自身の力みを見ないで済む。

動くことで、
自身の力みを直視するのを回避し、
麻痺させることができる。

しかし、

問題は、なぜ、力んでいるのだろうか?

私が感じるには、
私が「外部」に出てしまっているから、なのだ。
力む「その以前に」、焦って、私は外に行ってしまい、
戻ってこれなくなってしまっている。

昨日は、私は、
特に、「外側」との接触が多かった。
どうしても、やはり、赤ちゃんの愛美には対処能力を超えた
現実世界が圧力をかけてきて、AC人格の残留した反応が顔を出そうとする。
意識的になろうとはしても、それがむしろ、「外」をつねに意識させる。
外部の出来事に警戒するためだ。

その際に、どうしても、
「胸から外を覗く」ような体勢をとってしまうのだ。
その時点で、その体勢自体が「力み」となる。

それに自覚的になって
絶対一人の休憩状態に戻りたいのに、
胸の穴はそのまま、手足も力み、
横たわるしかないものの、動きを制すれば、
自らの力みを直視させられ、とても苦しかった。

むろん、我慢することもなく、
動けるのだから、動いて力みから「離れる感覚」を得ればいいし、
実際、そうしたわけだけれど、
もしも、生きながらに幽閉されてここで動けないとしたら・・・と
考えると、気が狂ってしまうと考えたりして、それ自体が、恐怖だった。

それで、私が、今日、至った一つの結論は、

「力む」というのは、とても苦しいことだ、
ということだった。

動けないから苦しい、というのは、
苦しいから動こうとする、ということであって、
動けないから苦しいのではない、という考察だった。

それで、何が、苦しかったのか、
というと、「身体の力み」が、とても苦しいことだったことだ。
それは微弱な力みでも、非常に苦しい。
筋肉がまったくこわばっていなくても、
広く「身構えている身体状態」であれば、微弱であっても、
力みというのは、とてつもない苦痛なのだ。

「力みがある」というのを「知る」だけで、
直視させられその力みの存在を「知らされる」だけで、
正気を保てないほどの苦痛を味わう。

ただ、日々は、それを麻痺させて、私たちは生きているから、
なんとか、気が狂わないで済んでいる。
運動というのは、その技術でもあるのだが、
言い換えると、運動技術は、力みの不快との対面によって
磨かれ、体得され、蓄積されてきた。
実際、私がかつて打身の自主練ノートに書いた内容は、
何が不快と感じるかという記録だった。
その不快を、今改めて、詳しくいえば、「力みの不快」だ。

それをいかに解消し、快を求めていくか、が
私の自主練の目的だったし、
現在まで、そのようにして、練習を積み重ねているし、
先生も毎回のように「嫌だ、という感覚を持つこと」とつねに指導する。

こう書くと、
運動は、力み直視という苦痛の一時の回避なんだ、で
考えるのをやめてしまいやすい。

そうしたら、次に考えるのはこうだ。

「運動はダメなんだ。逃げなんだ。運動をやめてしまえ」

やめて、どうにかなるのだろうか?
力みは無くなるのだろうか?そんなこと、ありえない。
屁理屈だけで、適当な運動で誤魔化して生きて死ぬだけだ。

AC人格問題と同じだ。

AC人格だとしても、それでも
生き延びようとした理由がある。
AC人格はダメなんだ、で終わったら、
それこそ、毒親のもくろみ通りなのだ。
「ほーら、ダメ人間になった」と言われ、はい、そうです、と
うなだれて、ゾンビとして死んで生きるだけであり、
親としては、嬉しくてしかたがない。ざまーみろ、オレと同じになりやがった、と。

問題は、先も書いたが、
「なぜ、力んでいるのか?」
なのだ。

「力みたくない」
という本音があるのだ。

だから、それに取り組んでいるのだ。

なぜ、動こうとしたのか、しているのか?

それは、苦しいからだ。

力んでいるのを、見たくないからだ。

では、見たくないほどのその力みとやらは、
一体、何、何者なのだ?

自我復元で掘っていく際に直面する
この「恐怖」は何なのだ?ここから逃げてきたこの恐怖とは一体何か?
この自問と、まったく変わらないことなのだ。

この力みについては、
私は、こう、分析しているし、してきた。

「絶対一人」から、安易に、出てしまうこと。
すなわち、「焦る」、こと。

昨日、私が苦しかったのは、
出まいとしても、苦しかったことだった。

その苦しさ自体も、「力み」だった。

休憩状態にも関わらず、私は力んでいた。

どうしたらいいのか、わからなかった。

ただ、力んでいて、その自覚が苦しい、それだけだった。

身体をよじることで、そうやって身体を動かすことで、
なんとか、楽になった。
そして、いつの間にか、眠っていた。

それで、いつ、そう思ったのかは忘れたが、
私は、では、今、私は何をしようか、と思ったか、というと、
初心通り、まったく、変わらない。

「とにかく横になって、ちょっと出来そうならアルパと歌をやる」

今日は、一日、まさにそんな一日だった。

横になるのは、何も、絶対一人になろう、とか、
脱力しよう、というのが、最初から目的ではなかったし、
今も、それが目的ではなく、何度も書いたように、
身体がそうせざるをえないくらい、疲れてしまうからだ。

これも書いたことだけれど、
稽古や練習、仕事、また自慰をして疲れる、とかではなく、
むしろ、それらは、疲れない。それくらい、エネルギー効率がいい。
そうではなく、おそらく、わずかな力みにも
今はとても敏感で、外部との接触で疲弊してしまうためだ。
敏感だから疲れやすく、同時に、敏感ゆえにエネルギー効率もいい。
まさに、「赤ちゃん」のような感じなのだ。
わずかな体力しかまだないけれど、そのわずかが「大泣き声」に変換する。

話がまた戻るが、
横になる理由はそうだとしても、横になって私がやることは、
今は、手足の脱力と、外部との「弁」を閉じて、
まるで深海生物のように、深く深く、海の底に落ちてゆき、
その真っ暗闇の海底に横たわるイメージであり、
呼吸も深くしていく。

腹式呼吸を意識し、腹の山は、蛇の蠕動運動のように
下腹から足先に向かい、足先からは沖へと遠のいていく。
脳の中心は一方の端点として固定され、圧を感じるときもあれば、
圧それ自体は、弱まっている時もある。
結局、頭の先から足先は蓋がされ、空洞になり、
エネルギーは外に漏れることなく循環する。

この、原始的な呼吸のみで生きている自己完結した「運動」は、
力みとは無関係に体内で起こっていると感じる。

先日書いたように、休憩と休憩との間をも休憩でつないでいく
この一連の運動は、「快」の途切れない運動でもある。

力みという不快の直視からの回避や麻痺としての運動と
その運動と、どう技術的に違うか、というと、
私は、「同じ」だと思っている。

だから、私は、

とにかく横になる、それだけで十分だと、思っている。
それが、すでに、私にとって、深海生物のような私が奏でる音楽だからだ。

だから、まず、とにかく横になって、
赤ちゃんの私は、身体を休めること。
1歳4ヵ月が、43歳相応の社会に出て、疲弊しないわけがない。
対処能力を超えた事態にたくさん遭遇する。
AC反応が出ようが、それを抑えようが、
胸の穴の開きと「絶対一人」を拮抗させるだけで、相当な労力を使う。
力んでしまうし、それをとにかく肩を動かすなどしてしのぐにしても、
私は、「力みへの直視という苦痛」を無いことには出来ない。

私の毒親がした身体的虐待が、
この「力み」という萎縮、硬直という残虐な身体的虐待であることを
突き詰めてきたように、この苦しみを見過ごすわけにはいかない。

苦しみを、私は、決して、
「無い」ことには、させない。

私がこのブログを書き続けているのは、
その怒り、相似形として存在する宇宙規模に蔓延する
「宇宙史上、最悪かつ残虐な身体的虐待」に対して
決して、見過ごすわけにはいかない、という
不屈の精神に違いない。

さて、

今日、私は、歌の話だが、
「What a wonderful world」のリズムの練習をしていた。

4拍子で、1拍目と3拍目は裏拍、
2拍目と4拍目を表拍として刻むのだが、
1拍が「3連符」という構造になっていて、
私は、このリズム練習に苦戦していたのだが、
いろいろやっているうちに、いい方法を見つけた。

歩きながら、かつ、メトロノームも使う方法。

メトロノームで3連符はとり、
それは耳できいて、リズムをとる。

歩きながら、右足が前に出る時を裏拍、
左足が前に出る時を表拍として、歩きながら、また聴きながら歌う。

これは、とても、気持ちいい。

私は今までリズムに合わせる、というのが、
どうもピンとこないでいたが、
今日、「ああ、なんだか、楽しいなあ」って思いながら
家のなかを歩きながら、この歌を歌っていた。

疲れたら、ひと眠りし、
アルパも短い時間でも、濃い練習ができた。
ちょっと、でいいんだ。ちょっと、で、それでも上達していけばいいし、
私は、ちょっとの練習の積み重ねで、必ず、納得のいく発表会を
6月に迎えようと思っている。

ひと眠りする時も、
今日は、闇の瞑想のように、外や内部を暗闇にしてみるようにもしてみた。
境界としての身体も、最後には全体に溶け込ますようにして。

外を暗闇にする視点によって、
まず自身が内部にしっかり位置できるようになる。
これが私には今とても大事で、私が自分の外部に視点があると、
それ自体が、私が「外部」にすでに立っている立ち位置になってしまうからだ。
外部に対して、まず、無関心になることから始める。
真っ暗な海底のイメージであり、まわりには何もなく、
関心をよせる動機となるものが、何一つ存在しない海の底。

闇の瞑想のようなイメージは、
まだ数度やった程度なので、これ以上はよくわからないが、
とにかく私は、深い漆黒の海の底に横たわっている身体イメージを持つようにしている。

昨日は手足の力みが絶えずあったが、
今日は、力みは少ない。

絶対一人のこの闇に「親しむ」ことを
私は、たとえ、力みの中、その直視に苦しい時も、
私は忘れたくないし、それが、
苦しみという事実と、拮抗する休憩状態を維持するものだと
私は今思っているところだ。

そう、今、読み返していて、
大事なことを書いておきたい。

休憩所の目的は

「休憩」

ではない。

休憩は手段であって、

「粘る」

ために、

たとえ、どんな相手であっても、
「安易に従わない」という、
赤ちゃんの身であっても引き分けに持ってゆき、
粘りきるための防空壕だ。


アルパの先生は私にそのことを
教えてくれた最初の人だった。


「粘りなさい」

と。


私が自我復元で学んだことも同じ。


「やめてはいけない」


やめてしまうこと、それだけが、
毒親のもくろみだったからだ。


そして、医師の崩残さんが、
私に助言してくれた最大の助言は、


「しっかりしてください」


これ以上、実践的な助言を
私は知らない。


私は、どんな時も、
私自身が、こう思うことを信じて疑わない。


「しっかりしろ、愛美」


必ず、私は自分にこう言うことを

私自身が、

知っている。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.3.20
愛美

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by jh-no-no | 2017-03-20 23:35 | 愛美通信☆メトロノート


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