「やめること」が休息なのではない-自我復元後日記[187]

2月がスタートしました!

皆さん、いいスタートダッシュをきれましたでしょうか?

・・・という私は、まだ、「クラウチングスタート」の体勢なのですが、
スターターピストルは待ってはくれません。

ならば、いっそうのクラウチングスタートの姿勢をとればいいだけです。
出遅れたら、いっそうの加速を決めて飛び出そう、そして、
「必ず追いつく、追い越す」と、じっと、熱い眼差しで先を見据えていればいい。


自分ができる最高のクラウチングスタートをとろう、
私の2月は、ここからスタートです。


早速、本題に入ります。


「走れ、と言ったり、休め、と言ったり、どっちなんだ?」

これに対して、今日は、話していこうと思います。

私は、どっちなんだ?ではなく、


「走りながら、給水所を見つける」


これが、私は、「休息の取り方」だと思います。

その話をもう少し詳しくしたいと思っています。


毒親に育てられる、というのは、
私は何度も言うように、すべからく「身体的虐待」
という犯罪被害を受け続けてきたことだと思っています。
精神的虐待、というのは、そんなものは「無く」、
それは放射能被害同様、証拠隠滅を図った身体的虐待を、
精神的虐待と呼び、免罪にしようとしているにすぎないというのが私見です。

その話を今日はしたいのではないのですが、
毒親に育てられるというのは、
こういうふうにも言えます。

それは、まったく、
「強制収容所に監禁され、強制労働させられてきた」
ことと同じだ、と。

こうやって生き延びるしかないように調教、洗脳された場合、
私たちが間違って植え付けられてしまうのが、

「休息の概念」

だと思いました。

これが今日の主題となります。


「これが終わったら休める・・・」


これです。


こなしてこなして、ああ、あれをいつまでに無事にこなせば・・・休める。


私は、ずっと、そうでした。
束の間、休めた、と思っても、こなす労働は終わることはなく、
もはや誰も「これをしろ」と命令してもいないのに、
自らこなす労働を見つけようとしている自分と
いつになったら終わるのかばかりを考えている自分との矛盾に
疲弊していく毎日。

強制労働者として洗脳されるということは、
収容所から出ても、強制労働しかできないようになってしまっている。
これが、洗脳のなんたるかであり、
毒親はこの洗脳の「完成」を子どもに見た暁には、ほくそ笑みながら、
完全に暴力を振るわなくなるどころか、睦まじい親子を演じ始めさえする。
それもそうで、洗脳が完了したのなら、もはや暴力行為は、親にとってリスクでしか無い。

私の場合、物ごころついた頃には、
私の家族は、完全に、睦まじい家庭として私の目には映り、
以後、40年に渡って、私は自分の家庭は理想的な親、家族だと
思いこんで生きてきたほどの「緻密さ」でした。

成人し、毒親が目の前にいなくなっても、
行動パターンは変わらない。完璧な洗脳です。

強制労働者として調教されて大人になった子どもは、
私がまさにそうでしたが、このことしか頭にありません。


「休みたい」


早く、とっとと、やるべきことを済ませて、
休みたい。

時に、何かに夢中になったり、目標を立てて
これこそ私が欲しかったものだ、と全力を向けたりもしますが、
その本当の動機というのは、

「ああ、これは本物だ。間違いない。これが私がやるべきことなんだ。
だから、これさえやって、済ましてしまえば、
もう、休める」

悲しいほどに、これで休めるかどうかしか、考えていないのです。

こう見てみるとわかりやすいと思いますが、
つまり、「止めたい」「辞めたい」のです。
そうすることが=休息、だと思いこんでいるからなんです。


最悪なのは、これが唯一の「飴」と、
子どもに洗脳させたことなのです。


強制労働が「当たり前」としてベースにある毎日なら、
与えられる褒美、こなしたら休んでいいよ、が、唯一の安堵になります。
それ以外は、ずっと、委縮し、緊張した状態が続きます。
それが、毒親に育てられて生き延びていく、という生き地獄です。

この洗脳は、大人になっても解けないようになっているので、
「やめること」以外、楽になれないし、それ以外の方法があるとは思っていません。
だから、見た目は何かに打ち込んでいても、その裏側の本心は、
「これをやれば、もう、休めるだろう、さすがに」と、ずっと、思っている。

そうやって、

最後には、

何もかも、止めて、辞めていくのです。

何もかも、やめていったはずです。

なぜ、そんなことになったか?といえば、

毒親の狙いは、何度も私は書いてきましたが、


「やめさせること」


これだけです。


あなたが、私がやっていることを、
「やめさせたら、成功」、これが、
彼らの代理復讐の達成の典型的な形なんです。
そして、その形は、毒親の彼らも辿ってきた形(生き様)と同じであり、
毒親もまた、「結局・・・やめてしまった人生」を繰り返してきたはずです。


今、自我復元をしている方も、
これから自我復元をしようと思っている方も、
私がやってみてほしいと思うワークは一つだけです。

「何かをやったら、やめない」

というワークです。私がいつもやっていることです。

その「何か」は、何でもいいです。

AC由来だとか、間違っているかもとか、
毒親にやらされたことだったとか、自分で考えたけど妄想かもとか、
あれこれ思うでしょうが、何でもいいです。

「何でもいい」ので、それをやめないこと。

絶対に、やめないことです。


「絶対に」


です。


これ自体が、私は

「自我復元そのもの」

といってほどのワークだと思っています。


さて、こう書いていくとわかりやすいと思いますが、
強制労働者として洗脳されてきた私たちAC人格にとっては、
これは、「受け入れがたい」はずです。
休めない、わけですから。
休みすら与えない強制労働をしろ、と言われているのと同じだからです。

で、

私は、皆さんに苦しめ、と言いたいのではありません。
そうではなく、

「安心して、進んでほしい」

から、今、書いているんです。


「走り続ける私たちのレースのその中に、見落としてきた給水所が
無数にあるんです」


言いたいことから書いてしまいましたが、
ここで書く「給水所」というのと、私が書いてきた「メトロノーム」というのは
同じこと、同じものです。

走る、というのは、まったく独りでやることです。
私が、あなたが走るのに、他の誰かはそこにいません。
走っているのは、ただ、一人、私であり、あなたです。
脇役もいません。この世界は、自分一人で閉じています。

こう言うと抽象的になってしまいますが、
まさに、マラソンをイメージしていただくとわかりやすいと思います。
そのレース、自分以外、他に誰かあってのレース、人生でしょうか?
一緒に走っているランナーはいるでしょうし、いろいろ見えるでしょうが、
心的な意味で、誰かがいないと成立しないレースでしょうか?
・・・そんなことありませんよね。自分しかいませんし、苦しみも喜びも自分一人です。


しかし、見落としてきたものがあるんです。


「給水所」


なんです。


走り続けるワークをしていると、最初はそんなのは無いように思え、
見つけるのも難しいと思うかもしれません。
でも、最初に、給水所マップをお見せしますと、
「いたるところ」にあるんです。

たとえば、今横たわっている布団。

この布団は、給水所の一つではありませんか?
私が休むのを助けてくれます。

好きなぬいぐるみ。これはどうですか?
「いいと思うよ。頑張って。無理しないでね。」
そうやって励まし、心配もしてくれる相棒も、給水所なのではないですか?

寒さが少し和らいだ日が続いているのなら、
その目の前の、自分を包みこんでいる気候もまた、
私を潤す給水になってくれます。

当たり前についてくれている加湿器だって、
私の喉を守ってくれています。
電気はあたりを照らし、生活しやすくしてくれます。

夜になれば、窓からの日光は消え、
刺激を落とし、少しでも眠りの質を高めてくれています。

時間に追われているように思えたとしても、
あと1時間しかない、と思うその1時間は
私やあなたの敵にまわったことはないはずです。

私たちが敵視してしまうことはあれど、
時間のほうから、私たちを敵視したり、いつ、したでしょうか?

疑うことは簡単なんです。

敵視し、給水所を無意識に見ないようにするのなんて、
簡単なことなんです。

そうやって自分を追いつめれば、少しでも早く、
「やめられるかもしれない」から。

粘ろうとするから、給水所が見えるんです。
降りようとしている人は、給水所を見たいと思うはずがないんです。
やめようとしているんですから。


「もう、少し、あと、もう少し、粘るんだ」


・・・こうやって見まわした時、
「給水所が見えない」アングルを見つけることのほうが難しいくらいに、
私たちは給水所を見落としてきたことに気づきます。
よく見てみれば、いつ、それらは私たちの敵だったでしょうか?
その布団も、ご飯も、残っている時間も、元気づけてくれる動画も、
それらが、いつ、私を、あなたを傷つけたでしょうか?

見渡せば、すべてが、といっていいほど、
それらたくさんの「親」が私を、あなたを助けてくれている。
たくさんのメトロノームに囲まれて、私たちは、
本当は、走っている、走り続けていました。

でも、強制労働者として洗脳されて育った私たちは、
レースから降りること、やめること、あるいは
とっとと済ませてやめていいよと承認を得ようとすること、
いずれにしても、今、やっている強制労働をやめることだけが、
唯一の、休息であり、ゴール(永遠に終わらない見せかけのゴール)でした。


そこで、これを打開したくて、
こう考え始めると思います。


「強制労働になっているからダメなんだ。
自分の意志でやればいいんだ。
自分の意志で、自分で選んだものなら、続けていけるはずだ」

と。

結果は、まず失敗します。

どういう失敗の仕方をするかというと、
「続けられない」という失敗をします。
そして、こう言います。

「自分の意志じゃなかったんだ。自分で選ぶこともできないんだ。
自分の意志も持てないんだ。やっぱり、自分はダメなんだ。やっぱり・・・」

毒親は、笑いが止まりません。

「やった、やったあー!!!」と。

書いていて、本当に嫌な気持ちになりましたが、
これが事実です。

大切なのは、「続けられなかった原因」です。


それは、


「休むのが、やめること以外に無い、と
完全に思いこまされたから」


に尽きます。


よく考えてみてください。


なぜ、給水所はあるのでしょうか?

それと、あれって、飲んだらポイ捨てOkじゃないですか。
「飲んだらゴミ箱に」とか「ゴミは持ち帰って」とか
なんで言わないと思いますか?

お金を払え、とも言わないし、せめて
「ありがとう」と目を見て言って水をとれ、とも言わない。


「可能な限り減速することなく、走り続けることを応援する役目」

が、給水所だから、ですよね。

間違っても、路肩から
「疲れたらやめちゃっていいんだよー!」と場違いな声援(妨害)をかける
毒親のような存在が、給水所ではありません。
もしそんなやつがいたら、「なんだ、こいつ?邪魔すんな」と思いますよね。
それが、当然の感覚です。

ところが、この当然の感覚が壊れてしまうのです。
強制労働洗脳というのは。

「休ませてくれてありがとう」

とすら、なってしまう。

こういうことをずっとしてきたわけです。

その繰り返しの中で、見たくなくても
こう思わざるをえなくなります。

「休みたい、とばかり考えてやっている私のこの人生って何なんだろう」って。

徒労感を何十年も積み重ねていくんです。

だったら、始めから、やらなきゃいいんじゃない、何もかも。
こうやって、世の中が嫌いになっていく。
先も書いたように、「これはやりたいことだ」と思いこめたものだとしても、
その動機は、これさえすれば、もう、休めるはずだ、が本音なので、
書いてみるとわかりやすいですが、こなした頃には、嫌いになって当然です。

自分の意志でなかったから、
自分の判断でなかったら、
自分が本当にやりたいことでなかったから、
だから、自分は出来なかった、続けられなかったんだ、

のではなく、

「休みたかったから」

続けられなかったんです。


正確にいえば、

続けても休めるんだ、ということを知らされずに、
「やめることだけが休めることなんだ」という
強制労働者洗脳をさせられたがゆえに、
やめる以外に休む方法が見つかれなかったから、
やめるしかなくて、続けられなかっただけです。


走り続けて、なお、休む。

そういうのがあることすら知らされずに、
毒親で育てられた私たちは、
走るか、やめるか、の強制労働の毎日を繰り返してきました。
考えてみれば、些細な判断も、その相似形であって、
どれもこれも、やめていいかどうか、いつやめていいかだけで、
頭がいっぱいでした。

でも、本当は、
私たちの生は、決して、強制労働ではない。
そう言うと、「自分で選んだ、自分の意志による人生」
という考えがクローズアップしやすく、
「何をすべきか」という、結局、これまた今度は
自分で自分に強制労働を課してしまう罠にはまってしまいます。
こなしては安堵する、そのループを繰り返してしまうのです。

自分の意志でやっていることかどうか、
それに焦って答えを見つけようとする必要はないと
私は思います。

それにエネルギーを使うくらいなら、
やることの内容など何でもいいから、
「やめないこと」が自分にできるかどうかに
エネルギーを費やしたほうがいいと思います。

そして、やめないためには、手段を選ぶ必要はありません。
AC人格は、手段を選ばずやめさせようとしてきますから、
こちらも、手段など選んでいる場合じゃないんです。


私たちが、自我復元で最初に塗りかえていきたい概念は、
「休息」の概念です。私は、そう思います。


走り続けていくレース、それは紛れもなく自身の生のレースです、
その走り続けていくレースの道々に、給水所というのはありました。


私が自我復元後、一年かけて、
知っていった事実です。

そして、私がこの身で、今まさに、
このレースをやっている最中です。

このブログを書くこと自体が、
私にとって給水所ですし、
読んでくださっている方にとって、
今日のこの一ページが給水所となり、
私も、あなたも、止まることなく走り続けていくための

「本当の休息」

であれたらという思いをこめて、
今日は書かせていただきました。


最後に、書きたいことがあります。


疑うより、信じてみてください。


私は、いつも、自分でやっていることです。


疑ったり、苦しんだり、痛かったり、
こういうことのほうが、リアリティーがあるので、
信じたくなるのは、よく、わかります。

明るい未来や、笑顔や、他の人と楽しく触れ合うことだとか、
どこにも、リアリティーが見つからないと思うけれど、
私は、そういうリアリティーが感じられない今のほうを、
私は、信じ、口に出し、言うようにしています。

だって、ね、

そのほうが、

楽しくないですか!

私は、楽しい人生を生きたいんです。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2017.2.01
愛美

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by jh-no-no | 2017-02-01 23:31 | 愛美通信☆メトロノート


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