鎖編み-自我復元後日記[105]

2週間ほど前のことになりますが、
始めて、鎖編みをやってみました。

鎖のように網の目がなるので、きっと
鎖編みというのだと思いますが、
やってみると、その通りで、
もうそれ自体、編み物!という感じで、
2メートル近く、どんどん、編んでいきました。

新しく買った鏡の高さが180cmなので、
「その長さまで編んでみよう!」としたのが最初。
・・・その前に、実は、失敗作。

編み物をされている方はよくわかると思いますが、
最初、私は、糸玉と糸の端を「反対」にしてしまい、
どんどん編んでいこう、と思ったら、
10センチ足らずで、

「あれ、終わっちゃった??」

という失敗。でも、この最初の作品は、記念に打身に結んでおくことにしました。
最初の作品は、最初、というだけで、かわいく思えるものですから。

初心者は最初は、太めの糸がいいですよ、と本にはあったのですが、
本より先に、糸とかぎ針を買ってしまったので(ダリアのコースターを編みたくて!)、
細目の糸で挑戦。細くても糸を小指に少し巻き付けると滑らないので、
そうしています。

一番感じたことは、
「今の自分の身体にとてもいい」
ということでした。

何を編むか、というよりも、
編んでいく行為それ自体がとても落ち着きます。
それが、心理的に、というのではなく、
身体的に落ち着く、というのがよかったことでした。


私の身体に、いいんです。


編んでいる時も、編むリズムに関心が向きました。
「ここで力を入れて、ここで抜いて・・・」
編み物も私にとっては、身体運動なのかもしれません。

鏡の高さまで編むぞ!と目標を立てなくても、
私は、編み続けたと思います。
逆に、止まらなかったかも・・・です(笑)
2メートルって、1時間程度で初心者でも編めました。

10メートル編んでも、きっと、楽しいです。
私はそういう編み物をしているのが、自分でわかります。
次は「細編み(こまあみ)」というのを覚える予定です。

今、私は、面白いことに気づき始めています。

歌を歌っても、打身を弾いても、
踊りを覚えている時も、なにせ、
「できないことばかり」なんです。

でも、そのできないことを「不満」に感じている、
この感覚を大事にしたい。

というのは、なのが不満なのか?
ということなのですが、それは、決して、
「できないこと」が不満なのではないのです。

「身体がもっと気持ちよくありたい、なりたい。
なのに、力んだり、ひるんだり、不自然だったり、
そのもどかしさに、私は、すっごく不満なんだあああーーーー!」

ということなんです。

そして、もっと大事なことは、
今、私は、この不満だらけの毎日、というか、毎瞬間の連続に
私は決して「元気を奪われない」ということ。

なぜなら、私は、

「不幸ではないから」だ。

私は、決して、不幸になれない。

不幸など、どこにも見当たらない。

また、最近思うのは、過去や未来、というのも
私には、まったく、リアリティーを感じない。
はたして、そんなのあるんだろうか?と本心から思う。
過去はあるのだろうか?未来はあるのだろうか?
・・・無い。私は即答する。だって、どこにもないから。


今ここに、何も問題が見つからない。


問題が出るとしたら、
「問題があるかもしれないぞ」
という思考習慣から、何かをやらなくなることだ。


やめてしまうこと。


やるのを遅らせてしまうこと。


私が、今、大嫌いなのはそれらだ。


「問題はない」


これを私は怖がらない。


それは不要な恐怖心だ。


不要とは、リアリティーがそこにないことだ。


「行動に次ぐ行動」


私はどんどんやりたい。


そう、


「どんどんやりたいんだ」


だから、私は、最近、

ただ、どんどん、次から次へとやっている。


「元気を失う」ということに対して、
私は、これを、絶対に許さない。

元気を失う、ということほど
不快なものはないからだ。
不快、とは、自動的、という意味だ。
自動的なものは、ことごとく不快だ。

元気、というのは、
自ら作り出すものだ。
歩き続ける力だ。
追い風であろうと、向かい風であろうと、
私のこの一歩の主動力は、私が一歩を踏み出そうとする意志に他ならない。

だって、もしも、自動的なものの浸食を許したら、
私の人生って、何なの?
なぜ、そんな支配に甘んじていられるの?
それは、不快でしょうが?
不快なことは、そのままでなぜいいの?
不快なことは、大声で「嫌だ」と言いたい。
私は、そうやって生きて生きたい。
それは死んでも変わることじゃない。

不快なものは、不快。
嫌なことは嫌だ。


「どんどんやる」

というのは、100%、手動的な試みだ。


自動的なものは、自動的に「やめるように」させることしかできない。
追い風に依存すれば、歩かなくなる。
向かい風に依存しても、歩かなくなる。
結局、「歩かなくなる」のだ。

風と自分との折り合いなどつけなくていい。
歩こうとする自分と、歩かなくさせる風と折り合いなどつくはずがない。

私の宇宙像はそれだ。

宇宙と私と折り合いなどつけなくていい。

どう考えても、折り合いなどつかない。
というか、「どうにか考える」という強迫観念かつ自動的な思考習慣自体、
折り合いをつけねばならない、というどこにも根拠のない押し付けなのだ。

やめさせようとする力と
やり続けようとする力は拮抗して当たり前なのだ。

だから、「反逆の生」なのだ。

元気、というのは、
宇宙という毒親が、全生命から「奪ってやりたくて仕方がない」
その一心、代理復讐を満たすために作られたものかもしれない。
極論、殺すために生んだのかもしれない。
いや、毒親の実態は極論でもなく、その通りだった。
殺すために生んだ、といっていい。

でも、私は、

生まれた後も、生まれる前も、

私は私という魂だった。

親が私を生もうが生むまいが、関係ない。

それはこういうことだ。

私の40年は無駄だったか、というと、
私はどこにも無駄はなかった、と、今は言える。
リセットしたけれど、無駄だったからではない。
過去40年のみならず、それ以前の生もまた、無駄ではない。
無駄、という概念自体、まったくリアリティーはなく、
私は、ずっと、私だった。

でも、やることは一緒だ。

殺すために生まれた生であろうがなかろうが、
それは、言い換えれば、全自我で生まれようが希釈自我で生まれようが、
やることは同じなのだ。


嫌なことは、嫌なのだ。


その気持ちを誤魔化さないこと。


宇宙はこう私に言う。


「オレは元気を奪われたんだ。だから、お前からも奪ってやれ」


「嫌です」


としか、私は言わない。


何度も言うけれど、


私は、


やめない。


毒親は、どの規模であっても、
「やめさせること」しかしない。


邪魔させる者が「いない」今、


私は、

そう、


どんどん、


やるんだ。


今月もあと数日、

私は、全部、やるつもりだ。


つもり、じゃなくて、



「やる」


のみ。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2016.10.29
愛美

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by jh-no-no | 2016-10-29 12:33 | 愛美通信☆メトロノート


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