結果のイメージ-自我復元後日記[104]

イメージをする、といった時、
私は、今、何かのプロセスを、でなく、
「結果」をイメージするようにしようとしている。

そして、結果、というのは、
いつも「爆発的」で、私はそこに「感情」を感じる。

向かう、のではなく、
今、それを体現している。

そこには、くまなく、
「全て」がある。

私の毎日の挑戦は、この「全て」の要素、
私にとって「事実」として現存する一つ一つが、
「全て」という傍観から、密度が薄まってしまいたくない。

私は、今、「身体」が「一つの物質」として、
バラバラになっていないで、ムラのない塊のように感じる。
そこに「私」という感覚、私という感覚への関心はない。

「結果」を
この身に受ける準備があり、
私の関心はそこに集約されている。

私の正体は、「貪欲一心」だ。

そこに、「他者」「他」が入りこむ余地がない。
それは、私がその余地までも全部使って、
私がこの生でできる全てを「し尽くしたい」からだ。

といって、

私は「私」という虚像を描くことに
時間を使いたくない。

そうしようとすると、
私が全てを体験、知覚できているできていないに関係なく、
体験対象の事実全てに出くわす。
そして、思うのだ。いや、戸惑うのだ。

何に戸惑うか、といえば、
「全て」という、これもまた、虚像に
私は、気づくと、「私」という虚像を描いてしまうことに。

私は、感情を生きている。

それが、こういう虚像たちに
強い違和感を覚える。

私の言葉は、感情を書く。

くぐり抜けていくしかない。
いや、その感覚に、すでに違和感がある。

私は、くぐり抜けている「今ここ」にいる。

結果を猛烈にイメージしたいのだ。
それは、結果以外の妄想の侵入を許したくないからだ。
だから、結果を生きようとする。だから、結果を強くイメージしようとする。

死後、向こうの世界の管理者に
「どうだったか」と訊かれたら、私は過去を振り返らない。
訊かれたその時、「今どうか」それだけで私の関心は占めるだろう。
それは予測ではなく、結果を生きる当然の延長として、そうあるだろう。

感情は、どこかの時間に囚われているものじゃない。

今ここに、現に体感しているものだ。

いつも言うけど、私が一番嫌なのは、
「元気を失うこと」だ。
なぜ、感情より、何かが優位に立つんだ?
私にはそれが、今、許せない。

私はこうやって生きている。

私はこうやってずっと生きたい、と思ってきた。

「どうでもよくないもの」とは、
私にとって、唯一リアルなのは、違和感だ。
私という感覚でもなければ、幸不幸でもない。
そんなのは、違和感の説明にしかならない。
斜に構えている時間など、一秒も残されていない。

貪欲一心、だ。

ぎっしりこの生を埋め尽くす、というのは
そういうことなんだ。

隙間なんて作らないんだ。

子どもたちは、そういう「際」を必死に生きている。
私も子どもたちの中の一人だ。
事実から目を逸らさぬよう、必死に生きている。
適当さに甘んじないよう、堕ちないように、
彼らの目は、いつも真剣だ。
それを裏切らないように、いつも自分に言い聞かせ、
そうやって生きようと必死なのがよくわかる。

ダンスをやっていて、
中学生になった子どもたちもその顔はいつも必死だ。
ダンスに必死、というか、堕ちないように必死に踏ん張っている、と見える。

何度かこのブログにも書いた職場によく来てくれる男の子は
ほぼ毎日来てくれて、私に会うのを楽しみにしてくれている。
私を見つけると、いつも、「いたよー」とお父さんに楽しそうに伝える。

ある時から、「また明日ね」とその子は毎日言うようになり、
ある日、私は、「明日はお休みなんだ。あさってね」と答えた。

まだ幼稚園の子どもには
明日、明後日、という時間感覚は微妙でおそらくわからない。
ただその子には、「会えない未来がある」という残念さだけが残る。
それがわかりながら、でも、明日いないのに「明日ね」とは言えない。
会えない未来は、あるからだ。

それからその子は、またねーと元気に言った後、
「明日、お休み?」と訊いてくるようになった。
昨日も、元気に帰ったと思ったら戻ってきて、不安げな顔で
「明日、お休み?」って。

「明日?・・・お休みじゃないよ」と優しく声をかける。

すると、子どもはいつもそうだけれど、
それで一喜一憂したりはしない。
子どもはいつも、「会えない未来という現実」と闘っていて、
私からの答えを訊いた時は、全身の力を使い尽くしている。
そこに笑う余裕なんてないんだ。

明日また会える、ということ以上に、
「会えない未来という現実」と闘った後、それは
一日の終わり、精一杯生きたその日の眠りにつく時のような瞬間を体験している。

私は、11月から
地域のサポートを利用して、
子どもと接する時間を少しずつ、作りたいと思っている。
可能なら、幼稚園の送迎から始めたい。
短い時間ながらも、そこには、「お帰り」という瞬間や
「手をつないで歩く」大切な時間があり、遠くで遊ぶ子を見守る時間がある。
そして、長いブランクのある私、また、新しく生まれた私が、
安全に子どもを守ることを学び直すためにも、
まずは、地域のサポートシステムを利用してみようと思っている。



◆自我復元に関する資料◆

無明庵サイト「桜の間」
http://mumyouan.com/k/sakuranoma.html




2016.10.27
愛美

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by jh-no-no | 2016-10-27 14:38 | 愛美通信☆メトロノート


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