聴庵-自我復元後日記[118]

「AC人格が刻み込んだ身体への傷は、
治るかどうかわからない」といったことをこの前書いたが、
これについて、私はこう感じ、思うようになった。

自我復元中もそうであり、
その後もたびたび「ギリギリの地点」でそうだったように、
AC人格が、たとえ、まだ解除されずにいたその時でも、
私は、逆に、その

「AC人格が刻み込んだ傷という身体反応による影響」

を受けない経験、というのをした。

これは、「麻痺」とは違って、
「その傷の痛み、反応を、打ち消すほどの痛み」のみが
唯一のリアリティーである時、正確にいえば、その「AC反応」は


「出番を失った」


という経験をしたのだ。

もっともわかりやすいのは、大風邪の時に、
ただただ痛かった時。
あれほど、静かだった日々はなかった。
静か、とは、ACが埋め込んだ傷がうずく音すら聞こえなかったからだ。


大風邪の時に限らず、
私は切羽詰まった時、それはしばしばだったが、
その度に、私は、今思えば、一時的ではあるが、
身体へのAC反応を「帳消し」あるいは「拮抗」するほどの
リアリティーに充満した経験をしてきた。

それは、明らかに、

「恐怖」「苦痛」「痛み」

それらだけが、AC人格がしゃしゃり出るのを許さない
リアリティー、現実であった。


先日も私は久々に「風邪」をひいて、
大風邪とは違い、濃度は薄い苦痛ではあったが、
苦痛という質は同じであり、今書いたことと
同じことを経験した。


さて、


いきなり、内容としてはぶっとんでしまうけれど、
では、そのギリギリの地点、それは、実は、今の今の私もそうなのだけれど、
ここで、私は、何をしているか?というと、


実は、

「聴いている」

ということが、起きている。


何かを聴いている、という何かに関心があるのでもなく、
人の話を聴くとかの聴くでもなく、また、知覚、感覚としての
聴くという意味でもなく、

「存在を聴いている」

という状態、あえて存在を、と書いたが、
わざわざ書くこともないものであり、
それは、「聴いている」という私の状態そのもののことを言っている。

それは、精神の在り方、とか
つまり、「スタンバイ」ではなく、
私の脳の中に仕立てられた、


「音楽ホール」


のようなものなのだ。


音楽、というと、音という対象をイメージしてしまうのだけれど、
あくまでもイメージとしてはそうであり、
聴く対象を音や何かに限定するホールではない。


これは、


つまり、桜の間でも何度か登場した、
脳の中の、球体の

「休息所」

なのだ。


中心で聴く、ということを
崩残さんからアドバイスを受け、
自我復元中もやったことがあったが、
今、このことが、私の大きな関心事である。


というのも、関心の理由は2点あり、

1つは、

それは、未来、
私の「職場」になるだろう、ということ。
金庫番、その「ずっと、預かるその職場」は、
この、休息所そのものなのだ、ということ。

もう1つは、

AC人格が埋め込んだ傷、その身体反応は
「根治」しないかもしれない、と、仮にしても、
その影響を受けずに生きる方法があるかもしれない、
つまり、「身体的傷の苦痛には、身体的苦痛を」というのは
やり方の一つではあるけれど、それは、荒療治であり、
脳がしっかりとして意識を持ちながら、身体的な苦痛に満たされる
という、静寂に、必ずしも、今、巡り合えるとは限らず、
では、どうするか、というと、

・・・ここは、説明できないのですが、
ここ数日、いつも、ここに戻ります、
それは、「聴く空間を脳の中に作ること」です。

それは、

決して、未来、何かを期待するような雑音ある場ではなく、
「聴く」という行為は、私が思うに、
「ただただ、休む」ことです。


私は、今、とんでもなく忙しいです。

5分刻みであれこれ対処しているようにすら感じますが、
その「5分」を私はどう過ごすかを自分で決めることが可能です。

その「5分」を、私は、休んでいます。
楽器を弾きながら、ブログを書きながら、歌いながら、仕事をしながら。

次の「5分」も私は休もう、と思うのです。
むろん、それを忘れてしまう、いそいそしている時もありますが、
出来るだけ、今、私はそのことを思い出そうと努力しています。

話はそれますが、
私が育ててきてしまったAC人格、調教され、訓練されたAC人格にとっては
とても苦手なことでした。


しかし、今、


忙しい、ことを、「休んで」います。
忙しく、休憩している、ともいえます。


それは、「聴く」という休息法なのです。


この状態は、AC人格による身体的攻撃と拮抗するほどの
苦痛や身体反応にまで出るほどの恐怖心をもって、
AC人格からの影響をシャットダウンさせた時の状態だと思います。

ただ苦しい時、

私はただ聴くことしかできませんでした。


今日のブログは説明としては
とても不十分で不親切になってしまいますが、
私自身が試行錯誤している最中の経験でもあるので
さらりと読み通していただければと思います。


ただ、言いたいのは、


ACが刻んだ傷からの影響は
治らないかもしれない、と言ってしまいましたが、
私は、そんなことはない、という思いがしています。

解除後、AC人格がこの身体に残した傷は
「傷」そのものはたとえ残ったとしても、
重要なことは、その傷を刺激しなければいいことではないだろうか。
それは、先にも書きましたが、麻痺とは違います。
「拮抗するだけの状態を、自分で作り出す姿勢」のことだからです。


もちろん、私は、
身体的苦痛であがらう手段を否定しませんし、
私はその経験あって、今までやってきましたし、
それは、苦しくても、大変に静かで、不幸の無い経験です。
ですので、桜の間で以前書かれておりましたが、
脳が正常に機能しながら、身体的苦痛に満たされたままの状態という
「正気」は歓迎すらします。


この、今日のブログが何が不親切かというと、
私が自我復元で経験してきたことは、
100%、苦痛でした。
苦痛、恐怖、恐怖というのは身体反応にまで出るもののことを言います、
これらだけが、AC人格とギリギリ渡り合えるだけの正気を保つ要素でした。

でも、私が今、自分が進もうとしている、
ここで話していることは、



「身体を痛めてまで、やる必要はない」


ということです。


ただ、休めばよかったのでした。

でも、これは、今だから、言えることなんです。


あのギリギリの「身体的恐怖と身体的苦痛」という
不幸不在状態の際、は、その時もそうと自覚できたことでしたが、


「本当に、休めた時」


だったのです。


AC人格がずっと支配していて毎日が
途切れた時間だったのです。


さて、進みましょう。


私は、今、何も読者の皆さんに親切なブログを
書いているわけではありませんから。


私は自我復元線の「一車両」として
やることを、やるのみです。


私は、


「聴庵」


という、脳内音楽ドームを作ってみたいと思います。
(何度も言いますが、音楽、というのはイメージです)


私が今取り組んでいるすべては、
身体運動です。

打身も、ダンスも、合気道・居合も、
歌も、仕事での踊りの発声も、編み物も
どれもが身体運動です。


少し前の話ですが、
小学校の舞台でのダンスの本番の後も
続いて、商店街での本番があり、
私は、どちらも、「ソロ」を10数秒、やることになりました。
といっても、私が踊れないのを知っていて、
「新入りは、暴れればいい。そういうもの。行ってこい!」
と言われ、ありがたい機会だと私は感謝しています。


私は、外でのソロの際、
一つだけ決めて臨みました。

「ダンスの音楽を聴こう」

と。というのは、私は、その前日に
音源を教えてもらってその音源でソロの練習をしていた時、
私は、自然に体が動く自分が、面白く、驚いたからです。

何も踊れないし、振り付けもない。
完全に即興だけれど、身体がぴったり動くんです。


そう、


「即興」


です。即興とは、予定調和でないものです。

といえ、本番、こういう動きもしてみよう、と
あらかじめ予定していた振りもあったので、
音楽なんて無視して、それをやってもみたのですが、
面白かったのは、アドリブで隣の人が私を突き飛ばしてくれて
それから私は地面を合気道の後ろ受け身のように転がり、
それからです、私は、ソロの最後の「音」に「ぴったり」に
観客に向けて「両手のピース」でキメていたのでした。
それは、計算してできるものではなく、


「聴いていたもの」


が、身体を通して出てきた、ものでした。


昨日も思いましたが、
私は、「聴く」のがどうも得意のようです。
人の話を聴く、その聴くではなく、
音楽でもいいのですが、「聴く」です。

しばらくぶりに聴いたCDがあったのですが、
私は、まるでその歌手が私として映り、
頭のなかはライブハウスか小ホールのように
音楽は鳴り響いていました。

それは、ただその出来事で満ちていて、
「私が、音楽を聴いている」という感覚はないのです。
そこで、コンサートが起きているのを私は体験していました。


そういうこともあって、
いろいろな最近の関心が重なり、
今、「聴く」「休憩所」について書いてきました。


そして、私がなぜ、聴庵という休息所で
その人の大事なものを預かる仕事をしようとしているか、というと、
私の中で、それは、自我復元という生き方の中で
経験として知ったことなのですが、

この宇宙と拮抗できるのは、
たとえば、その人が大事にしていた「小石」一つだからです。

私は、そう、実感しています。


今日のブログは、破片だらけになってしまいましたが、
今思うのは、私自身が、やはり、
「聴き休む」という在り方に慣れていかなきゃいけないな、
ということでした。


ということで、今日のブログはここまでです。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2016.11.24
愛美

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by jh-no-no | 2016-11-24 16:09 | 愛美通信☆メトロノート


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