まず私が考えること-自我復元後日記[114]

日刊、ということで、
実は昨日からソワソワ、ワクワクしていて、
その状態のまま、今、ブログをドキドキしながら開きました。

それだけなので、
タイトル入力から「どうしようかなぁ・・・ソワソワ」でしたが、
・・・今も、そうです(笑)

毎日がそうなんですが、
どんどんと流れ去っていくんですね。

1分前にタイトルを書いたのに、
なんでこういうタイトルにしたのか、
もうわからない。といった感じで。

・・・となると、もうわからないのですが、
でも、私の中で、ずっとこだわっている感覚があるのは確かで、
そう、そう、「日刊」ということで、まるでそれは他人事のように、


「今日は、どんなこと、書くのかなあー!」


って、楽しみでしかたがないんです。

しかも、毎日ですからね。

毎日、楽しい体験を一つ増やしたわけですから、
ソワソワして当然。

これは、たとえると、
これから遊園地の乗り物に乗る前の、
列に並んでいて、いよいよ、私の番!というこの瞬間の気持ちなんですよ。


だけれど、おそらく、内容としては
シリアスな内容を書こう、という気持ちが強い。

というのは、日刊にしよう、と決めてから、
私は、なんだか、今年ももう終わりであることを意識し始め、
一年の終わり、というだけでなく、
4年近くに渡る自我復元とその後のことを振り返る時間を
作ってみたい、と思っているところがあります。

振り返る、といっても、
過去のことを書くつもりはなくて、
今の視点から、今の関心の中で、
私は、やはり、「AC人格」のことを書いてみたいと思う。

振り返る時間を、一日少しでも作ろう、と思うのは、
そうでないと、仕事か音楽かダンスか稽古か子どものことか日々の生活か、と、
ひたすら没頭している時間がほとんどになるので、
今回、日刊にすることで、関心をまた別なところに向けられるようになっています。


早速ですが、

AC人格・・・


そう、思い出した。


ここから書いていこう。


昨日の投稿の続きのようになります。
追記でもよかったのですが、
今日、書きましょう。


だんだん、思い出してきた。


私が、これから仕事として行うとしても、
また、日常生活として意識していくとしても、
「身体の違和感を丁寧に扱っていく」うえで、
私は、この地球で、これだけは許さない、と思うことがあります。


それは、


「精神的虐待」


という「誤魔化し」です。

そんな誤魔化しは、私は、絶対、許さない。


毒親がやったこと、というのは、
私は、ことごとく、


「身体的虐待」


だと思っているからです。


あざが見えない、骨が折れていない、
やけどの跡がない、というようなことのみで、
「これは身体的虐待ではなく、精神的虐待なんだ」
としたら、それで逃げられるのは誰かといえば、毒親であり、
共犯の自身に住み着いたAC人格です。


世の中で「精神的虐待」に分類されてしまったものは、
きっとこういうものになると思います。
それは、


「身体的な傷を自覚できないほどに麻痺させることに成功した暴力」


内臓や筋肉、これらは外からは見えません。

でも、どもることもそうですが、
委縮をして硬直するのは、筋肉だったり、少なくとも
身体反応としてあるわけです。

私は最近、ダンスのために
毎日お風呂あがりに、開脚など柔軟体操をしていますが、
身体がかたい、というのも、笑って済まされるものでなく、
私は、重篤な暴力の跡だと思っています。

私が腎臓を中心に破壊されそうになったのも
内臓という外から見えない部分です。
たしかに、内臓を直接乱暴に殴られたわけではなくとも
内臓を破壊させることは、このように可能なのです。
それが、前立腺炎という形でたとえ外から見えても、
では、誰が、それをもって「身体的暴力が20年前にありましたね」と認めるでしょうか?
たとえ本人がその事実を知っても、本人以外、わかるはずがないのです。


自我復元を行い、身体的な麻痺が解けていく。
それは、麻酔がきれた状態と同じで、手術中に目が覚めてしまったようなものです。
でも、その痛みの自覚だけが、自我復元において、
本人を「切羽詰まる際」にまで連れていきます。


話を変えますが、
私は今、楽器や歌、踊りに取り組んでいます。
仕事でも仕事の踊りをしているわけですが、
これらの運動は、では、私は何をしているか?というと、
「どこに違和感があるか」をつねに探ろうとしています。
これは、本当は私だけでなく、スポーツをする人も歌う人も、
ことごとく、身体を動かす上で、自覚の有無と無関係にその違和感を頼りに
何かを感じとっていると思います。


私は、今、ボカロの曲やそれにあわせて歌い、踊ることが好きですが、
ボカロの曲が好きなことの理由は、非常にそれが

「機械的なリズム」

だからなんです。

無機質、と表現されるかもしれませんが、
私はこのメトロノームが大好きです。

先日から歌のレッスンで、Calc.という曲を歌ってみたい、と思って
レッスンでも開始しました。
私は、生まれてはじめて、楽譜を真剣に読みました。
1拍と休符なのか、それとも、2拍の中にブレスを入れる箇所なのか、など、
音とりも、癖で同じ音の高さで歌ってしまいやすい箇所が
実は半音移動があることを再確認し、苦手な音の移動であることを自覚しながら
楽譜に忠実に歌おうとしました。


話はあちこち飛びますが、

私は身体というのは、機械の一つだと思っています。
人間は、自分の身体だからと、身体を人間にとって特別な何かのように
思いたがりますが、そういう思いこみとは無関係に、
むしろ、私は「機械の仲間」だと思っています。

この身体が正確な機械のように動けるようになること。

メトロノームのように、正確なリズムを表現できること。
「そんなのは人間的じゃない」というのは、これもまた「逃げ」で
(逃げ、というのは、誰が逃げられたか、というと、つねに毒親と共犯ACです)
「正確でなくてもいいんだ、それが感情だ」などと適当なことを言いますが、
私が、まだ始めたばかりの音楽や踊りの経験の中で実感していることは、


「感情、とは、機械のように正確に動けるようになりたい」


という、身体に正直な思いに従って、そう・・・それは
本当に涙が出てきそうになりますが、
この思いは、正常な親に愛された経験が、当然のように、
その「信頼」を育んでいってよかったものなんです。

私が好きな踊り手さんは、
みんな「機械的」です。

言い換えれば、彼らの活動に「偶然」というのはありません。
すべては、必然的に生まれたもので一つ一つ、作り上げられています。


AC人格に話を戻しましょう。


私は、洗脳と調教という一般には見えにくい精神的な虐待を受け、
完全無自覚AC人格という爆弾を埋め込まれた「ケース」、とされて
しまうかもしれませんが、私は、それを許しません。


見えにくい、だけで、見えないのではない。
無自覚なだけで無いのではない。

よく見れば、何をよく見るかといえば、
「違和感」をよく見ていけば、
毒親の犯罪というのは、


「身体的な違和感から目をそらさせたこと」


です。

これが、毒が埋まっている震源であり、
それは実は身体でした。

だからこそ、AC人格は生理的な反応としての攻撃が可能なのです。
だから、私は、言い続けてきましたし、これからも言い続けます。

「やめないこと」

なんです。何を?作業を、です。


昨日、職場で感じたことを最後に書いてみたいですが、
私は、AC人格は解除した、と思いますが、
では、AC人格が切り刻んだ肉体への傷は消えたか、といえば、
NOです。AC人格の「身体的反応」というのは、私に残っていますし、
これは、これから消えていくかどうか、確かなことはわかりません。

昨日なんて、心臓が痛くなりました。

でも、自我復元を終えた、というのは
それで不幸にならない、ということです。
不幸にはなりません。ただ、苦しく、痛い。
それを直視し、ずっと感じとる・・・と心臓が痛くなったりする。

苦しい、痛い、というのと
不幸感とはまったく別です。

そこで思うんです。

私は、この痛み、AC人格が作った傷の、この身体的反応として残る痛みを
「無くしたいか」といえば、それはわかりません。
正確にいえば、それほど、関心はありません。
苦しい、痛い、だけで、しいていえば、
それを感じている時、別のことに目が「向きにくくなるかもしれない」というだけで
いまや、私の中で「この体験はよくて、あれはダメ」という毒親思考の区別基準は
ありませんから、わざわざ苦しくなりたいとは思いませんが、
病気も健康、苦痛も快適も、どれもが等しく、私の体験です。


私は、この「身体」という機械の仲間の一つが
親によって壊されてしまった、と実感しますが、
ただ、悲観はしていません。


なぜなら、「楽しい」ということを知ったのは、
この違和感との格闘があったから、あるからです。


音楽は私を楽しませてくれます。

踊りは私を楽しませてくれます。


それは、私が「出来るから」ではなく、
むしろ、「出来ないから、出来るようになりたい」
その思い・・・私はそれが感情だと思います・・・を
楽器も音楽も、踊りの振り付けも、みんな、助けてくれます。
私にとって、メトロノームというのは、


「子どもを愛する親」


の姿そのものなんです。

ブログもそうです。私を応援してくれている。


違和感を違和感として見ていい、ということを
当たり前のように言える親でありたい。

間違っても、違和感を悪用して
それはダメなものだ、と洗脳し、身体的な違和感を奥へと見えないようにさせ、
大人になっても決して見つからないようにさせる、そんな親は私は許さないから、
私は、このような姑息な暴力をことごとく「身体的暴力」と位置づけ、
それと向き合っていきたい。それを仕事にしてもいいと思っている。


「見つける」


って何だろう。


私は、ふと、人の笑顔、という花を見つける時がある。


それは、いつも、「泥の中」で、


「見つかる」


いや、その花は「見つけられて、しまう」。


私は、泥のような世界は決して嫌いではない。

泥のような世界でなければ、
一面、笑顔の花だらけだ、というのは、
見たこともない、作り話だ。


このブログは、私は、

「泥という世界」

と直視していく姿そのものだと思う。


そして、


そこは、


一面、花以外に、見つからない。



2016.11.20
愛美

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by jh-no-no | 2016-11-20 14:41 | 愛美通信☆メトロノート


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