質問者はどこにいるか-自我復元後日記[230]

「~すべきか、すべきでないか」

私はずっと質問に答え続けてきた。
その連続の43年間だった。

「~したほうがいいのか、しないほうがいいのか」
こればかりだった。

私が至った結論から言うと、
これは、自問ではない。

なぜなら、その質問者は、
「外部」にいるからだ。

昨日の投稿内容と関連するが、
何かに飛びつく、という現象が起こるその前に、
遭遇している「事件」がある。

あれこれ考えたあげく、
いかにそれが込み入ったものであれ、
最後は、こう、つぶやく。

「・・・で、どうすんの?やるの、やらないの」

といった、単純な二者択一が突き付けられる。

そう、それは自問ではなく、
誰かから突き付けられる。
何かに飛びつくその前に、その「誰か」という質問者に遭遇する。

これは、事件なのだ。
決して、「自問」ではなく、事件。
しかも、その事件の計画者は、「私自身」なのだ。

これは、死んでも同じことが起こるだろう。

ぽつんと一人、そこにいる。
そこは、部屋でも野原でもなんでもいい。
ただ、一人、いる。

そこで、安易にこう言ってしまう。
「・・・どうしたらいいだろう?・・・ダレカ・・・」と。
そうすると、自分がその「誰か」という幻影を作り出してしまうのだ。

「どうしますか?」

この質問からその「質問者」との会話は始まる。
自分が作り出した質問者との会話が。

そこで無言が続く。

そもそも、だが、
なぜ、こういう事態になるか、というと、
今自分が置かれているこの「ぽつんと一人、他何もない状態」の自覚に、
「何か、いけないかもしれない」という不安があったからなのだ。
そこに不安がないのなら、ずっとそうしていればいいだけだった。

今、私が体験しているように、
ただ、休んでいればいい。
それが「ダメだ」という前提は、あるかどうかなどわからず、
少なくとも、私たちは「知らない」はずであり、
実際、休んだらダメだ、という「根拠」について
明快な説明を聞いたことを、私は一度もない。

ダメ、いけないのかもしれない・・・と
自分が思いこむのみ、である。
それも、なにとなく、「安易に」だ。
昨日も書いたが、その安易さ、は、あまりに安易なのだ。

絶対一人の安息も、
深い静けさ、貴重な休憩状態も、
その安易さ一発で吹っ飛んでしまうのだ。

「どうしたらいいんだろう?」

という質問を、もちろん自分に向けて放ち、
自分の頭で「考える」のであれば、それは自問だが、
この場合のどうしたらいいだろう?は、実は、
「どうしたらいいんですか・・・ねえ、ダレカ・・・何か言ってよ!ねぇっ!!」
という、やけくそになった感情を隠し、冷静な顔、
落ち着いたフリをしているにすぎない。

はなから、自分で考えるつもりなどなく、
「どうしたらいいのか、教えてくれ」が本音だから、
AかBか、または、Aでいいのか、Aでダメなのか、
その指示待ち状態にある。

これが、昨日書いた、
「焦っているさなか」の状態だ。

まず、どこから、このような事態、
質問者という他者を作り出してまで行う一人舞台を、
いったいどこから始めてしまったかというと、
「今のこの状態は、よくないかもしれない、よくない気がなんとなくする」
そこから始まった。

そして、一見、自問のように見えるし、
実際に「一人舞台」になっているのだけれど、
現実には、「質問者」は、他者として外部に投影している。
二者択一の質問者、「~したほうがいいのか、しないほうがいいのか」
と問うその質問者は、決して、「私自身」ではない。

今ここの休憩所には
存在しない存在なのだ。

ここに、いればよかった。

何か問題があるか?・・・無かった。
力みという萎縮の病気もなく、
それだけで、不快のない、安心な空間だった。
この呼吸の、なんと、落ち着くことか。

「この状態はいけないのではないか」と
考えてしまう理由というのがある。

それは、たとえば実生活でいえば、
「そんなこと言っていたら、どうしたらいいか選ばなきゃいけない
局面で、どう判断していいかわからないじゃないか」と
それこそ、血相をかけて言い出すのだが、私の結論は、

「選ばなきゃいい」

となる。「そうなこと言ったら!!その時困るじゃないか!!!」
となるが、困ればいいだけなのだ。
判断ができず、困り、途方に暮れていればいいだけだった。
それのどこが、「まずかった」のか?

「その時困るんだ、だから今からそれに備えてちゃんと
準備しとかなきゃダメなんだ!・・・・・・」

ここにも、昨日書いた幼稚な精神構造が横たわっている。
準備をしておけば・・・ちゃんとやっていれば・・・
「きっといいことになるに違いない(よね、そうだよね、そうだって言ってよ!!)」
という、何の保証もないものを信じたがる。まさにカルトである。
よいことをしていれば、天国に行ける。それと寸分も変わらないのだ。

たとえ、天国に行けたとする。

しかし、昨日書いたように、
失う代償はあまりに大きい。

「ずっと、力んで生きることになる」

身体は硬直し、ガチガチになり、
不安で胸が上ずり、声も上ずり、緊張し続け・・・
これを、不幸と言わず、何を不幸と言うのだろうか。
私はそう思う。

二者択一の質問者を「作り出す」というのは、
自ら、この緊張、力み、それを引き起こす焦り、飛びつきを作り出してしまうことだ。
その一歩、外部に踏み出してしまう一歩が、
「あまりに安易で、あまりに幼稚な精神構造だ」ということ。

逆にいえば、

そちらのほうこそ事実だと私は思うが、

「身体の委縮、力み」

という身体的虐待を、あまりに軽んじている、ということであり、
身体を選び、持ちたいと思ったのならば、
身体にとって「最大に残忍な虐待」を見過ごしてはならなかったのだ。

これを本当に許さないのなら、
この休息状態から、安易に、外へ踏み出してしまうことはない。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.3.16
愛美

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by jh-no-no | 2017-03-16 14:27 | 愛美通信☆メトロノート


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