43年間、一度も口にしたことがなかった-自我復元後日記[201]

「疲れた」

昨日、私は生まれて初めて、
この言葉を口にしました。

そのことに気づいたのも、
昨日も終わる頃、随分、経ってからでした。

私のなかでは、
毎日のように、疲れた、と言い続けてきた人生でした。
それはあまりに当たり前の口癖だったことにも
昨日、初めて気づいたんです。

しかし、その口癖は、自分でも驚いたことに、
43年間、たった一度も、人前で「疲れた」と
口にしたことがなかったんです。

どんな時も、私は、
「疲れた」だけは、言わなかった。
言うこと、口にすることを思いつきもしなかったし、
私は、あれだけ、自分の内ではこの言葉をつぶやき続けてきたのに、
この世界を生きる時、人前で、私自身、
「疲れた」という自覚すら持ったことがなく、
私はいつも、誰に対しても、「大丈夫です」と答えていました。

昨日、ブログを書こうと、PCに向き合った時、
私は何も書けなかった。
それは、まったく、何も書くことが「見つからなかった」んだ、と
今、わかりました。

それで最後につぶやいた「疲れた」という事だけが、
私が唯一、書けることでした。
これ以外、何も無かったんです。
たった一つのリアリティーでした。

「43年の間、一度も言うことなく、
私は今日、初めて、疲れた、と言ったんだ・・・」

そう、一日の終わりに気づいたんです。

仕事から帰る自転車で、考えてみました。
そういえば、私の父も母も、一度も疲れた、と言ったのを
私は見たことがありませんでした。

しかし、一方で、「疲れている父と母しか」私は見たこともないのです。
私は思いました。子どもの私はそれを見て、きっと、
「疲れた、は、口にしてはならないのだ」と。
毒親に、そう、調教された、と言ったほうがいいかもしれません。
実際と表面とのこのギャップは、歪んだ笑顔とひきつった表情として、
私の家族全員とも、表れていました。

私が今日書きたいのは、
疲れた、と言ったことが、
私は自分のことを主体的に守った最初の出来事でもあった、という理解でした。

何を守ったかは、明確でした。

私の身体でした。

私は、逃げました。

逃げ場はありました。

私の身体が一番楽なようにだけを考えればよかったんです。

それだけが、私のとれた、私がとろうとした唯一の選択でした。

その選択肢を見つけるために、
どうしても、言わなければならなかったのだと思います。
むろん、それを理解したのは、昨日も終わりに近づく頃でした。

「疲れた」

これを、独り言としてだけ言うのを許すのではなく、
外に放つ「発言」として、私は、この発言を見つける必要があったのだと思います。

でも、それはとても勇気がいることでした。

進むことを、やめなければならなかったからです。

進む、という非リアリティーと、
疲れた、というリアリティーとのはざまでした。

普通の感覚なら、リアリティーのあるほうをとればいいだけです。
当たり前です。逆にそこに迷いがあるはずがないと思います。

しかし、私は、自我復元において、
圧倒的なリアリティーとの対峙の中で、それでも私の足を進めたのは、
未知な「意志」という、未経験の非リアリティーを休まずに進み続けていくことでした。
それが、リセットした私の白紙の人生に、今度は自分で自分の生を作るということでした。

それを今になって、
浮上したのが、「疲れた」というものだったのでしょう。

2週間以上、私はこのはざまに苦しみました。

どうしても、リアリティーのほうを選びたくなかった。
だから、ブログにも、一切、書かなかった。
それが、私の意志だったからです。

でも、限界でした。

バレンタイン当日に食べたチョコレートの写真を
アップすることも、私はできない状態でした。

もう、頑張れなかったんです。

疲れた、と思った。

PCにただ、向き合い、私は、疲れた、と思った。

ただ、私は自分のその選択と状態に悲観はしていませんでした。
同時に、期待もしていませんでした。
ただ、これが自分の今の状態である以外になく、
これ以外に何かを捏造するのは、嫌でした。
だから、その意味で、私は自分のとっている今の選択と状態に
決して不幸ではありませんでした。

だから、私は、見続けることもできました。
見続けることしかできなかった、といったほうが正確です。

そんな中、私は最近、職場で2つ、大きなミスをしてしまい、
昨日、店長と現在の主任にそれぞれの件で強く叱られ、
もう頑張れない上に、ぜんぜん、頑張ることはできなかったんです。

それが、結果的には、私が踏ん張っていた足を
最後に折ったきっかけにもなった、とも思います。

私は思いました。

食べ物も受けつけないくらいのショックを受けてしまっている、
私はこういう時、店長や現在の主任は、私を責めようとしているんだ、
とそこに強い悪意を見ようとしてしまう。
ふと、本当にそこに悪意はあるのだろうか?と思ったりした。
その日のRさんもそうだった。彼女に本当に私をおとしめようとする悪意は
本当にあったのだろうか、と。

ただ、それが昨日の私にとって問題ではなかった。
そこから私が考えたことこそ、死後にも直面するテーマだった。
「仮に、100倍の勢いで叱られ、責められ、実際そこに悪意があったとしたら、
私は、かなり、まずいな」と思ったことだった。
その、まずい、というのは、言いなりになってしまう感覚だった。
従ってしまう、ごめんなさい、と平謝りでやり過ごしてしまう精神、
そう、私が自我復元でずっと向き合い続け、格闘し続けた状態を、
実世界で私は、その時、体験していました。

それがよくわかったので、とにかく、「まずい」と思った。
それで、私がとったのは、「逃げた」ことでした。
「休んだ」と言ってもいいですが、休む、というと美化してきこえます。
事実は、休んだ、というほうが実質に近いのですが、
私は、逃げることに、迷いはありませんでした。
堂々と、私は、逃げました。

話し合いや叱られた事実から逃げたのでもなく、
見て見ないふりをしたのでもありません。
恐怖に屈しなかっただけです。
従ってやり過ごせばいいとは考えなかった、ということでした。

そのために、私は、先ほどにも書きましたが、
私がその時できた対処は、
これ以上身体が緊張状態にならないように、私は、その一点に関心を向け、
身体を穏やかに呼吸させることでした。
実際には、腹式呼吸という呼吸を意図的にしてもいましたが、
物質的なことよりも、私にとって意識の中心にあったのは、
自分が、この自分の身体が、今、どこで守れるか、
どこなら、どういう状態にすれば一番楽で、恐怖から距離をとれるか、
ということだったと思います。

死後のまさにシミュレーションでした。

「ちょっと、休ませてください」

これが言えればよかったんです。

それは意識の上で、休む、という意味です。
もちろん、それに伴い、時間的にも空間的にも休む場に移動しますが、
何かをやめる、とか、何をやり何をやらない、とか、
そんな判断や思考活動の話ではなく、実際、そんな余裕などありません。

その、「ちょっと、休ませてほしい」と
その場を一時去る、という「反射的な対処」をとるために、
私は、43年間、一度も言えなかった「疲れちゃった」という言葉を
口にしなければならなかったのだと、理解がついてきました。

なぜ言えなかったか、というと、
まず、私がわかったことは、
休む、とか、疲れた、というのは、
「身体を守る気持ち」あってのことであり、
私は、いえ、私の父も母もそうでしたが、
「身体の犠牲の上に」成立していた生き方をしていたために、
休む、とか、疲れた、は、感じていようが、
「無いもの」としてある言葉だった、ということです。

身体の犠牲の上に、というと、なんだかもっともらしいですが、
イコール、それはどういうことか、というと、
「恐怖には従えばいい」という安易な精神のことなんです。
いざとなれば身を投げ出せばいい、これが、屈服の精神だと私は思います。

毒親でない親は、
まず、自分の身体を守るように、子どもに教えるはずです。
私は、一度も、それを教えてもらわないで育てられました。
それどころか、「格言とともに死ね」と洗脳されてきたんです。
皮肉にも、私が精神世界に行きついたのは、身体を最底辺とする
この洗脳思想、「親のためにいつでも死ねる子どもを育てる」ための思想の行く末でした。

そして、その根底がすべて崩れたのが、
自我復元であり、自我復元後、私が生きようと選んだが
精神世界ではなく、身体世界でした。
私は、身体こそ、虐待されたことにも気づいていきました。
毒親は、子どもを「動けないようにする」「なんでもやめるように邪魔する」
そのためだけに、子どもを利用してきたのだと、理解するに至りました。
私に残ったのは、人目には見つかりにくい重度の身体の委縮と内的な病気だったからです。

今、書きながら、少しずつ、整理がついてきているように思います。

「休む」は、
やめる、とか、諦める、ということではないようです。

歩きたいから、休むのではないだろうか。
疲れたのに、疲れたと言えず、そこで「自分はやめてしまったんだ」と思ったり、
「このまま歩き続けないとやめてしまうことになる」とびくびくして生きるのは、
結局、疲れて歩けなくなった時に、「私はやめてしまった」と誤認してしまうと思う。

そうやって、やめてしまったり、
自分はやっぱりダメなんだ、と思わせることができれば、
毒親の狙い通りなのだ。
でも、私には今、それが十分にわかっている。
それだけと闘ってきたと言えるほどに、私の自我復元はそうだったからだ。

そうなんだ。

私は、休む、と、やめる、の違いが
わからなかった。

それにこの半月は、悩み、苦しんだ。

でも、私は、今までと違う行動をとった。

怖かったけど、やめてみたのだ。

習い事も、休んだり、予約を先伸ばしをした。
今まで、なんとかそれはしないように、したくない、
ずっと踏ん張ってきたことだったけれど、
半月前から、私の身体は、限界だった。

気持ちだけで、踏ん張ってきたんだと思う。

しかし、それは、

私の43年間の生き方そのものなのだ。

自我復元前も最中もその後も、
43年を通じて、ずっと、気合いだけで踏ん張ってきた。
それがいいわるい、とか、後悔しているしていない、とかではなく、
それは絶えることなく、ずっと、それは続いてきた事だった。

いろいろ書いてきたけれど、
私は、今、安心しているんです。

休む、という、逃げ場を持てたことに
私は一人、ほっとしているんです。
・・・こんなところが、あったんですね。

死後、たとえばなんですが、
「あなた、こうだったですよね。どういうことです?どうなんです!
・・・ああだこうだ・・・で、どうします、早くしてください。
迷惑なんですよ、いい加減にしたほうがいいですよ。これでいいですねっ、早く!!」
と、せがまれて、どんな脅されても、私は覚えておこう。

「ちょっと、休ませてください」

と。そして、こう言ってみよう。

「お花畑で休みたいので、話はその後にしてください」

それで、あちらがどうこう言ってきても、
私は、言えればいいんです。

「疲れちゃったんで、後にしてください」

それを、私は、死んでも忘れまい。

「疲れちゃったんで」と言って、とにかく、逃げればいい。
ダメなら、何度でも言えばいい。
私が折れなければ、どんなあくどい案内人でも、
私を引きずっていくことはできまい。言い続ければいい。
「疲れちゃったんで、無理です。時間をください」
それでなんだかんだ言っても、繰り返せばいい。
「疲れちゃったんで、動けません」と。

昨日、私は、ブログでそれが初めて言えたんです。
43年間、一度も言えなかった、その「疲れた」を。

それから、このことは昨日、突然に起きたことではありません。
むしろ、この半月の私の出来事だった、ということです。

走る練習は随分してきました。

私に必要なのは、休む練習です。

それは、今までとは違って、気合いのいる練習ではなく、
「疲れた、と口にして、安心に、一人、ひたる」ことです。
そう、誰にも邪魔されない領域があることを
私は今回知ったのですから。

私は本気に思うんです。

死後だろうが、今だろうが、
困ったら、好きな花がたくさんあるお花畑で、一人、そこで過ごせばいい、って。
頭にその世界を描けばいい。そうしたら、私がいるところはそこでしかないのだから。

・・・今日のブログ、よく書いたなあ、と今思っています。
疲れているのは昨日も今日も同じで、たぶん、明日も疲れているだろうと思います。
それも当たり前かもしれません。43年間、一度も休まなかったんですから。
でも、書いてよかったです。書けてよかったです。書けるかどうかもわからなかった。

逆にいえば、少し、これで走るのが楽になりました。
今は走りたくありませんが、走らなきゃ、という強迫的な重圧は薄れていく感じがします。
私のなかで、急に、「休む」とか「疲れた」というほうのウエイトが高くなっていて、
もしも、私はこのままずっと疲れちゃって休み続けてしまっても、
焦らない感じがするんです。

たぶん、休んだり、疲れたと言うことに壁が無くなったからかもしれません。
肩の力も、これでまた、少しずつ、抜けていけるかもしれません。

つらかったし、怖かったですが、
私は、「疲れた」が言えてよかった。

今も、私は、「疲れた~」としか
本当は言えません。

なのに、いろいろ書いたのが不思議なくらいなんです。

今日もゆっくり休みます。

私、お花が好きなんです。

少し、お花屋さんに行ってみようかな。


◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.2.15
愛美

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by jh-no-no | 2017-02-15 14:55 | 愛美通信☆メトロノート


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